前回の続き。
渡辺明が、最強羽生善治相手にタイトル戦で3連勝し、
「ついに世代交代」
との印象を強くした2010年初頭の将棋界。
どっこい、一度はコテンパンにのされたはずの羽生は、しぶとく渡辺の前に立ちふさがり、2012年度の第60期王座戦では挑戦者に名乗りを上げる。
初戦は、相居飛車の難解な戦いを制して、渡辺が先勝。
これには気の早い私など「やっぱりか」と思いこんでしまったが、なかなかどうして、羽生の精神力をナメてはいけないのである。
第2局はオープニングから波乱だった。
先手の渡辺が、初手▲76歩と突くと、羽生は△34歩。
なるほど、横歩取りかとおさまりそうなところ、▲26歩に後手は△84歩ではなく△42飛としたのだ。
まさかの角交換四間飛車で、これは、まったくの予想外。
もちろん羽生はオールラウンドプレーヤーだから、振り飛車も指しこなすが、それにしたってここで登板とは思いもよらなかった。
研究家の渡辺相手に、相居飛車の後手番は苦しいとみての変化球だろうが、こういうところが万能型の強みでもある。
ただ、問題はここからだった。
角交換型の振り飛車は、穴熊を牽制できるのがメリットのひとつだが、反面、自分から動いて行くのが、むずかしいところもあるのだ。
双方、常に角の打ちこみに気をつけないといけないからだが、この将棋では羽生がその形に足を取られてしまう。
図は渡辺が、得意の穴熊に組み替えを図ったところ。
本来なら、その前にゆさぶりをかけたかったが、先手の駒組か巧みでそうは問屋がおろさなかった。
ここから羽生は苦しい手順を余儀なくされるのだ。
△92玉と寄るのが、いばらの道の始まり。
この局面の後手は、自分から仕掛ける手がない。また、敵陣に角を打ちこんで馬を作る筋もない。
なので、自らも角の打ちこみにそなえ、はなれ駒を作らないよう手待ちをしなければならないが、有効なパスがない状態。
一方の先手は、その間にゆうゆうと穴熊に組んで、▲46歩、▲37桂と構え、好機に▲24歩など仕掛けて行けばいい。
これには羽生自身、
「やる手がない」
「△92玉は損で、パスしたいけど、パスがない」
「全然、角打ちの筋がない。困り果てました」
頭をかかえるしかない。
後手はなにもできないどころか、角交換振り飛車の切り札である、千日手をねらうこともできないとは、なんとも悲しい展開ではないか。
後手がなんの策もなく△82玉、△92玉を延々とくり返す、屈辱的な「ひとり千日手」が続く間、渡辺は着々と理想形を築き上げ、ついに戦端が開く。
2筋、1筋、3筋と次々歩を突き捨て、後手が受けるには△52角という、つらい手を指すしかなく、気分的には先手必勝。
「あの羽生が、こんな苦しい将棋を強いられるとは、渡辺が強すぎる!」
感心することしきりで、実際、検討している棋士も皆先手持ちだったが、なんとか逆転のタネをまきたい後手は△95歩と、とにかく端を攻める。
穴熊相手に困ったら、とにもかくにもここを突く。内臓を売ってでも突く。
この形は、先手が▲96歩と突いてるから、▲95同歩のあと、▲94桂の反撃があるわけだが、そんなことは言ってられない。
逆に穴熊はここに手をつけられるだけでも、2割くらいテンションが下がるくらいのものだ。
そこは渡辺は百も承知で、△97歩に▲同銀から、しっかりと対応する。
むかえた、この局面。
ここで▲51角と打てば渡辺が優位を持続できたようだが、▲96香と端をサッパリさせにいったのが疑問の構想だったらしい。
このあたりが薄くなると、後手から△86歩から△75桂という筋で、△43の角を玉頭戦に活用してくるねらいがあり、一気に厚みを増してくるからだ。
その通り、羽生は△75桂を見せ球にしながら玉頭をうまくさばいてしまい、いつしか逆転模様。
好機に△84桂と設置したのがうまく、△76桂や、△97歩の嫌がらせがうるさい。
攻守所を変えてしまった先手は、香を打ってねばるが、次からの手順が決め手になった。
△25歩、▲29飛、△44銀で後手優勢。
△25歩と、一転こちらに目を向けるのが、視野の広い発想。
▲25同桂は、△22飛や、△44銀から△24歩で桂を取りに来る手があるから▲29飛と引くが、やはり△44銀と、ずっと使えなかった銀が、ついに始動。
▲94歩に△32飛と、これまた遊んでいた飛車まで動き出して、いかにも振り飛車らしい軽やかな活用だ。
このあたりの駒さばきは、まったく見事なもので、これで先手が困っている。
さすが振り飛車のスペシャリストである藤井猛九段も脱帽する「羽生の振り飛車」。
基本は居飛車ベースのはずなのに、なんでこんな、うまく指せるんでしょうか。
最終盤、渡辺も最後の特攻をかけるが、次の手が決め手になった。
△61金と冷静に引いて、後手玉に寄りはない。
以下、▲72香成に△51金とこっちを取って、攻めは切れている。
このあたり、羽生の手は震えており、この一番の重みを感じさせられる。
最後はトン死筋の罠も見切って、大苦戦の将棋を腕力でものにした羽生が1勝1敗のタイに押し戻す。
「これは羽生さんの名局」
との声も多い逆転劇だが、実はその声はまだ早かったことが、この後の展開でわかることになるのである。
(続く)