行方尚史ブンブンヘッド その2

2013年07月26日 | 将棋・雑談

 前回(→こちら)の続き。

 現在、王位のタイトルに挑戦中の行方尚史八段は、『将棋世界』誌のインタビューに登場した。

 激戦の王位リーグを振り返り、対大石直嗣五段においての、いかにも行方らしく見えた、ねばり強い一手についてインタビュアーが質問する。

 やはり私と同じように、この金打ちに「行方流」を感じ取ったインタビュアーは、

 

 「これも成長の証では?」

 

 問うが(いや今読み直すと山岸さんは、答えがわかったうえで、あえて聞いてるくさいけど)、ナメちゃんは、



 「いえ、まったく逆です」



 キッパリ。以下、少々長いが引用すると、


 「以前の、あいてに抱きついてげんなりさせるような勝負術です。相手だけでなく、自分もげんなりするような(中略)若い頃はそれでも意表をついて勝てましたが、そんなものは当然、続かない。それが二十代後半の低迷の原因だと思ってます」


 そこで、彼は苦く笑うのだ。久しぶりに「秘技」を炸裂させてしまったと。

 ここを読んで、私は「そうなのかー」と深い息を吐いてしまったのだ。

 そうかあ、終盤の切れ味とともに、こういう相手の読んでない手で、しぶとく指すのは行方の本領である。

 なもんで、それにさらに磨きがかかったことこそが、今の好調の原因とこちらは勝手に思いこんでいたが、その実はまったくだった。

 こういう「行方らしい粘り」こそが、彼にとっては長年苦悩することなる「脱却すべき自分」だったのだ。

 私は自分の浅はかな読みのことは棚に上げて、ここで将棋というゲームの魅力を、よそで語るにおいて直面するジレンマのようなものを感じた。

 最近、ネットやテレビでも人気の加藤一二三九段は、



 「将棋の難しいところは、本当にその深さや魅力にふれるには、それ相当の棋力が必要となること」



 といったようなことを、おっしゃっていた。

 これはたしかに、コアな将棋ファンなら、うなずかざるをえないところはある。

 将棋を指すおもしろさは、アマ五段でも10級でもそのスリリングさと、エキサイティングさは変わらないだろうが、

 「高等技術を味わう」

 という、うえにおいては、それなりの棋力というものが求められる。

 ましてや「味がいい」とか「手厚い」「なんとなく詰みそう」なんていう感覚的なもの。

 これをとらえるには、強さだけでなく、

 「どれだけ将棋に淫しているか」

 という経験値も必要となってくる。

 また、手の難解さのことだけなら、こちらの研鑽でなんとかなる面もあるにはあるが、もうひとつ伝わらないのは、その「▲57銀」とか「△86歩」といった、なにげなく記された記号に込められた、棋士たちの想いだ。

 このインタビューではないが、かつてナメちゃんは別のところで、こんなことも語っていたことがあった。



 「伝わらないんですよ。ギリギリのところで戦って、そのとき指した手の善悪とかじゃなくて、自分はこの手にどれだけの想いをこめたか、どれだけ魂を入れこんで指したのか、そのことって棋譜からだけでは絶対に伝わらないんですよ」



 こういったニュアンスのことだ。

 それはなあ。いわれてしまうと、こちらも「そうだよなあ」とため息をつくことしかできない。

 いくら「この手は、次こうやって、こうやるのが狙いなんです」なんて、読み筋はわかっても、そこに込められた想い。

 本当の意味での、棋士たちの息吹は理解できていない。それがたとえ、「悪手」であってもだ。

 しょうがないといえばそうなのだが、それはあたかも、高貴な文学作品の字面だけを追っているようなもの。

 ただ、ページをめくっているだけ。なんともむなしい。

 それは指し手にとってはきっと、その何百倍もむなしいことにちがいない。

 見て動きや表情、競技によってはスコアなど、わかりやすいスポーツや格闘技とちがって、将棋は本当に難しい。

 だから、ナメちゃんの「こんなひどい将棋」と頭をかかえる手を「さすが行方」などと賞賛してしまう。

 「理想主義者」には、きっと耐えがたいことにちがいない。

 そこがなあ。やはり、将棋のジレンマだ。

 これは行方のみならず、ニコニコとマイペースに見える丸山忠久九段や、将棋に関してはいっそ冷徹なほどの合理主義者ととらえられている渡辺明三冠王ですら、竜王戦や王座戦の観戦記

 「ちょっと違うんですけど……」

 後に物申していたくらいだ。

 そのときは、両棋士の丁寧な解説と記者の誠意ある再取材によって、ある程度の誤解は解けていたが、きっと誤解が誤解のまま「事実」になってしまっているケースも多いのだろう。

 そういう意味では、棋士は「語る」機会も増やしていかないといえるかもしれない。

 それには、当たり前だが勝つしかない。そうやってアピールするしかない。できれば、「魅力ある将棋」で。

 そういった揺れが随所に感じられるのが、まあいかにも行方らしいなあ、と思わされたインタビューであった。

 同じ理想主義でも、谷川浩司のようにノブレス・オブリージュとでもいうのか、「選ばれし者の義務」から背筋を伸ばす者もいる。

 損得とか抜きに愚直にぶつかっていく「腹をくくった」郷田真隆とかあるが、理想と現実と自分の弱さをの間を苦悩するのが行方尚史という男。

 泥酔して中原中也を暗唱したとき、



 「君にピッタリじゃないか」



 と、からかわれたり、行方にはどこか「文学」のにおいがする。

 青森県出身ということで、太宰治寺山修司、そして行方尚史。

 ジャンルは全然ちがうけど、並べてみると意外なほど、しっくりくるような気がするではないか。

 そんなナメちゃんは、「なんてダサいんだ」という、これまでの自分の将棋を越えられるのか。

 昨日の第2局では、中盤で一手バッタリのようなポカが出てしまい、いいところなく完敗してしまった。

 絶好調でキレまくっている行方相手に(A級順位戦だって2連勝なんだぜ)、いかな経験値で勝るとはいえ、あっさり連勝してしまう羽生も相変わらずの安定感である。

 だが、それにしたってこのまま引き下がっては、あえてきびしい言い方をすれば「予想通り」の思い出挑戦になってしまうであろう。

 第3局以降の奮闘を期待したい。

 


 ■ナメちゃんの将棋観やエピソードについてはこちらこちらも参照してください。



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