前回の続き。
2000年のUSオープン。
弱冠20歳で優勝し、世界ナンバーワンに輝いたのは、ロシアのマラト・サフィンであった。
とにかく、その才能に関しては折り紙つきで、一度のせたら手が付けられなくなるのは、王者ピート・サンプラスに何もさせずに完封した、USオープン決勝戦で証明済みである。
となれば、ここからはマラト時代がやってくると誰もが思ったはずだが、それがなかなかどうして、そう簡単ではなかったのである。
その後サフィンは、まずまずの成績を残すが、センセーショナルだった対サンプラス戦のような活躍はなかった。
その理由はハッキリしていた。
彼のメンタルだ。
才能ある選手というのはテニス界にも多々いるが、それだけではトップで戦う選手にはなれない。
中には、その才能がありすぎるために、をもてあまし、制御できずにもがく者もいる。
特にサフィンのような天才肌の選手がそうだった。
試合の中で感情をおさえることが、大事なのはわかっているんだ。
でも、できないん。コントロールをはずれて、コート上で叫ぶ。
たとえそれで負けたとしても、それが僕なんだ。
自ら言うように、フラストレーションを抑えることが、決して上手ではないのが彼だった。
そんな不安定さゆえに、サフィンという選手はとにかく、いいときと悪いときの差が大きかった。
調子のいいときのサフィンというのは、とんでもない破壊力を秘めたプレーヤーだった。
あのUSオープン決勝のように、スーパーショットを次々と繰り出し、相手になにもさせず、木っ端微塵に粉砕してしまう。
その様はまさに問答無用であって、この状態の彼に挑むのは、素手でタンクローリーと戦うようなもので、立ち向かいようもない。
ただただ、相手に好きなように打ちまくられ、ペシャンコに押しつぶされ、「ご愁傷様」としか、いいようがない状態でコートを去ることになる。
ところが、悪いときというのは、「え?」という相手に、あっさりと負けてしまったりして、見ているこっちをズッコケさせる。
その代表的な試合が、2002年のオーストラリアン・オープン決勝戦。
ここでも、サンプラスをやぶってファイナルに進出したサフィンは、すでに優勝を確信していただろう。
本人のみならず、ファンの多くも、そう思っていたはずで、というのも決勝の相手は、スウェーデンのトーマス・ヨハンソンだったから。
いや、ヨハンソンが弱いわけではない。
最高ランキング7位、後にウィンブルドンではベスト4にも入ることとなる実力者であるが、いかんせん彼は、サフィンとは格が違った。
また、こういってはなんだが、ファイナリストとしては圧倒的に華がなかった。
スターのオーラを身にまとい、「悪の華」の魅力に満ちたサフィンとくらべると、ヨハンソンは気の毒なくらい地味だった。
そんな男が、この大舞台でサフィンに勝てるはずがない。だれもがそう思っても、それは責められまい。
という戦前の予想というか決めつけは、思いっきり、くつがえされることとなった。
ヨハンソンの派手さはないが巧み、かつ力強いテニスの前に、サフィンは力を発揮できず、苦杯をなめることとなった。
まさかの番狂わせだが、一度くずれると立て直しがきかないのがマラト・サフィンのテニス。
ヨハンソンからすれば、回転を失いかけた独楽のようにふらつく「天才」など、料理するのはお手の物だったろう。
そういえば、サフィンが大の苦手とする選手に、フランスの選手である、ファブリス・サントロがいる。
ダブルスではプロ中のプロでも、シングルスではサフィンほどの実績がないサントロ。
だが彼は、まさにその「弱いサフィン」を引き出すコツを、知っていたのではあるまいか。
インタビューで、なぜサントロに苦戦するのか聞かれて、
「なんか、勝てねえんだよな」
サフィンはいつも口をとがらせていたが、ヨハンソンもまた、そんな尻尾をつかませぬ「なんか勝てない」テニスをしたにちがいない。
まさに、柔よく豪を制す。
こうしてサフィンは、大きなチャンスを逃してしまうこととなる。
こういったタイプの選手は、当然の事ながら安定感に欠ける。
1年通じて、コンスタントに成績を残すのがどうしても難しい。
そこがサフィンが、絶対的チャンピオンになれなかった泣き所だった。
(続く)