簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
見たまま、聞いたまま、
食べたまま、書いてます。

髭親父の茶屋(東海道歩き旅・近江の国)

2024-08-02 | Weblog


 江戸時代、山科の追分けは、柳緑花紅の札の辻とも、髭茶屋追分けと
も言われたそうだ。
追分けには、髭茶屋町、南追分町、北追分町の三町が並んでいたという。
 元々は「道林町」と称したらしく、天正年間に豊臣秀吉が西国出兵す
る際、この地では道案内のため、町の門々に桃燈(ちょうちん)を出し
て送迎した。



 秀吉は大層喜び、この地に「桃燈町」という名前を与えたと伝えられ
ている。その後、秀吉が方広寺の大仏を造営したさいには、当地の街道
が付け替えられた。
この時、桃燈町から「髭茶屋町」と「八軒屋敷町」に分離したという。



 地図を見ると今日でも、「八間屋敷町」「髭茶屋屋敷町」「髭茶屋桃
燈町」の地名は残されている。

 「髭茶屋町」と言うのは、髭づらの老人がここで茶店を出していこと
から、旅人が何時しか「髭茶屋」とか、「髭追分け」と呼ぶようになっ
たとか。
又「八軒屋敷町」は、分離独立した当初の軒数が八軒であったからだ。



 「放光山・閑栖寺」の前に道標が建っている。
寺は天文23(1554)年の創建の、浄土真宗・真宗大谷派の寺院という。
何時頃の物かは分からないが、東面には「東 逢坂関」、南面(正面)
には「東海道」、西面には「西 京三条」と刻まれている。



 寺は一時焼失したらしいが、東海道の昔からこの位置にあったという。
街道に面して、長屋門が建ち、屋根上には太鼓楼を構える独特の山門で、
元文3(1738)年に完成した。

 太鼓は東海道を往来する旅人に、時刻を知られていたと言う。
門前に、「つきせぬいのちのほとけに帰命す」と「今月のことば」が掲
示されていた。(続)





にほんブログ村 旅行ブログへにほんブログ村



コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 山科の追分け(東海道歩き旅... | トップ | 次の記事へ »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事