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自縄自縛日記

ハマん記憶を明日へ 浦安「黒い水事件」のオーラルヒストリー

2010-03-11 23:58:37 | 関東

3月7日(日)、研究者のTさんに声をかけていただき、浦安市郷土博物館で開かれたシンポジウム「ハマん記憶を明日へ」を聴きに出かけた。

「記憶」とは、「黒い水事件」の記憶のことだ。1958年、本州製紙(現・王子製紙)の江戸川工場から流された廃水により、浦安の漁場は大打撃を受けた。浦安漁民が工場に押しかけ、乱闘となった事件は有名である。しかし、「黒い水事件」はそのことではない。実はその後も黒い水が流され続け、今井橋~浦安橋あたりには死魚が浮いたという。私にとっても、知識としてあったのは乱闘事件までだった。この1月の企画展『海苔へのおもい』により、こんなことがあったのかと驚いたのだ。

Tさんが送ってくれた文献資料に、あらためて目を通した。

●寺尾忠能「1958年・本州製紙江戸川工場事件(浦安漁民事件)の政治経済的考察」 環境経済・政策学会2009年大会
●寺尾忠能「本州製紙江戸川事件(浦安漁民事件)後の排水処理とパルプ生産」 環境経済・政策学会2009年大会

これによると、

○不十分な排水処理のまま製紙を操業していたこと、
○工場側はそれを認識しており、江戸川の流量が少ない日には排水も少なくしていたこと、
○1958年制定の「水質二法」(現在の水濁法)の基準が甘く、逆に排水しても問題ないのだという正当化の根拠を工場側に与えることとなった(すなわち、公害規制法ではなく、実質的に公害追認法であった)

といったことがわかる。

この問題が現在まで大きくならなかった要因のひとつは、やがて埋め立てられてしまうという諦念にもあったようだ。なお、浦安の漁業権全面放棄は、1971年のことである。

■ 佐久間康富「浦安・まちづくりオーラルヒストリー」

郷土博物館では、この2年間、当時の記憶をオーラルヒストリーという形で記録し、集積しようとしている。その作業の、ひとつの拠り所となった考えについてのプレゼンである。

記憶を採集し、編集し、アーカイヴとして残す。そのプロセスにおいて、地域のアイデンティティが形作られ、共有されていくのだという趣旨。単にファクツを矛盾ないよう集積するのではなく、すべてのプロセス自体に重きを置いているということのようだ。記憶は過去の情報にとどまらず、想起しなおす行動によってまた形になっていくのだとする考えが印象的だった。

とは言え、「誰がプロセスを共有し、誰が目撃するのか」という点について、割り切れないのが正直なところだ。現代の都市にあって、住民全員が生活や文化と同じ距離にいるわけではない。過去との距離も人によりまったく異なる。このヴィジョンが暗に想定するのは地域社会であろうと思うが、現実のプロセスは極めて限られた仲間うちで閉じたものになってしまうのではないか。

終わったあとに直接考えを訊ねた。沖縄戦や慰安婦と同様、このオーラルヒストリーは負の歴史を対象にしているのではないか―――漁民にとっては、補償のオカネが手に入るまで戦争より辛かったという証言もあり、大げさではない―――。さまざまな感情が交錯する口承は、ファクツと矛盾することも含むのではないか、と。それに対して、確かに矛盾はしばしばある、だからと言って、それらが嘘ということにはならない、との応答をいただいた。

■ ディスカッション

集まった方々は司会者にはわかっているようで、やはり破綻ない文脈に沿っての進行だった。その意味で、フリーディスカッションではなく、意表を突くような問題意識が提示されるような場ではなかった。ただ、さまざまな立場の方が発言し、非常に興味深いものだった。

○本州製紙の紙を使っていた出版社の方は、間接的な責任について問い直されるべきだと発言した。
○本州製紙に当時おられた方(!)は、当時の技術指導に問題があり、限界があったのだと発言した。
○漁民の「亭主関白」は、命にかかわる仕事をしていたからでもあり、家庭を女性が辛い思いをして支えていたのだという証言があった。
○漁業権放棄までは戦中より苦しく、埋め立てが決まったときの喜びという気持ちは、環境保護のみの観点からは出てこないという指摘があった。
○このプロジェクトで、50年間家族にも言わなかったことを口にした例があったとの報告があった。
○当時のことをうまく話せない人が多いためもあり、記憶が風化する前に集積することを評価する声があった。

◎参照
浦安市郷土博物館『海苔へのおもい』


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