簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
見たまま、聞いたまま、
食べたまま、書いてます。

中京競馬場前駅(東海道歩き旅・尾張の国)

2022-06-06 | Weblog


 境橋を渡り国道1号線を歩き、名鉄名古屋本線の「中京競馬場前駅」
にやってきた。

 名古屋市の東に隣接する豊明市に国営の競馬場(今日の中京競馬場)
が開設されたのは、昭和28(1953)年8月のことだ。
第一回の国営競馬も、この年に開催されている。



 その開業に先立つ一ヶ月前、名古屋市の南の端に、その最寄り駅とし
て名鉄・名古屋本線の新駅が開業している。
駅を出ると競馬場入口までは屋根付きの遊歩道が設けられているようで、
徒歩10分ほどかかるそうだ。



 この地は桶狭間と言われる所で、かつてこの駅の近くには、愛知電気
鉄道の「桶狭間駅」が存在した。名鉄の社史によるとこの駅の開業は、
昭和6(1931)年で、どういう訳かその僅か三年後には廃止されている。
愛知電気鉄道と名岐鉄道が合併し、今日の名古屋鉄道と言う社名に変更す
る一年前の事だ。



 桶狭間は知多半島の付け根付近、豊明から名古屋市南区にまたがる緩
やかな起伏に富んだ有松丘陵に有り、灌漑の水を得るため池や沼地、深
田が散見される地域である。
 今では名古屋市のベッドタウンとして住宅地が広がり、国道1号線が
抜けるその駅前も賑やかだが、当時は山間でなにもない僻地で有った。



 そんな地を一躍有名にしたのが、「桶狭間の合戦」である。
上洛を目指す今川義元の大軍を、この地に迎え入れた織田信長が野望を
打ち砕いた戦で、この桶狭間一帯で繰り広げられた。
最も桶狭間という地名は、限られた地の固有名詞ではなく、漠として広
がるこの辺り周辺を言い、戦いも相当広範囲で行われたらしい。(続)



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境川の継ぎ橋 (東海道歩き旅・尾張の国)

2022-06-03 | Weblog
「うち渡す尾張の国の境橋 これやにかわの継ぎ目なるらん」



 境川に架かる境橋を渡ると、丁度ここが三河と尾張の国境に当たる。
渡り終えると橋詰めに小さな緑地ある。
そこに中に、藤原朝臣光広のこの歌碑と説明板が立っていた。



 それによると「東海道に伝馬制が設けられて程無い頃、両国の立ち会
いの下この川に橋が架けられた」とある。
「川の中州を挟んで東側には土橋が、西側には板橋が架けられた。
橋は度々洪水で流され修復を重ねたが、やがて継ぎ橋は一本の橋となり、
明治に入ると欄干付きの橋に改修された」と言う。



 幕府は江戸の治安維持の目的で、河川に橋を架けることを厳しく制限
していた。その為、貴人や高官が往来するような場合、臨時に舟橋が渡
されることもあったようだ。
 とは言え架橋の禁止は、戦略的に重要な大河に限っての事らしい。
旧街道を実際に歩いていると、地方の小さな川には殆ど橋が架けられて
いたことに気付く。



 橋脚を立てそこに材木を渡し、上に丸太を隙間無く並べ、更にその上
に土をかぶせる。
こうすると丸太と丸太の間に土が入込み、踏み固められ歩きやすくなる。
これが土橋で、街道に架かる殆どはこうした土橋であったようだ。



 一方木橋とか板橋と言われるものは、文字通り板や丸太を何本か渡し、
くさびを打って繋ぎ幅を稼いだだけの粗末な橋だ。

 橋のない川では、飛び石のように配置された石を渡り、それすらない
川では足を濡らしながら浅瀬を渡ったと言う。
土橋や板橋でも有れば良い方で、旅人にはありがたいものであった。(続)



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旅の持ち物 (東海道歩き旅・尾張の国)

2022-06-01 | Weblog
 ところで、昔の旅人は何を持って歩いていたのか。
テレビや映画の世界では、小さな振り分け荷物や、風呂敷で包んだ柳行
李を肩にした画をよく見かける。

 安藤広重の東海道五十三次の絵でも、描かれている旅人の荷物は驚く
程少なくて小さい。修験者などが比較的大きな笈(山伏の12種類の正式
道具の一つ)を背負っている程度だ。





 今ほど物が豊富ではない時代で、当然と言えば当然だが、余りにも少
ないようにも思う。
ある本によると「財布、小銭入れ、道中差し、矢立、扇子、針糸、懐中
鏡、鬢付け油、提灯、蝋燭、火打ち石、印判、鼻紙、薬入れ印籠、着替
えなどが旅の必需品」と書かれている。
修験者の笈が大きいのは、仏像・仏具や経典をも入れて持ち歩くらしい
からこれは特別である。





 庶民の旅は、小銭入れや矢立、薬入れなどは腰に付ける場合が多く、
道中差し(実際の刀ではなく、小銭入れになっていた物も多く有った)
は腰に差し、それ以外を持ち歩くが、何れも大した嵩でも無く、荷に
はならず、当時の旅は身軽だったようだ。
草鞋も予備は持って歩くが、現地での調達が当たり前であった。





 一番嵩張りそうなものが着替え類、と言っても多くは下帯(男ならふ
んどし、女なら腰巻き)位だから大した荷には成らない。
 
 中には枕を持ち歩いたとの記録もあるらしい。
これは携帯に便利なように、折りたたみか、内部に物が収められる構
造のものが重宝された。
今も昔も同じで、枕が変わると眠れない人がいたのであろう。
いずれにしても歩き旅の持ち物は、少なくて身軽が良いようだ。(続)

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