「詩客」俳句時評

隔週で俳句の時評を掲載します。

俳句時評182回 多行俳句時評(11) 閉じによる開き 斎藤 秀雄 

2024年05月02日 | 日記

 なぜ見えるのか、というシンプルな問いに対し、閉じることによってである、と答えてみたい。目を開けば見えるではないか、と思うかもしれないけれど、目なんてものは、開いたところで、そもそも閉じているのである。「インプット/アウトプット」モデルは、環境にあるものを内部に入力するというわけだから、空き瓶の口から日光を入れるようなものだ。これは、A地点にあったもの(ここでは電磁波のうちの可視範囲)をB地点(ここでは瓶底だろうか)に移動させているだけであり、もしもこれが「見る」という事態であるならば、瓶そのものが不要ではないか(移動だけがあればよい)。
 符号化モデルは、光を受けた瓶底が、別の刺激に「変換」する――電気信号やら化学物質やらに――と想定するかもしれない。けれど、電気信号やら化学物質やらは、それ自体では「照らされた瓶底」と同じである。こうした「変換」をどこまで繰りかえしても、「見える」という事態に到達することはない。
 こう考えてはどうか。見ている私は、電気信号も化学物質も入力(インプット)していない。たしかに私の環境において、可視光や電気信号や化学物質がそれら独自の存在様態でもって存在している、のかもしれない。それらが存在しないならば、私に「見え」が到来することもない、のかもしれない。けれど、私が見ることができているのは、そうした環境要因のさまざまを、入れないことによってである。すなわち、閉じていることによって、私は環境に対して開いているのである。
 という導入が、以下の多行俳句作品を読むことと、いかなる関係にあるのか、僕にもよくは分からない。ただ、この導入文章は、ここから後の文章を書いた後に書かれたものである、と覚書きをしておきたい。

声を失くし
耳を失くし
踊らんか
雪の海溝

 上田玄句集『月光口碑』より。
 中空の、それも二重の「内側」を持った石、というものを考えてみよう。彼は僕たちと同様、直接、外側を見ることができない。彼は、もっとも外側の表面・殻・境界(=第一の殻)を、内側に転写する。こうして二重の内側が生まれる。彼は、外側を見るとき、第二の殻の外側において、ただし第一の殻の内側において、見る。彼の「自己(self)」は、第一の殻の内側全体であるはずだけれど、やはり僕たちと同様、第二の殻の内側を自己とみなす。自己とは「『自己ではないもの』ではないもの」だから、自己ではないものを、自己は、みずからの環境において見る。第一の殻の内側で、かつ、第二の殻の外側を、「環境」と呼ぶ。
 二重中空の石が、海深く、ゆっくりと沈んでゆく。無数のマリンスノーとともに。《雪の海溝》は静謐であるだろう。そのことは、この石も知っている。この石の持つ世界において、みずからが沈んでゆく《海溝》は静謐である。その静謐さは、けっして《耳を失くし》たことが理由ではない。この四行目、《雪の海溝》を読む僕たちの多くが、静謐さを想像するだろう。《耳を失くし》たこの石は、だから、「それに加えて」静謐な世界を持つのだ。二重中空の石の表面の、すぐ外側の静謐さ(《海溝》の静謐さ)を、彼は第二の表面(内部の外殻)の外側、つまり環境に持っている。《》の無いこと、聴覚の無いことは、この環境世界に一種独特の質感を与える。質を変容させると言うべきか。《海溝》の巨大な静謐さの上に、《耳を失くし》たことによる私秘的な静謐さが上塗りされる。僕たちは、その私秘的な質感を知ることはできないにしても、しかし、その弱々しい私秘的上塗りの「かすれ」「透け」のようなもの、塗りの痕跡を想像してみることはできるのではないか。
 最終行に置かれた巨大な静謐さの、遡行的な効果によって、《》《》はともに聴覚刺激語であるようにも見える。そう読むことも誤りではないかもしれない。けれど、《》の無いことは、《》の無いこととはまた異なる質感を、世界に与えることになる。《》は環境に「働きかける」能力を持つからだ。目の前に軽い障害物があるとき、もしも手があるならば、それらをどかして、環境を変形させ、それから進むだろう。手があるとき、僕たちは「手ありき」の世界を構築する。環境に働きかける力能、世界を変形させる力能を喪失することは、したがって、世界の根本的な変容を、僕たちにもたらすだろう。歯車を失ったまま回転するシャフトのように、しばらく、一種独特の「あてどなさ」を体験させるだろう。
 ふたつの要素の喪失、《》と《》の喪失は、それぞれに世界を変容させる。おそらく「世界が失われている」とさえ感受される。《踊らんか》という呼びかけ・語りかけは、他なる何かに届く見込みを喪失している。声なき者から、耳なき者への呼びかけであろうし、二重中空の石としての語り手から、語り手自身への語りかけであろう。その声なき呼び声は、二重中空の石の内側で、こだまし続けることになるのだ。

目瞑れば届く
 月光
繃帯越しの
昨日かな

 上田玄句集『月光口碑』より。
 一・二行目をまずは「目蓋の裏に浮かぶ」という慣用表現に引きずられながら読んでみよう。そう読んでも間違いではないはずだ。句集名に刻印されているように、本句集所収の作品には実に多くの《月光》が描かれている。それらの《月光》が閉じた目蓋の裏に次々と到来する。本句集には上田による渡邊白泉論が二篇、収録されている。「渡邊白泉の枯野」および「渡邊白泉の繃帯」である。掲句には《繃帯》の二文字が刻印されているから、白泉の《繃帯を巻かれ巨大な兵となる》《繃帯が上膊を攀ぢ背を走る》といった句との参照関係を想定することも、不当ではないだろう。つまり、ここで語り手は、戦場にふりそそぐ《月光》を思い描いているのかもしれない。
 ただ、《届く》という措辞に、ほんの少しの違和を感じることもまた、許されるかもしれない。「目瞑れば浮かぶ」でも「目瞑れば描く(描かれる)」でもないのである。慣用表現を逸脱して、リテラルに読む誘惑に駆られもする。語り手が目を瞑ると、あたかもそれを原因とするかのように、《届く》ことが、《月光》の到来が、成し遂げられてしまう、というように。
 こうしたリテラルな読みは、実のところ、三・四行目の与えてくる不思議な質感に促されてのことである。《繃帯越しの/昨日》を、穏当に読むことはできるだろう。「昨日ついた傷に、繃帯越しに触れてみる」だとか、「消毒液が一日経って、繃帯に染みをつくった」だとか。こうした穏当な読みは《昨日》を換喩表現として読んでいることになるのだろうけれど、収まりがよいとはあまり思えない。「前日」という意味であれ、「近い過去」という意味であれ、《昨日》が語り手に、《繃帯越し》に触れてくるのだ。
 そしてまた、ここでの《繃帯》の質感と、目を瞑るときの目蓋の質感とが、「覆う」ものとして、強く通底する。《月光》は《目瞑》ることによって、《昨日》は《繃帯越し》であることによって、語り手にとってのいまここに、到来する。多少脱線するならば、この《繃帯》が、語り手の目を覆っていると想像する誘惑にも駆られる。いささか読みすぎになってしまうだろうけれど。
 この「到来」の感触は、「思い描く」という能動性からはひどく隔たりがある。《昨日》が、遅延して到来する。語り手は、《目瞑》ることで引き起こされる感覚の鋭敏さによって、あるいはまた《繃帯越し》が引き起こす感覚の鈍感さによって、この遅延、ズレを感受することに立ち会うことができたのである。