ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

防府市の上右田、鈴屋と奈美の旧石州街道歩き

2023年02月27日 | 山口県防府市

                
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         上右田は佐波川下流の右岸、右田ヶ岳東麓に位置する。地名の由来は、佐波川右岸の右
        田上流部による。
         鈴屋及び奈美は佐波川の中流右岸に位置し、山口尾の南東麓に開けた平地に位置する。
        (歩行約7.3㎞)

        
         JR防府駅から(11:35)防長バス堀行き約20分、右田毛利邸バス停で下車する。正面の
        山裾が右田毛利家の居館跡とのことで、その手前を南北に旧道が通る。

        
        
         毛利元就の7男・毛利元政を祖として関ケ原の戦い後に、周防三丘(みつお)に1万石が与
        えられていた。嫡男・元俱(もととも)のときに宍戸家と領地替えになり、1625(寛永2)
        右田の地を知行されて「右田毛利」といわれるようになる。
         進入路には柵がされているため、この先の様子は伺い知ることができないが、カメラを
        ズームして見ると、石組みらしきものが見受けられるが居館跡かどうかはわからない。

        
         旧石州街道かどうかは不詳であるが旧道を堀方面へ進む。

        
         日蓮宗の本因寺。

        
         上右田の田ノ口を過ごすと田園地帯に入る。

         
         見かけたのは鳥さんだけだった。

        
         2008(平成20)年防府市街地を洪水から守ることを目的に、取水堰・金波(きんなみ)
        と浴(かけ)堰を統廃合して、洪水等により上流が増水した場合、堰本体が自動転倒装置によ
        り下流側水位が急激に増水しない可動堰が完成する。

        
         上右田から旧小野村の鈴屋に入る。

        
         鈴屋入口の「猿田彦大神」碑には建立年月の記載はない。

        
         鈴屋地区の中心地だが更新された民家が並ぶ。

        
         鈴屋の地名由来について、往古、鈴が降り、そこに人家ができたので鈴屋と称したとい
        う。その鈴は宇佐八幡宮の社宝になっているという。(北向き地蔵) 

        
         宇佐八幡宮鳥居前の広場には神池(心字池)が設けられ、2つの太鼓橋で結ばれた築山と
        大小の雪見灯籠、池には錦鯉などが泳ぐ。

        
         一の鳥居から参道に入ると従軍記念碑や小さな祠が並ぶ。

        
         1654(承応3)年建立の二の鳥居は、「寛永の鳥居」と呼ばれているそうで、山口県で
        は5番目に古い石鳥居とされる。

        
         参道左手には「赤さま」と呼ばれる祠があるが、赤ちゃんの身体健全育成の神とされる。
        初宮詣りには十二重ねの団子をお供えし、子どもの無事の成育を祈るという。
         隣下にある顕彰碑は、鈴屋(宇佐)八幡宮の祠官であった佐伯鞆彦が、久坂玄瑞と共に京
        都へ入り、幕末期の1864(元治元)年池田屋において吉田稔麿らと倒幕を謀議中、新選組
        に捕らわれ翌年に斬殺されたとある。(享年42歳)

        
         平安期の891(寛平3)年3月、真尾の佐々木徳寿丸が宇佐神宮より勧請、初めは矢筈ヶ
                岳中腹の伊勢山に祀って村の鎮守とした。室町期の1533(天文2)年神が鈴屋の鈴宝山岩
        上に降臨されたので、現在地に社殿を建立して遷座させたという。
         1819(文政2)年社殿が朽廃したため、鈴屋、奈美、真尾、久兼、和字の5ヶ村と浴の
        氏子中が募財して造営したという。4月中・下旬頃にシャクナゲが咲き誇ることで知られ
        る神社である。

        
         神社横には、神が降臨されたという「飛座船石」がある。

        
         宮ノ馬場通り。 

        
        
         鈴屋の平集落。

        
         県道の平バス停近くにある「猿田彦大神」は天保5年申午(1834)の建立で、県道拡張の
        際に70m北から移動したという。

        
         平集落から十七(じゅうしち)集落付近で奈美地区に入る。この先の県道は歩車分離でない
        ため、大型車通行の際は避けなくてはならない。

        
         村境や四辻など路傍に立って赤頭巾をかぶり、前だれをかけている地蔵尊は、庶民にと
        って最も親しみやすい菩薩である。地蔵信仰は平安末期から広まり始め、現実界と幽冥界
        との境にたって、幽冥界に行くものを救うとされた。(鈴屋側に鎮座)

        
         奈美側にある「猿田彦太神」は、文政10年(1837)4月建立とある。

        

        
         普門寺(曹洞宗)は、1757(宝暦7)年大島郡屋代にあったものを引寺して天徳寺9世が
        開山する。明治になって一時廃寺となったが地区民の総意により、1880(明治13)年再
        興される。 

        
         寺前には大きな宝篋印塔があるが、地区内先祖の報恩に感謝して供養塔が建立された。
        (建立年月は判読できなかったが寺再興後と思われる)

        
         廻国供養塔は「奉納大乗妙典日本廻国六十六部」として、日本廻国供養した者が供養塔
        を建立しているが、これは西国三十三ヶ所供養塔とされる。

        
         寺には小野保育園が併設されており、その先に農村風景が広がる。

        
         次の三叉路を左折して旧道に入る。

        
         松ヶ谷神社入口にある猿田彦大神は、建立年月の記載はないが、街道筋から移設された
        ものと思われる。

        
         松ヶ谷神社は疫病神と呼ばれ、室町期の1508(永正5)年に勧請された。宇佐八幡宮の
        末社で、1907(明治40)年の県条例によって同社に合祀されたが、その後、ここに鎮座
        したという。

        
        
         小野村の中心として、村役場、小・中学校、駐在所、郵便局、農協、公民館などが置か
        れた。

        
         旧小野村には58ヶ所に地蔵尊があるそうだが、その多くが建立年代は不明という。こ
        この地蔵尊には明和6年(1769)11月とある。

        
         奈美バス停からJR防府駅に戻る。


山口市の白石地域は一の坂川からサビエル記念聖堂

2023年02月22日 | 山口県山口市

        
                 この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
         山口盆地のやや北寄りに発達した町で、東南側を北東から西南へ椹野川が流れ、町の中
        心部を一の坂川が東南に流れ込み合流する。域内を萩からのお成道(往還道)と石州街道が
        通る。
         一の坂川沿いからパークロード、亀山に毛利氏時代から近代にかけての史跡を訪ねて散
        策する。(歩行約7.2㎞)

        
         JR山口駅からコミュニティバス湯田吉敷ルートバス(10:20)に乗車して約4分、どうも
        んパーク前バス停で下車する。
         道場門前という地名は、山口道場とよばれた時宗の「善福寺」があり、その門前であっ
        たことに由来するが、明治の廃仏毀釈で住僧は還俗して廃寺となるが、善福寺の名残りと
        して西向き地蔵が現存するという。
     
        
         本国寺(法華宗)は山口開府(1360年)に先立つ南北朝期の1353年、大内弘世が武
        運長久の祈願所として創建した。山門は2ヶ所あるが、本堂は石州街道側を向いているの
        でこちらが表参道とのこと。

         
         室町期の1480(文明12)年連歌師飯尾宗祇が山口に来て同寺に滞在し、のちに細川幽
                斎も宿泊する。

                  
         道場門前と西門前をつなぐ安部橋の左岸に「安部本陣之跡」と印した石碑がある。安部
        家は江戸期の富豪であり山口大年寄格で山口脇本陣を務める。 
         幕末の1867(慶応3)年9月に小松帯刀、西郷隆盛らが使者として山口を訪れ、沈流亭
        で倒幕の密儀を重ねた際に安部家に宿泊している。

        
         安部橋を渡れば「亀山御銅像本道」と知らしめた大きな碑が建つ。戦前、亀山公園の頂
        に毛利敬親と4人の支藩主、毛利元徳の銅像が建っており、碑はその史跡を案内するもの
        で「是ヨリ亀山六丁、県庁十一丁」と記されている。

        
         長寿寺(浄土宗)は大内義興の病気平癒を祈って寺号が改称されたという。幕末には井上
        馨を総督とする鴻城隊が屯所とした。

        
         境内には初代山口県令・中野梧一の墓がある。もと幕臣で、1869(明治2)年の戊辰戦
        争では箱館五稜郭で官軍と戦うが降伏し、榎本武楊らと共に東京に護送され投獄された。
        翌年には釈放されて新政府に出仕し、同年には山口県参事に登用される。討幕派の旧領に
        幹部として任命されたのは異例とのことで、この抜擢には井上馨の推挙があったとされる。
         1874(明治7)年県令に昇進したが、実業界に身を置きたいと辞職する。その後、藤田
        組に入社し、藤田組贋札(がんさつ)事件や開拓使官有物払い下げ事件に関与するなど実業界
        大物として知られたが、1883(明治16)年大阪府の自宅で動機不明の自殺を遂げる。享
        年42歳で山口県の初期県政に多大な功績があったとして墓が建てられたという。

        
         萩往還道は藩庁が山口に移転するまでは、この辻が石州街道と交わる地点であった。往
        還道は左折して(写真では右)鰐石橋へ向かっていた。

        
         一の坂川右岸を上るとコープ山口の裏手に沈流亭碑がある。安部家の離れ屋敷で、幕末、
        西郷隆盛ら薩摩藩士と木戸孝允ら長州藩士が薩長連合で倒幕の密儀を重ねた場所とされる。
        建物は数回移転して現在は香山(こうざん)公園に移築されている。

        
         茶の湯として有名な「京都の三名水」に因んで、大内時代に名付けられた「山口の三名
        水」の一つ「藤の水」とされる。「朧(おぼろ)の水」と同様にすでに枯れてしまったようで、
        名水を味わうことはできない。

        
         一の坂川沿いの道。
        
        
        
         1815(文化12)年萩藩士・上田鳳陽は、山口に学舎がなく書籍も乏しいことを憂い、
        この地に私塾「山口講堂」を設立する。1845(弘化2)年には講習堂と改称し、文武諸芸
        の総合学舎となり、1860(万延元)年には萩明倫館直轄として運営されるようになる。
         翌年には亀山東麓に移転、藩庁の山口移転に伴い山口明倫館と称したが、1870(明治
          3)
年山口中学となり、山口県師範学校を経て山口大学へと変遷する。

        
         一の坂川の右岸一帯に御茶屋があり、幕末に萩から山口に政治機能を移転させる際、こ
        こに仮の政事堂が置かれた。陶晴賢の旧宅地と西隣の敷地内に建設されたといわれ、遺構
        等は残されていないが橋に名をとどめる。
         建物は一の坂川に面し、川には欄干付き長さ6間余(約3m)の石橋があり、歴代藩主は
        参勤交代、領内巡視などの際に滞留した。

        
         1908(明治41)年に日本軌道会社が小郡新町~湯田間を開通させ、路線の両端部分を
        延伸させて2年後に全線開通し、この近辺に山口駅(中河原停車場)が設置され
た。所要時
        間は約1時間、全線16往復(当初は7往復)の運転であったが、1913(大正2)年官鉄山
        口線(現JR山口線)が開通することにより、小郡~山口間の軽便鉄道は、わずか5年で廃
        線となる。

        
         1918(大正7)年に旧山口県立図書館の書庫として建てられたもので、1992(平成4)
        年ふるさと創生資金を活用して、新たに増築された事務棟と合わせ、市民の文化芸術に活
        用できる建物「クリエイティブ・スペース赤れんが」として開館する。
         書庫という性質上から窓は小さくなり、結果として赤れんがの素材の赤が目立っている。

        
         「山口講堂」が開設された後、「山口明倫館」と名称変更して兵学寮と文学寮に分けられ
        た。ここはその兵学寮があったところで、大村益次郎が兵学寮の教授となり洋式兵学の教
        育が行われた。

        
         一の坂川に沿う両岸は、後河原町といい、大内舘を中心として町の後ろの河原という地
        理的な命名と思われる。川沿いの町家も更新されて昔日の面影は失われている。

        
         一の坂川沿いにある山口信愛教会はキリスト教メソジスト派で、1891(明治24)年山
        口で布教を本格的に開始した翌年には、現在地に初代の会堂が建設された。
         1907(明治40)年4月に完成した2代目の会堂は、木造平屋に塔をあしらったもので、
        正面のバラ窓が人目を引いていたという。現在の建物は創立100周年に当たり、199
        1(平成3)年に建て直された。

        
         一の坂川のホタルと桜並木がデザインされた角型蓋だが、一の坂川筋には描かれている
        ものは同じだが、デザインの違うものも見受けられる。

        
         県道厳島早間田線(通称パークロード)周辺の案内図。

        
         亀山南麓の地に真言宗・平蓮寺という寺があり、幕末には撰鋒隊が駐屯して俗論派を支
        援する。1870(明治3)年寺は神光寺(現在の神福寺)と合併して廃寺となる。
                1878(明治11)年師範学校がこの地に移転、1951(昭和26)年山口大学教育学部と
        なる。現在は山口市役所の地となり、「山口教学発祥之碑」と刻まれた碑が駐車場の片隅
        に建立されている。

        
         この地にあった山口明倫館文学寮には、本学寮(国学・国体学)と漢学寮(漢文学・儒教)
        があり、勤王思想を中心とした教育が行われた。跡地は山口大学経済学部の旧亀山キャン
        パスを経て、現在は県立美術館となっている。

        
         戦前は早間田から県庁へ向かう途中には、山口師範、鴻城中学、山口高等商業、山口中
        学、防長新聞社、県立博物館、県立図書館が両側にあったという。
         1980(昭和55)年に道路と周辺が改修されて、パークロードと呼ばれるようになった
        が、美術館の片隅に佐々政一の「青春譜」(明治32年作)が石碑に刻まれている。
                「花なき山の山かけの月も宿
                 さぬ川の辺のはせに立ちたる
                 学び舎に起き臥す友よ
                 いざつどへ」
         佐々政一は北海道出身で、高商の教官として来山し、退官まで2年間滞在した。当時の
        高商には寮歌がないのを知り、試作したものが歌い継がれて、後に「鳳陽寮歌」と呼ばれ
        るようになる。

        
         文学寮跡碑があるとのことだが探し当てることができなかったが、美術館の隅に「明治
        駐蹕(ちゅうひつ)碑」がある。
         1885(明治18)年明治天皇が行幸の途中で、馬車を止めたことを示す碑のようだが、
        この地が馬車を止めた地かどうかはわからない。7月29日御召艦横浜丸で三田尻港に投
        錨。防府から山口に入り、野田毛利別邸に入御され、30日は山口に滞在されて31日早
        朝に三田尻港へ戻られたとされる。

        
         県立美術館は施設改修工事のため4月3日まで長期閉館中だが、歴代展覧会のポスター
        を見ることができる。

        
         1917(大正6)年築の県立博物館維新記念堂は、煉瓦造平家建ての建物で旧県立教育博
        物館に併設されて維新記念資料が陳列されていた。

        
         軒周りや窓枠には、セセッション式と呼ばれる幾何学模様の装飾が施された白御影石が
        使用され、イギリス積みされた赤煉瓦とよく調和している。このシンプルで無駄のないデ
        ザインは「クリエイティブ・スペース赤れんが」と同じで、大蔵省臨時建築課から派遣さ
        れた藤本勝往の設計といわれている。

        
         春日山公園には半円の石組みが残されているが、はっきりした確証は得ていないが、1
        871(明治4)年午砲(ごほう)の制が定められて全国各地に設置された午砲台跡のようであ
        る。時を知らせる(時報)のために撃つ大砲(空砲)の台座で、正午の砲であることから「午
        砲」と称された。山口でドンと撃たれたのは、1899(明治32)年とされるが、1927
        (昭和2)年からサイレンとなり廃止された。

        
         防長先賢堂は、山口県立山口図書館とともに昭和天皇が皇太子時代に行啓された記念と
        して、春日山を教育文化の中心地として整備する構想に基づき建設された。内部には祭壇
        があり、「防長先賢之霊」の六文字の書かれた題額が保存されているそうだが、内部を拝
        見することはできない。構造はコンクリート造ながら和風様式に沿ったデザインがなされ
        ている。

        
         鴻ノ峰から南麓に延びた標高約35mの茶臼山台地に、弥生時代終末期から古墳時代に
        わたる墳墓が発見される。箱式石棺9基は、茶臼山墳墓群として県立博物館の敷地内に現
        地出土の状態で保存されている。 

        
         旧山口県立図書館にあるD60蒸気機関車は、各地に現在も少なからず残されている保
        存用SLのうちのひとつ。信号機も併置保存され、屋根は設けられていないが保存状態は
        良い。(Dは動輪が4つ、Cは3つで区分)
         この車輌は、1951(昭和26)年にD50162より改造されたもので、D60型の第
        1号機関車(D601)として、1966(昭和41)年10月まで山口線で活躍していた。

        
         旧県立図書館の側面から見ると、後に増築された部分を含めてダイナミックな構成を見
        せる。初代県立図書館は、1903(明治36)年に現在クリエイティブ・スペース赤れんが
        ある地に開館する。この建物は、1929(昭和4)年昭和天皇が皇太子時代に行啓された記
        念事業として開館した2代目である。

        
         外観のデザインは「近世式(ジャーマン・セセッション風)」と呼ばれ、西洋古典主義に
        とらわれない幾何学的なデザインの柱頭や植物を模した抽象的な紋様は、ルネサンス様式
        を基調とした山口県政資料館とは趣を異にしており、ドイツ式の垂直感のある設計になっ
        ている。(案内図は春日山庁舎) 

        
         1895(明治28)年に大日本武徳会が結成され、山口県では1902(明治35)年5万人
        の会員数で山口県支部が設立された。
         1930(昭和5)年山口武徳殿として、当時の金額で9万円という巨費を投じ建造された
        もので、二層の木造二重屋根切妻千鳥破風造りである。戦後、県に譲渡されて山口県警察
        体育館として使用されている。

        
        
         内部は中央の間を板敷きの回廊が囲み、木造ながら二層分吹抜けの大空間を持っており、
        天井から下がる照明デザインも見どころである。上部は切妻の大屋根で覆われ、周囲には
        裳層(もこし)があって大寺院のような外観を保っている。

        
         戊辰専戦争時に官軍の陣頭に立てられた「錦の御旗」を制作した場所で、藩の養蚕所が
        あったところである。
         1867(慶応3)年薩摩・長州に倒幕の密勅が下されるとともに、岩倉具視より錦の御
        旗(朝廷の軍旗)制作の内命があった。品川弥二郎らは京都西陣で材料を購入して、品川お
        よび広沢真臣、世良修蔵が密勅と合わせて長州に持ち帰り、京都より招へいした岡吉春を
        中心に約30日かけて日月の御旗2旗、菊花の紅白旗を各10旗制作する。

        
         一の坂川は椹野川水系の1つで、萩往還道の板堂峠南側にある錦鶏の滝を源とする。

        はサクラ、初夏にはホタル、秋は桜並木の紅葉、雪の風景と四季を楽しませてくれる場所
        でもある。

               
         大内義隆の庇護のもとキリスト教布教が行なわれていたが、陶晴賢の乱で義隆は長門の
        大寧寺で自刃にする。晴賢は大内氏の後継ぎとして大友義鎮の弟・義長を迎えて大内氏を
        継がせる。1552(天文21)年義長は教会建立許可の裁許状を与え、山口に日本最初の教
        会が誕生した。

        
         国木田独歩の父が裁判所に勤務していたので、その転勤で広島、岩国、柳井、山口と転
        居する。山口に来たのは1883(明治16)年13歳の時で、山口中学校に入学する。碑の
        「山林に自由存す」の文字は自筆の原稿を拡大したものである。 

        
         毛利秀元は毛利輝元から長門一国と吉敷郡を給領地として拝領した際、この亀山を城地
        と定め城を修築した。完成しない間に関ケ原の戦いが起こり、戦後、毛利氏の防長移封に
        ともない秀元は長門の長府に移った。
         1900(明治33)年山頂を公園化して毛利敬親、支藩主(岩国、徳山、長府、清末)と、
        のちに毛利元徳を加え銅像6基が建設されたが、銅像は先の大戦中に金属回収されてしま
        い、現在は敬親公1基のみが復元されている。

        
         フランシスコ・サビエル来朝400年を記念して、世界の浄財を集めて亀山砲台跡に、
        サビエルの生家で、スペインのパンプローナにあるサビエル城を模して聖堂が建設され、
        1952(昭和27)年に献堂式が行われた。窓にサビエルの生涯を描いたステンドグラスが
        あったが、1991(平成3)年9月5日の火災で焼失する。
         1998(平成10)年4月教会の形をテントにし、双塔は天にのびる手が表現された聖堂
        が完成する。

        
         カメの形に似ているので亀山と呼ばれるが、戦後、毛利家が土地を二分してカトリック
        教会と山口市に寄付したとされる。市街地を一望できたと思われるが、木立の生長で部分
        的に見える程度である。(五重の塔方向)

        
         聖堂は拝観可能で斬新な聖堂内部を見学することができる。サビエルは1549(天文1
          8)
年8月15日鹿児島に上陸したが、絵には天に山口の瑠璃光寺五重塔とサビエル記念聖
        堂(旧聖堂)が描かれている。
         ちなみに受付の人に聞くと、現在は主に「ザビエル」が用いられているが、「ハビエル」
        という呼び名もあり、山口では「サビエル」と呼ばれているとのこと。

        
         サビエルが日本に上陸して各地で布教する様子を、1枚の屏風に絵物語として描かれて
        いる。展示室ではサビエルの足跡と日本におけるキリスト教のあゆみが紹介されている。

        
        
         2階の礼拝堂はステンドグラスが施され、背後からパイプオルガンの荘厳な音色が響き
        わたる。

        
         教会敷地には来嶋又兵衛の顕彰碑がある。又兵衛は幕末に遊撃隊を組織して国事にあた
        ったが、禁門の変で生涯を閉じたが、1891(明治24)年官位を授かり、1903(明治3
          6)
年顕彰碑が建立される。碑は毛利元昭篆額、井上馨撰文、野村素介書であるが、碑文に
        は又兵衛の嗣子清蔵(井上馨の妹婿)が、父の事績を後世に示すために建碑を企画し、井上
        に碑文を依頼したという文言があるという。
         同敷地にはもう1つ顕彰碑があったが、篆額が読めずはっきりしないが周布政之助のも
        のと思われる。亀山頂上に藩主の銅像があるため、一段低いこの地が選ばれたものと思わ
        れる。

        
         旧聖堂の面影を残すことなく再建された聖堂は物議もあったようだが、亀山の中腹に建
        つ50mの双塔は、遠くからでも眺めることができる山口のシンボル的存在になっている。

        
         1873(明治6)年10月に建設された旧山口電信局舎は、擬洋風木造のいなせな建物で
        ある。同年4月に下関―山口間に電信の開通によって設けられた2階建て瓦葺き、傾斜の
        急な方形の屋根に横長の板を打ち付けた下見板張りの壁、窓に鎧戸などの外観は創建当時
        のものと思われる。
         山口郵便電信局になった時に局長官舎となり、戦後の1963(昭和38)年まで使用され
        て個人住宅となった。現在は空家のようで玄関付近には塀などあったようだが取り払われ
        ている。

        
         旧国道に出て中国電力・YABバス停より山口駅に戻る。


山口市の大殿地域は旧萩往還道界隈と大内氏の遺構

2023年02月20日 | 山口県山口市

                             
                この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
          山口盆地のやや北寄りに発達した町で、東南側を北東から西南へ椹野川が流れ、町の中
         心部を一の坂川が東南に流れ込み合流する。域内を萩からのお成道(往還道)と石州街道が
         通り、一の坂川左岸一帯に大内氏時代の史跡が残る。
          天花から旧萩往還道を歩いて山口駅に戻るルートを散歩する。(歩行約5㎞、🚻あり) 
        
         
          JR山口駅から山口市コミュニティバス香山公園五重塔行きバス約10分、野田バス停
         で下車する。

         
          バス停を引き返して野田学園高校、菜香亭など見ながら国道9号線を横断すると、七ツ
         尾山の麓に雲谷庵の屋根が見えてくる。

         
          室町期の画僧・雪舟は、室町期の寛正年間(1460-1466
)頃大内氏を頼って山口に下る。
         1467年大内氏の遣明船に乗って明に渡り、帰国後は山口に住んだが、のち各地を遊歴
         したのち、文明年間(1469-1487)に再び山口に来山し「天開図画楼(てんかいとがろう)」とい
         う画房を開いた。その位置は現在の雲谷庵の所らしく、雪舟65歳の頃といわれている。
         雪舟の没年や死没地は山口や益田など諸説あるようだが、山口説によると、1506(永正
           3)
年87歳の時、この雲谷庵で没したといわれている。

         
          雪舟没後に庵は荒廃したが、藩主毛利輝元は雪州の画系が絶えるのを惜しみ、肥前の画
         工・原治兵衛に継がせ、治兵衛は雲谷等顔と改名する。江戸期を通じて雲谷宗家が継承し
         てきたが、明治維新後民有となり建物は解体された。
          1884(明治17)年遺跡の隠滅を惜しんだ地元有志が、跡地を買い取り庵を再建する。
         正面の柱は旧仁平寺楼門の柱、外の花頭窓は旧観音寺の窓とのこと。

         
          玄関にも旧高嶺宮(山口大神宮)の蟇股、天井には小野為八が描いた龍、興隆寺僧房の扉、
         宝現霊社拝殿の柱などが流用されている。 

         
          雲谷庵の通りを進むと右手に俊龍寺(曹洞宗)がある。室町期の1460(寛正元)年大内教
         弘が建立し、創建当時は献珠院と称していた。毛利輝元が豊臣秀吉の没後に菩提を弔うた
         め家臣柳沢元政に命じ、同寺を改築して位牌を安置し、秀吉の法名から現寺名に改める。

         
          安土桃山期の1597(慶長2)年は足利義輝及びその母慶寿院の33回忌に当たったので、
         毛利輝元は柳沢元政(鴻峯城代)に法会の執行を命じた。柳沢は織田信長に追われた足利義
         昭の庇護を条件に毛利家へ出仕したが、その後、秀吉に請われて豊臣家に仕え、秀吉死後
         毛利家に帰参すると経歴を持つ人物であった。
          供養塔は右から豊臣秀吉、足利義輝、足利義昭、慶寿院とされ、秀吉の供養塔には元政
         が秀吉から拝領した鎧が埋められているという。

         
          寺から萩往還道に出ると木町人丸神社。「ひとまる」の語呂から「火・止まる」神とし
         て信仰されてきた。
          山口も大きな火災が発生して住民は難渋したため、島根の人丸神社から分霊を勧請した
         ところ、その後は大火に見舞われることはなかったとされる。

         
          街道からの五重塔は、最上階の屋根と相輪が見える程度である。

         
          一の坂ダムの中央付近に名勝虹橋があった。南北朝期の1370年明国から山口の大内
         舘を訪れた使者趙秩(ちょうちつ)が、この風景を称えて「虹橋跨水」の詩を詠んだが、今は
         見られぬ風景である。
          「虹橋、水に跨がる 盤浸甃玉(ばんしんしゅうぎょく)、東流を按む 石を鞭うち、仙を尋
         ねて興未だ休まず 借りに紫虹を得なば、飛んで去らんと欲す 扶桑、何れの処か、是、
         三洲」とある。

         
          山口市中心街に見られるマンホール蓋。

         
          街道筋の光台寺真向かいにある長屋門は、1867(慶応3)年支藩である清末藩が、藩庁
         の山口移転にともない屋敷地を購入して長屋門などを築いたが、本邸の完成を見ないまま
         廃藩となる。

         
          上立小路界隈の民家は、その多くが更新されている。

         
          1849(嘉永2)年創業の部坂呉服店は、築100年以上の数寄屋造りの町家とのこと。

         
          築地のある地が築山館(つきやまやかた)跡。

         
          大内弘世の孫・教弘は勢力範囲の拡大により、大内氏館の北側に新館を構築するが、立
         派な築山があったので「築山館」と称した。その豪華さは京の建物に劣らず、築山と池の
         景色はことに優れていたという。
          しかし、室町期の1556(弘治2)年3月、内藤隆世が杉重輔を襲った際の兵火で類焼し、
         以後は廃墟と化した。

         
          築山神社は毛利輝元が大内義隆を祀るため、1605(慶長10)年に建立した「宝現霊社」
         が始めと伝える。当初は上宇野令の多賀神社敷地内にあったが、その後、龍福寺などを経
         て、1870(明治3)年現在地に移された。
          本殿、拝殿ともに、1742(寛保2)年に山口市大内の興隆寺境内に建立された東照宮の
         社殿を移築したものという。

         
          江戸期には築山した巨石奇岩の多くは散乱していたとされるが、幕末に八坂神社を遷座
         させるため平地にした時、大部分を割り砕き、また他へ持ち去られたという。 
          築地にも大石をたたみ上げた石垣が残っていたが、幕末に藩庁が山口に移り、政事堂を
         構築する際にすべて持ち去られた。今は一部に盛土が残る程度である。

         
                  「池はうみ こすゑは 夏の深山(みやま)かな」
          連歌師・飯尾宗祇が大内氏の招きに応じて山口に客寓した折、築山館でしばしば蓮歌の
         興行を行った際に詠んだ発句とされる。

         
          室町期の天文年間(1532-1554)大内義隆は迎えた北の方を慰めるために、しばしば都の公
         卿殿上人や楽人などを招いて詩歌管弦の遊びを催したが、ある時その席で7人の若い殿上
         人が一首ずつ歌を作り、次々に箏(そう)で弾き歌いすることが行われた。これが箏の組歌の
         起源であり、歌の組み合わせなので組歌という。

         
          毛利氏家臣で高嶺城代・山口奉行を務める市川経好の嫡子・元教は常日頃より毛利氏に
         不満を抱き、豊後国の大友義鎮と大内氏再興を企てる。元教は父に賛同を求めたが、父は
         逆に誅殺することを命じ自害に追い込まれた。墓石はもと築山神社の土塁上にあったが、
         近年境内に移設された。

         
          八坂神社の社伝によると、南北朝期の1369年大内弘世が京都感神院(現八坂神社)
         から勧請して上立小路に建立したが、大内教弘の時代(1459)に香積寺門前に移された。そ
         の後、室町後期の1519年大内義興が高嶺大神宮(現山口大神宮)の創建にあたり、八坂
         神社も大神宮の地に移して翌年社殿を新築した。
          1864(元治元)年山口に藩庁を移す際、当時は畑となっていた築山館跡地に移築遷座さ
         せた。(国重要文化財)

         
          擬洋風の河村写真館(旧小野写真館)は、明治初期の建築によく見られるベランダと塔屋
         を備えている。建築年代や建築主については諸説あるようだが一説によると、1875(明
           治8)
年毛利藩の砲術師範であった小野為八の築で、県下では1号の写真館であったという。  
         小野は渡米して写真術を学び、3つに並んだアーチは彼が渡米中に経験したものとされる。
         建築時から所有者を変えながらも、およそ120年にわたり写真館として使われ続けた。

         
          大内氏の居舘であった大内舘と築山館の西側を南北に通る道は、山口の町を建設する折
         に計画道路として開かれた。大内時代は北詰めの木町橋よりやや南に惣門、東端は法界寺
         付近に惣門を置く武家地であった。
          江戸期になると、この道は萩から三田尻に向かう御成道(旧萩往還道)となった。(下竪小
         路付近) 

         
         
          野村家住宅は、1886(明治19)年に造り酒屋の杉酒場として建てられたもので、主屋
         は木造平入り2階建てで旧萩往還道に面し、2段になっている屋根は高い方が主屋で低い
         方が土間部分である。主屋の他に茶室と土蔵、庭があって、裏手に酒造場があった。(国登
         録有形文化財)

         
          土蔵は漆喰作りで瓦屋根の下に隙間がある「置き屋根造り」で、梁間2間×桁行3間の
         蔵は数字をとって「にさんの蔵」と呼ばれ、山口地方では大正から昭和初期にかけて、こ
         の形式の土蔵が建てられたそうである。(国登録有形文化財)

         
          庭内の角にある大きな樽を伏せた形の「酒樽茶室」は、大酒樽4樽分の良質材のみを使
         用し、戦後に造られた珍しい茶室である。ちなみに大酒樽は20石樽で、一升瓶2,000
         本の容量であるとのこと。

         
          裏手の酒造場跡にはふるさと伝承センターと美祢氏住宅が並んでいる。村長や衆議院議
         員を務めた美祢龍彦氏が、1891(明治24)年山口市錦町に居宅として建てられたものが、
         市に寄贈されて約3分の1のみ移築されている。

         
          大内舘の西門が発掘調査後に原形に即して復元されている。南北朝期の1360(正平1
           5)
年大内弘世は大内御堀から山口の地に移り居館と定めた地である。
          室町期の1551(天文20)
陶晴賢の乱では焼失を免れたが、1556(弘治2)年の内乱
         で焼失してしまう。居館は四方に堀を堀り、その土をもって土居が築かれていた。

         
          現在、大内舘跡に建つ龍福寺(曹洞宗)は、鎌倉期の建永年間(1206-1207)
大内満盛が鴻ノ
                  峰南麓
の地に瑞雲寺という臨済宗の寺を創建したという。その後、大内弘直が再建して弘
                  直の菩提寺としたが、室町後期の1454(亨徳3)年大内教弘が曹洞宗に改め龍福寺と改称
         する。のち大内義隆が重建したが、1551(天文20)年の内乱で焼失する。

         
          室町期の1557(弘治3)年毛利隆元が大内義隆の菩提寺として、大内舘跡に龍福寺を再
         建する。隆元建立の堂宇は、1881(明治14)年火災により本堂が焼失したため、大内地
         区にある興隆寺というお寺の釈迦堂を移築して本堂とする。釈迦堂は室町期の1521(大
           永元)
年に建てられたもので、室町時代の寺院建築の特色をみせる大伽藍である。(国重要
         文化財)

         
          本堂に向って右手にある池泉庭園は、室町期の1400(応永7)年末頃に作庭され、大内
         舘が焼失するまで存在していたと推定される。南北に約40m、東西約20mの瓢箪のよ
         うな形をした池に中島が設けてある。
 
         
          室町期の1550(天文19)年大内義隆から布教の許可を得たサビエルは、よく大殿大路
         にあった井戸の傍で説教を行なったと伝えられる。どこに井戸があったかはわからないが、
         寺の参道脇に「サビエル布教の井戸」が再現されている。

         
          この参道は紅葉が美しいスポットとして知られている。

         
          1895(明治28)年5月鴻東尋常小学校(現大殿小学校)開校記念に1本の松が植えられ
         た。翌年に山県有朋が来校し、子供たちが大きく羽ばたいて成長することを願って、「先
         駆ける」との意味から、「さきがけの松」命名揮毫されたという。(石碑は後に建立)

         
          大殿大路界隈の町並み。

         
         
          萬代家の本宅が明治期に竪小路の西側に新築された際に、離れ(茶室)として建てられた
         もので、大正期に庭などとともに現在地へ移築された。
          江戸期には醤油製造業を営んでいた萬代家は、徳山藩士・木谷勘右衛門の子が、山口に
         出て「萬代」を名乗ったことに始まるという。 

         
          萬代家の敷地内で杉民治(吉田松陰の兄)が維新後の一時期、「杉私塾」を開いた建物が
         ある。建物は明治維新前後に建てられたもので、2階建てにそれぞれ4畳半の和室がある。

         
          十朋亭は萬代家が江戸後期に建築した離れである。当主の萬代利兵衛は、勤王の志士た
         ちの活動を擁護したため、木戸孝允、高杉晋作、久坂玄瑞など多くの者が出入りする。

         
          萬代家に宿泊していた大坂の儒学者・篠崎小竹が名付けたとされ、小竹が揮毫した「十
         朋亭」の扁額がある。

         
          旧萩往還道を進むと石州街道に合わす四ツ辻で、「札の辻」と呼ばれ江戸期には高札場
         があった。

         
          札の辻を右折すると、石州街道と並行して大市、中市と現在でも山口の中心的な商店街
         に入る。

                 
                 アーケード街に入るとひと際目立つ建物は、1883(明治16)年創業の山陰堂で「銘菓
         舌鼓」が有名である。

         
          梅田家は江戸期には酢屋、明治期は質屋・醤油製造を営んでいた。現存する建物は築約
         180年の町家である。

         
          中市の豪商・山田家の初代が、毛利氏の防長二州移封の際、藩主輝元に従って広島から
         山口入りしてこの地に居を構える。
          本陣に指定されていたが、本陣は諸大名の宿泊所であるが、山口は山陽道と違い諸大名
         の通行はなく、藩主が山口に来て御茶屋に宿泊する時、お供の藩士が多い場合に本陣が使
         用されたという。明治期には山口町役場などに活用された。

         
          正福寺(真宗)の寺前には、安土・桃山期の1581(天正9)年寺が建立された時に植えら
         れたというイブキの大老樹がある。

         
          山口に夏を告げる祇園祭は、7月20日から27日まで行われるが、初日に八坂神社で
         鷺の舞が奉納されて、この御旅所まで神輿3基が町を練り歩く。最終日は御旅所から八坂
         神社へ御還幸が行われるが、大内時代から約600年以上続く祭りである。

         
         
          
山口客館は幕末に萩から山口に藩庁を移転した際、賓客に対する応接所として、幕末の
         1867年に建てられた。明治になって今道小学校の校舎に利用されたが、現在は山口地
         方裁判所の敷地となっているので、閉庁時には碑を見ることができない。
本門と東門は、
         雪舟庭のある常栄寺の惣門と勅使門に移築されている。


山口市の上山口地域は旧石州街道周辺と菜香亭

2023年02月17日 | 山口県山口市

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         山口盆地のやや北寄りに発達した町で、東南側を北東から西南へ椹野川が流れ、川に沿
        ってJR山口線が走る。域内を旧石州街道が
通り、一の坂川左岸一帯に大内氏時代の史跡
        が残る。
         山口の町を一度に歩くことは難しいので、今回は旧石州街道と野田の菜香亭付近を巡る。
        (歩行約8㎞、🚻あり)

        
         JR山口線の山口駅で下車する。

        
         駅から鴻ノ峰(高嶺城跡)を見ながら山口銀行先を右折する。右折の角に「今道小学校跡」
        の碑があったが、コンビニになったため撤去されたようだ。

        
         山口病院裏手に菅原道真の末子、菅原福部童子(当時11歳)を葬った祠がある。父菅原
        道真を慕って山口までたどり着いたが、運悪く大病にかかりこの地で亡くなったという。
        毎年8月26日の祭日に焚き火をしてお尻をあぶると、病気をしないという「尻あぶり神
        事」の風習がある。

        
         山口駅通りと並行する裏通りに「そば屋・山吹」があった。この建物は遊郭だったとさ
        れ、小さかった玄関の木も一階屋根裏まで生長していた。左の通りが歩いてきた相良小路
        で、大内氏に仕えた相良氏の屋敷があったという。

        
         現在の井筒屋裏手筋は馬場殿小路と呼ばれ、大内時代には諸臣の調馬を担当した馬場屋
        敷があったことから小路名となったようだ。

        
         小路の右手は寺町といった感じで、性乾院(浄土宗)、真證寺(真宗)、端坊(真宗)、西覚
        寺(真宗)が並ぶ。山頭火の句碑「お寺の大銀杏散るだけ散った」は、性乾院に設置されて
        いる。

        
         室町期の応永年間(1394-1428)大内義弘が出雲大社より勧請し、当時は三宝荒神社と呼ば
        れ、火伏せの神として崇敬されてきた。明治後は政府の方針により今八幡宮の八柱神社に
        合祀され、古熊神社の大祭である山口天神祭の御神幸道中であるため、同神社の御旅所と
        なる。

        
         この通りは旧立売町(太刀売町とも記す)で、京都にある立売の地名を移したものとされ
        るが、商人が集住していたようで中世には立売市が開かれた地と考えられている。

        
         四差路は札の辻と呼ばれ、江戸期には高札場があった場所で萩往還道と石州街道が交わ
        う地点でもあった。

        
         黒地蔵と称される地蔵尊を本尊とする万福寺という寺があったので、堂の前町という町
        名になった。毎年行われる山口祇園祭に神事として奉納される鷺の舞は、この境内で奉納
        され、当屋の家前、札の辻で舞われた後に八坂神社へ進む。
         寺は室町期の1551(天文20)年陶晴賢の乱で焼失し、8年後に毛利輝元によって再建
        されたが、明治になって龍福寺に合併されて寺号は廃された。

        
         石州街道筋には円政寺町・道祖町・石観音町という町名がある。円政寺という寺があっ
        たが、近世に入り萩城下に移転したが町名として残る。その先に道祖神があったことから
        道祖町となる。(八柱神社に合祀)

        
         石州街道を北上すると正面に石観音堂が見えてくる。

        
         石観音町の町名となった石観音堂。堂についての詳細は不明だが諸説あるようで、昔、
        油川が氾濫した時、岩につかまり助かった人がお堂を建立し岩を祀ったと伝わる。
         一方、石州街道はT字路となるため突き当りは悪い相があるとされ、魔除けの意味で配
        置されたといわれている。

        
         石観音堂前を左折して旧国道9号線を横断すると、今八幡宮の御旅所と庚申塚がある。
        石州街道は次の四差路を右折して宮野方面へ進む。 

        
         広い敷地に袖卯建のある商家は、何を生業にされていたのだろうか。

        
         「置屋根造り」といわれる天井まで土壁で覆われた上に屋根を載せた形式で、火事で屋
        根は焼けても中に火が入らない構造のようである。

        
        
         金古曽町辺りの筋には古い町家が見られる。

        
        
         室町期の1549年フランシスコ・サビエルは、キリスト教布教のため鹿児島に上陸。
        翌年の11月京都へ布教に行く途中に山口へ立ち寄り、京都に向かったが戦乱で乱れてい
        たたため、再び山口の地を訪れ、大内義隆から布教の許しを得て、宿所として廃寺の大寺
        が与えられる。
         1889(明治22)年ピリヨン神父が大道寺跡を探求し、この地であると考えて公園の建
        設に尽力した。1926(大正15)年高さ10mの花崗岩にサビエルの肖像画をはめ込んだ
        記念碑が建立される。

        
         公園内には、サビエルが大内義隆から宣教の許可を得たが、義隆は陶晴賢の反乱で自刃
        後、山口に入った大内義長も大友宗麟の弟であったのでキリスト教には好意的であった。
         室町期の1552(天文21)年8月28日大内義長が、サビエルの弟子・トルレスに与え
        た裁許状の写しが銅板化されている。(ポルトガル外務省所蔵文書に保存)

        
         大道寺跡を探求したピリオン神父の胸像。現在は主に「ザビエル」が用いられているが、
        「ハビエル」という呼び名もあり、山口では「サビエル」と呼ばれている。

        
         戦前には歩兵42連隊があった地で、連隊は日露、シベリヤ出兵、満洲事変~日中戦争、
        太平洋戦争へ参戦し、南洋諸島で終戦を迎える。戦後は進駐軍駐留後、陸上自衛隊山口駐
        屯地(第17普通科連隊)となる。

        
         神福寺(真言宗)は式内社仁壁神社の別当寺として神宮寺と称した。のちに今八幡宮、八
        坂神社の勧請によってそれらの別当寺にもなったが、その頃の寺名は神光寺で中世を通じ
        て大寺であったらしい。
         室町後期の天文・永禄年間に火災で焼失したが、その度に再建された。1870(明治3)
        年平蓮寺を合併、福蓮寺と改めたが、さらに玖珂郡岩国町の妙福寺を合わせて現寺号とな
        る。

        
         観音堂に安置されている十一面観音は、唐代晩期の作と推定され、琳聖太子が来朝の際
        に持来したと伝わる。もと山口市宮野の泊瀬(はせ)寺あったので「はせ観音」ともいい、周
        防三十三観音第29番霊場とされている。 

        
         今八幡宮の創建年代は不明だが、現在の社殿は室町期の1503年大内義興が建立した
        と伝える。

        
         本殿は三間社流造、拝殿は切妻造妻入り、楼門は左右翼廊付で、下方は吹放拭板敷で拝
        殿としての役をなしている。楼門を拝殿に兼用した造りは楼拝殿造りと称され、山口地方
        独特の形式である。(国重要文化財)

        
         今八幡宮の氏子のである8つの町内にそれぞれ鎮座していた摂末社が、1906(明治3
          9)
年の神社合祀令により合祀されることになり、うち一社の社殿を移して八柱(やはしら)
                社とした。途中にあった道祖町の道祖神社、馬場殿小路の杵築神社が合祀されている。

        
         豊栄(とよさか)神社は毛利氏の中興の祖・毛利元就を祭神とする神社。毛利輝元は萩へ移
        るにあたり、祖父元就の霊を萩の春日神社に祀った。後に社を城内三の廓に遷座させる。
        1869(明治2)年元就の霊を山口に移し、豊栄の神号を受け、2年後の1871(明治4)
        年現在地に社殿を造営する。

        
         豊栄神社の西隣に鎮座する野田神社は、毛利敬親・元徳を祭神とする。1871(明治4)
        年山口で没した敬親の諡号(しごう)により、忠正神社と称し豊栄神社境内地別殿に祀った。
        その後、鎮座する地名から現在の野田神社に改称し、1886(明治19)年現在地に遷座す
        る。

        
         野田神社能楽堂は、1936(昭和11)年明治維新70年記念事業として、長州藩主末裔
        の毛利元昭が新築寄付したものである。
         総檜造りで、橋掛、鏡の間及び楽屋、控の間を構えている。建築面積は約238㎡で、
        規模の点からしても本格的な能楽堂である。当初の建築場所は、現在地より西の野田学園
        運動場内であったが、1991(平成3)年道路新設に伴い移築された。   
          
        
         萩藩の膳部職(ぜんぶしき・台所方)を務める斎藤幸兵衛は、幕末の1863年藩主と共に
        山口に移り住む。
         1877(明治10)年西南戦争では御用達として従軍したのち、山口八坂神社境内地に料
        亭「斎幸」を開業する。のち斉藤と親交のあった井上馨が料亭「菜香亭」と命名する。

        
         料亭は5代目店主だった齋藤清子さん(通称「おごうさん」)が高齢になったことから、
        1996(平成8)年に約120年の歴史を閉じる。(扁額が並ぶ大広間)

        
         日露戦争ではロシア兵捕虜が山口に護送され、将校ら70名が収容される。太平洋戦争
        中は食糧不足のため休業し、山口市の第二公会堂として使用され、終戦後は占領部隊の占
        領が始まり、アメリカ軍将校の宿舎となった。

        
         大広間には伊藤博文、木戸孝允、井上馨、山県有朋、山田顕義、三条実美など幕末から
        明治にかけて活躍した人々の書が26点展示されている。
         伊藤博文揮毫の「一家天地自春風(いっかのてんち おのずからしゅんぷう)」~皆が一つにな
        ったらおのずと春風が吹くという意。隣は山県有朋、寺内正毅、田中義一書。

        
         右に木戸孝允の「清如水平如衡」(きよきごとみずのごとくたいらかなることはかりのごとし)
        井上馨の「四面菜香滌気心」(しめんのさいか きごころをあらう) 
        
        
        
         庭を囲むようにある建物は1階が居間、2階が客室だった。

        
         2階北の客間。

        
         2階から見る大広間。

        
         幕末の1863年9月諸隊の八幡隊が今八幡宮小方神官宅で結成される。初代総督に堀
        真五郎が就き幕長戦争で活躍するが、翌年の兵制改革で集義隊と合併して鋭武隊と改める。

        
         山口市のマンホール蓋。

        
         JR上山口駅は近くに山口赤十字病院があったことから、1953(昭和28)年3月に日
        赤前仮乗降場として設置され、翌月には駅に昇格して現駅名となる。
         ここから乗車しようと思ったが、昼間は便数が少なく1時間待ちのため残念する。

        
         善生寺から見る野田方向、大きな建物は山口赤十字病院。

        
         善生寺の地には大内氏の重臣・内藤興盛の菩提寺である西方寺があったが、1664(寛
          文4)
年毛利輝元の側室児玉氏(秀就の母、二の丸様)の菩提寺となり周慶寺と改める。
         1968(明治2)年、山口市の今市にあった善生寺が移転して現在に至る。現在の本堂は、
        1740(元文5)年藩主・毛利宗広が再建したものである。

        
         本堂裏の庭園は雪舟作と伝えられるが、周慶寺とされた後のものとされる。

        
         椹野川に架かる赤い欄干橋(天神橋)の東詰を左折、直進すると古熊神社の参道に至る。

        
         大内弘世の時世、南北朝期の1373年頃山口に滞在した中国・明の詩人趙秩(ちょうち
          つ)
が、山口の名勝10ヶ所を選んで詩を詠んでいる。
         「猿林の暁月」と題し、“曙色、初めて分かなり天の霜をして雨らしむる、凄々たる残
        月、琳琅を伴ふ、山人一たび去って、消息無し 驚起すれば、哀猿空しく腸を断つ ”と
        ある。猿林とは、古熊にあった永興寺跡から現在の古熊神社一帯の山林を指すとされる。

        
         古熊神社は山口盆地の東、天神山を背にその麓に鎮座する。社伝によると、延喜年間(9
        01-922)菅原道真の子福部童子が父追慕のあまり太宰府へ下向途中、山口で亡くなり甘露院
        に祠堂を設けて祀られていた。
         南北朝期の1373(文中2)年大内弘世が京都の北野天神を勧請し、山口の北野小路に祀
        ったのが始まりとされる。その後、1618(元和4)年に毛利秀就が、室町時代に建立され
        た社殿を当地に移築したとされ、祭神は菅原道真で福部童子を配神としている。山口天満
        宮と称していたが、1870(明治3)年に現神社名に改めた。

        
         本殿は三間社入母屋造り、拝殿は一間一戸の楼門で、左右に切妻造の両翼がついている。
        本殿の正面にある三つの蟇股に、それぞれ松竹梅の彫刻があると記されているが、本殿奥
        のため一般の人は拝見することができない。(本殿と拝殿が国重要文化財)
         参拝を済ませて椹野川沿いを下ってJR山口駅に戻る。


防府市三田尻の野村望東尼と桑山界隈

2023年02月12日 | 山口県防府市

        
                         この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         桑山(くわのやま)は防府平野の中央部に位置する独立小丘で、公園化されて
市民の憩いの
        場として親しまれている。
         華浦(かほ)は桑山の南に位置する平地と海岸砂丘上に立地する。(歩行6㎞)

        
         JR防府駅南口から防長バス小田港行き(12:10)約8分、自力東町バス停で下車する。バ
        ス進行方向の交差点で向かい側に移動する。(中浦行きも停車)

        
         旧三田尻町と旧新田村の境だった路地を歩く。

        
         三田尻本陣を務めた旧五十君(いぎみ)家の裏手である。

        
         古民家など足を止めるようなものは存在しない。

        
         1631(嘉永8)年創建の法圓寺は日蓮宗。

        

         法圓寺の隣に「桑陽荒瀬氏頌徳碑」が建立されているが、荒瀬桑陽(1808-1884)は碑のあ
        るこの地で生まれ、学を好み27歳の時、上洛(京都)して儒学・経学を主とし・天文・暦
        学などを学んだ。帰郷後、岸津村(現防府市江泊)にあった松村宗蔵の塾で育英の仕事をし
        たが、母の死去後に招きで長崎に赴き、息子を呼び寄せて医学を学ばせた。

         のち、松村宗蔵が没すると門弟たちに懇請されて、1864(元治元)年江沖塾(こうちゅう
         じゅく)を開いて、上山満之進ら近在の後進を育てた。

        
         西進して行くと墓地があり、石柱には「練塀 惣石垣 切石門 石檀寄付・五十君小左
        衛門」とある。墓地内には文化、文政、寛政の年号と享和2壬戌(1802)9月播磨屋と刻ま
        れた墓などがある。
 

        
         河野養哲(1661-1727)は御舟手組の中船頭の家に生まれ、幼少の頃に父の同僚であった家
        の養子となる。成長するにつれて水軍の仕事になじむことができず、役を辞して養家から
        も去り、暮らしをたてるために医業を営んだ。

         生涯妻帯せず学問を以って多くの子弟を教養し、貧しきものは無料で医を施す。養哲の
        祖先が伊予水軍の越智氏の出であったことから、塾名を「越氏(えつし)塾」と名付ける。

         養哲死後、藩の公費(三田尻宰判)でまかなわれる学校となり、その後、名前と場所を変
        えながら幕末には三田尻講習堂という塾になる。碑は養哲の遺徳を偲び越氏塾に建立され
        たが、現在は華浦(かほ)小学校校庭内にある


        
        
         秋良貞臣(1841-1905)は柳井市阿月に生まれ、幕末には国事に奔走して廃藩置県後は県庁
                に出仕し、地租改正掛となる。
         1879(明治12)年に県庁を辞し、十州塩田同盟を再興するなど塩業の発展に尽くした。
        (墓は国分寺墓苑にある)

        
         厳島神社は宗像三女神を祭神とする神社で、創建年代は定かでないが、飛鳥時代の70
        0年頃とも伝える。

        
         小烏(こがらす)神社は、神武天皇が大和征服の時、鉾の先にとまって勝利を導いたという
        神話の八咫烏を祀る神社である。幕末に薩長連合が詣でて勝利の閧(こう)の声を挙げて、問
        屋口から乗船して小田港沖に来艦していた薩摩の軍艦で倒幕の途についた。まさに倒幕の
        口火となった地である。明治初期に現在の社号に改められたそうで、当時は華浦小学校グ
        ランド内にあったが、1908(明治41)年現在地に遷座された。

        
         安土桃山期の1587(天正15)年細川幽斉が「まりふ松原」と題し、「白銀を敷きたら
        んようになる白砂に 丈高からぬ浦松の 老い届まりたるが‥」と、景勝の地を称え和歌
        を詠んだのが地名の起こりとされる。いまも海岸線だった砂浜の上に松が茂る。

        
         まりふ幼稚園は、明覚寺18世香川黙識が楫取素彦の多大な援助を受けて、1892(明
          治25)
年4月に日本初の仏教系幼稚園を創設した。

        
         桑山(くわのやま)は標高107.4mの独立した小山であり、桑山八十八ヶ所、野村望東尼
        の墓、大楽寺などがある。

        
         桑山に向って北上する四差路の右手に「海岸寺大師講」と刻まれた石柱と、一角にはお
        堂があったようだが倒壊する。石仏、正福寺14世雪厳雲洞和尚の宝篋印塔や桑山八十八
        ヶ所の1番と88番などがある。

        
         尾張国の鏡界鏡円という人が、大師堂(海岸寺)と桑山八十八ヶ所霊場を発願し萩藩に請
        願し、1788(天明8)年に霊場が完成したという。(正福寺の飛地)

        
         歌人で勤王家であった野村望東尼(もとに・ぼうとうに)は、1867(慶応3)年11月6日
        三田尻の地で、高杉晋作と同様に実現しようとした新しい時代をみることなく、62年の
        生涯を閉じる。
         墓は大楽寺の桑山墓地にあるが、生涯の大半を過ごした福岡市の明光寺(博多区)にも墓
        がある。
         その右隣には、土佐藩士・田所壮輔の墓で武市瑞山を助けて藩論の興隆を図ったが、瑞
        山の投獄で脱藩して長州に入り、禁門の変に参加するが敗れて三田尻に帰って自刃する。
         左隣には三田尻で病没した福岡脱藩の仙田淡三郎の墓である。

        
         墓から引き返す途中に、望東尼の最後の歌碑が建立されている。
            「冬籠りこらえこらえて ひとときに花咲きみてる 春は来るらし」
         望東尼が生涯の最後に残した歌で、倒幕軍の戦勝、あるいは間近に迫った維新の夜明け
        予感させる歌となっている。
         辞世の句は「雲水の 流れまとひて華浦の 初雪と我降りて消ゆなり」である。

        
         大楽寺境内の南端に楫取素彦夫妻の墓がある。2015(平成27)年にNHK大河ドラマ
        「花燃ゆ」の主人公として放映された当時は、墓も脚光を浴びたが今はひっそりとしてい
        る。

        
         大楽寺(曹洞宗)は南北朝期の1381(永徳元)年創建の古刹で、もとは防府市西仁井令に
        あったが、1871(明治4)年に廃寺となった宝積寺の建物を譲り受けて現在地へ移転する。
        山門には阿吽の龍が彫られている。

        
         山門隣の梵鐘は三田尻御舟倉の時鐘で、船廠(せんしょう)内の大工小屋屋上の鐘楼に懸け
        られていた。御舟倉廃止により北側に隣接していた専称寺に移されたが、1874(明治7)
        年7月の台風で鐘楼が倒壊したので大楽寺へ移された。

        
         萩藩第7代藩主・毛利重就(しげたか)公の分骨廟がある。1871(天明元)年徳川家治の養
        子となった次の将軍が家斉(いえなり)と称したため、名の読みを“しげなり”から“しげた
        か”に改める。
         藩主を息子に譲った後は、家族と共に三田尻御茶屋に移り住み、1889(寛政元)年に亡
        くなるまでの8年間を防府の地で過ごす。墓は萩市の東光寺(毛利家墓所)にある。寺北側
        の墓地には俳優だった夏目雅子の分骨が埋葬されている。(西山家)

        
         寺から階段を上がり、ちびっ子広場を過ごすとふれあいの広場に出る。1865(慶応3)
        年9月御楯隊隊士が修練場として造成した場所である。
         御楯隊の総督であった御堀耕助(大田市之進)は、大内御堀にしばらく住んでいたので御
        堀耕助と名乗ったようである。1869(明治2)年5月命を受けて山県有朋とヨーロッパへ
        渡航中、肺を患って帰国し鹿児島で静養していたが、1871(明治4)年5月三田尻におい
        て31歳で病没する。護国神社の翼廊奥にひっそりと墓がある。

        
         1870(明治3)年修練場跡に整武隊などの手で、御楯隊、整武隊、千城隊、遊撃軍、三
        田尻海軍の戦死者など100余名を祀る招魂碑が建立された。

        
         1892(明治25)年10月整武隊隊長であり、東上軍総指揮官であった山田顕義(日本大
        学、國學院大學創設者)撰文の桑山招魂場碑が塔ノ尾に建立された。

        
              「草の絮(わた) きず負いのぼる 天の凹み 飄々子」
         山頂へ向かう右手に高橋瓢々子の句碑がある。防府市三田尻の自力町で生まれ、山口県
        の俳壇振興に貢献したが、闘病生活が長く48年の生涯を閉じる。

        
         桑山山頂まで330mの道は階段だが、段差は低くゆっくり登れば山頂に立つことがで
        きる。途中には出会いの広場があって、三田尻側を眺めながら休憩ができるようになって
        いる。

        
         桑山の塔の尾古墳は、1785(天明5)年毛利重就が納涼台を営もうとして発掘されたも
        ので、不詳のまま石の箱に収められて頂上に埋められて石祠が建てられた。37年後の1
        822(文政5)年三田尻の下代役・斉藤貞宜が「桑山古墳私考」と題して、日本書記より時
        代、場所、遺物を検討して、来目皇子(くめのみこ)の仮埋葬古墳であることを考証する。1
        902(明治35)年に確認されて山頂の2間四方が宮内省の御用地となった。
         来目皇子は聖徳太子の実弟で、飛鳥期の602年に新羅征討将軍として筑紫に赴いたが、
        病を得て筑紫の地で亡くなる。その後、この地で「殯(もがり)」が行われ、河内の埴生山に
        埋葬されたとか。

        
         南東に三田尻の工場群、江泊山と向島の間に三田尻湾。

        
         南西方向に広大な土地を占有する自衛隊基地。

        
         山頂でウオーキング中の方にお聞きすると、引き返さずに北に向かって下り、憩いの広
        場があって、東にピンク色の水道局配水用タンクへの階段を下れば周回できると教えてい
        ただく。配水地に下る入口から防府天満宮や大平山方向が見渡せる。

        
         1998(平成10)年3月に設置された桑山排水タンク2基(容量1万トン) 

        
         江戸時代中期の行脚僧・木喰上人の作とされる立木観音が、配水地から大楽寺へ向かう
        途中の左手にある。1799(寛政11)年1月に来訪して4月三田尻を去る間に彫像したが、
        この場所には明治まで大林寺という寺があったと伝える。

        
         銀杏の洞の中に観音像が祀られているが、木の生長とともに洞口が狭くなり、現在は、
        洞口の奥にかすかに見える程度となっている。

        
         三宝荒神社の創建年代などは不詳であるが、五穀豊穣、火難除けと家業繁栄を願って岡
        村町域の人たちによって祀られてきたという。鳥居には「天明8戌申(1788)」「天保3壬
        辰(1832)」と刻まれている。

        
         自然石を利用した「和歌浦吉五郎墓、天保15甲辰」が建っているが、どんな人物かは
        わからなかった。同年代頃に和歌浦弥吉という相撲取りがいたようだが、これと何か関係
        する人物なのだろうか。

        
        
         野村望東尼の終焉の室は荒瀬家より林川家に移り、借家として岡村町に移築されたが現
        在は個人所有である。 

        
         台湾総督などを勤めた上山満之進(1869-1938)が、晩年家産(かさん)を投じて図書館建設
        を企画する。1935(昭和10)年12月当時の防府町に資金と蔵書を寄付するが、図書館
        の完成をみないまま病没する。その意志を子と甥が引き継ぎ、1941(昭和16)年4月防
        府市立三哲文庫として開館される。三哲とは、吉田松陰、品川弥二郎、乃木希典のことで
        ある。 
         その後、図書館は移転したため跡地は公園となって「上山翁記念碑」が建立されている。

         公園の先にJR防府駅がある。


山口市の香山公園から高嶺城址

2023年02月11日 | 山口県山口市

        
               この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
        
 香山(こうざん)公園から鴻ノ峰に至る地域は、山口町の周辺部にあって山の麓には伽藍が
        建立され、大神宮などの社殿も営まれ、その背後の山頂には山城も築かれていた。
         こに域は見どころも多く、山城を巡るという欲張りな散歩となる。
(歩行約8㎞、🚻鴻
        ノ峰以外ポイントにあり)

        
         JR山口駅から山口市コミュニティバス香山公園行き約15分、終点の香山公園五重塔
        バス停で下車する。(運賃は一律200円) 

        
         香山公園に入ると目に飛び込むのは五重の塔で、山口市で最も優雅な大内時代の建造物
        である。周辺の松には雪の重みで松の枝が折れないように雪吊りが見られる。

         
         五重塔は瑠璃光寺境内にあるが、この地にあった香積寺の遺構である。大内弘世の嫡男
        ・義弘は、室町期の1399(応永6)年に堺で挙兵して足利義満と戦うが敗死する。跡を継
        いだ盛見(もりはる)は、この地に兄が建立した香積寺(臨済宗)に葬り、菩提を弔うために塔
        を建立する。
         江戸期の1604(慶長9)年寺は解体されて毛利輝元の隠居宅である萩の四本松邸(のち
        に菩提寺の天樹院)とされ、同時に五重塔も同じ運命をたどるはずだったが、地元の人の嘆
        願で塔は残ることが認められた。

        
         塔の総高は20.6m、相輪の高さは10.2mで建立時期については、室町期の140
        4年とされてきたが、大正期の解体修理時に「嘉吉2年(1442)年2月6日‥」の墨書が見
        つかる。嘉吉2年といえば建立者の大内盛見が没して11年が経過しているが、着工から
        相当の歳月を要したことになる。
         塔は上の層になるにつれて層の幅が細くなり、それがすらりとした美しい姿を形作って
        いる。軒は緩やかに反り、屋根は伸びやかな美しさを表現できる桧皮葺である。

        
         室町期の1468(応仁2)年陶弘房は大内政弘に従い上京し、応仁の乱の激戦地で討ち死
        する。
その妻が夫の菩提を弔うために、実家のある仁保高野の地に安養寺を建立したが、
        1492(明応元)年に瑠璃光寺と改称した。
         毛利輝元が香積寺を廃すると、1690(元禄3)年に瑠璃光寺が移転する。

        
         回廊から見る本堂。

        
         大内氏が隆盛を誇る頃に讃岐国金毘羅神社本宮より勧請され、明国との交易に際し航海
        の安全を願って鎮守の神として祀られた。
         この社がこの地にあったか否かはわからないが、鳥居には「日露戦役記念」とある。

        
         瑠璃光寺前には馬上に勇姿を見せる大内弘世の銅像があるが、南北朝期の1360(延文
           5)
年頃、山口に「ミニ京都」を実現させようと計画を立案、実現させた人物である。

        
         沈流亭は道場門前と西門前をつなぐ安部橋付近にあって、豪商で脇本陣を務めた安部家
        の離れであった。建物は二転三転してここに移築されたが、階下は物置だが階上は座敷と
        なっている。

        
         幕末期の1867(慶応3)年薩摩藩の小松帯刀、西郷隆盛、大久保利通らが山口を訪れ、
        木戸孝允、広沢真臣、伊藤博文らとこの2階で薩長倒幕軍結成を協議する。坂本龍馬もこ
        こで木戸孝允らと密儀をしている。

        
         露山堂は藩庁を山口に移した際、藩主毛利敬親が一露山の麓に設けた茶室である。藩主
        が茶事にことよせ、家来らと倒幕の密議をこらした建物である。
         廃藩後、国学者の近藤芳樹が譲り受けて中河原に移築したが、さらに持ち主が改まり腐
        敗したため、品川弥二郎が出資を募って、1891(明治24)年現在地に移築した。

        
         この手水鉢は京都の小堀家から岩国の吉川家に贈られ、その後、毛利敬親に献上された
        ものである。側面から見ると着物の振袖のような形をしているので「誰(た)が袖の手水鉢」
        という名がついたといわれる。現在あるものは移築の際に作られたとのこと。

        
         毛利敬親(1819-1871)の偉勲を称えた勅撰銅碑で、1896(明治29)年明治天皇の勅命に
        よって建立された。

        
         香山墓所には毛利敬親(たかちか)、元徳、元昭(もとあきら)および各夫人が眠る墳墓と寄進
        された灯籠が並んでいる。参道は「うぐいす張りの石畳」と呼ばれ、手を叩くか強く足踏
        みをすると音が返ってくる。人為的に造られたものではないようで、前方の石垣や石段に
        反響するといわれる。

        
        
         室町期の1404年大内盛見は父弘世、母三条氏および兄義弘の菩提を弔うため、この
        地に国清寺を建立した。
         毛利氏が防長二国に移封された後、安芸高田の吉田より毛利隆元の菩提寺である常栄寺
        が移された。さらに、幕末期の1863(文久3)年常栄寺は宮野の妙喜寺の地に移され、毛
        利元就の菩提寺である洞春寺が移されて今日に至っている。

        
         鐘楼門は下層が通り抜け門、上層は鐘楼という造りをしている。製作者・製作年代は不
        明だが、蟇股の手法などから江戸中期の建築とされる。

        
         洞春寺観音堂は、室町期の1430(永亨2)年大内持盛が創建した観音寺(山口市滝町)の
        本堂であった。寺は幕末期頃には衰退して荒廃がひどくなったので、1915(大正4)年洞
        春寺に移築された。
         花頭窓、桟唐戸、四半敷の床に唐様(禅宗様)建築の特色がよく表れている。(国重要文化
        財)

        
         国清寺を創建した大内盛見は、室町期の1431(永亨3)年筑前深江で戦死し、家臣の杉
        孫右衛門が首級を持ち帰り、この寺を菩提寺として葬った。この墓は無縫塔(むほうとう)
        いう形式の墓で、室町期の特色が残る墓である。右側は国清寺慶頴の墓。(福岡県粕屋町の
        泉蔵寺にも盛見の墓あり)
         盛見の死後、甥(大内義弘の子)の大内持世・持盛兄弟が跡継ぎ争いを起こし、持世が家
        督を継ぐ。

        
         国清寺経蔵の礎石であるが、大内盛見が朝鮮から招来した大蔵経の一部が経蔵に保管さ
        れていたが、安土桃山期の1602(慶長7)年毛利輝元が現大津市の三井寺(旧円城寺)に寄
        進する。

        
         井上馨は維新後、中央政府に出仕して外務大臣、内務大臣を歴任するが、1915(大正
           4)
年に没して東京麻布の長谷寺に埋葬されたが、ここには分ち墓が建立された。
         他に境内墓地には大村益次郎とともに藩の兵制を改革し、維新後は中央に出仕せず、藩
        史の編さんに専念した兼重慎一の墓もある。 

        
         旧山口県議会棟は、1916(大正5)年旧県庁舎と並置して建てられたもので、構造は県
        庁舎と同じ煉瓦造で横目地を入れたモルタル塗りである。外観は正面中央部の屋根を寄棟
        造りとし、その上に塔屋を載せている。
         大正期における煉瓦造の公共建築物としては数少ない建物で、県庁舎と議事堂が一体と
        なって保存されている点でも貴重な遺産とされる。(国重要文化財)

        
         旧山口県庁舎は西洋建築と和建築を融合させた大正時代を代表する洋風建築とされる。
        県議会棟と同様に煉瓦造2階建てで表面をモルタル塗りとし、横目地を入れることで石造
        風にみせている。正面から見る外観は、一段高くなった中央屋根の両翼に左右対称とした
        低層の屋根を配し、各隅を宝形造りとし、要所にはドーマー窓を設けるなど優美性を保っ
        ている。(国重要文化財)

        
         1863(文久3)年萩藩は幕末の有事に備え藩庁を萩から山口へ移し、山口政事堂の建設
        に着手する。この門は政事堂の表門として築造されたもので、門の構造は切妻造・本瓦葺
        の薬医門であり、大きく豪快な造りで城門らしい風格を残している。
         1871(明治4)年廃藩置県までは藩庁門、その後は山口県庁正門として使用され、19
        16(大正5)年に完成した県庁舎(現県政資料館)の西門として利用されてきた。

        
                 
         山口御屋形(山口城)の防備構築を中心となって推進したのが周布政之助や兼重慎一で、
        その後、大村益次郎らの意見を入れて洋式の稜堡式城郭として完成するが、直後の第一次
        幕長戦争で破却された。
         のちに再建されて第二次幕長戦争をはさんで明治の初めに及んでいる。現在は旧時の遺
        物として門と濠だけが残されている。

        
         藩庁門から大神宮に通じる道で、この付近にあった毛利元徳の居館は、山口大神宮の家
        であったものが整備されたもので、五十鈴川の袂にあったことから五十鈴御殿と呼ばれた。
        維新維新後はどのようになったかは知り得なかった。

        
         さすらいの将軍といわれた足利義稙(よしたね)を再度将軍職に返り咲かせた大内義興は、
        室町期の1518(永正15)年、10年ぶりに帰山する。故地である山口に伊勢大神宮を勧
        請したいとの思いで宮地を高嶺の麓にある正法院が適地と決める。
         2年の歳月を費やして外宮・内宮を完成させ、1520(永正17)年に伊勢から神霊を迎
        え、さらには後柏原天皇から「高嶺大神宮」の勅額が下される。伊勢大神宮の勧請はこれ
        まで例がないため、大内氏の勢力の強大さを物語るものである。

        
         神楽殿の向い側にある多賀神社は、山口の「お多賀さま」と親しみ呼ばれる神社で、大
        内氏の頃に栄えた大社であった。以前は県庁の東下方にあったが、1948(昭和23)年に
        大神宮境内へ遷座したという。

        
         江戸時代には伊勢神宮の分院はここだけであったので、九州、西国から参詣者で賑わっ
        た。幕末の戦時体制のもと、藩庁が山口への自由な通行を禁止したので、下郷村(現山口市
        小郡)に外宮の遥拝所、台道村(現防府市台道)に内宮の遥拝所が設けられた。(現在は外宮の
        遥拝所のみ現存)

        
         時間に余裕があったので高嶺城址も散策しようと思って取り付くと、山城であっただけ
        にしごかれる羽目になる。外宮傍の籾置石の横から登山道を抜けると注連縄のある巨岩前
        に出る


        
         階段が続く道の途中、笠木や貫が欠落した鳥居には天明五乙己(1785)九月吉祥と刻まれ
        ている。

        
         展望を期待したが見渡せる場所は1ヶ所のみだった。

        
         傾き加減の鳥居を潜ると国龍稲荷大明神が祀られている。

        
         その先の右手には大岩をくりぬいた石堂が数ヶ所あり、周囲には多くの石柱が並ぶ。 

        
        
         高嶺城は厳島合戦後に大内義長、内藤隆世などが毛利氏の侵攻に対し、室町期の155
        6(弘治2)年急きょ築城したもので城郭としては完全なものではなかった。翌年、義長は形
        勢が不利となり長門国に逃れたが、長府の長福寺(現在の功山寺)で自刃する。
         毛利氏は城を改修し市川経好を城番として置いていたが、1569(永禄12)年の大内輝
        弘が山口に攻め込んできたが落城しなかったという。のち徳川幕府の一国一城令により破
        却される。

        
         テレビ塔先から主郭までの約500mに郭跡が連続する。途中の郭跡には休憩舎も用意
        されているが、さらに上って行くと広い郭跡に出る。

        
         広い郭跡から高低差のない道を進むと主郭(本丸)跡が見えてくる。

        
         主郭周辺に残る石垣。

        
         主郭には地表に平たい石が残されているが建物の礎石だそうで、建物は2棟あって主郭
        いっぱいに建てられていたという。

        
         主郭から東向きに眺望。 

        
        
         主郭の下に見られる井戸と石垣。

        
         主郭から引き返すと匠の森に下るルートがあるが、急勾配と雨上がりであったので残念
        して車道を下る。 

        
         車道の途中に山口盆地を一望できる展望地がある。

        
         糸米林道を下って行くと春を感じる梅林に出会う。

        
         木戸孝允は、1833(天保4)年現在の萩市に生まれ、慶応年間(1865-1868)頃この地(現
        山口市糸米)に本邸を建てて本拠とする。
         維新後に木戸と改名して東京に住み、新政府の中枢として活動したが、死去にあたり旧
        宅、山林総てを地域の住民に与え、子弟の教育に充てるよう遺言する。没年は1877(明
          治10)
年。

        
         土地の人々は、その恩に感謝して木戸神社を建てると共に、境内に「木戸公記念碑」を
        建立して後世に遺徳を伝えることにした。邸宅は現在T家の所有になっているとか。

        
         普門寺(臨済宗)は鴻野ノ峰の麓にあり、古くは大内正恒が創建した寺があったが、南北
        朝期の1336年大内弘直が再建し菩提寺とした。のち大内義隆の勅願寺となり重建され
        たが、陶氏の兵乱の時に焼失して天正年間(1573-1592)に再興された。

        
         幕末期の1863年4月萩藩が山口に移り諸般が改革されたが、この時に大村益次郎は
        藩命により江戸から帰り、山口明倫館の改組に当たる。大村はここ普門寺の観音堂を宿舎
        としたが、諸生の希望によりここで兵学を教授した。

        
         寺から県庁前バス停まで歩いてJR山口駅に戻る。


防府市三田尻の英雲荘と御舟倉 

2023年02月09日 | 山口県防府市

          
               この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         三田尻は佐波川河口の左岸、防府平野の中心に当たる桑山付近及び南部の平地と海岸砂
        丘上に立地する。

         地名の由来は古代の娑婆県(さばのあがた)に大和朝廷の御田(みた)があり、その尻にあたる
        ことから御田尻になり、現在の三田尻になったという。(歩行約4.5㎞)

        
         JR防府駅南口から防長バス小田港行き(12:10)約8分、三田尻病院前バス停で下車する
        と、バスの進行方向に英雲荘の門が見える。

        
         1917(大正6)年に玄関は東向きとされたが、明治期までは萩往還に面する形で南向き
        だったとのこと。建物は江戸時代に建てられた「大観楼棟」、明治時代に建てられた「奥
        座敷棟」、大正時代に建てられた「玄関棟」と「台所棟」に区分される。

        
         玄関棟には客室が付設されており、来客の宿泊にも考慮された造りとなっている。

        
         御書院南側廊下の板襖には、江戸中期の篆刻家・三井親和(みついしんな)の書がある。
        「松閒白月 照仙書」、奥側に「鸚鵡杯中 酔留客」とある。

        
         大観楼棟1階の書院の間は、藩主が来客や家臣と対面する重要な部屋であった。 

        
         右から玄関棟、2階建てが大観楼棟、奥座敷棟の建物構造である。1725(享保10)
        海路での参府途中、遭難事件が発生するなど天候に左右される通行に難儀をしていたよう
        で、宝暦年中(1751-1764)頃より参府は陸路に転換される。
         使用されなくなった御茶屋は、1783(天明3)年に7代藩主・毛利重就(しげたか)の隠居
        所(三田尻御殿)となる。

        
         1789(寛政元)年に重就が死去すると御殿は廃止されて、
1776(安永5)年三田尻御茶
        屋に建てられた花月楼は変遷を経て、現在は松陰神社内に移築されている。
         この地にある花月楼は、1786(天明6)年国分寺に建てられたものが、明治期に移築さ
        れたものである。

        
         花月楼は江戸時代中期に考案された花月楼形式で、八畳の間と上段の間が設けられて茶
        会を催すことができるよう設計されている。奥にも3畳の茶室がある。

        
        
         国分寺五重塔の礎石が敷石の一部に利用されている。

        
         1871(明治4)年の廃藩置県後、明治政府は旧藩主に東京居住を命じた。西南の役が終
        わり、世の中が平静を取り戻すと、ほどなく旧藩主は国元居住が許可された。
         1898(明治31)年毛利家も旧領国に居を構えることとなったが、三田尻御茶屋を居宅
        にするには規模が小さいため、防府市多々良に邸宅が完成するまでの仮住まいになる。奥
        座敷棟は敷地西側に単立していた棟を移築して接続された。

        
         1863(文久3)年に京都の変で長州に逃れた三条実美ら七卿が2ヶ月間滞在した場所で
        ある。大観楼は2階から海が見える眺望だったことから付けられたという。

        
         2階から庭園。

                
                  東門入口に天明年間(1781-1789)の配置図。 

        
         老松神社は飛鳥期の652年創建と伝えられ、当初は須佐神社と称して娑婆(さば)氏が祀
        っていたとされる。平安期の872年に松の老樹が繁茂することから老松神社となったと
        いう。

        
         本殿の西南にあるクスノキの老巨樹は、昔から御神木として崇められ、根廻り16m、
        樹齢2千有余年と伝える。県内では川棚の大クスに次ぐ巨樹であるとのこと。

        
        
         1863(文久3)年6月に結成された奇兵隊が、9月5日秋穂海岸を警備するため移動し
        たが、25日には三田尻の御茶屋に滞在中の三条実美ら七卿警護のため三田尻へ移る。そ
        の際に本陣としたのが正福寺(曹洞宗)である。 

        
         萩往還道が交わる四差路を右折すると松原児童公園がある。1874(明治7)年この地に
        県立華浦(はなうら)医学校と病院が開設される。
         しかし、運営資金の不足や学校に関する法律改正などにより、1877(明治10)年に病
        院、1883(明治16)年に学校が廃止された。現在も県立病院が防府の地にあるのは、こ
        こに県立病院があったことが大きな要因とも考えられる。

        
         梅田幽斎は、1809(文化6)年江戸で生まれ、34歳の時に場所は特定できないが三田
        尻の新道で医業と塾を開き、大村益次郎も若い頃に医学などを学んだ。
         また、当時多くの人々が死亡し、恐れられていた伝染病の天然痘を予防できる種痘の方
        法を長崎で学び、藩内でいち早く行う。

        
         萩往還道を南下して行くと四差路の角に道標があり、道標の西面に「左:宮市天満宮・
        志ものせき道」南面には「右:かみかた・左:中のせき道」とある。

        
         幕末頃(1860年)の三田尻町、御舟倉などの配置図。

        
         道標を左折して往還道を東進すると野村望東尼終焉の地がある。1867(慶応3)年9月
        25日望東尼は山口を発って薩長連合の東征を見送るため三田尻へ向かう。
         この日から宮市天満宮で7日間の戦勝祈願をするが、体調を壊して歌友であった荒瀬家
        に足を留めていたが、この地で62歳の生涯を閉じる。

        
        
         この筋(萩往還道)が三田尻の中心地で旧五十君家周辺に古民家が存在するが、ほとんど
        が更新されて往還道だった面影は残されていない。

        
         五十君家(いぎみけ)は備後国神辺(かんなべ)の五十村を本拠とする小領主であった。毛利氏
        の防長移封に際して、作間新五左衛門(初代三田尻都合人)を頼って三田尻に移住する。
         五十村の村君に因んで五十君氏と称したと思われ、酒造業を営み三田尻の町を整備する
        など、その功績により三田尻本陣に任じられる。

        
         光妙寺(浄土真宗)は、室町期の1474(天明6)年大和国高市郡山田村に草創された。
        のちに広島県吉田に移転したが、毛利氏の防長移封の際に引寺してもらってこの地に一宇
        を建立したという。
         境内に光妙寺三郎(1847-1893)の墓があるが、住職の3男として生まれ、1865(慶応元)
        年長州藩諸隊の鴻城隊に入隊し、井上馨の書記役を務めた。維新後はフランスなどに留学
        し、帝国議会議員などを歴任し、弁護士活動に専念するも肺結核で死去する。墓は品川の
        光福寺にもある。

        
         蘭方医として活躍した梅田幽斎は、1868(明治元)年に阿東町での鉱山事業に失敗、1
        870(明治3)年7月8日、失意のうちに教え子の医師・山根秀策宅(宮市)で亡くなる。享
        年62歳。

        
         防府における近代工業は柏木幸助の事業で始まる。1875(明治8)年、この地でマッチ
        工場を設立して製造を開始したが工場が全焼する。1883(明治16)年から体温計の製造
        を行った柏木幸助の生家と工場跡であったが、現在は宅地化されて柏木体温計があった証
        が消え去る。(2018年撮影)

        
         一馬本店は造り酒屋を生業としていたが、1899(明治32)年毛利家の備荒貯蓄米倉庫
        を購入して味噌・醤油の醸造場とする。一馬という社名の由来は、元日に馬が店に飛び込
        んできたので付けたという。

        
         間口10mほどもある倉庫は現役のようで、背後に聳える煙突は、イギリス積みと呼ば
        れる角形の煉瓦煙突である。 

        
         防府では「美しい自然」のゴロが入ったマンホールを見かけるが、三田尻港に通じる旧
        道には市松模様に市章が入ったマンホール蓋が並ぶ。

        
        
         1863(文久3)年住吉神社の境内地に築造された石造灯台は、高さ727㎝で宝珠・笠
        ・火袋・中台・石積みの竿・基壇からなる灯籠型である。竿の部分には建立に携わった世
        話人や石工、拠出者などの銘がある。

        
         住吉神社は、1715(正徳5)年水軍の船頭が願い出て海上安全のために創建される。

        
         住吉神社と対峙するように建立されているのが人麿神社。江戸期に「火止まる」で防火
        神、あるいは「人生まれる」で安産神として広まったという。

        
         三田尻御舟倉は萩から三田尻への最短距離であったため、1611(慶応16)年頃に下松
        から三田尻に移された。
         参勤交代は三田尻港より乗船し大坂港に着港、それから別の御座船に移乗して淀川をさ
        かのぼり、伏見から陸路によって東上した。藩主一行の用具、雑貨などは別の御用船で海
        路江戸まで輸送した。参勤交代が陸路に変更されるとお役御免になるが、朝鮮通信使など
        の送迎の任などに当たった。

        
         警固町(表町・裏町)に通じた石畳道(坂道)の一部が残されている。

        
         鋳物師大師塚は古墳時代後期に造られたとされるが、いつしか周囲が削り取られ、元々
        どのような形をしていたのかはわからないという。

        
         横穴式石室と呼ばれるもので内部は3つに区切られており、大きな石が用いられている
        など石室構造の壮大さは県内の代表格といわれている。

        
         天御中主神社の創建は飛鳥期の625年とされ、古くは妙見社といった。廃仏毀釈の影
        響で妙見信仰は仏教的であるとのことから現社号に変更された。
         廃仏毀釈がなければこのような社号にならずに済んだと思われるが、地元では今でも妙
        見様として親しまれている。 

        
         神社横にある車塚古墳は、6世紀中頃(古墳時代後期)に造られた前方後円墳で、後円部
        の石室は稲荷社が祀られているとか。

        
         上から見ると円形と台形が合体した鍵の形をし、昔の車の形にも似ているので「車塚」
        と呼ばれる。

        
         旧萩往還道と山陽本線が交差する左手には、江戸期を通じてこの地に芦樵寺があって、
        幕末期に久坂玄端をはじめとする勤王の志士たちを援助した岡本三右衛門の墓がある。勤
        王のために財を失い一介の百姓となったというが、のちに正五位の官位が授けられた。今
        の時代では考えられないが、陰で支えてくれた人たちがいたことで新しい時代が迎えられ
        たのである。

        
         1898(明治31)年に山陽鉄道の三田尻駅として開業するが、1962(昭和37)年に駅
        名を防府駅と改める。
         鉄道唱歌第2集25番に「出船入船たえまなき 商売繁盛の三田尻は 山陽鉄道の終わ
        りにて 馬関にのばす汽車の道」とあるが、1901(明治34)年に山陽鉄道会社が設立認
        可されて、下関まで開通したのは設立から13年目のことであった。


防府市の宮市に防府天満宮と旧山陽道の宿場町

2023年02月08日 | 山口県防府市

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         宮市は佐波川流域の左岸に位置し、天神山南麓にある防府天満宮(松崎天神)前を東西に
        山陽道、南へ真直ぐにのびる道は御茶屋(英雲荘)へ向かう萩往還道である。この付近が町
        の中心で、山陽鉄道(山陽本線)は佐波村と三田尻村の村境に敷設された。
         地名の由来は、九州の大名が休泊する宿駅で、近在の商いの場として昔から市が立ち、
        宮前の市から宮市となったと思われる。(歩行約4.7㎞、🚻町の駅)        

        
         JR防府駅北口から防長バス阿弥陀寺行き約10分、国分寺バス停で下車する。

        
         バス停から路地を抜けると国分寺前の旧山陽道に出る。

                
         国分寺正面で車を避けて溝側に立つと、溝の中に「明和六己丑(1769)‥」と刻まれた石
        柱が石垣に埋め込まれている。

        
         酒・肉と葫(にんにく)・韮(にら)・薤(らっきょう)・葱(ねぎ)・薑(しょうが)の五辛(ごしん)
        飲食した者は、寺に入ってはいけない旨の「不許酒肉五辛入門内」の碑が南大門跡前に建
        つ。五辛の扱いは時代や地域によって異なるようである。
         築地塀に5本の定規筋が施されているが、皇室に由来する格式を表すようで、御所、勅
        願寺院などに用いられて5本が最高とされている。

        
         南大門跡を進むと仁王像のある楼門(仁王門)を潜るが、往昔の門は室町期の1417(応
                   永24)
年に焼失したが、1503(文亀3)年大内義興が再建する。現在のものは1596(文
                   禄5)
年毛利輝元が建立し、のちに毛利重就(しげたか)が修築を行ったとのこと。

         
         金堂(こんどう)の東南方に位置して、創建当時は七重塔があったが落雷により焼失する。
        鎌倉期に五重塔で再建されたが、室町期の1417(応永24)年伽藍全焼の際に類焼したと
        される。

        
         荘重な二層入母屋造の金堂は見応えがある。周防国分寺は、奈良期の741(天平13)
        聖武天皇の勅願により、国ごとに建てられた官寺のひとつである。創建当初の境内に今も
        伽藍を残すのはきわめて珍しいとのこと。

        
         金堂は昔ながらの土檀礎石の上に、1788(天明8)年頃に毛利重就を施主として重層入
        母屋桁行7間、梁間4間を再建したのが現在の建物である。

        
         金堂を正面にして右へ廻ると「衛門三郎」と記された長文の由緒書きがある。衛門三郎
        は強欲な長者で、弘法大師がお布施を頼んだ時、大師の鉄鉢を叩き落した。翌日から8人
        の子供が亡くなり、乱暴した僧侶が弘法大師と知り、大師を追いかけて四国各地を廻る。
        この伝説が遍路の始まりと記述されている。

        
         その傍に禁門の変(1864.7.19)において戦死した国分寺隊4名の招魂碑がある。境内には
        鳥居もあって大権現が祀られている。

        
         大権現の左手にある「水鑑の井戸」は、菅原道真が太宰府に下向する際、周防国分寺に
        参詣して受戒を受けたお礼に、この井戸で姿を写し、自画像を奉納されたという伝説の井
        戸である。

        
         1707(宝永4)年毛利吉広によって建立された持仏堂(客殿)。 

        
         旧山陽道を西下すると「防府天満宮大宮司・武光家屋敷跡」の碑がある。武光家伝によ
        ると防府天満宮を創建した周防国司の土師信貞の次男・土師武光が元祖で、以来、「武光」
        姓に改め第35世まで天満宮大宮司家を務めた。入口の門は国庁寺が解体される際に裏門
        を移設したものとされる。

        
         萬行寺前は鉤の手となっているが、防衛手段として、敵が一気に攻め込みづらくするた
        め、また、敵を追い詰め易くするために宿の入口を直角に曲げたものである。

        
         一等水準点が設置されているが、全国の主要な国道または主要地方道に沿った約2㎞ご
        とに設置されているようだが、ここに設置された当時は主要道であったということだろう。
         この水準点を使用することにより、地盤沈下の調査や道路、下水道などに活用され,土
        地の高さを㎜単位で求めることができるとのこと。この水準点の標高は14.2782mと
        表示されている。 

        
         岡本家は繰綿(くりわた)や木綿を扱う商家で、久坂玄端をはじめとする志士たちを援助し、
        中谷正亮、大楽源太郎らも出入りした。1862(文久2)年2月3日中谷が久坂に寄せた手
        紙には、坂本龍馬がここに滞在していることが記されているという。
         岡本三右衛門頌徳碑が芦樵寺山門前にあるが、旧宅跡は高野歯科医院向かい側付近、墓
        は防府市車塚の山陽本線沿いの墓地内にあるが、勤王のために財を失い一介の百姓になっ
        たともいわれている。

        
         臨済宗東福寺の芦樵寺(ろしょうじ)は、室町期の1350(観応元)年大内弘世が大内家菩提
        寺として、現在の防府市戎町に建立する。江戸期に萩往還道が設けられると、1665(寛
          文5)
年代官より移転を仰せつかり、往還筋の三田尻車塚に移転させられて宿坊としての役
        割を任せられる。
         1868(明治元)年当地にあった正定寺が宮市の西念寺へ合併したため、その跡地に移転
        して今日に至る。

        
         ノンカラーだとデザインがよくわからなかったが、「美しい自然」をテーマに右田ヶ岳、
        佐波川を泳ぐ鮎、エヒメアヤメが描かれたマンホール蓋。

                 
        
         参道の両側には明治初期まで東西に9つの社坊があり、これらを総じて酒垂山満福寺と
        称した。1868(明治元)年3月28日に太政官から神仏分離令が布達され、社坊の敷地や
        建物が、いつ、だれに、どんな値段で売り払われたのか処分されたのか定かではないとの
        こと。大鳥居は、1629(寛永6)年萩藩初代藩主・毛利秀就の寄進とされる。

        
         暁天楼(ぎょうてんろう)は宮市の前小路で旅館を営んでいた「藤村屋」の離れで、一階は
        漬物置き場、二階は隠れ座敷になっていた。幕末には志士達の密議の宿となり、坂本龍馬、
        中岡慎太郎、高杉晋作、桂小五郎らがここを訪れている。1915(大正4)年建物は酒垂山
        (天神山)西麓の境内地に移築されたが、老朽化のため解体された。現在は円楽坊跡に復元
        されている。

                
         境内にはほぼ等間隔に並んでクスノキの巨木が3本あり、その中心をなすのがこのクス
        ノキで御神木とされる。(暁天楼の裏側) 

        
         円楽坊が売却された後の経緯はわからないが、現在は菅原道真が茶道に精通していたと
        のことから、1991(平成3)年茶室(芳松庵)が建てられた。

        
         大専坊は満福寺の別当で、神社創建とともに設けられたと伝わる。1895(明治28)
        10月民間に売り払われていた大専坊を天満宮が買い戻し社務所とした。現在は大専坊跡
        として敷地内を見学することができるが、建物内部は見ることができない。

        
         現存する建物の建築年はわからないそうだが、1557(弘治3)年毛利元就が大内義長や
        陶晴賢の残党を攻め、防長両国を制圧するまでの1ヶ月間、ここ大専坊を本陣とした。幕
        末には遊撃隊の屯所にもなった。

        
         防府天満宮は菅原道真が筑紫の地で没した翌年の904(延喜4)年に土師信貞が創建する。
        約300年後の1195(建久6)年国司であった重源上人によって平安風の社殿に改修され
        たが、幾たびの火災に遭遇し、1962(昭和37)年現在の建物が再建された。
         楼門を挟んで神牛(しんぎゅう)と神馬(しんめ)が置かれているが、神牛は菅原道真が丑年丑
        の日に生まれ、丑の日に亡くなった伝承から牛が大事にされ、神馬は神様の乗り物とか。

        
         ご神幸祭は平安期の1004(寛弘元)年、一条天皇が北野天満宮への社参、その際に当地
        にも勅使が遣わされた際に行われた「勅使降祭」を起源とする。菅原道真が勝間の浦で「
        ここに住まいし無実の知らせを待っていたい」とのことから、御霊を勝間の地までお連れ
        し、「無実でした。知らせが届きました」と報告する祭りである。

        
         本殿の東側に周防国24番札所の宮市天神本地観音堂があるが、重源上人が創建したと
        伝える。明治の神仏分離により萬福寺管理が解かれ、霊台寺に属することになり天満宮よ
        り分離された。1920(大正9)年に霊台寺が満願寺となり、現在はその管理となっている。

        
         国分寺と同じ五本筋築地塀が見られる。

        
         春風楼(しゅんぷうろう)は、1822(文政5)年藩主毛利斎熙(なりひろ)が五重塔を発願した
        が、幕末の政情変転が妨げになり未建となり、1873(明治6)年に楼閣様式重層の御籠堂
        (通夜堂)となる。
         棟梁であった喜右衛門は残念に思い、高さ2mの模型を造り尊敬する山口常栄寺の秋田
        諦州和尚に贈った。完成しておれば四面高さ14丈6尺(45m)の塔が聳え立っていたで
        あろうが、和尚はその後、名田島の霊光寺の院主になったので、現在は地蔵院境内に模型
        が残っている。

        
                 春風楼からは防府の町並みが一望できる。

        
        
         絵馬などが奉納されている。

        
         五重塔の代わりに
春風楼となったが、床下の土台は欅の木組みがそのまま使われている。

        
         大専坊に宿泊した野村望東尼が、「鈴虫の声が大変美しい」と語ったことで鈴虫坂と呼
        ばれるようになったという。坂の途中にある標柱には“梅香坂”という文字と歌が刻まれ
        ている。

        
         満願密寺(真言宗御室派)は、神亀年間(724-729)安芸国吉田(現安芸高田市)に天台宗阿弥
        陀院として創建される。のち毛利元就の時代に真言宗に改宗して毛利家の祈願所となるが、
        毛利氏が防長二州に減封されて萩に城を構えると、萩城二の丸に移建する。明治維新後は
        城とともに寺は解体され、しばらくは萩の弘法寺に移住していたが、1912(大正元)年に
        末寺であった防府の霊台寺を併せこの地に移転してきた。

        
         2000(平成12)年満願寺の鎮守として防府稲荷が再建された。

        
         満願寺を下った所の三角地に迫戸(せばと)祇園社がある。江戸後期頃この地域で疫病が流
        行した時、疫病退散を願って山口の祇園社(現八坂神社)から勧請したと伝えられるが、建
        立年代は不詳であるという。

               
                兄部(こうべ)家は鎌倉期から続く商家で、都濃、佐波、吉敷郡内の合物(塩魚、干物)を手
        広く扱う。1642(寛永19)年に宮市本陣と定められ、西国の大名や幕府の上級役人が利
        用し伊能忠敬も宿泊する。2011(平成23)年7月22日未明の火災で建物は焼失したが
        表門付近が残る。

        
        
         在りし日の宮市本陣(2009年6月撮影)

        
         1929(昭和4)年に建築された伊藤家(元洋品店)は、洋館風の外壁に和瓦の寄棟屋根を
        もつ和洋折衷の木造構造である。 

        
         定念寺前は鉤の手となっていたと思われるが、現在はその面影を見ることはできない。
        正面には酒造業を営んでいた中村家(現在の安村商事)が宮市宿の脇本陣を務めていた。

        
         定念寺(浄土宗)には木喰上人が彫ったとされる木喰仏があり、門前には遊行上人がもた
        らしたといわれる宮市観音堂が建っている。この寺は旅の僧の宿泊所であったと云われて
        いる。

        
         宮市宿にはこのような建物はほとんど残されていない。(旧神田酒場) 
         さらに西下すると四差路となるが、当時は右への道はなく脇本陣の市川家があったが、
        道路開発のため取り壊されて遺構等は残されていない。

        
         成海寺(曹洞宗)の参道と山門。

        
         もとは宝成庵と号したが、その後、火災により古文書などすべて焼失したので創建年や
        寺歴はわからないという。現在の本堂は当寺の20世住職が一握の托鉢米によって建立し
        たという。
         伊藤博文は、1899(明治32)年に同庵で演説を行った際、住職の不撓不屈の精神を称
        え「滴水成海」の四文字と、金襴の袈裟に多額のお金を添えて住職に贈った。今、その扁
        額は本堂中央の仏殿に掲げてあり、寺号を成海寺(じょうかいじ)と改める。
         現存する本堂は演説が行われた半年前に竣工されたが、山陽道
を往来する軍隊の宿舎に
        使う目的もあったといわれている。

       
        1909(明治42)年10月26日満州ハルピン駅で射殺された伊藤博文の嘆徳碑が本堂
       前にある。

       
        游児(夕仁)川筋は中世頃までは佐波川の旧河道で、宮市へ上がる津(河港)があったと説
       明されている。

       
        佐波ノ津から南下すると旧街道に合わすが、左側が新町、右が今市である。正面に見え
       るのが、1765(明和2)年創業の呉服屋で、1955(昭和30)年の火災で店舗と洋館を焼
       失する。消失を免れた住宅は、1918(大正7)年に建てられた数寄屋造りの佇まいで、国
       登録有形文化財に指定されているが一般公開はされていない。

       
        呉服屋の先にある小橋から「山頭火の小径」に入り、宮市郵便局先の栄町通りを駅方向
       へ向かうと、1925(大正14)年に宮市商参会として建てられた
木造2階建ての建物があ
       った。
        1936(昭和11)年の市制施行を機会に三田尻実業会と合併して、1960(昭和35)
       まで防府商工会(現商工会議所)が置かれていた。残念ながら最近取り壊されたようで、防
       府における近代化遺産がまた1つ消えてしまう。(解体前の建物で現在は駐車場) 


防府市国衙に国史跡の周防国府跡 

2023年02月05日 | 山口県防府市

        
                        この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         国衙(こくが)は防府平野のやや東側の平坦地に位置する。律令期からこの地に周防国府が
        置かれ、その名を継承して現在も国衙という町名が存在する。(歩行8.5㎞、🚻毛利邸先
        になし)

        
         JR防府駅から防長バス徳山駅行き(11:50)約8分、国衙バス停で下車する。

          
         山口大学教授だった三坂圭治氏が、1933(昭和8)年に「周防国府の研究」によって
        周防国府の復元が試みられる。三坂氏のよって示された国府の概要図であるが、その外周
        部を散歩する。 

        
         バス停から引き返すと周防国衙跡を示す大きな石柱がある。

        
         途中にある東林寺は、周防の国司となった重源上人が、鎌倉期の建久年間(1190-1199)頃
        に東昌院として建立する。他に宝林寺、安楽寺も建立されて東大寺は寺領を給した。
         藩政時代は国庁寺の勤行を務めたが、1869(明治2)年版籍奉還により国衙は解体され、
        安楽寺は廃寺となり、本尊と住職は国分寺へ移され、宝林寺は東昌院へ合併し、1871
          (明治4)年8月東林寺と改称する。

        
         法律によって中央政府が地方を支配する律令時代には、地方の行政区画を「国」と呼び、
        出先官衙(官庁)の建物、あるいはそれに関連した建物がある区域を国衙といい、その役所
        を中心とした都市を国府といった。
         周防国では今の立馬場を中心に一辺8町が「国衙」とされ、周囲に土居が巡らされてい
        たことから、中世以降は「土居8町」と呼ばれた。

        
         国庁八幡宮は大和国手向山八幡宮より勧請され、国庁の守護神と祀られてきた。祭神は
        仲哀天皇、応神天皇、神功皇后を祀る古社であったが、1907(明治40)年佐波神社に合
        祀されて石碑だけが名をとどめる。

        
         国庁跡には、1860(万延元)年候人(こうにん)が建立した国庁の碑が残るのみである。
        鎌倉期の1186(文治2)年東大寺造営料国となり、僧が国府に派遣される。藩政時代の国
        衙は、土地の大部分を萩藩に取り上げられ、国衙の現地管理人である候人は、藩から現米
        が支給される。
         東大寺は土地の返還を求め続けるが、いつしか東大寺の一支院と化し、ついには「国庁
        寺」の名をもって呼ばれるようになる。

        
         国庁碑裏の碑文は読めないが、「国ごとに庁あり。今や寥々(ゆうゆう)として聞ゆる無し
        而して此庁独り在る」と説明されている。碑は国庁寺の候人・上司主税重寛と武島完治重
        勝が、1860(安政7)年に建立したとされる。

        
         平安末期より荘園が広まり、各地に武士が興って国衙の権威は全国的に地におち、源頼
        朝によって守護地頭が置かれ、国衙はあってなきがごとくになる。周防国は東大寺造営料
        国であったことから大内、毛利氏の時代になって領域はだんだんと少なくなっていったが、
        明治に至るまで存続したのである。
         1964(昭和39)年国衙の史的価値が再認識され、文化庁より国衙2町四方が買収され
        て今日の史跡公園となる。

        
         国庁は周囲を築地塀で囲み、東西南北の中央に門を配していたとされる。

        
         国庁碑から西進すると毛利邸への通りの角に、猿田彦大神(天保12年辛丑建立)と防府
        霊場第65番札所がある。

        
         三坂氏が示す西側には「周防国衙跡 大樋土手」される説明板がある。土手は幅約10
        mの南北に続く土手状の高まりで国衙域の西限とされ、中世の大内氏文書にみえる「土居
        八町」の実体を表すものとされる。


        
         大樋土手から西北隅への道は、開発されて途中で行き止まりになるが、左折すると右手
        にまっすぐな道がのびている。

        
         総社町に国衙跡西北隅(図表4)

        
         佐波神社の鳥居前は旧山陽道であり、道の下にまったくの伝説であるが、「神功皇后御
        召船艫繋(ろけい)松」と刻んだ石碑がある。古墳時代の350年代はここが海岸線であった
        たのであろうが、その後、300年ぐらい経った大化の改新頃は、南方のJR山陽本線付
        近が海岸線となる。

        
         佐波神社(旧金切宮)の創建年は定かでないが、仲哀天皇が熊襲・三韓征討の折、当地に
        おいて戦勝祈願をしたと伝承される。
         三韓は当地より戌亥(いぬい)の方角(北西)となり、陰陽五行説では金(ごん)の方角に当た
        るので、金を切るという意味から金切宮になったとか。

        
         国府が置かれて国司が赴任すると、玉祖神社を始め国中の諸社に着任報告をしていたが、
        国府にその国の諸神を祀る総社を建立する制度ができた。周防国では金切宮を「周防総社」    
        としたが建立時期は不詳とのこと。1907(明治40)年勝間(浜の宮)、日吉、国庁八幡宮
        を合祀して佐波神社と改称する。

        
         1871(明治4)年の廃藩置県後、明治政府は旧藩主に東京居住を命じた。西南の役後に
        世の中が平静を取り戻すと、ほどなく旧藩主は国元居住が許可された。藩主だった毛利元
        徳も旧領国に居を構えることになったが、野田御殿もしくは三田尻御茶屋を居にするには
        規模が小さく旧藩主の邸宅にはふさわしくないため、邸宅建設の土地探しが行われた。
         その結果、1892(明治25)年に現在地が選定され、工事が進められたが日清・日露戦
        争があって工事は差し控えられたが、1916(大正5)年7月に完成する。

        
         旧山陽道より毛利邸表門まで松並木が続くと、表門は城門を思わせる豪壮な総欅作りで、
        薬医門型式の左右に脇門がある。中央の大扉は当主と特別な人が通る時以外は開くことは
        なかったという。

        
         軒唐破風付車寄せをもつ本邸玄関は、江戸期の御殿造の様式を取り入れている。

        
         一階大広間に「百万一心」の掛軸がある。毛利元就が広島県吉田の郡山城拡張工事の際、
        本丸石垣の普請が難航したとき、人柱の代えてこの句を彫り込んだ石を本丸裏手に埋めた
        ところ、無事に普請を終えたと伝わる。
         「百」の字を一画省くと「一日」、「万」の字を書き崩すと「一力」とすることで、「
        一日一万一心」と読むことができ、「日を同じうにし、力を同じうにし、心を同じうにす
        る」という意味だそうだ。

        
         一階の中庭に面する廊下。

        
         大広間の奥側に公の居間。

        
         2階の大広間は3部屋からなり、全部で32畳。最奥12畳の間には主床と脇床に畳を
        敷き、格天井張りである。

        
         2階大広間より庭園のひょうたん池、遠くに三田尻湾、江泊の山、向島などが眺望でき
        る。

        
         本邸は江戸期の御殿造りを踏襲した和風建築であり、造庭の技術の粋をつくした庭園は、
        自然を生かしながら石組み、植栽、石橋などが配されて四季折々に楽しむことができる。

        
         芝生広場を歩く珍客。 

        
         毛利邸から旧山陽道を東進すると、立馬場付近に大仏殿を安置した辻福寺があった。1
        892(明治25)年毛利邸の庭園工事が始まった時期に東へ100m移転している。

        
         一角には「縁結び霊神」が祀られ、「われこそは いも(妹)とせ(背)の仲かわりなく 
        結ぶの神の使なりけり」と刻まれている。これも庚申信仰の流れを組むものとされる。

        
        
         高さ約3mの大仏が安置されているが、重源がこの地方を古都・奈良を模して安置した
        と伝えられている。
         丈六の大仏とされるが、お釈迦様は
尊いので常人の倍で一丈六尺(約4.8m)であったと
        の信仰に基づいて、仏像は丈六を基準に造像されたという。多々良大仏は座像であるが立
        てば丈六になるというが、それにしても常人の身長が2.4mとは‥。

        
         大仏殿から先も閑静な住宅地が続く。

        
         多々良2丁目が東北隅(図表3)

        
         東側の境界には通路はなく溝辺川に沿って南下し、さらに旧国道を横断して国府中学校
        脇を南下する。

        
         国府中学校の南側にある岸津神社は、「琳聖太子来朝着岸之地」と案内されている。大
        内氏の祖は百済の琳聖太子で、推古天皇19年(611)周防国多々良に上陸、聖徳太子から多
        々良姓とともに領地として大内県(あがた)を賜ったと伝える。

        
         庚申は中国の道教から起った信仰で、平安時代に伝来して公卿の間では、この夜に天帝
        を祭る行事が行われていたという。一般庶民に信仰されるようになったのは江戸初期頃か
        らで、それ以降次第に盛んになり、その間に仏教と結びついて女戒をいましめる青面(しょ
          うめん)
金剛の信仰となり、申が猿に通じ神道と結びついて天孫降臨の道案内をしたという
        猿田彦神となり、庚申が幸神となり峠を守る賽の神、縁結びの神としても信仰されるよう
        になったという。 

               
         周防国衙跡の1つで、船所(ふなどこ)と浜ノ宮があった地とされ、船所は国府の官船を置
        いた所で、吾妻鏡元暦2年(1185)の条に源平合戦の際、義経に数十艘献じたとある。全国
        で唯一「国府のみなと」として国の史跡に指定されているという。

        
         岸津2丁目が東南隅(図表2) 

        
         国府の港であったということで、校倉造りをイメージした灯籠風灯台がモニュメントと
        して設置されている。

        
         勝間神社(俗称・浜の宮)は海を鎮める神など8神が祀られていたが、1907(明治40)
        年金切宮(
佐波神社)へ合祀される。

        
         平安期の901(延喜10)年九州の太宰府に左遷された菅原道真が下向途次、周防国司を
        訪ねるため勝間の駅家(うまや)に来られ、国司の土師信貞が迎えに行ったと伝えられる。信
        貞は道真を慰めるために酒垂山(天神山)に案内したところ、「筑紫で死んでもこの地に帰
        りたい」といわれて太宰府に赴かれたという。
         平安期の1004(寛弘元)年、一条天皇が北野天満宮への社参、その際に当地にも勅使が
        遣わされたが、菅原道真が勝間の浦で「ここに住まいし無実の知らせを待っていたい」

        のことから、御霊をこの勝間の地までお連れして、「無実でした。知らせが届きました」
        と報告する祭りがご神幸祭である。

        
         旧カネボウの鉄道引き込み線跡は遊歩道になっている。

        
         江川に架かる流田橋の南側に西南隅(警固町2丁目)の碑(図表1)

        
         北西隅から南下して南西隅に至る大樋土手筋である。

        
         長い歩きであったが山陽本線に沿ってJR防府駅に戻る。


山口市阿知須の岩倉駅から岩倉山と丸塚山古墳

2023年02月04日 | 山口県山口市

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         岩倉は阿知須中心部の北側に位置し、西部から東部にかけて山地・丘陵地が連なり、東
        側沿岸部に旧阿知須干拓が広がる。域内を国道190号とJR宇部線が南北に走る。(歩
        行約4.3㎞、🚻なし)

               
         JR新山口駅から宇部市営バス宇部新川駅行き約20分、岩倉バス停で下車する。

        
        
              岩倉は概ね平地で日受けもよく農業を第1とした地域である。農村に見られる主屋、長
        屋、蔵を持つ民家も見られるが、その多くは更新されている。

        
         JR岩倉駅周辺に民家はなくひっそりとした駅前である。

        
                線路を越えると線路部分がちょっと高くなっているので見返ると、「かまぼこ型踏切」
        と表示されている。線路が通常の地盤より高いため、踏切を通行しやすいように盛土した
        結果、その断面が「かまぼこ」に似ていることによるという。

        
         線路の先には民家が少ないので、山上から集落を眺めることにする。

        
         案内に従って進むと「北登山口」の表示がある。

        
         少し登ると裸地から岩倉駅方向が望める。

        
         緩やかな登山道を進むと岩倉山山頂(標高53.5m)に到着する。展望はないが龍岩と呼
        ばれる大岩がある。

        
         山頂から山口湾方向へ下ると展望広場に出る。

        
         眼下にドームのある旧阿知須干拓が広がるが、1946(昭和21)年に緊急干拓事業とし
        て調査が開始され、国営事業として工事を行うことが計画された。
         しかし、農地にするための水源に乏しく、当初から水不足が懸念されていたが工事は続
        行される。1966(昭和41)年4月干拓は一応完成して、国は管理委託を山口県に委ねる。
         その後、社会情勢は減反に次ぐ減反で、構築された約290haの干拓は、農地として日
        の目を見ることなく他に転換を余儀なくされた。

        
         広場から南へ下ると岩倉駅からの道に合わし、山口湾方向へ歩くと古墳の案内がある。
        列車の時間には余裕があるので古墳を見学することにする。

        
         丸塚山1号古墳は岩倉山東麓に所在し、花崗岩で遺骸を安置するための石室を築き、そ
        の上に封土を盛った横穴式石室古墳である。古墳の特質から古墳時代後期のものとされる。

        
         丸塚山遺跡と呼ばれる遺跡は、縄文後期から晩期にかけてどこからか狩人たちがやって
        きて、山の東麓の海岸段丘とその前面の段丘崖下に住んでいたと思われる。

        
         岩倉駅への道に戻ると地元の方が、向い側の丸塚山を横断(縦走)できると教えてくれる。

        
         メモした道順に従うと、山頂までは舗装路で行き止まりに配水用タンクが座る。

        
        
         山頂は配水用タンクと携帯電話基地局が占領し、雑木に覆われて展望がないので南への
        道を下る。

        
         基地局の傍には「秩父宮殿下御登臨之所・昭和4年」の石碑が建つ。1929(昭和4)
        11月17日井関村を中心とする陸軍機動演習が行われているが、これに関連する碑と思
        われる。

        
         南尾根筋に下って竹林先の三差路を右折すると、倒竹などもあって道とは思えないが、
        すぐに歩きやすい道になる。

        
         舗装路先の三差路を左折すると左手にぶどう園、見返ると丸塚山の鉄塔が見える。

        
         熊野神社は、1671(寛文11)年周防国仁保津村の椹野権現社より勧請して岩倉権現社
        と称していた。明治の社寺統合令により北方八幡宮に合祀されたが、1929(昭和4)年村
        民の熱意により再び奉祀されたという。

        
         格子柄に旧阿知須町の町木であったキンモクセイがデザインされたマンホール蓋。 

        
         再び駅への道に合流して岩倉山を見ながら駅に戻る。

        
         岩倉駅は、1925(大正14)年宇部鉄道の小郡ー本阿知須間の延伸に伴い停留場として
        開設される。1943(昭和18)年国有化と同時に廃止されたが、地元民の要望により、1
        953(昭和28)年に復活する。集落から離れていることもあってか、乗降客は学生が中心
        と思われる。