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自縄自縛日記

熊谷博子『三池 終わらない炭鉱の物語』

2012-06-07 13:09:20 | 九州

熊谷博子『三池 終わらない炭鉱の物語』(2005年)を観る。

福岡県大牟田市を中心とした三池炭鉱のドキュメンタリーである。撮影を担当した大津幸四郎は、三里塚、水俣、沖縄、大野一雄とさまざまな場でカメラを抱えていたことになる。その大津幸四郎もカメラマンを務めたことがある故・土本典昭は、「撮るということは抱きしめるということだ」という言葉を残したという。映画のなかで、熊谷監督も、坑口のレンガを触り、たて坑跡の上に耳をつけてその音を聴き、身体での映画の捕捉を試みているようだ。福岡独自の「・・・からですね」という方言を多く収めているのも、身体的だといえる。

次第に取り壊されてはいるものの、現在でも、近代化遺産と言うべき炭鉱施設の跡が残されている。映画では、それを「巨大な地下帝国」と表現している。二十あまりの坑口があり、坑道は有明海の地下深くにまで及び(人工島もあった)、深いところは地下600m以下、そして坑内列車で坑口から1時間かかるところもあった。石炭の出荷のために建設された三池港では、石炭でクレーンを動かす船「大金剛丸」や、遠浅でも直に接岸するための大型水門がまだ稼働している。また、三池炭鉱専用鉄道は、いまは化学工場に原料を運ぶために運用されている。有明海の地下では人びとが生死の境目で石炭を掘っていたとは、思いもよらないことだった。

明治になり、1873年に国営の三池炭鉱が事業開始する。初代事務長は米国で鉱山学を学んだ團琢磨という人物で、彼が「三池式快速石炭船積機(ダンクロ・ローダー)」や三池港の開発を指揮した。しかし、話は、そのような産業のハード面だけで語られるべきものではない。

当時から囚人労働が行われ、それは1889年に三井に払い下げられ民営化されても続いた(~1930年)。囚人が収容されていた「三池集治監」(現在は三池工高)から、毎日朝夕、囚人たちが手首を紐でつながれ、坑口との間を行き来した道は「囚徒道」と呼ばれた。釈放されても、囚人たちは他に行くところもなく、炭鉱労働者として住みついたという。わたしも、北九州や大牟田あたりを「荒っぽい気風の土地」だと表現する人に接することがあるが、そのような伝聞的な言い回しはともかく、確実に地域の歴史を作ったのであった。

あまりにも厳しい労働をしたのは一般の炭鉱労働者や囚人だけではない。与論島から台風や飢饉を逃れてやってきた集団移住者(1899年~)は、特定の地域に住み、しばらくは下請けばかりに回された。そして、朝鮮からは、現地の一村から2-3名割り当てられて強制連行(1942年~)され、賃金ゼロでただ働きさせられた。戦争末期には、さらに中国からも2000人以上が連行された。植民地だけではなく、1000人以上の欧米人捕虜も過酷な労働に従事させられた。映画では、自らが働かされた炭鉱に戻ってきた人たちの声を記録している。勿論、彼らへの戦後補償はなされていない。

戦後。日本は復興のため、鉄と石炭への傾斜生産を行った。しかし、1950年代からの石油への転換と合理化の嵐により、労働者はさらなる苦境に立たされることとなり、企業は1200名以上の指名解雇を通告する(1959年)。三池争議(1960年)のきっかけである。そこから、労働組合は、これを許せないと拒否する者と、諦めて条件闘争に与する者とに分裂し、いがみ合った。勅使河原宏『おとし穴』(1962年)でも描かれている事態である。

映画では、熊谷監督は、両方の組合の方々にインタビューを行っている。「ためにする」映画ではない、凄いことだ。それゆえ、大資本のみを悪とみなすのではなく、さまざまな見方や立場があったことが示されている。例えば企業側についた第二組合の方は、このままだと誰も食べて行けず、第一組合が、総評(現在は連合に合流)を介して、その闘いから退いた人の名簿をもって新たな仕事につけないようにしたのだと告発する。また、三池主婦会に所属した方は、当時勉強会を行った向坂逸郎(当時九大教授)を非難し、その後労働者たちがみじめになったのは向坂先生が机上の勉強だけで指導したからだ、と言う。勿論、一方的な首切りに抗った人びとの理も言うまでもない。簡単なストーリーで過去を振り返ることなどできない、ということだ。

1963年、一つの坑道で、炭塵爆発が起きる。458人が亡くなり、助かった何百人もの人も、CO中毒による障害、精神症状や性格変化などの後遺症に苦しめられている。労災は3年で打ち切られてしまうため、労働者の家族たちは、1967年、「CO特別立法」を求めて座り込みを行う。それは成立するも、不十分な内容であったという。わたしも、中国でいまだ頻発する炭坑爆発のことを仕事で書くことがあったが、日本とは別の話との思いだった。そうではない。現在でも問題は終わっていない。

このすぐれたドキュメンタリー映画を観て痛感するのは、沖縄でも、三里塚でも、水俣でも、またおそらくは他のさまざまな場所で行われてきた国家の棄民政策の実態である。有識者の介入が解決につながりにくいことも、共通している。

●参照
上野英信『追われゆく坑夫たち』
山本作兵衛の映像 工藤敏樹『ある人生/ぼた山よ・・・』、『新日曜美術館/よみがえる地底の記憶』
勅使河原宏『おとし穴』(九州の炭鉱)
本多猪四郎『空の大怪獣ラドン』(九州の炭鉱)
『科学』の有明海特集
下村兼史『或日の干潟』(有明海や三番瀬の映像)
『有明海の干潟漁』(有明海の驚異的な漁法)
石牟礼道子『苦海浄土 わが水俣病』
『花を奉る 石牟礼道子の世界』
石牟礼道子+伊藤比呂美『死を想う』
島尾ミホ・石牟礼道子『ヤポネシアの海辺から』
島尾敏雄対談集『ヤポネシア考』 憧憬と妄想(石牟礼道子との対談)


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