三木健『西表炭坑概史』(ひるぎ社おきなわ文庫、1983年)を読む。
よく知られているように、西表島には炭鉱があった(ざっくり言えば、炭鉱は石炭の鉱山を、炭坑はそれを掘りだす坑道を意味する)。その構造や日本との関係については、北海道や筑豊のそれと共通している面も特殊な面もあった。
沖縄に最初に石炭を求めたのはペリーだった。というのも、船の燃料を補給する場所として重要であり、これは現在の根拠希薄な地政学的な観点とはまったく異なる。かれらが可能性ありとした場所はなんと塩屋湾(大宜味村)であった。一方、琉球でも西表に炭鉱があることが知られてはいたが、島津には気付かれないようにしていた。しかし、明治の半ばには、日本の資源として狙われることとなった。
最初は国策として、三井物産が採炭を開始した。視察もした山形有朋の意向により、端から囚人を使う計画であり、これは北海道と同じであった。その多くがマラリアで死んだ(死んでもいい存在だった、ということである)。1895年からの台湾領有後からは、労働者として台湾人も増え、その後も、日本の他の炭鉱とは異なって朝鮮人の強制労働は比較的少なかったようである。やがて直接的な国策事業から多くの下請け業者による遂行に形が変わり、全体の事業規模も大きくなっていった。
坑道が狭く、男女一組で採炭にあたり、労賃はかつかつ(というより業者が握っていて労賃がわからない)、尻を割ることができない。筑豊の炭鉱に似たところがある。植民地支配を行った場所の出身者を除けば、労働者は沖縄ではなく日本出身者が多かったという。異なる特徴はここである。すなわち、あくまで日本のための事業であり、「炭坑切符」という支払い手段のために経済で地元が潤うことはなく、労働者を慰撫するためのお祭りでさえも日本人だけのためのものだった。このことを、著者は、「本土から集った坑夫の集団は、島の社会と隔絶した一種独特な社会を形成していた」と書いている。
三井三池炭鉱では、与論島出身者が差別的な扱いを受けたことが知られている(熊谷博子『三池 終わらない炭鉱の物語』)。これもまた差別構造を意図的に作り出した歴史だが、著者は、ここに、日本との関わりという点での共通点を見出している。
「与論の場合は、島を出た人たちが九州の社会と接触していった歴史だが、西表の場合は逆に本土の集団が島の共同体社会に割り込む形でできた歴史である。いずれにしろ資本を媒介にした異集団間の接触という点ではかわりなく、両者の間にある種の軋轢が生じていた点でも共通している。」
西表に関してはまさに地元の「搾取」という言葉があてはまりそうなものだが、このことは、戦後の建設業や基地における「ザル経済」(利益が地元を通過して日本へと流れる)と類似すると言ってもよいだろう。
「そして戦争で炭坑が崩壊するや、島の経済は大きな打撃を受けざるを得なかった。基幹産業が根付かぬまま、西表の既存村落は戦後を迎えた。戦後になって、同島が過疎化していく下地がすでにあったのである。」
●炭鉱
上野英信『追われゆく坑夫たち』
上野英信『眉屋私記』
『上野英信展 闇の声をきざむ』
伊藤智永『忘却された支配』
西嶋真治『抗い 記録作家 林えいだい』
奈賀悟『閉山 三井三池炭坑1889-1997』
熊谷博子『むかし原発いま炭鉱』
熊谷博子『三池 終わらない炭鉱の物語』
山本作兵衛の映像 工藤敏樹『ある人生/ぼた山よ・・・』、『新日曜美術館/よみがえる地底の記憶』
本橋成一『炭鉱』
勅使河原宏『おとし穴』(北九州の炭鉱)
友田義行『戦後前衛映画と文学 安部公房×勅使河原宏』
本多猪四郎『空の大怪獣ラドン』(九州の仮想的な炭鉱)
佐藤仁『「持たざる国」の資源論』
石井寛治『日本の産業革命』
●ひるぎ社おきなわ文庫
石原昌家『戦後沖縄の社会史―軍作業・戦果・大密貿易の時代―』
郭承敏『秋霜五〇年―台湾・東京・北京・沖縄―』
加治順人『沖縄の神社』
金城功『近代沖縄の糖業』
金城功『ケービンの跡を歩く』
保坂廣志『戦争動員とジャーナリズム』
宮里一夫『沖縄「韓国レポート」』
望月雅彦『ボルネオ・サラワク王国の沖縄移民』