Sightsong

自縄自縛日記

『花を奉る 石牟礼道子の世界』

2012-03-04 10:45:48 | 九州

NHK「ETV特集」で放送された『花を奉る 石牟礼道子の世界』(2012/2/26)(>> リンク)。

わたしが読んだ『苦海浄土』は、講談社文庫版の「第1部」のみである。吐きそうになるほど圧倒され、その後、渡辺京二の解説によって驚いたことは、多くの患者たちの絞りだすようなことばや独白が、聞き書きなどではなく、小説家・石牟礼道子の想像世界から生まれたものだということだった。

一方、このドキュメンタリーで紹介される「第2部」におけるエピソードが強く印象に残る。「嫁入り前」の若い女性。既に水俣病に侵され、桜の花びらが散る季節になると、それを目当てに縁側から地面に降りる。

「花びらば かなわぬ手で 拾いますとでございます
いつまででも座って
指さきで こう 拾いますけれども
ふるえのやまん 曲がった指になっとりますから
地面ににじりつけて
桜の花びらの くちゃくちゃにもみしだかれて
花も あなた かわいそうに」

こう語る女性の母親は、石牟礼さんに対し、「チッソの人に、花びらば1枚だけでよござんます、拾ってやってはくださいませんか」と、文に書いてくれと頼んだのだという。

これに比べれば極めて矮小なものではあるが、わたしが幼少時小児喘息で呼吸自体が困難になり、苦しんでいるさなかに、自分が「舌の先だけで階段の途中に逆立ちをする」幻覚を視ていた記憶が蘇ってきた。自分なりの苦しさの自分への説明だったと思っている。

地べたに「にじりつけられた」桜の花びらの姿と、その娘の姿と、花をも「かわいそう」と想う母親の姿。それが小説家の体内を介して、さらにそれを読み、聴くわたしという個人のなかで、個人史をも巻き込んだ激烈な文学的想像力を喚起する。こうなれば、『苦海浄土』がルポであるか文学であるかということは大した意味をもたなくなる。

石牟礼さんは、「水俣病被害者特別措置法」(2010年閣議決定)において、一時金を一人あたり210万円としたことを批判する。代わりに生活保護が打ち切られ、その金額で生活できますか、と。これは勿論政治的な判断だが、幕引きの意思でもある。かつて、チッソが水俣病患者互助会に「いっさいの追加補償要求はしない」との契約にてオカネを支払った。石牟礼さんは、それに触発され、

「おとなのいのち十万円
こどものいのち三万円
死者のいのちは三十万」

と、「念仏にかえてとなえつづける」のだった(『苦海浄土』)。

東日本大震災(3・11)後、石牟礼さんは人間のありようが「試されている」と感じているという。藤原新也との対談『なみだふるはな』(河出書房)では、そのあたりの幻視も垣間見せてくれるのではないかと、待ちわびている。

●参照
石牟礼道子『苦海浄土 わが水俣病』
島尾ミホ・石牟礼道子『ヤポネシアの海辺から』
島尾敏雄対談集『ヤポネシア考』 憧憬と妄想(石牟礼道子との対談)
『差別と環境問題の社会学』 受益者と受苦者とを隔てるもの
土本典昭さんが亡くなった


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