「あなたの頭のなか、どうなっているのか見てみたいよ」
私がいろいろな話をしているなかで、時折、こんなことを言われることがあります。この答えは、極めてシンプルです。
-空っぽ、何も考えていません-
(もうひとつの答えとして、「宇宙が広がっています」というのもありますが、どちらも同じ意味です。それは相矛盾しているように聞こえるかもしれませんが、コインの表裏のようなものだと考えていただければいいと思います。詳しくは、「頭のなかに広がる宇宙」を参照してください)
このブログで書いていることを含めて、私は深く考えているわけではありません。学生時代、よく友人から「お前は何も考えていない」と言われることがありました。実際に、そのとおりでしたし、何も考えていないことに対して、負い目を感じることも多かったように記憶しています。
今は、感じるのです。別の言い方をすると、気付くということになるのかもしれません。悟るという表現もあるかと思います。
言葉とは、そうした感じたことを、分かりやすく表現する道具です。私が書く文章のなかに、「考える」、「思う」という言葉が使われはしますが、実際には「考える」、「思う」ということにエネルギーを使っている感覚はなく、むしろ普段は、きちんと感性が働くようにリラックスできるための環境づくりに、エネルギーを使っているような気がします。これは普段、たくさんのアニメを見たり、単に遊んで過ごしているということとも、大きく関係しているかもしれません。
ちなみに、このブログでは「異次元」というカテゴリーを用意していますが、この異次元についても、感じることが多々あります。そのうちのひとつが、「三次元に存在する自分以前に、四次元に存在する自分を感じる」というものです。これなどは、読み取る側にどのような印象を与えるのか分かりませんし、ちょっとした精神異常に見られるのかもしれません。しかし、自分の感性がそのように働いてしまう以上、どうしようもありません。
つまりは、この三次元世界に存在する自分は、単に四次元世界に存在する自分の延長線上にあるだけであり、所詮、四次元の自分が物質化したものだという感覚です。こんなことを深く考えて、考察して「そうであるらしい」などと、大真面目に書くのは、少々馬鹿げているとすら思います。したがって、こうしたことを深く考えたり、思ったりはしません。
ただ一方で、感性は留まるところを知りません。例えば、哲学的な表現で「肉体は魂の牢獄」などというものがあります。これなど、私が感じている三次元の自分と四次元のそれとの関係性を、分かりやすく表現したものだと強く感じます。せっかく自由でいられるはずの四次元の自分(魂)が、三次元の自分(肉体)として存在してしまったことで、いろいろと不便になってしまった(牢獄に入った)という感覚です。
しかしそれと同時に、その関係性をネガティブに「牢獄」と表現するよりも、「肉体は魂を表現する道具」といったかたちで、もう少しポジティブな言い方をした方がいいのではないかと思ったりもします。
そして正直、そういう感性をもってでないと、このブログに書かれているような内容は生まれてこなかったとも思います。例えば「創造主の正体とは何か?」、「カオスとは何か?」等については、考えれば考えるほど、答えが遠ざかっていくように感覚があります(「カオス世界の読み取り方」、「「創造主」の正体」等参照)。
いずれにせよ、これらはもはや私の感性の問題なので、これをもって何かを議論するという必要はないでしょう。人の思考法はそれぞれですし、感性にしても人によって異なるのが当たり前です。ただ時々、私が生活をするなかで、冒頭のような質問を受けることがあるので、ここで簡単にでも、書いておこうと思ったのでした。
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