一方的に敬愛している存在、鎌田慧。その鎌田慧が沖縄について書いてきた文章が集められた書、『沖縄(ウチナー) 抵抗と希望の島』(七つ森書館、2010年)。
辺野古、高江、いわゆる「集団自決」、白保、海洋博、伊江島。これらをめぐる問題について、ずっと心に留めていたり、関わっていたりする人にとっては、既に知っている話が多いかもしれない。しかしそれは、鎌田慧がリアルタイムでことばを発信し続けていたことのあらわれであろう。そして、その言葉はいつも最も痛い箇所を衝き、欺瞞を暴く。
高江住民のヘリパッド増設反対に関して、多数のための幸福を少数者が邪魔するとの言い方がある。これに対して、次のように言う。
「基地反対はアメリカの感情を害して、日本の国益に反する、という脅しに似ている。奴隷の論理である。
それには、少数を犠牲にした大多数の幸福を、はたして幸福と認められるのか、という論理をたてるしかない。まして、新軍事基地の建設に幸福などあるわけがない。」
その脅しこそが「神話」に基づくものであることは明らかなのだが、問題はその神話を再生産し続ける大手メディアにもあるだろう。神話を維持するための被害や受苦に何も策を講じようとしない為政者にも責任があるだろう。その欺瞞を衝く。アジアの安全保障についての発言を「虚言」だと表現し、政治家たちの無策を「自己保身のぶざまな姿」と表現して。
海洋博をはじめとする大規模な公共工事に関しては、結局は本土資本に還流されるオカネの流れを観察し、歩留まりを2割だとする。それだけでなく、一時的な、決して生活や仕事から生み出されたわけでないオカネ、オカネの威力を発揮するためだけのオカネに、生活を破壊された人々の姿も追っている。これが沖縄にとってのひとつのヤマトである。そしてこれは、直接、戦争の記憶とリンクしていたという。海洋博のあと何年も経ってから同じ人を訊ねる行動など、鎌田慧ならではのものだ。
成田空港について論じるとき、鎌田慧は、「かすかな心の痛みを感じながらも、成田から飛び立っている。なにか知り合いの頭を踏みつけているような、後ろめたい気がうるのだが。」と書いていた。ここでは、次のように書いている。想像力がわが身の潜在的な罪にまで及んでいるのだ。このような精神を、いまの与党の政治家たちはごくわずかでも共有しているだろうか。いや、あるいは、私たちはごくわずかでも共有しているだろうか、と問うべきかもしれない。
「ただわたしは、沖縄のひとびとが、「”母国”がわれわれに何をしたのか」と問いかけて来たとしたら、ただ顔をそむけて逃げるだけになるのが、とても辛い。」
●参照
○鎌田慧『抵抗する自由』
○鎌田慧『ルポ 戦後日本 50年の現場』
○六ヶ所村関連の講演(菊川慶子、鎌田慧、鎌仲ひとみ)
○前田俊彦『ええじゃないかドブロク』(鎌田慧『非国民!?』)
そして「官邸前」にも張りつめた面持ちで姿を見せました。
ネットで官邸前の姿を見ました。その論考も読んでみたいところです。現場主義なのだということですね。
そして鎌田さんの温かな心根に触れると
信じられる人がここにいると感じ元気が出ます。
2002年に小田実さんと行ったベチナムの旅で鎌田さんとご一緒しました。
お会いするたびに・・・・
何時もかわらない謙虚な生き方にほっとする優しさを感じ
幸せな気持ちになります。
結局、今回の官邸前ではお会いできませんでした、残念。鎌田さんも来ていたのですね。小田実さんも含めたベトナムの旅とは、さぞ実り多いものかと想像します。いつか話を聞かせてください。