将棋の世界には「クソねばり」という言葉がある。
形勢が不利になると、逆転をねらって「ねばる」というのは、当たり前の行為だが、中には
「もうムリっしょ」
「早く投げろよ」
という声が、多勢をしめるような局面にもかかわらず、それでも根性(もしくは投げきれなくて)で指し続ける場合があって、こういうのを少々下品な言葉だが「クソねばり」というのだ。
前回は佐藤康光九段の見せた、終盤の猛追を紹介したが(→こちら)、今回は同じねばりでも、泥臭さ100%なものを見ていただこう。
1988年のA級順位戦は、
「大山がピンチに立たされている」
ファンの注目を集める展開となっていた。
名人18期をはじめとする、タイトル80期を誇る昭和の巨人、大山康晴十五世名人は、
「A級から陥落したら引退する」
といわれていたが、この年の順位戦ではじめて、それが現実味を帯びることとなったのである。
7回戦を終えたところで、大山の成績は2勝5敗。
降級2名の1枠は、まだ1勝の有吉道夫九段でほぼ決まりだが、残りひとつは、2勝の大山(順位4位)と森雞二八段(同5位)、3勝の内藤國雄九段(同9位)で、争うことになってしまったのだ。
しかも8回戦は、大山と森が直接対決。
順位が上の大山は、勝てば残留が決まるが、負けたうえに内藤に勝たれると、最終戦に勝っても、森が勝てば陥落が決まる。
つまり、
「自力でなんとかする」
には最後のチャンスになるかもしれず、「引退か現役続行か」が、ほぼここで決まる。
今で言えば、羽生善治九段が現役引退をかけるような大勝負で、A級順位戦最終局が
「将棋界の一番長い日」
注目されるようになったのも、この
「大山康晴、引退か」
という、インパクトの大きさから来たものだったのだ。
棋士やファンのみならず、一般の興味も集めたこの一番。大山の振り飛車に、森は居飛車穴熊にもぐる。
いつもは積極果敢な森も、降級がかかった将棋では手が伸びないのか、序中盤、ちぐはぐな手が出てしまい、大山の動きも機敏で、早くも形勢不利におちいってしまう。
一方の大山は「負ければ、ほぼ引退」のプレッシャーを感じさせない、落ち着いた指しまわしを見せる。
これらの手が「最善手」かどうかはわからないが、いかにも「大山将棋」の雰囲気が感じられるので、少し紹介してみたい。
図は不利ながらも森が▲43角と反撃したところだが、次の手がいかにも「大山流」だ。
△13桂と逃げるのが、落ち着いた手。
この局面、すでに振り飛車がハッキリ有利で、△49飛と攻め合って充分だったようだが、ここで1手ゆるめる手が指せるのが大山の強さ。
手の善悪よりも、
「大一番で勝ち急がない手を指せる」
これが勝負将棋の極意であり、また、それを選べる精神力がすごいのだ。
手を殺された森は、今度は▲69金打とねばりにかかるが、大山はここでもあわてない。
ここでも、じっと竜を引いておく。
後手からすると、△69同飛成から金2枚が手に入るので、一気に決めたくなるところだが、その手はのらないと自陣竜で守る。
森からすれば飛車切りを誘って、あとは固さにまかせて「穴熊の暴力」の突貫をねらっていたのだろうが、それもかなわない。
これこそが、大山得意の「受けつぶし」であって、攻めても勝てそうだが、ここでもブレずに、自分のスタイルをつらぬき通す。
その後も徹底して、相手の手を消していく方針はゆるがず、しっかりと自陣に手を入れる。
▲37角と逃げたところで、先手に有効手が見当たらない局面とあっては、今度こそ決めごろかと思いきや、やはり行かないのが大山将棋だ。
またもや受けに回る。
▲75桂の両取りなどを防ぐ意図はわかるが、△77歩みたいな攻めも魅力的に見えるところを、かまいませんと自陣を補強。
この手については、『現代に生きる大山振り飛車』という本で、藤井猛九段も、
「味わい深い」
「次に△62金と上がり、端攻めをして△91竜と回る構想だが、盤上の駒をすべて無駄なく使う感覚はすごいと思う」
何度も言うが、「負ければ引退か」という将棋で、こういう手を指せるのがすごいのだ。
勝又清和七段をはじめとする中堅以上の棋士が、よく永瀬拓矢叡王・王座の「負けない将棋」のことを、
「まるで大山名人のようだ」
と表現することがあるが、若いファンにも、それが理解いただける一連の手順であろう。
どこまでも動じず、じりじりと差を広げていく大山に対し、森の方は敗勢になっても投げない。徹底して「クソねばり」を続けていく。
仮に敗れるにしても、なるたけ終局時間を遅らせ、競争相手の内藤を精神的に楽にさせないという、順位戦特有のかけ引きのためだ。
そうして将棋は、クライマックスを迎える。
追いつめられた森に、とうとう大山が、とどめを刺すときが来た。
この局面で、後手に決め手がある。
△43竜と角を取るのが、気持ちよい手。
最後に、詰めろで質駒を取るという寄せの理想形で、▲同桂成とするしかないが、△96角と打って詰みだ。
ここでそう進んで後手が勝ったなら、この将棋は単に大山の快勝譜ということで終わっていたことだろう。
ところが、そうはならなかった。
これは断言できると思うが、これが他の棋戦だったら。
それこそ仮に、それが決勝戦やタイトル戦の挑戦者決定戦でも、森は▲43同桂成と取り、△96角までで投了したことだろう。
その当たり前の手を、森は指さなかった。
ここで、信じられない手を披露するのだ。
▲99香と打ったのが、すさまじいがんばり。
そりゃ詰むんだから、しょうがないにしても、角をタダで取られる手をゆるすなんて、ありえないではないか。
これでもまだ、△54竜、▲95香、△94歩くらいになれば、相変わらず先手敗勢だが、やはりわざわざここで取り上げなかったろう。
おそろしいのはこの次で、大山は△98歩と打つ。
▲同香しかないが、続けて△97歩が激痛。
▲同香は△86銀と出て詰むから、▲同玉しかなく、これで銀取りが消えたところで、△99角。
頭金を受けて▲87銀しかないが、そこで△55角成と桂馬を取り払ってしまう。
この局面を見てほしい。
なんと先手は、クソねばりのあげく角をタダで取られ、代償にもらうはずだった銀を取れず、さらには竜を取れる桂まで抜かれてしまった。
まさにこれぞ「全駒」。森にまったく指す手がない。
これがA級の、将棋界のトップ10プレーヤー同士の戦いとは信じられないではないか。
これぞ大山流の血も涙もない勝ち方だが、森がそれを誘発してしまったともいえる。
再度言うが、これが降級のかかった一番でなければ、森は▲99香という手は指さなかったはずなのだ。
それが、この局面を生んでしまった。
良くも悪くも、「これが順位戦」といえるインパクトを残す手と、言わざるを得ないではないか。
(豊島将之の順位戦デビュー戦編に続く→こちら)
(森のクソねばりの「名局」は→こちら)
(現役引退をかけて戦う大山の姿は→こちら)