ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

下関市豊田町の浮石は浮石義民で知られる地 

2022年08月16日 | 山口県下関市

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         浮石(うきいし)は油谷湾に注ぐ粟野川上流と支流である岩滑川と宇内川流域の山間に位置
        する。
         地名の由来について地下(じげ)上申は、往古、山肌崩壊の時に大きな4尺四方の大石が浮
        き流れて、八幡宮の津の道の中ほどで止まったという。その石は今も当時止まった所にあ
        るという。
         また、浮石八幡宮の伝では,窪田の竜王社傍の地水が清冷で、水中に石が常に浮いてい
        たように見えることから地名になったともいう。(歩行約5.4㎞)

        
         亀尾山神社は鎌倉期の1302(正安4)年に豊田種貞により創建され、明治末までは浮石
        八幡宮と称した。1908(明治41)年浮浪者により全焼したが、翌年に再建された。
         ここでは、1710(宝永7)年2月の真夜中、凶作にともなう過酷な年貢の取り立てに苦
        しむ浮石村の庄屋らが、床下に集まり密儀して直訴を決意し、直訴状もここで書いたとい
        う。

        
         1710(宝永7)年7月10日に庄屋以下5人が幕府の巡見使に杢路子(むくろうじ)川の豊
        田渡瀬で直訴しようとして失敗したが、翌日、内日(うつい)の亀ヶ原で決行して成功する。
        訴えは叶えられたが、当時の直訴は重罪であり、5人は同年12月22日に長府で処刑さ
        れた。1938(昭和13)年に「浮石義民碑」が境内に建立される。

        
         浮石義民の中心人物である庄屋・藤井角右衛門の旧宅跡が、亀尾山神社の東側にある。
        先祖は大内氏の家臣で、天文年間(1532-1555)に浮石村に帰農し、長男が家を継ぎ、苗字
        を許されていた。3男は出家して、下浮石に光安寺を開基する。旧宅は解体されて公園化
        されているが、蔵と井戸が残されている。 

        
         片隅に「義民 藤井角右エ門旧宅」の碑がある。

        
         参道から浮石中心部の家並み。

        
         中心部を西市方向へ進む。

        
         妙伝寺(法華宗)は、1673(延宝元)年に清末藩主毛利元知の発願で、領内の阿内(おうち)
        村(現下関市清末阿内)に福応寺として創建された。藩の祈願所として繁栄したが、明治の
        廃藩で寺門維持が困難となった。この状況を知った浮石の信徒が、移転の議を興し、18
        95(明治28)年に浮石の岡田に移転し、1922(大正11)年に再移転して現在に至ってい
        るという。
         お盆とあって白い提灯には、檀家ごとに「先祖代々之精霊」の札が取り付けてある。

        
         寺から引き返して旧道を滝部方向へ向かう。

        
         豊田西中学校は、1958(昭和33)年豊田中中学校と殿居中学校の統合により当地に開
        校したが、2012(平成24)年豊田東中学校との統合により廃校となり、校舎や体育館、
        グラウンドは当時のまま残されている。

        
         光安寺(真宗)は、天正年中(1573-1592)大内氏の家臣であった藤井信親の3男政治郎が、
        出家して寺基を開いた。 後世、血脈が絶えて一時荒廃したが、15世が美祢郡宝泉寺より
        入寺し、浄土真宗として再興する。
         1708(宝永5)年浮石村は、旱魃で収穫は半作だったが、年貢の取り立ては厳しく、死
        活の瀬戸際にあった村民が、藤井角右衛門の檀家寺である当寺で、何回か打開策の話し合
        いを開いている。

        
         豊田西中学校付近は、昔、浮石村の氏神を宇佐八幡宮より勧請した際に、社殿ができる
        までの間、しばらく仮殿を建てて安置していたので神原というようになったという。その
        ことを表わす碑が下組集会所前にあるが、どの碑なのかは判別し難い。

        
         舜青寺(しゅんせいじ・浄土宗)の開基は寛永年中(1624-1644)とされ、当時は極楽寺と称し
        ていたが、椙杜中務(長府藩家老で浮石は給領地)が祖父である瞬青寺殿の位牌を置いた時
        から瞬青寺と称したという。後年に椙杜氏が給領地を離れた時から、瞬の字の日偏をとり
        現寺号になった。

        
         境内には「浮石義民の墓」がある。
           庄 屋 藤井角右衛門
           副庄屋 奥原九左衛門
           畔 頭 東与市右衛門
           畔 頭 蕨野太郎左衛門
           畔 頭 柳元寺豊吉
         村民は身を犠牲にして村を救った義民に対し、密かに遺骸をこの地に鎮る。畔頭(くろが
          しら)
とは、長州藩の庄屋の補佐役。

        
               浮石の市庭(市場)は、昔、市が開かれていたため市恵比須の小祠が木津川(粟野川)の橋
        の袂にある。この市は藩政時代の初めに開かれたものと思われるが、豊田盆地に東市・西
        市・今市が盛んになると止めになったと思われる。

        
         国道435号線の市庭バス停近くの三叉路から、奈留へ通じる旧町道を100mほど入
        ると、左手に六地蔵と庚申塚が並んで立っている。
         六地蔵は、直方体の石に表と裏に3地蔵が刻んである。庚申塚は道標の役目も果たして
        おり、「庚申」の刻字があり、その下の右側に「此方たうら山(俵山)」、左に「おたけみ
        ち」とある。

        
         亀尾山神社から岩滑の浴に入って道なりに進むと、自然休養村「小谷管理センター」が
        あり、ここを右折すると善龍寺(真宗)がある。寺記によると創立は室町期の1504(永正
          元)
年で、以来数度か移転したと伝える。

        
         豊田町は豊田平野があるものの、周辺部はこのような浴の中に集落が形成されて農地が
        展開する。ここ岩滑集落も奥が深く、岩滑川に沿って圃場整備された農地が続く。 

        
         小谷管理センターの三叉路から左手の道を進むと、岩滑川が合わす地点に庚申塚がある。
        (駐車可)知足の六地蔵へは、庚申塚前の橋を渡り、すぐに右折して農道を進むと正面に見
        えてくる。

        
         知足の六地蔵(石幢)は、昔、農耕馬を洗い、ネムの木の根っこに馬を繋いで家に帰った。
        猿猴(河童)がこの馬を散々いじめたので、馬が暴れて川から上がり猿猴も畦まで引き上げ
        られた。
         そこへ馬主が来ると「水を離れては生きられない。二度と困らせるようなことはしない」     
        と詫びて死んだという。近くの人が死骸を埋めて、「石地蔵」を祀ったという。戦前まで
        は災害の守り神、子供の寝小便封じとして崇められたようで、六地蔵は積石塔の上から3
        番目に彫られている。 


下関市豊田町の八道は旧肥中街道と旧長府街道が交わる地

2022年08月16日 | 山口県下関市

         
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         1889(明治22)年町村制施行により、八道(やじ)、浮石など6ヶ村をもって豊田中村
        が発足し、八道に村役場を設置する。昭和の合併で豊田町となり、現在は下関市豊田町の
        大字である。
         八道は日本海に注ぐ粟野川と瀬戸内海に注ぐ木屋川の分水嶺をなし、粟野川の最上流域
        に立地する。地名の由来について地下(じげ)上申は、地内に四辻が2ヶ所あり、いずれも往
        還道で、両所の四辻で八つの道になることから起こったという。(中八道の歩行約2.3㎞)

        
         域内へはバス便があるが、JR小月駅からのバス便との接続が悪く車に頼らざるを得な
        い地域である。
         杢路子へ向かう途中にある農業公園「みのりの丘」は、宿泊施設、特産品販売、体験施
        設、昼食が可能な茶屋などがある。

        
         円正寺(日蓮宗)は、1893(明治26)年同地の信者や地区外の協力者があって、現在地
        に創建された。

        
         地蔵は総高71㎝の舟形地蔵で、1780(安永9)年4月とある。浮石原の路辺にあり、
        ここが八道村と杢路子(むくろうじ)村の境とされる。

        
         浮石原は旧豊北町肥中浦と山口を結ぶ肥中街道、俵山と長府・赤間関を結ぶ長府街道が、
        みのりの丘の茶屋の所で十文字に交差していたので、「十文字原(じゅうもじばら)」とも呼ば
        れていた。(見える道は肥中街道)

        
         みのりの丘から国道491号交差点を直進し、呉ヶ畑川手前の四叉路を右折する。橋を
        渡って道なりに進むと藤輪伊佐衛門碑があるが、獣用防護柵があって開閉するのに苦労す
        る。
         説明によると、藩政期の八道は長府藩家老・細川織部の給領地であったが、領主が農民
        を人夫にかり出し、酷使するため畦頭(くろがしら)だった伊佐衛門が使役の軽減を藩に直訴
        した。願いは聞き入れられたが直訴はご法度のため投獄された。処遇が決まらないうち、
        1847(弘化4)年牢破りをして福岡県星野村へ逃亡し、1878(明治11)年病没する。遺
        髪は呉ヶ畑の願成寺原に埋められ、顕彰碑が建立された。

        
         飛松バス停近くの国道435号線と、下八道に向かう旧町道(かっての肥中街道)分岐点
        に道標がある。

        
         道標には正面に「右たきべみち凡(およそ)四里」、左側面に「左くるそん山へ凡三里」と
        あり、右側の上部には「大正8年(1919)7月」と刻まれている。

        
         中八道集落の覚証寺(真宗)は、1567(永禄10)年頃に常阿弥が当村の民家に寄宿し、
        7日後に名号を残して立ち去った。その後、1593(文禄2)年常現という僧が来て、かの
        名号を拝み歓喜して住みついたのが創始とされる。(中八道集落センターに駐車)

        
         境内には15代住職篁(たかむら)研道氏の「研道師之碑」があるが、師は1862(文久2)
        年寺子屋を開いて子弟の教化に努めた。向かい側には氏が建立した芭蕉の句碑がある。
               「ものいえば くちびる寒し 秋の風」

        
         八鷹八幡宮は、1907(明治40)年11月に八道と鷹子の両八幡宮が合併し、現社号に
        改称して旧八道八幡宮の地に鎮座する。
         旧八道八幡宮は、鎌倉期の1202(建仁2)年宇佐八幡宮より勧請、鷹子八幡宮は南北朝
        期の1348年に創建された。

        
         参道に石段がないので車だと拝殿前まで行くことができる。鳥居は明和4(1767)丁亥正
        月と刻まれている。

        
         荒廃農地の解消等に向けた振興交付金で維持されているのか、見事まで管理された農地
        が広がる。

        
         江戸期に長府藩の年貢米を運ぶ道を御米道(ごまいみち)といっていたそうだ。浮石の奈留
        から市庭・下組・中組を通って、金道の田尻から御駕籠建場のある四辻に出て、この道か
        ら鷹子・庭田・阿座上を経由して赤間関街道北道筋につながっていた。今は使われていな
        い場所や位置が移動したり、消滅したところもあるようだ。

        
         旧肥中街道の家並み。

        
         豊田中公民館がある辺りを四辻という。昔は肥中街道と北は浮石方面、南は庭田・赤間
        関方面へ通じる道が交わっていた。

        
         公民館のある地は、削り取られて平地となっているが、江戸期には「御駕籠建場」があ
        り、藩主や巡見使等が駕籠から降りて休息する場所であった。

        
         上八道に移動すると、道路脇に明教寺(真宗)があるが、開基は武門より出家した僧と思
        われるが俗性等はわからないという。

        
         八道窯の案内があったので行ってみるが見当たらず。最奥民家でお尋ねすると既に解体
        されたとのこと。ここでは水瓶や鉢、壺などが焼かれていたそうだが、陶土を掘りつくし
        石州瓦の販売店へと変わっていったという。肥中街道でお会いしたのは鹿の親子だった。

        
         この参道の上に赤崎神社(牛馬防疫の神)だが、上がれる状況にないので残念する。


下関市豊田町の稲見・金道は山間の川筋に集落 

2022年08月16日 | 山口県下関市

                       
                       この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         1889(明治22)年町村制の施行により、稲見、宇内、金道、八道、浮石、鷹子の6ヶ
        村をもって豊田中村が発足するが、昭和の大合併で豊田町となり、現在は下関市豊田町の
        大字である。
         稲見(いなみ)は木屋川の支流である稲見川上流域、周囲は山に囲まれた狭長な段丘状の平
        野に立地する。地名の由来について地下(じげ)上申は不詳とするが、和名抄に稲妻(いなめ)
        郷とあるので、その遺名ともいう。

        
                 江戸期に稲見で牛疫が流行して多くの牛が死んだので、豊前坊(牛馬の神)から分霊を迎
        え、山の丘を開いて社殿を造営して祀ったと伝える。

        
         大寧寺で自刃した大内義隆の主従は、その場で殉死した者もいたが、多くは稲見・一ノ
        俣・地吉等を越えている。
         中将姫の墓というのは、この地の谷間で自決した義隆の15歳の息女と乳母・操、腰元・
        小倉の墓と伝わる。場所は稲見下の旧町道に案内があり、民地横の山裾に存在する。

        
         三界萬霊塔の奥に田園が広がる。

        
         1914(大正3)年稲見野中にあった厳島神社と、稲見柴尾にあった須賀神社が合祀され
        たが、両神社の創建年代は不詳とのこと。

        
         河内神社敷地内には小祠、土地改良整備記念碑、林道改修記念碑も見られる。

        
         宇内、俵山、豊田湖への分岐点に地蔵尊。

        
         民家が点在する上稲見だが、鍋提峠を越えれば俵山温泉に至る。

        
         宇内は日本海に注ぐ粟野川の支流である宇内川上流域、東西と北を山に囲まれ、北東か
        ら長く南西に延びた平野に立地する。地名の由来について地下上申は、往古、宇奈井(宇内)
        という人が、この地に住んでいたから起こったという。また、畝の間に家があるので「畝
        内(うねあい)の村」が転訛したという説もある。
         一方、金道(きんどう)は粟野川の最上流に位置し、東西と北を山に囲まれた細長い平野に
        立地する。地名の由来について地下上申は、往古、この谷に金啓庵という庵があり、この
        庵を建立するとき地開きしたところ、細い金の塔を掘り出した。建立後に金塔庵と改め、
        「金塔」という地名も生まれたが、それがいつの頃からか「塔」を「道」に書き違えたこ
        とによるという。

        
         稲見から宇内越えの途中、宇内境に城山がある。鎌倉期に居を構えた豊田氏の支族・宇
        奈井氏が城主であったが、室町期の永禄年中(1558-1570)頃、長府串崎城主内藤隆春が城と
        して、内藤氏の支族を城主したという。この城は東側に遺構がみられることから、街道の
        監視のための城と考えられるとのこと。(峠を越えれば宇内の北東端)

        
         細長い地形の中心は田園と宇内川が流れ、民家は山裾に点在する。

        
         宇内薬師堂の本尊は薬師如来坐像で、13年毎に開帳される秘仏とされる。

        
        
         槙尾(まきおの)神社は、1907(明治40)年に宇内八幡宮と金道八幡宮(金道槙尾)を合併
        して、槙尾神社と改称して金道八幡宮の地に鎮座した。のちに宇内にあった若宮八幡宮と
        金道の秋葉社を合祀している。

        
         金道集落の道は稲見に通じている。(散策時は工事中のため通行不可)

        
         真光寺(しんこうじ・真宗)は室町期の1522(大永2)年、本願寺9世実如上人の裏書があ
        る阿弥陀仏絵像をうけて、寺を開いたのが創始とされる。


下関市豊田町の殿居にはきらりと光る郵便局舎がある地 

2022年08月14日 | 山口県下関市

        
               この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
        
 殿居(とのい)は古くには殿井とも書いた。油谷湾に注ぐ粟野川上流域と同川の支流である
        開作川流域に立地する。
         地名の由来は地下(じげ)上申によると、往古、大内家臣の杉民部小輔元重の居城があり、
        殿が居たことから起こったという。(歩行約3.5㎞、🚻なし)

        
         公共交通機関で殿居バス停で下車できると思っていたが、JR小月駅から西市までは問
        題ないが、滝部行きの接続が悪く日帰りが難しいので車を使用することになる。(旧滝部小
        に駐車)

        
        
         見竜寺(真宗)は大内義隆の家来であった山本隼人信重が、本願寺へ帰依し剃髪して法名
        を教流と改め、室町期の1572(元亀3)年真言宗であった見竜寺の跡地(現在の厳島神社
        付近)に草庵を構えたのが創始とされる。以後数度移転して1913(大正2)年現在地に移
        転する。

        
         毛利元鎮(もとしげ)の墓は、見竜寺から左へ進むと道標があり、足場の悪い坂道を上がる
        と右手に階段が見えてくる。この階段を上がらずに直進すると、下った先の階段道を辿れ
        ば墓地がある。

        
         元鎮は久留米城主の毛利(小早川)秀包(元就の九男)の嫡男で、母は大友宗麟の娘引地君
        である。1589(天正17)年久留米で生まれ、キリスト教の洗礼を受けたが、関ヶ原の戦
        いで改易となり、元鎮が毛利輝元より滝部3千石を賜る。1625(寛永2)年輝元の死後、
        家督を元包に譲って隠居し、久留米から随従した家臣柏村重内を相手に、風月を友として
        余生を殿居で過ごし、1670(寛文10)年逝去する。

        
         寺前に耕作放棄地が広がる。

        
         国道南側の筋に空家が並ぶ。

        
         粟野川に架かる歩行用の橋は役目を終えたようだ。

        
         殿居郵便局は、1923(大正12)年10月10日に落成する。かねてより洋風建築に意
        のあった2代目局長河田寛氏は、洋風局舎の新築を決意し、地元の大工棟梁を東京に同行
        させて見学を行い、帰村後、意匠を決定して同棟梁に建築を依頼した。

        
         アーチ式形飾りがおしゃれである。

        
         本日は郵便局が営業時間外のため内部が見学できなかった。(2020年見学)

        
         1879(明治12)年に郵便局として開設されたが、その後、廃止と再興を繰り返すが、
        1902(明治35)年殿居郵便局となる。(土間より事務室)

        
         建物は木造平屋建てであるが8角塔屋部分は2階建て、内部は白漆喰塗りの壁である。
        外部の東北は半切妻屋根で、塔屋の屋根は銅板葺きルネッサンス様式である。(畳の間は吏
        員宿直室)

        
         明治初期に全国的に流行した擬洋風建築は、すでに廃れた頃に、ひなびた田舎に都会を
        真似て完成させた「時代遅れ」の建物だけに価値がある。(塔屋の2階部分)

        
         1914(大正3)年に完成した東京駅は8角ホールをもっていた。その東京駅も関東大震
        災(1923年)後はトンガリ帽子形となったが、建築当初の模造遺構がこの山村に残され
        ている。

        
         河田酒造は明治期から創業されていたが、太平洋戦争の統制令で廃止された。蔦を被る
        煙突がシンボルとして残る。

        
         その隣にあるK宅。

        
         厳島神社参道入口に林正路翁を偲ぶ碑がある。1913(大正2)年村内の三社(厳島、日
        幡、三島)の社掌となり、粟野八幡宮、及び県社八幡磨能峯宮社司などを勤めた。
         また、自宅に三省学舎なる塾を設け、郷土の青少年の教育に尽力する。1964(昭和3
          9)
年地元有志により顕彰碑が建立される。

        
         厳島神社参道。

        
         西教寺(真宗)は、往古、天台宗の西教寺と称した古跡に、見竜寺の2代目が隠居後、我
        が子の一人を伴い、安土桃山期の1585(天正13)年に浄土真宗の寺院として再興したと
        古記に誌されているという。

        
         厳島神社は、平安期の978(天元元)年宮島の厳島神社より勧請して創建される。室町期
        の作とされる神像4体と仏像4体が安置されていたが、現在は他に保管されているようだ。
        旧豊田町では最古の神社である。

        
         明治の初頭、荒木村に育英小学校として開校。1882(明治15)年現在地へ移転し、の
        ちに殿居小学校となる。2016(平成28)年豊田中小学校へ統合され、児童たちはスクー
        ルバス通学となる。

        
         殿居村役場があった地に石組みが残されている。1889(明治22)年町村制施行により、
        一ノ俣、荒木、佐野、殿居、杢路子村の5村が合併して豊田上村が発足。1912(明治45
           )
年殿居村に改称する。(小学校プールの東側)

        
         殿居公民館に庁舎改築記念の写真が残されているが、いつ頃に撮影したものかは記され
        ていない。

        
         殿居夢・夢ハウスとされ、室内から演奏が聞こえてくる。 


下関市豊田町の杢路子は古刹・修禅寺がある地 

2022年08月13日 | 山口県下関市

        
                     この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         杢路子(むくろうじ)は狗留孫山の麓で、三方を山に囲まれた細長い山間に立地する。中央
        を杢路子川の清流が流れる景勝地でもある。
         地名の由来は平安期の歌人和泉式部が、諸国を流浪して当地に来た時、その子、子式部        
        を捨て置き、その印としてムクロジの木枝を刺し置いたところ、やがて根を生じたのか枝
        葉を出し、花をつけたということから起ったという。 

        
         山口県西部は他地域よりも多くのシカが生息しているといわれている。このように人目
        につく機会も増え、農業被害も深刻のようだ。

        
         古刹修禅寺(しゅぜんじ)は標高616.3mの狗留孫山8合目にある。古来より山岳信仰、
        修験道の霊峰であり、奈良期の741年行基菩薩が修行したといわれる。

        
         駐車地から約750mだが、大半が階段のため長く感じる。

        
         途中に鹿威し(ししおどし)が設置してあるので、手と顔を洗わせてもらう。田畑を荒らす
        鳥獣を音で脅す仕掛けだそうで、流れる水を竹筒に導き、水が溜まるとその重みで筒が傾
        いて水が流れ出し、軽くなって跳ね返ると石を打って音が出るようになっている。
         支持台が石であれば威嚇の音になると思われるが、ここは石でなく竹を打っているので
        柔らかな音を発している。 

        
         山岳信仰、修験道の聖地に入るための無明橋。狗留孫山は明治の初めまで女人禁制で、
        女性はこの橋までしか参詣できなかった。

        
         平安期の807(大同2)年弘法大師が帰朝の翌年当山に登り、本尊である十一面観音を安
        置し
て寺基が確立したと伝える。参道は遊び場もなく上り一辺倒で、つづら折れの角には
        毘沙門堂、紫燈(さいとう)護摩道場、84番札所、地蔵堂がある。

        
         寺は一時廃退したが、鎌倉期の1191(建久2)
年栄西禅師が堂宇を建立して狗留孫山国
        護院観世音寺と命名。寺ではこの栄西を第一世としている。
         石段に変わると右手に宝篋印塔が見えてくるが、1849(嘉永2)年麓の村々の人々が、
        先祖供養と御祈願のため献納造立したものである。

        
         建武の新政の頃、当寺の住職が献上した霊水によって後醍醐天皇の病が平癒し、南北朝
        期の1337年天皇は勅願門を建立。この山門とともに本堂も再建されたという。門内に
        は金剛力士像、山門の右には経蔵(きょうぞう)がある。 

        
         御嶽(おだけ)観音として広く知られ、狗留孫山霊場八十八ヶ所総本寺。狗留孫とは梵語の
        音訳で「実に妙なる成就」の意だそうだ。
         1588(天正16)年毛利輝元より200貫の地を与えられ、寺塔を修補。さらに仁王門、
        本堂を大改修して本堂の裏に通夜堂を設け、堂内には重兵衛茶屋があって、参拝者の宿泊、
        食事の世話をした。(現在、茶屋は公園線入口にある)

        
         鎌倉期の1317(文保元)年長府(現下関市)にあった天台宗の修禅寺を再興して真言宗の
        寺とした。これは遠く狗留孫まで足を運ばなくても参拝できるようにしたが、1749(寛
            延2)
年焼失する。2年後に再建されて毛利家の祈願所として栄えた。
         1870(明治3)年、寺領などの経済的な裏付がなくなった長府祈願所は廃絶され、本山
        に合併して名称を「修禅寺」とした。 

        
         流れる汗が止まるまで本堂の片隅で一時を過ごすが、奥の院までは片道約1㎞もあり、
        残念して1本杉に立ち寄って駐車場に戻る。

               
         山門を下って本堂、通夜堂の下を通り抜けて、約30mの地点に修禅寺1本杉がある。
        この一帯は300~400年を越える老杉が林立し、県立自然公園に指定されている。

        
         狗留孫山公園線と国道491号分岐に重兵衛茶屋があるが、この辺りは毛利元就が防長
        平定時の古戦場とされる。のち、この地を開作したら多くの刀や馬具、人骨などが「カッ
        チン、カッチン」と音を立てて出てきたので、「カッチン原(勝原)」というようになった
        という。
         旧道分岐の大師堂脇に、大きな狗留孫山の案内石灯籠があるが、下関市入江町の田中久
        米吉(女優であった田中絹代の父)が、1905(明治38)年12月に建立したものである。

        
         上杢路子集落。

        
         杢路子川に沿う道は旧長府街道で、街道に突き出た重石(竜石)と呼ばれる巨岩があり、
        長府藩主や幕府の巡見使が通行する際、庄屋が警戒のため村人を立たせたという。
         ここには一里塚があり、萩唐樋札場より13里16町(約52.8㎞)、赤間関より8里
        (約31.5㎞)であった。

        
         重石より40mほど川下に、長くて角い自然石が立てられている。昔、馬主が馬の疲れ
        を取るため川に入れて一休みしていると、猿猴(えんこう、河童のこと)が現れて手綱を自分の
        体に巻き付けて川に引き込もうとしたが、馬にはかなわず、河原に引き上げられた。馬主
        は驚き猿猴を叩き殺そうとしたが助けてやると、猿猴はその恩に「手綱を縛った岩を塚と
        して祀ってもらえば、今後、咽喉の病に苦しむ人を助けます。」と言って立ち去った。馬
        主はその大石を路傍に立てて祀り、いつの時代か咽喉の病になった人たちが、猿猴塚にお
        参りするようになったとか。

               

        
 
         1875(明治8)年杢路子村奥野に開智小学が創設され、その後幾度か名称変更して、1
        935(昭和10)年殿居小学校維新分校としてこの地(小原)に移転するが、1970(昭和4
          5)
年に廃校となる。

        
         廃校後は農家の集落営農を取り組む場として活用されてきた。建物は新築なのか改築な
        のかはわからないが、表札は「杢路子清流館」とされている。

        
         グラウンドの北隅に、1895(明治28)年3月建立と刻まれた道路改修記念碑があるが、
        この地も道路改修は宿願であったようだ。

        
         分校があった付近に数軒の民家が見られる。江戸期の大半の文書には「木工路子村」と
        ある。 

        
         廃屋になって久しいのか葛で覆われている。

        
         三島神社の創建は、平安期の979(天元2)年伊豆国三島より勧請されて泉河内に鎮座す
        る。1909(明治42)年明見八幡宮と奥野の河内神社の3神社が合祀され、旧明見八幡宮
        の跡地に三島神社として鎮座する。

        
         県道豊田粟野港線を田耕(たすき)方面へ向かうと、左手に伝・和泉式部の墓を示す案内が
        ある。
         和泉式部の父・藤原資高が太宰府にいたので、山陰を通ったということで伝説が生まれ
        たともいわれている。なぜこの地に墓があるのかは伝えていないが、道は薮と化している
        ため残念する。

        
         杢路子川の豊田渡瀬橋の袂に「浮石義民直訴の地」と刻字された石碑がある。
         1710(宝永7)年7月10日、西市町本陣を発した巡見使一行が、浮石村市庭から十文
        字原を通り、この橋に差し掛かった時、庄屋藤井角右衛門が差し出そうとしたが、連日の
        疲労と暑さで卒倒し失敗した地である。
         その後、角右衛門らは西海岸の山路を終夜強行し、翌11日に内日(うつい)村亀ヶ原で直
        訴に成功し、農民は重税より救われたが、5名は同年12月22日長府松小田の刑場で処
        刑された。

        
         民家は杢路子川流域に点在する。

        
         鎌倉後期に蒙古軍が豊北町波原に上陸し、田耕(たすき)の五千原で激戦となり、田耕・川
        中曽の鬼ヶ原で、蒙古軍の大将の首を打ち落とした。ところがこの首が杢路子の槇原まで
        飛んできたという。土地の人が首を埋めて塚を立て「飛ぶの本」と言った。後に「塔の本」
        と呼ぶようになり、首塚は現在「荒神」として祀られている。 

        
        
         首塚の地には伊勢の大神宮や猿田彦大神が祀られている。


下関市豊田町の一ノ俣は温泉のある山間集落 

2022年08月13日 | 山口県下関市

               
               この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。

         1889(明治22)年町村制の施行により、一ノ俣、荒木、佐野、殿居、杢路子(むくろう
          じ)
の5ヶ村が合併して豊田上村が発足する。1912(明治45)年村名を殿居村に改称し、
        昭和の大合併で豊田町、現在は下関市の一部である。

         一ノ俣は粟野川の支流である一ノ俣川の上流域、一位ヶ岳の麓、三方を山に囲まれた南
        北に長い段丘の平地に位置する。既に路線バスは廃止され、下関市生活バスが運行されて
        いるが、1日3便・予約制のため利用するには難がある。

        
         一ノ俣本浴にある日幡(ひのはた)神社は、1909(明治42)年この地にあった朝日神社と
        佐野所在の佐野八幡宮が合併して現社号となる。
         朝日神社の創建年代は不詳とされるが、一位ヶ岳の山岳宗教から生まれ、山岳に祈願す
        る礼拝所として始まったと考えられているとのこと。
         南北朝期の1331年後醍醐天皇が隠岐国へ遷幸される時、その皇子が山陰から逃れ、
        この権現に参籠されて「朝日大権現」と名付けられたと神額の裏面に記されているという。

        
         日幡神社の石段を上ると右手にナギの木がある。ナギは熊野権現の神木で、玉串にはナ
        ギを使い、供物はナギの葉の上に載せるという。分霊を勧請した後に神木として植えられ
        たと考えられるとのこと。

        
         台方付近から見る一ノ俣。民家は点在し耕作放棄地が広がる。

        
         一ノ俣生活バス停前にある鉄筋コンクリート造平屋の建物は、かっての殿居小学校一ノ
        俣分校であったが、1970(昭和45)年3月児童数の減少により廃校とる。
         その後、一ノ俣観光ホテル系列の温泉保養所となったが、現在はこのような姿となって
        いる。

        
         三叉路の一角に「寄合処 湯游」があるが、建物は農協の建物風である。

        
         専学寺(真宗)は大内義隆の家臣であった宗岡佐渡守は、大内義隆が長門の大寧寺に逃れ
        る時に7騎に加わり死する。その子宗岡佐内嘉覚は浪人となって一ノ俣に居住、その子・
        嘉之(喜内?)が本願寺で僧身となって下向し、慶長年中(1596-1615)に一ノ俣の誓観寺とい
        う古跡に堂宇を建立して現在に至るという。

        
         湯の華観音入口(観音堂まで約100m)

        
         一ノ俣集落はこの付近に集中する。

        
         湯の華観音は南北朝期以前に建立されたと伝えられ、観音寺(真言宗)ゆかりの地に現存
        し、入口側に西堂が並列する。

        
         中央は「日露戦役記念の碑」で、従軍者15名、明治41年(1908)12月建立とあり。
        左は高さ2mの「道路記念の碑」には、高額寄付者名と昭和8年(1933)建立と刻む。右は
        「圃場整備記念一ノ俣換地区 平成12年(2000)」の碑が並ぶ。

        
         泉源からのパイプと思われるが、パイプには大衆浴場、もとゆ旅館、保養所などと記さ
        れている。

        
         1966(昭和41)年に観光ホテルが竣工し、同年には一ノ俣集落直営の大衆浴場、19
        70(昭和45)年には保養所が開業し、ホテルや旅館も数軒開業したが、施設の老朽化やコ
        ロナ禍の中で廃業された施設もあるようだ。(建物は廃業された大衆浴場) 

                
         荒木は粟野川上流域右岸の平地と、同川の支流である一ノ俣川下流の右岸にかけて北東
        から南西に長く延びた平地に立地する。
         佐野は粟野川の支流である佐野川流域に立地する。「さ」とは「狭い、小さい、細い」
        という意味があり、狭い野が佐野になったという。

        
         国道491号沿いの上荒木バス停付近に民家が並ぶ。

        
         荒木湯の尻に冷泉が湧き、昔から湯場ともいい、大衆浴場や旅館が建ち、荒木温泉と呼
        ばれていた。一ノ俣入口には荒木観光ホテルがあったようだが、更地化されてしまったよ
        うだ。

        
         現在の荒木自動車工場付近に荒木芝居小屋があったという。起こりは定かでないが戦中
        戦後頃に開催され、当時は珍しい娯楽施設であったという。

        
         粟野川と一ノ俣川が合流する一帯を「木津」という。この「津」は港のことで、荒木の
        木津は、木材を集めるところであった。1871(明治4)年に通船工事が行われたが、18
        86(明治19)年西市~滝部間の道路が改修され、舟運は不要となり廃止されたという。

        
         国道491号から佐野地区に入ると、入口に三界萬霊塔が立つ。

        
         中佐野にあった佐野八幡宮は、室町期の1496(明応5)年に阿座上村の西八幡宮より神
        霊を受けたと伝わる。1909(明治42)年一ノ俣の朝日神社(現日幡神社)に合祀された。

        
         八幡宮旧蹟付近から見る中佐野集落。

        
         山間集落にとって道路の改良は悲願だったと思われる。1974(昭和49)年9月に佐野
        線が改良され、逐次、森ヶ浴線と荒越路線も改良された。1979(昭和54)年に佐野公会
        堂の敷地内に記念碑が建立された。

        
         公会堂から東方向に椎の大木が見える。

        
         巨木の樹齢等はわからないが、数百年は経っているものと思われる。

        
         現在の佐野には「お寺」という建物はないが、1959(昭和34)年まで「塔の丘」と呼
        ばれるこの地に、古洞庵という堂宇があり、仏像も安置されて地区全体の信仰の場でもあ
        った。堂は解体されて内陣全体は公会堂に安置されているという。

        
         堂宇のあった地は空地で、集落内にあった黄幡社、河内社、水神様を合祀した祠がある。

        
        
         上佐野集落は民家が点在する。

        
         大きな庚申塔を見て引き返すが、塔に掛けるものには「ハチマキ」と「サル」の2種類
        がある。ハチマキは塔の頭部をぐるりと巻き、御幣を3本垂らす。注連縄の形をハチマキ
        に見立てたものである。
         サルは「牛の犁(すき)」の先につけるもので、農家にとって牛を使って田をおこすために
        は必要なものであった。この「サル」が塔の前面にぶらさげるようにつけられている。


下関市豊田町の西市は旧豊田町の中心地

2022年08月09日 | 山口県下関市

               
                      
この地図は、国土地理院の2万五千分1地形図を複製・加工したものである。
         西市は俵山を発して小月湾に注ぐ木屋(こや)川の下流右岸に広がる平野の一部に立地する。 
        古くは木屋川の左岸に市が立っていたが、度重なる水害を受けて水害が少ない今の西市に
        市が移転すると、山陰と山陽を結ぶ赤間関街道(北浦筋)も移る。(歩行約3.8㎞)

        
         JR小月駅(10:23)よりサンデンバス大迫行き約40分、長正司バス停で下車する。

        
        
         木屋川通船荷揚場跡は、木屋川左岸の県道側から川に降りる階段を見ることができる。
        1854(安政元)年に小屋川通船工事が完成すると、豊田郷の物産がこの船積場から舟に積
        まれて、小月木屋に運ばれるようになる。それまでの物資の輸送は、馬の背に積んで運ば
        れていたので、運ぶ荷物の量も限られ、運搬には労苦が伴なったという。

        
         西市交差点を右折して旧赤間関街道筋を北上する。

        
         旧西市町役場は老朽化のため、1934(昭和9)年に庁舎が新築される。以後、昭和の大
        合併で「豊田町」が発足し、1956(昭和31)年に新庁舎ができるまで町行政を担った。
        移転後の古い庁舎は、山口県豊田林業事務所と豊田町商工会が事務所としたが、現在は民
        間企業が使用している。

        
         旧町役場の片隅には、かっての西市町に寄付金や土地を寄付した人たちを表彰した旨の
        石碑が残されている。大相場師だった村岡金一、陸軍少将だった中野太介、地元名士の中
        野知徳が表彰された。

        
         長正司(ちょうしょうじ)公園から豊田盆地。1889(明治22)年町村制の施行により、矢
        田村、西市町、殿敷村など8町村が合併し豊田奥村となる。1899(明治32)年西市村に
        改称して、後に町制に移行して西市町となるが、昭和の大合併で殿居村、豊田中村、豊田
        下村と合併して豊田町(ちょう)となり、西市が町の中心となる。現在は平成の大合併で下関
        市豊田町(まち)となり、町村制施行前の村々は大字とされる。

        
         豊田氏が居館を一ノ瀬から殿敷の向山に移した頃、長正司城が築かれたという。南に豊
        田盆地が一望できる交通の要所で、長正司公園はその城山の中腹にある。
         5月になると藤見ができる観光スポットで、大藤棚は地元の伊藤伊兵衛氏が、1879
        (明治12)年美祢の草井川の元庄屋よりもらい受けた鉢植えを植えたものとされる。藤棚の
        右にある観音堂は、大内盛見が豊田氏討滅後、豊田滋武一族の菩提のため、千手観音を安
        置したのが始まりという。

        
         公園の片隅に神西氏の墓碑3基が並ぶ。右に尼子氏の重臣で上月城(兵庫県佐用町)落城
        の時、大手門で防戦した神西国通(元通)、中央が神西氏の初代とされる小野高通、左に上
        月城終えんの後に母と京都に逃れ、その後当地で帰農した神西景通の墓だとか。

        
         日清・日露戦争などに西市町より出征した戦死者の慰霊碑として、1921(大正10)
        に建立される。
石材の運搬は大掛かりなもので、徳山から鉄道で西市駅まで運ばれ、駅か
        ら商店街をコロで移動させ、急斜面はウインチで運び上げられたという。

        
         現在の内山家(元旅館)と村岡家の両宅地は、天正年間頃(1573-1592)に長勝寺(ちょうしょ
          うじ)
という禅寺があった所とされる。この寺院名が転じて「長正司」という町名になった
        といわれている。

        
         下関市役所豊田総合支所前に出ると、入口に中野半左衛門旧宅跡がある。半左衛門は1
        804(文化元)年に生まれ、8歳の時に父と死別して祖父の薫陶を受けた。大庄屋格で萩藩
        の勧農方や産物方を務めた。木屋川通船事業を志し、1854(安政元)年に事業を達成する。
         幕末には高杉晋作、桂小五郎(木戸孝允)などの志士、長府藩に潜居していた中山忠光も
        宅に出入りしている。1874(明治7)年没、享年71歳。

        
         市総合支所は、その昔、朝倉(右田)弘詮が建立した普済寺跡であるとのこと。その支所
        前を山田川が流れ、豊浦橋(旧長正寺橋)が架かっているが、巡見使等が通行する際には萩
        藩と長府藩の負担で板橋となった。1864(元治元)年、殿敷の中野新左エ門が板橋を石橋
        に改築したとされる。

        
         橋の東側に萩城下より12里16町(約50㎞)、赤間関より8里(約32㎞)の一里塚が
        あったという。

        
         3階建ての建物に唐破風(からはふ)の玄関という木曽旅館は、いつ廃業されたかは定かで
        ないが倒壊の途にあるようだ。

        
         木曽旅館の隣にある慶雲寺は、1641(寛永18)年当地の医師重村道賀(戒名慶雲道賀
        居士)が発願主となって、浄土宗鎮西派の寺院が建立された。 

        
         宿駅を取り締まり管理する村役人を「目代(もくだい)」と称していたが、西市の目代屋敷
        は市恵比須社前(現松田本店)の「ワタヤ」という家であった。

        
         目代の反対側に脇本陣の藤田屋(油屋)があったとされる。(現在は屋敷跡に数軒が建つ)

        
        
         室町期には「東市」「西市」「今市」と3つの市があった。大内氏の筆頭家老朝倉(右田)
                弘詮が、楢原の諏訪ヶ原に居館を構えた頃から、今市小路の柳ヶ原で市が始まったという。
         木屋川の水害に悩まされることもなく、四方から人々が集まりやすい地形のため賑やか
        になったという。

        
         参道両脇は西市小学校。

        
         西八幡宮は、鎌倉期の1191(建久2)年豊田郡司藤原種弘が宇佐神宮より勧請し、阿座
        上村の天神坊に祀られたが、1656(明暦2)年現在地に遷座する。

        
         遷座した際に記念樹として植えられたイチイガシの木。

        
         平安期に豊田氏とともに栄えた東市が高熊の山本川近くにあった。室町期の初め頃にな
        ると、木屋川東岸に西市ができたが、東市も西市も河川の氾濫が度々あったので、西市は
        1626(寛永3)年に今の西市に移転し、今市といっしょになって商店街が形成されてきた。
         しかし、1953(昭和28)年、旧商店街の東側に新県道ができてから、次第に新道に商
        店が建ち並び旧商店街は衰退の途を辿る。

        
         中野家は本陣として長府藩主や幕府の巡見使などの休泊所となる。当家は酒造業を営ん
        でいたので屋敷は広く、長府から来住した当時の建物は、1830(文政13)年建て替えら
        れたが、のち酒造業を止め、昭和の初め頃老朽化のため建て替えられたが、御成門は遺構
        として残された。

        
         木屋川のゲンジホタルがデザインされた旧豊田町のマンホール蓋。

        
         立派な門が残されているが内部は空地である。

        
         四叉路で右折すると、豊田梨選果場に旧長門鉄道西市駅があった。

        
         1918(大正7)年に開業した長門鉄道は、小月と西市町を結ぶ18㎞に5駅と7停留所
        (旅客の取り扱いのみ)があり、西市駅が終着駅であった。旅客だけでなく、石炭や木材、
        竹材、米の輸送で地域の発展に貢献した。
         しかし、経営が苦しくなると多角化を目指し、バス事業を兼業すると鉄道の乗客を吸収
        し、貨物部門はトラック業界に取られるようになり、1956(昭和31)年3月に鉄道を廃
        する。

        
         開業当初の運行回数は5往復だったが、岡枝駅で列車のすれ違いが可能になると7往復
        で運行されていた。

        
         長門鉄道の開業時に用意されたアメリカのH・Kポーター社製の蒸気機関車(101)で、
        1915(大正4)年に製造されたものだった。開業2年前に配置され、「速度は出ないが力
        は強い」という特徴があり、小月~西市間を平均速度21.8㎞で走っていた。
         1947(昭和22)年東洋レーヨンに売却され、プレートが「103」に改番されて煙突
        も短くなったという。後に加悦(かや)鉄道SL広場に移管されていたが、里帰りしたという。    
        (道の駅に展示)

        
         四叉路に戻って南進するが、この付近は天保年間頃までは家がなかったとのこと。(過ご
        して見返る) 

        
         地蔵尊先の三叉路は左が赤間関街道だが右道を進む。

        
        
         直進すると土壁の家に突き当たり、その右手に庚申塚がある。昼食と蒸気機関車の見学、
        バスの時間調整を兼ねて「道の駅蛍街道西ノ市」に立ち寄る。

        
         バス路線道に戻って北上し、句碑を読んで西市中央バス停(15:40)よりJR小月駅に戻る。     
        (唐破風の家は仏壇店) 

        
         蛍橋の袂に花田一径(いっけい)句碑
             「豊田とは 好ましき名よ 飛ぶほたる」
         一径は福岡県田川市に生まれ、防長新聞社に勤めたが、1988(昭和63)年没す。


下関市豊田町の殿敷は豊田氏居館があった地 

2022年08月09日 | 山口県下関市

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         殿敷(とのしき)は木屋川がつくる豊田平野の北から北東の山地一帯を占める大きな域内で
        ある。
         地名の由来について地下(じげ)上申は、平安中期以降、豊浦郡の北東部に勢力を張った豊
        田氏の一族が、中世後期に構えた屋敷「殿屋敷」が転じて殿敷になったと伝える。

        
         広い地域の見どころは北域と南の一ノ瀬集落にあり、散歩の距離ではないのでクルマを
        使用しながらの散歩となる。
          1889(明治22)年の町村制施行により、殿敷村を含め1町7村が合併して豊田奥村と
        
なる。その後、西市村、西市町を経て昭和の大合併で豊田町となり、現在は下関市豊田町
        殿敷である。
         豊田氏の居館跡がある一ノ瀬集落には、ホタルの里ミュージアム前の道を道なりに進む。

        
         走行の途中、右に寺のような建物が見えたので立ち寄ると浄土真宗の弘願寺(ぐがんじ)
         古く平安・鎌倉期には豊田氏が建立した「真言宗の明見寺」があった場所で、近世初期
        頃に上田正吉というものが出家して、この地に小庵を構えたのが創始とされているが、定
        かではないともいう。

        
         峠を越えて下って行くと左手に「豊田氏館跡」の碑があるが、豊田氏の2代目輔平・3
        代目輔行などが一ノ瀬に定住して豊田郡司となる。大内、厚東氏並ぶ防長の大豪族だった
        豊田氏が、本拠を一ノ瀬に定めた理由の1つに、厚狭郡に通じる唯一の道が中ノ川を通っ
        ており、厚東氏の動きをけん制するためともいわれている。

        
         石碑の傍に「館の浴の椿・約300m」と案内されているが、樹齢600年以上とされ
        ていた八重椿は、2010(平成22)年の大雪で枝が折れ、2020(令和2)年9月の台風で
        根元から折れてしまったという。

        
         平安中期、権大納言藤原経輔が刀伊賊(女真族)を鎮圧するため、華山で戦勝祈願を行い
        乱を鎮圧したという。その孫の輔長が豊田郡(豊田町、美祢市豊田前、豊北町)の領主とな
        った。
         一ノ瀬に本拠を構えたのは2代目の輔平で、一ノ瀬城山に城を築いたのは鎌倉中期頃と
        される。城山から豊田盆地が一望でき、厚狭街道方面の厚東氏をけん制できた。 

        
         豊田氏居館跡から長願寺に至る道は、日野川と城山の間が狭くなった箇所がある。今は
        山が削られて往時とは違うが、ここに轅関(えんせきとは関所のこと)があったという。

        
         日野川にかかる永楽橋を渡ると左手に「豊田種長追善供養板碑」がある。豊田氏の全盛
        時代は11代の種貞、12代種長の頃とされ、防長では大内、厚東、豊田の豪族がしのぎ
        を削っていた時期である。南北朝期の1352年種長が死去し、遺骸は長願寺に埋葬され
        て、のちに供養板碑が建てられた。(板碑の右側一帯が長願寺跡)

        
         板碑の100m前方の田の中に千人塚と呼ばれる一角がある。種長に殉死した人を埋葬
        した所といわれるが、殉死した場所は前方の川向こうの朱満ヶ原といわれている。自刃し
        た人たちの血で、一面朱色に満ちたということからこの地名になったという。

        
         一ノ瀬区公会堂の脇に河内神社があったが、明治の神社統合により東八幡宮に合祀され
        る。当神社の祭神は天水分神(水の分配を司る神)だが、創建年代は不詳とされていた。

        
         中の川沿いの山裾に数軒並ぶ。

               

        
         県立西市高校の左隣の小高い丘の上に東八幡宮が鎮座する。二の鳥居は享保8年(1723)
        と刻字されている。

        
         鎌倉期の1187(文治3)年、当時長門守護職であった豊田種弘の命により、宇佐八幡宮
        から勧請されて八幡宮が建立されたという。その後、大川(木屋川)の西に西八幡宮が建立
        されたのち、東八幡宮と呼ばれるようになった。
         南北朝期の1363年豊田氏と大内氏の和談が成り、東八幡宮の南側に日輪寺という寺
        が建立され、神社の宝物が収められていたが、室町期の1554(天文23)年失火により日
        輪寺が焼失したという。さらに、1764(明和元)年にも失火が起き、東八幡宮本殿が焼失
        する。
         1888(明治21)年明治政府の寺社改革に伴い、周辺地域の神社を合祀して現在地に遷
        座する。(観光協会サイトより)

        
         もともとは水田の中にあって、条里制の碁盤の目に沿った参道が南向きにのびていたよ
        うだが、現在は西八幡宮と向かい合うよう西向きになっている。

        
         殿敷石卒塔婆は八角形で1mほどの花崗岩で作られたもので、表には梵字で「東発心門」
        とある。

        
         ゲンジホタルがデザインされた旧豊田町のマンホール蓋。 

        
         向山豊田氏館跡(西殿)が近辺にあるとのことだが、見つけることができず。

        
        
         祇園原と殿敷の間にある木屋川の大堰で、ここに碑が3つ並ぶが、その1つである「殿           
        敷井出碑」によると、中野半左衛門が山口藩庁より工事を請け、堰の木材畳みを石畳みと
        し、3ヶ月後の1869(明治2)年に竣工したとある。2012(平成24)年に改修された旨
        の碑もある。

        
         国道435号の高架下を潜る。

        
         中畑集落内はひっそりしている。

        
         庚申塚を見て木屋川の右岸に移動する。 

        
         権現原と神上川(こうねえがわ)との境に西方山地の山稜が突き出し、その突端には古代か
        ら神霊が宿るとされてきた。飛鳥期の705(慶雲2)年役小角が英彦山から大神山(華山)に
        来て、この岩神で祈祷した謂れもあるという。

                
         大河内(江戸期は長府藩領)に入る手前、木屋川の左側に岩壁がある。この岩壁に小さな
        滝「たらたらの滝」があるというが、擁壁によって様子が変わったようだ。
         地蔵尊の脇に芭蕉句碑「暫時は 滝に籠るや 夏(げ)始」(1897(明治30)年頃建立)

        
         ゲンジホタルが漫画チックに描かれた上水道蓋。

        
         大内弘世が長門国の守護職になると、豊田種藤は大内氏と和談し、城を一ノ瀬城から妙
        見山(現在の長正司)に移し、居住地も殿敷に移す。この地に菩提寺の「知行寺」を建立す
        るが、衰亡したため廃寺となる。

        
         この地も和談が成り、南北朝期の1363(正平18)年に、神上寺の末寺「日輪寺」が建
        立されたが、室町期の1544(天文13)年失火により焼滅する。


下関市豊田町の大河内と楢原は木屋川に沿う集落

2022年08月07日 | 山口県下関市

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         1889(明治22)年の町村制施行により、大河内村、楢原村と西市町など8ヶ村で豊田
        奥村が発足する。その後、西市村及び町制施行して西市町、昭和の大合併で豊田町、現在
        は下関市豊田町である。
         大河内(おおかわち)は、小月湾に注ぐ木屋(こや)川上流の平野とそれに続く山地に立地す
                る。
         地名の由来について地下(じげ)上申は不詳とするが、木屋川が平野の東方山際を貫流し、
        南端で大きく西に湾曲して平野を包み、大川(河)の内にあることから起こったともいう。
        (歩行約3.8㎞)

        
         俵山から西市を経て小月へ抜ける赤間関街道(北道筋)が域内を通っていた。(ダムを見上
        げる地点の広場に駐車)

        
         左岸に石州瓦の屋根が並ぶ。

        
         木屋川ダムは下関地区の飲料水、工業用水を確保するために、1940(昭和15)年に工
        事が始められたが、太平洋戦争で中断する。戦後に工事が再開され、1954(昭和29)
        に多目的ダムとして完成する。
         堰堤の高さ39m、堤頂長174.3m、総貯水量約2,000万㎥のダムに、地吉(じよ
          し)
集落や仏閣、小学校などが湖底に沈む。

        
         ちょっと気を引く屋根構造の民家。

        
         立ち退きを余儀なくされた地吉集落の人々は、この一帯に生活の場を移転したと思われ
        る。 

        
         河内神社境内には、昔から大河内全域の集会所があり、氏神でもあるこの地で村全体の
        協議が行われてきたという。

        
         河内神社の創建年代は不詳だが、祭神は天水分神(あまのみくまりのかみ)で水を分配する神
        とされる。1914(大正3)年矢田の西八幡宮本殿に相殿神として合祀されたという。この
        神社には江戸期から伝わる牛馬無病息災を祈願する笹踊りがあったというが‥。

        
         木屋川のゲンジボタルと木屋川ダムがデザインされた集落排水用マンホール蓋。

        
         集落入口にある庚申塚。

        
         千秀寺(真宗)は大内家の浪人中原彦兵衛が、旧主の大内義隆が自決したことを聞いて剃
        髪して玄信と号し、大河内丸山に慶隣庵を結ぶ。1716(享保元)年殿敷に移転したが、1
        880(明治13)年現在地に再移転する。

        
         千秀寺近くに赤間関街道北道筋の一里塚があったようだが、位置を知ることができず。
        「萩唐樋札場より11里16町(約45㎞)、赤間関6里(約24㎞)」とされた。(寺前が街
        道筋)

        
         百合野バス停まで引き返し、県道下関長門線を横断して駐車地に戻る。

        
         楢原(ならわら)は木屋川右岸とその支流である稲見川流域に立地する。地名の由来につい
        て、往古、高山に都の清水を模して、清水観音堂を建立した時、ここにナラの木を移して
        植えたことから起こったという。(歩行約1.8㎞)

        
         祇園原にある祇園神社。創建年など詳細は知り得ず。(神社下の道路脇に駐車)

        
         域内を旧国道435号線が東西に走る。

        
         域内入口に庚申塚と地蔵尊が3基。中央部の台座に「享保11年(1726)4月 地下中 
        宝珠錫杖型といわれています。」との添え書きがある。

        
         木屋川のゲンジホタルがデザインされたマンホール蓋。楢原は西市に近いためか下水道
        で整備されている。

        
         赤間関街道北道筋。

        
         明治の初めに「木村酒造」が創業され、大正初期に「ほまれづる酒造㈱」となる。昭和
        に入ってF氏が引き継ぐが、すでに廃業されたようだ。

        
         国道と肥中街道が交差する場所に「阿武(あんの)先生寿碑」が建立されている。阿武光二
        は、1859(安政6)年楢原村に生まれ、山口県師範学校を卒業後、教師として各地に勤務
        し、退職後は阿川の私塾・菁(せい)々学館の学頭として教授する。
         1896(明治29)年に豊田奥村の村長に就任、12年間村の行政などに携わるが、19
        19{大正8}年61歳で没す。

        
         肥中街道の案内に従うと正面に正念寺(真宗)がある。朝倉兵庫頭(右田弘詮とも称す)の
        家臣甲斐修理が出家して,1625(寛永2)年に一宇を建立したが、後に寺運が衰微して廃
        寺同然となる。
         1790(寛政2)年58歳の中野半左衛門が出家して、寺を再建して初代住職となったが、
        59歳で死去するという歴史を持つ。

        
         楢原地方(じかた)の肥中街道沿いに鳥居がある。朝倉(右田)弘詮は文明~永正の間(1469
                -1521)殿敷村を本領とし諏訪山を居館とした。その麓に諏訪大明神があり、地下上申は居
                  館の鎮守であったと記す。現在は
西八幡宮の境内社である今熊社に遷祀されている。

        
         境内から見る楢原の家並み。

        
         妙栄寺は室町期の永正年中(1504-1521)に朝倉(右田)弘詮が、母「花谷妙栄大姉」
の菩提
        を弔うために建立した曹洞宗の寺院である。
         1652(承応元)年に長府藩主毛利秀元が黄梅院殿の位牌を当寺に安置して、妙栄寺を泰
        雲院と改め、殿堂、山門を建立した。
         しかし、1817(天保10)年3月の火災で山門以外を焼失し一切の記録等が失われた。
        その後、本堂・庫裏は再建され、明治になって寺号を旧妙栄寺に復し今日に至る。

        
         1872(明治5)年学制発布されると、「維新小学校」の仮校舎となり、子弟の教育の場
        となった。今の西市小学校の前身である。

        
         雪舟が妙栄寺に立ち寄って造園したと伝わる「雪舟の庭園」 

        
         山門から旧国道に出て引き返す。


下関市豊田町の地吉・今出には安徳天皇御陵墓参考地と石柱渓

2022年08月06日 | 山口県下関市

           
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         1889(明治22)年の町村制施行により、地吉村、今出村と西市町など8ヶ村をもって、
        豊田奥村が発足する。その後、西市村に改称して町制施行で西市町となるが、昭和の大合

        併で豊田町、現在は下関市豊田町である。
         地吉(じよし)は小月湾に注ぐ木屋川上流域で、南北に連なる山地との間に立地する。地名
        の由来は、深山であった当地を開いてみれば地味で案外「吉(よ)い」ので、「地吉」にな
        ったという。

        
         1939(昭和14)年山口県は地内南端の大河内地区との境界付近にダムを建設し、下関
        市一円の水道と工業用水を確保する計画を立てる。翌年に着工したが太平洋戦争で中断を
        余儀なくされ、1950(昭和25)年に再開されて1954年に完成する。これにより、地
        吉120世帯余が湖底に沈むことになる。(左手の山は堂ヶ岳)

               
         湖に浮かぶ小さな島が観音寺(天台宗)の裏山であったという。(豊田湖畔公園ボート桟橋
        より)

        
         1995(平成7)年にオープンした豊田湖畔公園入口にある庚申塚。湖底にあったものが
        移設されたのであろう。

        
         赤間関街道北道筋も湖底に沈んでしまったが、地吉本郷の茶屋ヶ原には光雲寺、御米蔵
        などがあったという。光雲寺は豊田湖造成のため廃絶し、楢原地区にある正念寺(真宗)に
        合併する。

        
         地吉集落の平野部は湖底に沈んだが、わずかな民家が王居止、向原などに現存する。安
        徳天皇西市御陵墓入口に地吉公民館があり駐車可。 

        
         1889(明治22)年赤間神宮阿弥陀寺陵が「擬陵」として治定されたので、安徳天皇西
        市御陵墓参考地とされる。

        
         1185(寿永4)年3月源平合戦最後の戦いであった壇ノ浦で平家は敗れ、8歳の安徳天
        皇は祖母の二位の尼(平清盛の室・時子)に抱かれて入水する。

         母の建礼門院(平徳子)も入水するが引き揚げられ、三種の神器のうち、神玉と神鏡を源
        氏方が手中にするが、神剣が見当たらず安徳天皇を探すことになる。

         長門国の網人を招集して大捜索の結果、大津郡三隅の沢江浦の網人に安徳天皇の遺骸が
        かかったが、神剣は見つからなかった。遺骸を密かに埋葬するため、網人が三隅まで陸路
        を帰る途中の丸尾山が適地とみて御陵墓(ごりょうぼ)を造らせたと伝える。

        
         この碑は、木戸孝允が安徳天皇御陵墓に詣でて、光雲寺で詠まれた五言絶句という最も
        短い詩である。
            渓流巻巨石 (渓流巨石を巻き)
            山岳半空横 (山岳半ば空に横たう)
            寿永陵辺路 (寿永陵辺の路)
            断腸杜宇聲 (断腸杜宇の声)

        
        
         地吉公会堂から県道を約450m歩くと、擁壁に階段と案内板があり、階段を上がって
        時計廻りに進むと「恵七の墓」がある。「肥後国五野村 俗名恵七」「文化9年(1812)1
        0月29日」と刻まれている。肥後国(現熊本県)五箇荘の平家の落人たちが、下関阿弥陀
        寺の御影堂に参拝のあと、足をのばして王居止御陵に毎年参拝していたのだが、その際に
        急死したのでこの地に葬られたという。

        
         本地吉(現湖底)方面から蓮華院参詣への入口、この地に六地蔵がある。今出の堂ヶ岳に
        蓮華院の観音堂があり、参詣する人たちの安全祈願のために建立されたという。 

        
         六地蔵前から見る堂ヶ岳。

        
        
         三豊小学校入口に旧三豊農協の事務所と倉庫がある。1925(大正14)年に設置された
        西市町信用購買販売組合三豊支部から、1948(昭和23)年に独立する。その後、豊田町
        の5農協が合併して三豊支所になったが、現在は支所も廃止されたようだ。

        
         1876(明治9)年今出村に三豊(みとよ)小学校と称して校舎を建築したが、校舎狭隘と
        なったため、1897(明治30)年校地を現湖底位置に移転する。
         その後、尋常小学校、尋常高等小学校、国民学校などに校名変更したが、1947(昭和
          22)
年三豊小学校となり、ダム建設に伴い現在地に移転する。

        
         校門の左側に家塾を開いた野上栄治翁の碑がある。早くから子弟の教育に熱心で、家塾
        を開くと多くの門弟が門をたたいた。
         1872(明治5)年学制発布された時、野上翁は私財を投じて学校を建て、塾生をここに
        移して「三豊小学校」と名付けた。

        
         同地には1947(昭和22)年開校三豊中学校があったが、1961(昭和36)年豊田東中
        学校に統合されたため、空き校舎の大部分に小学校が移転する。
         しかし、児童数減少により2008(平成20)年休校し、7年後に廃校となったが校舎は
        健在であった。

        
         今出(行政区は台と今出)は、小月湾に注ぐ木屋川の支流である白根川と今出川流域に広
        がる狭長な山間の段丘地に立地する。
         地名の由来は、往古に豊田二郎正清の家来、今出某という武士が住したからという。

        
         河内神社の創建年代は不詳とのことだが、祭神は天水分神(水の分配を司る神)とされる。
        一度は東八幡宮境内末社に合祀されたが、1955(昭和30)年に分離されて今日に至る。

        
         河内社から見る集落。

        
         西本喜代蔵は、1849(嘉永2)年今出村字台で生まれ、家業の農耕に従事する。地形的
        に交通は不便であり、里道の開築、台耕地整理のことが発企されたので、身を挺してこれ
        に当たり、私財を投じるなどして公共繁栄のために尽力したという。(1918(大正7)
        建立)

        
         石柱渓は台の白根川流域にあり、この地域は美祢層群で白亜紀末(7千年前)頃にマグマ
        が地下から貫入してできた地質である。その美祢層群とマグマとの境界を流れる川が、白
        根川の支流である「ドウドウ川」である。渓谷の地表は、ほぼ垂直な不正角柱状節理の花
        崗斑岩からなり、変化に富んだ景観と豊富な水流で構成されている。 

        
         高島北海画伯が、この渓流の所有者である山崎氏の後援により、1924(大正13)年石
        柱渓を広く世に紹介した。1976(昭和51)年画伯の顕彰碑(ケルン)が入口に建立された。

        
         48滝あるとされるが土砂崩れのためすべてを見ることができない。

        
         「お通(百姓)と万作(武士)との悲恋物語」があって、その民話を保存したいと「おしど
        り観音」の石像が、1968(昭和43)年に建立されたとか。

        
         台ヶ原サイホンと呼ばれる灌漑用水路は、1915(大正4)年~1917(同6)年於福村
        田代に貯水池を作り、地下に埋没した管で山から低地に降ろし、そこから渡樋(わたしどい)
        で白根川を横切り、再び伏樋(ふせどい)に入り、山を登り台地に水が分配される仕組みが用
        いられた。

        
         行政区の台から今出に移動すると、藤岡茂吉寿碑が建立されているが、人物の功績等は
        知り得ず。

        
         碑前から見る今出集落。 

        
         堂ヶ岳登山口と案内されているが、山名は古野山蓮華院の観音堂があったことによると
        いう。

        
         左より林道改修記念碑、猿田彦大神、小祠、文化12年(1815)と刻字された石仏、三界
        萬霊塔、丁塚が並ぶ。

        
         平安期の大同年間(806-810)に天台宗の僧が、蓮華院を開山し、唐より渡来の十一面観音
        を安置し、山伏蓮学院(天台宗派)が蓮華院を修行道場とする。その後、変遷があったよう
        だが、現在はここ(公会堂?)に安置されている。 

        
        
         この付近に集落が形成されている。