この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製加工したものである。
山陽鉄道は下関への延長工事を計画した時、船木村を通す予定であったが、当時の船木
は藩政時代からの宿場町として繁栄していた。鉄道建設により町が寂れるとして、村民の
反対を受け、交通の利便から取り残されることになった。1910(明治43)年に軽便鉄道
法が、翌年に軽便鉄道補助法が施行される。小資本で軽便鉄道建設の道が開かれると、地
元有力者たちにより船木軽便鉄道㈱が創立される。
1916(大正5)年7月宇部~船木、1923(大正12)年12月船木~万倉、1926
(大正15)年11月に吉部(きべ)までの全長17.7㎞の船木軽便鉄道が開通する。(歩行約
11.4㎞)
JR宇部駅から船鉄バス船木行きに乗車、船木で瀬戸行きに乗換えて吉部バス停で下車
する。この区間は100円均一でバス旅を楽しむことができる。
バス停先にJAの倉庫があるが、ここが旧吉部駅だったとのこと。当時の吉部村は、戸
数600、人口3,500人を擁し、船木宰判より萩城下に至る要路として、物資の集散地
として栄え、旅人宿が賑わったところである。
旧吉部駅から吉部小学校にかけて築堤が残されている。
右手の片隅にある四角いコンクリート製は、信号機の土台のようである。
参道と立体交差する地点までは築堤を歩くことができる。
築堤を歩くときには気付かなかったが、小川があるので県道30号線を引き返すと卵型
の橋梁がある。
土手のように見えるのが鉄道敷跡。
吉部八幡宮参道と立体交差していた場所に、石積みの橋台が残存する。
吉部八幡宮(駐車場にトイレ)
案内板のようなものが見えたので立ち寄ると、6世紀後半から7世紀頃に、全国で数多
く造られた小円墳の1つである槍ヶ森古墳である。
田畑の造成などで破壊されており、造られた当時の形は残しておらず、墳丘を覆ってい
た土は流失し、天井石も外されている。
築堤は吉部小学校東側で途切れる。
吉部駅と大棚トンネル間は、高低差がないように高い橋脚が設けられていた。
小学校の体育館前を過ごすと、大棚トンネルへの案内がある。鉄道敷は石垣と土盛りさ
れた上に敷設されていたと思われる。
小学校西側から大棚駅跡まで鉄道敷跡が現存する。第二次大戦の戦局悪化により、19
44(昭和19)年3月2日鉄道軌道統制法により、吉部~万倉間8㎞のレール供出を要求さ
れて廃止となる。
全長37mの大棚トンネル。(吉部側出入口)
トンネル内は垂直壁と半円構造で、石積みと煉瓦が用いられている。
小坂~吉部間は山肌の切落しが、度々の土砂崩壊により難渋したという。特に大棚附近
の山肌切取りは、再度にわたって崩壊したので隧道に変更されたという。(万倉側の出入口)
トンネルから50mほどの位置に、大棚駅ホームと駅標板が復元されている。
大棚トンネルから先のルートはわからなかったが、県道の他は道がなさそうなのでピー
クを越えるが、当時はもう少し勾配があったものと思われる。
下って来ると100m先に、「黒川の妙典供養碑(市指定有文)」が案内されているので立
ち寄る。
鎌倉期から江戸期にかけて盛んに造られた板碑で、石造卒塔婆(そとば)としては旧楠町内
で唯一のものとされる。
高さ128cmの自然石の正面上方には大日如来を示す梵字、中央には蓮弁が彫られ、下
方には「天文15丙午(1546)8月24日 常音敬白 為妙典一部供養」と刻銘されている。
この生活道が鉄道敷だったかどうかはわからないが、道の左手を長谷川が並行する。
長谷集落から緩やかな坂を上がって行くと、この附近に峠駅があったとされ、現在は同
名のバス停が設置されている。
笛太郎ファームの看板下に短いトンネルが残存する。
現在は水路と化し、出入口附近は藪となって立ち入ることができない。
トンネルの位置から考えると、県道より一段低い位置に敷設されていたと思われる。
山中バス停附近から県道下に鉄道敷が長く延びる。
県道との高低差がなくなる地点で合流し、芦河内集落入口へ向かう。(歩車分離でない道)
船原バス停を過ごすが大型車種が意外と多い。
(芦河内入口~万倉)
芦河内バス停の先からは矢矯川左岸に敷設されていたようだが、跡らしきものは残存す
るが藪化で進入不可であった。
今富バス停から矢矯川に架かる出合橋を渡り、今富駅があった附近を目指すが、この時
期は藪になって先に進めないため残念する。
県道を斜めに横断していたと思われるが、この先は竹が繁茂して進入困難であった。
県道の右手に橋台のようなものが見える。
県道を右折して上矢矯集落の生活道に入り、鉄道敷跡への道を探すが、民家で行き止ま
りとなる。
庚申塚の先に進入路があり、上がると矢矯(やはぎ)駅跡である。
駅跡から鉄道敷を引き返すと橋台が見えるが、県道から見た橋台なのかはわからない。
万倉側の橋台。
吉部側の橋台下に踏み跡らしきものが見える。
鉄道敷跡を引き返す。
ほぼ直線的に敷設されているが、切通し附近はぬかるみ状態が続く。雨後であれば通行
に難がありそうだ。
矢矯駅跡にプラットホームが残存する。
築堤は途切れたので生活道を歩くと、右手に築堤とコンクリート製の橋台、橋脚が見え
てくる。
築堤から矢矯駅方向を見返すが、橋台の先は民家である。
万倉側は築堤の途中に柵が設けてあって歩くことができない。
途中から農道と畦道を利用して築堤を横切る。
万倉中心部に向かって真っ直ぐに敷設されていた。
万倉側より見返る。
万倉駅と同名のバス停付近に駅があったものと思われる。吉部~万倉間は戦争協力とい
う名の下で、17年4ヶ月でその使命を終えたが、建設に協力した地区住民にとって余り
にも悲しい結末になった。万倉までの遺構を思い浮かべながら、船木経由でJR宇部駅に
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