ご心配なく

2011年03月23日 | Weblog
▼みなさん、3月19日の土曜に、最終的に退院しました。
 これを書いている3月23日水曜の未明4時ごろは、すでに退院から5日目になるわけですが、想像もしなかった呆れるほかない異常な忙しさで、書き込みができませんでした。
 今も、ゆっくり書いている時間はありません。


▼今朝のラジオ(RKB毎日「スタミナラジオ」の「ニュースの見方」コーナー。九州ローカルですが、番組の公式HPに音声がしっかりアップされます。だから他地域のかたも、放送時間に間に合わなかったかたも、いずれも大丈夫)で、原子力災害のその後について話します。
 先週にこのラジオで「チェルノブイリ事故のようにはならない」と断言しましたが、現在ももちろん、その通りです。
 今朝のナマ番組で具体的に申すつもりですが、これだけの騒ぎになりながら、放射線障害で治療を受けた、あるいは治療が必要になった人が、現在(3月21日現在の時点)までのところ、ただの1人も出ていない(正確に言えば、放射線障害で治療を受けた人や、治療が必要になった人が確認されていない)ことを、よく踏まえていただきたいと考えます。

 福島第一原発の地元のかたがたを含めて、放射線障害が出るレベルの放射性物質の漏洩は、現在までのところ、陸、海、空ともありません。(ただし原発の構内は別問題です。最前線で、わたしたちのために戦っているかたがたには、格段の対応が絶対不可欠です)
 当然ながらあくまで「現在までのところ」ではありますが、今はむしろ、政治の作り出した風評被害のほうがはるかに害が大きくなっていることを、わたしたちはよく考えるべきではないでしょうか。
 安全も味も総合品質が掛け値なく世界最高水準の日本の農産品、そして環境への配慮とモラールも技術も世界最高の漁業による素晴らしき日本の海の恵みが、国内でも世界でも不当に貶められないことが大切です。


▼きょう水曜の午後3時には、関西テレビの報道番組「スーパー・ニュース・アンカー」にもスタジオでナマ参加(出演)します。

 いつもより2時間早い放送で、また、いつもの「青山のニュースDEズバリ」のコーナーはありませんが、スタジオには居ます。
 なぜコーナーが無いのか、それはぼくには分かりません。
 いつも申しているように、ぼくは、ただの一参加(出演)者に過ぎず、番組の構成に関わる立場にありません。いかなる仕事も、参加者がその立場を無視しては成り立ちません。ぼくは範(のり)を超えることはしません。
 なぜコーナーをやらないのかと沢山、問い合わせをいただきましたが、ぼく自身もテレビ局に理由を聞くこともしていません。


▼ほとんどの講演が大震災で中止か延期になるなか、3月20日の日曜に、大阪・堺で、西村眞悟さんの主宰で、田母神閣下、勇気ある海上保安官だった一色正春さんと一緒の講演会だけは開かれました。
 そこでのミニ講演で、「菅さんがみずから退いてくれれば、ほんものの救国内閣を造ることもできる。その首班は、この際は、むしろ若い人、先のある人ではなく、すなわち野望を持ちがちな人ではなく、自分のことは考えない立場の人がいい。それは平沼赳夫さんしかいない」と語りました。
 平沼さんは71歳、まさしく国士であり、そして大病をなさって死と生を見つめられ、透徹の心境を獲得されたかただと、ぼくは理解しています。
 西村さんの会だったから、おもねていると曲解する人もいるでしょうが、それはどうでもいい。前述したように講演もほとんどする機会が無くなっていますから、直接に、みなさんに問題提起する貴重な機会を、活かすことが大事(だいじ)です。

 平沼さんが、与謝野さんらと組んで新党をつくられたことに、ぼくは批判もありました。与謝野さんのその後の行動(菅内閣に入閣)も意外ではありませんでした。与謝野さん個人の問題もたいへんに大きいけど、そもそもの新党の作り方に、ひとつの原因があったと考えます。
 しかし、そのことと、いま日本国が必要としている救国内閣の首班は誰か、ということとは別次元です。
 この講演集会には、民主党の地方議員もふたり、おみえでした。民主党にも菅さんにも、できれば祖国のために謙虚にみずからを振り返っていただきたいと、深くこころの底から願います。


▼ここは、あくまでぼくの個人ブログですから、個人のことをすこし記します。
 まだ痛みはあります。尿路結石の痛みがすこしだけ再発しているのと、早期大腸癌で15センチほど腸を切り取った手術の傷の痛みがすこしと、腸閉塞の名残による腹痛と、3種類の痛みはあります。
 しかし、いずれも充分に耐えられる範囲内です。

 退院は、無理な退院ではまったくなく、医師団とじっくり相談しての退院、協議を重ねての退院です。
 2月17日に早期大腸癌の手術をし、ほぼ1週間で退院し、その後に腸閉塞を起こして再入院し、これらと偶然、重なるように尿路結石の症状激化、それに重症肺炎があったわけです。
 大腸癌そのものは、まさしく早期で転移もなく、執刀医は「実質的に完治です」と明言されています。
 そして重症肺炎は、多臓器不全による急死の手前まで行きましたが、仕事をしつつ完治し、腸閉塞も緊急入院したときには、これも腸管破裂による死の手前だったという診断ですが、ほぼ快癒しました。
 尿路結石は、石が確認できないほど粒の小さなもので、痛いことは痛いけれども命に関わるようなものでは、もともとありません。

 そして、入院しているときに静養できれば、これ以上の入院に意味もあるのですが、ちょっと残念なことに静養にはならないのです。
 東日本大震災が起きる前から、病室でメールと携帯電話を使った情報収集や議論を欠かすことはできず、医師団による外出許可、外泊許可を得ての外での仕事も多く、震災の発生後は、これが当然、激しくなっていました。
 医師団としては、それでも適切な食事(いわゆる病院メシというやつ)を規則正しく提供できることと、すべての忙しさを医師団として管理できるということで、入院の継続を薦められ、それはぼくにとっても、ここまでの入院には、ほんとうに大切な意味がありました。感謝しています。
 そして医師団が「もうふつうの食事に戻っていっても大丈夫」と判断されました。
 まさか、いつまでも病院に暮らして仕事に出ていく生活を(費用の面からも)続けるわけにいきませんから、みんなが納得して、退院となったわけです。
 若い看護師さんが「あおやまさ~ん、今度は、死ぬ間際にまでなってから入院するのだけは、やめてくださいね」とおっしゃったのが印象に残りました。
 医師団のプロフェッショナルなドクターたち、いつも誠実な看護師さんたち、連日のCTスキャンとレントゲン撮影のときの技師さんたち、病室の掃除のかた、事務の優秀なスタッフ、みなみなさま、深く感謝しています。

 みなさん、お見舞いのお気持ちを、たくさん、たくさん、ありがとうございました。
 命をこれからも天にお預けして、今しばらくは、祖国と世界に、ごくささやかにだけ寄与したく思います。



 まずは、ぼくと独研を真正面から支えてくれている会員制レポート(東京コンフィデンシャル・レポート)の会員に向けて、レポート第501号の仕上げを急ぎ、それから大阪の関西テレビへ出発します。
 さっき東京の夜明けの雨に、しっかり濡れました。もちろん、まったく心配ありません。
 ちなみに、計3週間ほどの入院中のCTスキャンとレントゲン撮影で、ぼくの受けた放射線量の総計は、技師さんによれば、およそ160ミリシーベルト(およそ16万マイクロシーベルト)になっているということですが、これでもまったく心配ありません。




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