TheProsaicProductions

Expressing My Inspirations

diary of a genroku samurai 3

2013-07-19 | bookshelf
尾張藩士 朝日文左衛門重章の屋敷を示した地図
現在の名古屋市東区主税町付近。敷地面積約430坪。

 名古屋市博物館から発行されている「城下町名古屋復元マップ」は、幕末(明治元年頃)の地図なので、文左衛門の名前は載っていませんでしたが、名古屋市東区白壁~主税町~撞木町周辺は町並み保存地区になっていて、マンションの敷地に昔の武家屋敷の門を残していたりして、江戸時代の中級武士の住居だった風情を今も忍ばせています。
 文左衛門は、年俸に換算すれば下級武士と同程度額ですが、郊外に知行地を所有しており、住んでいる地区から判断しても、中級武士の位だったと考えられます。1674年延宝2年、文左衛門(通称)は朝日定右衛門の長男として生まれました。その6年後、徳川綱吉が将軍になります。文左衛門が日記を書き始めたのは、1691年元禄4年、数え18歳の夏でした。
六月十三日、予佐分氏へ鑓稽古に行く。夕飯すでに半ば過ぎて重雲乾方に峙ち卒雨忽ちに至る。人々騒ぎ立て、柄を入れ席を捲き、手々に草履を取りて濡れさざらんと欲す。
 というのが書き出しです。17歳の少年文左衛門くんは、初めての槍稽古をきっかけに、日記を始めたようです。日記の常套句、その日の天候も述べています。しかし、文左衛門くんの記述は、この後悲惨な事故の報告書と化します。
 この夕立は雷と豪雨になり、文左衛門くんは迎えに来た下僕と一緒に帰宅しましたが、雷雨は翌日の明け方まで続きました。そして、日記の日付は変わりませんが、翌日以降に知ったであろう雷雨による事故を、まるで見てきたような筆致で書いています。
この雷、服部甚蔵宅へ落ちけるとかや。甚蔵奥に八畳敷きの間あり。妻子その内に居す。また壁に添いて長刀を掛け置きたり。その下に一りの娘の幼が居たり。時に雷大いに揮う中に、将して長刀の上へ零(お)ち掛かり長刀に当てそびれて落ちて、火玉暫し廻り遶って、柱に騰りて失せぬ。柱弐本のごとく成りたり。ああ長刀なかりせば、幼女何ぞ災を逃れん。長刀は落ちて少し伸びたりという。(後略)
また大曽根へも落ちたりと。(中略)雷庭に零ちて、婆が偏身焦れふすぼりて絶え入り(後略)
大熊庄兵衛足軽、さてさて振雷かなとて戸をあけたれば、雷頂に落ち、脳微塵に砕けて死す。
 という雷事故だけでなく、同じ夜に起きた脱獄事件も記述しています。
同雷の夜、松平権左衛門子源之右衛門、その伯父善左衛門所の籠に居りしが茶碗にて土を掘り逃げ失せたり。(後略)
 第1日めから、話題てんこ盛りの日記。このような調子で、彼の日記は災害・事故・事件などのルポに溢れ、21歳で家督を継いで本丸番同心の職を得て、芝居見物や賭博、酒、釣りなど大人の趣味が盛り込まれ、27歳で畳奉行になってからも、おそらく事務方の役得だったのでしょう、藩や中央からの書面や、城内の人事のリストなども丸写ししていました。
 時は、犬公方綱吉の時代。尾張藩にも柿渋で染めた羽織を着た監視人がいましたが、民衆は職権乱用の悪行に悩まされていたり、ある日尾張藩江戸屋敷周辺の犬40匹が舟で運ばれてきて藩内に放たれたりしたこともありましたが、江戸の役人のように戦々恐々としていませんでした。文左衛門と仲間たちは、しょっちゅう釣りをしていましたし、鳥なども食べていました。こんな記述も、藩が日記を隠した理由だったかもしれません。
 文左衛門の個人的な記述としては、まず食事のメニューや物の価格の細かい記述、好きな芸能については、当代随一の義太夫をそれほどでもないと批評したり、子役を観て帰る客も多いだの皮肉ったり。頼母子(たのもし)会という講の件、一番多いのが仲間たちとの飲み会です。
 現代でも飲み会というのはありますが、江戸時代は飲み方が半端じゃなかったみたいです。各人持ち回りのように、招待したりされたりの酒宴で、気分が悪くなると庭に吐いて再び飲んだり、二日酔いで数日臥せってもまた飲みに出かけていったり。明治初期でも、イザベラ・バードが「日本人はいつも酒を飲んでいる」と書いているので、文左衛門の時代が特別だったわけではないのでしょうが、酒酔いによる事件も多かったことが日記を読むとわかります。
 悲惨だった話― 親友同士の侍が酔っ払って帰宅途中、1人が何を思ってか脇差を抜いて親友に斬りつけ、斬り付けられた方は酔っているのでよくわからずその場に倒れ、斬った方も自分のしたことがわからずそのまま家に帰って寝てしまいました。近くで見ていた農民が斬られた方を介抱しましたが、翌日死んでしまいました。酔いがさめて、親友を斬り殺してしまった事を知ったその侍は、愕然として自害してしまいました。
 泰平といっても帯刀していた時代ですから、刀による殺人や事故は日常的にあったことがわかりました。また、武家は知行地の農民を使用人として雇わなければなりませんが、その使用人と揉めて成敗したとか、主人である侍が使用人を斬り殺したのを別の理由をつけて隠蔽するのは当たり前、といった血生臭い事件も多かったようです。吉良上野介が松の廊下で斬りつけられた事件も、書き留められています。
 また、江戸時代の中期には、刀の試し斬りも行われていて、文左衛門が通っていた道場でも、罪人の死体(なので首なし)を持ってきて、「ためし物」と称して斬っていました。文左衛門は、初めてためし物を斬った時、脚か脇のあたりの肉を少し削っただけだったのに、夕食時手が震えて気分が悪くなって医者にかかった、と書いています。

 このように、文左衛門は約26年間、種々雑多な情報を随筆のように書き留めていました。この「筆まめ」の性質は父親譲りで、父・定右衛門は尾張藩関係の古書や奇書を筆写した『塵点録』という本を執筆していて、文左衛門38歳の時引き継がされています。こちらは全72冊もあります。コピー機がなかった時代、自分で写すのはさぞ労力のいる作業だったでしょう。閑があるとせっせと筆を走らせていた父の姿を見て育った文左衛門は、「書く」ことは当たり前の感覚だったのかもしれません。そして、父が写していた書物の内容をみて、文左衛門は個人的な観念より、面白い出来事や怪異を中心に記録するようになったと考えられないでしょうか。臆病な文学青年とイメージされる文左衛門ですが、鉄砲を習ったり、怪異に関しては合理的な考えで分析しているので、この時代の人としては、迷信などに捉われない現実的な人物だったと想像します。そして、事件があれば飛んでゆく、旺盛な好奇心の持ち主。病床に臥した母親を看病する優しい息子像。誘われると断われないところもある、人付き合いのよさ。ただ、この意志の弱さが禍して、30代半ばから酒で体をこわし、1717年享保2年12月、水野(愛知県瀬戸市水野?)で孫たちと楽しく過ごした後、29日を最後に日記は途絶え、翌年9月に文左衛門(35歳の時父の名を継ぎ、定右衛門となっている)は亡くなりました。享年44歳(数え45歳)でした。
 『摘録鸚鵡籠中記』の下巻の最後に、編注者の解説が載っています。そこに、文左衛門がもう少し長生きしてくれてたらよかったのに、と書いてありました。なぜなら、1716年から将軍吉宗の時代になり、1730年に尾張藩主・徳川宗春が登場するからです。吉宗の逆鱗に触れて歴史から抹殺された宗春。数少ない(藩民が隠し持っていた)史料からでもわかる、江戸時代で一番楽しそうな時代を、文左衛門だったらどう記したでしょうか。
 

 
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする