ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

下関市の前田・火の山に砲台跡

2022年03月29日 | 山口県下関市

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         前田は霊鷲山(りょうじゅせん)山麓に発する前田川流域に位置し、関門海峡東入口に面す
        る。 
         一方、火の山は、関門海峡東側の早鞆瀬戸に面する独立峰。海峡を扼する要害の地で、
        山名の由来は、敵の来襲を都に知らせる烽火(のろし)場があったことによる。(歩行約6㎞、
        🚻前田にはなし)

        
         JR下関駅①、②番のりばからサンデンバス小月行き約15分、前田バス停で下車する。

        
         バス停からバス進行方向へ歩くと看板が見えてくる。

        
         国指定史跡「長州藩前田台場跡」は、幕末の下関で攘夷戦(外国勢力を追い払う)におい
        て、長州藩が関門海峡沿いに構築した台場である。

        
         1863(文久3)年5月、初めて外国船に攻撃して戦果をあげたが、翌月には米仏軍の報
        復を受け、台場は壊滅的な打撃を受けた。
         しかし、台場を修復したうえ、新たな台場を構築して海峡封鎖を続行した。1864(元
          治元)
年8月、米英仏蘭の4ヶ国艦隊の攻撃をうけ、陸戦隊によって占拠・破壊された。(山
                は火の山だが煉瓦造は不詳)

        
         この敗戦によって長州藩は軍備の西洋化を進め、攘夷の方針から倒幕への道をとること
        になるが、その起点となった重要な史跡である。(碑は行啓記念碑?) 

        
         高台にあった御茶屋を移転して台場を増設し、以前からあった台場を「低台場」、増設
        された台場を「高台場」とする。その高台場に「皇太子殿下駐駕之處」の碑が立っている。

        
         高台場から低台場と前田の町並み。 

        
         すみれ保育園前から前田川筋へ向かう。

        
         路地を通って旧山陽道に出る。

        
         旧山陽道は現在の国道9号線よりも10数m高い山裾を通っていたようで、今は消滅し
        て辿ることはできない。

        
         民家を結ぶ路地を抜けると広い道に出る。

        
         西進して国民宿舎「海峡ビューしものせき」を過ごすと、正面に火の山ロープウェイ壇
        の浦駅が見えてくる。

        
         山頂まで歩いて上がる予定にしていたが、ロープウェイが運行されていたので利用する。
        (往復520円) 

        
         1887(明治20)年西日本における国防の拠点として、下関に要塞砲大隊の設置が決定
        され、下関要塞の一部として「火の山砲台」の建設が開始される。1890(明治23)年の
        完成後、太平洋戦争の終結まで、他の丘陵とともに一般人立入禁止の要塞地帯となる。

        
         第一砲台はロープウェイ駅の設置により消滅。第二砲台の観測所指令室は、ロープウェ
        イ駅から遊歩道に沿うと、火の山展望台の直下にある。 

        
         観測所があった所に展望台が置かれ、関門海峡を一望することができる。

        
         展望台からコンクリートの一部に丸い穴が見える。

        
         第3号砲側庫(弾薬庫)の入口に「第三號」の文字が見える。

        
         入口はモルタル仕上げとなっているが、構造は煉瓦造である。展望台から見た2つの穴
        はこの砲側庫だった。 

        
         砲側庫よりも高い位置にテレビ中継局が建っているが、ここに「2番砲座」があったと
        される。その一角にコンクリートの構造物があるが正体不明である。

        
         テレビ中継局の入口に煉瓦積みと石が置かれているが、これも遺構のようである。 

        
         砲側庫は半地下式の構造になっているが、戦後の公園化事業により、当時の状況がどの
        ようであったかはわからない。

        
         次の第3砲台の砲側庫は柵もなく、スロープが設置されて中に入ることができる。

        
         砲側庫が3つ並び、内部は休憩所になっている。 

        
         煉瓦とコンクリート、石で築造されており、24センチカノン砲の弾薬が納められてい
        た。

        
         第4砲台は地下棲息掩蔽(ちかせいそくえんぺい)部や砲座、堡塁等が当時の姿で残されてい
        る。

        
         
        
         石段を上がると正面に観測所と司令室。

        
         司令室手前の左側には地下棲息掩蔽部へ通じるトンネル。 

        
         棲息掩蔽部は5つの兵員室と、それを挟む形で両側に砲側庫が置かれている。

        
         石段があって棲息掩蔽部に下りることができる。

        
        
         棲息掩蔽部(兵員室)は煉瓦とコンクリート石でアーチ状に築かれ、南北に長い部屋の造
        りで、双方に出入口が設けてある。

        
        
         内部にはカマドや貯水式井戸などがあって、ここで身を潜め食事や休息をとっていたも
        のと思われる。

        
         南側の棲息掩蔽部(兵員室)出入口。左の開口部は砲座に上がる階段。

        
         司令室の上に観測所。

        
         円形の中央部にある円柱は、敵艦を観測する測遠機が置かれていた台座である。

        
         2つの砲座に挟まれた中央に観測所と司令室があり、観測所で敵艦の距離や方向を測り、
        測量結果を指令室に伝え、指令室から両脇の砲座に指示がなされていた。

        
         28㎝榴弾(りゅうだん)砲の砲座。

        
         第4砲台入口まで戻って、外側の堡塁に沿って反時計回りで歩いてみると、堡塁の形が
        しっかりと残っている。(歩いて見返る)

        
         9号砲側庫の南側に大砲を据え付けた砲座があって、ここには小型砲の弾薬などが保管
        されていた。

        
         子供の遊具がある北東側に第10と11の砲側庫があり、第9号と同サイズのように思
        われる。

        
         砲側庫の奥に砲座跡があるが、説明によると明治時代に築かれた火の山砲台は、大正期
        を迎え国の防衛に対する方針転換からその役目を終える。
         昭和期に入ると、新たに上空に向けた防衛の役割が重要となり、高射砲陣地が配置され
        る。中央にある多角形のコンクリート基礎が砲座跡とされる。

        
         岩盤の上に石組みと煉瓦で壁を作り、防御壁としていた堡塁の壁のようだ。

        
         ロープウェイのおかげで時間的な短縮と疲労が軽減できた。 

        
         みもすそ川までの遊歩道を下る。

        
         みもすそ川公園は源平合戦最後の戦いとなった壇ノ浦に面しているため、平家にまつわ
        る碑などが設置されている。

        
        
         早めにみもすそ川バス停に下ったため、1958(昭和33)年に開通した関門トンネル人
        道を県境まで歩いて引き返す。

        
         みもすも川バス停からJR下関駅に戻る。


北九州市の若松は筑豊炭の積出港で賑わった町

2022年03月24日 | 福岡県

        
                 この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。            
         若松は北に響灘、東と西は洞海湾に面する位置にあり、現在は戸畑との間に若戸大橋が
        架かる。
         地名の由来は、若い松が多い所だったのでこの名になったともいわれている。(歩行約
        4.8㎞)

        
         戸畑から若戸渡船で若松に移動するが、近辺に食事場所がないため駅前に移動する。

        
         JR若松駅は1891(明治24)年8月30日、筑豊興業鉄道㈱が若松ー直方間を開通さ
        せたと同時に開業した駅で、開業当初から筑豊炭の積出港として繁栄した。
         しかし、エネルギー革命の進展により、石炭輸送が極端に減少し始めると、構内整理が
        開始されて現在の旅客駅に様変わりしてしまう。1984(昭和59)年に現在の駅舎が完成
        すると、大正ロマン漂う旧駅舎は解体されてしまう。

        
         駅舎横の店舗裏にセム1型の石炭車が保存されている。炭箱の上部が木板で継ぎ足しさ
        れたもので、筑豊炭田の石炭輸送に使用された2軸石炭車。セムの「セ」は石炭車のセ、
        「ム」は最大積載量14~16トンを国鉄記号で表記したもの。

        
         駅前から案内標識に従って火野葦平旧居「河泊洞(かはくどう)」を訪れる。

        
         芥川賞作家・火野葦平(1907-1960)が34歳~53歳まで過ごした家で、葦平が出征中に
        父金五郎が葦平のために、兵隊三部作の印税によって建てたものである。葦平は河童をこ
        よなく愛したことから「河泊洞」と名付ける。(見学は無料) 

        
         小説「花と龍」は明治の北九州を舞台に、裸一貫で若松に石炭荷役請負業「玉井組」を
        築いた父金五郎と母マンの物語である。金五郎の左腕に菊を握った昇り龍の刺青があった
        ことから題名となったという。

        
         火野葦平(本名:玉井勝則)は1937(昭和12)年出征前に書き上げた「糞尿譚」で第6
        回芥川賞。以後、「麦と兵隊」「土と兵隊」「花と兵隊」と代表作を次々に発表する。
         しかし、戦後は戦犯作家として戦争責任を追及され、自ら戦争責任に言及した「革命前
        夜」の執筆直後に世を去ったが、疲労による睡眠薬自殺ともいう。(2階の書斎)

        
         若松機関区があった付近に、同機関区所属だった「キューロク」の愛称で親しまれた9
        600型蒸気機関車が保存されている。1917(大正6)年に貨物用機関車として製造され、
        引退するまでの55年間(2,825,836㎞)走り続けて日本経済の発展に寄与してきた。

        
         若松村は一村落にすぎなかったが、水運の拠点として大きな役割を担うのは遠賀川上流
        で産出される石炭の積出港になってからである。
         若松の自治体変遷によると、1889(明治22)年の町村制施行時には、従来の若松村の
        区域をもって自治体を構成する。1891(明治24)年町制に移行し、1914(大正3)年に
        は若松市になるなど急速な発展を遂げている。

        
         弁財天上陸場は、1917(大正6)年頃当時の若松市が沖仲仕をはじめ洞海湾で活躍した
        人たちの乗降や荷役の場として築造した。石段の左右にある洒落た常夜灯は、1921(大
          正10)
年地元商店主などによって建立された。 

        
         北九州地方では石炭荷役をする仲仕の事を”ごんぞう”と呼び、明治期の石炭積立港と
        して隆盛をきわめた。ごんぞう小屋は、かって当地にあった彼らの詰所を模して1996
        (平成8)年に復元された。

        
         小屋の内部には「ごんぞう」や「筑豊から若松への石炭輸送ルート」および「実際の荷
        揚げ作業風景」などが紹介されている。

        
         通りを挟んで向かい側にある厳島神社。正徳年間(1711-1715)の創建と伝えられ、海運
        の守護神・漁業の神とする宗像三神が祀られている。

        
         若松ではもっとも古い洋館建ての石炭会館は、1872(明治5)年福岡藩の焚石会所制度
        がなくなると、石炭の採掘・販売が無秩序となる。これにより過度な競争が生まれたため、
        1875(明治8)年に問屋組合という制度ができる。
         その後、炭同組合に改称されて、1905(明治38)年木造2階建て、外装はモルタル塗
        りに目地を入れて石造り風とし、ドリス式に仕立てられた円柱の玄関を持つ建物が建てら
        れた。

        
        
         1919(大正8)年に建築された旧古川鉱業若松ビル。アールデコ様式の塔を持つ2階建
        ては煉瓦造で、内部と屋根架橋が木造となっている。
         近年、入居者もなく老朽化が進み、解体が検討されたが地元の熱意により保存が決定さ
        れたという。(国登録有形文化財)

        
         1892(明治25)年若松港築港が完成すると、1904(明治37)年には特別輸出入港に
        指定され、若松南海岸通りには、船会社、荷役会社、石炭会社や税関などの官庁が並び始
        める。

          
         1913(大正2)年に旧三菱合資会社若松支店として建設された上野ビル。石炭積出港と
        して栄えていた当時、大手銀行や商社の支店が入居するなどランドマーク的な存在だった
        という。

        
         内部は吹き抜けで回廊を配した造りである。

        
         1962(昭和37)年に架橋された若戸大橋は、吊橋部の長さ680m、主塔間の長さ3
        67m、海面からの高さ約40m(貨物船が衝突した山口県の大島大橋は31.9m)である。 

        
         若戸大橋の真下にあるのが杤木(とちき)ビル。杤木商事㈱(現、杤木汽船㈱)が、1920
        (大正9)年本社ビルとして建設したもので、当時としては珍しい鉄筋コンクリート造である。
        外壁の1階部分は石貼り風、他は茶褐色のタイルとし、正面に白タイルで菱形模様を配し
        ている。

        
         若松築港会社(現若築建設)は県の許可を得て、1893(明治26)年より1938(昭和
          3)
年までの間、若松港の整備、維持、管理費用として、洞海湾に出入する船舶から港銭(
        入港料)を徴していた。
         この出入船舶見張所は、1931(昭和6)年に設置され、不正入港を監視する施設であっ
        た。

        
         1891(明治24)年頃から響灘の埋立てが開始されたが、それまでの恵美須神社の鳥居
        は北の海辺に面していた。現在は常夜燈だけがこの地に残る。(碑は不詳) 

        
         恵比須神と大黒神が祀られる若松恵美須神社。人々に幸福と財宝と長寿を授けてくれる
        という。

        
         本殿横に置かれている方位石には、2段の台座の上に東西南北(北は〇)と十二支の文字、
        中心に針形を刻んだ方位盤が載せてあるが、置かれた目的や年代は不詳とのこと。
         もとは境内の波打ち際にあったが、1988(昭和63)年若戸大橋拡張工事で現在地に移
        設された。

        
         神社の南面を若戸大橋が横断する。

        
         これも拡張工事の際に移転を余儀なくされたものだろうか。この中に「若松小学校発祥
        之地」の碑があるが、若松尋常小学校は1874(明治7)年恵美須神社付近で開校し、19
        03(明治36)年桜町へ移転する。

        
         恵美須神社の近くに六地蔵を祀った堂宇があり、祈願のためにお参りされる方が多いと
        か。
         地蔵菩薩の6分身とされ、生前の行為の善悪によって、人は死後、地獄道、畜生道、餓
        鬼道、修羅道、人道、天道という六道を輪廻転生するといわれる。それぞれ世界には衆生
        救済をしてくれる檀陀(だんだ)、宝印、宝珠、持地(じじ)、除蓋障(じょがいしょう)、日光の6
        地蔵がいらっしゃるという。

        
         格子模様に北九州市の市花「ひまわり」がデザインされたマンホール蓋。

        
        
         大正町商店街の多くはシャッターが下ろされているが、鮮魚店や海産物店、青果店は健
        在で、昭和の時代にタイムスリップしたような通りである。

        
         大正町商店街の北隅に「吉田磯吉旧宅跡」の碑が立つ。吉田磯吉(1867-1936)は福岡県遠
        賀郡芦屋の生まれで、明治・大正・昭和初期における若松港の発展において欠かせない人
        物の一人とされる。火野葦平の小説「花と龍」や「女傑一代」に登場するのみならず、親
        分衆の束ね役・地域社会の利益代表者・政治家・実業家・調停役・管財人・よろず引き請
        け業など、多面的な「顔」を持つ人物であったという。 

        
         金鍋」は明治の初め小倉港近くで牛鍋屋として誕生。1895(明治28)年に若松へ移転
        して料亭となる。建物は一度焼失するが、すぐに再建され、黒漆喰の重厚な外観と洒落た
        表門が目を引く。(国有形文化財)

        
         現在、若松には映画館がないようだが、繁栄期にはたくさんの映画館があったようで、
        その一つ「旭座」は、1942(昭和17)年開館したが、1978(昭和53)年代に閉館した
        という。

        
         極楽寺(真宗)を横目で見て駅に戻る。 

        
         若松駅は終着駅のため頭端式ホーム1面2線を有する。

        
         乗車するBEC819系電車は交流電化用蓄電池電車で、外装は白色をベースにしてド
        アは青色が配色されている。
         折尾駅までの区間は初乗車であったが、戸畑を散歩して渡船で若戸大橋を眺め、石炭で
        栄えた若松を初見して、最後は蓄電電車で車窓を楽しむことができた。 


北九州市戸畑の洞海湾に若戸大橋と渡船

2022年03月24日 | 福岡県

        
               この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         戸畑は古くには飛幡、あるいは鳥幡とも書かれた洞海湾に面する位置にある。現在は若
        松区との間に若戸大橋が架かり、西を鹿児島本線が走る。
         地名の由来は、岬門(くきと)の端にあるので門端とされたのが始まりという。(歩行約2.
        5㎞) 

        
         JR戸畑駅は1902(明治35)年九州鉄道時代に開業した鹿児島本線の駅。1964(昭
           和39)
年に民衆駅として建て替えられ、駅玄関も町の発展を考えて以前の反対側に変わっ
        た。1999(平成11)年現在の駅舎を西側150mほど移転させて都市開発が進められた。

        
         現在の駅舎完成時に駅北側との連絡通路が完成する。

        
         北側の駅前広場に若山牧水の歌碑
             「われ、三たび此処に来りつ 家のあるじ寂ひ定まりて 静かなるかも」
         牧水は地元の「創作」支社の招きで3度戸畑を訪れている。

        
         堂々とした風格を持つ「いくよ旅館」の建物は、1913(大正2)年築とされる 

        
         渡船場から駅への路地。

        
         路地は大型クレーン車が作業中のため通行止め。

        
         鳥居の神額は「蛭子神社」

        
         恵美須神社の由来によると、平安期の1182(寿永元)年、平家一門が壇之浦合戦に敗れ、
        落ち延びた平家の人々は、飛幡の浦に隠れ住み漁業を営んでいた。地付きの人々と相談し
        て出雲国美保神社よりえびす神を勧請して奉祀したのが始まりとする。 

        
         境内にある「御乗船地碑」は、1900(明治33)年10月、当時の皇太子が中原で陸軍
        第12師団の演習視察後に、戸畑の渡船場から開業間近の八幡製鉄所を視察された。その
        時の乗船地を記念して建立されたが、森鴎外は皇太子の視察に同行し、この時の様子を「
        小倉日記」に記していると説明されている。

        
         東光寺(臨済宗)の由来によると、戸畑が寒村の頃に無住の東光庵と地蔵堂があったとい
        う。その後、庵は焼失して地蔵堂だけが残されていたが、明治になって東光寺が現在地に
        移転した際に、地蔵堂は帆柱八十八ヶ所の札所として移転したという。

        
         照養寺(真宗)は室町期の1515(永正12)年、洞の海中之島城主・竹之内治部が得度し
        て一宇を開基したという。 

        
         山門脇に「戸畑小学校発祥之地」という石碑があり、側面に明治7年(1874)8月1日鳥
        旗下等小学校として開校すると記す。

        
         1本東側の路地を駅方向へ向かう。

        
         再び「いくよ旅館」前を過ごして大通りを横断する。

        
         銀座1~2丁目辺りに特飲店があったとされる。

        
         戸畑物流センターを過ごすと天瀬寺川と洞海湾が合流する。

        
         一文字島竣工記念碑は、旧戸畑町が洞海湾沿岸にあった一文字島と沿岸を陸続きにする
        ため、1922(大正11)年から埋立てが開始され、1926(大正15)年に完成した。その
        完成を記念して灯台を模した塔が建立されたが、
少し斜塔になっている。

        
         当時の岸壁と階段らしい石積みが残されている。

        
         岸壁から見る若戸大橋。

        
         工場群の一角にある飛幡(とびはた)大師堂は、今から約180年前に洞海湾の水難防止を
        祈願するため建立された。当時の地名から築地大師堂(愛称:浜のお大師さん)と呼ばれて
        いたが、2017(平成29)年現在地に移転して名称変更された。

        
         1889(明治22)年の町村制施行により、戸畑村と中原村の区域をもって戸畑村が発足
        する。のちに戸畑町となり、1924(大正13)年市制に移行するが、現在は北九州市戸畑
        区である。

        
         北九州市の木であるイチイガシの葉と実がデザインされたマンホール蓋。他に格子模様
        に市花である「ひまわり」がデザインされたマンホール蓋を多く見かけたが、旧戸畑市時
        代のものあったようだが見落とす。

        
         1887(明治20)年代には対岸の若松が筑豊の石炭積出港として栄え始めると、戸畑に
        は石炭に関連したコークス工場が立ち始め、1901(明治34)年には官営製鉄所が設立さ
        れた。
         まだその頃は、戸畑の生活基盤は漁業や農業が中心で、戸畑蓮根・戸畑大根などが有名
        であった。大正末期から昭和初期にかけて埋立て工事や市街地の土地整理が進むと、様相
        が変わり始める。

        
         日本水産(ニッスイ)の前身である共同漁業㈱は、戸畑にトロール船が着岸できる近代的
        な漁港が完成すると、1929(昭和4)年下関から当地に本社移転する。移転後、大規模な
        水産加工工場建設するとともに、1936(昭和11)年共同漁業ビルを建設し、その翌年に
        日本水産㈱と社名変更された。
         建物は角地にあって玄関がコーナーにあり、外壁は褐色のタイル貼りで大きな窓が並ぶ。
        特徴的なのは屋上に塔屋があって、遠洋漁業用無線アンテナが立っている。

        
         戸畑と若松を結ぶ吊橋の若戸大橋は、1962(昭和37)年に開通したが、のちに4車線
        拡幅工事で歩道は廃止された。

        
        
         若戸大橋の袂にある若戸航路の戸畑渡場は、JR戸畑駅から徒歩約10分の所にあり、
        便数も多くて待ち時間なしで乗船できる。列車で若松に行くよりも時間的な面や船賃が1
        00円と安価である。

        
        
         小さな子供たちと若戸大橋を見ながら若松へ渡る。


山陽小野田市の渡場・梶浦は厚狭川の渡し場跡と干拓地 

2022年03月15日 | 山口県山陽小野田市

               
               この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         渡場・梶浦は厚狭川が南流する河口付近の平地に立地する。(歩行約4.9㎞)

        
         JR厚狭駅(12:35)からコミュニティバスねたろう号津布田小前行き30分、梶汐湯バス
        停で下車する。

        
         1942(昭和17)年8月周防灘台風の通過時と満潮時が重なったため、甚大な被害を受
        けた地域である。

        
         梶漁港は地元の漁業者が利用する第1種漁港。 

        
         津布田道は、厚狭より下津で川を渡り、梶浦に出て津布田を通り、埴生に至る道である。
        この付近は高い石垣の上に人家が建っているが、もとは前方が海だったようだ。

        
         沖開作は初め、古開作の厳島明神が鎮守であったが、1866(慶応2)年6月安芸宮島か
        ら勧請して龍神社の小祠を建てた。社地は転々としたが、現在は沖開作西南隅の入口に鎮
        座する。傍には1910(明治43)年に建てられた「厚狭郡沖開作干拓記念碑」がある。

        
         県道を横断して旧道に入る。

        
        
         厳島神社は安芸の厳島神を勧請したというが、創建年は不詳とのこと。 

        
         神社前面に広がる農地は、1835(天保6)年に築立が開始され、潮留めが完了したのは
        1847(弘化4)年、その面積は56町歩で上開作と称した。
         沖開作は1856(安政3)年に着工し、翌年に潮留めが完了し、約46町歩の田地ができ
        る。沖開作が完成すると上開作は古開作と呼ばれた。(面積は各資料に相違あり)

        
         境内から見る梶浦・渡場集落。

        
         西福寺(真宗)の寺伝によると、開基は俗名を新藤豊前守玄信といい、豊前国森山(現宇佐
        市)を本寺として、室町後期の1522年、もしくは1544年に一宇を建立したという。

        
         長門八十八ヶ所霊場第29番札所と記されているが、長門八十八ヶ所についての詳細知
        り得ず。

        
         古開作と沖開作の境付近に立つ庚申塚。

        
         真言宗善通寺派の法動院だが、由緒などの詳細は不詳。

        
        
         ここも厳島神社。 

        
         厚狭駅行きの渡場バス停が見当たらず、散歩されている方にお聞きして厚狭川に出る。 

        
         後潟開作の高須に庄屋・三戸家があり、大黒屋と称して廻船問屋を営んでいた。175
        2(宝暦2)年に後潟開作が完成すると、高須の川土手に波止を築き、対岸の吉部田との間に
        渡船を行う。この渡船を俗に「大黒屋渡し」といい、両岸は渡場と呼ばれ栄えたという。
         この渡船は1927(昭和2)年に厚狭川橋が架設されるまで続いたという。(右岸側の渡
        場は堤防の嵩上げで消滅したとされる)

        
         国道
を横断して渡場バス停より厚狭駅に戻る。


下関市の吉見は漁港を中心とした町

2022年03月14日 | 山口県下関市

        
               この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         吉見(よしみ)下は竜王山の西麓に位置し、家屋が密集して地内の中心をなしており、西
        に網代の鼻、東は串本岬に囲まれた吉見漁港の沖に賀茂島が浮かぶ。海岸に沿って国道1
        91号とJR山陰本線が並行して走る。(歩行約3㎞)

        
         JR吉見駅は1914(大正3)年長州鉄道の駅として開業する。

        
         国道と山陰本線に挟まれた生活道が東西に走る。

        
         高台に神社のようなものが見えたので山裾の道を進むと、額束に「天狗之宮」と記され
        た鳥居がある。

        
         吉見の町を見下ろすように山の斜面に建つ。

        
         正式には宗教法人石鎚本教吉見教会だそうで、神仏分離以前の形式を生かすべきと19
        46(昭和21)年法人化された。本殿を見ると神仏習合を表すような造りである。

        
         境内から見る吉見の町並み。

        
         賀茂島は島が3つ並んで見えるが1つの島とのこと。吉見のシンボルで夕日に映える風
        景が美しいとされる。

        
         国道まで戻って旧国道と思われる道を西進する。 

        
         通りの家々は更新されている。

        
         第2種の吉見漁港。

        
         呉服店だったF家。

        
         漁村特有の海への道が何本も伸びている。 

        
         神社名はわからないが海へ向かって鎮座する。

        
         駅からの道は漁港に通じる直線道だったようだが、拡張などされて三叉路となっている。
        郵便局がある場所が旧村役場跡、その近くに家具店があったようだ。

        
         もとは商店だったN家。

        
         三叉路から西側の通り。

        
         下関の「し」の中にフグがデザインされ、げすいどうの文字下に「25」とあるマンホ
        ール蓋。他に一面がスリップ防止模様となったマンホール蓋も見かける。

        
         西田川の先が新町。

        
        
         橋の先にS家とK家。

        
         新町も家屋が更新されている。

        
         煉瓦造の煙突の先に登山者で賑わう竜王山。

        
         駅側から見える西本味噌醤油醸造元の煙突。


北九州市八幡の木屋瀬は旧長崎街道の宿場町 

2022年03月11日 | 福岡県

        
               この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         木屋瀬(こやのせ)は金剛山の西麓、遠賀川中流の右岸に位置する。
         地名の由来は、浄土宗鎮西派の祖聖光房弁長が嘉穂郡の明星寺を再興する際、豊後国臼
        杵藩
より寄付された木材を芦屋川より登らせ、この付近の川辺にて木屋をかけて保管した
        こと
によるというが他説もある。(歩行約3.9㎞)

        
         JR黒崎駅から筑豊電鉄(通称:ちくてつ)で約27分、16番目の駅である木屋瀬駅で
        下車するが、上り線と下り線とでは駅の位置が違う。

        
         線路を横断して小路に入る。

        
         小路に入ると塩麹が有名な「本田こうじや」さん。

        
         須賀神社の由緒によると、室町期の永亨年間(1429-1441)に勧請されたが、
乱世によって
        荒廃してしまう。1625(寛永2)年木屋瀬村の豪商・伊藤宗伯が再建したという。
         江戸期までは祇園社と称していたが、明治の神仏分離令で「祇園」のような仏教語の使
        用が禁止となり、現社号に改められた。

        
         祇園神はスサノオノミコトと仏教の牛頭天王(ごずてんのう)が習合した神で、疫病などを
        流行させる神とされていた。この行疫神を慰め和ませることで疫病除けを祈願するのが祇
        園祭である。
         須賀神社では毎年7月に「筑前木屋瀬祇園祭」が行われ、2台の山笠が神社に奉納され
        る。(道路を挟んだ向かい側に山笠会館)

        
         1624(寛永元)年に創建されたという浄土真宗の西元寺。

        
         東構口(ひがしかまえぐち)は黒崎からの木屋瀬入口で、岡森用水路の傍らにあって、西構口
        と同様の構造であったという。構口の石垣に変ってレンガ塀が設けてある。

        
         東構口の両側に建っている松本家は、木屋瀬の町家として貴重な存在であるとされる。
        こちらの松本家は、醤油醸造業を営んでおられたようで、仏間が続く広い屋敷で、豪勢さ
        が当時を偲ばせるという。

        
         「江戸あかりの民芸館」は医師・佐藤伸一氏が蒐集した江戸期の行燈など、「明かり」
        に関するものが展示されている珍しい博物館。

        
         旧街道が左へカーブする右側に
休憩舎と木屋瀬宿の案内板がある。(地図は木屋瀬宿記念
        館内の「みちの郷土史料館」に入館すればいただける) 

        
         木屋瀬宿は外敵からの防衛に備え、「く」の字に曲がる街道や「矢止め」と呼ばれる家
        並みで、家の並びが直線的でなくノコギリ型のデコボコになっている。
         また、街道からの小路も袋小路となっていた。 

        
         扇天満宮の建立は南北朝期の1350(正平5)年以前に遡るとされ、当時は久保崎天神と
        称して
いた。室町時代の連歌師・飯尾宗祇がこの地に泊まった際、天神という男から扇を
        もらう夢を見た後、太宰府で宮司から扇を受けたことから扇八幡宮と呼ばれるようになっ
        たという。

        
         天満宮から遠賀川の土手(車道)を上流へ向かう。

        
         この門は木屋瀬宿の本陣門で、1870(明治3)年に本陣が廃止されて、永源寺の山門と
        して移設された。
その後、山門の新築により移設されて脇門となる。

        
         永源寺(曹洞宗)の寺伝によると、かって金剛寺として八幡西区にあったが、室町期の応
        仁年間(1467-1469)に兵火を受けて、1523(大永3)年この地に移転する。
         寺号は移転時の元号が「大永」であったことから、分別して佛山源寺とする。(山門
        は改修中だった)

        
        
         1889(明治22)年の町村制施行により、木屋瀬、野面、笹田、金剛の4ヶ村の区域を
        もって木屋瀬村が発足する。その後、町に昇格したが昭和の大合併で八幡市に編入され、
        現在は北九州市八幡西区木屋瀬である。

        
         須賀神社への小路。

        
         「もやいの家」は、築180年以上の商家(元呉服屋)の様相を色濃く残す建物で、ボラ
        ンティアの方々によって、休憩場所の提供と小さな美術館・土産屋を運営されている。(訪
        れた日はブラインドが下ろされていた)

        
         郡屋(家)では郡内の村役人と藩の役人が、大名などの通航の割り当て、年貢の調整、請
        負などが相談された。福岡藩がいつ頃郡屋を置いたかは不明とのこと。

        
        
         木屋瀬宿は長崎街道の起点から2番目の宿場で、長崎まで59里(約223.8㎞)の区間
        に25の宿場が置かれた。

        
         問屋場は飛脚、荷物の受付や発送、駕籠、人足の調達・斡旋をした。現在の郵便局、運
        送会社、旅行社を兼ね備えた組織であった。
         江戸期最後の問屋は野口家であったが、1871(明治4)年郵便取扱所が開設されたとき、
        引き続き野口家が取扱人となった。

        
         みちの郷土史料館には街道の様子や宿場町の暮らしを伝える史料が紹介・展示してある。

        
         追分にあった実物の道標で「従是 右赤間道 左飯塚道」と刻まれ、裏面に「元文3年
                (1738)建立」とある。

        
         史料館と隣接する地には、御茶屋(本陣)と町茶屋(脇本陣)があったとされ、現在は芝居
        小屋をイメージした多目的ホール「こやのせ座」が建てられ、地域の文化的拠点としてさ
        まざまなイベントが行われている。炭鉱産業の華やかなりし頃には、木屋瀬にも芝居小屋
        があって賑わったとされる。入口には「福岡13里34町25間(約54.81㎞)」と記
        された標柱がある。

        
         長徳寺(浄土宗)は、平安期の1175(安元元)年頃に創建されたが、創建当時は天台宗で
        あったが、鎮西上人の寄寓が縁で、1235(嘉禎元)年に改宗したという。1866(慶応2)
        年の第二次幕長戦争(小倉騒動)では佐賀藩の宿陣となった。

        
         弁財天は遠賀川がたびたび氾濫したため、水の神様として長徳寺境内に祀られていた。
        1891(明治24)年の大洪水で荒廃したが、1922(大正11)年寺の西隣に再建され
た。

        
         築150年以上の民家で、駄菓子屋、お好み焼き店、アートカフェという3つの顔を持
        つ「まからん屋」というお店だったようだが‥。木屋瀬宿の通りにはランチできるお店が
        ない。

        
        
         江戸期の木屋瀬は年貢米の積み出しや渡場があり、年貢米輸送の権利を持った24艘の
        川舟に限られていた。この24艘の川舟を管理するのが船庄屋の仕事で、江戸後期に中村
        家から梅本家に交代している。
         当家は油屋(やましも)の屋号で酒造業を営み、明治に入ってから醤油製造業に代わり、
        1935(昭和10)年まで続いた家で、奥行きの長い土間を持つ。

        
         梅本家南隣の愛宕山護国院は、室町期の1493(明応2)年八幡西区にある聖福寺の末寺
        として創建された。当時は火災や悪疫が流行し、この寺での祈願により収まったと伝える。

        
         高崎家の斜め向かい側に高崎家の本家だった柏屋(カネシメ)の建物がある。

        
         高崎家は屋号を柏屋(カネタマ)と号し、嘉永の頃(1848-1854)は絞蝋業を営み、明治期に
        は醤油製造業を営む。建物は1835(天保6)年築とされ、木屋瀬を代表する商家である。
         ラジオドラマ「向こう三軒両隣り」などで知られる放送作家伊馬春部の生家である。

        
         建物には見処があって、街道筋側に上げ下げできる摺り上げ戸(建具)、入口は大戸口で
        通常は全体を吊り上げて出入りし、夜間は閉めてくぐり戸で出入りできるようになってい
        る。大戸口を入ると通り土間があって、天井までとどく吹き抜けと明り取り窓が設けてあ
        る。

        
         土間から外に出ると六角井戸があり、内部は瓦質でつくられている。奥座敷の2階は軒
        を高くできなかったためか、舟天井が設けてあるが内部から見ることができない。雨戸は
        入隅や出隅で、回転させて戸袋に収納させる工夫がなされている。

        
         この時期は「長崎街道ひなまつり木屋瀬宿」と銘打ってひなまつりイベントが行われて
        いる。

        
         木屋瀬には村全体を統括する村庄屋、旅籠など宿内を統括する宿庄屋、川船を管理する
        船庄屋という3つの庄屋があった。松尾家は問屋場の人馬支配役になった後、1858(安
        政5)年から村庄屋を務める。

        
         中央の5つの花弁は旧5市を表現し、中の文字は北九州の「北」、九州の「九」、「大」
        に見えるように工夫されている。周りは星型に図案化された歯車がデザインされたマンホ
        ール蓋。他に市花のひまわりがデザインされたマンホール蓋を多く見かける。

        
         東構口同様に西構口も道路と直角に石垣を組み、その上に白壁の練塀が築かれ、出入り
        口には扉などは設けられていなかった。構口は方位に関係なく上り方面が東、下り方面が
        西とされていた。
                 この構口が築かれた時期ははっきりしないが、参勤交代が制度化された1635(寛永1
        2)年以降と思われる。

        
              西構口が追分で直進が長崎街道、遠賀川に通じる道が唐津街道を示す道標。1988(昭
        和63)年輪禍に遭って、現在はレプリカが設置されている。

        
         旅の安全を守る猿田彦が祀られる興玉神社。創建は1715(正徳5)年とされる。  

        
         遠賀川の風景だが、渡し場がどこにあったのかわからなかった。 

        
                  妙運寺(日蓮宗)の寺伝によると、もとは鞍手郡小牧の禅寺で、室町期の1558(永禄元)
        年日蓮宗の寺院として創建されたという。
         その後、木屋瀬宿に四宗入用の儀が起こり、長崎屋などの要請と現在地の寄贈を受けて
        1662(寛文2)年移転する。
         街道と遠賀川の水運で栄えた宿場町には、見処が多く駅付近で遅い昼食を済ませて黒崎
        に戻る。


北九州市小倉は五街道の起点だった城下町

2022年03月08日 | 福岡県

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         小倉は関門海峡の東南岸に位置し、ほぼ平坦な地形をなして中心部を紫川が北流する。
        市街地は旧小倉藩の城下町として発展してきた。(歩行約4.5㎞)

        
         小倉駅小倉城口側に「無法松の一生」で知られた小倉祇園太鼓の像。

        
         JR小倉駅は、1891(明治24)年九州鉄道の門司ー黒崎間が開通したと同時に開業す
        る。1998(平成10)年完成した小倉駅ビルには、駅および商業施設、ホテル、モノレー
        ルホームが同居する。

        
         この通りは博労町筋と呼ばれ、博労町があった地で北は海に面したが、昭和期に海が埋
        め立てられ、住居表示の実施でその名が消えたという。傍には「宮地嶽神社」という小さ
        な社がある。

        
         門司往還道は商業施設で遮断されているが、見える道は江戸期には九州の諸大名が参勤
        交代のため、常盤橋を渡って今の京町銀天街を通って門司の大里湊へ向かった道とされる。

        
         京町の米町公園にある地蔵尊。子供の守り仏である地蔵菩薩は8月24日が縁日で、子
        供らが主役の「地蔵盆」が行われてきた。
         昔ながらの地蔵盆が行われる地もあるようだが、時代も下がって今では地蔵尊をきれい
        にする、提灯を飾る、お菓子を供えるなど簡素化されつつあるようだが、ここはどのよう
        にされているかは知り得ず。 

        
         鴎外通りの一角にある高野山真言宗の正福寺は、1604(慶長9)年創建以来この地にあ
        るという。

        
         寺は歓楽街筋にある。(左手は弁天堂) 

        
        
         明治の文豪・森鴎外が、1899(明治32)年に旧陸軍第12師団軍医部長として赴任し、
        約1年半過ごした宅跡。この家を舞台にした作品「鶏」「小倉日記」があり、名訳の「即
        興詩人(アンゼルセン作)」もここで執筆された。(3/31まで工事のため休館中) 

        
         鍛冶町1丁目筋を南下すると堺町公園内に杉田久女句碑。久女(1890-1946)は1909(
        明治42)年小倉中学の教師・杉田宇内と結婚して小倉に移り住む。のちに実兄が寄宿し俳
        句の手ほどきを受け、「ホトトギス」に投句し高浜虚子と出会う。
         家庭不和に悩み俳句から遠ざかっていたが、1927(昭和2)年俳句の道に戻り、その後、
        俳誌「花衣」を創刊するが5号で廃刊、ホトトギス同人を除名される。波乱に富んだ生涯
        を送り、戦争による食糧難もあって栄養失調が起因して帰らぬ人となる。
                  句碑「花衣ぬぐや纏(まつ)はる紐いろいろ」

        
         中津街道は常盤橋を起点に魚町銀天街とこの紺屋町筋を通って、焼肉「白頭山」前を右
        折して南下している。(この付近も歓楽街)

        
         中津街道はこの先で左折するが直進する。

        
         古船場公園前にある小倉唯一の時宗・欣浄寺(ごんじょうじ)は、初め長福寺と号していた
        が、1716(享保元)年に現寺号に改めた。
         5.5㎝の小さな子安観音菩薩像があり、小倉藩主・小笠原忠真(1596-1667)が、兜の上
        に観音菩薩を頂き合戦に赴いたところ、数度の戦いに一傷も負わず、多くの戦功をたてて
        帰陣したという伝承がある。

        
         無法松は小倉の作家・岩下俊作が、小説「富島松五郎伝(無法松の一生)」の中で作り出
        した男で、碑は無法松を愛する土地の人達によって、1959(昭和34)年松五郎が住んで
        いた古船場の地に建てられた。(商工貿易会館前)
         人力俥夫で暴れ者のため無法松と呼ばれたが、小倉連隊の吉岡大尉の家に出入りが許さ
        れ、大尉の死後は夫人と息子のために尽くす。夫人への思いを胸に秘めたまま、最後はひ
        とり寂しく死んでいくという作品は、映画化やテレビドラマ化された。

        
         茲済寺(曹洞宗)には、小倉藩主・細川忠興の眼病平癒を祈願して寺に奉納されたという
        鰐口が伝わる。

        
         1985(昭和60)年北九州市の都心部を南北に走るモノレールが、第三セクター方式で
        開業する。(旦過駅を出発するラッピング車両)

        
         大正初期に始まったされる旦過(たんが)市場。神嶽川の水上に店舗が建つ。 

        
         昭和にタイムスリップしたような商店街には、生鮮食料品などの店が軒を連ねる。

        
         その途中にある赤壁酒店では昔ながらの「角打ち」が楽しめる。

        
         酒屋の一角でお酒が飲める「角打ち」の歴史は古く、北九州では1901(明治34)年八
        幡製鉄所が開業し、三交替で働く労働者が多かったため、昼夜を問わず酒が飲める文化が
        盛んになったという。語源については、酒を升の角で飲むから「角打ち」と呼ばれるそう
        だが‥。

        
         大正期のはじめ、隣接する神獄川を昇る船が荷をあげ商売を始めたことに始まるという。
        近隣に住宅街もあって市場的機能を持ち賑わうようになったとか。

        
         中津街道と秋月街道が並行していた魚町銀天街。

        
         2丁目と3丁目の境を左折する道が街道筋。

        
         1889(明治22)年町村制の施行により、小倉城下25町と砂浜村の長浜浦、千上村の
        平松浦が合併して小倉町が成立したという。(鴎外橋から見る紫川下流)

        
         細川時代の1634(寛永11)年頃、城下の西曲輪と紫川東側の曲輪を結ぶ橋が架けられ
        た。もとは大橋と呼ばれていたが、1692(元禄5)年に架け替えされた際、呼称を常盤橋
        に改めたという。

        
         1800(寛政12)年から17年をかけて、日本全国を測量して正確な日本地図を作成し
        た伊能忠敬は、1810(文化7)年常盤橋を起点に九州の測量を開始した。

        
         常盤橋東側の袂にある円柱形のモニュメントは、1890(明治23)年頃に建てられた広
        告塔で、1845(昭和20)年頃までこの地にあった。当時の塔は高さ約12.5mもあった
        ようだが、2003(平成15)年に復元された塔は、高さが約5mと小ぶりである。
         欧州帰りの森鴎外は小説「独身」の中で、広告塔は西洋から直接小倉に伝わり、「東京
        にないもの」の1つとして、「常盤橋の袂に丸い柱が立っている。これに広告を貼り付け
        るのである」と紹介している。

        
         常盤橋は「門司往還」「長崎街道」「中津街道」「秋月街道」「唐津街道」の五街道の
        起点となっていた。(正面の道は長崎街道と唐津街道)

        
         常盤橋の基礎は木であったため、すぐに腐って大雨が降るたびに流されて架け替えられ
        ていた。1813(文化10)年当時としては珍しい「石杭」に替えたことで、橋は強度を増
        し、補修や維持が容易になった。文政年間(1818-1830)に使われた石杭の一部が常盤橋西側
                の袂に残されている。

              
          1871(明治4)年から1876(明治9)年まで豊前一帯は小倉県とされ、この地に県庁が
        置かれた。

        
         県庁跡に建てられた洋館は旧小倉警察署の建物で、1890(明治23)年から1928(昭
          和3)
年まで使用された。後に医院として使用されたが、現在は雑貨のお店として活用され
        ている。(国登録有形文化財)

        
         北九州市の木であるイチイガシの葉と実がデザインされたマンホール蓋。

        
         室町1丁目からお濠を見ながら北九州市役所への道に入る。

        
         小倉城の天守閣は4階と5階の間に庇がなく、5階の方が4階よりも大きいことが特徴
        の「唐造り」形式とされる。続日本100名城の1つで、石垣は切石を使わない「野面積
        み」である。

        
         鳥居前にある2基の大石は、中津口門の石垣として使用されていたが、1901(明治
           4)
年門解体に伴い、古船場の高倉稲荷社に移された。その後、稲荷社が八坂神社に合祀さ
        れたため、大石も現在地に移されたという。

        
         戦争で犠牲になった軍馬の「生馬神之碑」と「軍馬忠霊塔」。

        
         下屋敷(現在の小倉城庭園)から北の丸へ行く門。

        
         リバーウオーク側にある神門。 

        
         1617(元和3)年細川忠興が小倉の総鎮守として祇園社を鋳物師町に勧請する。既に小
        倉では祇園社が祀られていたため、2ヶ所の祇園神を南殿と北殿に祀るという珍しい社殿
        である。社は明治期に八坂神社と改められ、1934(昭和9)年に城内へ遷座する。

        
         八坂神社から多門口を上がると、着見櫓(つきみやぐら)が当時の場所に再現されている。
        櫓の役目は沖からの通航船を監視していたとされるが、現在は「漬物処糠蔵」として利用
        されている。

        
         小倉城は細川忠興が1602(慶長7)年に築城。細川氏が肥後に移った後は、九州諸大名
        を監視するため、譜代大名の小笠原氏が藩主となる。
         江戸中期に天守閣を焼失し、1866(慶応2)年に始まった第二次幕長戦争では最前線と
        なり、征長軍九州方面総督として老中・小笠原長行が小倉に到着。小倉藩は本丸を出て門
        司口から進軍したが形勢が不利となり、自らが城に火を放つという結末を迎える。現在の
        城は1959(昭和34)年に再建され、小倉のシンボルになっている。

        
         城内には実際に乗ることができる駕籠が置かれている。

        
         小倉城庭園は改修工事のため休館されていたが、天守より外観を眺める。

        
                 南側に中央図書館・文学館、皿倉山などが見える。

        
         幕末、長浜の岩松助左衛門は小倉沖の小さな岩礁で相次ぐ船の遭難を受け、私財を投げ
        打ち白洲灯台の築立に奔走する。1872(明治5)年完成を見ないで病没したが、事業は明
        治政府に引き継がれ、1873(明治6)年に完成する。この塔は岩松翁が設計した灯台を模
        した顕彰櫓である。

        
         小倉城は明治期になると軍の管理下に置かれ、1885(明治18)年松の丸跡に歩兵第十
        二旅団本部が開設され、門はその正門にあったといわれる。
         門柱は煉瓦積みの上にモルタル仕上げとなっているが、加工された時期ははっきりしな
        いとのこと。

        
         
(くろがね)門を上がると第十二師団司令部正門跡。日清戦争後の軍備拡張のため、18
        98(明治31)年小倉、大分、久留米、佐賀の各連隊や下関要塞歩兵連隊をもって師団が組
        織され、本丸跡に庁舎が建てられた。

         正門は当時のもので、師団は軍縮により1925(大正14)年久留米に移転する。
          師団(2~4個の旅団または連隊)
          旅団(2~4個の連隊または大隊)
          連隊(2~4個の大隊または複数の中隊)で構成。

        
         松本清張記念館を見学して長崎街道に出る予定であったが、信号待ちが多くて予定内に
        歩くことができず、残念してJR西小倉駅へ直進する。

        
         清張通りと命名された堀端の美しい道。

        
         斜め格子模様に市花であるひまわりがデザインされたマンホール蓋。歩く道にはこちら
        の蓋を多く見かける。

        
         JR西小倉駅は鹿児島本線と日豊本線が分岐する駅で、もとはこの地に小倉駅があった
        が、小倉駅が移転した後に西小倉駅として開業する。開業当時は日豊本線の駅だったが、
        鹿児島本線にホームが新設されるという歴史を持つ。(現在は橋上駅)