菊池のぶひろの議会だより

日本共産党 桜川市議会議員 菊池のぶひろの活動報告です

宮子あずさ「書き手の責任」を読む

2018年09月24日 20時33分07秒 | 日々の雑感

 22日に街頭演説24箇所もしたのが災いしたのか、昨日も1日中腰が痛いのでごろごろしていました。一日休んだのだから、もういいだろうと思ったのですが、今日もだらだら過ごしてしまいました。4年前は、腰を痛めて、あちこちの整骨院をはしごし、針うちもしました。しかし、完全には良くなりませんでした。
 しかし、痛いうちは無理はしないと決めているので、何もしないでいる罪悪感はあるのですが、休むことにしました。

 今日は、奥さんがパスポートをもって旅行にでてから6日目。食事は、お昼は長谷川食堂、朝夕はセブンイレブンのオデンで過ごしています。オデンはおいしいのですが、買いに行く時間を考えなければならないので気を使います。今日は、奥さんの友人が、おいなりさん、野菜の煮物、鮭のチーズ焼き、さらにけんちん汁と豪華な差し入れがありましたので、豪華な夕食となりました。

 今日の東京新聞本音のコラム欄には、看護師の宮子あずさ氏が「書き手の責任」と題して、新潮45のLGBTについて書いているので、紹介したい。

 私は新潮45の本文は読んでいないが、自民党の女性議員の議事の内容は知っている。宮古氏によると新潮45の10月記号は、それを擁護する特集記事を書いたようだが、話題にしたくないほどひどいものだという。
 「LGBTの権利を認めるなら、痴漢の権利も認めろ」との文章もあったとのこと。さすがに、これではひどすぎる。

 宮古氏は、書き手の責任について、次のように書いている。

 とは言え、主たる責任は書き手にある。差別的な言論が批判されるとと、多くの書き手が「全文をきちんと読めば意図がわかる」と言う。差別と騒ぐのは言葉尻だと言いたいのだろうが、たいていは、全文を読んでも差別的である。

 しかしそれ以前に、私は読者に対して、読み方まで指示する気はない。どこから読むか、どこまで読むかは、読者が決める。書かれたものをどのように読むかかは、読者の自由に委ねられている。

 書き手はたとえ不本意な読まれ方であっても、そのように読まれた事実を受け止めるほかない。
 私自身も、いただく批判の中には、すべて頷けるものばかりではない。しかし、どう反論しようと、そう読まれた事実は事実。その結果生じた感情は否定できない。

 人の感じ方は様々。予測できないこともある。批判を受け止めた上で、自分の見解を持つ。それが書き手の責任であろう。


 注)私もブログを書くようになって5年近くになる。何回か書きすぎもあって、謝罪にいったこともある。できるだけ、気をつけて書いているつもりです。それでも「曲解」する人は、いるものです。宮古氏が言うように、「書き手の責任」を心に止めて書いていきたい。




 

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