ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

下関市豊北町の阿川は阿川毛利家の居館があった地 

2019年04月20日 | 山口県下関市

                    
         この地図は、国土地理院長の承認を得て、2万5千分1地形図を複製したものである。(承認番号 平30情複第467号)
         阿川は北に阿川港と面し、油谷湾を経て向津具半島を臨む。北流する沖田川が沖積平野
        を形成し、JR山陰本線が川と並行して南北に走り、北部で海岸沿いを走る国道191号
        と交差する。国道と山陰本線の間に赤間関街道が東西に通り、それに
沿って民家が集中し
        ている。(歩行約4㎞)

           
         JR下関駅(8:58)から約2時間の列車旅で、日本海や山筋を眺めながら16番目の駅が
        阿川駅。1928(昭和3)年に開業した阿川駅には、昔ながらの駅舎が残されている。(
        駅から街道筋まで約500m)

           
         阿川駅前通りはひっそりしている。

           
         阿川踏切手前の右手に山縣家。

           
         代々阿川毛利家の主席家老を務め、家はお城下と呼ばれた館跡近くにある。

           
         中世から海上交通の地として知られ、村の開発とともに沖田の現在地に阿川八幡宮が勧
        請された。中世には阿川氏、江戸期は阿川毛利氏の崇敬があった。

           
         阿川毛利の臣による興義隊は、1865(慶應元)年7月に結成され、翌年に奇兵隊と共に
        小倉戦争を戦う。1976(昭和51)年に戦勝祈願で奉納された髻(もとどり)を祀る。

           
         本殿の背後に広がるイヌマキ巨樹群は、創建当時の氏子が一本ずつ植えたものと伝えら
        れる。県文化財指定時には直径20cm以上の樹木が56本もあったとされる。

           
         国道を引き返すとガソリンスタンドがあり、手前を左折すると海岸線に出る。

           
         砂浜が美しい阿川ほうせんぐり海浜公園。「ほうせんぐり」とは、この一帯の昔の呼び
        名が「法師ぐり」、浜辺にある岩「放生礁(ほうじょうぐり)」が変遷して、今の呼び名になっ
        たとのこと。

           
         海浜公園東出口から国道を横断すると、前方の消防車庫前に路地がある。

           
         川筋を上流へ向かうと赤間関街道北浦道筋に合わす。

           
         JR山陰本線赤崎踏切を渡って海翁寺を目指す。

           
         毛利氏が防長両国に移封させられたとき、阿川・滝部の給領主となった毛利元俱は、こ
        の地にあった浄空庵跡に江見寺を建立して父・秀包の菩提寺とした。
         1625(寛永2)年の毛利家臣団の知行地地替えが行われ、元俱は周防吉敷に移り、周防
        玖珂から毛利元景が新たな給領主となる。
         元景は父・元氏が吉川元春(法名・隋浪院殿海翁正恵大居士)追善のため建立した海翁寺
        (曹洞宗)を江見寺跡に移す。

          
         代々、阿川毛利家の菩提寺となる。

           
         梵鐘は、1578(天正6)年藩主・毛利輝元が満願寺に寄進したもので、毛利氏の本拠地
        が広島に移ると、この鐘も同地の正清院に移された。毛利氏が防長両国に移封された後、
        城内に満願寺が再興されると鐘も再移転する。
         1912(大正元)年満願寺が萩から防府へ移転した際、同寺に移されたと考えられるとの
        こと。(説明板より)

           
           
         赤間関街道北浦道筋を西進すると橋の袂に庚申塚と、一字一石(いちじいっせき)塔がある。
        塔は教典を小石に1字づつ書き写したもので、追善、供養などのために地中に埋めて、そ
        の上に塔を建てたとされる。

           
         白壁の土塀に囲まれた民家。

           
         1907(明治40)年創業の西谷酒造。原料米は地元産で、仕込み水は海翁寺の井戸水を
        使用されていたが、廃業されたとも聞くが定かでない。

           
         西谷酒造の敷地内に見える煙突。
 

           
           
         善照寺には阿川毛利家の御茶屋があって、幕府役人や藩主の本陣を務めた。幕末には興
        義隊が本陣を置いた。


           
         1955(昭和30)年の新町村建設促進法により、7ヶ村が合併して豊北町が誕生したが、
        それまで阿川村役場があった地。


           
         道の中間点に踏切がある。

           
         1753(宝暦3)年毛利広漢(ひろくに)は寺川の丘一帯に郷校「時習館」を開校する。校名
        は論語の「学而
時習之(学びて時に之を習ふ」によるという。

           
         阿川の地は中世から海上交通、産業安定の地として金山や市屋敷がひらけ、本藩毛利家
        の萩築城とともに左翼の守りとして北浦の地に一門を配置した。
         1607(慶長12)年毛利元鎮は阿川
館で長府藩毛利秀元の妹佐田姫と結婚する。阿川毛
        利氏の手で改築された建物は、
1887(明治20)年に下市の塩田家へ払い下げされたとい
        う。


           
           
         阿川毛利家の歴代当主の墓所は、初代元氏の墓が旧周東町の通化寺にあり、2代~5代
        は長門湯本の大寧寺にある。14代を除いて6代以降はこの地に葬られ、
形頭硯形墳墓と
        なっている。


           
         墓所から阿川の町並み。

           
         街道筋に戻って西進する。

           
         味噌醤油醸造元。

           
         赤間関街道北浦道筋も新しい住宅が主流を占める。

           
         浄土寺(浄土寺)は阿川毛利のお白洲で、外庭で裁判が行われたと伝わる。かっての沖田
        川は現在の浄土寺東側を流れ、この砂州に八幡宮と寺があったと
され、寺は八幡宮の社坊
        であったとのこと。


           
         浄土寺前で左折して駅に戻り、15時58分の下関行きの列車に乗り込む。      


長門市日置の黄波戸はカンカン部隊で知られた地

2019年04月18日 | 山口県長門市

           
         この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分1地形図を複製したものである。(承認番号 平30情複
第467号)
         黄波戸(きわど)は深川湾に面した漁業地域で、南部を国道191号線が走り、集落は県道
                66号線(長門油谷線)とJR山陰本線に挟まれる形で細長く形成された中に民家が密集す
        る。(歩行約3.5㎞)

           
         集落の東端にあるJR黄波戸駅は、1928(昭和3)年に美祢線の終着駅として開業し、
        後に山陰本線に編入された。駅舎はなく待合室のみで閑散としている。

           
         戦後は漁港に水揚げされた鮮魚をブリキ缶に氷を入れて、当駅から北九州などへ行商に
        出かける「カンカン部隊」などで賑わった時期もあった。

           
         日置八幡宮に関係する碑付近から古い町並み。

           
         駅から碑までの民家は区画された中に建てられているが、その先は旧道に沿って軒を連
        ねている。

           
         1899 (明治32)年に建立された厳島神社の鳥居。

           
         厳島神社から見るメイン通り。

           
         鳥居の先から大きな家が目立つようになる。

           
         山側には高い階段を要する家もある。

           
         漆喰塗込めの蔵には屋号(上野)の鏝絵が見られる。

           
         妻飾りが見られる。

           
         1872(明治5)年創業の大津醤油には煉瓦造の煙突。

           
         通りに面して大津醤油(三輪家)の店舗兼住宅。店舗としては使用されていないとのこと。

           
         リフォームされた築100年以上の民家。

            
         小畑への道を上がって行くと、右手には漆喰塗込めの上野酒舗がある。

           
         上野酒舗の山手側にある古民家。

           
         最奥部の古民家は石州瓦で広い庭を備えている。

           
         路地に戻ると厨子二階の壁には意匠が施されている。
 
           
         幅員が狭まると石橋。

           
         赤いポスト状の消防器具と共同井戸。

        
                              左手の石段を上がり海岸寺前に出ると、黄波戸の町と遠く長門市内などが一望できる。

           
         かつてのメイン通りである北詰め付近は空家が目立つ。

           
         海岸線から黄波戸の町並み。

           
         1864(元治元)年6月7日アメリカ商船(蒸気船)1隻が箱館から長崎へ航行中、燃料補
        給のため寄港し停泊する。薪の調達が不可能なことを伝え、退去を求めたが出航しなった
        ため、瀬戸崎から運んだ野戦砲を撃ち込むと、船は沖合から黄波戸浦へ砲撃し、11軒の
        民家が破壊されたという。

           
         道路上に駅への案内があり、黄波戸駅(12:25)より長門市駅へ戻ることができる。


長門市の三隅市は赤間関街道筋にあった地 

2019年04月17日 | 山口県長門市

                            
         この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分1地形図を複製したものである。(承認番号 平30情複 第467号)
         三隅市は三方を小高い丘に囲まれ、西流する三隅川中流域に平地が展開し、三隅川沿い
        に赤間関街道北浦筋が東西に走る。(ルート約2.2㎞)

           
         JR長門市駅から防長バス東萩駅行きバス33分、三隅市バス停で下車する。

           
         源頼朝の弟・範頼の首塚と伝えられ「岡の塔様」と呼ばれる五輪塔。鎌倉期の1193
        (建久4)年8月に兄・頼朝に追われて伊豆修善寺で自刃する。家臣の当麻三郎親子が平家追
        討の総大将であった縁を頼って長門国へ落ち、ここを通る時、急に首級が重たくなったの
        で、ここに葬ったと伝えられる。

           
         三隅八幡宮は鎌倉期に宇佐八幡宮より勧請した三隅村・通村の総氏神。昔から農村に伝
        えられてきた「田の神・山の神」の祭祀として、4月と9月に例祭(大祭)が行われる。

           
         南北朝期の1362~1368年頃に社殿が延焼し、再建年代は不詳だが三間社流見世
        棚造りの建物が再建される。

           
         1872(明治5)年にすべての国民に初等教育を受けさせる学校制度が制定される。三隅
        市でもこの地に「市小学校」が創設されたが、1884(明治17)年に三隅三ヶ村の学校が
        できると廃校になる。

           
         市頭に地蔵尊。

           
         宿駅で市として発達したが、のちに隣町の正明市が盛んになる。

           
         街道筋だったことを思わせる町家は少ない。

           
         岡藤家の手前にある古民家。

           
         庄屋だった岡藤家は、1798(寛政10)年毛利斉房夫人が湯本温泉に行く際に、橋が流
        失したため当家を臨時の宿泊場所にしたという。

           
         廚子二階の家が並ぶ。(手前はS家)

           
         右手に三隅八幡宮の灯籠。

           
         旧三隅町の町花だったサツキと、中央に町章がデザインされたマンホール。

           
         この先は昭和・平成期の建物が並ぶ。

           
         市に残る唯一の商店。

           
         三隅市もほぼ直線的な町並みである。

           
         三隅川に架かる琴影橋は、1917(大正6)年に現在の橋が建造されたが、藩政時代は長
        さ32間(約58m)の土橋だったとのこと。

           
         三隅村役場があった地とされる。

           
         12時16分のバスでJR長門市駅に戻る。       
        


長門市日置の沢江に村田清風旧宅と記念館 

2019年04月17日 | 山口県長門市

                       
         この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分1地形図を複製したものである。(承認番号 平30情複 第467号)
         沢江は三隅の西端にあって、仙崎、深川と境を接しており、旧藩時代には赤間関街道北
        浦筋に沿って戸数約40戸が並ぶ小さな集落であった。幕末から明治にかけて「沢江の針」
        として生産・販売されていたが、家内工業的な手工業製品は近代的な生産技術に押されて
        衰退する。(歩行約5㎞)

           
         長門三隅駅は、1924(大正13)年に美祢線が延伸して、その終着駅として開業する。
        駅から沢江までは約1.8㎞の距離にあり、JR山陰本線が沢江集落を東西に走っている。

           
         県道287号線(長門三隅線)を西進する。

           
         横断歩道の所で平野集落に入る。

           
           
         豊原第4踏切を横断し右折する。

           
         山手に向かって道なりに進む。

           
         浅田地区にある向山の山裾に周布政之助の墓所入口がある。

           
         山頂部に「贈正四位周布政之助之墓」がある。山口市湯田の吉冨家で自刃した周布は、
        近くの吉富家の墓のある地に埋葬されたが、のちに改葬される。

           
         周布政之助は、1823(文政6)年に萩市江向で生まれたが、生後まもなく父が亡くな
        ったため、母の実家である村田家に移り住み、幼少の頃はこの地で過ごす。宅跡には石碑
        
と説明板があるのみである。

           
         浅田川に沿って川下へ向かう。

           
         浅田踏切の先で県道に合わす。

           
         沢江集落には「大谷」と「村田」という姓が多く、姓を区別するため屋号が使われた。

           
         車の駐車場となっている所が礒家で、江戸期には藩主が立ち寄り休憩する会所があった
        とされる。その手前の車庫付近には、宗頭にあった山本家の蔵があり、地域の米が集めら
        れたという。

           
         土塀が街道筋の面影を残す。(M家)

           
         JR山陰本線と県道に挟まれた町並みは約650mと短い。

           
         以前は沢江郵便局舎だった旧村田家。1915(大正4)年11月に開業し、郵便集配、電
        報の配達並びに電話交換業務を除く事務を行った。

           
         門柱のある家は元医院。

           
         沢江で唯一門を構えた屋号・呉服屋の大谷家。

           
         最近は見かけなくなった障子戸が表から見られる。村田家は村田清風宅までが坂である
        ため、屋号が「坂」となったようだ。

           
         線路の反対側に村田清風記念館。

           
         村田清風記念館は幕末の激動する政治情勢の中にあって、藩政改革の中心人物として手
        腕を揮った。村田清風と周布政之助の功績と人柄を、遺品や資料を通して紹介している。

           
         展望台から見る沢江地区。

           
         沢江地区の先に仙崎湾と青海島。

           
         村田清風が19歳まで起居成長した場所で、旧宅を三隅山荘と称していた。

           
         木造平屋建ての主屋は北面に庭を配している。清風40歳の頃、武蔵国で購入したとさ
        れる五葉の松が現存する。

           
         この地に誕生して19歳の時に萩へ移るまでと、晩年、63歳のとき職を辞して三隅に
        帰り、隠居時代を過ごした旧宅(三隅山荘)である。数年後、再度藩主に乞われて出仕する
        が、中風の再発により城内平安古の役宅において73歳の生涯を閉じる。

           
         外観は一般農家と差異はないが、在郷武士の武家住宅としての要素を備えている。式台
        玄関が備えられ、その隣に家人用の脇玄関を設け、式台玄関を入ると控えの間、床を備え
        た奥座敷へと続く。

           
         1843(天保14)年に郷学の尊聖堂を設立し、後進の育成にあたる。

           
         屋号・紺屋の中野家。

           
         旧吉田屋旅館の前には屋根付き井戸。

           
         旧三隅町時代の町花であったツバキと、中央に町章がデザインされたマンホール蓋。

           
           
         沢江川を挟んで左右に旅館があったが、左手の滝口旅館は解体されている。

           
         沢江川左岸を上流へ向かうと山陰本線踏切を横断する。すぐに右折して線路に沿うと村
        田清風墓所入口がある。

           
         階段を上って行くと、村田清風を含めた村田家三代・村田清風、大津唯雪(清風の次男)、
        村田看雨(唯雪の次男)の墓所がある。

           
         墓所から見る仙崎湾。

           
         大歳社は豊漁並びに五穀豊穣の守護神として、1650(慶安3)年に勧請された。

           
         参道左手に福原与右衛門の碑。どのような人物だったのか不明のままとなる。

           
         参道右手には明治の始め頃に戸長を務め、教育費の一部を寄付した山田与三郎頌徳碑。
        篆額は伊藤博文。

           
         街道はJR山陰本線で遮断されている。

           
         線路南側の町並み。

           
         公会堂付近には、かって「お茶屋」という料亭があり、萩藩主が湯本への入湯の際に立
        ち寄り休憩をしたとされる。大正年間に建物は解体された。

           
         沢江郵便局傍の沢江バス停からJR長門市駅に戻る。


飯井・明石は石州瓦と青い海 (萩市/長門市)

2019年04月14日 | 山口県萩市

                          
        この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分1地形図を複製したものである。(承認番号 平30情複 第467号)
         飯井(いい
)は三方を山に囲まれて北に日本海を臨む。集落の中をJ山陰本線が貫通し、浴
        を挟ん
で行政区域が異なる。
         一方の明石(あけいし)は、飯井と三見との間に位置し、日本海を臨む農村集落。地形に沿
        って段々や曲線を描く田園の中に、入母屋屋根の民家が美しく重なる集落である。(歩行約
        6.5㎞) 

           
         JR飯井駅は、1964(昭和39)年に当地出身の河村健夫衆議院議員の父による発案に
        よって設けられた。本数は2~3時間に1本と本線にしては少ないが、JR厚狭駅8時3
        4分発の美祢線経由の列車に乗車すれば、飯井駅には9時53分
に降り立つことができる。

           
         ホームから赤い屋根の先に海辺が望める。

           
         駅は山と海に囲まれた高台にあり、地元の方が「飯井駅はいい(飯井)駅じゃろ」と話し
        てくれる。

           
         飯井集落は萩市三見と思っていたが、水無浴という川で行政区域が2分され、駅側が萩
                市、手前が長門市である。

           
           
         1964(昭和39)年に飯井駅が開設されると、三見小学校飯井分校は廃校になる。現在
        は公民館として活用されている。

           
         市境界線を跨ぐ線路。行政区域は違うが自治会は1つとのこと。

           
         山手に詰めれば山陰道が横断する。

           
         長門市側を歩けば海。

           
         湾に赤潮が流れ込んでいる。

           
         石州瓦の家が集落を形成している。

           
         この地点で飯井集落を見納めとなる。

           
         この先明石集落まで民家はない。

           
         集落からの峠道。

           
         ビワ果樹園先の高台から見る明石集落。

           
         石州瓦が映える。

           
         海への道は長い下り。

           
         山陰本線のガードを潜ると3軒の家が道筋に並ぶ。

           
         1926(昭和元)年に建築された洋風の明石公会堂は、三角形を組み合させた屋根構造に
        なっている。外窓から拝見すると、障子で間仕切りされた部屋は板敷きだったが、元は畳
        敷きだったように思える。

           
         公会堂より山手側に山陰道の明石橋。

           
         青い海と石州瓦は際立つ。

           
         自動車道を背に静かに佇む集落。
        
           
         県道萩三隅線の山手側には14軒の家々が、狭い集落道に沿って並ぶ。

           
         装飾の少ない直線的な入母屋屋根が多く見られる。

           
         県道と山陰本線が集落内を横断しているため、3つに分断されている。

           
         等高線をなぞるように築かれた田圃は曲線を描き、その中に家々が点在する。

           
         時が止まったような静かな集落。

           
         線路に沿う道は途中で行き止まりとなり、見える民家に行くことができない。

           
         中央に旧萩市の市章と入りの亀甲柄マンホール。

           
         明石第1踏切から海岸線に出る。

           
         海が見える道は解放感がある。

           
         遠くに三見浦集落が見えてくる。

           
         三見第2踏切付近から上り道。

           
         峠付近から海岸線を眺めると道は大きく右カーブする。  

           
         三見浦の筋に出る。

           
         JR三見駅(14:41)からJR長門市駅に戻る。


萩市三見は三見市から三見駅への道

2019年04月12日 | 山口県萩市

                  
         この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分1地形図を複製したものである。(承認番号 平30情複 第467号) 
         三見(さんみ)は萩市の西端に位置し、北は日本海に臨み三方を山に囲まれて、集落は三見
        川とその支流域に散在する。1604(慶長9)年に萩城下ができると、萩から赤間関(下関)
        へ通ずる赤間関街道北浦筋が設けられ、三見は宿駅となる。(歩行約5.3㎞)

           
         JR厚狭駅(8:34)から美祢線を利用して、JR長門市駅で東萩駅行きのバスに乗り換え、
        三見市バス停(10:45)で下車する。

           
         地名の由来は、平安時代に三位中将平重衡(平清盛の五男)が、安徳天皇を守護
して当地
        に上陸したという伝承に由来し、三位が三見に転訛したと云われている。
  
        
         四差路を右折して下って行く道が、三見浦から木間に通じる脇道であった。

           
         観音峠の下り坂に建立されている観音堂は、平家落ち武者の守護仏とされる聖観音が祀
        られ、今ではお産の観音様として愛されている。

           
         三見市は東西300mほどの一本道の両側に民家が並ぶ小さな集落であり、その後の道
        路建設による影響もなく、全く手付かずで旧街道が保持されている。(東端の観音堂より)

           
         1665(寛文5)年に人馬継立の宿駅として取り立てられ、以後は交通の要衝となり、新
        市「三見市」と呼ばれるようになる。

           
         意匠が見られる平入り民家。

           
         車も通らないので自由に自転車遊びもできる。

           
         平安期の807(大同2)年に創建された仁王堂は解体され、1958(昭和33)年に三見仁
        王会館(地区会館)が建設されたが、仁王像は会館内の両脇に安置された。
 
                     
         仁王像は、室町期の1491(延徳3)年に守護大名の大内政弘父子が寄進したと伝える。

           
         1734(享保19)年に萩藩6代藩主・毛利宗広が疱瘡を患い、母の永昌院が参詣し疱瘡
        治癒を祈願する。全快した礼として御堂を瓦葺きとし、毛利家の家紋を許し寄進したとさ
        れる。(鬼瓦に家紋)

           
         現仁王会館の敷地は高札場、春定場、仁王堂、石体地蔵の建立跡で、藩の御触書、代官
        の告知を掲げ、宿町の中心地を形成していた。

           
         三見郵便局は、1875(明治8)年に旧宿駅の中央にあった阿武(あんの)平十郎宅で開業す
        る。その証として開業当時の書状集箱が置かれている。

           
         浄土真宗・色雲寺(しきうんじ)は、三見市の中心に位置し、藩主の領内巡行のとき、本陣
        として休憩場所になった。

           
         左手には目代所(もくだいしょ)があった所で、人や荷物を運ぶ馬(伝馬)31疋が常備され、
        目代(駅長)が旅人に伝馬を手配した。(公会堂より西の街並み)

           
         幕末から明治期の元薬問屋・三島屋さん。

           
         直線的な三見市の町並み。

           
         道沿いに47軒が家並みを連ねていたとされ、家屋の前半分を店や居住部分に充て、後
        半分を馬小屋などに使用したとされる。

           
         宿駅を離れると街道は三見川上流域に沿って谷筋を進む。

           
         谷間の水田縁、山縁を通る緩やかな上り道に一体の石仏。

           
         電柱の先左側に一辺約40㎝の四角い石があるが、三見市と床並との境石とされ、昔は
        この場所で地神の祭事が行われていたという。(傍に注連縄などあり)

           
         三見川上流域で三見市集落は姿を消す。

           
         境石より約600mで市道三見市鎖峠線(旧国道)に合わす。

           
         市道合流手前の左手に「めがね橋」と呼ばれる石橋(三見橋)がある。以前は土橋であっ
        たが、1914(大正3)年に架け替えられた。(国有文)

           
         めがね橋傍に「床波(とこなみ)一里塚跡」の碑がある。(ここで三見市まで引き返す)

           
         1581(天正9)年に創建された善照寺(真宗)は脇本陣とされた。1864(元治元)年に建
        てられた本堂と、山門前には大きな六足石灯籠が置かれている。

           
         三見吉弘の道路沿いに大きく茂ったバクチノキがある。樹木の傍に通称「森様」と呼ば
        れる祠があり、銘には「宝暦5年(1755)乙亥6月15日」とあり、バクチノキはその当時
        から存在していたものと思われる。 

           
         バクチノキとしては県内最大の大樹で、木の生長とともに樹皮が剥がれて黄褐色になる。
        これが博打で敗けた人が身ぐるみ剥がされる様と似ていることから名が付いたとされる。

           
         県道三見停車場三見線を横断して三見川に沿う。

               
         地元の人によると、萩市三見出張所の地が三見村役場だったとのこと。

           
         旧三見村・旧山田村の氏神で、1947(昭和22)年に三見の「三」と山田の田」をとっ
        て、三田八幡宮に改称された。

           
         「めがね橋」がデザインされた三見地区漁業集落排水のマンホール蓋。

           
         三見浦。

           
           
         1925(大正14)年開業の三見駅は、線路により駅舎側と海側に人家が二分されている
        ため、跨線橋で双方の出入りが可能となっている。(駅から三見市までは約2.6㎞の距離)