ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

杵築の城下は坂の町 (杵築市)

2017年11月21日 | 大分県

          
        
この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分の1地形図を複製したものである。(承認番号 平29情複第968号)
         杵築(きつき)は国東半島の南端部に位置し、市街域の東部は別府湾に面し、南側を八坂川
        が
東流する。
         1889(明治22)年の町村制施行により、杵築村など4ヶ村が合併
して杵築町となる。
        1955(昭和30)年の合併で、杵築町など4町村
が合併して杵築市となる。(歩行約5㎞)

          
         1911(明治44)年3月に開業したJR杵築駅は、駅の誘致運動の結果、町の中心より
        離れた旧
八坂村(現在は杵築市)に設置、駅名は杵築で決着したとのこと。
         1922
(大正11)年7月に杵築駅と杵築町中心部との間に国東鉄道が開通するが、集中
        豪雨で被災したため、
1966(昭和41)年に廃止される。

          
         杵築駅から杵築バスターミナル行きのバスに乗車すると、約10分で市街地に降り立つ
        ことができる。城への散策道には、市内各地に残されていた国東塔
をはじめ、六郷満山の
        石造文化で溢れている。


          
         この町のシンボルである杵築城は、城下町を見下ろす城山公園の小高い丘に建つ。大友
        一族である木付頼直により、室町期の1394(応永元)年に木付城として
築城された。1
        871(明治4)年の廃藩とともに姿を消したが、1970(昭和
45)年に模擬天守閣が復元さ
        れた。


          
          
         直線的な石段と石畳が美しい勘定場の坂。勾配24度、石段53段、石段の蹴り上がり
        15cm、路面が1.2mの幅で、駕籠かきの脚、馬の足に合うように
計算されて造られた。

          
         武家屋敷から24段目の中央踏石に「二四(にし)の富士」と呼ばれる富士山が描かれ、
        一段下には逆さ富士も描かれている。


          
         勘定場の坂から杵築城。

          
         磯矢邸は寛政の大火(1800年)の後は、御用屋敷(藩主の休息所)である「楽寿亭」の
        一部に使われた。
1824(文政7)年に廃止されて、次席家老の加藤与五右衛門に屋敷が与
        えられたとされる。
         1994(平成6)年に所有者の磯矢氏が寄贈したことから、磯矢邸と名付けられた。


          
         薬医門をくぐると、玄関を隠すように蘇鉄が植えられている。

          
         玄関の間には珍しい床の間があり、ここで客をお迎えしたとのこと。

          
         それぞれの窓枠から庭が楽しめるように工夫された客間である。

          
         楽寿亭時代にお茶専用にと掘られた井戸。

          
         北台武家屋敷の通りは、色濃く江戸時代の面影を留めている。

          
         土塀に歴史が伝わる。

          
         1788(天明8)年頃に創立された藩校の門であるが、藩校は明治の廃藩置県による閉
        校まで約80年間、郷土の人材育成に貢献する。現在は杵築小学校の
校庭となっている。

          
          
         杵築小学校敷地内に「藩校・学習館」として、復元模型(1/30)が公開されている。

          

         家老は世襲でなく人物であったため、家老屋敷には出入りがあり、最後の家老が大原文
        蔵であったことから「大原邸」といわれる。

          
         駕籠を玄関に横づけするために玄関の間口は広く、式台も駕籠の高さに合わせるなど格
        式の高さを感じる。

          
         観音開きの長屋門。

          
         客が訪れたときに通す座敷は広々とした白壁の間である。そこから眺められる庭は、回
        遊式庭園で広い庭と池を持つ。

          
         世にも珍しいとガイドが説明する仏間にある弓天井。雨の日でも弓の稽古をするために
        2.2mの弓がつかえないように一部が高くされ、仏間にあるのはその姿を祖先にみてもら
        うためとのこと。

          
         江戸時代の風呂には湯船がなく、たらいや桶に溜めた水で体を拭いていたとのこと。そ
        の際、排水に麻の広い布を敷いていたが、それが現在の「もの」を包む風呂敷の語源にな
        ったとされる。 

          
         土間には食事を用意するためのかまどがあり、薪を焚いて出る煙が茅葺屋根の防虫の役
        目を果たし、今でもかまどが焚き続けられている。 

          
         広い敷地には渡り石が敷かれている。

           
          
         風情のある通り。

          
         酢屋の坂から道を挟む志保屋の坂は、北台武家屋敷、町家、南台武家屋敷をつなぎ、江
        戸時代も現在も重要な坂道である。
         古くから酒屋で繁盛した塩屋長右衛門は、北台の坂下で酢屋、南台の坂下で塩屋を営む。
        そのため志保屋(塩屋)の坂、酢屋の坂と呼ばれた。

         
         1890(明治33)年創業の綾部味噌。江戸期末期頃に建てられた豪商志保屋の建物。

          
         江戸時代の風情を残す帳場にある火鉢は、冬は炭で暖を取り、訪れた客をもてなす。

          
         志保屋の坂から酢屋の坂、右手の石垣は大原邸。

          
 
         志保屋の坂を上ると、中根邸などの屋敷が並んでいた家老丁。藩主が菩提寺に参詣する
        道でもあった。

          
         穏やかな余生を送るため、1862(文久2)年に家老職の中根源右衛門が建てた隠居所。

          
         一松(ひとつまつ)邸から眺める杵築城。

          
         一松邸は、昭和初期に国務大臣や建設大臣などを歴任した一松定吉の邸宅である。

          
          
         1927(昭和2)年9月から2年間かけて建てられたが、当時の贅と技術の粋を結集して
        造られた。市庁舎の移転に伴い、杵築城と海が見えるこの地に移築された。

          
         南台本丁武家屋敷通り。

          
         寺町に向かう本丁には松、竹、梅の小路が残されている。

          
          
         長昌(ちょうしょう)寺は、杵築藩初代藩主・松平英親が奥方の菩提寺として開創する。寺
        には松平家の家紋である雪笹が見られる。

          
         長昌寺庭園は枯山水式で、1645(正保2)年に築造されたとのこと。

          
         安住寺は木付氏の菩提寺であったが、木付氏滅亡後は極度に衰微し、松平氏入部後に再
        興される。

          
         寺を1ヶ所に集めた理由として、城下町の防衛と合戦の基地とし、兵を集合させる場所
        であったといわれている。

               
         1353(文和2)年作の梵鐘は、大分県内最古の在銘和鐘であるとのこと。

         
         養徳寺の参道は「第30作、男はつらいよ・花も嵐も寅次郎」の舞台となる。

          
         養徳寺は松平家の菩提寺で、堂々とした風格と威厳が伝わる。

          
         境内にある松平家6代藩主と7代藩主の墓。

          
         花崗岩で作られた高さ381㎝の五輪塔。藩主・小笠原忠知の奥方に関係するものとか。

          
         杵築カトリック教会も寺町にあり、武家屋敷の門がそのまま使われている。

         
         南台裏丁武家屋敷筋。

          
         南台で最も江戸時代の面影を残す一画である。

          
         裏丁は格式高い武家屋敷の構え、高い石垣の上に建つ長屋門、土塀、生垣がある。

          
         “くの字”の美しい曲線を持つ坂で、白っぽい石段は雨が降ると暗い夜道でもよく見え
        たことから「雨夜の坂」と呼ばれ、坂に下に飴屋があってことから飴屋の坂ともいわれた。

          
         飴屋の坂を下ると正面に岩鼻の坂があるが、岩鼻にあることからその名がついた。坂の
        下には城下唯一の、「岩鼻の井戸」があり、当時の人々の喉を潤す。

          
         歴史的景観を後世に残そうと、修復は武家屋敷だけでなく坂道や町家が並ぶ商人の町に
        も及ぶ。

          
         神田米穀店の鏝絵は、米屋なので布袋さんに米俵をもたせている。

          
         この坂周辺には家が一軒のみだったことから、「ひとつ家の坂」と呼ばれ
た。

          
         佐野家は小笠原氏の時代より侍医として召し抱えられ、以来400年医家を営んできた。
        数々の名医を輩出したが、水平社創立に大きな役割を果たし、の
ちの日本共産党中央委員
        長となった佐野学も佐野家出身である。


          
         城下で最も古いとされる木造建座敷から庭が眺められる。

          
         佐野家の優れた医家たちは同時に優れた文人たちでもあった。佐野家の家号「洞達亭」
        は三浦梅園が名付けた。


          
         代々医師で藩医を務め、1989(平成元)年までここで診療が行われていた。当時の外科
        用、眼科用など当時の機材がそのまま残されている。


          
         主屋は1782(天明2)年に建築したもの。

           
         別棟は病棟であったとされる。

          
         隙間なく積み重ねられた石垣に長い土塀が続く。

          
         江戸時代、番所は城下町に入る6ヶ所に設けられていた。当時は坂の下に番屋があり、
        関所と同じ役目を担い、時間となると大戸が開閉された。この北浜口番所
の坂の下はかっ
        て海が広がり、物資、文化などが入ってきた。

         坂の先にバスターミナルがあり、JR杵築駅に戻ることができる。          


別府は古くからの温泉街の町

2017年11月20日 | 大分県

          
        この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分1地形図を複製したものである。(承認番号 平29情複第968号)
         別府は大分県の東部に位置し、西に鶴見岳・扇山、東は別府湾に囲まれた扇状地と沖積
        平野か
らなる。別府山の手地区は別府温泉中心街(JR別府駅周辺)より西側の地区で、戦
        災に遭わなかった別府には、明治、大正、昭和から続く温泉や建築物等が残っている。古
        くから別荘地として開発され、「九州の軽井沢」とも呼ばれていた所である。(歩行約7㎞)

          
         1911(明治44)年に開業したJR別府駅。

          
         JR別府駅前のビル所有者が「駅前なんだからいい風景をつくりたい」と、ダメモトで
        岡本太郎氏に頼んだら実現したレリーフである。(岡本氏にとって別府は両親が治療のた
        め通った思い出のある場所であった)
         作品の大きさに合わせて、鉄骨でビルの高さを継ぎ足したとされる。

          
         田の湯温泉の創設は江戸時代と伝えられ、温泉の名のとおり、田んぼの中にあり、畦道
        を通って利用していたため「畦なしの湯」とも呼ばれていた。その後、田の湯温泉と呼ば
        れるようになったが、素朴さの残る市営の温泉である。(入浴
料100円)

          
         明治から大正にかけて松永万八の別荘として建てた洋風木造三階建ての建物は、民宿・
        田の湯館として使用されてきたが、2009(平成21)年の夏に取り壊しとなったとか。

          
         公会堂の駐車場一角に、1982(昭和57)年に移築された土蔵造り木造2階建ての古
        風な建物がある。
         井上馨が山口市湯田で俗論派(恭順派)の刺客に襲われ重傷を負う。その翌年の1865
        (慶応元)年に別府へ逃れ、身を隠した旅籠若彦(のちの若松屋)の離れである。47年後の1
        911(明治44)年に同所を訪れ、謝恩の意をこめて「千辛萬苦之場」という扁額を贈る。

          
         別府市公会堂(旧別府市中央公民館。市民会館)は、1928(昭和3)年に当時の著名な建
        築家の吉田鉄郎が、ノーベル賞の記念晩さん会が開かれるスウェーデンのストックホルム
        市庁舎にヒントを得て設計したという。彼が渡欧したのは、公会堂竣工の3年後のことで
        ある。

          
         白い壁にアールデコ調の曲線が美しい廊下。

               
           
          星月夜をデザインしたステンドグラスも健在。

         
       
  大正時代から昭和初期にかけての歌人・柳原白蓮は、京都の伯爵家に生まれた。16歳
        にして養女先の子息と結婚させられるが、すぐに離別する。27歳の時に筑豊の炭鉱王・
        伊藤伝右衛門と再婚し、別府の赤銅(あかがね)御殿と呼ばれた別荘での生活が始まる。その
        後の青年社会運動家・宮崎龍介との恋話は有名である。
         赤銅御殿跡の公園には、「和田津海の 沖に火燃ゆる 火の国に 我あり誰そや 思は
        れ人は」と、白蓮が情熱を込めて詠んだ詩碑がひっそりと立っている。

          
         赤胴御殿敷地面積は10,700㎡、建築面積936㎡であったという。1914(大正
          3)
年に伊藤伝右衛門が起工し、2年後に竣工する。戦中は海軍省、戦後は占領軍の宿舎に
        接収され、1954(昭和29)年にホテル赤胴御殿として開業するが、1979(昭和54)
        に解体される。(写真は別府市の復元調査による鳥瞰図)

          
          
         聴潮閣(ちょうちょうかく)は、1929(昭和4)年に当時の大分県における政財界の第一人
        者だった高橋欽哉が住居兼迎賓館として建てたものである。大正から昭和にかけて流行し
        た和洋を取り入れた近代和風建築である。残念ながら昨年末で閉館して内部を見ることは
        できない。

          
         野口原五輪塔群は、別府市野口原で土石流の中に埋もれていたものが発掘されて、現在
        地の公園に移転して復元される。年代は鎌倉~室町時代にかけてのものと推定され、この
        1基から火葬の人骨も発見されている。

          
         1922(大正11)年に北九州の炭鉱王と呼ばれた佐藤慶太郎の寄付を受け、野口雄三郎
        が野口病院を設立する。2013(平成25)年に青山町の地へ新築移転する。

          
          
         別府観光の父・油屋熊八は、亀の井旅館(現在の別府亀の井ホテル)・亀の井バスを設立し
        て、日本初の女性バスガイドによる案内付の定期観光バス運行を始める。
         今では公費による観光地の売り出しは当たり前であるが、別府温泉の宣伝は熊八の私財
        と借財でまかなわれた。熊八没後、バス会社、旅館は借金の返済のため売り払われた。今
        でも彼が残した功績は数多く、湯の町別府を支えている。

          
         京都大学地球地熱研究所の本館は、1923(大正12)年に建築された赤煉瓦造の施設で
        ある。玄関と塔屋を中心に左右対称に振り分けられ、煉瓦の赤と石貼りの白との対照や、
        イオニア式を模した柱頭飾りを持つ特徴的な外観で、気品ある建物となっている。

               
         グローバルタワーは高さ125mで、突き出した形の展望デッキから別府を一望するこ
        とができる。展望デッキはワイヤーを張っているだけで天井がない。
         このため、このタワーは建造物でなく構築物だとか。デッキから旧中山別荘が見えてい
        たが、2006(平成18)年に取り壊され、跡地は複合施設となっている。

          
         別府を代表する三大別荘といわれた赤胴御殿、中山別荘および麻生別荘があったが、2
        006(平成18)年に麻生別荘も解体され、三大別荘の姿を見ることはできない。

          
          
         グローバルタワーが天空に向かって大きく弧を描く部分は、別府公園中央部の標高0m
        地点を中心として、直径1kmの巨大な仮想球の一部をなす曲面を想定しているという。

          
         別府市社会福祉協議会の鏝絵は、どこから移設されたのか不明とのこと。

          
          
         旧野口病院は大正ロマンあふれる洋風建築で、四角錐の尖塔屋根の玄関部分を中心軸に、
        左右対称の均整のとれた外観である。

          
         駅前高等温泉は、1924(大正13)年に建てられた英国の民家風建物である。白壁に緑
        色のトンガリ屋根で、大正浪漫をまとった温泉である。

          
         別府ブルーバード劇場は、1949(昭和24)年に中村弁助さんが開館する。現在は岡村
        照さんが、1971(昭和46)年に父から引き継いで続けられている。

          
         もう1つの映画館は趣が違うようだ。

          
         ホットストリートやよいのアーケード街を歩く。

          
         溝口青果の四差路を左折して竹瓦温泉通りに入る。

          
         1879(明治12)年創設の竹瓦温泉は、当初に建築されたものは屋根が竹葺きの浴場
        で、その後、改築されて瓦葺きになったため、竹瓦温泉の名称がついたと伝える。
         現在の建物は、1938(昭和13)年に建築されたもので、正面に唐破風造の豪華な屋根
        をもつ温泉となっており、別府温泉のシンボル的な存在になっている。

          
          
         入り母屋造の裳階付きや寄棟造といった変化を見せ、瓦屋根の美しさを持つ社寺風建築
        である。

          
         竹瓦温泉を訪れる人が雨に濡れないようにと、1921(大正10)年に完成した現存する
        日本最古の木造アーケードである。日が暮れると竹細工の照明が灯り、幻想的な雰囲気に
        なる。2009(平成21)年に別府温泉関連遺産として、近代化産業遺産に認定された。

          
         中浜地蔵尊は約1500年前に、百済帰りの僧・日羅法師が作った歴史ある地蔵尊で、        
        水害を鎮める神様として大切にされている。

        
          
         別府市児童館(旧別府電報電話局電話分室)は、1928(昭和3)年に建築されたもので、
        鉄筋コンクリート造煉瓦タイル貼でコの字型の建物である。全体に装飾的要素を極力抑え
        たシンプルな構成になっている。

               
         別府カトリック教会は、1950(昭和25)年にフランス・ルルドーの教会を模して、
        世界中の人々の寄付で造られた。左右対称型で窓や出入口の上に尖頭アーチを用い、鐘
        塔の4つの鐘が、1日3回ドレミソの音階で市民に時を告げている。      
 


日出は別府湾を見下ろす小さな城下町 (日出町)

2017年11月19日 | 大分県

          
        この地図は国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分の1地形図を複製したものである。(承認番号 平29情複第968号)
         日出(ひじ)は大分県の中部、国東半島の南端部に位置するが難読な地名である。1889
        (明治22)年の町村制施行により、日出(ひじ)村は町制に移行する。その後、1954(昭和
          29)
年に豊岡町、藤原村など4町村と合併し、新たな日出町となり今日に至っている。(歩
        行約5㎞)

          
         1987(昭和62)年4月に国鉄分割民営化されたが、暘谷駅は国鉄時代の同年3月に開
        業する。2016(平成28)年には約100m東側へ移動して新駅舎が完成する。

          
         左手は大手門通りであるが直進する。

          
         致道館(ちどうかん)は、1858(安政5)年に15代藩主・木下俊程の命により、二の丸に
        創立された藩校である。明治の廃藩により閉校し、1951年(昭和26)年に日出中学校の
        開設に伴ない現在地へ移転した。

          
         建っているのは講堂(主屋)部分で、8歳以上の子弟が読書、習礼などを学んだ。致道館
        前が旧木下家居所だったようで白壁通りとなっている。

          
         海の石を利用した塀も現存する。

          
         穏やかな別府湾を臨みながら遊歩道へ下る。

          
         城下(しろした)海岸から豊岡島山まで約2.5㎞の遊歩道。

          
  
         城側西南部の地盤は軟弱で難工事であったことや、方位上から城の裏鬼門にあたること
        などから人柱を立てたのではないかと考えられている。棺が出土した地点の石上に人柱祠
        が祀られている。 

          
         暘谷稲荷前から城址への道。

          
         天守閣跡より別府湾。

          
         暘谷城の時鐘は、1695(元禄8)年に3代藩主・木下俊長が鋳造させた釣鐘である。1
        874(明治7)年に外大手門(現在の日出町役場前)より裏門櫓の跡地に移された。

          
         裏門櫓から石垣に沿って遊歩道が設けられている。

          
         日出城は、1601(慶長6)年初代藩主の木下延俊が姫路から移封入国後、築城に取りか
        かり翌年に完成する。三層の天守閣は別府湾に臨む一角に築かれ、大規模ではなかったが
        調和のとれた美しい城だったといわれている。

          
         城の石垣は近江国穴太(あのう)の石工集団によって築かれたとされている。3代藩主・木
        下俊長が中国古書より引用した暘谷城という別名もある。

          
         日出漁港前の集落。

          
         蓮華寺(高野山真言宗)は、浮津密乗院(うきつみつじょういん)と名乗り、大神氏の菩提寺だ
        ったといわれている。1603(慶長8)年に藩主・木下延俊が、日出城鬼門鎮護のため現在
        地に移し、日出藩の祈祷所として蓮華寺に改名した。

          
         若宮八幡神社の神殿正面に建つ二層の楼門は、1703(元禄16)年に藩主・木下俊長が
        寄進したものである。

          
         左手の社殿は金比羅宮。

          
          
         鏝絵は厄除けや家内安全、子孫繁栄の意味を込めて「えびす」「大黒」「鶴」など縁起
        のよいものが多い。上の「恵比寿と鯛」は傷みがあり、下は修復されたようで波をウサギ
        が飛んで行く様が描かれている。

          
         的山荘(てきざんそう)は、1915(大正4)年に馬上金山を経営していた成清博愛(ひろえ)
         
が、別荘として建てた数奇屋風の建物と庭園である。

          
         総工費は25万円(現在の価値でおよそ7~8億円)と記録されている。

          
         別府湾を一望する広大な敷地に、近代和風建築の粋を凝らした豪華な家屋と、別府湾や
        高崎山を借景とした見事な庭園が広がる。(国重要文化財)

           
         鞍馬から取り寄せたという靴脱ぎ石は、表面が暗赤褐色に錆びている。茶道の侘び寂び
        の世界に欠かせないとされている。

          
         旧二の丸の街並み。左手が料亭「的山荘」

          
         現在の日出幼稚園は瀧家住居跡(二十番屋敷)で、瀧廉太郎の父・吉弘の生家である。

          
         二の丸日出中学校校庭にある大サザンカは、樹齢400年以上で町花・花木とのこと。

          
         城があった当時のままの道だそうだ。

          
         日出小学校前に深い堀が残されている。

          
         二の丸館(にのまるやかた)日出城址周辺の観光拠点として、2010(平成22)年に完成
        する。

          
         大手門通り。

          
         本丸の北東側に位置していた鬼門櫓は、櫓の北東隅を欠いた特異な構造である。これは
        鬼門の隅を無くしてしまうことで、鬼門の方角から禍が侵入するのを封じ込めるために施
        されたものと考えられる。日出城に建っていた頃は下の石垣まで隅を欠いていたといわれ
        ている。

          
         瀧家は日出藩の家老職を代々務めた上級武士であった。瀧廉太郎(1879-1903)は肺結核の
                ため、1903(明治36)年6月29日に大分市の自宅で死去する。当初、大分市の万寿寺
                に葬られたが、2011(平成23)年に先祖が眠る龍泉寺に移された。

          
         帆足萬里は三浦梅園、廣瀬淡窓とともに、「豊後三賢」の一人に列せられる日出町出身
        の高名な学者である。学問だけでなく、時に日出藩家老として藩政の改革に尽力した偉人
        でもあった。萬里の墓は松屋寺裏手の丘の上にある。

          
         丘から見る日出の街並み。

          
          
         松屋(しょうおく)寺は前身を西明寺といい、日出藩初代藩主・木下延俊が1607(慶長1
          2)
年に、祖母の朝日の方(豊臣秀吉の正室・高台院の母)と、妻の加賀の法名から「康徳山
        松屋寺」と改称する。

          
          
         樹齢約700年といわれる大蘇鉄。高さ6.1m、株元の周囲6.4mもの大きさを誇って
        いる。

          
         藩祖・木下延俊は豊臣秀吉の正室・高台院(北政所、ねね)の兄である木下家定の子であ
        る(秀吉からみると義理の甥にあたる)もともとは杉原家を名乗っていたが、高台院の実
        家にあたることから、血縁の少なかった秀吉に重用され、豊臣姓である木下氏を名乗るよ
        うになった。関ヶ原の戦い(1600年)のとき、東軍で活躍した功績により、徳川家康に
        より豊後国・日出3万石に封じられて日出藩を開く。

          
         父の木下家定も備中国(岡山県)足守藩2万5千石を封じられる。江戸時代に260の大
        名家があったが、豊臣家につながりを持った大名は足守藩木下家と日出藩木下家の2家の
        みである。  

         松屋寺から暘谷駅に戻る。