ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

周防大島の椋野は湾に沿って集落 

2021年11月30日 | 山口県周防大島町

        
                この地図は、国土地理院の2万5千1地形図を複製・加工したものである。
         椋野(むくの)は屋代島の西部に位置し、南に文珠山を仰ぎ、北は海に面し、北東海上に前
        島を臨む。域内は傾斜地で平地は少なく、小さい湾に沿って立地する。
         地名の由来を地下(じげ)上申は、芸州浪人・椋野兵部が開発したとするが、「ふるさと椋
         野」で
は田畑の境界に植えられた椋の木にちなむとする。(歩行約4㎞)

        
         JR大畠駅から防長バス久賀経由の町立橘病院行き23分、東椋野バス停で下車。

        
         椋野小学校は、1873(明治6)年林霊俊宅を仮校舎として創立したが、時代の流れの中
        で児童数の減少により、2011(平成23)年久賀小学校との統合により閉校となる。

        
         大島八十八ヶ所の札所と思ったが、表札は「周南八十八ヶ所第47番奥の院」とあり。
        大島の47番は椋野の天浄寺とのこと。

        
         銭壺山を仰ぎながら海岸部へ向かう。

        
         東側の漁港には久賀漁協の漁具保全倉庫が完備されている。

        
         これも防波堤だったのだろうか。 

        
         海側から見る椋野の地形。

        
         重富家横から路地裏歩き。

        
         塀と門を持つ家は無住のようだ。

        
         スリップ防止用模様と中央に周防大島町の町章、六角模様が6つあり、その1つに「お」
        があるマンホール蓋。

        
         整然とした路地だが見るべきものはない。

        
         椋野神社の創建年月は不詳とのこと。1907(明治40)年椋野木屋の八幡宮を合祀する。

         
         この先、集落内に路地がないため国道歩き。

        
         国道筋の大きな家も空家。

        
         椋野漁港は泊地の水深が浅く、漁船の大型化に対応できないうえ、背後の用地が不足し
        ていることから漁業の効率化が悪い状況にあった。
         1994(平成6)年より漁港修築事業が行われて新漁港が建設されたが、ここではレジャ
        ーボートが多くを占める。

        
         右手の道に入ってみるが、人家は更新されて見るべきものなく、イチョウの木が目立つ
        程度だった。

        
         海岸線に出ると湾の特性によるものか、
消波ブロックは設置されず砂浜が保全されてい
        た。西椋野バス停よりJR大畠駅に戻る。


周防大島の屋代にハワイ移民資料館 

2021年11月29日 | 山口県周防大島町

                
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         屋代(やしろ)は屋代島の西部、屋代川流域に位置する。東は嘉納山と源明山の分水嶺で、
        北は飯の山と文珠山の山地で、南は頂海山と馬の背の分水嶺で区切られる。屋代島内の集
        落で海に面していないのは当地だけである。(歩行約6.5㎞、🚻資料館) 

        
         JR大畠駅から防長バス(沖浦経由)町立橘病院行き約17分、大島庁舎前で下車。路線
        バスは屋代を経由しないのでこの先は歩きとなる。

        
        
         県道大島橘線を進むと農協倉庫があり、左折すると
前方に文珠山・嘉納山が聳える。

        
         得蔵寺(真宗)

        
                
仙洞院は公門山を少し登った所にあるが、室町中期の頃に山伏姿の修験者が、はるばる
        四国から櫓船で伊予灘を渡り、椋野の文珠堂に籠り天下泰平を祈祷する。
ここで神仏の御
        加護を島の人々に伝えるため、公門山の峠道にてお布施でいただいたものと栗、谷水で混
        ぜて食べると空腹が癒されると栗をつかんでちぎり取ってしまう。

         その時に百姓が居合わせて、このことを役人に告げると盗みに入ったと捕らえて、審議
        をしないまま村人の前で梟首(きょうしゅ=打ち首をさらす)の罪にする。
その時に「仙洞院と
        いう修験者で、百姓の大事なものを盗んだお詫びに霊神となって願えことをかなえてあげ
        よう」といったといい、村人は遺体をこの公門山に埋め、自然石に文明17年(1485)仙洞
        院と刻み弔う。「1つの願いごと」を申して拝めば、霊験あらたかとされる。(他説もあり)

        
         農道の途中で左折して山裾を辿る。

        
         等覚院(浄土宗)は、何時の頃からか浄土宗の浄尾寺と称していたが、1873(明治6)
        村内の西蓮寺へ合併したため、玖珂郡御庄村の等覚院を引寺したという。

        
         境内から見る集落の先に琴石山。

        
         龍心寺(曹洞宗)は、創建時には安養寺と称していたようで、村上武吉により祖父の法号
        に因み大龍寺と改める。江戸期に入ると毛利家に随順し、屋代に移り永く村上家の菩提寺
        とし、明治期に現寺号としたという。

        
         屋代の村上家家老・大野氏の次男に友之丞という人物がいた。友之丞は京都に上がって
        御所に入り、北面の武士に取り立てられた。その後、巡見使として九州に下る途次、三田
        尻(防府)の毛利家に立ち寄り、朝廷を笠に着て大いに見返したまではよかったが、同家を
        辞する時に大いに乱暴をはたらいて帰ることを止められた。
         一夜脱走して郷里の屋代に帰ったが、一族は禍が及ぶことを恐れて喜んで迎えてくれな
        いため、祝島に渡るが毛利家の知るところとなる。1799(寛政11)年斬罪となるが、そ
        の際、「自分を信じて祈る者があるなら、首から上の病は癒してやる」と伝えられ、大友
        大権現として祀られている。(説明板より)

        
        
         菅原神社は領主・村上氏の願出によって、1805(文化2)年当地の京免に勧請されたが、
        1875(明治8)年現在地に遷座する。

        
         1889(明治22)年町村制の施行により、東屋代村と西屋代村の区域をもって屋代村が
        発足するが、1952(昭和27)年小松町と合併する。(砂田地区付近)

        
         砂田の地蔵堂(延命地蔵)と御旅所。

        
         何の目的で「臼」が集められたのかは不明だが、以前は各家庭にとって必要不可欠なも
        のだった。

        
         1885(明治18)年山泉小学校として創立された屋代小学校は、いくつかの校名変更を
        経て、1947(昭和22)年現校名となる。
         1953(昭和28)年屋代中学校だった地に移転するが、児童の減少に伴い、2010(平
          成22)
年近くの明新小学校に統合される。

        
         屋代川で集落は二分されている。 

        
         1925(大正14)年12月に屋代信用購買販売組合が設立される。その後、農業会と改
        称し、 1948(昭和23)年屋代農業協同組合へと引き継がれる。建物は1932(昭和7)
        年に組合事務所として建築され、名称変更を伴ったが各事務所として活用された。一時期
        住宅として利用されたようだが、今は空家となっている。

        
         中保育園付近から先は、民家が点在するので屋代川左岸を下る。
 
        
         民地のため入るのを遠慮したが、大樽に立派な屋根を載せて観音開き戸が設けてある。

        
        
         郵便局前に「大島商船学校発祥之地」の碑と道標がある。碑文によると、大島郡役所が
        久賀村に移転したため、跡地に1897(明治30)年郡立大島海員学校が創設された。
         ただし、設備等は貧弱で長くこの地に留まることはできない状態だった。幸いに190
        1(明治34)年県立に移管され、県立大島商船学校と改称し、小松志佐村に移転したと記す。

        
         左岸は車の通行もないのでてくてく歩きができる。

        
         ハワイ移民資料館は、1926(大正15)年に事業家の福元長右衛門が自宅として建てた
        ものである。氏は1897(明治30)年16歳でサンフランシスコに渡り、貿易事業で成功
        して1924(大正13)年に帰国する。

        
         主屋は近代和風邸宅で、1995(平成7)年旧大島町に寄贈されて、現在は「日本ハワイ
        移民資料館」として活用されている。(毎週月曜日が休館日) 

        
         表の間は「ハワイとの交流」コーナーとなっている。

        
         大島郡は人口増加により限られた土地では生活できず、大工や船乗りなどの出稼ぎが盛
        んだった。ハワイ移民の話が持ち上がった頃、全国的な不況や自然災害などで島の人々は
        餓死寸前まで追い込まれた。
         1885(明治18)年1回目の官約移民では、大島郡出身者が1/3を占め、官約移民時
        代に大島郡からは3,913名がハワイに渡る。

        
        
         アメリカから持ち帰った台所の設備、衛生設備などが備えられ、和洋折衷の生活様式と
        なっている。

        
         主屋をはじめとする建造物が国登録有形文化財に指定される。(裏の西側は鉱滓煉瓦塀)

        
         周防大島が「移民の島」と呼ばれた所以を学ぶ
有意義な訪問であった。この先、屋代川
        沿いを歩いて大島庁舎に戻る。(敷地内に図書館あり)


宇部市東須恵の広い域内は丘陵地 

2021年11月27日 | 山口県宇部市

                          
                          この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         東須恵は宇部市と山陽小野田市の市境をなす丘陵が、瀬戸内海に向けて突出して本山半
        島を形成している。今では干拓されて半島とは思えないが、その東側に位置し、厚東川右
        岸にあって南北に長く、ほぼ中央部分に日本一の私道である宇部興産専用道路が敷設され
        ている。域内は広いため南側の小野田線、国道周辺部をぐるりと一周してみる。(歩行約
        6.4㎞)

        
         JR妻崎駅は、1929(昭和4)年宇部電気鉄道の沖ノ山旧鉱駅(のち宇部港駅)ー新沖山
        駅(のち廃駅)開通と同時に開業した駅で、後に小野田線扱いの駅となる。

        
         原ふれあいセンターの入口には、「原尋常小学校跡」を示す標柱がある。1901(明治
          34)年に厚南小学校分教場として開校し、1908(明治41)年厚南尋常小学校原分教場と
        改称する。 

        
         ドラえもんが立つ横断歩道で山手側へ向かう。

        
         辻に地蔵尊。

        
         その反対側に庚申塚。碑には文政7申歳(1824)立とある。

        
         庚申塚からは下り道。

        
        
         下り坂に2つのマンホール蓋。上段は常盤公園で放し飼いにされていたモモイロペリカ
                ン「カッタくん」に子供がぶら下がり、周囲は市花「サルビア」がデザインされている。
        下段は常磐公園の「花菖蒲」と周囲は市花「サルビア」、市木「くすのき」である。

               
         坂を下ると国道190号に合わし、地下道で反対側に移動する。

        
         丘陵地のため坂道が多い。

        
         大きな屋根を持つ人家。

        
         坂道を登り終えると庚申塚があるが、刻まれた文字は読めず。

        
                 岡田屋公会堂先の広場が岡田屋百手(ももて)祭の祭地である。室町期の1468(応仁2)
        年頃、この地に疫病が流行して多くの死者が出たため、松江八幡・八大龍王・大歳の三神
        に祈願し、鬼に見立てた的に矢を射たところ疫病が治まったという。以来、感謝と厄除け、
        五穀豊穣を祈念して神事が行われているとのこと。

        
         国道190号と高天原浄水場を過ごし、丘陵地を越えるとJR長門長沢駅前に出る。妻
        崎駅同様に宇部電気鉄道の沖ノ山旧鉱駅ー新沖山間開通と同時に設置された。

        
         水神社の創建年代は不明だそうだが、原地区の農業水利のため、小野田の堂島神社より
        勧請して祀ったという伝承が残されている。

        
         住宅地を抜けると梅田川沿いに出る。左岸は1860(万延元)年に開作された妻崎開作。

        
         厚南南部はそのほとんどが開作地帯のため、土地の守り神または水の守り神として、猿
        田彦大神や庚申塚が建立された。

        
         かっては漁船が出入りし、上流には魚市場があったとされる。

        
        
         庚申塚には注連縄もあって大切に祀られている。

        
         梅田川妻崎開作の樋門があった所で、1979(昭和54)年下流に新しい水門が作られて
        廃止された。

        
         幕末の萩藩は産業振興のため、撫育方を設置して石炭の量産に努めた。1868(明治元)
        年には石炭局が設置され、妻崎には庄屋の屋敷に石炭会所(支所)が置かれ,積み出し及び
        販売を管理した。

        
         梅田川から寺への坂道。

        
         西宝寺(真宗)の開基は俗性・縄田八左衛門といい、室町期の1475(文明7)年に当寺を
        建立したという。 

        
         原小学校玄関前に「南部懇話会之碑」が立っている。原地区は厚南村南端にあって農・
        漁業をしていたが、生活は苦しく文化にも恵まれなかった。地元の有志がこの現状を憂い、
        南部懇話会を結成し、地域の発展には教育の普及が急務であるとし、1901(明治34)
        用地や資金を出し合って厚南小学校原分教場を創立したと記す。

        
        
         土地勘がないため道を踏み外し、いくつかの史跡を見落とすことになる。妻崎駅に戻る
        と、人家に咲く皇帝ひまわりや皇帝ダリアを眺めて、15時48分の小野田駅行きに乗車
        する。 


宇部市の藤曲は保育園から大学まである地 

2021年11月27日 | 山口県宇部市

                
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         藤山(ふじやま)は厚東川河口部に近い左岸および宇部丘陵に位置する。1889(明治22)
        年町村制施行により、藤曲と中山の2ヶ村の区域をもって発足し、村名はそれぞれから1
        字をとって藤山村とする。
         藤曲の地名は、昔、藤が「く」の字に曲がっていたことに由来する。(歩行約6.4㎞)

        
         JR居能駅は、1929(昭和4)年宇部電気鉄道の駅として開業。現在は宇部線と小野田
        線が乗り入れ、相対式2面2線を有する。

        
         1687(貞亨4)年阿川毛利氏が居能開作築立の守護神として八大竜王を祀ったことから
        竜神社といい、通称は水神社といわれた。しかし萩藩の御根帳入りの神社でなかったため、
        1842(天保13)年淫祠として社殿が解体される。
         その旧地に、1855(安政2)年周防国生見村(現岩国市美和町)から大山祇神を勧請、そ
        の際に中山村にあった八大竜王も合祀して三島神社とした。


        
         
神社に向かって左奥に「藤曲浦網代碑」がある。江戸期から藤曲浦は妻崎から床波まで
        網代権(漁業権)を持ち、浦石といって税も納めていた。1887(明治20)年頃から新川や
        岬辺りで漁をする人達が出始め、紛争が起こるようになる。
         裁判所が仲介して、網代権を取り決めたことを記念して、1897(明治30)年に建立さ
        れた。

        
         神社から東へ細い道を辿ると、ホームセンター・ナフコ裏に出る。1914(大正3)年宇
        部~新川間に宇部鉄道が敷設され、藤山駅(山口銀行藤山支店付近)が開設される。その後、
        同駅はナフコ付近に移転し、藤曲駅と改称するが痕跡は残されていない。

        
         伏谷食料品店先に「香川裁縫塾跡」の碑がある。1903(明治36)年香川昌子は岡田家
        を借りて裁縫塾を創設。その後、香川裁縫女学校、香川実科女学校、香川高等女学校など
        を経て、宇部フロンティア大学付属香川高等学校へと名称変更する。

        
         1872(明治5)年郵便制度が発足し、1874(明治7)年7月国広宅を郵便局とする。
        1900(明治33)年郵便局は宇部村の島に移転したが、藤曲には郵便取扱所として残され
        た。

        
         名和田作兵衛旧宅跡で、1645(正保2)年7月27日長崎奉行を乗せた船が、藤曲浦の
        沖で難破しかけた時、村人総出で助けた。その時に陣頭指揮をした庄屋とのこと。 

        
         この筋が当時の中心地だったようだ。

        
         善福寺(真宗)の寺前は、元禄年間(1688-1704)に江ノ内開作ができるまでは海であったと
        いう。
         風土注進案によれば、俗名金益太郎左衛門尉安善という上方の浪人で、当国へ弟左仲と
        ともに下ってきて毛利家の家臣となる。島原の乱で弟が戦死したので、その菩提を弔うた
        め豊前国の法光寺のもとで剃髪、
慶長年間(1596-1615)に一宇を建立したのに始まるとい
        う。
         
        
         1931(昭和6)年宇部市に編入されるまで当地に村役場があった。

        
         西宮八幡宮は鎌倉期の文治年間(1185-1190)安芸の厳島神社より勧請して厳島社と称して
        いたが、1708(宝永5)年琴崎八幡宮の三神を勧請して現社号とする。 

        
         1894(明治27)年船木区裁判所藤曲出張所が開設されたが、廃止された年月は不明と
        される。

        
         道路は小さなS字を描いて西へ向かう。(右手が小学校跡)

        
        
         1872(明治5)年学制発布により、善福寺の庫裡を借りて藤曲小学校が開設されたが、
        1875(明治8)年茅葺きの小学校1棟が建築されて当地に移る。
         建設時に造られた石垣の中に、瓢箪と盃が彫ってある扇状の石があるが、この石は扇石
        と呼ばれ、石垣を築いた記念に石工が残したものと思われる。1899(明治32)年学校は
        再び移転する。

        
        
         現在の藤山小学校には、1902(明治35)年青木周蔵がドイツより持ち帰り寄贈したプ
        ラタナスの木が現存する。
         1844(弘化元)年周蔵は三浦玄仲の長男として生まれ、1849(嘉永2)年厚狭郡生田
        村より藤曲村に移り少年期を過ごす。(山陽小野田市埴生に生家跡あり)
         1865(慶応元)年毛利家の侍医(じい)青木周弼の弟研蔵の養子となり、周弼の次女テル
        と結婚して周蔵と改名する。明治期に外相を3回務めた。

        
         藤山中学校の角を右折して、次の三叉路は左折する。

        
         宇部軽便鉄道を通す工事で山を削った際に発見された茶臼山古墳跡。

        
         岩鼻駅への道。

        
         平原神社(秋葉社)は火除け、荒神の神として崇敬されている。

        
         右手の溜池を巻くように進むと、東平原第二公園前に出る。

        
         宇部は丘陵地で坂が多い。

        
         智光院(真言宗東寺派)は住宅街の小高い丘にあり、明治初期に観音の霊験を得た智光尼
        が草庵を建てたことに始まるとされるが、以前から祠はあったようである。 

        
         中国楽寿三十三観音18番札所で、中国三十三観音霊場とは別である。

        
         山号を由利野山といい、厚東氏滅亡の折に姫君がこの山に逃げ込んだが殺害された。姫
        の名が百合野であったことから百合野(由利野)山と呼ばれるようになったとか。以前から
        あったとされる祠は、姫の菩提を弔うため建立されたと伝わる。(本堂)  

        
         文京台を下ると右手に浜田自治会館があり、その先の四叉路を左折する。

        
         宇部市のマンホール蓋は、「白鳥」や「カッタ君」、常磐公園の「花菖蒲」がデザイン
        されたものが多いが、この地区は亀甲模様の中央に市章がデザインされたマンホール蓋で
        ある。

        
         この先で厚東川河口に出る。

        
         浜田水神社は、1699(元禄12)年浜田開作の築造が完成したが、その工事中に中山村
        開作竜神社として建立された。 

        
         旧厚東川鉄橋跡より20m上流付近に「松崎の渡し」の船着場があったとされる。

        
         1913(大正2)年12月宇部軽便鉄道厚東川橋梁が完成したが、1963(昭和38)年新
        鉄橋が完成すると役目を終えて鉄橋跡のみが残されている。

        
        
        
         岩鼻公園への第4種踏切を渡る。

        
        
         丘陵地から見る市街地。 

        
         こちら側からは駅へ行くことができない。

        
         JR岩鼻駅は軽便鉄道が開業した1914(大正3)年に開設される。居能駅(10:13)から
        約4時間の散歩だったが、ここから山陽本線の宇部駅に出る。


柳井市余田に村役場庁舎が残る地 

2021年11月21日 | 山口県柳井市

                 
                 この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         余田(よた)は北の大平山山塊と南の赤子山塊に挟まれた低地に位置し、そのほぼ中央の
        低地を堀川が西から東に流れ、土穂石川となって柳井湾に注ぐ。
         地名の由来ははっきりしないが、「和名抄」玖珂郡十郷のうちの余戸郷に充てるという
        説がある。(歩行約4.1㎞)

        
         JR柳井駅から余田を経由するバス便は平日4便、土日祝日は運行されていない状況に
        ある。ここもやむを得ず車で訪れる。(八幡宮駐車場に駐車させてもらう)

        
         名合八幡宮は旧余田村と平生竪ヶ浜の氏神で、宇佐八幡宮より勧請されるが、勧請年月
        は不詳とされる。もとは「長尾八幡宮」と称されていたが、いつの頃か現在の名称になっ
        たという。

        
         二の鳥居は1693(元禄6)年に岩国領主・吉川広紀が奉納。 

        
         説明によると、藩政時代に大凶作で各地に年貢不納の大暴動が起こった時、余田村民は
        年貢を完納した。以降、明治になっても租税の完納を続けた。
         この塔は国によって建立されたもので、側面に「大正3年以降諸税完納」「昭和25年
        税制改革記念」とある。

        
        
         1889(明治22)年町村制の施行により、近世以来の余田村が独自で自治体を形成する。
               現存の村役場は1935(昭和10)年村有林の杉を切り出して建設され、1階が役場執務室、
        2階が村会議亊堂として使用された。
         1954(昭和29)年近隣5町村が合併して柳井市が発足すると、余田出張所として使用
        されてきた。1977(昭和52)年建て替え計画が持ち上がったが、地元の反対で残される
        ことになった。

        
         隣の建物は詳細不明。この先、岩国竪ヶ浜往還はズボンにとりつく草が多くて進行を残
        念する。

        
         名合八幡宮の裏手に廻り込み、広い道を柳井市街地へ向かう。

        
         最初の四叉路を左折して院内集落を目指す。

        
         当初は院内の観音堂、福楽寺などを散策して、中郷集落に下る予定にしていたが、馬力
        が不足してきたようで安立寺が見えたところで頓挫する。
         安立寺(真宗)の寺地はかって池で、大きな蛇がいて「蛇の池」として恐れられた。一計
        を案じ、池を埋め立てて寺を建立したとされ、山門前にその池跡がわずかに残されている。

        
         正蓮寺も浄土真宗で、戦国末期の開基とされている。

        
         中心部に農地があって周辺部に集落を形成している。 

        
         堀集落にある地蔵堂は地蔵菩薩が祀られ、大師堂を兼ねているそうだ。灯籠は一対では
        ないが古いものではなく、大正期に建立されたもののようである。

        
        
         柳井市余田の農業集落排水用マンホール蓋で、余田の臥龍梅がデザインされているが、
        よく見ると違う構図が描かれている。
         広い集落のようで中央地区は1994(平成6)年、北地区は2年遅れて集落排水が設置さ
        れた。 

        
         旧岩国竪ヶ浜往還道の傍を流れる小さな川は、蛇の池にいた蛇が、川を下っていったと
        いわれている。その後、蛇川いわれるようになったと伝える。

        
         再度、農事組合法人柳井ダイヤモンドローズ側から試みてみたが、無理のようで往路道
        に引き返して出発地に戻る。


柳井市伊保庄は小瀬上関往還道と旧塩田地

2021年11月17日 | 山口県柳井市

                
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。             
         伊保庄(いほのしょう)は周防灘に突出する室津半島の東部を占め、海岸に沿って南北に長
        く西に大星山などの山塊が迫る。
         地名の由来は、往昔、3足の赤鳥がこの郷に生まれ、里人はこれを志賀の都に献上し、
        これによって当地を鳥王庄(うおのしょう)と呼ぶようになったが、いつの頃からか伊保庄と
        改めた。(歩行約4.1㎞)

        
         JR柳井駅から宇積行きバスがあるが、便数が少なく滞在時間が長くなるので車で訪れ
        る。
小野バス停傍の海岸部に駐車可能な広場がある。

        
         お堂とは思えない中に閻魔大王を中心に十王が並ぶ。江戸期作とされるが全部揃ってい
        るのは珍しいとのこと。地獄において亡者の罪を裁くとされる10人の王のことである。

        
         正覚寺への1本道を進む。 

        
         圃場整備された先に瀬戸内海と周防大島。

        
         正覚寺(真宗)はもと真言宗の寺院であった。室町期の1521(大永元)年に罹災し、古記
        録を残していないという。

        
         川傍に佇む三界萬霊塔。 

        
        
         宗寿院の由緒によると、往古は随願寺あるいは瑞願寺と称した密教の大寺跡に興し、そ
        の名に因んで願行寺としたと伝える。
         1870(明治3)年寺社整理によって、伊保庄の専称寺へ合併されたが、越えて72年、
        徳山・四熊村の宗寿院を引寺して再興したという。

        
         谷筋を1つ越える。

        
         下ってくると青面金剛(しょうめんこんごう)の石像がある。庚申講の本尊として知られ、三
        尸(さんし)を抑える明王である。一身四手、左辺の上手は三叉、下手は棒を握り、右辺の上
        手は掌に一輪を拈し、下手は羂索を握っている。

        
         賀茂神社は平安期の1093(寛治7)年、京都・賀茂神社より勧請して社殿が建立された
        のが始まりとする。

        
         本殿は鎌倉、室町、江戸期を通じて改築や修理が行われたが、現在の拝殿は1841(天
        保12)年、神殿は1899(明治32)年に造営された。

        
         賀茂神社の参道。

        
         往還道は県道から外れて右に迂回しているが、橋を渡れば街道は消滅している。向田川
        に架かるこの石橋は往還道の名残りとされる。

        
         向田川河口に胡社が祀られているが、創建年代は不詳とされる。文化年間(1804-1818)開
        作築立が行われて塩田開作された所であり、胡社もその頃ではないかと考えられる。

        
         向田川河口から間近に見えるのは無人島の烏島で、島の先端に若山牧水の歌碑があると
        のこと。牧水が1925(大正14)年秋、夫人と共に村上酒造宅を訪れた時に詠んだものと
        される。
           「からす島 かげりて黒き 磯のいはに 千鳥こそをれ こぎよれば見ゆ」

        
         河口部から見る大畠、遠崎方面と琴石山。

        
         往還道は道路拡張及び新設により消滅した箇所もあるようだが。概ね県道に沿って左右
        に残されている。多くの家々は更新されていたが、数軒ほど大きな古民家もあった。

        

         手前の森が八幡山で、名のとおり平安期の877(元慶元)年宇佐神宮から勧請された中村
        八幡宮があったが、明治の神社整理(1村1社)で賀茂神社の境内に遷宮された。

         往還道の海岸沿いには揚浜式の塩田があったというが、往還道と同様に昔日の面影はな
        か
ったが、歩きやすい散歩道であった。


柳井市日積は松島詩子、坂本寿一の生誕地

2021年11月17日 | 山口県柳井市

        
               この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。 
         日積(ひづみ)は由宇川上流に位置し、銭壺山や琴石山などに囲まれた山間盆地に立地する。
         地名の由来は,玖珂郡誌によると「日積ハ日月乃村ト云。日ヲ積デ月ト成ストノ古語也」
        とある。(歩行約4.9㎞) 

        
         JR柳井駅から大里(おおざと)バス停まで路線バスがあったが、10月1日より運行を取
        り止めた旨の情報を得ていたので車で訪れる。(ふれあいどころ437に駐車、🚻あり) 

        
         ふれあいどころ437は旧大里小学校跡で、その傍に大帯媛(おおたらしひめ)八幡宮の参
        道がある。

        
         平地は農地で山裾に民家を配している。 

        
         長い石段を上がると本殿があると思ったが、その先にも長い参道がのびる。途中に大里
        小学校跡を示す標柱がある。1893(明治26)年から1955(昭和30)年までの62年間、
        2教室と教員室などの木造平屋校舎と運動場があったとされる。 

        
         旧日積村の氏神として奈良期の758(天平宝字2)年宇佐神宮より勧請される。当社を大
        帯媛八幡宮と呼び始めた因由は明白でないが、古くは日積八幡宮あるいは日積宮とも称し
        た。日積の八朔踊りは五穀豊穣を祈願する風鎮祭で、9月1日直前の土曜日に境内で開催
        される。

        
         日積神代往還道を北上すると、明教寺(真宗)は西善寺の隠居所として建てられたという。
        (寺前を西へ向かう)

        
         文珠堂には大きな銀杏の木があって鮮やかな色合いを見せる。大智寺(真言宗)跡に文珠
        堂ありとされるが創建年代は不詳。文珠菩薩を本尊とするのは珍しく「周防三文珠」の一
        つとされる。

        
         西善寺(真宗)とひづみ幼稚園を過ごし、関鳥橋を渡ると折坂バス停前(ここも廃止)に出
        る。

        
         日本航空界の草分け的存在とされる坂本寿一(1890-1976)の生家があるとのことで立ち寄
        る。室積にあった県立工業学校卒業後、渡米してロサンゼルス工業カレッジ自動車科に学
        び、フォード自動車工場で働く。のちに米国パイロット免許を取得し、1914(大正3)
        帰国すると、全国各地で公開飛行を行うなどし、大阪で開かれた第1回競技大会で滞空時
        間部門で1位となる。(手前が生家?)

        
         丸山橋を渡ると山側に小瀬上関往還道一里塚跡を示す標柱がある。「安芸境小瀬より7
        里 上ノ関より8里」の地には旅籠屋や居酒屋があっ
たとされる。

        
         道路筋の家々は更新されている。

        
         左手に街道を示す看板あり。

        
         1920(大正9)年周防鉄道㈱が設立され、由宇村から日積村、伊陸(いかち)村を経由して
        玖珂村に至る鉄道が計画され、日積停車場がここ大原地区に設置される予定であった。
         しかし、着工目前に岩徳線の敷設決定や関東大震災の影響もあって幻の鉄道路線となる。

        
         途中から山手に上がると細い道が往還道である。

        
         小瀬上関往還道の中で数少ない原形を留めている区間とされ、3尺道(約90㎝)は多く
        の人が往来したのであろう。

        
         祠に2体の石仏(馬頭観音)が鎮座するが、昔、荷物運搬中に倒れた馬を祀ったとされる。

        
         昭和の歌謡界を代表する松島詩子(本名;内海シマ)は、1905(明治38)年この日積で
        生まれる。教員生活を過ごした後、流行歌手になることを決心して歌手生活の道に入る。

        
         広い道を横断すると街道標示板の先に「火伏神狩野岩」がある。狩野派の画家が絵に描
        いたと伝えられ、いつの時代か埋没してしまったが、村人が掘り出して火伏の石神様とし
        て祀っているという。

        
         この一帯は奥迫川の扇状地で、縄文時代の集落跡とされる。 

        
         小瀬川2期工業用水の空気弁蓋。水道事業は柳井地域の都市用水を確保する目的で、1
        991(平成3)年から8年の歳月をかけて完成する。弥栄ダムから取水した水は、管路約4
        0㎞で送水されているが、ダムから日積浄水場までは柳井広域水道事業団(柳井市、周防大
        島町、上関町、田布施町、平生町)との共同施工である。

        
         石神様の盃状穴は、人が何らかの目的で石などの道具を使って彫った盃状の穴で、女性
        を表現し、最初は再生を願って墓に彫ったが、のちに子宝、安産、豊作を願うものに変わ
        ったという土俗信仰である。
         石の前に石神様があったが、祠のみ南側の路傍に移設されたとのこと。 

         
         日積大原地区から日積神代往還を南下し、国道437号線を山越えして出発地に戻る。           


防府市佐野・大崎に周防一の宮と旧山陽道 

2021年11月15日 | 山口県防府市

                 
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         佐野及び大崎は佐波川の河口右岸、楞厳寺山の東および南麓に位置し、古くは旧山陽道
        の「大崎の渡し」
と、中関への「泥江の渡し」があった地である。(歩行約7.8㎞、🚻玉
        祖神社)


        
         JR防府駅から防長バス小郡第一病院前行き10分、泥江バス停で下車する。

        
         バス停から引き返し、信号機のある交差点を横断して佐波川に出る。

        
         1764(明和元)年川端に住んでいた幸助が、自前の舟で渡船を始めたのが「泥江の渡し 
        」の最初で、その後、渡船業は西開作住民に引き継がれた。1890(明治23)年「中関橋」
        が架けられて渡船は廃止されたが、1902(明治35)年橋の崩落もあって、1953(昭和
          28)
年佐波川大橋が完成するまで渡船が行われた。

        
         川の流れや川幅の変更により、渡し舟の位置はたびたび変わったようだ。

        
         佐波川大橋を渡り、国道2号を横断して旧道に入る。

        
         旧道に出会う角に「中之関港道」の道標がある。明治期に中関町長の加藤氏によって、
        山陽道と中関港を結ぶ2本の道路(もう1つは新橋~華城経由)が新設されて道標が設置さ
        れた。
         1975(昭和50)年頃に旧設置場所から撤去、折れたまま放置されていたが、1998
        (平成10)年頃現在地に再興された。

        
         山陽自動車道を潜ると佐波川右岸に田園が広がる。

        
         左道に入ると旧山陽道に合わす。

        
         右手の西ヶ原下池の辺を巡り、佐野峠に至る道が旧山陽道である。(案内板あり)

        
         放光会館前にある「御即位記念」の碑は、1915(大正4)年右田村第17区戸主青年会
        が、大正天皇即位を記念して旧県道脇に建立したが、1958(昭和33)年現在地へ移転さ
        れた。

        
         興禅院(曹洞宗)は地蔵院跡に、1873(明治6)年都濃郡大道理村(現周南市)から移って
        きた。1875(明治8)年学制発布により寺を仮教場として、玉祖小学校の前身である佐野
        小学校が開校された。
         今は廃寺のようで石段の先は薮化して境内に上がることができないが、山門には「西国
        三十三所霊場」「不許葷酒山門」の碑と地蔵尊1体が立っている。

        
         田中邸前に旧山陽道の一里塚跡を保存するために建てられた石柱がある。「小瀬川より
        19里、赤間関迄17里」と刻まれている。一里塚のあった実際の位置は田中邸の庭だそ
        うだ。

        
         田村宅横に「木村先生頌徳碑」があるが、1888(明治21)年佐野小学校校長として就
        任。1909(明治42)年まで佐野の子弟を教育したとされ、地区民有志がその功績を称え
        て建立したものである。

        
         民家の背後に楞厳寺山が迫るが、大内氏が楞厳寺という七堂伽藍(金堂、講堂、塔、鐘楼、
        経堂、僧坊、食堂(じきどう))を持った寺を建立する。山の西側8合目付近の平坦地にあった
        ようだが、1620(元和6)年の火災でことごとく焼失しまう。その後、寺号は周南市湯野
        の寺に移る。

        
         旧山陽道沿いの若宮社入口に立つ宮灯籠。玉祖宮の文字が見える。

        
        
         若宮社(壺神社)は窯業を営む人々が、玉祖神社より勧請して氏神様にしたといわれてい
        る。そのため、氏子は古くから焼き物株を持つものに限定されていた。佐野焼製法の秘密
        を守るため、若宮社を中心に強く結束していたという。社の前に一反2畝の土地があり、
        「宮窯」があったとされる。

          
         広い敷地に廃屋。

        
         門柱のある家を多く見かける。

        
         玉祖幼稚園を過ごすと佐野の中心地。

        
         明照寺(真宗)は、1648(慶安元)年真言宗から真宗に改宗したときに始まるとされる。
        それ以前は顕正院と称し、仁井令から佐野に引寺して現寺号に改称する。

        
         七尾の疫神様は伝染病が流行した際、その対策として疫神社を建立して平癒を願った。
        玉祖神社の四方神の1つとされ、 他に東・高田の疫神社、南・居合の浜宮様、北・江良の
        疫神社を充てている。

        
         二六台に上がる道から見る玉祖神社方向。台は1940(昭和15)年玉祖小学校児童の心
        身鍛錬のため、七尾山頂上に運動場が造成された。完成した年が皇紀2600年であった
        ことから「二六台」と命名された。
         山頂までの道沿いには古墳時代後期の古墳が数基あるとのことだが、歩く距離が長くな
        ることもあって残念する。

        
         山陽自動車道下にある浜宮御祖神社は、玉祖神社の四方神の1つとされる。

        
         1915(大正4)年11月に玉祖(たまのや)神社は国幣中社となり、終戦まで祭祀料が国か
        ら支弁された。参道入口には国弊社だったことを示す石碑が残されている。

        
         由緒によると、祭神は三種の神器の1つである八坂環曲玉を造ったとされる玉祖命を祀
        ったのが神社の起こりとされる。創建はあまりにも古く定かでないが、「正倉院文書」に
        天平8~10年(736-738)の3ヶ年は、玉祖神社領の39石余を免除するとあるので、創建 
        はそれ以前とされる。

        
         平安期の927(延長5)年に編纂された延喜式神名帳によると、周防国の「官社」は10
        座が載せられているが、玉祖神社が周防国一の宮とされ、代々の国司から崇敬を受けた。
         社坊は金剛寺と称する真言宗の寺院で8坊あったとされるが、1598(慶長3)年本殿炎
        上の折に徳楽坊を除いて類焼する。本殿は再建されたが社坊は再建されないまま、徳楽坊
        が本坊となったが明治の廃仏毀釈で廃されてしまう。

        
        
         普段は鶏舎にいる「黒柏鶏」が境内で散歩中。国指定天然記念物で長鳴鶏に属する日本
        古来の鶏で、名前が示すとおり羽根は全身が黒である。雄(おす)の耳朶や鶏冠は赤く、雌の
        鶏冠はほとんど黒い。明治以降、多くの日本鶏が姿を消した中で貴重な存在とされる。

        
         旧道の変則四叉路を左折すると、玉祖神社へ参拝する道筋(岡田邸角)に宮灯籠が立つ。
        竿石に「一宮社・寛政4壬子(1792)」と刻まれている。

        
        
         玉祖神社と玉の岩屋の中間付近の田圃の中に宮城の森(みやしろのもり)という所があって、
        老木が1本残っている。これは景行天皇が熊襲征討の際、玉祖神社に参拝して戦勝祈願さ
        れたときの行在所跡と伝えられる。もとはたくさんの木が残っていたが、田圃の陰になる
        からと切られてしまった。

        
         若月邸の臥龍松は、江戸初期頃に植えられたものと伝わり、高さ1.8mの所で二股に分
        かれて、1本は上に伸び、もう1本は横に伸びている。県指定記念物だが松枯れの様相を
        見せるのが気がかりである。

        
         村田光尾翁は玉祖郷の旱魃に備えて玉泉池築造を献策し、1941(昭和16)年完成する。
        土地改良や造林にも尽力された恩恵に感謝するため頌徳碑が建立される。

        
         域内は農村地帯のためか広い敷地に大きな家が多い。その角に「玉の岩屋」の案内板が
        立つ。

        
         玉の岩屋は玉祖命が亡くなられて御祖の地に葬られた墓と伝えられているが、御祖神を
        祀った跡ともいわれている。

        
         江良の疫神社は玉祖神社の四方神の1つとされ、鳥居には昭和9年(1934)10月吉日種
        馬記念とあり。

        
         行く手に県立医療センターバス停があり、JR防府駅行きに乗車する。


岩国市柱島はトンボロ現象がみられる島

2021年11月13日 | 山口県岩国市

        
                 この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         柱島(はしらじま)は岩国市柱島に属し、安芸灘に浮かぶ柱島群島の本島である。面積は3.
        1㎢で起伏状山地の沈水島で、ほぼ中央に標高290mの金蔵山が聳え、その周囲を多く
        の浸食谷が放射状に発達する。
         島名の由来について、島内に多くの神様が祀られ、御柱が多いことから柱島となったと
        伝える。(歩行約7km、🚻待合所のみ) 

        
         土日祝日は利用しやすい10時の便があり、岩国駅からいわくにバス和木駅行き6分、
        新港バス停で下車する。車だと岩国港には十分な駐車スペースが設けてある。

        
         高速艇「すいせい」に乗船すれば柱島まで約60分の船旅である。

        
         船室は一段下がっているので、航行中に島々を眺めるには難がある。

        
         窓には海水が被りうっすらと見える程度だった。

        
         2021(令和3)年現在、人口113人・89世帯が暮らす島には、商店、旅館、郵便局
        や市出張所などがあって島とは感じさせない。上陸すれば右手にトイレ付き柱島港待合所、
        左手は商店、正面には金蔵山が聳える。

        
         郵便局前の通り。

        
         赤根武人生家跡へは金蔵山登山道を上がる。(柱島漁港)

        
         上がって行くと背後に安芸灘が広がる。赤根武人の生家跡は、最初の人家横を抜けると
        旧郵便局前に出る。

        
         1838(天保9)年赤根武人は柱島の医師・松崎三宅の次男として生まれ、15歳の時に
        妙円寺の海僧・月性に学び、浦家の家老・赤根雅平の養子となる。

        
         柱島小中学校、藤原穂智之墓、旧海軍指揮所跡は金蔵山登山道の傍にある。

        
         高台にある柱島小中学校の校舎が見えてくる。

        
         小学校は2008(平成20)年休校、中学校は2008年に再開されたが2010(平成
          2)
年に再休校となっている。 

        
         グランドの先に牧地区と海に浮かぶ小柱島。

        
         学校の玄関横に丸型ポストが門番のように立っているが、展示品で使用不可とのこと。

        
         地元の方によると、学校先に案内板があって約25~30分で山頂に立つことができる
        が、登山道を整備するも猪が多くて荒らされるとのこと。登山靴でなくても登れるし、距
        離を示す案内も設置しているのとのことだったので挑戦する。 

        
         切り開かれた尾根を越えると左手に柱島城跡がある。かって忽那(くつな)水軍の勢力下に
        あった七島の1つが柱島であった。
         しかし、城といっても見張所のようなものであったと思われる。 

        
         この島を統治していた柱島氏の祖とされる藤原穂智(やすとも)の墓で、平安期の1070
        (延久2)年3月26日没とされる。

        
         途中の展望地から牧地区と松田港、その沖に小柱島。          

        
         柱島の中心地である来見地区。柱島水軍という海賊集団が、敵船が来るかどうか見張り
        に行っていたのが地名の由来とか。

        
         呉軍港に向けて進入する敵機を発見するため、周辺の島々に多くの照聴所が設置された。
        柱島には1943(昭和18)年には探照灯、指揮所などが設けられた。
         
一帯は薮化して入り込むことはできなかったが、3層式水槽付近のみ笹刈りされて見る
        ことができる。

        
         水槽から頂上へ向かう途中に煉瓦造の指揮所が残っている。 

        
         内部にタワー状の建物がある。

        
         背後からの指揮所。 

        
         山頂にも関連施設があったようだが、薮化して歩ける状態ではなかった。三角点に行け
        ば展望が開けるようだが立ち寄らずに下山する。

        
         集落に下ってくると観音様の祠が見える。

        
         観音堂は江戸中期頃に創建されたといわれ、お堂の中に4体の観音像が祀られている。

        
         最上部の民家と小中学校。

        
         漁港側に民家が密集する。

        
         善立寺(真宗)は柳井の誓光寺の末寺で、1626(寛永3)年創建と伝わる。武人の姉が嫁
        いでおり、1865(慶応元)年柱島に潜伏した際に隠れていた場所の1ヶ所と伝えられる。
         
        
         平地が少ないため階段状に民家が並ぶ。

        
         赤根武人の墓がある西栄寺への案内板。

        
         西栄寺は屋代島の西方寺末寺で、もとは禅宗であったが近世に入り、生業が農と漁に変
        わると宗旨も浄土真宗になる。
         寺は時の豪族・中冨氏によって建立され、寺の周辺は柱島水軍の城跡と伝えられる。

        
         高杉晋作らとともに奇兵隊を結成し、3代目総督になった赤根武人は、後に藩内の俗論
        派と攘夷派との調停を図ったことが同志に二重スパイと疑わる。さらに、高杉晋作らが武
        力により藩論の統一を図ると内戦を危惧したため高杉と対立する。
         その後、出奔して上方へ赴き、幕府の長州尋問一行に随行するが、工作は成功せず生誕
        地の柱島に潜伏したが、1865(慶応元)年裏切り者として処刑されるという悲運の志士で
        ある。
         墓は養子先の柳井市阿月の赤根家に埋葬されていたが、1902(明治35)年に武人の娘
        リウの夫・中冨信次郎の要請により分骨された。 

        
         加茂神社手前に井戸が現存する。

        
         加茂神社の創立年代は不明であるが、平安期の1177(治承元)年平判官康頼と丹波少将
        成経が、俊寛僧都と共に当島に配流されて来た後、両名が信仰していた加茂神社を勧請し
        たと伝えられている。
         島の産土神で境内には13社があり、柱島には末社として八幡社、稲荷社、岬社がある。

        
         今の社殿は神託により宮の峠に移されたとされ、小さな島には不似合いなほど立派な神
        社である。

        
         下ってくると北迫八幡宮。小さな本殿の手前にある鳥居は途中から折れたままとなって
        いる。

        
         浦庄の浜に下ると畑地が広がる。

        
         明治後半から大正期にかけて石灰を生産していた炉が残るという新宮の鼻。干潮期にだ
        け海の中から現れる砂の道「トンボロ現象」が見られる。

        
         約1㎞にわたる美しい白砂の浜だが、「陸奥」沈没後には多くの遺体が流れ着いたとい
        われる。遺体は目の前の続島で、極秘のうちに荼毘されたという。

        
         昭和の時代に海水浴客を直接船で運んでいた桟橋の橋桁が残る。

        
         1943(昭和18)年6月8日軍艦「陸奥」は広島湾沖の柱島泊地に停泊中、不慮の爆沈
        により1,122名が犠牲となる。
         柱島の人々によって、続島で荼毘に付した遺骨を集め、続島と柱島泊地が見えるこの地
        に「英霊の墓」として埋葬された。

        
         戦艦「陸奥」は柱島から南西2㎞沖の海底に沈む。 

        
         加茂神社から海岸部へ下って、つわぶきの花が咲く道を歩くと漁港に出る。

        
         14時15分の便に乗船するが、デッキから島々が見られる季節に、島内の他地区に足
        を運んでみたいものだ。(牧地区)


下関市吉母は本州最西端の集落

2021年11月11日 | 山口県下関市

               
                        この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         吉母浦(よしもうら)は島しょ部を除けば本州の最西端、西は響灘に面する。
         地名の由来について、藻を集めることから「寄せ藻」という言葉ができ、後に吉母に転
        訛したという。(歩行約2.3km)

        
         JR下関駅からサンデンバス吉母港行きがあるが、毘沙ノ鼻に立ち寄るため車で訪れる。  
        バス終点の吉母港バス停付近は「地元駐車場」とされているが、広い空地の片隅に駐車さ
        せてもらう。

        
         正面に黒嶋観音堂。

        
         漁業の守護神であるゑびす神社。

        
         金比羅大権現の鳥居と頂上に黒嶋観音堂。

        
         沖合いに浮かぶ蓋井島。

        
         お堂は阿波国第1番・霊山寺とされ、釈迦如来の地蔵尊が祀られている。山手側は黒嶋
        観音堂への参道。

        
         参道の途中には四国八十八ヶ所霊場の石碑が並ぶ。

        
         観音堂が建つ突端部の小高い丘は、今は陸続きだが、名のとおり昔は島であった。西光
        寺の飛地境内であり、奈良期の739(天平11)年行基が開創したとされ、十一面観音の秘
        像を本尊とする。

        
         境内から見る吉母の町並み。

        
         吉母漁港は下関市が管理する地元漁業者を主体とする第1種漁港で、漁業者は一本釣り、
        採貝を主な漁法としている。(栽培センター付近より) 

        
        
         漁村集落特有の1~2軒ごとに海への通路が設けてある。

        
         この地に「産堂(うぶどう)」と呼ばれる祠堂があったが、由来については諸説あるようだ
        が、地元ではこの祠の祭神を彦火火出見尊(ひこほほでのみこと)として祀ってきたという。
         1908(明治41)年若宮神社に合祀されて、跡地に「胞塚(えなづか)」のみが現存すると
        いう。

        
         かってのメインストリートに出る。

        
         郵便局付近。

        
         どういう通りであったかはわからないが、商店と民家が混在していたものと思われる。

             
         1874(明治7)年吉母小学校は西光寺を教室にして開校。その後、名称変更を経て現校
        名となる。ハマユウの育成に取り組むことで知られていたが、今もされているか否かは

        り得なかった。

        
         古塀の先で集落は途切れる。 

        
         草場川の川辺で白鷺が一羽佇むほど静かである。

        
         海の家前が吉母海水浴場。

        
         これといった見処があるわけではないが、本州最西端の集落ということで歩いてみた。

        
         毘沙の鼻まではポイントに案内があってスムーズに行くことができる。岬には駐車場と
        トイレも完備され観光地化されている。

        
         展望広場まではフラットな遊歩道が設けてある。

        
         海抜120mの広場には「本州最西端の地」と記された灯台型モニュメントがあり、そ
        の先に展望デッキが設置されている。正面に蓋井島が横たわるが、あとは大海原が広がっ
        ている。 

        
         東屋の先から見る断崖の海岸線。