ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

光市三輪に三輪神社と往還道筋の市 

2024年03月27日 | 山口県光市

            
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製加工したものである。
         三輪は田布施川上流域の丘陵地帯に位置する。地名の由来について地名淵鑑は、「当村
        に三輪大明神があるが、これは神(みわ)氏がその祖先を祀ったものである」という。
         「みわ」とは「神」の古代語で、奈良県の三輪山は大神(おおみわ)神社の神体で、この三
        輪の大神と神氏の流れをひくと考えられている。(歩行約7.1km)

        
         JR岩田駅は、1899(明治32)年に山陽鉄道の駅として開業するが、単式ホームであ
        ったため1番のりば側に駅舎が設置される。1894(昭和39)年電化に伴い、ホームが改
        良されて跨線橋が設置され、1937(昭和12)年に現在の駅舎が改築された。

        
         駅前から三輪地区への旧道を、買い物を済まされた地元の女性とのお話しながら歩く。
        (交差点までは岩田地区)

        
         旧道ということで、見るべき建物があるだろうと思っていたが更新されていた。

        
         旧道の突き当りが県道68号線(光日積線)だが、横断歩道はないが通行量が少ないため
        確認して正面の階段を上がる。

        
         酒屋の看板がある古民家を過ごす。

        
         共栄公園内に荒神社が祀られているが詳細は知り得ず。

        
         再び県道を横断して山道に入る。

        
         1790(寛政2)年建立の鳥居には「講神」という額束があり、1730(享保15)年に奉
        納された灯籠もある。
         「講神」については詳細不明だが、「荒神」「庚申」でもなさそうだし‥。秋葉権現と
        いう山岳宗教と修験道が融合した神仏習合の神がある。火防の霊験があり、近世期に全国
        に分社が勧請され、秋葉講と呼ばれる講社があったというが、この社がそれかどうかはわ
        からない。(隣に忠魂碑)

        
         何かの小屋と思ったら「毘沙門堂集会所」の看板が掲げてある。堂内には総高110.2
        ㎝の毘沙門天が祀られているそうだが、施錠されて内部を見ることはできない。

        
         堂の前には古い地蔵尊が並ぶ。

        
         山を越えると山間に囲まれた田園が広がる。

        
         県道23号線(光上関線)を岩田駅方向へ引き返して里道に入る。正面の山に三輪神社が
        あり、右奥に石城山が聳える。

        
         三輪幼稚園への案内を見て林内に入って行くと、鐘楼門が見え、広場には園児たちが遊
        んでいた。園の方に境内へ入ることの了解を得て山門を潜る。

        
         浄国寺(浄土宗)は、京都知恩院が本山で室町期の天文年間(1532-1555)の開山といわれる。  
        三輪領主の井原大学の菩提所となり、寺領を拝領したという。楼門は入母屋造りの桟瓦葺
        き、本堂は入母屋造り向拝付きの本瓦葺きである。

        
         井原親章(主計)の墓があるというので山内の墓地を探すが見当たらず。(園の人に聞くが
        知らないとのこと)
         井原親章(1816-1866)は、美原に郷校「縮往舎」を創立して広く教育を行う。第二奇兵隊
        の隊士も加わったため手狭となり、隣接の同寺を借りて教育したという。
         「孝子説清先生之墓」が境内にあるが、1859(安政6)年に森山幾之進が自宅に寺小屋
        を開き、広く庶民の子弟の教育を行う。生活は質素で、父母亡き後は社会に恩返しの生涯
        を送る。墓碑は師の遺徳を偲んで、1882(明治15)年に在村の子弟が建立する。

        
         田布施川上流に見える山付近が塩田地区との境のようだ。

        
         水源地を過ごし、金比羅橋を渡って正面の山を目指す。

        
         三輪村道勝間線改修碑(寄付者簿)の先に石仏三体が鎮座する。台座には文字が刻まれて
        いるが、風化してはっきりと読めないが、右には「智法」とある。その隣に石段があるの
        で古道と思われるが、薮化しているため上るのを残念する。

        
         古道を避けて車道を上がる。

        
         途中に鳥居と石灯籠のある場所がある。鳥居の額束に「三輪明神」とあり、建立時期は
        「天明元年(1781)」は読めるが以下は読めない。灯籠には安政三年(1856)丙辰年三月吉祥
        日とある。額束の向きから考えると古道の参道でもあるようだが、鳥居前が広いので気に
        なる場所である。(御旅所?)

        
         車道から分かれて左の階段を上がる。

        
         大きな鳥居には「三輪神社」とあり、昭和15年(1940)建立と刻まれている。

        
         手水鉢から急階段を上がらなければならない。

        
         三輪神社の由来について、神(三輪)一族が大神明神の分霊を奉持して、この地の荘長と
        して下る。最初に分霊を祀ったのは現在の田布施町城南であったという。
         関ケ原の戦い後に毛利氏は防長二州に移封され、井原家はこの一帯の給領主となり三輪
        明神を祈願所とした。
         その後、井原家は末期養子(世継ぎがないと一家断絶となるため、当主の死に際して急に
        願い出た養子)があったため、三輪明神のある地が召し上げられて領外となる。1762(宝
        暦12)年に現在地へ遷座させて今日に至るという。

        
         境内の左手に高さ1.1mの石塚がある。この石塚は「稲穂塚」と呼ばれ、元文年中(17
        36-1741)には毎年のように村中の稲穂が枯れ無収穫となる。困り果てた村民は、枯れた稲
        穂を1株づつ持ち寄って神社境内に埋め、1740(元文5)年に「五穀成就稲穂塚」を建立
        する。さらに讃岐の金比羅大権現を勧請して祀ると、それ以後は枯穂が出なくなったとい
        う。

        
         片隅に小さな祠があり、「祇園社・荒神社・疫神社」と刻まれた石塚が祀られている。
        側面には「明治40年(1907)12月23日 三輪村上組」とある。

        
         往路を引き返して三輪市へ向かう。

        
         県道に出ると「おっととと あぶないよ 道見鶏」とある。

        
         途次には束荷にある旧伊藤博文邸と紫陽花がデザインされたマンホール蓋だったが、第
        二奇兵隊の隊士がデザインされたマンホール蓋がある。

        
         旧道に入る手前に「辰岩様」とあるが、説明文はないが岩が辰に似ていることによるの
        だろうか。「龍と竜」は読み方が同じ「りゅう」で、神話・伝説の生き物で水を祀る神様
        とされる。
         「辰」は十二支のひとつで、「龍」と「竜」と「辰」は漢字の違いはあっても、どれも
        同じで神話・伝説の生き物である。

        
        
         県道から旧道に入る辺りから三輪市と思っていたが、地元の方に金坂商店付近から東約
        200mが市と呼ばれていると教えていただく。

        
         山陽道の花岡の宿駅から上関宰判に通じる街道の1つとして、目代(代官)と馬4疋を置
        き、藩の公文書の逓送や旅人に対し馬を貸し出していた。
         日用品市は、12,23,28日の3日開かれて三斉の市といわれ、熊毛郡中央部の物
        資集散地として栄えていた。1897(明治30)年山陽鉄道の開通と共に物品市場が衰退す
        る。

        
         1912(明治45)年に村公営家畜市場が開設され、1918(大正7)年からは常設市場に
        発展する。牛馬の取引市は盛況だったが、経済恐慌や日中戦争による経済統制によって、
        村営の牛馬市場は打ち切られる。(市屋敷の町並み) 

        
         当時使われていた共同井戸が残されている。面白い塀だなとみていたら、通りすがりの
        人が、もともとは木が植栽されていたが撤去され、その表面をコンクリート貼りされたと
        教えていただく。

        
        
         稱(称)名院は浄土宗の寺であったが、現在は無住で市集落の方により維持管理されてい
        るとのこと。右手に地蔵尊、左手に市恵比須のようだ。

        
         寺跡付近が三輪と田布施町宿井との境界のようである。

        
         養蚕業が盛んな地で、全盛期の1921(大正10)年頃には村内で全戸の半数にあたる1
        60戸が養蚕を営んでいた。1926(大正15)年には朝日製糸工場も設立される。
         しかし、1932(昭和7)年の世界恐慌により衰退したという。


下関市唐戸はセブンハーバーの町 ② 

2024年03月13日 | 山口県下関市

        
         歩道橋から見る秋田商会と南部町郵便局。

        
         1900(明治33)年に建築された下関南部町郵便局は、下関に現存する一番古い洋風建
        築で、現役の郵便局の中では国内最古である。
         煉瓦造で2階建て、モルタル仕上げ木造瓦葺きで、新築当時は屋根ペデイメント付(屋根
        の上にデザイン上の小屋根を設けたもの)であったという。

                
         局前に赤い丸ポストが設置してあるが、丸ポストを考案したのが下関に居住していた俵
        谷高七(1854-1912)である。島根県で生まれた俵谷は、その後、赤間関の南部町に居住し、
        指物師として生計をたてていた。その一方で赤間関郵便局(現南部町郵便局)の郵便作業道
        具の制作などに取り組み、なかでも丸ポストの考案は画期的なものであった。

        
         1915(大正4)年に秋田商会の事務所兼居宅として建築されたもので、西日本最初の鉄
        筋コンクリート造のビルとされる。屋上には日本庭園がある和洋折衷のユニークな建物で
        ある。

        
         日清戦争以後の海外進出機運に乗って創設された海運会社である。当時、海岸が間近に
        迫り、屋上の搭屋が灯台の役目を担う。(3階大広間) 

                
         1階が事務室、2・3階が住居で窓際には板張りをめぐらせている。(火・水曜日は休
        館のため2009年撮影分)

        
        金子みすゞ詩の小径⑦ (旧秋田商会ビル)
         詩の「障子」は、みすゞが仰ぎ見たのは秋田商会、郵便局や英国領事館であったのであ
        ろう。
         ビルディングには48の部屋があるが、いま棲んでいるのは蠅(ハエ)だけとある。どこ
        の家にも必ず天井からハエ取りリボンが吊り下げてあった時代があったという。

        
         関門ビルは門司港ー唐戸の連絡船などを運航する関門汽船㈱が、1931(昭和6)年に建
        てたもので、数少ない戦前の事務所ビルである。

        
         防波堤の両端に向かい合うように赤と白の一対の灯台ある。恋人灯台と呼ばれ、恋人同
        士が両方の灯台に触れて愛を誓うと必ず結ばれるといわれている。(後方に関門橋)

         
         はい!からっと横丁の海側に、2本の刀が刃を合わせるような大きな彫刻は、2003
        (平成15)年に完成した彫刻家・澄川喜一氏の「青春交響の塔」という作品である。
         新時代を共に夢見た高杉晋作と坂本龍馬の友情が2本の石柱で表現されている。共に小
        倉戦争を戦ったが、天は時代を先駆けた両雄に、その時からわずか1年の命しか与えなか
        った。

        
         歴史のドラマが繰り広げられた関門海峡。   

        
         200(平成20)年4月から2013(平成25)年3月まで、JR下関駅から城下町長府
        間の路線バスとして運行されていたロンドンバスである。引退後は「あるかぽーと」内の
        一画に展示されている。
         1962(昭和37)年製のバスは、英国領事館があった縁で下関市に譲渡されたとか。

        
         海響館前と姉妹都市ひろば、巌流島にポケモンマンホール蓋4枚が設置されている。㈱
        ポケモンより寄贈されたものという。 

        
         ボードウォークの途中に「ザビエル上陸記念碑」がある。室町期の1550(天文19)
        にフランシスコ・ザビエルは、全国での宣教の許可を得ようと、天皇のいる京都に向かう
        ため九州を発ち、本州最初の地である下関に上陸する。
         この地は埋め立て地であり、実際に上陸した地は、亀山八幡宮の鳥居下辺りではないか
        とされている。

        
         堂崎(道先)の渡し場跡碑には、「山陽道はここで終わり、関門海峡を渡って九州へと続
        いている。いつごろか堂崎の渡し場と呼ばれた公式の船着場があって、江戸時代には旅人の
        往来手形を改める津口の船番所も置かれていた」とある。

        
        金子みすゞ詩の小径⑧ (唐戸市場前)
         「私と小鳥と鈴と」の詩の最後にある“みんなちがって、みんないい”は、いま誰も知
        っている言葉だが、これになるためには一行前の“鈴と、小鳥と、それから私”が大切だ
        といわれている。自己中心の「私とあなた」から、自他一如の「あなたと私」になってい
        る。
         一人ひとりが素晴らしいということだけでなく、誰をも丸ごと認めて傷つけないという
        まなざしに立つことで成り立つという。

        
        
         「魚」のイメージが強い唐戸市場だが、1909(明治42)年に野菜や果物の路上販売が
        許可されたのが市場の始まりという。1924(大正13)年に魚市場が阿弥陀寺町から移転
        して「唐戸魚市場」ができ、1933(昭和8)年に双方が合併して「唐戸魚菜市場」が開設
        される。施設が手狭になったこともあって、野菜部門が他所へ移転したため魚中心の市場
        となる。2001(平成13)年再開発事業により現在地に移転して、観光の要素が色濃くな
        るが、業者向けの卸市場機能と市民向けの小売市場の機能が共存するという珍しい市場で
        もある。(午後2時頃の市場) 

        
        
         豊臣秀吉は文禄・慶長の役(1592-1598)で、拠点の佐賀・名護屋城にいたが、母危篤の報
        に急ぎ大坂へ戻る。小倉から船で関門海峡を航行中、岩礁に乗り上げてしまうが、船頭だ
        った明石与次兵衛は、秀吉を危険な目にあわせたと斬首されたともいわれている。
         「死の瀬」を与次兵衛ヶ瀬と呼び、岩礁を知らせるため碑が建てられたが、明治期の工
        事で岩礁は取り除かれ、碑は和布刈公園に設置された。この碑は、1979(昭和54)年に
        第四港湾建設局が「関門航路草創の地」の記念碑と一緒に建立する。

        
         唐戸に2つあるポケモンマンホール蓋の1つ。

        
         平家物語は鎌倉時代に成立したといわれ、平家の栄華と没落を描いた軍記物語である。
        台座には平家物語の冒頭部分が刻まれている。
            祇園精舍の鐘の声 / 諸行無常の響きあり
            娑羅双樹の花の色 / 盛者必衰の理をあらはす
            おごれる人も久しからず / ただ春の夜の夢のごとし
            たけき者もつひにはほろびぬ / ひとへに風の前の塵に同じ 

        
         朝鮮通信使の「通信」とは“信(よしみ)を通わす”という意味だそうだ。1607(慶長1
        2)年に朝鮮との国交が回復し、3回の回答兼刷還使と、1636(寛永13)年から1811
        (文化8)年まで9回の通信使が江戸に赴く。ここ赤間関に上陸した後、さらに瀬戸内海を船
        で大坂へ向かったとされる。

        
         1185(元暦2)年3月24日関門海峡の壇ノ浦で最後の戦いが行われた。序盤は平氏が
        優勢であったが、途中から潮の流れの向きがかわり、それが平氏の敗北につながったとい
        われている。
         敗色が濃厚となると平家の武将は海へ身を投じる。平家の大将であった平知盛は平氏滅
        亡の様を見届けて、乳兄弟の平家長と共に海へ身を投じる。これに想を得た歌舞伎「義経
        千本桜」の「渡海屋」および「大物浦は別名「碇知盛」とも呼ばれ、碇とともに仰向けに
        入水する場面がある。(みもすそ公園に平知盛像)
         海参道入口に碇を奉納し、「海峡守護碇」として海峡の平安を祈るとされる。

        
         海参道から見る赤間神宮。

        
         国道9号線の阿弥陀寺町に道標がある。「右上方道 左すみよし道/天保八丁酉歳(1837)
        正月吉日/網屋大左衛門/魚屋□太郎」とある。

        
         極楽寺の東に赤煉瓦倉庫が現存する。建築年代や当時の所有者を知ることはできなかっ
        た。

        
                 極楽寺(真宗)は、鎌倉期の1256(康元元)年に阿弥陀堂が建立されたが、寺号公称の許
        可を得たのは、1641(寛永18)年のことである。
         1863(文久3)年6月8日に結成された奇兵隊は、白石正一郎宅から阿弥陀寺(現赤間
        神宮)へ移動するが、さらに隊員が多くなり、隣にあった極楽寺が分屯地となる。第二次世
        界大戦の空襲で焼失し、後に再建されて今日に至る。

        
         赤江漠(本名は長谷川敬、1933-2012)は下関市で生まれ、溝口健二に憧れて映画監督を志
        し、日本大学芸術学部演劇科に入学するも中退する。その後は放送作家としての活動を経
        て小説の執筆を手掛ける。
         文学碑は「オルフェの水鏡」の冒頭「陽ざかり囲い」の一部で
               崩れかけた枇杷 / 色の土塀に陽ざしが溶け
               歩いても歩いてもわれ一人 / 無人の迷路
               和やかに五感が崩れ / 矇朧(もうろう)たる
               静謐(せいひつ)がやってくる。 

        
         極楽寺から赤間神宮へ向かうと鎮守八幡宮の鳥居と参道。

        
         神門には「神徳無偏」の神額がある。神徳無偏とは「神の功徳,威徳は平等に広く行き
        渡り、一方に偏っていないこと」の意味だそうだ。

        
         神門と鳥居の間に置かれている壇ノ浦漁釣船と由来記を見て、石段を上がると大きな唐
        破風の付いた大連神社がある。1906(明治39)年10月に日露戦争終焉と共に満州国の
        玄関口である大連市の総氏神として建立される。第二次世界大戦が終結するとソ連軍保護
        のもと、1947(昭和22)年3月14日宮司だった水野氏の手によって御神体が持ち帰ら
        れ、福岡市の筥崎宮に仮安置された。その後、水野氏が赤間神宮宮司に赴任した際、境内
        に小祠を建てて大連神社の御神体を遷座させた。
         伊勢神宮の式年遷宮の際に古社殿を譲り受け、1980(昭和55)年現在地に移築して正
        遷座する。

        
         大連神社と同じ境内地に紅石稲荷神社がある。由緒によると、平安期の1183(寿永2)
        年平氏は木曽義仲に攻められ、安徳天皇を奉じて都落ちするが、船には京都伏見稲荷大明
        神を勧請して乗船する。長門国壇ノ浦に到着すると、紅石山に安置したことに始まりと伝
        えられる。
         1945(昭和20)年の戦災で社殿を焼失したが、1984(昭和59)年現在地に再建され
        た。

        
         鎮守八幡宮は、平安期の859(貞観元)年に宇佐から京都の岩清水へ分霊を勧請する際、
        関門の風光明媚な当地に、日本西門の守り神として創建された。
         この八幡宮も先の大戦による戦災で焼失したが、後に宇佐神宮の例に倣い朱色の社殿に
        再建された。

        
         赤間神宮は、平安末期の1185(元暦2)年3月24日に壇ノ浦の戦いで敗れた平家一門
        とともに、わずか8歳で入水した安徳天皇を祀っている。
         もとは阿弥陀寺で、1875(明治8)年に寺を廃して明治天皇の勅で赤間宮となる。

        
         十三重塔は水没者の霊を供養するため、石塔の台下には幾多の小石に名を留めて納めら
        れている。一番下の層が不動明王で最上層が虚空蔵菩薩。1950(昭和25)年に建立され
        たが、神社に仏教的要素が混在する。

        
        
                 琶法師の芳一堂は、小泉八雲の平家伝説をもとにした「耳なし芳一」で、芳一の木造が
        祀られている。
         平家の亡霊を弔うため体中に魔除けのお経を書いて平家物語を演奏していたら、耳にお
        経を書いていなかったため、平家の怨霊が耳をもぎ取ったことから「耳なし芳一」と呼ば
        れた。 

        
        
         平家一門の七盛塚は、平家の武将で「盛」のつく名が多かったことからこの名がついた。
        前列に知盛他6塚。後列には従二位尼である平時子ら7塚。

        
         壇ノ浦を望む水天門は鮮やかな竜宮づくり。「海の中にも都がある」という二位の尼の
        願いを映したものと云われている。

        
         水天門の左隣に安徳天皇阿弥陀寺陵。

        
         水天宮の下には竜造寺家が壇ノ浦に落とした巨石が祀られている。

        
         赤間宿本陣・伊藤家は春帆楼の下に邸宅があり、唐戸南部町の本陣佐甲家とともに、赤
        間関の大年寄りを務めた。シーボルトや坂本龍馬も滞在したが、先の大戦の災禍により焼
        失する。

        
         1895(明治28)年に日清講和条約が旧春帆楼で行われたが、講和条約の意義を後世に
        伝えるため、1937(昭和12)年隣接地に記念館が建設される。
         旧春帆楼は戦災で焼失したが、鉄筋コンクリート造であったため戦災を免れる。(国登録
        有形文化財) 

        
         講和会議場が再現されているが、椅子は浜離宮で使用されていたものといわれる。

        
         3月19日に清国の講和使節団を乗せた汽船が関門海峡の沖合に停泊。翌日から日清講
        和会議が開催され、日本全権の伊藤博文、陸奥宗光、清国全権の李鴻章をはじめ両国の代
        表11名が出席した。講和に向けて会議は繰り返し行われ、4月17日に講和条約が調印
        された。 

        
         清国の講和使節団は引接寺(いんじょうじ)に宿泊して講和会議に臨んでいたが、1895
        (明治28)年3月24日に第3回目の会議を終えた李鴻章は、帰途、小山豊太郎という青年
        狙撃される。
         負傷したが快復して4月10日の会議から復帰したが、大通りを避けて小径を往復する。   
        のちに、この道が「李鴻章道」と呼ばれるようになったとか。

        
         瓜生商会は長崎に本店を置くホーム・リンガー商会の代理店として設立されたもので、
        1936(昭和11)年同商会が社長の息子・M.リンガーのために建てた住宅である。暖炉
        用の高い煙突以外に、装飾的な要素は一切排除されている。(国登録有形文化財) 

        
         藤原義江はわが国にオペラを根付かせた功労者であるが、義江の父、N・B・リードが
        瓜生商会の支配人として住宅を使用したが、義江は住んだことがなかった。
         1978(昭和53)年3月より、資料を公開する記念館として活用されている。

        
         尊皇攘夷運動を資金面で援助した白石正一郎は、明治維新後、赤間神宮の2代目宮司を
        務めた。1880(明治13)年に69歳で死去し、赤間神宮背後の紅石山に奥津城(おくつき)
        が建てられた。(右手は真木菊四郎の墓)
         赤間神宮からは通行不可で、藤原義江記念館側から行くことができる。

        
         引接寺(いんじょうじ)は、1560(永禄3)年に現在の北九州市門司区から亀山の麓に移し
        たのが創建とされる。当時の建物は下関空襲で焼失したが山門は難を逃れた。日清講和会
        議が開かれた際に、李鴻章ら中国全権一行の宿泊場所となった。

        
                 「三門の龍」の彫刻があるが、龍にまつわる伝説が残されている。江戸末期頃に寺前を
        通りかかった人が、次々に襲われるという事件が起きた。その犯人は三門の龍で、武士に
        よって龍は退治されたという。三門の龍をよく見ると胴体がスパッと切られている。
         龍の彫刻は、制作年や誰の作なのか、資料が焼失してわからないそうだが、出来栄えか
        ら左甚五郎の作ではないかといわれている。

        
         鎌倉時代の中頃、御所勤めの公家・藤原采女亮が宝刀紛失の責任をとって、職を辞して
        下関に住み込み、新羅人から髪結いの技術を学び、髪結い所を始めた。
         床の間には天皇を祭る祭壇があったことから「床屋」と呼ばれるようになった。(床屋発
        祥の地・櫛と剃刀)

        
        
         亀山八幡宮の鳥居前にある山陽道碑は、1878(明治11)年9月に渡船場が新たに築か
        れたことを記念して建てられた。1954(昭和29)年12月に亀山八幡宮東鳥居下から現
        位置へ移したとされる。

        
         亀山八幡宮の由緒によると、平安期の859(貞観元)年2月平城京鎮護のため、宇佐八幡
        宮から石清水に勧請の途次、赤間関の南岸亀山の麓に係船する。その際に神宜によって仮
        殿を造営したのが始まりとされる。  

         
        金子みすゞ詩の小径⑨ (亀山八幡宮境内)
         詩碑には「夏越(なごし)まつり」があるが、夏越祭は7月末に2日間にわたって行われる。

        
                 幕末の攘夷戦で、亀山、壇ノ浦、前田などに長州藩の砲台が置かれた。1863(文久3)
        年5月11日久坂玄瑞の指揮によりアメリカ商船への攻撃が亀山砲台から始まり、攘夷戦
        の火ぶたが切られる。

        
         1865(慶応元)年の初夏、刺客に追われた伊藤博文が亀山八幡宮の境内で、茶屋のお茶
        子だった木田梅子に助けられたのが二人の出会いで、その1年後に夫婦となる。伊藤公は
        初代内閣総理大臣となり、梅子夫人は我国最初のファーストレディである。
         日本の近代化と発展に身命をかけていたが、1909(明治42)年凶弾に倒れる。
               国のため光をそへてゆきましし
                  君とし思へども悲しかりけり(梅子) 

        
         この亀山は島であったが、馬関(下関の古称)開発のため人柱となり、海底に消えたお亀
        さんは下関の発展の功労者である。時の人が功績を称え、記念に銀杏の木を植えた。木は
        年輪を重ねて名木となり、お亀銀杏と称えられた。
         1989(平成元)年にお亀明神社を再建して、池を整え玉垣を巡らせたという。

        
        金子みすゞ詩の小径⑩ (亀山八幡宮下)
         1930(昭和5)年2月27日正式に離婚して上山文栄堂に戻り、みすゞは亡くなる前日
        の3月9日に八幡宮傍の三好写真館で最後の写真を撮る。その時の心情はいかほどだった
        だろうか。
         詩碑には「鶴」があるが、八幡宮の亀の池に、一羽の鶴が舞いおりて住みつく。人間が
        つくった網の中で鶴は寂しく、一方の人間のつくった汽車は動くことができる。静と動の       
        2つが1つになっている。
 
         ここで唐戸の散歩を終えて、唐戸バス停よりJR下関駅に戻る。


下関市唐戸はセブンハーバーの町 ①

2024年03月13日 | 山口県下関市

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製加工したものである。
         唐戸は幕末から明治期にかけて、世界に門戸を開く上で大きな役割を果たした7つの港
        町(函館・新潟・横浜・下田・神戸・下関・長崎)の1つである。1894(明治27)年に唐
        戸湾の埋め立て工事が開始され、1896(同29)年に完成してできた町で、市街地東部の
        中心的な地域である。
         地名の由来は、唐戸湾が入海であった時代の樋・樋門による説と、唐渡(唐への渡し)があ
        ったからとする説など諸説あるようだ。(歩行約8.9㎞)

        
         JR下関駅からサンデンバス長府方面行き約6分、三百目バス停で下車する。

        
         蜂谷ビルは、1926(大正15)年に「東洋捕鯨株式会社」の下関支店として建てられた。 
        近代における日本捕鯨事業の中核を担い、大正期に日本の捕鯨事業をほぼ独占していた同
        社は、昭和期に企業合併して日本捕鯨㈱(後に日本水産)となり、日本で初めて南氷洋捕鯨
        を行う。(国登録有形文化財)

        
         関門海峡に面する岬之町(はなのちょう)の段上に建つビルで、窓の間にある垂直の間柱に
        はタイルが貼られ、外壁はモルタル仕上げとなっている。

        
         今は施錠されて内部を拝見することはできないが、2019(平成31)年に訪れた時、近
        所の方(所有者?)に内部を案内していただく。外観は捕鯨業の盛行を偲ばせる事務所建築
        であるが、内部は古びた空間で意匠などは見られない。

        
         2017(平成29)年3月から一部を飲食店として利用されていたが、看板は目にするが
        閉じられたようだ。説明によると、絵画など当時にあったものがここに保管されていると
        のこと。

        
         ビルから見える海峡タワーと下関商港。

        
         国道9号線を横断して観音崎へ向かう。

        
         永福寺入口に山陽道・赤間関街道の起終点一里塚跡の碑がある。1739(元文4)年の
        「地下上申絵図」や有馬喜惣太の「御国廻行程記」によると、門前に一里塚が描かれてい
        るとのこと。 

        
         石段の左手にある宝篋印塔は刻銘が読めず。

        
         永福寺(臨済宗)の寺伝によると、飛鳥期の611(推古天皇19)年に百済の琳聖太子が入
        朝の際、風光明媚な関門の地に念仏観音像を安置し、一宇を建立されたことに始まり、こ
        の地の地名が「観音崎」になったという。初め天台宗であったが、のちに衰微して荒廃し
        たが、鎌倉期の1327(嘉暦2)年南禅寺三世が中興して臨済禅の道場に改めたとされる。
         その後は代々大内家、毛利家の庇護を受けたが、1945(昭和20)年7月の空襲で一朝
        にして灰塵に帰す。

        
         お堂の中に「お賓頭盧(びんずる)さま」がお座りになっているが、釈迦の弟子の一人で神
        通力に優れていたが、世間の人に多く用いたため、釈迦の呵責を受けて涅槃を許させず、
        釈迦入滅後も衆生を救い続けるとされる。
         この像を堂の前に置き、自分の悪い部分を撫でると徐病の功徳があるとされ、撫で仏の
        風習が広がったとされる。

        
         寺は現在のやまぎん史料館の地にあったが、1917(大正6)年諸堂の老朽化により現在
        の地に移転する。
         「港の見える丘の径」は、JR下関駅近くの大歳神社から永福寺を経由して、南部町の
        寿公園に至る散策コースである。境内からは港の見える丘の1つとして、関門海峡を見渡
        すことができる。

        
         1920(大正9)年まで永福寺があった地に三井銀行下関支店の建物が竣工し、1933
          (昭和8)年に山口銀行の前身である第百十銀行本店となり、山口銀行の創立(1944年)か
        ら本店新築(1965年)まで本店として使用された。
         建物の外部は御影石で覆われ、古典主義様式のデザインを採り入れた意匠となっている。
        2008(平成20)年にやまぎん史料館として開館し、銀行の変遷などが紹介されている。
        
        
         1階は高い吹き抜けの営業室で、営業カウンター、亀甲張りのロビーが復原されている。

        
         南階段は建築当時の欅造り、手摺りはワニス塗りで絨毯も当時のものとされる。

        
         格天井と内部の壁は漆喰塗で、2階部分の四周には回廊が設けられている。回廊は2階
        の窓を開閉するためと思っていたが、アメリカの銀行を真似て建築されたが、当時のアメ
        リカでは強盗が多く発生していたため、銃を所持して警備する回廊であったという。(現在
        は2Fに上がれない) 

        
         萩藩馬関越荷方役所は、もと伊崎新地にあったが幕末期に移転する。倉庫業や廻船の荷
        主に資金を貸し付けるなどの業務を行う。収益は「撫育方」という特別会計に蓄え、明治
        維新実現の軍資金となる。(現西尾医院前)

        
        金子みすゞ詩の小径① (明治安田生命ビル)
         1923(大正12)年20歳となった童謡詩人・金子みすゞは大津郡仙崎村から母の嫁ぎ
        先である上山文英堂書店本店に移り住む。この地で結婚したが、1930(昭和5)年2月に
        離婚し、3月10日この地で26歳の短い生涯を閉じる。
         終焉の地には「みんなを好きに」の詩碑がある。
              私は好きになりたいな、
              誰もかんでもみいんな‥‥
         1927(昭和2)年頃の作品とされ、子供ができたが夫の素行に悩まされ始めていた。

        
         専念寺(時宗)の寺伝によれば、福生寺と号して飛鳥期の611(推古天皇19)年、百済の
        琳聖太子が開いた霊場であった。久しく天台宗であったが、鎌倉期の弘長年間(1261-1264)
        に一遍上人がこの地に留まった時に、これに帰依し、時宗に転宗して現寺号に改めたとい
        う。
         1945(昭和20)年の戦災で堂宇を焼失したが、後に再建されて今日に至る。また、幕
        末の下関攘夷戦当時、当寺の横に木守社砲台があり、大砲一門が据えられていたという。

        
         境内には明和九壬辰(1772)九月吉日、願主・山内□□?と刻まれた山内家の宝篋印塔が
        ある。

        
         菅原神社は平安期の正暦年間(990-995)に太宰府より分霊を勧請する。江戸中期に建て替
        えられた社殿は、戦災で焼失して再建立された際に、拝殿は亀山八幡宮より移設されたも
        ので、現在は亀山八幡宮の末社である。
         恵比須神社は岬之町の海岸線(素浦)に鎮座していたが、1857(安政4)年に菅原神社に
        相殿となる。2月9日の「ふくの日」には、豊漁や航海安全・商売繁盛を願って祈願祭が
        行なわれる。

        
         「港の見える丘の小径」を歩いて終点の寿公園前に出る。途中の左手には浄土宗の酉谷
        寺(ゆうこくじ)がある。。1576(天正4)年に建立されたが、引接寺から見て酉の方向にあ
        たることから、酉谷寺と称したともいわれている。

        
        金子みすゞ詩の小径② (寿公園内)
         右側の碑文には、明治36年(1903)長門市仙崎で生まれる。本名 金子テル。
         左側の「はちと神さま」という詩は、蜂から始まって蜂に戻っている。この世のすべて
        は無縁な存在でなく、1つとして無用なものは存在しないという。

        
         店舗の片隅にある道標。

        
         ろうきん下関支店は、1934(昭和9)年に旧不動貯蓄銀行下関支店として建築された。
        飾り気の少ない建物でオーダーも一番おとなしいトスカナ式である。

        
         下関市役所本館棟の片隅にある大国神社は、1802(享和2)年に出雲大社の分霊が勧請
        された。何回か遷座した後、2014(平成26)年に市役所新庁舎建設のため、又も移動さ
        せられたという。

        
        
         奈良期の741(天平13)年聖武天皇が国家の平安を祈り、全国に国分寺を建立する。長
        門国では下関の長府に設けられ、大内氏や長府毛利氏の庇護を受けていたが、維新後に寺
        勢が衰退する。
         1890(明治23)年旧地から廃寺となった大隆寺跡に移転したが、1945(昭和20)
        の戦災で堂宇などを焼失する。

        
        金子みすゞ詩の小径➂ (黒川写真館跡)
         1923(大正12)年5月3日に20歳の記念写真を撮ったのが、この地にあった黒川写
        真館(現在は村田写真館)といわれている。この頃からペンネーム「みすゞ」で詩を書いて、
        雑誌「童話」などに投稿を始める。
         詩碑には「山の子濱の子」があるが、町を見てきた山の子が見つけのは「小さなグミ」、
        町を見て浜の子が見つけたのは「鱗(うろこ)」とある。

        
         下関役所立体駐車場の西側に「赤間関在番役所」碑がある。「在番役所」とは長府藩が
        赤間関の行政を行うために設けた役所とのこと。
         赤間関は赤馬関とも書いたので、「馬関(ばかん)」と呼ばれることが多かったという。

        
        金子みすゞ詩の小径➃ (田中川弁財天橋)
         みすゞが商品館に通勤するために利用した橋とのこと。橋の欄干には「すなの王国」の
        詩がある。
         この大通りは、かつてのメインストリートで、明治後期には外国系の商社が軒を並べ、
        華やかな洋館が数多く建っていたという。

        
         下関市役所第一別館は、逓信省が全国主要都市に建設した電話局舎の1つで、現存する
        のは門司郵便局電報局庁舎の2棟だけである。1924(大正13)年に建築されたもので、
        フルーティングのある柱が並び、階段室塔屋のパラボラ・アーチ、三階には半円形の窓を
        配置している。
         1966(昭和41)年まで使用されたが、その後、下関市の手に移り、市庁舎別館として
        使用された。現在は田中絹代ぶんか館として利用されている。

        
         宮崎商館は、宮崎義一により石炭輸送業を営む商社として神戸で設立され、1893(明
        26)
年に下関支店を開設後、拠点を下関に移し大規模な石炭事業を営む。
         棟札から1907(明治40)年築とされ、旧英国領事舘と同様に、赤い煉瓦と白い石を使
        用し、正面の1階には、中央にアーチの玄関を設け、左右に縦長の窓を納めている。2階
        は5連アーチのベランダや軒の持ち送りの意匠が施されている。

        
        金子みすゞ詩の小径⑤ (商品館跡)
         下関に移り住むと、この場所にあった商品館内の上山文栄堂支店で働く。1926(大正
        15)年23歳の時に上山文栄堂の店員・宮本啓喜と結婚し、文栄堂の2階で新婚生活を始
        める。4月に文栄堂を出て関後地村に新居を移し、11月に長女が誕生する。詩碑には
        「キネマの街」が掲載されている。

        
         県道57号線(下関港線)の傍に貴布祢神社(五穀神社)がある。この付近を田中町といい、
        大古、平地は唐戸湾の入海だった所で、川の土砂が堆積して河原になり、やがて土地や田
        ができたとされる。

        
         林芙美子は、1903(明治36)年貴布祢神社入口にあったブリキ屋の2階で生まれたと
        いわれている。自叙伝でもある「放浪記」に下関が書かれている。
            どんなに苦しくっても
            田舎に居た時代が今では
            なつかしくてなりません。
            わたしの生まれたのは、
            山口県の下関です。  「思い出の記より」の一文 

        
         五穀の神(保食の神)が祀られ、1799(寛政11)年に神社が建立された。境内には福徳
        稲荷社が祀られている。

        
         教法寺(真宗)は、鎌倉期の元応年間(1319-1321)の創建と伝えられるが、記録がないため
        不明とされる。
         1863(文久3)年長州藩士で結成された撰鉾隊の屯所となったが、この寺に奇兵隊士が
        押しかけて騒動となり、この事件で高杉晋作は奇兵隊総督を免ぜられ、奇兵隊の本拠は秋
        穂へ移された。事件当時の本堂は、1945(昭和20)年の戦災で焼失する。

        
         本行寺(法華宗)は本能寺12世日承上人が、1552(天文21)年に九州種子島からの帰
        途、当地に立ち寄り随行した日圓上人が、日承上人の命で当地に留まり、約20年間布教
        活動の後、1571(元亀2)年に創建された。
         1718(享保3)年4月の大火で一切を焼失し、その後に中興されて今日に及んでいるが、      
        1945(昭和20)年の戦災で再び焼失したという。

        
         境内左側には、1864(元治元)年8月の四ヶ国連合艦隊下関砲撃事件(下関戦争)で、戦
        死した11人の名を刻んだ戦士塚や、1866(慶応2)年の小倉戦争(幕長戦争)で、戦死し
        た奇兵隊士の墓がある。

        
        
         平安期の809(大同4)年創建の末広稲荷神社は、赤間関最古の稲荷神社で町名にもなっ
        ている。 

        
         稲荷神社麓の稲荷町は、平家伝説とかかわって古い起源をもつが、遊郭が整備されたの
        は近世に入ってからである。全国25ヶ所の公許遊女町の1つであった。
         菱屋平七の「筑紫紀行」には、稲荷町という遊女町はありて、遊女屋34軒ありと記す。      
        北前船が日本海の荒波を多くの日数をかけて赤間関に着くため、船員はここでしばらく休
        息するのが慣行となっており、遊里の発達を促すことになる。汽船が発達して北前船の往
        来が少なくなるとともに衰退し、遊里は豊前田、新地へと移った。

        
        
         この辺り一帯は戦災で焼失し、当時の面影は残されていないが、遊女たちが安徳帝の命
        日には綺羅(きら)をかざって御陵に参拝したのが先帝祭の始まりという。その参拝道中は稲
        荷町の大坂屋という奴楼から出発したという。
         大坂屋は東京第一ホテル(廃業)がある地にあり、戦災で焼失するまでは、3階建ての豪
        華な店構えが遺っていたという。

        
         大きなドーム屋根が載っている赤間本通商店街。

        
        金子みすゞ詩の小径⑥ (赤間町銀天街商店街)
         1927(昭和2)年の夏に下関駅で西條八十に会い、11月には夫が上新地で食料玩具店
        を始めるが、この頃に発病する。「日の光」と題する詩碑が建立されている。

        
         銀天街商店街はシャッター通りとなっている。

        
         1901(明治34)年に全国3番目(箱館、横浜)の英国領事館が下関に開かれ、その5年
        後に英国人技師によって建築された。
         1941(昭和16)年太平洋戦争が始まると領事館は閉鎖され、1954(昭和29)年に下
        関市が所有して、下関警察署唐戸派出所などに活用されたが、旧英国領事館として復活す
        る。(国重文) 

        
         延べ面積323㎡の本館は、イギリス積みされた赤い煉瓦と窓、戸口のまわりは石を配
        置するというビクトリア調ゴジックを基調としている。付属屋(68㎡)は厨房、使用人、
        石炭庫の部屋などとして使用された。
         正面切妻中央の石には「1906」の年号が刻まれている。

        
         三連のアーチと1・2階の軒および腰に、ハンドコース(帯状石飾り)をめぐらせている。

        
         1階は領事室、海事監督官室、書記官室などで構成されていた。(旧領事室)

        
         2階は居間、寝室、浴室だったが、現在は飲食店として利用されている。(2009年撮
        影) 

        ~唐 戸②へ続く。


光市岩田の神社仏閣を巡る

2024年03月10日 | 山口県光市

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製加工したものである。
         岩田は島田川の支流、岩田川の流域に位置する。地名の由来は、岩戸山に「天ノ岩戸」
        と称される立石があることから岩戸村となり、これが転じて岩田村になったと伝える。
         1943(昭和18)年11月に岩田村、束荷村、塩田村、三輪村が合併し、「大きく和に
        する」という願いから大和村となる。後に町制に移行したが、平成の大合併で光と合併し
        て光市の一部になる。(歩行約7.9㎞)

        
         JR岩田駅は、1899(明治32)年に山陽鉄道が敷設されたと同時に開業する。単式・
        島式構造で1番のりば側に駅舎があって、駅南側からだと遠回りしなくてはならない。

        
         駅前から県道68号線(光日積線)を進むが、駅を中心に大塚、小池に分かれて商店街を
        形成する。

        
         市立大和病院の手前を左折して、こんもりと見える丘を目指す。

        
         丘の上には鎮守社が祀られており、参道入口には文明7年(1787)建立の鳥居と、文化8
        年(1711)と刻まれた常夜灯がある。

        
         1959(昭和34)年伊藤博文を祭神とする伊藤神社が束荷神社に合祀された際に、社殿
        を譲り受けたものとされる。

        
         鎮守社から大和総合運動公園内を巡り、スポーツセンター裏手に出る。

        
         1865(慶応元)年に結成された第二奇兵隊の隊士がデザインされた雨水用マンホール蓋。

        
         正面の山に「雨桑観音堂」があると、ウオーキング中の方に教えていただく。(右手奥
        の住宅を目指す)

        
         敷地田地寄付という石碑があるが、詳細は知り得なかった。

        
         雨桑集落から観音堂への道は、非舗装であるが傾斜も緩く歩きやすい。(次の三差路は
        右折)

        
        
         雨桑観音堂の本尊は、馬頭観音、子安観音、火除け観音の石仏三体で農村の守護仏とさ
        れる。
         1647(正保4)年8月に村人が田の畔に腰をおろすと、急に足がきかなくなり、不思議
        に思って田圃を掘り起こすと、泥の中から光明を放す三体の石仏を発見する。翌年の3月
        に一宇を建立して石仏を安置すると、霊験あらたかで雨桑には火災がなかったと伝える。
        (堂内は暗くてピンボケ) 

        
        
         原ヶ迫集落に下ってくると地蔵尊が道端に鎮座する。この一帯は、1974(昭和49)
        に団地化されたが、以前は小高い山と谷であったという。

        
         明治の神仏分離令により、異国の神や「古事記」「日本書記」に登場しないような神は
        認められず、廃止するか祭神を神道が認める神にすることが強要された。
         その1つに祇園社が対象とされたが、当祇園社がどのような経緯を辿ったかはわからな
        いが、石祠は明治34年(1901)建立、鳥居には安永7年(1778)に寄進、手水鉢は文政11
        年(1828)と刻まれている。
         この地は児童公園として遊具が置かれているが、岩田老人憩いの家と森山七兵衛顕彰碑
        は見当たらなかった。

        
         旧大和町は山間の中に立地する。

        
         やまと大橋を過ごして次の集落へ下る。

        
        
         正法院(曹洞宗)の地には、1871(明治4)年まで西念寺という寺があった。明治の廃仏
        毀釈により廃滅のところ、1885(明治18)年山口市小鯖にある禅昌寺の末寺・正法(しょ
          うほう)
院が移転して再興される。 

        
         本堂横に「奉納大乗奉典六十六部日本廻国」と刻まれた廻国供養塔がある。雨桑の人が
        30年をかけて全国66ヶ国の寺院を巡礼し、経典を納めた記念として、1719(享保4)
        年に建立されたものである。

        
         中岩田バス停前の広い道路に出て、柏原神社と教西寺に行く予定であったが、思った以
        上に路程が長いので残念する。

        
         県道68号線に向かう途中に石灯籠があり、岩戸八幡宮の参道と思われるので、この道
        を上がって行く。途中にも案内するように灯籠が立てられている。 

        
         冠念寺の大日堂。

        
         立派な宝篋印塔があるが詳細は
知り得ず。 

        
         冠念寺(真言宗)の寺伝によると、奈良期の738(天平10)年正月に行基巡錫の際、当所
        に伽藍を建立し、寺号を仏母山正覚寺と命名する。
         冠念寺は安芸国高田郡甲立村に宍戸氏の菩提寺として創建された。毛利氏の防長移封に
        より、1600(慶長5)年周佐波郡右田が給領地になると引寺し、その後、知行地替えで三
        丘村に移されていた。1872(明治5)年正覚寺に冠念寺が合併して、冠念寺と改称して今
        日に至るという。
        
         境内には不動明王の知恵の火によって人間の煩悩を消滅し、諸願成就を祈願する護摩堂
        がある。

        
         お堂の寺額「眞禅窟」は、江戸霊雲寺開山の浄厳師の書とされ、当初は安芸国にあって
        宍戸氏の祈願所であったが、宍戸氏とともに右田(現防府市)、三丘(旧熊毛町)に移された。
        正覚寺に冠念寺が合併された際、寺額も移転する。

        
         大日堂の裏手から八幡宮に通じる道がある。

        
         岩戸八幡宮の由緒によると、平安期の938(天慶元)年宇佐八幡宮より勧請し、神霊が岩
        戸石という巨岩に鎮座したことにより、山を岩戸山、社を岩戸八幡宮と称した。1008
        (寛弘5)年岩戸山より200m隔てた現在の地に遷座したとある。

        
         「岩戸遺跡土師器」の石柱があるが、窪地から平安時代から鎌倉時代初期頃の祭祀用の
        土師器(はじき)が多く出土したという。八幡宮の祭祀に使われた祭祀土器の捨て場であった
        と思われ、高坏(たかつき)、碗、小皿の破片が発見されている。

        
         拝殿の中にある雲蹊作の「関羽図」絵馬は、施錠されて見ることができなかった。(参道
        を下る)

        
         溝呂井川に沿って岩田駅を目指す。

        
         この道は駅につながっておらず、岩田小学校近くの蔵光第一踏切を利用する羽目になる。


山口市平川域内の秋穂街道を散歩

2024年03月04日 | 山口県山口市

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製加工したものである。
         山口が西の京と栄えた頃、陸上交通より波静かな瀬戸内海の海上交通が中心であった。
        室町時代の大内氏は、明(中国)との貿易で栄え、嘉川の深溝湊には大きな船が出入りして
        いた。しかし、椹野川の土砂の流失で使用が難しくなると舞台は秋穂湾に移る。
         この秋穂港と大内氏が本拠としていた山口を結ぶ「秋穂街道(お上使道)」として将軍
        および九州の大名たちの使者が利用する。
         陶峠を越えて平川地区に入り、高速道下から湯田温泉に至る道を歩く。(歩行6.9㎞)

        
         JR新山口駅から県庁行き(山口大学経由)約20分、堂紺口バス停で下車する。バスは
        リハビリ病院を往復して引き返して行くが、新山口駅~リハビリ病院間は平日のみで休日
        は運行されていない。

        
         少し高くなった所を越えると正面に平野の日吉神社。 

        
        
        
         平野日吉神社の由緒によると、1774(安永3)年の記録には、平安期の806(大同元)
        年出雲国の大社の分霊を祀り、山王社として創建されたと記す。
         鎌倉期の1287(弘安10)年大内貞保(大内家の分家)の子・多々良成保が平野を領し、
        神殿を建立する。

        
         臨海院(浄土宗)の縁起によれば、その昔、萩生れの浄阿弥という時宗の修行僧が、陶峠
        を越して山口に向かう途中、“一切衆生を守れよ”と虚空霊妙な弥陀(みだ)の声があり、地
        の底より金色に輝く石体を発見する。この石体こそ弥陀の姿として、ここに足を止めて草
        庵を結び、念仏の日々を送ったという。

        
         1497(明応6)年大内義興が「大平山平安寺」と称し、大内氏の祈願所とした。その後
        尼子一族である佐々木家の菩提寺となり、寺号が冷厳寺に改められた。明治維新後に廃寺
        となり、1870(明治3)年に現大内御堀の問田にある光勝院に合併されて光厳寺となる。
        1897(明治30)年に東京深川の回向院末寺の臨海院を引寺して再興された。 

        
         版木を叩いて寺の方に、井上善兵衛の墓塔についてお尋ねするがわからないとのことで
        残念するが、どうも日吉神社から北に延びる道にあったようだ。
         室町期の1569(永禄12)年大内輝弘の軍勢が秋穂浦に上陸し、途中の山口市陶にある
        正護寺で勢揃いした後、陶峠を越して山口に侵攻しようとした。山口には元就の武将井上
        善兵衛の軍が駐屯していたが、輝弘の軍勢が圧倒的に多く、善兵衛は討死して部下も潰滅
        してしまう。

        
         中国自動車道下の道を利用して秋穂街道に合わす。

        
         明神溜池まで行こうと考えたが、往復約1.6㎞もあることから残念して湯田へ向かう。
        見える山は陶峠がある魚切山で、道路は県道200号線だが、平川から陶への道路が計画
        されていたのであろうか。

        
         日吉神社の石灯籠と猿田彦大神。 

        
         街道筋に「平野村の領主 約300m」と案内されている。

        
         案内に従い高速道の函渠を潜ると寺山堤に出る。

        
         溜池の土手下に五輪塔が一基あるが、「平野太郎の五輪塔」と案内されている。平野太
        郎は通称名で本名は多々良成保であり、鎌倉期に平野周辺を領有していた豪族である。
         この塔は溜池の土手東側の山手にあったが、耕地整理で溜池を拡張した際に今の場所に
        移したという。平野氏時代の跡をとどめるのは五輪塔だけとされる。

        
         佐々木氏は元来毛利氏の譜代家臣でなく、出雲国の尼子氏の直系であるが、毛利氏との
        戦いに敗れたことから毛利氏の軍門に下り家臣となる。

        
        
         尼子義久は譜代の家臣を連れて、毛利氏の監視の下で安芸国高田郡長田の円明寺で、幽
        閉の月日を送ること約33年に至った。
         毛利氏が関ケ原の役に敗れて防長二州に移ると、義久は阿武郡奈古など1,293石を賜
        り奈古に移る。義久の跡を弟・倫久の子である元知が継ぎ、その子である就易の代に平野
        村へ知行地替えとなる。
         毛利氏に降伏した後は、尼子の姓をはばかって久佐と名乗っていたが、平野村では旧姓
        の佐々木氏を復した。(館跡)

        
        
 邸宅の敷地は約2,000㎡、入口は土塀を巡らし、本邸1棟に並んで武芸の稽古場と土
        蔵があり、上手に観音堂があったという。本邸の下は溜池であるが、庭園の池泉の観があ
        ったと思われる。1912(大正元)年に建物は解き払われて、今は雑木が生い茂り、形跡を
        とどめているのは崩れ残った土塀と石垣、庭園のケヤキとモミジの巨木だけである。

        
         街道に戻って湯田へ向かうと、右手にある田中邸前を右折する。

        
        
         一直線の道だが耕地整理により、この付近の街道は消滅してしまう。その途中には、「
        耕地整理 記念碑」があり、裏面に大正3年(1914)・大正7年(1918)・百十三町歩、側面
        に平川村黒川第一耕地整理組合とある。

        
         黒川川に架かる橋を渡ると、九田川に架かる広瀬橋が見えてくる。広瀬橋は川船の発着
        地になって、この周辺の米や麦その他の農産物を集荷して小郡の東津まで運ぶ。帰りは塩
        ・石炭・肥料などを運び入れる要地であって、1897(明治30)年頃まで川船営業がされ
        たという。

        
         広瀬橋の架橋年代は明らかでないが、橋の袂に石碑が一基立っている。「右あいをみち、
        古橋願主当村浄念、奉納大乗妙典日本廻国石橋願主、予州松山桑村郡安用村善右衛門、文
        化7年(1810)午の2月吉日」とある。
         四国松山の行者である善右衛門が、住民の窮状を知り、木橋を石橋に造り替える大業を
        成し遂げた記念の廻国塔という。

        
         九田川の土手に菜の花。

        
         橋の先に街道らしい里道が続く。

        
         福良集落付近は田園で、史跡などは存在しない。

        
                 福良公会堂に集められた小祠2基と猿田彦大神の石碑。

        
         県道61号線からJR矢原駅に至る道を過ごす。途中の椹野川に石津橋が架橋される以
        前は瀬渡りであったが、1891(明治24)年頃に受益部落の負担で橋が新設された。19
        13(大正2)年に山口線の大歳駅が開業したことにより、3年後に村費で架け替えられた。

        
         小原水源地を過ごすが、地下水を滅菌して平川・湯田・大歳などに配水されている。

        
         山口ちょうちん祭りがデザインされたマンホール蓋。

        
         椹野川と旧街道が最接近した土手より川下を眺める。

        
         宅地化にされつつある中に農地が残り、案山子が用意されている。 

        
         山口大学が近くなると学生用アパートが目立つようになる。

        
         秋穂渡瀬(あいわたせ)は、昔から山口と瀬戸内海の秋穂を結ぶ秋穂街道の渡し場があった
        所で、仮設の板橋で渡る程度であった。湯田駅の開設に伴って、1915(大正4)年に当時
        の平川村が村費で架橋する。

        
         街道は秋穂渡瀬橋を渡るとJR湯田温泉駅の東側を通り、山口刑務所で寸断されている
        が、肥中街道(石州街道)に合わして山口中心部へ至っている。
         列車の乗車時間が迫ってきたので、ここで街道歩きを止めて駅へ向かう。

        
         湯田温泉には白狐の伝説があり、JR湯田温泉駅前には大きな白狐のモニュメント「湯
        の町ゆう太」くんがいる。

        
         駅には足湯があるので疲れた足を癒すには最高である。