常識について思うこと

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脳力の可能性

2006年10月19日 | 科学

頭が良い人、悪い人がいるといいます。いや正確には、ある特定の基準で見た場合に、それに秀でた人とそうでない人がいるということでしょう。例えば、記憶力が良い人と悪い人はいます。音楽の才能がある人とない人がいます。数学が得意な人とそうでない人がいます。こうした予め人間が価値あるものとして定めた分野のなかで、特に優れた才能を持っている人は天才と呼ばれます。その存在は、実に素晴らしいことです。

ただし、これらは人間社会において経済的価値を生み出すかどうかの視点から定められた基準になりがちになります。実際に、社会において価値があるものとして優しさ、素直さ、忍耐強さといった人間性を含んだ尺度も存在します。これらは、現代の経済的価値に重きを置いた競争社会では、なかなか評価されませんが、そうした尺度は設定し得るし、だからこそ個性というものが存在するのでしょう。人間を評価するときの価値基準、尺度は無数です。本来人間が評価されるべき視点は無数にあり、だからこそ個性が存在するのだと思います。個々人をそれ単体としてみると、必ずどこかの分野で優れているといえますが、逆に極めて一部の分野においてでしか優れているといえません(「人間の優劣と競争社会」参照)。重要なことは、それを人類全体として捉えると、それら無数の尺度において、それぞれ天才的な個人が存在し、人類はそれら個人の総和をもって実に多様で優れた才能を持っているということができるという点です。そして、それだけ多様な才能を持っている人間の脳は、生物学的にひとつの種のものであるということも大事です。ある天才をみて、その人がどんなに素晴らしいといったところで、脳そのものの構造が違うわけではありません。所詮、人間の脳です。そのことは、あなたが持っている脳も、そうした能力を持っている可能性を秘めているということです。人類が種として、全体で共有している多様な才能は、あなた個人としても持ちうる可能性があるのです。

実は、人間の脳はほとんど使われていないといいます。30%とか20%しか使われていないというのは良い方で、下手をすると10%とか3%といった説まである有様です。これを俗説だといって、頭ごなしに否定するのは難しいと思います。そもそも現代科学で解明されていることは、ごくわずかでしかありません(「万能でない科学」参照)。脳の機能や能力は解明済みで、そのような俗説はウソであるなどと、何人も言うことができないのです。

実際に、人間の脳は同じ構造にも関わらず、あまりにも多様な個性や才能をもつことができるようになっています。それだけ、脳の使い方や使われている部分は違うとみることができるでしょう。通常の一般的な人間では、ほとんど使われていない部分があるかもしれません。例えば、現代科学では説明しきれない超能力、あるいはもう少し分かりやすく直観力。こうした機能が脳にあることは誰も否定できません(「オカルトを作る仕組み」参照)。否定できないとすれば、脳の機能は使いきれているなどと、間違っても言うべきではないのです。霊感、テレパシー、予知能力、直感・・・超能力にも似たようなこうした力が、人間にあるとするならば、むしろ普段、人間は脳のほとんどを活用していないといったほうが説得力があるのではないでしょうか。

そしてもし、この仮説が本当だとすると不思議なことになります。人間は進化して、今の体を得たはずです。ダーウィンの進化論でいう自然淘汰説に従えば、人間は生存確率を高めるために、今の知能と大きな頭を手にしたことになります。しかし、人間の出産はきわめて危険であり、一番の原因は頭の大きさにあります。大きな頭を持ったことで、非常に危険な出産を強いられ、死亡率を高めているのです。自然淘汰説に従い、生存確率を高めるために、このような大きな頭を獲得したというのは、本当に合理的な説明なのでしょうか(ダーウィンの進化論についての疑念は、「「進化論」の不自然」を参照)。ダーウィンの進化論が間違っていたとしても、いずれにせよ、人間が進化を続けているとするならば、こんなに苦労して獲得した大きな頭と知能であるにもかかわらず、なぜ極めて一部しか使われないのかというのは、まことに不思議な話です。

否。人間はむしろ退化してきたと説明してみてはどうでしょう。

「常識人」の方々からは、即反論があるかもしれません。「人間は常に進化を続けてきた。その証拠に現代科学は進歩を続け、世の中のあらゆる事象を解明し、人間は自然の理をコントロールできる力を手に入れることができた。退化しているなどとんでもない」

しかし、果たしてこのように言い切れるのでしょうか。現代科学は自然の理を解明しきれておらず、むしろ分からないことだらけです。人間は現代科学をもって、自然を分かったつもりになり、これを正しいと信じる一方で、地球を破壊し、自分たちが住めない環境にしてしまっています。正しいと信じてはいるが、実はそれにより、自らの生きる環境を奪うという自殺行為に走っているというのが実態です。これが本当に、人間が進化したかたちなのかと疑わざるを得ません。

超古代の人間にはもっと優れた能力があったと言う人々もいます。そういう人々が言うには、本来人間は、自然と共存するための知恵をもち、人間同士が争わなくても幸せに暮らすことができる理性をもっていたということです。もともと脳にはそうした知恵と理性が備わっていたと考えるのは、自然のことかもしれません。必要以上のものは求めず、けっして煌びやかではないが、質素ながら自然と調和した平和な生活を送ることができていた人間がいた可能性を否定することはできません。現存する古代遺跡などは、そうした大昔に人間が持っていた自然と調和して生きていくための知恵や理性の産物かもしれません。いや超古代には、知恵や理性だけでなく、現代よりも優れた文明や技術を有していたという話すらあるのです。そもそも超古代は未開の原始時代というのが、現代人の根本的な誤認である可能性があるわけです。超古代の方が、現代よりもはるかに優れた人類が存在していたかもしれないのです。

もしそうだとして、人間が退化したとするならば、それを元に戻すべきという議論もあって当然です。別に進化をするわけではありません。現状をもって、脳力の限界であると諦めなくても良いのです。人間にもともと備わっていた脳力を取り戻す。それだけで、人間は自然と共存していくことができ、もっと長く地球に住めるようになるのかもしれません。

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