ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

防府市向島は狸の里と狐の立岩稲荷

2023年06月23日 | 山口県防府市

                
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         向島(むこうしま)は防府平野の南に位置する瀬戸内海の島。江戸期までは三田尻湾頭の島
        であったが、元禄年間(1688-1704)の大開作により、わずかな水道を挟んで新田村と向か
        い合う形になった。
         地名の由来について風土注進案は、国府の向こうにある島であることによると記す。島
        内には小田、本村、中村、郷ヶ崎集落があるが、郷ヶ崎と赤崎の立岩稲荷を散歩する。
        (歩行約9.7㎞、🚻鴨ヶ峠、立岩稲荷) 

        
         JR防府駅南口から防長バス小田(こだ)港行き約15分、問屋口バス停で下車する。以前
                のバス停は問屋口内を走る路線上にあったが変更されたようだ。(@340-) 

        
         問屋口で見ておきたいものがあったので左折して入川に沿う。

        
         問屋口にある明治天皇問屋口御小止所址碑と聖蹟碑。碑文を読み取ることができないが、
        1885(明治18)年7月29日、御召艦横浜丸は7時45分三田尻港に投錨。問屋口から
        毛利家別邸(今の英雲荘)に入られ、ここで昼食休憩される。12時30分に御発車し、宮
        市、新橋を経て勝坂~小鯖間は鯖山峠があり、騎馬で峠越えをして山口に入る。野田毛利
        別邸に入御され、30日は山口滞在、31日4時50分に山口を発たれ、往路と同じ道で
        三田尻港に戻られ、10時45分発艦し広島県に向かわれた。

        
         旧道から出た正面に小社があり、地元の方によると「えびすさん」とのこと。コロナで
        夏祭りが中止となっていたが、今年は行われるという。

        
         向島を往来する交通手段は、1750(昭和25)年に架橋されるまでは渡し船が運行され
        ていた。渡し船は東と西の2ヶ所あり、ここは東の渡し場で問屋口と郷ヶ崎を結んでいた
        が、渡し船のことを「役船(やくせん)」と呼んでいた。

        
         橋を渡る手前でタヌキ親子の像が迎えてくれる。

        
         錦橋は、1950(昭和25)年問屋口と向島中村との間に架橋され、いつでも自由に通行
        できることで島の生活に大きな変化をもたらしたという。1969(昭和44)年に改修され
        た現在の橋は、長さ46.7mの鋼製の可動橋で、橋桁より高い船が通行する際、橋を90
        度回転させて船を通過させる仕組みになっている。

        
         橋上から見る向島郷ヶ崎と三角錐の江泊山。

        
         機械操作室で歓談中の方によると、橋を回転させるほどの船は入港せず、開かずの橋に
        なったが、年に1~2回点検のためか回転されるとのこと。開始から10分程度で回転す
        るが、全国的にも回転橋は珍しく、今ではその姿を見るために多くの見物客があるという。

        
         漁港のエプロンには所狭しと漁船が並ぶ。

        
         江戸期には渡し場があったためか、この付近に高札場があったとされる。

        
         船溜まりの釣り人は40㎝級のチヌを釣り上げたが、写真を撮って海へ戻された。釣り
        上げることに醍醐味があるようで、エサは繋留されている船のロープに付着した小さな貝
        を使用されていた。

        
         バス停から厳島神社への道には、かっては稲荷座という芝居小屋があったという。

        
          ㈱松富は「島美人」というブランドのかまぼこ、ちくわなどを製造販売されていたが、
        コロナ関連で工場を閉じられたとか。 

        
         言い伝えによると、広島県の厳島神社は向島に建てられるはずだったが、建立条件とし
        て「7浦」あることが求められたが、6浦しかなかったので宮島になったとか。このこと
        を惜しんで厳島神社が建てられたという。

        
         厳島神社縁起によれば、1748(寛延元)年に鎮座したと伝えるが、1691(元禄4)年の
        取調書に社名が見えるとのことで、少なくとも元禄以前の創建とされている。

        
         本殿脇に航海安全の住吉社(右)と豊漁と商売繁盛の恵美須社。もう一基左手に祠があっ
        たが何かはわからなかった。

        
        
         中村集落への道には新旧の民家が混在するが、古民家は空家が目立つ。

        
        散歩道には酒店は2軒あったが、生活物資を扱う店は見かけなかった。

        
         漁村特有の漁港へ通じる路地が2~3軒毎に設けてある。 

        
         山の反対側・赤崎にある立岩稲荷は、食べて生きるための五穀をはじめとする食物・養
        蚕を祀る神として信仰され、地元では「立岩さま」として親しまれている。
         錦山頂上2.5㎞、立岩稲荷3㎞と案内され、その先に大きな稲荷鳥居(額束に正一位・
        向島立岩稲荷神社)がある。

        
         緩やかな上り道は舗装路。

        
         上がれば展望も開け、正面に錦橋、対岸に防府の町が広がる。

        
         額束には立岩大明神とあるので立岩稲荷と関係するものと思われる。ここまでは500
        m足らずだったが、この先の鴨ヶ峠まで300m、立岩稲荷は2.4㎞の距離にある。

        
         少し荒れ加減の道を進むと、錦山山頂への道が交差する鴨ヶ峠に出る。この手前に公園
        化した際に設置されたトイレがある。

        
         参道は鴨ヶ峠池のほとりを巻くように設けてあって、色あせた2つの大鳥居を潜る。 

        
         紫陽花が咲く道になると、足元は草道だが歩行には支障ない。クルマ社会になって参道
        を利用する人が少なくなったようだ。

        
         車道に合わすと面白味のない道を黙々と歩くだけである。時折石仏や幟を目にするが、
        葛が樹木を覆って海を見ることはできない。

        
         鴨ヶ池池より約500m先の海側、眼下に海面が広く見える所に、昔は鰯の大群を監視
        する魚見(うおみ)があったという。
         松の木に登って鰯の大群を発見すると、中継基地へ手旗信号で連絡して、郷ヶ崎の網元
        へ通知されていたという。木々の生長などで海面が見える範囲が狭まっているので、この
        場所が魚見場所だったかどうかはわからない。1942(昭和17)年の台風で、漁船や網が
        大損害を受けて次第に衰退していったという。

        
         林道赤崎線の砂利道(所々舗装路)を進むと、林道終点のようで車の進入禁止のバリケー
        ドがある。車だとこの先約400mの歩きになる。(車は迂回可能で駐車地もある)

        
         道端にはいろんな花が咲いているが、ネムの木、ネジバナ以外はわからず。

        
         ボケ封じ地蔵に一礼。

        
         林道ではシダを見かけなかったがシダの美しい場所を過ごすと、前方に赤い鳥居が見
        えてくる。

        
         入口の案内では、穀物・農業の神とされる宇迦之御魂神(うかのみたま)を祭神としている。
        「イナリ」は「イネナリ、イネニナル」が約まったもので、人間生活の根源をなすものと
        される。
         また、神仏習合思想において仏教の女神である荼枳尼天(だきにてん)と習合したため、仏
        教寺院でも祀られている。

        
         立岩稲荷の社を過ごし、ゆるやかな鳥居のトンネルを潜り抜ける。

        
         海岸部に下る途中の一光稲荷大明神は、海上20~30mの崖の上に位置する。 

        
         一光稲荷前を左折すると急な坂道。

        
         足元を注意しながら下って行くと海岸部が見えてくる。

        
         大鳥居の前から見上げると屏風の岩が立ち並び、地蔵尊のほか、石碑には「石光・一光
        ・幸之進・さよ姫・長平稲荷大神」とあり。

        
         岩と岩の隙間を利用して末社周防立岩幸之進大神、波切不動、さよ姫大神が祀られてい
        る。稲荷大神が稲荷山に鎮座したのが初午(はつうま)の日とされ、毎年2月の初午の日が祭
        日とされている。
         キツネが稲荷大明神の使いとされるが、キツネは秋の収穫の頃に里に下りてきて、収穫
        が終わる頃に山に戻って行くことから、農耕を見守っている動物して考えられてきたとい
        う。

        
         正面に野島が見えるが、よく晴れた日には東に回天の基地があった大津島、行き交う船
        など瀬戸内の海を楽しむことができる。

        
         立岩稲荷から往路を引き返し、錦橋の袂にある支所前バス停より駅に戻る。


防府市向島の小田港から運動公園と旧道歩き

2023年06月20日 | 山口県防府市

               
               この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         向島(むこうしま)は防府平野の南に位置する瀬戸内海の島。江戸期までは三田尻湾頭の島
        であったが、元禄年間(1688-1704)の大開作により、わずかな水道を挟んで新田村と向か
        い合う形になった。
         地名の由来について風土注進案は、国府の向こうにある島であることによると記す。島
        内には小田、本村、中村、郷ヶ崎の集落があるが、郷ヶ崎を除いた集落を散歩する。(歩行
        約6.2㎞、🚻運動公園)

        
         JR防府駅から防長バス小田(こだ)港行き20分、終点の小田港バス停で下車する。

        
         海岸道路ができるまでは主要な生活道だった。

        
                 漁港近くなると路地っぽくなる。

        
         通りには空家も目立つが、49世帯97人が暮らす。

        
         参道案内の先が石段だったので近距離と思ったが、旧観音堂時代の参道のようで遠回り
        をする羽目になる。

        
         擁壁と板壁の間を上がって行くと民家があり、その先で車道に合わす。

        
         海岸線に沿う小田集落。

        
         車道を上がって行くと櫛ヶ峯観音堂入口。

        
         由来によると、1783(天明3)年当地の仁左衛門という人が沖合の海で漁をしていた時、
        観世音尊像が網にかかり、像を安養寺において供養した。1ヶ月におよぶ供養の夜、夢の
        中で小田浦に安置して供養すればみんなの者に家業安泰、福徳長寿をもたらすであろうと
        のお告げがあった。有志の方から寄付をいただき、観音堂を小田浦櫛ヶ峰に建立したと伝
        える。
         1979(昭和54)年の大雨で境内の一部が崩壊したため、100m東方に再建されたと
        ある。

        
         対岸の中関港では商船三井の自動車運搬船が繋留中。

        
         豊漁を願う恵比寿さん。

        
         小田集落内を巡ってバス路線(県道)を引き返す。1915(大正4)年に県道が開通したが、
        小田集落へ行くには船が利用されたが、徒歩の場合は洗川から高山の中腹を横に造られた
        巾半間(約91㎝)足らずの狭い人道、または峯を歩くか、干潮時に波打ち際を通る以外に
        方法がなかったという。今でも県道脇の斜面が崩落すると、陸の孤島になりかねない集落
        である。

        
         向島は古くから漁業・農業を中心とした第一次産業が主体であった。(小田港)

        
         向島運動公園となっている地は、第一次世界大戦後に化学工業の急速な発展とともに、
        工業用塩の需要が増し、供給不足が生じるようになり、1918(大正7)年「製塩再生工場」
        が建設された。島の経済に大きく貢献したが、安い外国塩の輸入などもあって、1960
        (昭和35)年廃止された。
         テニスコートなどを取り巻くように桜並木があって、桜の咲く春は運動以外に楽しむこ
        とができる。

        
         運動公園北口の旧道沿いに並ぶ石仏。

        
         厳島神社の御旅所のようだ。 

        
         本村集落に入ると猫が出迎えてくれる。

        
         ミニ霊場でもあったのか石仏が3ヶ所に集約されている。

        
         島の中央にそびえる標高345mの錦山。

        
         路傍でなく人麿神社入口の民地に立っている幸神塚。

        
         右手の山裾に鳥居が見え、うっそうとした中に人麿神社参道がある。倒竹が参道を塞い
        で社殿まで行くことができない。

        
         昔から人々は「人麿」に神の力があると信じて、疫病や災難、海上風波の難などが起こ
        らないよう神にお願いしてきた。こうした願いを込めて人麿神社が建立されたと思われる。
         万葉歌人の柿本人麻呂は、「人麿」とも表記されたが、平安期からは「人丸」と表記さ
        れることが多く、柿本神社、人麿神社、人丸神社など名称に違いがあるが、歌の神として
        崇められ、学問はもちろん夫婦和合、多くの災難が起きないように祀ってきた。
         「人丸さん」の愛称があり、「火、止まる」に通じることに起因して防火の神も併せ持
        つようになった。(2020年撮影)

        

        
         本村自治会館隅にタヌキの碑。

        
         江戸期は島中央部の本村に御米蔵があったようだが、痕跡もなく場所を特定することは
        できないという。(西福寺入口)

        
        
         西福寺(さいふくじ・真宗)は、1682(天和2)年明覚寺の僧の隠居寺とされたが、詳細な
        寺歴は知り得ず。

        
         児童数25名の向島小学校は、1875(明治8)年佐波郡第九小学区風間小学として西福
        寺に創立される。1883(明治16)年に現在地に移転し、風間小学校(風避けの島という意
        味で風間島と呼ばれていた)、華南小学校風間分校、向島尋常小学校などを経て現在に至る。
         正面にある寒桜は、3月上旬から中旬に開花する。「蓬莱桜」と呼ばれているが、この島
        が蓬莱島とも呼ばれていたことに由来するそうだ。

        
         向島小学校の校庭に同町常蔵翁之碑がある。常蔵翁(1803-1905)は若い時、熊野孫左衛門
        より揚心流柔術を習得し、没するまでの約50年間、長州藩柔道師範として活躍する。藩
        内各所及び向島本村の自宅に道場開き、多くの弟子を育てた。
         碑は、1921(大正10)年陸軍大臣田中義一書で防府市の満願寺に建立されたが、のち
        防府市車塚町にあった防府警察署へ移転し、警察署の移転に伴いこの地へ再移転された。

        
         島の主要な道路だったが、海側に県道防府停車場向島線ができたことで車の往来は少な
        い。

        
         上段に越苦難講和條約、中段に鳴呼快児御手洗鷹一先生彰徳碑とあるが、説明がないの
        で何かはわからず。

        
         向島のタヌキは1926(大正15)年国の天然記念物に指定され、多くのタヌキが生息し
        ていたが、架橋によって野犬の侵入とタヌキの好物である餌(雑食でネズミ、ミミズ、農作
        物、柿などの果実など)が農薬使用されたことでその多くが死滅したともいわれる。すでに
        絶滅したともいわれるが、その実態は明らかでない。

        
         島と問屋口を結ぶ交通機関は、1750(昭和25)年錦橋ができるまでは渡し船があり、
        渡し船のことを「役船(やくせん)」と呼んでいた。渡し船は東と西の2ヶ所(問屋口~郷ヶ崎、
        浜方~本村)あったという。
         支所前バス停(12:44)より駅に戻るが、立岩観音までは距離があるので後日に先送りする。


山口市小郡の周防下郷駅から山手周辺を巡る

2023年06月07日 | 山口県山口市

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         椹野川の河口西岸位置し、旧山陽道・小郡宿の要地でもあった津市より旧石州街道を北
        上して、山手側にある散策路などを散歩する。(歩行約6.8㎞、🚻八幡宮、其中庵あり) 

        
         JR周防下郷駅は、1935(昭和10)年に新設開業されたが、戦時の1944(昭和19)
        年11月に休止され、1953(昭和28)年4月に復活した駅である。益田方面に向かって
        左側に長いホームが1本あるだけの無人駅である。(新山口駅から列車で3分)

        
         ふれあい通りを北へ進むと左側に山口獣医専跡碑がある。1885(明治18)年創立の山
        口農学校獣医科を前身とし、1944(昭和19)年専門学校令により県立山口高等獣医学校
        が設立され、廃校になっていた小郡高等女学校の校舎を使用した。
         戦後、山口獣医畜産専門学校と改称するが、1949(昭和24)年国立山口大学の開校に
        ともない、その農学部の分科となる。

        
         1899(明治32)年学校令により、高等女学校が各都道府県に創設され、山口県内では
        私立を含め約28校が開校し、その後、変遷を経て現在の高等学校に発展継承される。
         発足が女学校ということもあって、私立学校において女子高等学校として長く存立した
        時代があった。(現在は1校のみ)
         小郡高等女学校の沿革は分からなかったが、山口農業高等学校と合併して廃止された。

        
         旧石州街道を北へ向かうと、田町の先で水路が平行し、周囲の家屋は新しいものに生ま
        れ変わっている。
         水路は椹野川の林光井手から分流する上水門用水路で、1664(寛文4)年勝間田開作の
        新田を灌漑するために造られた。

        
         昔々、ある方の枕元に立ったお地蔵さんが、「私を泥の中から助けてくれたら火事から
        守ってあげる」といわれ、早速、堀り出して丁寧にお祀りしたとか。
         のちに蔵敷の村田家が自らお堂を建て、玄関先に祀った三体のお地蔵さんが、この火除
        け地蔵とされる。

        
         所々に格子のある家がみられる。

        

         厳島神社(猿宮様)はもと元橋の百谷(ももだに)にあったが、東津が開作された時に現在地
        へ遷座した。

        
         鎌倉期の1328(嘉暦3)年頃、大内氏によって安芸国厳島から勧請されたと伝える。

        
         本殿右側にある小さな祠は、生目(いきめ)様ともいわれる。この中に祀られている平景清
        の顔貌を見ることができる。景清は平安末期の武将で、源氏に敗れた平家の落人を象徴す
        るような存在で、源頼朝を再三にわたって襲撃したといわれている。
         のちに自首して牢獄につながれたが牢破りをし、復讐心を捨てるため自らの目をくり抜
        いたとされる。眼病平癒の信仰がある伝承の人物で、秋吉台近くに景清がひそんだという
        景清洞がある。

        
         1863(文久3)年7月、外国船からの報復に備えて山口防衛のため、中領八幡宮の馬場
        先に砲台場を築き、台場と街道筋が出会うところに関門を設けて他国人を通行を禁止した。
         1870(明治3)年の脱退騒動後に関門と台場は取り壊された。

        
         淡島大明神は中領八幡宮参道脇の小さな祠に祀られていたが、1982(昭和57)年に地
        区住民により現在地へ遷座する。
         淡島様は腰から下の病気に効能があるとされ、お参りにはローソクを立て線香を上げ柏
        手を打つという神仏習合時代の習わしであるとか。

        
         国道9号を横断(地下道)すると中領八幡宮。

        
         八幡宮の馬場先に設けられた関門では、1870(明治3)年常備軍と脱退兵との間で激戦
        が行われた。

        
         鎌倉期の1205(元久2)年小郡柏崎の住人藤重土与丸らが宇佐八幡宮より勧請し、13
        44(興国5)年に社殿が建立されたと伝える。現在の社殿は江戸期に改築されたもので、1
        787(天明7)年の棟札があるという。

        
         鎌倉期の1382(永徳2)年、晏禅寺(豊前国到津庄)に藤原弘忠が寄進した鐘楼とされる。
        大内氏が豊前国守護を兼ねていた縁で、室町期の1512(永正9)年大内持世の菩提寺であ
        る澄清寺が買得する。大内氏滅亡に伴い寺が廃絶して中領八幡宮の所有となった。

        
         八幡宮の片隅に合祀された氏神様が祀られている。1908(明治41)年7月、第二次桂
        内閣時に氏子崇敬者を無視して、神社合祀が強引に進められた。この祠も菅原、荒、蛭子、
        白髪、宮地嶽、小八幡宮、加茂社などが一社に詰め込まれたが、今では合祀社を顧みる人
        は少ないだろう。

        
         八幡宮裏手の泉福寺墓地にオゴオリザクラの原木があったが、2013(平成25)年の台
        風で倒木したそうだ。オゴオリザクラはヤマザクラの一種であるが、ヤマザクラは一重が
                が一般的だが、八重咲きで花弁は15枚前後あり、小郡以外に該当する品種はないとのこ
        と。小郡バイパスを南下して「POCRI SWEAT」の看板手前を右折する。

        
         尾崎墓地の一角に堀真五郎夫妻の墓がある。真五郎は1838(天保9)年萩に生まれ、吉
        田松陰門下生となり幕末維新では八幡隊の総督などを務める。
         維新後は法曹界に入り大審院判事などを歴任し、晩年は小郡で過ごした。1913(大正
          2)
年76歳で没。

        
         さらに奥へ進むと、三宅政七郎寿碑と古林家墓所が案内されている。政七郎は萩藩で神
        道無念流の師範として活躍したが、維新後は小郡に移り住んだ。碑は1908(明治41)
        門人たちが師を励ますために建てたが、政七郎は故郷の岡山県新見に帰って晩年を過ごす。

        
         墓地より山手側の旧町道を南進し、山口市役所小郡総合支所を目指す。

        
         山口市小郡総合支所前に、1973(昭和48)年山口線における蒸気機関車最後の「さよ
        なら列車」をけん引した蒸気機関車(D51)が置かれている。
         「鉄道のまち・小郡」を象徴するものとして、 1975(昭和50)年旧国鉄より借り受け
        て展示されている。

        
         小郡総合支所の地続きに「山口農高碑」が建っている。1885(明治18)年山口農高の
        前身である山口農学校として現山口市民館の位置に開校した。
         その後、山口市大内氷上に移転したが、1910(明治43)年交通の便がよい小郡町山手
        に移転してきた。1948(昭和23)年山口農業高等学校に改称し、1970(昭和45)年小
        郡上郷へ移転するまで、この地で農業の担い手などを育てた。

        
        
         小郡総合支所の山手側にある龍光寺前には、中領八幡宮の社坊であった泉福寺のお地蔵
        さんが鎮座するが、片足立てた半跏像のようである。

        
         寺から山手に向かうと、栄山自然観察の森入口に地蔵尊が立っている。

        
         1863(文久3)年幕府の使者として中祢市之丞一行は、藩の外国船砲撃の責任を問うた
        め赤間関(現下関)に派遣されたが、長州藩の過激派が襲撃する。一行は藩が用意した船で、
        小郡の本陣・三原屋に逃れ、藩主との会見を待っていた8月19日の夜、またも一部過激
        な諸隊士が襲撃して3名の随員を暗殺する。中祢はたまたま用便にたっていて難を逃れた。
         墓は1928(昭和3)年、当時の町長らによって建立された。

        
         頭身が卵形して無縫塔(むほうとう:坊主墓とも)があるので、過去には寺院があったものと
        思われる。たなびく幟には「南無大師遍照金剛」とあり。

        
         旧招魂社入口近くの路傍に黒ずんだ大きな墓がある。金剛院観道という江戸後期の行者
        (山伏)の墓で、酒好きだったがぜんそくを患って1791(寛政3)年に亡くなった。そのた
        めか墓には酒パックが供えられている。
         観道は権大僧都(ごんのだいそうず)までになった人だが、酒のほかは私財を求める心がなく、
        貧者の救済に力を尽くしたという。

        
         さらに散策路を進むと、右手に旧招魂社の鳥居が見えてくる。鳥居は創建時に建てられ
        たものではなく、柱には天明2年(1782)と寛政6年(1794)再興と記されている。招魂社が
        創建されたのは、1865(元治2)年であるから鳥居の方が古いことになる。どうも招魂社
        の上方にあった社の鳥居と推測されている。

        
         旧招魂社には「禁門の変」や「幕長戦争」で戦病死した諸隊兵士13柱が祀られている。
        それぞれ神道墓であるが、招魂社は戦後、栄山に移されて管理するものがいなくなり、長
        年月を経て折れたものもある。

        
         散策路の途中には分岐があり、右手の散策路①(栄山公園)の道を進む。

        
         「忠魂碑」は、1928(昭和3)年に西南の役、日清・日露の戦役での戦死者鎮魂のため
        に建立される。
         「栄山神社」は、1947(昭和22)年に創建され、旧山手官祭招魂社の祭神並びに明治
        から昭和までの戦死者が祀られている。

        
         栄山公園の道は紫陽花ロード。

        
         栄山公園下に山口大神宮を遥かに拝むところとして、1864(元治元)年4月に創建され
        た。山口大神宮は、1520(永正17)年大内義興が朝廷に奉聞して勅許を得て、伊勢神宮
        の分霊を勧請したが、明治になるまで伊勢神宮の分霊を受けたのは、ここ山口大神宮のみ
        であった。
         遠い伊勢まで行くことができない九州や中国地方の人々が、お伊勢参りのため山口の地
        を訪れていた。幕末戦時体制になると、藩庁が山口への自由な通行を禁止したため、山口
        大神宮への参拝ができなくなる。
         見かねた小郡村民が浄財を出し合って、この地に遥拝所を設けたもので、ここは外宮で、
        防府市大道に内宮が置かれていた。

        
         遥拝所から小郡の街並みが一望できる。

        
         遥拝所前に建つ高さ3m近くある2基の灯籠は、小郡宰判の庄屋格の人たちが、遥拝所
        が創建された直後の1864(元治元)年献灯する。

        
        
         山口大神宮遥拝所入口に建てられた高灯籠と、1958(昭和33)年頃までは、旧山陽道
        の津市下(旧徳本材木店傍)にあった道標が移設されている。

        
         浄土真宗の蓮光寺。

        
                  「正月三日お寺の方へぶらぶら歩く」
         晩年の句で、松山市を流れる石手川を詠んだ3句のうちの1つである。1940(昭和1
          5)
年最後の正月を松山の一草庵で迎えている。(同年10月11日死去、58歳)

        
         其中庵の登り口にある黄幡社は、集落の境や村の中心に村の守り神として祀られてきた。
        境内には安永2年(1773)の鳥居と文化~天保年間(1804-1844)の灯籠もある。
         明治の神仏分離では、外来の神を祀ることを禁止したので、何らかの被害を受けた神社
        でもあった。

        
         自由律俳人・種田山頭火は、1932(昭和7)年5月24日川棚の地を踏み、この地を終
        の住処と決めたが、望んでいた川棚に落ち着くことができず、小郡在住の句友・国森樹朗
        の招きに応じ、同年9月から1938(昭和13)年10月までの6年間を其中庵で過ごした。 

        
         この間に2回、東上の旅に出るなど「歩く、飲む、作る」の生活を送った。
         しかし、庵の老朽化にともない、湯田温泉の「風来居」に転居する。現在の庵は199
        2(平成4)年に建てられたが、井戸はそのまま現存する。

        
                   「はるかぜの はちのこひとつ」
         1933(昭和8)年3月19日の日記に「すっかり春だ」と残している。“はち”とは僧
        が持つ鉄鉢のことである。
         山頭火没後10年にあたる1950(昭和25)年、当時の句友たちが、其中庵に残されて
        いた大理石の寝牛の置物に因んで、形の似た石を選び出し、師である荻原井泉水によって
        句が選ばれたという。

        
         其中庵とは法華経の中の「普門品(ふもんぼん)」にある「其中一人作是証言(ごちゅういちに
          んさくぜしょうげん)
」という語から引用された。
                 他に敷地内や無料休憩所の庭などに句碑が置かれている。
                ・いつしか明けている 茶の花
                ・へうへうとして 水を味ふ
                ・母よ うどんそなへて わたくしもいただきます

        
         中央に旧小郡町の下水道キャラクター「あめんぼ」親子と、周囲にSLやまぐち号がデ
        ザインされたマンホール蓋。

        
         其中庵からほぼ東に向かって旧国道を横断するとJR新山口駅。


岩国市尾津は南岩国駅南側にハス田

2023年06月04日 | 山口県岩国市

               
                       この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         尾津(おづ)は錦川の支流・門前川の河口右岸に広がる平地に位置する。開ける平地はすべ
        て藩政時代に開作されたものである。
         地名の由来は、門前川の川尻に発達した洲がもとで、尾洲の意によると考えられる。(歩
        行約6.7㎞、🚻駅以外になし) 
             
               
          JR南岩国駅の南側約200haの中に蓮田が広がる。

        
         JR南岩国駅は、1952(昭和27)年岩国ー藤生間に新設され、現在の新駅舎は202
        1(令和3)年に供用開始されたが、駅前など整備が進行中である。 

        
         国道188号線を岩国方面に進み、高水学園一貫校への入口を右折すると、山陽本線河
        野上地第一踏切を横断する。 

        
         線路南側に移動すると蓮田が広がり、線路に沿って水路傍の道を進む。レンコンは「蓮
        (ハス)」という植物の「根」にあたる部分で、これを組み合わせて「蓮根(れんこん)」とい
        う名が生まれたという。

        
         尾津2号揚水機場から周回する。

        
         門前町5丁目はバリケードされた米軍の施設と官舎。

        
         サギがのんびりと餌を求めて歩き廻っている。虫などが生息する安全な環境の中でレン
        コンが栽培されているといえる。

        
         第1揚水機場の先で左折して門前川堤防に出る。

        
         漁港といった雰囲気ではなくプレジャーボートの係留施設のようだ。

        
         堤防道を河口へ向かう。

        
         対岸の米軍基地は、1938(昭和13)年に旧日本海軍が飛行場建設に着手し、1940
        (昭和15)年から終戦まで岩国海軍航空隊が配備された。終戦後、米海兵隊に接収され、米
        空軍、米海軍基地を経て、1958(昭和33)年米海兵隊基地となり今日に至る。

        
         すべてが蓮田と思っていたが、
民家や工場、魚市場などがある。一の割集会所付近が門
        前町と尾津町の境界のようだ。

        
         レンコンには穴があいているが、穴の向こうが見通せるから「将来の見通しがよい」と
        のことで、縁起物の食材とされた。また、種が豊富につくことから「子孫繁栄」の象徴と
        もされてきた。(道路左側の蓮田)

        
         信号機の先に岩国南八十八ヶ所第44番霊場(尾津大師堂) 

        
         藩政時代の岩国領(藩)は干拓で農地を増やしたが、海が近いこともあって塩害により米
        が育たず農民は困窮した。藩主の命を受けた篤農家・村木三五郎がレンコンならば干拓地
        でも育つのではと、岡山県から備中種を持ち帰って植えたことに始まるという。
         1811(文化8)年には藩営として始められ、大正中期頃までは日本固有のものが栽培さ
        れていたが、その後は大陸系(支那百花種)のものが導入されたようだ。

        
         サギがたくさんいる中で、カラスも機械の上でのんびりと蓮田風景に溶け込んでいる。

        
         レンコンの葉はスイレンと違って、水面から茎に支えられて葉の直径が2mになるもの
        もあるため、台風や強風が最大の天敵といわれている。

        
         蓮田に囲まれた民家が点々と存在する。

        
         収穫できるまでの作業は水田の中で、アオコなど藻の発生、害虫の食害、雑草の繁茂な
        どがあって管理が大変のようだ。 

        
         お会いした農家の方によると、花は品種などよって一斉に咲かないので見頃は何とも言
        えない。盆前には花を出荷するので、盆前にもう一度来てくださいとのこと。

        
         1809(文化6)年~1859(安政6)年にかけて尾津、仙島館、御蔵元が開作されて、一
        部が塩田化されたと思われ、海や塩の神様である塩土老翁神を祀る塩釜神社がある。

        
         神社の一角に、1942(昭和17)年8月27日16号(周防灘台風)の襲来により、海側
        の堤防が決壊して甚大な被害を受けた。これを後世に伝えるための碑が建立されている。

        
         全国のレンコン生産量は、茨城県がダントツの約半分を占め、山口県は第5で生産量は
        5%超に過ぎないそうだ。

        
        
         尾津開作第2南蛮樋(樋門)は、1809(文化6)年に建造されたもので、現在は使用され
        ていないとのこと。(上が土手側、下が干拓側より)

        
         土手歩きだが左は東洋紡、その間に広い排水路。

        
         岩国城と錦帯橋、鵜飼漁がデザインされ、中央に市章が配置された岩国市のマンホール
        蓋。

        
        
        
         第1南蛮樋(樋門)も第2南蛮樋と同じ年に建造された。(上が土手側、下が干拓側より)

        
         「ハスは泥より出でて泥に染まらず」のことわざがあるが、仏教と深い関わりを持つ植
        物である。ハスの花は短くて寿命が4日程度とされ、早朝に咲いて昼頃には閉じ始めてし
        まう。

        
         左前方に南岩国駅と5号揚水機場。

        
         歩いてきた道を見返り、河野上地第1踏切を横断して駅に戻る。


山口市小郡は明治からの元号がそろう町

2023年06月03日 | 山口県山口市

               
                  この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を加工・複製したものである。
         この地域は椹野川流域に位置し、河岸段丘に立地する。江戸期には山陽道の要所であり、
        山口を経て石見国に向かう石州街道の分岐点でもあった。津市には宿駅として御茶屋など
        が置かれて繁栄した。

         1889(明治22)年の町村制施行により、小郡上郷村と小郡下郷村が合併して小郡村と
        なった。現在も駅名を含めて当時の地名が一部残されている。(歩行約4.2㎞、ふれあい
        センター🚻)
 

        
         JR周防下郷駅は、新山口駅から山口線の1つ先にある駅で、1935(昭和10)年小郡
        ~上郷間の開通と同時に開業したが、途中で営業が休止された歴史を持つ。

        
         椹野川の東津橋西詰より西に伸びる道が旧山陽道の東津通りで、津市の東に当たること
        からこの名がついたという。 

        
        
         通りは商店が主をなしていたようで、今もそのような構えの家屋を見ることができる。

        
         屋根が少し湾曲した構造の「むくり屋根」になっているのが久光家で、明治期には酒造
        を生業にされたが、その歴史は短かったようである。その後は地元の医院として、195
        5(昭和30)年頃まで使用されたという。

        
         正福寺東側の用水路傍に旧上水道共同水道栓が残されており、鉄製で頭部に花のような
        飾りが施してある。1923(大正12)年現在のような各戸に水道を配することができなか
        ったため、共用の水道栓(無料)が旧市街地に設置されたという。現存しているのはここだ
        けのようだ。

        
         街道筋左側の正福寺(しょうふくじ)は、南北朝期の守護大名大内弘世が建立。創建当時は
        椹野川左岸の百谷(ももだに)にあったが、大内氏滅亡によって荒れ、1594(文禄3)年今の
        地に小堂を建てて本尊を移したことに始まる。

        
         観音堂に安置されている聖(しょう)観世音菩薩は平安期作と伝えられ、昔、山手で山崩れ
        があった際、樹木に引っ掛かっていたのが発見された。山手の観福寺に安置されたが、後
        に転々としたようで、1908(明治41)年山手上からこの地へ移る。

        
         境内の左手奥に秋本新蔵(1812-1877)の墓がある。幕末には林勇蔵らとともに豪農商の
        一人として諸隊を支援し、自らも東津隊を組織して維新変革の先頭に立った。呉服商や醤
        油業を営む傍ら、村内の子弟のため自宅に剣道場を開いている。

        
                 「炎天をいただいて乞い歩く」(山頭火の句碑)
         1926(大正15)年1回目の放浪の旅は、熊本から高千穂、宮崎、日向灘を経て大分を
        行乞しているが、その途上の句とされる。炎天は与えられた試練、じりじりと照り続ける
        太陽の下、汗みどろで軒先を乞い歩いたと思われる。普通であれば「炎天を受けて」とな
        るが、見つめる眼が違うようだ。

        
         立派な看板建築を見ると、山口線踏切で東津から新丁に入る。

        
         広い道(ふれあい通り)の角に厚母家がある、毛利一族で豊浦郡厚母郷を領し、毛利輝元
        の頃に姓を毛利から厚母に改めた。その後、美祢郡から小郡に出て薬種業などを営み、戦
        後は薬局も経営されていた。
         文化文政(1804-1830)頃に建てられた家の2階には、連子窓が残されているが、そこから
        通行人の見張りをしていたともいわれている。

        
         この一帯に小郡宰判の勘場と御茶屋があった。勘場とは藩を代表する代官の執務所で、
        公用の宿泊所である御茶屋がセットになっていた。
         1865(慶応元)年1月7日に倒幕の諸隊(御楯隊ら50名)が、代官に軍資金の用立てを
        要求し、大庄屋の林勇蔵がこれに応ずる決断をし、維新変革に貢献した場所でもある。
         建物は後に小郡村(町)役場として利用されたが、移転により土地は分割されて道路も新
        設され、当時の建物位置などを知ることはできない。新丁公民館内に説明板があるが、遺
        構と思われる大きなクスノキは伐採されていた。

        
         精肉店の地には、1897(明治30)年宮市銀行小郡支店が設置されたが、1925(大正
          15)
年華浦銀行に吸収された。その華浦銀行も、1944(昭和19)年1県1行(戦時統合)
        の政策を受けて解散して山口銀行へ移行する。玄関の構えが当時の名残りをとどめている
        という。

        
        
         1868(明治元)年創業の藤本金物店は、入母屋造平入りの純和風建築だが、一部赤煉瓦
        造りの防火壁が設けられている。1918(大正7)年に建築された県立図書館の倉庫(現在
        のクリエイティブ・スペース赤れんが)に使用された残りの煉瓦とのこと。(この地に高札
        場があった)

        
         厨子(つし)二階建ての民家が見られるが、この付近の向い側に、天下御物送場御番所があ
        ったというが遺構は残っていない。公用の書状・荷物を宿場から宿場へ送る任務などを担
        ったという。

        
         古くは三差路で正面付近に、1913(大正2)年築の和風3階建ての料亭・末次楼があっ
        た。下関の春帆楼、山口の菜香亭と並び称されるほどであったというが、1944(昭和1
          9)
年戦時中に料亭をやっていては申し訳ないと廃業された。
                 戦後一時期、国鉄の寄宿舎になったこともあったようだが、後に小郡町が買い取り「

        館」として利用されたが、1983(昭和58)年老朽化により解体されてしまう。

        
         山陽道と石州(山口)道の分岐点に道標が設置され、駐車場となっている場所に寿座とい
        う映画館があった。当初は防府市中関にあり、1902(明治35)年白髭社(大正上)の境内
        に移転する。火災で全焼したため現在地に移転したが、1970(昭和45)年代に閉館して
        解体された。

        
         道標には「右 京江戸」「左 萩山口石見」とあり、裏面に「牛馬繋事無用」とある。
         現地に建つものは複製物で、道標隣にあった劇場寿座が解体されるときに破損したとい
                う。実物は近くの中村家前庭に保存されている。

        
         古くは真言宗であった信光寺(真宗)は、大内義興の招きで伊予権介・越智通清が来山し、
        済波の地に領地を賜っていたが、山口で戦死する。その子・西了が出家して真宗に帰依し
        て古院を修復して真宗寺院とする。
         本堂は寺記に1736(元文元)年上棟とあり、江戸中期を代表する真宗本堂のひとつとさ
        れる。幕末には境内で諸隊・農兵隊が銃陣稽古を行い、1923(大正12)年5月には山口
        県水平社結成大会の会場にもなった。

        
         (有)フクヤマは江戸期後半の建物で、宮市屋利兵衛が1859(安政6)年に建てたという。
             宮市屋は旅館として幕末から明治にかけ諸有志が活躍する舞台にもなった。

        
         「フードセンターつしま」の地には、明治から大正にかけて、小郡を代表する実業家の
        一人といわれた江村利兵衛が呉服店を開いていた。

        
         現加藤歯科付近には幕末期、大田屋という旅館があった。旅宿が建ち並んだ通りの中で
        もひときわ大きな旅館だったようだ。1867(慶応3)年木戸孝允が大山格之助と会見した
        場所でもある。
         その他、1875(明治8)年最初の小郡郵便局、1900(明治33)年には小郡銀行が設立
        され、1908(明治41)年に辰野金吾設計によるネオ・ルネッサンス様式を取り入れた洋
        風建築の本店があったという。
         のち百十銀行に買収され、1県1行政策により山口銀行の支店となるが、その後の沿革
        については知り得なかった。 

        
         この建物は消滅してしまったが、ここに福田屋という旅館兼料亭があった。1863(文
          久3)
年8月、幕府使者として中祢市之丞ら一行が長州藩に到着して本陣の三原屋に宿泊す
        る。その一行を襲撃して3名を殺害した刺客が、この宿を拠点とした。(2016年撮影)

        
         津市通りは旅籠などがあり、もっとも栄えた通りだったという。共同水道栓とは関係な
        いと思われるが、通りの片隅に手押しポンプが残る。

        
         交差点の左前方にある西中国信用金庫の地には、小郡宿の本陣・三原屋があった。長州
        藩の外国船砲撃事件(下関事件)を詰問するため、幕府使者として中祢市之丞ら一行が下関
        に急航する。奇兵隊隊士らと激論となり、軍艦朝陽丸を奪い取られ、藩の帆船で小郡に上
        陸して三原屋に入った。藩主に会見を求め、藩からの返事を待っていた8月19日の夜、
        一部過激な諸隊士が襲撃し、3名を殺害すという出来事が起こる。難を逃れた中祢らも藩
        が手配した船で江戸へ戻ろうとしたが中関沖で殺害され、これが後の「長州征伐」要因の
        1つにもなった。

        
         1927(昭和2)年椹野川に「昭和橋」が新設され、西詰から南本町の三差路交差点まで
        が「昭和通り」名付けられた。1932(昭和7)年国道2号線に指定されたが、現在は駅南
        側のバイパスが国道である。

        
         昭和通りと大正通りが交差する角に、昭和初期頃に開業した「一富士」という木造3階
        建ての建物があった。食堂、宴会場、夏は屋上にビアガーデンが開設されるなど歓楽地で
        あった。

        
         明治通りに入る手前の小郡明治1丁目に、「ばん屋はし」と刻まれた橋の親柱が残され
        ている。今では想像もできないが、この一帯は「番屋」と称されて田園地帯であったとい
        う。この付近に水路が流れ番屋橋が設けられたが、後年に開発が進み、橋や水路は姿を消
        してしまう。

        
         旧国道に戻ると正面に三角屋根の洋風建物、隣の2階は六角体をなしたような建物が見
        られる。同一所有者かどうかはわからないが、三角屋根は、1917(大正6)年築の旧淺川
        邸で当時は写真館だったという。後に歯科医院、小料理屋などに使用されたという。

               
         旧国道から新山口駅に至る道が明治通り(古林通り)である。1900(明治30)年山陽鉄
        道が開通する際、駅を含めて駅舎及び道路用地は古林家の所有であり、その寄贈により駅
        及び道路が完成したという。

        
         「くぐり門」が見られる。

        
         門内部の屋根には明り取りが設けてある。 

        
         1940(昭和15)年頃協和銀行小郡支店として建てられ、後に小郡商工会議所として2
        021(令和3)年3月まで使用された。

               
         最初の小郡郵便局は旧山陽道筋の津市あったが、1954(昭和29)年この地に移転する。
        1978(昭和53)年老朽化により国道9号線沿いに移転すると、局舎は解体されて駐車場
                 となったが、片隅に「郵政省敷地」の標柱が残されている。

        
         一つ東に通りを変えると大正通りで、小郡に鉄道が開通すると、1913(大正2)年町役
        場から駅に通じる基幹道として大正通りが設けられる。昭和の時代には100軒もの商店
        が並んでいたという。

        
         山頭火の句とSLやまぐち号、オゴオリザクラがデザインされたマンホール蓋。

        
         大正通りに入ると山口銀行大正町支店(後に出張所)の建物があったが、2019(平成3
          1)年3月に解体される。

         長周銀行小郡出張所として1926(大正15)年に建築され、一見鉄筋コンクリート石造
        風に見えるが、実は外壁に目地を切ったモルタル塗りの木造2階建てであった。(2016
        年撮影。跡地にはAP)

        
         熊野神社お旅所には高さ2m70㎝、半径50㎝にも及ぶ門柱が建っている。
         この石柱は、1887(明治20)年に東津橋が架け替えられたときに橋脚となったもので、
        1933(昭和8)年鉄筋コンクリート橋になるまで橋を支えてきた。お旅所創建の際に運ば
        れ、現在も黙々と立ち続けている。

        
         唐破風のある建物は、1934(昭和9)年熊野神社のお旅所として建てられた。これが公
        会堂となったのは戦後で、大正上・中・下3区共同の集会所であったが、現在は中区専用
        となる。

        
         三田尻(現防府市)にあった機関庫が小郡駅構内に移転し、小郡機関区などの名称変更を
        経て、現在は下関総合車両所新山口支所である。転車台などが現存するが、構内には入る
        ことができないので遠くからの眺めとなる。

        
                  「そばの花にも 少年の日がなつかしい」
         大正町の蕎麦屋・ふしの屋さんの山頭火句碑だが、1930(昭和5)年10月3回目の放
        浪の旅は宮崎県鵜戸、飫肥、油津などを行乞している。一人で歩くのだから、様々な追憶
        が甦ったのであろう。ふと見かけた蕎麦の花もその一つと思われる。 

        
         列車が並ぶ通りから山口駅に戻るが、平日はSLやまぐち号の客車も並んでいるようだ
        が、今日は土曜日なのでご出勤のようだ。

        
         新山口駅前と山口宇部道路の長谷ICを結ぶ新道が、令和通りの愛称で使用され、その
        一部が小郡令和町と住居表示される。
         その他、新幹線口側に小郡平成町もあって、まさに「元号の町」である。