ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

宇部市の船木は厚狭郡の中心地だった町

2019年12月09日 | 山口県宇部市

        
              この地図、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分1地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複 第546号) 
         船木は北部を国道2号線、南側を山陽新幹線が東西に走り、内を東から西へ有帆川が流
        れる。旧山陽道の本宿が置かれるなど、この地域の中心として発展した。(歩行約6㎞)

           
         船木へはJR宇部駅から船鉄バス約15分、終点の船木バス停で下車する。

           
         バス終点は船木鉄道本社で、かつては宇部市西宇部から吉部間を結んでいた船木鉄道の
        中心駅であった。

           
         興福寺には「番匠観音」と呼ばれる地区内最古の木造仏像「聖観音菩薩」がある。楠地
        区由来の観音で航海安全に霊験あらたかといわれている。

           
         国木田独歩の父・専八が裁判所主席書記として赴任した際に、現在の筑尾さん宅裏側に
        ある2階家に住んでいた。著書「欺かざるの記」にその時代を述懐している。

           
         旧山陽道に出て右折すると、緩やかな上りである。

           
         右手にある願生寺(浄土真宗)は大内義隆の家臣だった山名源二郎が、1551(天文20)
        年義隆の敗死に殉じ、その子山名刑部は出家する。周防国富田の善宗寺の弟子となり、帰
        国後に船木の西山に一宇を建立し、1592(文禄元)年現在地に移転する。


           
         寺の境内に「史跡松下園(寺小屋)跡」と書かれた標柱がある。1848(嘉永元)年から
        1872(明治5)年まで25年間ほど寺小屋が開かれていた。

           
         岡崎八幡宮の大きな鳥居の向かい側に、船木宰判高札場跡を示す標柱がある。1902
        (明治35)年頃まで、船木、万倉、棚井など6ヶ村の掲示板として利用し、掲示板は「ゴコ
        ウサッパ」と呼ばれていた。

           
         船木峠から下った市頭に「山陽道一里塚跡」と記された白い標柱がある。赤間関間で9
        里(約35.4㎞)
、安芸境小瀬まで27里(約106㎞)とある。

           
         岡崎八幡宮は宇佐八幡宮創建後、和気清麻呂が船木に廟を建て、これを岡崎の宮と称し
        たのに始まるという。古くから崇敬されてきた船木全体の産土神。

        
         1551(天文20)年陶隆房(晴賢)逆乱のとき兵火のために回禄、歴代の神宝もこの時に
        多くは焼失したとされるが、1576(天正4)年に再建されている。

           
         楠町の由来となった樹齢700年のクスノキがある。クスノキの巨木に寄生するシーボ
        ルト・コギセルという巻貝は、潮の干満につれて幹を上下すると云われ、海上安全の神と
        して珍重されたとのこと。

           
         全国でも4社しかない清酒醸造許可を持つ神社として知られている。他は伊勢神宮、出
        雲大社、千葉県莫越山神社だそうだ。

           
         1873(明治6)年4月勘場の東側にあった長谷川宅の長屋を校舎として、日本で3番目
        の女学校が誕生した。
         厚狭毛利家10代毛利元美の妻・勅子(ときこ)は学校創設者であり、日本初の女性校長で
        もあったが、1879(明治12)年2月2日に61歳で没する。同年4月新築校舎が落成し、
        勅子女史の名にちなんで船木女児小学を「徳基学舎」と改称する。

           
         石炭発祥の地とされる大きな石碑があるが、毛吹草(けふきぐさ:江戸前期の俳書)に「船木
        石炭」が見え、船木の石炭は江戸期から著名であった。
         風土注進案によると逢坂村、船木市村の出炭は少なく、当時でも有帆村、東須恵村の方
        が出炭量は多かったが、周辺部を含めて「船木石炭」と称されていたのであろうと記す。

           
         毛利家の公館で、今でいう「迎賓館」的存在で、藩主や幕府の役人、大名などの宿泊・
        休憩に利用された。

           
         萩藩は領内を18の行政区として、18の宰判(つかさどり,判する所)を置き、萩から
        出張する代官がいる所を「代官所」といい、庄屋、村役人が出勤する所を「勘場」といっ
        た。

            
         1889(明治22)年町村制の
施行により、近世以来の船木村が単独で自治体を形成し、
        この地に村役場を置いた。


           
         むくり屋根が特長の不二醤油さん。

           
         宿場の用水路は普通1本だが、船木は南北に2本ある。この北用水路は大木森住吉社前
        に流れ出て有帆川に注いでいる。

           
           
         南用水路は防火用水として使用され、所々に井側が埋め込まれ、渇水対策がなされてい
        る。

           
         町の南側を新幹線が遮断している。

           
         室町期の1411(応永18)年に山口市小鯖の泰雲寺が火災焼失したため、定庵(じょうあ
          ん)
禅師は長門の大寧寺3世となったが、1417(応永24)年に辞して一庵を構え、瑞松庵
        (ずいしょうあん)
と称する。師である薩摩福昌寺の石屋真梁(せきおくしんりょう)禅師を迎えて
        創建する。

           
         珍しい茅葺きの山門である。

           
         船木宰判の勘場にあった裏門で、1878(明治11)年郡区町村編制法に基づき勘場は厚
        狭郡役所となったが、1882(明治15)4月の火災で焼失したが残存する。1935(
          和10)
年道路改修の際に船木町より寺へ寄贈される。

           
         山門手前には幕末の社会事業家・千林尼の顕彰碑がある。16歳で嫁ぐが夫との不和か
        ら、家を出て仏門に入り宇部常盤池畔に住んでいた。1857(安政4)年3月船木の逢坂観
        音堂の堂守となり、その後、船木に通じる道路を改修する。1869(明治2)年5月厚狭町
        字木部田の玉泉庵に逝く。


           
         室町期の1431(永亨3)年長門守護職大内持盛が寺堂を建立する。以来、大内氏や毛利
        氏の手厚い加護を受けた。1800(寛政12)年に寺堂が大破し、1802(亨和2)年現在の
        建物が建工される。

           
         開山石屋真梁禅師及び定庵禅師は薩摩の人、4世守邦和尚は島津元久の子であり、島津
        の家紋が寺紋とされている。

           
         関ヶ原の戦いで敗けた毛利輝元は家康が大坂城を攻めた時、徳川軍に参戦する一方、吉
        部の荒滝城主・内藤元盛に大阪方に加わるよう命じた。大阪夏の陣で豊臣氏の敗北で毛利
        氏一門であったことが露見する。萩藩のために責任をとって、1615(元和元)年山城国の
        鷲巣寺で自刃し、事情を知る息子の元珍・元豊は幕府の追及を恐れる輝元によって自刃さ
        せられる。

           
         女子教育の先覚者である毛利勅子の遺言によって招魂碑が建立される。「厚狭にむくろ
        は帰るとも、魂は長く船木の地に留まる。厚狭には懇意な船木の人々が参ってくれるのに、
        不便であり遠路で困るであろうから、私の遺髪をこの地に留める」と、遺髪が青磁の壺に
        納めて石碑下に埋められた。

           
         新幹線から山門を見ることができる。

           

         瑞松庵から県道29号線(宇部船木線)を引き返すと右手に船木保育園。その左手の山裾
        に来迎寺がある。

           
         慶長年間(1596-1615)に毛利元安の帰依により創立される。門外の標石には日本最初の願
        生尊とあるが、詳細は知り得なかった。


           
         境内より船木の町並み。

           
         船木宿の西端で旧山陽道は国道に合わす。

           
         国道が北側を迂回したため、旧宿場町の家並みは今でも雰囲気を残し、静かに息づいて
        いる。

           
         神社そばの地蔵座堂は、1723(享保8)年岡崎八幡宮の境内に建立された。明治の神仏
        分離令(1868)により河原近くに遷座したが、同年に現在地へ移された。

           
         1871(明治4)年に諸隊脱退兵が船木に集結したが、その際に兵士たちが地蔵の背中に
        鉄砲弾を撃ち込んだとされる。(コンクリートで補修)

           
         大木森住吉宮の祭神は海上航路の安全を守護する神(住吉大明神)とされる。神宮皇后が
        軍船を造るために、ここのクスノキを切られたという巨木伝説から「船木村」「楠町」な
        どの発祥の地とされる。

           
         訪れる度に古い町家は取り壊されたり、改築されたりして変貌しつつある。

           
         船木宿は願生寺の下り坂から、ほぼ一直線に西下している。

           
         袖壁のある町家。

           
         元タバコ屋さんと不二醤油屋さんに通じる路地。

           
         正面には虫籠窓でなく角型の窓が複数並んでいるが、九州の建築文化の影響とも云われ
        ている。

           
         古い町家の形態は残されているが、そのほとんどが近年に手が加えられている。

           
         元クリーニング店と元ふじや食堂。

           
         先に進むと交差点手前の左手に旅人荷付場跡がある。江戸期には駅馬15頭と人足十数
        人が用意され、公儀役人や大名行列、旅人の世話をしていた。
         1871(明治4)年12月に廃止されて郵便取扱所の会所となるが、現在は小公園となっ
        ている。

           
         クスノキがデザインされた旧楠町のマンホール蓋。

           
         正円寺参道。

           
         正円寺(真宗)は元々、御茶屋があった所に立地していたが、1646(正保3)年から16
        61(寛文元)年まで郡代官所は吉見村の中村(現宇部市)にあったが、厚東川の氾濫に脅かさ
        れるなど立地不安定なため船木に移転することになり、寺は移転させられたという歴史を
        持つ。

           
         幕末に千林尼(せんりんに)が托鉢をして浄財を集め、棚井山田石畳道を造った史跡が残さ
        れているが、距離的に遠く残念してバス停に戻る。
        
         


宇部市万倉は国司家ゆかりの地

2019年12月09日 | 山口県宇部市

           
        この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分1地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複 第546号)
         万倉(まぐら)有帆川の上・中流域の丘陵と冲積低地に位置する。地名の由来について、
        風土注進案は郡家の西南に楠の大木があり、その木が大木であるため、この地方を覆い常
        に暗かったので村名を真暗と名付け、後に万倉となったとされるが附会のようだ。マグラ
        のマは「真赤」とか「真白」のマと同じで、クラは「岩、谷」のことで、「岩の多い所」
        という説がある。(歩行約6㎞)


           
         芦河内まで行くにはバスの利便性が悪く、車を使用して「楠こもれびの郷」を起点とす
        る。

           
         こもれびの郷出入口には案山子コンテスト用の作品が展示中。

           
         宮尾八幡宮南参道は桜並木。右手は戦前まで宮競馬が行われていたようだが、今は近所
        の方が畑として耕作されている。

        
         宮尾八幡宮について風土注進案は、社地は旧万倉村の「亀之頭」にあって神功皇后朝鮮
        出兵の際に軍船を作った旧跡で、応神天皇の時代に武内宿禰がその場所に一社を造立させ
        たのに始まるという。その後、南北朝期の文和年間(1352-1356)厚東義武の時、現在地に遷
        座して宇佐神宮より勧請・合祀したという。

           
         境内社として玉垂神社・菅原神社などがあり、鎮守の森は椎の木を主体とした照葉樹林。

           
           
         旧道に家並みが続くが、新しい住宅が主流を占める。

           
         1889(明治22)年町村制の施行により、芦河内、今富、矢矯、奥万倉、西万倉、東万
        倉村の区域をもって「万倉村」が発足。この地に万倉村役場が置かれた。

           
         1865(慶応元)年長州藩主・毛利敬親の意を受けて各郡に招魂場を設置する。
        1868(慶応3)年万倉村を知行地としていた国司純行は、土井垰山に招魂場を設置し、禁
        門の変の責を負い自刃した義父・親相をはじめ、戦死した26名の英霊を祀ったのが始ま
        りとする。

           
         本殿の中央に国司親相(くにし ちかすけ)の肖像画が掛けられている。

           
         100基を越える戦没者の霊標が並ぶ中に、幕末の禁門の変や第二次幕長戦争における
        国司家の戦死者が祀られている。

           
         護国神社から今富地区への市道を緩やかに上ってゆく。

           
         万倉盆地の北にある正楽寺集落。

           
         四国八十八ヶ所弘法大師御山安置札所の石碑がある。

           
         天竜寺(曹洞宗)は初め正楽寺と称していたが、南北朝期の1348(貞和4)年厚東武村が
        祈祷所として諸堂を建立し、南禅寺の末寺となる。厚東氏没落後、
観音堂のみ残ったが、
        1494(明応3)年末富重泰が再建して天竜寺としたが再度荒廃する。1570(元亀元)年当
               地の信田之丸(しだのまる)城主・杉重良が、周防国宮野村より定林寺を引寺して菩提所とする
       が、やがて衰微する。   
        1625(寛永2)年萩藩家臣の国司備後が、周防国下徳地二宮(現山口市徳地)から万倉村に
       給領地替えになる。二宮にあった宗吽寺(しゅううんじ)を移建して菩提所とし、1743(寛保
              3)年天竜寺と改称する。

           
         堤堰堤を巡ると国司家歴代の墓所がある。(手前が国司親相夫妻の墓)

           
         室町期の1493(明応2)年杉重春が万倉に隠居屋敷を賜ったことが見え、杉重矩(しげの
          り
)
は陶晴賢の反乱を招いた黒幕といわれる。晴賢に組みしたが後に対立して鴨庄で討たれ
        る。この境内に杉家の墓もある。

           
         広矛(ひろほこ)神社は鎌倉期の永仁年間(1293-1299)に奥万倉の柏ノ木に創建されたと伝え、
        若一(びゃくいち)王子と称していたという。1471(文明3年)社の近くに葬場が造られ、神
        託に
より大内氏の家臣・平(杉)武辰が域内の平野に移建する。永正年間(1504-1521)頃村人
        の金右衛門に神託があったが、村人はとりあわずにいたため疫病が流行したと伝える。1
        571(元亀2)年領主の杉重良が神託のあった現在地に社殿を移して再興したという。

           
         寺と神社の間を抜けて有帆川に沿う。

           
         国司家は毛利譜代の重臣で寄組に列し、万倉伊佐地に居館を構えた。

           
         国司親相は、毛利元美(厚狭毛利)の後を受けて、赤間関総奉行に任じられる。一代家老
        に進み、七卿と萩藩の失脚を挽回すべきと、1864(元治元)年益田・福原とともに兵を
        いて上京したが、禁門の変の責任を負って切腹する。

           
         居館跡の上方に鎮座する美登里神社は、国司信濃親相を祭神とする。出立のとき「跡た
        れて 君をまもらむ みどりそふ 万倉の山の 松の下かげ」と詠む。享年23歳

           
         県道37号線(宇部美祢線)を歩いて
楠こもれびの里に戻ってくる。

           
         室町期の1418(応永25)年に芦河内薬師堂が再建され、茅葺、寄棟造りで正面と両面
        が吹き抜けという古い形の薬師堂である。

           
         堂内には阿弥陀如来、薬師如来などの像がある。

           
         1876(明治9)年に芦河内小学校が設置されるが、1884(明治17)年万倉小学校の分
        校となる。1974(昭和49)年に廃止されて芦河内地区集会所として活用されている。

           
         県道沿いに芦河内バス停があるが、集落までは片道約1.6㎞も離れておりバス便数は少
        ない。