関川夏央『おじさんはなぜ時代小説が好きか』を読む。
私はあまり、時代小説を読まない。吉川英治『宮本武蔵』も山田風太郎の忍者ものも、池波正太郎も食べ物エッセイ以外読んでいない。
宮部みゆきさんのファンであるが、時代物は(あとファンタジーものも)読まないし、そもそも司馬遼太郎を読んでいないところからして、大阪人失格である。福田善之『真田風雲録』にも全然ピンとこなかったなあ。
そんな、時代小説不感症な私だが、人間食わず嫌いというのはよくないということで、たまにはなにか読んでみようかなと、まずはブックガイド代わりにこの本から入ってみた。
「おじさん」なんてあえてつけるタイトルからして、新書系によくある、趣味を媒介とした世代論みたいなもんかなあと、なにげなく読みはじめたのだが、これがなかなかどうして、中身の濃い本で思わず膝を正してしまった。
関川さんの歴史小説論は、『「坂の上の雲」と日本人』もよかったが、作者や本の内容の紹介だけでなく、物語の書かれた時代背景や、作者の経歴とをからめて、
「なぜ、この物語が書かれなくてはならなかったのか」
といったポイントを丁寧に解説してくれるところが素晴らしい。
この本も執筆当時の文化や風俗、同時代の作家との比較など、日本史や日本文学史、また日本人論などに興味がある方でも楽しめるのではないか。
いつものような布団に寝転がってではなく、じっくりとノートを取りながら熟読したくなるような一冊であった。
中でも、「時代小説は、近代小説では恥ずかしくて書けないようなことを書けるところがいいのだ」という話は示唆に富んでいる。
これは、時代小説のみならず、「今でないどこか」を舞台にする物語の可能性すべてについての当てはまる言葉かもしれない。
古くは日活ロマンポルノが
「濡れ場さえ出しておけば、あとは好きに作ればいい」
という土台から、多くの才能を輩出し、近年ではライトノベルが、
「美少女さえ出しておけば、あとは好きに書いていい」
というところから、一度は沈みかけたSFというジャンルを復活させたように、時代小説も、
「今では書けない物語を、これはファンタジーの世界ですよと一回エクスキューズして、その上であえて熱く書く」
という手法でもって名作を世に出してきた。
なるほどなあ。そういわれると、なんだか読みたくなるではないか、時代小説。
そんな感銘を受けたり、「なるほど」と勉強になることの多かった本書だが、中でももっとも印象に残った文に、こういうのがあったので、ここに引用してみたい(改行引用者)。
「ともかくそういうことばかり書いてある日記に、饗庭篁村が注釈をつけて『馬琴日記鈔』を書き、それを元にして芥川が『戯作三昧』を書いた。
それから六十年ほどして山田風太郎が『八犬伝』を書いた。滝沢馬琴と江戸文化そのものを主人公に、文学は受けつがれる、というか発展していくわけです。
以前に誰かが成し遂げた仕事を無駄にはしない。先人の遺業を尊重し、参考にしつつ、さらに遠くまで行こうとするとき、作家はオリジナリティを発揮するのです。
そしてそのたびにその作品世界は広く、かつ深くなるのです。」
この箇所を読んだとき、なにやら胸を打つものがあった。
これは小説だけではない、我々のふだんの生き方にも応用できることだ。
よく、「なんで生きなきゃいけないの?」「人生に意味とかあんの?」なんて悩んだり、また悩んだふりをして斜にかまえる若者がいたりするが、その答えは実に簡単。
「成し遂げた仕事を無駄にはしない。先人の遺業を尊重し、参考にしつつ、さらに遠くまで行こうと」すればよい。
小説でも映画でも、スポーツでもお笑いでも日々の仕事や勉強でも、なんでもいい。感動した、胸を打たれたものを自分なりの何かに昇華して、「返歌」「恩返し」をする。
ただそれだけのことで、決して難しいことでもなんでもないのだ。
私はあまり、時代小説を読まない。吉川英治『宮本武蔵』も山田風太郎の忍者ものも、池波正太郎も食べ物エッセイ以外読んでいない。
宮部みゆきさんのファンであるが、時代物は(あとファンタジーものも)読まないし、そもそも司馬遼太郎を読んでいないところからして、大阪人失格である。福田善之『真田風雲録』にも全然ピンとこなかったなあ。
そんな、時代小説不感症な私だが、人間食わず嫌いというのはよくないということで、たまにはなにか読んでみようかなと、まずはブックガイド代わりにこの本から入ってみた。
「おじさん」なんてあえてつけるタイトルからして、新書系によくある、趣味を媒介とした世代論みたいなもんかなあと、なにげなく読みはじめたのだが、これがなかなかどうして、中身の濃い本で思わず膝を正してしまった。
関川さんの歴史小説論は、『「坂の上の雲」と日本人』もよかったが、作者や本の内容の紹介だけでなく、物語の書かれた時代背景や、作者の経歴とをからめて、
「なぜ、この物語が書かれなくてはならなかったのか」
といったポイントを丁寧に解説してくれるところが素晴らしい。
この本も執筆当時の文化や風俗、同時代の作家との比較など、日本史や日本文学史、また日本人論などに興味がある方でも楽しめるのではないか。
いつものような布団に寝転がってではなく、じっくりとノートを取りながら熟読したくなるような一冊であった。
中でも、「時代小説は、近代小説では恥ずかしくて書けないようなことを書けるところがいいのだ」という話は示唆に富んでいる。
これは、時代小説のみならず、「今でないどこか」を舞台にする物語の可能性すべてについての当てはまる言葉かもしれない。
古くは日活ロマンポルノが
「濡れ場さえ出しておけば、あとは好きに作ればいい」
という土台から、多くの才能を輩出し、近年ではライトノベルが、
「美少女さえ出しておけば、あとは好きに書いていい」
というところから、一度は沈みかけたSFというジャンルを復活させたように、時代小説も、
「今では書けない物語を、これはファンタジーの世界ですよと一回エクスキューズして、その上であえて熱く書く」
という手法でもって名作を世に出してきた。
なるほどなあ。そういわれると、なんだか読みたくなるではないか、時代小説。
そんな感銘を受けたり、「なるほど」と勉強になることの多かった本書だが、中でももっとも印象に残った文に、こういうのがあったので、ここに引用してみたい(改行引用者)。
「ともかくそういうことばかり書いてある日記に、饗庭篁村が注釈をつけて『馬琴日記鈔』を書き、それを元にして芥川が『戯作三昧』を書いた。
それから六十年ほどして山田風太郎が『八犬伝』を書いた。滝沢馬琴と江戸文化そのものを主人公に、文学は受けつがれる、というか発展していくわけです。
以前に誰かが成し遂げた仕事を無駄にはしない。先人の遺業を尊重し、参考にしつつ、さらに遠くまで行こうとするとき、作家はオリジナリティを発揮するのです。
そしてそのたびにその作品世界は広く、かつ深くなるのです。」
この箇所を読んだとき、なにやら胸を打つものがあった。
これは小説だけではない、我々のふだんの生き方にも応用できることだ。
よく、「なんで生きなきゃいけないの?」「人生に意味とかあんの?」なんて悩んだり、また悩んだふりをして斜にかまえる若者がいたりするが、その答えは実に簡単。
「成し遂げた仕事を無駄にはしない。先人の遺業を尊重し、参考にしつつ、さらに遠くまで行こうと」すればよい。
小説でも映画でも、スポーツでもお笑いでも日々の仕事や勉強でも、なんでもいい。感動した、胸を打たれたものを自分なりの何かに昇華して、「返歌」「恩返し」をする。
ただそれだけのことで、決して難しいことでもなんでもないのだ。