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自縄自縛日記

菊池秀明『ラストエンペラーと近代中国』

2010-01-24 22:02:12 | 中国・台湾

菊池秀明『ラストエンペラーと近代中国』(2005年、講談社)を1週間近くかけてじっくりと読む。清国の終焉、辛亥革命、中華民国の成立を経て、延々と続く権力闘争と内戦、満州国の成立、そして日中戦争の開始前夜までを描いている。

清代末期において、日本がパワーゲームの視線を向けた先は、中国本土だけではなかった。李氏朝鮮や琉球の支配に至るプロセスからは、韓国併合100年という不連続な歴史の捉え方では不充分なことや、沖縄抑圧という現代の状況が近現代日本の軍国化の流れから脱却できていないことを如実に示すことなどを明らかに読み取ることができる。逆に、そんなことを敢えて言わなければならないほど、罪深き無自覚の根は深いとも言うことができるかもしれない。

著者は、太平天国の洪秀全孫文袁世凱蒋介石、そして毛沢東に至るまで、強権的・独裁的なストロングマンが登場し続け、中国近現代史を牽引したのだと見ている。これを著者の言うように「中国文化はこうした荒ぶる暴力を内在させていた」というのは言い過ぎの感があるが、 中央集権、開発独裁による近代化革命という点で孫文も袁世凱も大差なかったという指摘は興味深い。ある太い幹だけを動かさざるを得なかったということと、中国という「天下」の巨大さとは無関係ではないはずだ。実際に、中国革命の父として奉られ、大アジア主義を唱えた孫文でさえ、「国家」に対する認識は、辛亥革命以前には「漢人中心の国家」程度であったという(加々美光行『中国の民族問題』)。また本書でも、「辛亥革命後に唱えられた「五族共和」のスローガンも少数民族への蔑視にもとづく同化対策という面が強かった」と指摘している。

本書では、魯迅についても大きく取り上げている。私の心の中にいる魯迅は、眼から耳から口から、皮膚から、血を流しながら、なお寒い荒野に倒れずに立っている人である。読んでいるうちに、なぜ魯迅に惹かれるのかわかったような気がした。魯迅は、「暴君治下の臣民は、たいてい暴君よりも暴である」と述べたという。『阿Q正伝』でも他の作品でも描かれた、愚かなるマスの姿である。いまの日本において、マスを作り出す政治家たち、メディアの姿と重なるのではないか。

辛亥革命に続く第二革命、第三革命については、さほど多く触れられてはいない。李烈鈞山中峯太郎(山中のことは言及されていない)が革命にどのように関わろうとしたか、これからちょっと調べてみたくなった。まずは、エンターテインメントではあるけれど、山中峯太郎自身の書いた『亜細亜の曙』や、大島渚がドラマ化した『アジアの曙』をもう一度追ってみることにする。

●中国近現代史
平頂山事件とは何だったのか
満州の妖怪どもが悪夢のあと 島田俊彦『関東軍』、小林英夫『満鉄調査部』
伴野朗『上海伝説』、『中国歴史散歩』
小林英夫『日中戦争』
盧溝橋
『細菌戦が中国人民にもたらしたもの』
池谷薫『蟻の兵隊』
天児慧『巨龍の胎動』
加々美光行『現代中国の黎明』 天安門事件前後の胡耀邦、趙紫陽、鄧小平、劉暁波
伴野朗『上海遥かなり』 汪兆銘、天安門事件
加々美光行『中国の民族問題』
竹内実『中国という世界』
●魯迅
魯迅の家(1) 北京魯迅博物館
魯迅の家(2) 虎の尾
魯迅グッズ
丸山昇『魯迅』
魯迅『朝花夕拾』、イワン・ポポフ『こねこ』
井上ひさし『シャンハイムーン』 魯迅と内山書店


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