ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

赤間関街道北浦道筋の町 (長門市油谷新別名・河原)

2021年06月30日 | 山口県長門市

        
                 この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         新別名(しんべつみょう)・河原(かわら)は、掛淵川河口左岸及び同支流・大坊川流域に位置
        する。この流域の沖積平野に耕地が開け集落が散在し、域内を東西に国道191号、JR
        山陰本線が走る。
         1889(明治22)年町村制施行により久富村、新別名村、河原村、伊上村が合併し、各
        旧村の一字をとって菱海(ひしかい)村となる。(歩行約7.7km)

        
         JR人丸駅は、1930(昭和5)年長門古市駅ー阿川駅間延伸時に開業する。単式・島式
        の2面3線を持つ交換可能な地上駅。駅舎前には「元乃隅稲荷神社」玄関口を示す赤鳥居
        が設置されている。(10:13長門市駅より)

        
         駅前通りを左折して長門方面へ直進する。

        
        
         久富八幡宮は「防長寺社由来」によると、勧請年代はわからないが永禄年中(1558-1570)
        に社を造立したと棟札にあったと記す。風土注進案は、室町期の1479(文明11)年宇佐
        神宮より勧請したと伝えられると記す。

        
         境内に薬師如来が祀られ、石祠には天明四甲辰六月(1784)と刻字されている。長く放置
        されていたようだが、1993(平成5)年に各位の寄進により修復された。

        
         神社前から街道に出ると左手に、1879(明治12)年に開校した啓廸(けいてき)小学校
        (創立時は久富小学校)があったという。1961(昭和36)年に廃校となり、跡地は町営住
        宅、グランドは
稲石農村公園となった。

        
        
         街道を引き返すと門を構えた平入りの民家と、その奥にある浄泉寺(真宗)は、1634
        (寛永11)年に寺号が免許され、1701(元禄14)年現在地に移転する。

        
         長安寺(浄土宗)のある地には、往古、真言宗の人丸寺があり、人丸社の社坊であった。
        天正年中(1573-1592)浄土宗に改め、大願寺と称して人丸社を兼務した。

        
         1871(明治4)年の神仏分離・廃仏毀釈の風潮の中で、当時の住職は大願寺を廃し、人
        丸社専任の神職となる。
         一方、大願寺の末寺・長安寺が伊上にあったが、本寺の廃寺と共に、一応廃寺となった
        が、檀家の人たちの復興の願いによって、本寺跡に長安寺として復興された経緯を持つ。

        
         1907(明治40)年新別名八幡宮と人丸神社が合祀されて八幡人丸神社と称する。

        
         神社下に大きな民家が並ぶ。(Ⅿ家と空家)

        
        
         街道は右手の道(下の写真は左)だが、途中で消滅しているため掛淵川土手までは別ルー
        トを歩く。

        
         国道を横断して中心部へ入って行く。

        
         油谷郵便局前の四差路を右折して、山陰本線新別名踏切を横断する。

        
         次の三差路で街道と合わし、掛淵川左岸を西進する。

        
         土手は桜並木となっているが見るべきものはない。

        
         川と線路の間は田園地帯で、近世、この一帯は農地もしくは沼地であり、街道が迂回し
        たものと思われる。(左手にJR人丸駅)

        
         溜池を思わすような掛淵川の先に蔵小田集落と雨乞岳。

        
         大坊川に架かる見返橋を渡り、左岸を川上に進むとJR大坊踏切。

        
         街道は大坊橋前で右折して西下すると、この一帯の中心だった河原集落。

        
         電気屋さんの真向かいに猿田彦と三体地蔵尊。その傍には悪霊除けの御幣が立てられて
        いる。

        
         萩と赤間関を結ぶ赤間関街道には3つの往還道があり、萩から秋吉宿を経る中道筋、深
        川~俵山~小月に至る北道筋、日本海の海岸沿いに約24里余の北浦道筋があった。この
        北浦道筋は3路線の中で行程が最も長かったため、萩と赤間関を結ぶ交通に利用されるこ
        とは少なかった。
         しかし、毛利一門・阿川毛利氏の陣屋まで行くには、この道筋を通らなければならなか
        った。

        
         街道筋の民家は更新されて見るべきものは残されていないが、地蔵尊など石仏が往時の
        名残をとどめている。ここには庚申塔、安政7年(1860)と刻まれた三界萬霊塔、右に地蔵
        尊が祀られている。

        
        
         少し右にカーブする地点に三体地蔵が鎮座する。三体地蔵の由来はわからないが、病気
        平癒の時、頭巾腹掛けなどを布で作り、地蔵の体に取り付けてお願い果たしをするそうだ。

        
         工場跡なのか煙突と思しきものに蔓が巻き、緑の十字架を思わせる。

        
         菱海村役場跡には現在、河原公民館と河原消防団ポンプ庫が建っている。やがて街道は
        国道191号と合流するが、その手前に庚申塔。

        
         江戸期には菱海中学校グラウンド内に、現在の油谷町、日置町と豊北町の一部を統括す
        る先大津宰判の勘場があり、その横に本陣であった久保本家の屋敷があったという。 

        
         河原八幡宮は久安年中(1145-1150)宇佐神宮より勧請。ご神体を乗せた船が河原浦の笠岩
        で着岸し、亀山に鎮座していたが、室町期の1490(延徳2)年現在地へ移転する。

        
         久保家は藩政初期より日置下村に在住して町野姓を名乗り、代々庄屋・大庄屋を勤めて
        いた。1826(文政9)年に河原に移住して久保姓を名乗り、ここでも大庄屋などを務める。
        現在の住宅は、1890(明治23)年の設計図が残っているとのことで、その頃の建築と思
        われる。(当日は工事中であった)

        
         大坊橋まで戻って旧道を人丸駅へ向かう。

        
         橋から駅までは見るべきものはなかった。


風待ち港だった粟野港と粟野川散歩 (下関市豊北町)

2021年06月30日 | 山口県下関市

                         
               この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         粟野(あわの)は豊北町の北東部に位置し、北は油谷湾に面している。中央を粟野川が流れ、
        沖積性の平野が開ける。
         地名の由来は、往古、粟・稗を第一に作り、広野もあることから名付けられたとしてい
        るが、青野と記したものもあるという。(歩行 約7.5km)

        
         JR長門粟野駅は、1930(昭和5)年長門古市駅と阿川駅間延伸時に開業。島式ホーム
        1面1線の地上駅。(13:32人丸駅より移動)

        
         駅前はJAの建物ほか元商店らしき建物が線路に沿う。

        
         三差路を左折すると赤間関街道北浦道筋。

        
         路傍に地蔵尊が祀られているが詳細不明。

        
         この集落もほとんどの家屋が更新されている。

        
         右手に「汗かき地蔵」と呼ばれる高さ約1.3mの地蔵尊がある。1879(明治12)
        の大火で焼失したが再建され、言い伝えによると、1937(昭和12)年7月地蔵尊がした
        たるほど汗をかいたので、村の人たちは危機が訪れたのではと不安にかられた。火災では
        なく日中戦争の始まりだったという。 

        
         右手に金比羅社の鳥居。

        
         細い路地を進むと浦第二踏切(警報機や遮断機のない第4種踏切)があり、横断すると右
        手に長い急階段がある。造った人も参拝する人もこの参道のみで大変であっただろう。

        
         漁業や航海の守護神である金毘羅宮。

        
         参道から見る油谷湾と家並み。

        
         民家が続く。

        
         この先街道は線路を横断して山手に入るため、ここで引き返す。

        
         河口に開けた粟野港は入口が狭く、風待ち港として海運業に適していた。江戸期には長
        府藩の御用蔵もあって年貢米や薪炭などの輸送基地となる。

        
         出発地の三差路に戻り、粟野踏切を渡って街道を南下する。

        
         駅構内は島式ホームの駅舎側線路が取り除かれている。この先、街道は豊北病院付近で
        三辻となり、殿様専用の高瀬舟を使用した舟橋渡しの道と、一般の人達の舟渡場道に分か
        れていたようだ。

        
         一般人の舟渡場道は、がにあぶら・おそのや堤土手の道から対岸の渡場に下るが、堤沿
        いの道に庚申塔が残るという。

        
         粟野橋を渡ると街道は、滝部~二見を経る道と、阿川を経る海岸線の道とに分かれてい
        た。(滝部道を進む)

        
         県道粟野二見線を南下すると、正面に白滝山の風力発電用風車が見えてくる。
         粟野は田耕とともに長府藩に属し、米、薪炭、竹材を移出していたが、廻船または川舟
        が入れるよう運河を造った。道路の改修で一部だけ残っているとされるが見落とす。

        
         神社の多くは参道を上がることになるが、粟野八幡宮は道路敷が高くなったなったよう
        で下った場所にある。

        
        
         粟野八幡宮は室町期の1492(明応元)年創建と伝えるが、室町後期と1824(文政7)
        の火災で由緒等を焼失している。

        
        
         昌泉寺(浄土宗)は古文書によると、粟野小迫に曹洞宗「瑞光寺」という寺が破壊してい
        たので、1679(延宝7)年頃単信という浄土宗の道心者が小庵を建てた。
         粟野には他に寺はなく参詣に難儀をしていたので、この小庵を寺にしていただきたいと
        百姓衆が願い出て、1699(元禄12)年許可された。その際に現寺号に改称する。

        
         1874(明治7)年に開校した粟野小学校は、146年の歴史を持つ学校であったが、2
        020(令和2)年少子化による学校の再編統合で役目を終える。

        
         小迫から粟野川右岸に移動すると、「椿道」と銘打った道になっている。すでに開花時
        期を終えているので感じ取れないが、多くのヤブ椿が現存するのであろう。

        
         粟
野川の往来は舟渡しであったが、両岸の住民は不自由を感じ土橋が架けられたが、幾
        たびかの水害で流された。その都度、復旧し再構築されたという歴史を持ち、今でもその
        跡が残されている。
         また、春の粟野川では風物詩「粟野川青海苔採り」が行われる。 

        
         堤防の片隅に碑があるが、風化して刻字を読み取ることはできないが、舟渡しのことか
        土橋時代の度重なる流失に関するものかわからないが、この地にドラマがあったことは確
        かだ。
         再び粟野橋の袂に出て、JR長門粟野駅に引き返す。(16:29長門市行きに乗車)


立石に岩峰の島と東後畑の棚田 (長門市油谷立石)

2021年06月29日 | 山口県長門市

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         立石(たていし)は雨乞山の北麓に位置し、北は日本海に面する。半農半漁で立石漁港を有
        する。(歩行約1.8km) 

        
         この集落へはバス運行がなく、乗合タクシーは1日3便と少ないため車を利用する。

        
         立石漁港前に聳え立つ玄武岩からなる高さ約41mの「沖の島」と、高さ約20mの「
        地の島」と呼ばれる岩峰の島がある。

        
         「地の島」には立石観音が祀られ、断崖絶壁の道を辿れば登ることができる。

        
         立石観音は島原の乱後に伝来したと伝えられ、金箔の木造観音菩薩像が安置されている。
         かつて大津波が来た時に荒波を打ち砕き、港を守る防波堤の役割を成したと言い伝えら
        れ、漁民の守り神として崇敬されている。

        
         頂上から立石集落が一望できる。(手前の建物は漁協)

        
         西立石の家並みと、海岸線には波消しブロックがずらりと並ぶ。

        
         コバルトブルーの海に「地の島」の端はトンネルとなっており、背後に「沖の島」が高
        く聳える。

        
         西立石に漁業の守護神・えびす社。

        
         冬の荒波から身を守るため、山斜面を利用した高台に石垣を積み上げて宅地としている。

        
         海岸道路からは急坂で、所々に手摺りが設けてある。

        
         山手に向って民家が見られるが空家が多い。

        
         陸側に頁岩(けつがん)の互層が露出している。デコボコは地層の構成粒子の違いによって
        できたもので、未固結の堆積物では粒子の粗い地層の方が出っ張っている。

        
         階段状となった民家の間を細い路地が蛇行する。

        
         路地から枝分かれして、さらに奥の民家に接続している。

        
         後背地は急斜面に棚田が幾重にも重なりあうように続いており、海に向かってすり鉢状
        状の地形である。

        
         正面の空地が保育園跡、その右手に門柱があるので小学校跡と思ったが、民地だそうで
        学校は山手側とのこと。

        
         路地を抜けると海岸線からの道に合わす。

        
         石碑の正面に「大内義隆□□ 三輪藤太エ門、右横に天文□年八月 行年二十六才」あ
        るが、詳細を知り得ない碑となる。

        
        
         ここが小学校と思ったが寺跡で、住職が亡くなり廃寺・解体されたが、僧の像は残され
        たとのこと。

        
         町(市)道に出ると使われなくなったバス停待合所。

        
         引き返して漁港に向けて下る。

        
         立石川の傍に「馬の神様」とされる石碑があるが、刻字は風化して読み取ることができ
        ない。

        
         1699(元禄12)年立石・津黄鯨組の本拠地となり、鯨漁のあった頃は賑わったとさ
        れる。(海岸道路の一部は駐車場)

        
         立石川に新旧2つの橋。日本海の荒波が正面に押し寄せ、港が狭隘なため、1959(昭
        和34)年から漁港の拡張、係留施設の整備などが行われた。

        
         漁港東側から見る「沖の島」と「地の島」。立石漁港は第一種漁港(地元の漁業者が主)
        だが、出漁されているのか漁船の数が少ない。近年、高齢化により廃業された方も多いと
        か。 

        
         東立石の家並みだが、医療、交通手段、金融機関、下水道がないなどが住みづらさを助
        長しているようだ。この豊かな自然と漁村の原風景が維持されることを願うばかりである。

        
         向津具半島の海を見渡す位置に日本棚田百選の「東後畑棚田」がある。日本海に面した
        斜面に段々と水田が作られている。眼下に「沖の島」と「地の島」のある立石、突き出た
        半島が川尻岬。

        
         5月下旬~6月上旬に水田が水面となり、夕日が沈む日本海と漁火が見られる絶景が楽
        しめるそうだ。この時期は一面に緑が広がる「夏の棚田」も必見の1つである。


海に浮かぶ赤い鳥居と日良居港 (周防大島町土居・日前)

2021年06月24日 | 山口県周防大島町

        
                 この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         土居(どい)・日前(ひくま)は屋代島の北海岸(内海)中央部に突き出た符崎の西に位置し、
        入海の海岸砂州に立地する。
         土居の地名由来は、かっては竹・葦などが繁茂していた平地で、里人が土井と唱えてい
        たことによるという。
 
         日前の地名由来は、東向きの土地で日受けがよいので日前というようになったという。
        (歩行約3km)

        
         油良集落を散歩して油良東バス停より大畠駅行きのバスに乗車、土居口バス停で下車し
        て土居港へ向かう。

        
         港手前の四差路にいっぷくステーション(トイレ)が設置されている。

        
         1873(明治6)年西方小学校日前分校として創立された島中小学校。


        
         海の傍とは思えない雰囲気である。

        
         西進するとカーブする所に荘厳寺。

        
         荘厳寺(真宗)は永禄年間(1558-1570)日向国の伊藤という人が出家して、久保法師と号し
        て堂宇を建立。1638(寛永15)年現寺号とする。

        
         土居と日前との境が判別できず。

        
         願行寺(真宗)は慶長年間(1596-1615)岸作右衛門が得度して一堂宇を建立。1690(元禄
        3)年現寺号に定める。

        
         明月上人は、1727(享保12)年当寺で生まれ、圓光寺(現松山市湊町)の法灯を継ぐ。
        越後の良寛、備中の寂厳とともに近世の三筆と称された人物である。
         1896(明治29)年百回忌にあたり、圓光寺において正岡子規や高浜虚子などが上人を
        偲び盛大な句会を催した。その際の句が碑として建立されている。

        
        
         国道がやや山手寄りに新設されたため、静かな通りとなっている。

        
         日良居漁港への道。

        
         日良居漁港は第1種漁港(利用範囲が地元漁業者が主)で、小型機船底びき網業を主体と
        する漁法が行われ、なまこ、メバル、あじなどが水揚げされている。

        
         海岸道路と旧道の間に生活道。

        
         表札はないが日前公民館と思われる。

        
         この付近の建物も更新されている。

        
         この地も山手集落の郷と海辺の浜に区分されている。

        
         日前の砂浜先に見えるのが、左手から瀬島、正面に浮島(うかしま)と乙小島、右は符崎の
        鼻。

        
         島中小学校グランド脇が白鳥八幡宮参道。

        
         白鳥八幡宮の創建年月は不詳だが、現存する棟札等により今から約1,000年以前頃、
        山城国男山八幡宮(石清水八幡宮)から勧請されたという。長浜、日前、土居の産土神とし
        て崇敬されてきた。神殿は流造千鳥破風で、拝殿は入母屋造りでる。

        
         白鳥八幡宮の左にあるのが蛭子神社だが、由緒書きがないため詳細を知り得ず


        
         土居神社は北斗妙見宮として、土居の東、妙見という所に神社があったが、1907(明
        治40)年火災に遭い当地に遷座する。

        
         赤鳥居の前に「宮島様」が祀られているが、御旅所の台座のような上に小祠。

        
         海の中に赤鳥居。ちょうど干潮のため海に浮かぶ光景とはならず。

        
         土居側から見る赤鳥居。

        
         土居の町並み。

        
         旧橘町の集落排水マンホールは、内海と鯛、特産のミカンがデザインされている。

        
         リサイクルショップ「ぐずらん堂」の真向かいに地蔵尊と土居稲荷社。

        
         商店用日除けテント(光吉呉服店)や看板建築が商店だった名残りを示す。

        
         海岸線と旧道、山手から旧道を結ぶ道が2軒ごとに設けてある。

        
         土居集落の東端。ここに大正6年(1917)竣功した「耕地整理竣功記念碑」がある。組合
        数479人、整備面積11町6反2畝歩と記されている。

        
         海岸線に出ると一転して波消しブロックが積み上げられている。

        
         波止にクレーンの支柱跡が残るが、船底清掃及び塗装のため船を吊り上げた名残りと思
        える。

        
         旧道と海岸線の間にある生活道。

        
         新旧対照的な民家の間を過ごし、土居口バス停に戻る。              


油良港の海岸線に沿う集落 (周防大島町油良)

2021年06月24日 | 山口県周防大島町

        
                 この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
        油良(ゆら)は屋代島の北海岸(内浦)中央部の入海に面し、符崎の付け根の東に湾入した海岸
       砂州に立地する。往古は浜里村といわれていたが、いつの時代か丹後国から油良左衛門九郎
       という人が来住して城を築いた。この入江が左衛門九郎の出身地である丹後国油良港に酷以
       していることから、この地を油良というようになったという。(歩行約3km)

       
        JR大畠駅から防長バス周防平野行き40分、油良東バス停で下車。旧道(内海道)に入
       るとお店であったことを示す看板が残されているが、いつ頃まで営業されていたのだろう
       か。

       
        畑地の多くはみかん園。

       
       
        旧道に面する家は、その多くが更新されている。

       
        寿源寺(浄土宗)は、往古、教徳寺という古跡であったが、1615(元和元)年油良の給領
       主・沓屋筑前守元綱が再建する。1628(寛永5)年元綱の死後、法名をとって現寺号と改
       めた。

       
        子安・水子地蔵尊と宝篋印塔。

       
        酒の看板が残
る民家の先で左折する。


       
        国道を横断して山手側に向かうと油良八幡宮の参道。

       
        油良八幡宮は防長寺社由来によると、延長年間(923-931)山城国男山(石清水)八幡宮より
       勧請し、「正八幡宮」と称していたが、明治以降は「八幡宮」と改称する。

       
        本殿の裏手にヤマモモの巨木がある。樹齢は不明だが目通り幹囲は目分量でも指定約5
       m弱はありそうだ。その他社叢には、コジイ(小椎)、タイミンタチバナ(大明橘)、クロガ
       ネモチ。コバンモチなどがある。

       
        八幡宮の車道から見える「橘ふれあいかんころ楽園(がくえん)はデイサービス施設であ
       
るが、2001(平成13)年廃校になった旧油良小学校を利用している。(背後の森が八幡宮) 

       
        旧道に戻って西進するが、これといって見るべきものはない。

       
        油良集落の西端。

       
        山に降った雨をスムーズに海に流し出す水路が設けてあるが、一方で海水が河川に進入
       するのを防ぐ排水ゲートが設けてある。

       
       
        地形によるものか波消しブロックが設置されていない。

       
        波止にレールとクレーン用ポール跡が残るのは、船底掃除、船底塗装をするため、船を
       吊り上げて作業場に運搬する設備であったとのこと。

       
        長い海岸線にブロックはないが、堤防との間に工夫がされている。

       
        喫茶&食堂かと思ったら、周防大島町が推進する民泊体験受入家庭だそうだ。

       
        一部分だが旧道と海岸道路との間に生活道がある。

       
        東端から見る海岸線と集落、遠くに嵩山。

       
        旧道と海岸線は無数の路地で繋がっている。

       
        旧道に出ると西進して油良東バス停に戻る。             
 


瀬戸崎往還道から赤間関街道筋 (美祢市大嶺)

2021年06月16日 | 山口県美祢市

               
               この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         大嶺(おおみね)は四方を山に囲まれ、厚狭川の上流域に開けた大嶺盆地に位置する。
地名
        の由来は、国行村の彦山という岩山に山伏が「大峰入り」と称して群がり来たことから起
        こったという。(歩行約6.3km)

        
         JR重安駅は、1916(大正5)年美祢軽便鉄道が現南大嶺駅から当駅まで開業。後に国
        有化により美祢線に改称され、石灰石を輸送するための積込み施設があったが撤去された。
        島式ホームの列車交換可能駅である。(10:55下車)

        
         重安の町並みに沿って重安小学校付近まで歩く。

        
         今年3月に144年の歴史を閉じた重安小学校。

        
         善立寺(真宗)の寺伝によると、開基は伊予国の浪人・河野新左衛門光利の末孫である四
        郎左衛門が、1676(延宝4)年に建立したとある。

        
         瀬戸崎往還道は山裾に沿いながら南下する。

        
         化石「アンモナイト」がデザインされた美祢市のマンホール蓋。

        
         異様な山肌をした石灰石鉱山が見えてくる。

        
 
         現役の鉱山のようで、太平洋セメント㈱の関連会社が採掘しているとのこと。

        
         かっては栄えたであろう通りもひっそりしている。

        
         道路沿いに太平洋セメントの巨大な石灰焼成用竪型石灰窯があったようだが、2011
        (平成23)年駅の積込み施設と共に姿を消した。

        
         遠くに宇部興産伊佐セメント工場の煙突が聳える。

        
         最初の民家手前が大嶺町北分と東分との境付近。

        
         宝泉寺(真宗)の地は、もともと上領八幡宮の社坊があったという。室町期の1538(天
          文7)
年の八幡宮棟札に「社僧権師亊□性院」とあるが、□は読み取れないそうだ。

        
         境内にヤマグワの巨木がある。案内によると根本より二又になっており、根囲は5.85
        mの雌雄同株であるとされ、400年相応の樹齢と推測されるとのこと。

        
         往還道に戻って南下すると、中領八幡宮参道前で赤間関街道中道筋と合わす。

        
         赤間関街道中道筋は萩往還道の明木から絵堂、秋吉宿、河原宿を経て、厚狭川を渡って
        上領八幡宮の参道下に至る。

        
         上領八幡宮の社伝によると、石清水八幡宮より勧請したが、1616(元和2)年と175
        
(宝暦3)年の火災で焼失し、勧請の時代が明らかでないが、室町期の1538(天文7)
        建立の棟札が記録にあるとする。

        
         街道を進むと左手に八幡磨能峰宮(やはたうすのみねぐう)(下領八幡宮とも)の森が見えてく
        る。上領八幡宮の距離は300m程であり、祭礼も同日に催する「兄弟社」であると
いう。

        
        
         八幡磨能峰宮について風土注進案は、石清水八幡宮よりの分霊を祀ったが、建立の年月
        縁起などわからないとしているが、縁起おぼしき虫食いの破本に室町期の1499(明応8)
        年6月建立と記す。

        
         碑は風化して刻字を読み取ることはできないが、傍らに「憂国の志士廣岡浪秀(なみほ)
        の説明板がある。
         この神社の宮司の長男であった浪秀は、周防徳山で修行して国学などを学び、尊皇攘夷
        思想を持つ。1862(文久2)年京都に出て、憂国の志士として国事に奔走する。186
        4(元治元)年6月5日、諸藩の志士たちが京都三条の池田屋に集まったが、長州側の志士
        
として吉田稔麿と共に参加。これを察知(同志古高俊太郎が新選組に捕縛され自白)した新
        選組が急襲され全員が同じ運命をたどった。浪秀は24歳であったが1915(大正4)年従
        五位が贈られたとある。
 

        
        
         八幡宮に続いて大嶺小学校の校舎と運動場、少し下った所で尾其上川の小さな流れに出
        合う。

        
         新四国美祢市八十八ヶ所63番霊場。

        
         家々は更新されて街道だった面影は残っていない。

        
         
中村地区に入ると道は分岐する。左は美祢線を渡り美祢駅へと続くが、街道は直進して
        左手に変電所を過ごす。

        
         街道は右側の道だが、直進してJR美祢駅へ向かう。

        
         線路に沿うようになると前方に跨線橋が見えてくる。

        
         美祢駅構内には3本の線路があるが、ホーム側の線路のみが使用されている。

        
         美祢駅は無人駅で駅前はひっそりとしている。

        
         単線化した美祢駅(14:09乗車)
              


麻生は炭鉱住宅が建ち並んでいた地 (美祢市豊田前町麻生)

2021年06月14日 | 山口県美祢市

        
                  この地図は、国地土理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
         
麻生は日野川支流の三ツ杉川流域の沖積低地に位置する。地名の由来は地下(じげ)上申に
        よると、往古、麻の中で生まれた麻生助が長じて、麻生盛綱となり、当地に居住したこと
        によるという。(歩行 約5.km) 

                  
  
         JR美祢駅(9:08)からブルーライン交通豊田西市行き30分、豊田前バス停で下車する。

        
         
日野川に架かる馬橋を過ごし、国道を美祢方面に進む。

        
         この建物は、旧国鉄バスの秋吉線豊田前車庫として、1976(昭和51)年から11年間
        使用されたがダイヤ改正で廃止された。
         祖先が築き上げた文化を長く後世に伝えるため、山陽無煙鉱業所関係、農・民具関係資
        料を豊田前小学校に展示保管していたが、小学校新築のため、この建物を改造整備して豊
        田前郷土資料館として保存展示しているという。

        
         この先で旧道に入るが、大内氏の時代には山口市道場門前と海上交通の要港・肥中港を
        結ぶ肥中街道として整備された。

        
         山本モータース(無人)の敷地内に馬のオブジェが置かれている。

        
         1939(昭和14)年丘陵地に山陽無煙鉱業所豊浦社宅が建設され、この社宅に対し「し
        たみせ」として賑わった地である。

        
         最盛期には80店舗以上が軒を連ねていたとされるが、1958(昭和33)年頃から石炭
        不況の影響を受けて衰退の途をたどる。

        
        
         賑わった頃に作成されたであろう看板が残る。

        
         静かな通りである。

        
         中央にアンモナイトの化石、周囲に市の花「桜」が配置され、「かせきとはなのまち」
        と刻字された美祢市の集落排水用マンホール蓋。

        
         このような建物は2軒のみであった。

        
         集落と国道の間を三ツ杉川が西流する。

        
         かって炭鉱住宅(豊浦社宅)が立ち並んでいた地に、美祢社会復帰促進センターが開設さ
        れた。当時の法務大臣が「この施設で、受刑者が生まれ変わることを心から願って、この
        丘を「再誕の丘」と命名したとある。

        
         2007(平成19)年4月、わが国初のPFI手法による官民協働の刑務所として発足す
        る。

        
         刑務所といえばコンクリート塀が連想されるが、当センターはフェンスにより環境への
        調和が図られている。

        
         施設内道路は通行可能であり、地域との共生の観点から敷地内に市立保育園、施設内の
        一般食堂も住民の方々に開放されている。

        
         施設の裏手は田園地帯が広がる。

        
         麻生八幡宮の社伝によると、平安期の1158(保元3)年宇佐神宮より勧請する。もとは
        麻生又二郎盛綱の居城、土井山に創建されて鎮守とされていたが、室町後期の1549(天
           文18)
年現在地に移転したという。

        
         八幡宮が移転した折に麻生盛綱母子の供養塔も移転したとされる。この塔は室町中期の
        作とされ、ほぼ完全な形で残っているのは珍しいそうだ。

        
         長福寺(真宗)の寺伝では、大内義隆の家臣・来島九郎右衛門が、大寧寺において義隆自
        刃後、この地に逃れ亡主の冥福を祈るため、出家・得度して草庵を結ぶとある。

        
        
         四方を山に囲まれた田園地帯は、巨費を投じて圃場整備が行われた。

        
         集落の境に庚申塚。

        
         国道筋に戻ってくる。

        
         浄円寺は往古には真言宗であったが、その後、萩の三戸氏の末葉が堂守していたが、後
        に真宗に帰依して改宗する。

        
         1889(明治22)年町村制施行により、6村が合併し豊田前村が発足する。その後、町
        制に移行して、1954(昭和29)年美祢市になるまで、この地に村(町)役場が置かれた。
        (現在は公民館と市出張所)