TheProsaicProductions

Expressing My Inspirations

finding hohodemi 8

2016-01-19 | ancient history
舎人親王像

 『日本書紀』に書かれている神武東征記を現実的に解釈すると、九州の西のほとり、現在の南さつま市阿多周辺を支配していた首長ホホデミが、大八嶋国(日本列島)の中心だと思う東方へ向かい、畿内の先住民集落の首長を帰属させたり戦闘を繰り返しながら侵略し、畿内の畝傍山の東南にある橿原で大王に即位した、という物語になります。
 この物語が全くの作り話、嘘であると考えるのは容易いことです。でも、嘘だというなら私たちが現在習ってきた日本史は成り立たなくなってしまいます。神武天皇の伝説は真実ではないにしても、全てが6~7世紀頃ヤマト政権によってでっち上げられた話でもなさそうです。
 『日本書紀』が編纂される前に、『古事記』が太安万侶の指揮下の元、編纂されました。『日本書紀』は一つの逸話に対してその他の別伝も載せているがために、全体的に雑然とした内容になっていて、読んでいると混乱してきますが、『古事記』は理路整然と川の流れのように繋がって書かれています。
 『古事記』の物語は、意祁王(おけのみこ)と袁祁王(をけのみこ)が父の復讐のために故大長谷王(おおはつせのみこ=雄略天皇)の墓を壊す壊さないという逸話で終わっています。『日本書紀』の巻第15弘計天皇(をけのすめらみこと)顕宗天皇の条に当たり、『古事記』はとても中途半端な終わり方をしています。顕宗・仁賢天皇(ヲケ・オケ王)在位は西暦400年代後期。その後の歴史は、太安万侶にとって近世であるのでより詳細になってもよさそうなものなのですが、500年代武烈天皇から600年代推古天皇まで名前の羅列のみ、という不自然な終わり方をしています。これは、さっさと終わらせたか中断させられたような感じがします。ひょっとしたら、『古事記』が完成する前に、日本の歴史書プロジェクトが発動されたせいではないでしょうか。
 『古事記』が奏上された712年は、藤原不比等が牛耳っていた朝廷から、少しずつ皇族の権力が復活する兆しが見られる時期です。天皇としては、ここで正式な日本国の歴史書を作っておきたかったのだと思います。日本の歴史書であるからには、形式も国際的に通用するものでなくてはなりませんし、責任者も太安万侶のような一介の貴族官人ではなく、天皇に近い地位の皇族の者でなくてはならなかったでしょう。(古事記の編纂に太安万侶が選ばれたのは、それなりの意図があってのことだとわかりましたが、それは後で。)
 私は日本書紀編纂が始まったのは713~714年辺りではなかったかと、finding hohodemi4に書きましたが、『古事記』を引き継ぐような形で、当時の天皇・元明天皇もしくは藤原不比等から文才のある舎人親王を編纂チームのリーダーに指名して、『日本書紀』編纂にシフトさせたような気がします。ですから、日本書紀が多くの異説を並べても、大筋は古事記と変わらないのでしょう。
 とすると、神武東征物語は太安万侶の創作だったのでしょうか?そういえば、『古事記』は、記憶力がずば抜けて良い稗田阿礼に記憶させた「帝紀」や「旧辞」などを暗唱させ、それを筆録して編集したものでした。神代記や神武東征記なども、太安万侶が編集する前から存在していた原作があったのでした。その原作、誰が書いたのでしょうか。
 『日本書紀』推古天皇の条に、「皇太子(厩戸皇子=聖徳太子のこと)と馬子大臣(蘇我馬子のこと)が相議(はか)って、天皇記および国記、臣・連・伴造・国造など、その外多くの部民・公民らの本記を記録した。」と書いてあります。このわずか2か月後、聖徳太子は死去するのですが、冠位十二階を施行して憲法十七条を発表した後、天皇記や国記などを記録するまでの16年間、聖徳太子はこれといった事をしていません。太子は斑鳩で何をしていたのでしょうか。仏典の研究でもしていたのだと思っていましたが、天皇記や国記、本記が1,2か月で記録できるとは思えないので、案外、斑鳩に移ったのは、天皇記、国記、本記の編纂作業をするためではなかったか、と考えるようになりました。聖徳太子なら、読み書きできたでしょうし。
 ところが、『日本書紀』皇極天皇の条に、蘇我入鹿が暗殺され、それを知った父の蝦夷は、殺される前に天皇記・国記・珍宝を焼いたと書いてあり、唯一国記だけは家来の者が取り出して、中大兄皇子(のちの天智天皇)に奉った、といいます。
 原作は灰に帰した、ということですが、蝦夷が諦めて自分の屋敷に火を放つことはわかっても、何故わざわさ天皇記・国記などを焼いたという事を記録に明記したのでしょうか。それに、聖徳太子が編纂した書物を、蝦夷が焼かなければならない理由が見つかりません。
 私は、実は国記だけでなく、天皇記も本記も中大兄皇子の手に渡ったのだと思います。
 多分、その天皇記と本記は、真実の古事が記されていたのではないでしょうか。天皇家にとって都合の悪い真実。ヤマト政権の歴代の大王が一系ではなかったこと。数世代前の大王たちが中国(南北朝時代の宋)から冊封を受けていた(中国皇帝に朝貢して、王位や地位を受けていた)こと。もちろん、皇族が天神と繋がらないこと。元々奈良盆地を支配していた豪族のこと、等々。
 それ故、蘇我蝦夷が自ら焼失させたことにして、闇に葬ったのではないかと思います。実際は残っていて、それを都合のいいように書き換えて『帝紀』『旧辞』を作った、と考えると腑に落ちます。
 という事は、聖徳太子(厩戸皇子)は本当の歴史を知っていた、という事になります。都合の悪い真実を知ったからこそ、完成してすぐ死んでしまった(日本書紀には何の前触れも死の原因も書かれてありません)のも肯けますし、なぜ斑鳩へ移ったのかも理解できます。
 斑鳩は、ヤマト政権を確立したとされるカムヤマトイワレビコ=ホホデミが最初に目指した「竜田」の地です。また、そこは大和川の北側、生駒山のすそ野、伝承ではニギハヤヒの支配した地でもあります。厩戸皇子は、ニギハヤヒの伝承が真実かどうか、調査していたのかもしれません。彼にとっては、自分のルーツを知る事でもありますから。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする