ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

大竹市阿多田島に灯台退息所と観音山

2023年09月04日 | 広島県

                    
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製加工したものである。
         阿多田島(あたたしま)は厳島の南にある島で、大竹市小方から南西海上11㎞に位置する。
        周囲12㎞の中央には高山と西には標高100mの小山地がある。平地は両山地の間、内
        深浦から外深浦に少しみられるのみである、(歩行約5.5㎞、🚻港待合所のみ) 

        
         JR玖波駅前(8:40)から大竹市こいこいバス大竹駅行き約20分、小方港バス停で下車
        する。このバスは一律200円と安価なため多くの方が利用されている。

        
         待合所に入ると「乗船券は船内で販売」とあり、出航すると船員さんが販売にまわる。
        (往復1,420円)

        
         出航すると右手に三菱ケミカル(旧三菱レイヨン)の工場群が続く。

        
         フェリー「涼風」に乗って約35分の船旅だが、初めて目にする厳島の裏側は、洋上か
        ら眺めるといくつもの峰があって弥山がどれなのかわからなかった。  

        
         釣り人、島の関係者などと下船すると、正面に待合所、その奥に阿多田島漁協。集落は
        島の北東岸の本浦のみである。

        
         「あたたかい 阿多田島」とあるが、阿多田の地名は、「あたたかい島」が訛ったもの
        という説がある。

        
         まずは正面の山腹に見える阿多田小学校体育館へ向かう。
         この島の住人の生業は半農半漁であったが、大正期から昭和期にかけて鯛のしばり網、
        鰯網が盛んになって漁業が中心となり、1965(昭和40)年にはハマチ養殖が始まった。 

        
         ネットが見えたので上がって行くと旧阿多田小学校グラウンドが残されている。創立年
        はわからなかったが、2013(平成25)年小方小学校に統合されて廃校となり、体育館の
        みを残して校舎は取り壊されていた。

        
         セミ・ドキュメンタリー映画「典子は 今」で、典子が知人女性に会いに熊本から一人
        阿多田島へ訪れるが、相手の女性は亡くなっていた。女性の兄から魚釣りを体験させても
        らった海である。

        
         集落に入って行くと迷路で気の向くままに歩くほかない。 

        
         演福寺(真宗)は漁港の背面に位置し、1717(亨保2)年開創とされる島唯一の寺である。

        
         港には江戸期に構築された「波除け石垣」が現存する。地元の方によると、この石垣ま
        でが海岸線であり、平たい石で宅内に波が入らないよう工夫されたものという。(元は網
        元宅)

        
         鳥居脇には、1978(昭和53)年7月当時の皇太子夫妻が、ハマチ養殖場の視察のため
        行啓された旨の碑が建立されているが、島にとって名誉なことであったと思われる。

        
         1816(文化13)年3月大工屋平左衛門が寄贈したという四脚灯籠がある。建立当時は
        灯台の役目を担っていたというが、現在では町並みも変わり、海岸線が沖に向かって埋立
        てされて、当時の様子を伺い知ることはできない。(台座に盃状穴)

        
         参道右にある日清戦争凱旋記念碑は、3世紀後半から7世紀後半にかけて備中にあった
        箱型石棺の蓋を利用して作られている。裏側には大小20個ほどの盃状穴が見られる。

        
         1712(正徳2)年島に初めてネズミ被害が発生すると、数年毎に被害を受け、悪ネズミ
        を撲滅する祈祷が神社前で行われたという。1908(明治41)年まで島民を苦しめたネズ
        ミ被害は、明治の中期以降に殺鼠剤が導入されてようやく撲滅したとされる。当時は神仏
        に頼る以外に方法がなかったようだ。

        
         阿多田島神社の由緒によると創始は不明だが、往古、名島・来島の両豪族がこの島に漂
        着し祀ったと伝わる。社地は元和年間(1615-23)に上田宗固が小方村の給領主になった時に
        寄進したといわれている。

        
        
         集落には独特な傾斜に家々が並び、積み上げられた石垣は野面積みだったり、少し隙間
        のある石垣(打ち込みはぎ)、隙間のない石垣(切込みはぎ)という方法が用いられている。

        
              海の家「あたた」の案内を目印に坂を上がって行く。 

        
         町並みを見下ろせる場所もある。

        
        
         ベンチのある向い側が観音山登山口。

        
         急斜面はなく横木の階段が設けてあって歩きやすいが、この時期はクモの巣払いに一苦
        労する。

        
         山頂は標識など何もないが、少し下った所に観音堂がある。

        
        
         堂内にある由緒によると、寛永年間(1624-44)頃に玖波村の漁師・与右衛門が肥前国(現
        長崎県北部)の平戸沖で網にかかった観音像を持ち帰ったところ、夢枕に「わが身は平戸の
        生まれじゃ、平戸が見えるところに祀ってくれ」とお告げがあったので、この場所にお堂
        を建て安置することを誓ったという。それからこの山を観音山と呼ぶようになったと記す。
         何事もなく登れたことと観音像を拝顔できたことに感謝し、お賽銭と参拝を済ませて入
        口の戸をロックする。

        
         見える島が大黒髪島で、その手前の海の中に白石航路標識が見える。

        
         右手に見える島が甲島のようで、この島の中央が大竹市と岩国市の境界である。左奥に
        柱島、端島、黒島も見える。

        
         岩国方面。

        
         キキョウは秋の七草の1つで、華奢な花姿と星形の青紫色の花が印象的なのでシャッタ
        ーを押す。花は秋だが今日は秋にはほど遠い真夏日である。

        
         登山口に戻ってさらに上って行く。

        
         高山登山道入口の先にある三差路は左へ進む。(海の家まで435m) 

        
         1996(平成8)年大竹市が管理する宿泊施設「海の家あたた」が開設されたが、開館日
        が指定された施設である。(本日は休館)

        
         島の東、3㎞沖合にある白石礁という岩礁に設置された安芸白石灯標を管理する目的で、
        1903(明治36)年白石挂灯立標(けいとうりゅうひょう)吏員退息所が設けられた。
         1889(明治22)年呉に大日本帝国海軍鎮守府が設けられ、1895(明治28)年に日清
        戦争が勃発すると、宇品港が兵站基地として利用される。そのため軍用艦船の運航用航路
        標識が設置されたが、太平洋戦争では米軍の機銃掃射を受けて破壊される。

        
         煉瓦造りの外壁にモルタルを塗った建物で、入口側にあるのが付属屋の物置(建築面積
        42㎡)とされる。

        
         物置とされるが浴室、3号宿舎があったようだ。

        
         ここに吏員の一家が住み込んで、白石灯台を守り、海の航行の安全をサポートしていた
        灯台守の職場と家庭があった場所である。
         船で灯台に出向いて点火したり、保守管理にあたっていたが、1978(昭和53)年に無
        人化されて灯台守の役目を終えたという。

        
         吏員退息所(91㎡)はアーチ形の出入口や窓の鎧戸等に洋風の意匠が取り入られている。
        建物は近代化遺産として国の有形文化財として登録され、現在は灯台資料館として活用さ
        れ、吏員の暮らしぶりがそのまま残されているという。
         島の方から「事前に市役所に連絡してきたかね」といわれたが、明治時代のノスタルジ
        ックな建物を見るだけでも価値があった。

        
         資料館前では青い海と瀬戸内の島々が堪能できる。

        
         資料館から石段を下ると透明度のある海と海岸線が美しいビューポイントである。

        
         石柱があるので近づくと白石燈立標用地とあり。

        
         煉瓦造の附属屋は燈火用の油庫として使用された。退息所などは外観にモルタルが施し
        てあったが、煉瓦の外観を残した建物で建築面積は14㎡とされる。 

        
         亀甲模様の中央に大竹市の市章が入った漁業集落排水マンホール蓋。

        
         1973(昭和48)年突堤(橋?)で繋がった対岸の猪子島(いのこじま)に渡る。

        
         阿多田港沖には、2010(平成22)年オープンした海上釣り堀「大漁丸」がある。帰り
        の船の中で釣り人にお聞きすると、料金は11,000円だが料金以上の収穫があるという。
        ここで釣り始めると他では釣る気になれないようだ。

        
         猪子島には住家はないが、海産物の加工工場がいくつかある。

        
         牡蠣養殖に使用されるホタテ貝が山積みされているが、貝殻の形状や大きさが揃ってい
        ることで作業がしやすいことや、種牡蠣が付着しやすいし離れにくいことで用いられてい
        る。

        
         龍宮神社の創建は不明とのことだが、往古、島の南に鎮座されたが、一時は阿多田神社
        に合祀される。1977(昭和52)年再び島に戻されることになり、この小山が適地として
        選ばれた。 

        
         「いりこ」は西日本で使われる方言のようで、語源は「煎り煮干」とのこと。
         船から陸揚げされたイワシは直ちに水洗いされて、大急ぎでプラのセイロに並べられて、
        海水の入った釜でじっくりと煮上げられる。後に天日干しで太陽と潮風の恵みを受けて出
        来上がるというシンプルな工程のようだが、鮮度を落とさないために時間との勝負である。

        
         イワシ網漁業ではこのような魚が同時に獲れるとのこと。

        
         1888(明治21)年本浦東で大火があり、民家28戸が焼失する。

        
         島には猫が多いが、阿多田島ではこの猫以外はお目にかかれなかった。

        
         船上から見ると橋というより防波堤である。

        

         121世帯229人が暮らす島だが、お会いした方から声掛けもあって「あたたかい島」
        だった。

        
         潮の干満の関係で洞門を見ることができなかったが、15時50分の定期便で島を離れ
        る。


広島市中区の縮景園・平和公園を巡る

2023年04月18日 | 広島県

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         広島は太田川河口部のデルタ地帯に位置する。地名は広い中州に由来する説と、毛利輝
        元が広島城築城に際し、城地選定を担当した土豪・福島元長の「島」と毛利氏始祖の大江
        広元の「広」と合わせ、「広島」とした説がある。 (歩行約6.9㎞)


        
         JR広島駅南口広場は新たな複合駅ビル建設のため、迷路のように迂回路が設けてあっ
        て、しばらくはどこに出たのかわからなかった。(完成は2025年3月)

        
         城北通りに出て栄橋を渡る。

        
         幟町中学校校内に「折り鶴の碑」が
建立されているが、碑文によると「1955(昭和3
          0)
年幟町中学校1年生だった佐々木禎子さんが、原爆による白血病のため12歳で短い生
        涯を閉じた。級友たちはその死を悲しみ、全国の子どもたちに呼びかけて平和記念公園に
        「原爆の子の像」を建てた。病床で生き抜く希望を折り鶴に託した禎子さんの物語は、や
        がて国内外に広がり、多くの折り鶴がヒロシマに届けられるようになった。
         それら折り鶴の一羽ずつに込められた願いを大切に受け継ぎ、禎子さんの命日である1
        0月25日には碑に折り鶴を置き、世界平和を築く決意を明らかにする」とある。

        
         幟町中学校筋に「雪椿の乙女」というタイトルの像が建っている。建てられた理由は定
        かではないそうだが、「平和」に関係するものだろうか。

        
         縮景とは各地の景勝を聚(あつ)め縮めて表したことを意味するそうで、この庭園は中国浙
        江省の西湖周辺の風景が縮景されたといわれる。門は冠木(かぶき)門形式で、冠木を2柱の
        上方に渡した屋根のない構造である。

        
         縮景園は、1620(元和6)年広島藩初代藩主浅野長晟(ながあきら)が、別邸の庭園として
        築成したもので、作庭者には茶人として知られる家老の上田重安(号は宗箇)が起用された
        という。

        
         池泉回遊式庭園の中央に「濯纓池(たくえいち)」と呼ばれる池を配し、「跨虹橋(ここうき
          ょう)
」で東西を二分している。

             
         跨虹橋は天明の頃(1781-1789)に架けられた石製アーチ橋と陸橋で、戦前からある建造
        物だという。地上と天上を結ぶ虹に例えられているため、橋が大きく反った形になってい
        る。

        
         左前方に悠々亭を見ながら石橋の映波橋、昇仙橋、望春橋を渡る。悠々亭は木造平屋建
        て茅葺きの東屋で、古くは茶会や歌会に使用されたという。

        
         迎暉峰(げいきほう)は標高約10mの小丘で、かっては頂上から広島湾の島々が眺められ
        たという。

        
         悠々亭前は水面が開けて烟霞島(えんかとう)・緑亀島(りょくきとう)が浮かぶ。

        
         正面の清風館は数寄屋造りの茶室で、園のほぼ中央に位置し、これを基準に他の建物が
        配置されているという。
         日清戦争の際に大本営が広島に移され、縮景園は大本営の副営となり、明治天皇の居所
        として清風館があてられた。

        
         池の面積が8,020㎡あって、園内をぐるり一周すると1時間を要する。(日本の庭園
        100選)

        
         県立美術館前からの直進道には国の機関などが並ぶ。

        
         護国神社の鳥居を潜って広島城裏御門跡から城内に入る。

        
        
         裏御門は本丸の東に位置する城門で、櫓台石垣の間に門扉があり、その上に渡櫓が築か
        れていたという。

        
        
         1877(明治10)年広島鎮台司令部として2階建ての木造洋館が建てられ、のちに第5
        師団司令部庁舎となる。
         日清戦争(1894-1895)の際、大本営が東京から広島に移されたが、戦場だった朝鮮半島に
        近く、鉄道が整備され、宇品港(現広島港)に大型船舶が着岸できることが大本営移転の理
        由とされる。大本営の建物は原爆により倒壊し、現在は礎石のみが残る。(大本営とは天皇
        が戦争を指揮する機関)

        
         1957(昭和32)年天守再建工事の時、撤去された旧天守の礎石をそのまま移したもの
        で、一段低い石は現在も天守台に埋もれている石の位置を示しているという。

        
         旧広島城は、1599(慶長4)年毛利輝元が築城したもので、大天守から渡櫓で2つの小
        天守を連結する複合式の天守で、望楼型の大坂城を模したといわれる。
         1945年の原爆により小天守は一瞬にして倒壊したが、大天守は爆風による衝撃波と
        圧力で下部2層が上部の重さに耐えきれず自壊したという。現在の大天守は、1958(昭
          和33)
年広島復興大博覧会開催に際し、鉄筋鉄骨コンクリートで修復された。(日本100
                名城)

        
         天守閣からは広島市内が一望できる。

        
         広島護国神社は旧市民球場近くにあったが、原爆により焼失ため小祠を設けて祭祀を続
        けてきたという。広島復興に際して移転を余儀なくされ、広島城再建時に移転再建された。
        堀は中堀が埋め立てられて内堀だけとなる。 

        
         多門櫓は平櫓と太鼓櫓を結ぶ長い櫓で約63mもあり、左奥が太鼓櫓で二の丸唯一の2
        階建てである。かっては太鼓で時を知らせて城門開閉の合図をしていた。

        
         表御門は櫓門形式の門で、戦前まで残されていたが原爆により焼失したが復元される。
        右手に平櫓、堀にかかる橋が御門橋で広島城入口である。 

        
         城南通りから旧広島市民球場跡地への道を進む。

        
         旧市民球場跡地は公園化されたようで、道路の向い側に地上14階の複合商業施設「お
        りづるタワー」が建つ。

        
         原爆ドームとされる建物は、1915(大正4)年広島県物産陳列館として建てられ、煉瓦
        造3階建てで正面中央部分を5階建てとし、その上に楕円形のドームが載っていた。
         その後、広島県産業奨励館と名称変更されたが、1944(昭和19)からは内務省中国
        四国土木出張所など官公庁の事務所として使用される。 

        
         原子爆弾は広島市中心部の上空約600mで爆発し、建物は倒壊しおびただしい生命が
        奪われた。産業奨励館は爆風と熱線を浴びて天井から火を吹いて全焼し、建物内にいた全
        員が即死する。残骸は円盤状の鉄骨の形から、いつしか「原爆ドーム」と呼ばれるように
        なる。

        
         鈴木三重吉(1882-1936)はこの地に生まれ、1918(大正7)年に小年少女の雑誌「赤い       
        鳥」を創刊するなど、わが国の児童文学の父ともいわれている。赤い鳥文学碑は、被爆地
        ヒロシマの文化復興のシンボルとして、原爆ドーム近くに建立された。
         隣の碑には「 私は永久に夢を持つ たゞ年少時のことく ために悩むこと浅きのみ 三
        重吉」とある。

        
         初代相生橋の親柱(右側)と、1940(昭和15)年に建立された旧相生橋碑(左側)は被爆
        遺構の1つである。

        
         ドーム内部。 

        
         動員学徒慰霊碑は第2次世界大戦中、増産協力、建物疎開作業などの勤労奉仕に動員さ
        れて亡くなった学徒(原爆の犠牲者6,000余人を含む)約1万余人の霊を慰めるため建立
        された。塔の高さは12m、有田焼陶板張り仕上げで、平和の女神像と8羽の鳩を配した
        末広がりの5層の塔で、中心柱に慰霊の灯明がつけられている。

        
         元安橋東詰北側に広島市道路元標あるが、この辺りは陸上交通の主要街道が交差し、太
        田川の水運の利もあって広島城下の中心となっていた。江戸期には高札場があり、付近に
        は馬継場や藩公式の宿舎である御客屋などがあったという。
         広島からの里程はすべてこの地点から起算されていた。明治以後の県制施行にともない、
        ここに木柱で「広島県里程元標」が建てられたが、1889(明治22)年市制施行後は、現
        在の石柱に改められた。

        
         元安川では原爆投下後、熱線や放射線、爆風で傷ついた多数の被爆者が水を求めてこの
        川まで来て亡くなったという。
         資料館本館前の広場には、「水を、水を」と言いながら死んでいった犠牲者の霊に捧げ
        る噴水「祈りの泉」が設けてある。

        
         元安川右岸から見るドーム。

        
         すべての核兵器と戦争のない、平和共存を達成することを目的に設置された「平和の鐘」
        の表面には、「世界は1つ」を象徴する国境のない世界地図が浮彫りされている。

        
         1946(昭和21)年無数の死体を焼いたこの地に仮の供養塔が建てられ、1955(昭和
          30)
年に現在の姿となった。土盛りの内部には、原爆犠牲者約7万人の遺骨が納められて
        いる。名前不詳が大多数であるが名前の分かる遺骨もあり、現在でも遺族が分かり次第手
        渡されている。

        
         韓国人原爆犠牲者慰霊碑は、亀を象った大きな台座の上に碑柱が立ち、頂部に双竜の図
        柄を刻んだ冠がかぶさっている。原爆投下により2万余の韓国人が軍人、軍属、徴用工、
        動員学徒などで尊い人命を奪われた。
         碑は平和記念公園の外の本川橋西詰の河岸緑地にあったため、「民族差別」ではないか
        との声が出されていた。このため、広島市長は1998(平成10)年公園内への移設を許可
        する方針を表明したというが、日本のために犠牲となった人々に差別を設けた悲しい出来
        事でもある。

                
         三脚型ドームの頂上にある金色の折り鶴を捧げ持つ少女のモデルは、白血病で亡くなっ
        た佐々木禎子さんとされる。原爆で亡くなった多くの子どもたちを慰霊し、平和を守るた
        めの記念像を造ろうと、禎子さんの同級生らが募金を呼びかけて、1958(昭和33)年5
        月5日の子どもの日に建立された。

        
         1964(昭和39)年に建立された平和の灯(ともしび)の火種は、全国12宗派からの「宗
        教の火」、全国の工場地帯からの「産業の火」と宮島弥山の「消えずの霊火」が用いられ
        ている。
         以来、燃え続けているが、地球上に核爆弾がなくなり、核の脅威がなくなるまで消える
        ことはないという。

        
         碑文には安らかに眠ってください。過ちは繰り返しませぬから」とあるが、今でも愚
        かな人間による悲しい出来事が繰り返されていることに、ただ頭を下げるのみであった。

        
         悲惨な現実のすべてがここ広島平和記念資料館に集約されている。2006(平成18)
        資料館の本館部分が、戦後建築のものとしては初めて国登録重要文化財に指定される。

        
         「嵐の中の母子像」は、右手で乳飲み子を抱え、左手でもう一人の幼児をかばいながら、
        苦しみに耐え生き抜こうとする母親の姿を表す像である。
         1959(昭和34)年に開催された第5回原水爆禁止世界大会を記念して、彫刻家本郷新
        氏の石膏像が広島市に寄贈されたが、この原型を広島市婦人会連合会がブロンズ像にする
        ための募金活動が行われて建立された。 

        
         1936(昭和11)年に竣工した旧日本銀行広島支店は、鉄骨鉄筋コンクリート造3階建
        てで、外観は中央を花崗岩、その他を人造石ブロックで仕上げられている。
         爆心地から約380mの距離にあり、原爆投下により外形は残ったものの内部は破壊さ
        れて42名が犠牲となった。市内金融機関のほとんどが壊滅したため、各銀行は内部を仕
        切って窓口を設け、8月8日から業務を開始したという。

        
         広島電鉄でJR広島駅へ戻るが、時間の関係で本川小学校と袋町小学校の資料館を訪れ
        ることができなかった。 


東広島市の白市は坂の上に町並み 

2023年04月18日 | 広島県

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         白市(しらいち)は高屋盆地の東端に位置する。地名の由来は平賀氏が白山に城を築き、高
        屋東村の内を城下として分けて白市としたという。(歩行約5.3㎞)

        
         JR白市駅は、1895(明治28)年河内ー西条間の開通と同時に設置される。設置当時
            は小谷村で、白市は東高屋村であったが、白市の住民が出資して開業させたので白市駅と
        なったという。もともとは白市の方が賑わっていたので、こちらに敷設されてもおかしく
        はないが、機関車の音で牛馬が暴れるので離れた位置に設置されたという逸話もある。

        
         タクシーに乗車する予定はなかったのだが、運転手さんに距離を確認すると「すぐそこ
        が町並みなので歩かれた方が‥」との返事。

        
         県道59号線に合わすと西条方面に引き返し、次の小谷交差点を右折すると長い上り坂
                である。

        
         地元の方によると、木原家住宅前の道が県道(造賀田万里線)であったが、幅員狭小を解
        消するため御土居付近に県道が新設されたという。(右手の山が城山) 

        
         小祠の先に修路碑があるが、1928(昭和3)年道路の改修が行われた記念碑のようだ。

        
         浄土宗の西福寺(さいふくじ)は、平安期の1100(康和2)年代に安芸国賀茂郡溝口村(現
        ・広島県山県郡)に大福寺として創建された。1584(天正12)年当時の住僧・西蓮法師
        が現在地に移転させ、その名の一字をとって西福寺に改称したという。

        
         本堂に向って右手の石灯籠には、天明6年(1786)と刻まれているという。 

        
         平坦地でなく坂に沿って石州瓦の民家が並ぶ。

        
        
         道路の両側に大正期の建物であろう袖卯建を備えた民家がある。

        
         勝田家は江戸後期から末期頃の建物とされ、醤油醸造を生業にされていたという。 

        
         路地にも素敵な空間がある。

        
         重満家も江戸末期から明治初期の建物で、酒造業を生業されていたようで通りには跳ね
        上げの大戸が設けられている。

        
         郵便局の向い側は厨子(つし)2階建ての建物だが、構造上に違いがあるのか1階の屋根が
        長い。

        
         中央から四方向にペンと鉛筆が描かれ、その中に東広島市の「ひ」2つが鳥で表現され
        た市章があり、4つの輪には市の花「つつじ」と市木である「松」がデザインされたマン
        ホール蓋。

        
         酒店だそうだ。

        
         旧木原家は酒造業や竹原で塩田などを営んでいたという。(入館料@150-)

        
         1665(寛文5)年の鬼瓦があることから、江戸初期に建てられた商家と推測される。

        
         中の間と次の間(板間)

        
         下店と厨子2階部分。

        
         旧木原住宅の傍にある恵比須神社だが創建年などは不詳。

        
         恵比須神社側から見ると急坂である。

        
         T字路を左折すると伊原総十郎邸。明治期の特徴を持つ豪壮な造りで、町家の大型化を
        よく示した貴重な事例とのこと。伊原惣十郎は鋳物製造業を営み、京都御所や厳島神社の
        灯籠を手掛けるなど幅広く活躍したという。

        
         伊原八郎家住宅は、1915(大正4)年から2年かけて建築されたもので、玄関の熨斗
          (のし)瓦、鯱(しゃち)、格子窓など豪華な造りとなっている。

        
         稲荷神社の建立年代は不詳だが、1915(大正4)年建立の鳥居と、境内にはサイレンス
        ピーカーが置かれている。近くに火の見櫓があったようだが消滅していた。

        
         室町期の1503(文亀3)年平賀弘保は自領の中心に位置する高屋東村に白山城を築くが、
        大内氏と尼子の戦いの中に巻き込まれて衰退する。のち毛利氏に属する国衆となり、毛利
        氏の防長2州移封に随行して、その後は毛利氏の家臣として続いたという。

        
         舛木家は明治後期の建物とされ、奥行きが制限されているためか入母屋造の平入りであ
        る。 

        
         1503(文亀3)年平賀弘保によって牛馬市が始められたというが、本格的に行われ始め
        たのは1617(元和3)年といわれている。明治以降の白市は伯耆大山、備後久井と並ぶ牛
        馬の三大市と称された。(傍のお好み焼き「のむら」で昼食休憩) 

        
         西福寺からのT字路に至る南北の通りを本町、この東西の通りを西町といい、江戸初期
        には現在の町並みが形成されていたという。 

        
         養国寺(真宗)は平安期の元暦年間(1184-1185)創建とされ、当時は真言宗の法乗院という
        寺号であったが、1673(延宝元)年改宗して養国寺と称す。境内には江戸期の石灯籠や手
        水鉢などがある。

          
         本堂、山門(鐘楼門)ともに江戸期に建立された。

        
         土宮(つちのみや)神社は養国寺の隣に鎮座する。由緒がないのではっきりしないが、江戸
        期に伊勢神宮外宮の別宮である土宮(地主の神)を勧請したとされる。 

        
         石段を下ってくると明神鳥居の下にブロック状の石で山が描かれ、灯籠下の石段は鳥居
        の笠木が用いられている。

        
         光政寺への筋だが、牛馬市の期間中には上方から歌舞伎役者を招き、長栄座という劇場
        で歌舞伎が上演されたという。芝居小屋「長栄座」は戦後まであったというが痕跡は残さ
        れていない。

        
         旧木原住宅は主屋のほか蔵、井戸、庭園の一部が残されている。

        
         東町しろやま公園から見る白市の町並み。

        
         光政寺(こうしょうじ)は白山城跡の西麓にあり、城主の平賀弘保が1505(永正2)年に菩
        提寺として建立したという。本堂横には木原家の墓所があり、境内には1734(享保19)
        年の年号がある木原家寄進の宝篋印塔、石灯籠などの石造物がある。現在は無住のお寺の
        ようだが、荒廃している感じは見受けられない。

        
         寺入口に「六地蔵・うぐいす塚」が案内されており、70m程の山道を進むと右手に六
        地蔵がある。建立年代はわからなかったが、どうも木原保満寄進の石造物のようだ。 

        
         山道をさらに奥へ進むと鶯塚がある。多賀屋風律(1698-1781)は江戸前期の俳諧師で、風
        律13回忌(1793)に白市の弟子達が建立した追慕の碑とのこと。風律の句「鶯やとなりな
        れとも この地の枝」にちなんで「鶯塚」と刻まれた。

        
         西福寺から白市の町並みを見て白市駅に戻る。

        
         JR白市駅は広島シティネットワークの東端駅に位置して終始発駅になっているようだ。
        広島市と広島市のベッドタウンを結んでいる通勤・通学路線で、ローカルな地方に住む者
        にとっては羨ましいほどの運行本数である。 


大竹市玖波・小方に旧宿場町と亀居城跡

2023年03月28日 | 広島県

                
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         玖波(くば)は恵川が形成した海岸砂州の平地に立地。地名は木場に由来し、昔、この地
        が薪・材木の積出港地であったことによるという。
         小方(おがた)の東は瀬戸内海に面し、新町川の河口部にあって中央部を国道2号が走る。
        地名の由来は干潟によるとする説(芸藩通志)があるが他説もある。(歩行約5.4㎞)

        
         1897(明治30)年山陽鉄道の広島ー徳山間開通と同時に玖波駅として開業する。駅舎
        の状況からすると設置当時の駅舎と思われる。

        
        
         旧山陽道は峠越えの道だったようで、1873(明治6)年に広島~
大竹間の新道建設が進
        み、1880(明治13)年の幾多の難所を経て海岸沿いの国道が完成した。その後、192
        7(昭和2)年に入り拡張工事が行われ、現在でも町中を出入りする重要なトンネル(玖波隧
        道)である。(小山が馬ためし峠) 

        
         玖波隧道を出ると左手に延命地蔵。耳の病に悩む人を救済するという地蔵で、佐伯八十
        八ヶ所33番札所になっている。

        
         玖波は京から下ってくると安芸国最後の宿場町として栄えたが、1865(慶応2)年6月
        14日の幕長戦争で幕府軍を追撃する長州軍によって町は焼失してしまう。

        
         「つし」は中2階形式で、1階に人が広く住み、2階を物置とする人々の工夫から生ま
        れたものである。大正期から昭和にかけて、副業として蚕を中二階で飼って、収入源とし
        ていたといわれる。

        
         明治半ば頃になると漁業の町として、また、近隣地域からの物資の集散地として新たな
        町並みが蘇る。故に今も明治・大正期の建物がこの町には見られる。

        
         順広寺(真宗)は由緒がないため詳細不明。

        
         寺参道付近から隧道方向を見返る。

        
         玖波宿には4ヶ所の共同井戸があったとされ、角屋の釣井はその一つとして残されてい
        る。駅馬の繋留や人々の集まるところとして賑わい、宿場の重要な飲料水として使われた
        という。
         また、往来の要所であったため、次駅までの定賃銭などや幕府や藩が決めた法度(はっと)
        や掟書きなどを木の板札に書き、高く掲げられた高札場があったという。

        
         明治期になると掲示が不要なったため高札場は撤去され、後に道路の前にあった恵比須
        神社がここに移された。

        
         建物の両側に「卯」字型に張り出した袖卯建を多く見ることができる。

        
         この付近に玖波本陣があったとされ、本陣役は庄屋の平田家が担ってきたが、幕末の幕
        長戦争で本陣は焼失して今ではその姿を見ることはできない。
         一角に錣(しころ)屋根を持つ大きな民家が見られるが、大棟から屋根の途中で区切って段
        をおく形式で、兜の後ろを垂れている錣をイメージして呼ばれるようになった。瓦を積む
        前に屋根を木で組むなど複雑な技法を必要とし、家主が銭金を惜しまないというこだわり
        がないとできない工法である。(旧山陽道は右折して山手に向かう) 

        
         ゆるやかな弧を描いた「むくり屋根」を持つ町家。

        
         駅前通り。

        
         駅前交差点の先には
明治・大正期の建物は見られない。

        
         恵川上流にそびえる行者山(標高314m) 

        
         国道2号線に合わすと山陽自動車道大竹IC入口までは並行歩き。

        
         コンビニ前で国道と枝分かれする道に入る。

        
        
         鍵曲り付近手前から古民家が点在する。

        
        
         陸路と海路の要衝であった小方は、関ケ原の戦い後、福島正則が広島藩主になると、西
        方の備えために国境の地である小方に小方城(通称:亀居城)を築いた。当時、町場は家中
        町で町方は卸場と呼ばれる地に住んでいたが、城の退転後、次第に町人町になったという。

        
         旧山陽道は黒川から小方の城下に入り、苦の坂ヘとつながっていた。

        
         浅野氏の時代には家老上田氏の屋敷、境番所、口屋番所、紙見取り所などが置かれたよ
        うだ。

        
         亀居公園への道は他にもあるようだが、山陽本線に架かる歩道橋から公園を目指す。そ
        れにしても急傾斜の中に民家が建ち並ぶ。

        
         西念寺(浄土宗)の開祖は光明院(廿日市市宮島町)の運誉上人と伝えられ、城跡を見て隠
        居の場所にふさわしいと考え、この地に移り住み修行に励んだとされる。
         感銘を受けた人々が上人のために寺院を建立したいと考え、藩主福島正則に願い出ると、
        1615(元和元)年亀居城にあった円通寺を移築し現寺号にしたという。境内には大クスノ
        キと、本堂には幕府の軍艦が砲撃した傷跡が残されている。

        
         急坂を上って行くと背後に小方・玖波の町並みが広がる。

        
         毛利氏に替わって広島城に入ったのが、豊臣秀吉恩顧の家臣福島正則で、関ヶ原の合戦
        で東軍に与して勝利に貢献した。1601(慶長6)年に論功行賞で芸備二州(現在の広島県)
        を拝領すると、長州との国境である小方に亀居城の築城に乗り出す。
         1608(慶長13)年に城は完成したが、築城から3年後に亀居城は破却されてしまう。
        一説には豊臣氏と徳川氏との衝突が高まる中、豊臣氏恩顧の福島正則が広島城の支城とし
        ては、巨大で堅固な城であったことが災いして、徳川家康の疑念を招いて破却したといわ
        れている。

        
         亀居城は山陽本線の西に聳える標高88m余りの桜山に築かれており、現在は亀居公園
        として整備されている。桜見シーズンであるためか多くの人が訪れている。

        
         石垣造の城郭であるが、公園化により石垣は積み直された部分もあるが、往時の石垣も
        あって見応えのある山城である。本丸を中心に二の丸・三の丸など11の曲輪が続いてい
        るが、亀の形に似ていることから亀居城と呼ばれるようになったという。

        
         大竹方面が一望できる。

        
         公園から往路を引き返すと厳(いつき)神社の入口に立安寺(真宗)がある。創建年ははっき
        りしないようだが、1611(慶長16)年頃に禅宗から真宗に改宗したとされる。

        
         注連柱(標柱)は、大竹市内では最も規模の大きなものの1つとされ、1906(明治39)
        年の日露戦争凱旋記念として帰還兵士によって建てられたものという。
         右の柱には「徳被馬蹄之所極」、左の柱には「化照船頭之所逮」と彫られ、古事記の序
        文が引用されているとか。

        
         石段を上がると左手に住吉神社、正面に益豊神社と稲荷神社が祀られている。 

        
         鳥居の形式は両部鳥居で、宮島の厳島神社の大鳥居と同型である。柱の頭に台輪を載せ
        た稲荷鳥居に、四脚の控え柱(稚児柱)を従えている。
         木造の鳥居は良く見かけるが、石造りの鳥居は珍しく規模の大きな鳥居で、1926(大
           正15)
年10月吉日の建立と刻まれている。

        
         神社の由緒などは慶長年間(1596-1615)の火災で焼失して不詳とされるが、「応安2年
        (1369)再建」の棟札が残されているという。
         亀居城の守護神として本丸に鎮座していたが、城破却後は現在地(亀居城妙見丸)に遷座
        し、厳宮(ごんのみや)大明神と称していたが、明治になって現社号に改称する。

        
         拝殿には大竹市が企業誘致した第1号の「大倉組山陽製鉄所」の絵馬、年号の入った絵馬           
        や俳句の絵馬などが幾つも掲げてある。

        
        
         旧山陽道を玖波方面へ戻る。

        
        
         数軒の古民家が見られる。

        
         今度は亀居城公園分岐を右折して国道へ向かう。

        
         大竹シルバーセンター内に建つ石碑。

        
        
         大竹市市営「こいこいバス」のシルバーセンター前バス停からJR玖波駅に戻る。


広島市の草津は旧山陽道の宿場町 

2023年03月08日 | 広島県

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         草津は古くには久曽津とも称した。西方に鈴ヶ峰、鬼ヶ城山があり、南東は広島湾に面
        する。地名の由来は、神武天皇・神功皇后の営陣の地と伝えることから軍津(いくさつ)と称
        し、これが転訛したものという。(歩行約4.8㎞)

        
         JR新井口駅から広島電鉄に乗り換えて約3分、草津駅で下車する。

        
         草津駅から路地を抜けると慈光寺、鷺森神社筋が旧山陽道である。
         室町期の1447年(文安4)年禅宗寺院として慈光寺が創建されたが、1703(元禄16)
        年に日蓮宗に改宗する。寺なのに境内に神仏習合時代の鳥居がある。
                 広島市は爆心地から5㎞以内に現存する建物などを被爆建造物とし、同寺の山門が登録
        されている。

        
         鷺森神社の由緒によると、平安期の960年(天徳4)年に勧請されたと伝え、御祭神が女
        神なので弁天社と称して豊漁と海の安全を祈った。往古、この一帯は海辺であり、近世に
        なると干拓が進むに伴い内陸の神社となってしまう。(本殿が被爆建物)

        
         祭神は猿田彦之神で庚申さんから現在の幸(こう)神社に改名した。1897(明治30)
        鉄道開通のため、庚申を取り除くことになり現在地に遷座したという。
         小さな境内に大きくそそり立つ銀杏の大木は、樹齢は不明だが400年以上といわれて
        いる。

        
         海蔵寺は小高い所にあって、参道の途中には山陽本線が横断している。(力剪(りきぜん)
        第1踏切)

        
         室町期の応永年間(1394-1428)に中国の僧・慈眼禅師が創建したといわれる海蔵寺(曹洞
        宗)は、1558(弘治元)年厳島合戦では毛利方の陣中に用いられた。
         広島藩の時代になると東城浅野家の菩提寺として明治元年まで続き、幕末の禁門の変で
        は、広島藩の仲裁により幕府と長州藩の談判が開かれたという。
         1840(天保11)年に建立された本堂が被爆建物だそうで、のちに屋根部分など一部が
        補強補修されている。

        
         本堂裏には元禄期(1688-1704)に築庭されたという石組庭園がある。池泉鑑賞式で山畔
        が急であるため土留めを兼ねて、池泉護岸から上部にかけて多数の石を組み、西寄りの谷
        部分は滝石組みとなっている。

        
        
         草津八幡宮は見上げるような位置に社がある。189段の石段は段数から「189(ひや
          く)
の石段」とされ、飛躍(さらなる発展)・避厄(災厄をさける)に通じる石段とされている。
        一歩一歩踏みしめて元気よく登って御神徳をいただいてくださいと案内されている。

        
         飛鳥期の625年に海路の守護神として多紀理姫乃命(たぎりひめのみこと)を祀ったのが創
        祀と云われている。
         八幡神を奉斎した時期は諸説あるようだが、鎌倉期に宇佐八幡宮より勧請して当地に祀
        られていた「多紀理の宮」を合祀して、後に力箭八幡宮と称した。現社号になった時期に
        ついて、由緒書きには書かれていないが、本殿と拝殿が被爆建物であるとのこと。

        
         こんもりとした小丘が草津城跡。

        
         境内から草津の町並みが一望できる。(山陽本線と小泉家) 

        
         中央にある「三」は広島市の市章で、旧芸州藩の旗印であった「三つ引」(三)にヒント
        を得て、これに川の流れを表現するカーブをつけて、水都広島を象徴したものとされる。
        草津ではこのマンホール蓋を多く見かける。

        
         城山への道は道路で削り取られたのか急階段が設置されている。

        
         戦国時代には西は廿日市、厳島、南は能美島、江田島、東は五箇庄(広島)、海田市も見
        渡せる重要な場所とされた。
         草津城がいつ頃築城されたかは、はっきりしないようであるが、室町期の1456(康正
          2)
年竹田信賢が草津城を攻め落とし、その後、改築して城としての形が整ったといわれて
        いる。のち新里式部少輔(大内氏)、羽仁有繁(陶氏)と城代が変わり、児玉氏が毛利氏の防
        長移封まで3代にわたり城代として当地を支配した。関ケ原の戦い後、福島正則が広島城
        主になると、草津城下の山陽道に大門を設けて西の関所とし、草津城を壊したといわれて
        いる。

        
         草津八幡宮の参道筋と小泉本店。

        
         天保年間(1830-1844)創業の小泉本店は、宮島厳島神社の御神酒を醸造する造り酒屋であ
        る。店構えは「つし2階」で屋根には煙り出しを備えている。 

        
         旧山陽道を挟んで小泉家の向かい側に、1885(明治18)年明治天皇が広島、山口など
        を行幸され、小泉家で休憩されたことを記念して碑が建てられた。「置鳳輦止處」(鳳輦(ほ
        うれん)を置きしところ)と刻まれているが、鳳輦とは天皇の乗り物を意味する。

        
         御幸川に架かる御幸橋を渡ると交流広場がある。寛保・延亨年間(1741-1748)頃に旧山陽
        道のほとり(現広電宮島線踏切付近)で餅売りをはじめたのが大石餅とされる。店の近くに
        大石があることから「おいしい」とかけられ、「大石餅」と命名されて草津の名物となっ
        た。1998(平成10)年大石餅は長い歴史の幕を閉じたが、本店で使われていた臼と灯籠
        が移設されている。

        
         広電宮島線の踏切を横断して右折すると浄教寺(真宗)がある。境内には臥龍松と名付け
        られた黒松が、人の背丈ほどの高さから枝が3方向に伸びており、どこから撮っても1つ
        に収まらないほど長い。
         臥龍とは地上に伏した龍が今から飛ばんとする姿のようで、名に値するほどの松である。
        (本堂、山門、南門、経堂が被爆建物) 

        
         教専寺(真宗)の本堂は、1936(昭和11)年に建て替えられたが、特徴として向拝部の
        柱は2本が多いが、4本の柱で支えられている。(本堂が被爆建物)

        
         薬師如来堂は廃寺になった阿弥陀寺の薬師如来堂をこの地に移した。「おやっくさん」
        と呼ばれ、今でも眼病に効く「薬師」として参拝が多いという。

        
         幸福稲荷神社の祭神は穀物を司る神倉稲魂神とされ、昔、草津では大火や災害に苦しん
        だので、神頼みとして建立されたという。この付近に三次支藩の役所と、幕府巡検使の宿
        所である御茶屋があったという。

        
        
         旧山陽道に沿うと右手に西楽寺(真宗)がある。1889(明治22)年の町村制施行により、
        草津村と新たに埋め立て造成された庚午新開村が合併して改めて草津村となる。のち町制
        に移行したが、1929(昭和4)年広島市に編入されて今日に至る。(寺の本堂は被爆建物)

        
          西国街道(山陽道)沿いの町並み(旧山口酒店)

        
         三嶋邸は「厨子(つし)二階建て」ならぬ「厨子三階建て」の町屋であったが拝見するこ
        とができず。(2009年撮影)

        
         昔、この辺りは海岸線で、1821(文政4)年の頃に旧草津港を抱くようにして埋立て、
        記念に1本の松が植えられた。ここを通称「御場所」といい船役人の番所があり、船はこ
        の松を目印に出入りしていたという。
         石碑には「文政4年辛巳新地波止場築造」と、「萬代(よろずよ)に多(た)かき功績(いさお)
        を残しおき繁る草津のはれをこそ見禮(みれ)」という歌が刻まれている。(松枯れしたので
        伐採された)

        
         旧魚市場北にあった井久田家の屋敷に福満稲荷(左)があったが、長州征伐の時に前線指
        令所として草津港が選ばれ、屋敷の明け渡しを命じられて疎開。稲荷社はその後転々とし
        たが、終戦後に現在地に移転したという。
         地蔵尊(右)のルーツは不明だが、宮島にいたお相撲さんの守り本尊であったとの伝承が
        あるとのこと。

        
         草津南の西部埋立第八公園の中にある住吉神社は、室町期の享禄年間(1528-1532)毛利家
        の児玉周防守が草津城主であった時、海上安全と城の鎮守として創建したと伝わる。
         1821(文政2)年草津港が築造されると、その堤防上に遷座したが、さらに干拓が進み
        海から遠退いてしまう。

        
         漁民会館内に「安芸国養蠣(ようれい)之碑」があるが、延宝年間(1673-1681)に草津の小林
        五郎左衛門が「ひび立て」に牡蠣養殖法を考えた。1897(明治30)年神戸での水産博覧
        会で、その功績が認められて表彰され、翌年に牡蠣の仲間が碑を建立したもので、192
        3(大正12)年現在の碑に改められた。

        
         1945(昭和20)年8月6日軍の至上命令にもとづき広島市長が出勤を要請した、か弱
        い女子100名を含む草津南町国民義勇隊は、市内小網町付近の建物疎開作業中に被爆す
        る。全員が傷つき焼けただれ悲惨きわまる苦悶の果て次々と倒れていった。
         遺族は痛恨のうちに逝った肉身の無念を想い、「このむごたらしい戦禍を再び繰り返す
        ことない平和への祈りを込めて、157名の尊い犠牲を永久に伝へ残すべく追悼の碑を建
        立する」とある。

        
         雁木とは瀬戸内海沿岸に多く見られる石を積んだ階段で、潮の満ち引きによる海面の移
        動に関係なく船を着岸できるように工夫されたものである。
         1966(昭和41)年旧草津港は再開発事業の一環として埋め立てられ、今では港であっ
        た面影を見ることはできないが、雁木と船止め石の一部が移設されている。

        
         1822(文政5)年蛭子神社は本固新開ができたので大漁を祈るために、えびす屋孫八と
       佐久間三右衛門宅にあった祭神を現在地に遷座させたものという。(被爆建物) 

       
        津浜町にある望月家(空家状態) 

       
        通りには古民家が数軒存在する。

       
        船溜まりに出ると遠くに安芸の小富士の山容が見える。

       
        龍宮神社の由緒によると、1622(寛文元)年以後草津村に浜田藩船屋敷が設けられたが、
       その鎮守神として住吉神を祀った。この住吉社が龍宮神社の前身とされ、埋立てが進み海
       浜より遠くなったので、1871(明治4)年現在地に遷座させたとある。(被爆建物)

       
        廃船になった舟の板を外壁に利用した家が点在していたようだが、今は残り少なくなっ
       たという。(小畑家) 

       
        草津の町には「袖うだつ」があってベンガラを塗った格子構えの古い建築物が残ってい
       る。
        また、町は入り組んでいて、遠くが見渡せないようになっているのが特徴で、これが「
       遠見遮断」と説明されている。

       
        御幸川に沿って広電草津駅に戻るが、大釣井と地蔵尊を見落としてしまう。


廿日市市の地御前は神の島遥拝地

2023年03月08日 | 広島県

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         地御前(じごぜん)の東は瀬戸内海に面して厳島と相対する。地名の由来は厳島神社が島方
        にあるのに対し、地之御前と呼ばれたことによるという。(歩行約2.5㎞) 

        
         広島電鉄地御前駅で下車する。

        
         屋根の低い厨子(つし)2階建てで、軒裏や軒下に設けてある袖卯建、虫籠窓は漆喰で塗り
        込まれている。(佐伯邸) 

        
         観音堂の開基は定かでないが、平安期の地御前神社絵図に描かれており、梵鐘には観音
        堂と記されている。伝承によると宮島には産場(お産婆)がなく、観音堂の周りに集まるよ
        うになったとか。

        
         1625(寛永2)年開基と伝えられる西向寺(真宗)は、もとは真言宗か天台宗であったと
        され、貞亨年間(1684-1688)頃に改宗したとされる。本堂、鐘楼門などは明治期に建立され
        ている。

        
         境内を覆う「天井松」は、樹齢300年を超すともいわれ、晴れた日には木陰を作り、
        地面に本堂の格天井のような影を落とすという。

              
         旧山陽道は難所越えの道程のため往還道(新国道)が造られることになる。広島元安川か
        ら地御前入口までが完成し、1880(明治13)年地御前の御手洗橋から大竹の栄橋までが
        完成する。

        
         特産の牡蠣と牡蠣筏、水揚げ風景が描かれた廿日市市のマンホール蓋。

        
        
         袖卯建を配しているが、卯建と違って風切・目隠し・日返しの機能を持っている。

        
         通りでは目立つ町家(村上邸) 

        
         小林千古(本名:花吉)は、1970(明治3)年この地に生まれ、25歳から35歳にかけ
        てアメリカやヨーロッパで伝統的な絵画を学び、日本画壇に新風を吹き込む。
         黒田清輝の推薦により学習院女学部助教授の職にあったが結核を患い、1911(明治44)
        年41歳の若さでこの世を去る。 

        
         地御前小学校は渡り廊下で繋がっている。

        
         何の碑なのかわからないままとなる。

        
         釈迦堂の創建は定かでないようだが、丈六の釈迦如来座像で高さ230㎝という巨像が
        祀られているそうだ。廃寺となった神宮寺のものではないかと推定されており、釈迦堂と
        して移設されたものと思われる。

        
         地御前の氏神で農業の神を祀る大歳神社は別の所に鎮座していたが、1789(寛政元)
        現在地に遷座する。氏神は各集落を見渡せる高台にあるが、神が見守ってくれることを念
        じて場所が選定されている。

        
         地御前神社の東側に、1887(明治20)年国道開鑿(かいさく)碑が建立されている。石碑
        の上には「地平天成」(地平線はどこまでも天とつながる)と刻まれているが、この四篆字
        は、先の元号「平成」の由来の1つとされる。
         碑文は「明治時代中期、佐伯郡廿日市の住民は地域を挙げて新道を建設するために大運
        動を展開した。結果、神社前の国道が完成した」と伝え、裏面には工事に携わった510
        名の芳名が刻まれている。

        
         地御前神社は、通称桃山を背にして明神ヶ浜を前面に鎮座する。厳島神社と同じ時期で
        ある飛鳥期の593年に外宮社として、佐伯鞍職により創建された後、平清盛の絶大なる
        支援によってほぼ現在の姿に造営された。

        
         もともと地御前神社は、神の島として上陸できなかった宮島の対岸で遥拝するために造
        られたともいわれている。

        
         鳥居前まで海だったようで御座船が神社横まで寄せることはできたという。今は神社と
        明神ヶ浜の間には広島電鉄宮島線と国道2号が横断している。

        
         厳島神社管絃祭は、海上神事のため潮の干満を考慮して旧暦6月17日の大潮の日に、
        御神体を海上渡御させる海の祭りである。
         厳島神社を出発した御座船は、対岸の地御前神社で祭典が行われた後、長浜神社、大元
        神社を廻って本社社殿へ還御される。

        
         御前神社西側に「皇威輝八紘」の碑が建立されているが、西南・日清・日露の戦役で亡
        くなった村民の名前が刻まれている。 1913(大正2)年に建立されたものだが、日本が
        戦争をはじめて近隣諸国の人々や自国民を犠牲したことを忘れてはならない碑である。

        
         有府川に架かる外宮橋の先で国道2号と合わす。

        
         正行寺(真宗)は天台宗であったが、1624(寛永元)年に改宗したと伝えられる。

        
        
         市民センター側の通りにも町家が見られる。

        
         地御前今市にある今市稲荷社の開基は定かでないが、京都伏見稲荷の分霊ともいわれる。

        
         広電地御前駅から宮島駅に出る。 


海田町の海田市は旧山陽道の宿場町だった地

2022年10月12日 | 広島県

        
               この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         海田市は瀬野川河口のデルタ状平野部に位置する。地名の由来は、平安末期以来の荘園
        ・開田荘に因み、市(いち)が付加されたものと思われる。瀬野川以南の平野部はすべて江戸
        期の新開地である。
         1889(明治22)年町村制の施行により、海田市町と奥海田村(後に東海田町)が発足。
        昭和の大合併で両町が合併して海田町となり今日に至る。(歩行約1.9㎞)

        
         海田市駅は、1894(明治27)年山陽鉄道の糸崎ー広島間が開通したと同時に開業した
        駅で、1903(明治36)年に当駅から呉線が開通して分岐駅となる。現在の駅舎は198
        6(昭和61)年に橋上駅舎として運用開始された。

        
         海田市駅北口から西条方面へ向かう。

        
         1894(明治27)年の大火、その後の度重なる水害などに対応した火の見櫓が現存する。

        
        
         狭い路地を抜けると旧山陽道(西国街道)。1928(昭和3)年アムステルダムオリンピッ
                クでの三段跳金メダリスト・織田幹雄さん(1905-1998)が生まれた地でもある。

        
        
         明顕寺(真宗)は1541(天文10)年開基とされ、1865(慶応元)年12月の第二次幕長
        戦争で越後高田藩が海田市に宿陣する。翌年の6月広島と長州の藩境である小瀬川(芸州口)
        の戦いで大敗を喫した際、戦死した34名の高田藩士がここに葬られた。
         梵鐘の説明によると、1752(宝暦2)年芸州の名工とされた金屋(植木)源兵衛・新兵衛
        作とされ、海田の嶋屋、奥田屋、金屋源兵衛が寄進したとある。

        
         三宅家は江戸期から明治にかけての商家で、屋号を「新宅屋」といい、街道を北面して
        主屋を設けている。敷地背面の河港をつなぐ敷地内通路の両面に土蔵群を並べるなど、海
        田市に残る数少ない町家遺構であるとのこと。

         
        
         千葉家は大内氏に属していたが、その後、毛利氏に属し小早川隆景の配下で活躍したと
        のこと。近世になって海田に来住して永住し、江戸期を通じて「天下送り役(幕府の荷物を
        扱う役目)」や「宿送り役(藩の荷物を扱う役目)」、町年寄役などを担った。

        
         屋号は「神保屋」で、御茶屋(本陣)や脇本陣に準ずる施設として、要人の宿泊にも使用
        された。建物は街道沿いに面して建ち、主屋・角屋(つのや)・座敷棟及び泉庭により構成さ
        れているという。残念ながら常時の一般公開はされておらず、外観のみの見学となる。

        
         左手に真宗寺(真宗)と龍洞保育園。保育園の中に寺があるといった感じである。

        
         海田公民館は、2020(令和2)年に小田幹雄スクエアができて公民館機能が移転したが、
        江戸期にはこの地に脇本陣があったとされる。
         屋号は猫屋(加藤家)で広島の猫屋町から来住し、海田市の庄屋や宿駅業務の脇本陣役を
        務めたという。詳細な資料は残っていないそうだが、古文書の一部に記録されているとい
        う。

        
         宿場町だった面影は見られない。 

        
         海田町の花である向日葵が、上下から1本づつデザインされたマンホール蓋。

        
         海田恵比須神社の由来によると、徳川幕府は参勤交代制の確立のため街道を整備したが、
        ここ海田市は往来の拠点として重要な場所となる。1699(元禄12)年頃には本陣、問屋
        場、旅籠など宿場町の体裁が整う。これに先駆けて、1674(延宝2)年町の発展と商売繁
        盛を願って、町の中心に設置されたという。

        
         本陣跡への案内板。

        
         御茶屋(本陣)があった地で、約770坪(約2,545㎡)の敷地だったとされる。

        
         熊野神社は、平安期の1026(万寿3)年紀州熊野大社より勧請されたと伝える。江戸
        期には「新宮社」と呼ばれ、宿場町海田市の氏神として信仰を集めていたが、1873(明
          治6)
年現社号に改めた。

        
         1825(文政8)年築の拝殿は、広島県内では最大級クラスの1つとされる。広島藩主
        浅野家の信仰が厚く、鷹の羽の定紋(じょうもん)を許された。(幕に定紋)

        
         駅前の案内板に熊野神社から大師寺へ通じる「灘道」が記載されていたので歩くことに
        したが、灘道を歩いたどうかは定かでない。

        
         旧山陽道(西国街道)が整備される以前、東西を結ぶ生活道として利用されていたという。

        
         海田の町並みと遠くに広島湾。

        
         細い舗装道を辿ると大師寺が見えてくる。

        
         耳の病気に御利益があるとされる楠木地蔵堂、1799(寛政11)年9月と刻まれた墓碑
        が並ぶ。

        
         大師寺(高野山真言宗)の縁起によると、厄除けの寺で知られ、海田景勝の地である日の
        浦山中腹に、1840(天保11)年開創される。裏山より山頂まで日の浦山四国八十八ヵ所
        の石仏を安置し、山全体を信仰の霊場として一般に開放、別名海田のお大師さんとして親
        しまれている。(新広島八十八ヶ所第35番札所)

        
         明治初年に大和国信貴山より毘沙門天を勧請。信貴山広島別院昇格記念に、総本山朝護
        孫子寺をモデルに毘沙門天本堂を再建。一見、京都の清水寺を思わせる舞台造りである。

        
         参道を下るとすぐ右手に清正寺に通じる道があったが、柵で閉鎖されていたので参道を
        下る。

        
         旧山陽道に出て広島方面へ向かうと、清正寺入口に「一里塚跡」がある。広島城下の元
        安橋東詰から2つ目の一里塚で、かっては街道の両側に直径6mの塚があり、松の木が植
        えられていたが、1921(大正10)年撤去されたとのこと。

        
         新町筋には袖卯建が残る民家が見られる。一里塚まで戻って駅に向かう。 

        
         神社が向い合わせて鎮座するが、手前の胡子神社は、1834(天保5)年に勧請されて他
        地に鎮座していたが、昭和初期に遷座させて今日に至るという。
         一方の荒神社は、1814(文化11)年に勧請され、1873(明治6)年瀬野川の瀬替えに
        伴い移設された。


東広島市西条は広島の酒都で酒蔵が並ぶ 

2022年10月12日 | 広島県

        
               この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         西条は西条盆地の北東部に位置し、域内には山がなく竜王山から南流する古川と半尾川
        沿いに東西が挟まれている。
         地名の由来は西条盆地に施された条里制に由来するとのことで、条里制は東西に分かれ
        ていて西半分に相当する地域という。(歩行約3.8㎞)

        
         JR西条駅は、1894(明治27)年山陽鉄道の三原―広島間が開通したと同時に開通す
        る。駅舎は3代目で橋上駅舎に生まれ変わっていた。

        
         駅通りを南下してM歯科医院前を左折する。

        
         JR西条駅から芸術文化ホールまでの歩道に旧8町が作成したマンホール蓋が設置され
        ているようだが、見かけたのが旧河内町のツツジ、稲穂、ホタルがデザインされた農業集
        落排水のマンホール蓋。

         
         1675(延宝3)年創業と伝える嘉登屋(島氏、酒名・白牡丹)が最古で、幕末の頃には他
        に角胡屋(逸見氏)、立身屋(脇氏)などの造酒屋があったという。(白牡丹酒造)

        
         いち(市)の井戸の説明によると、江戸時代に掘り当てられたといわれ、戦前までは牛馬
        市場の一角にあった。古くから酒造の仕込み水として利用され、近隣の酒造場が水買いに
        訪れていたという。(白牡丹酒造所有)

        
         玄関前に立つ道標。「四日市 市尻 みそのうみち」とある。 

        
         右前方に白牡丹酒造の煙突が見えてくる。

        
         旧山陽道筋に出会うと白牡丹酒造の延宝蔵。1675(延宝3)年に酒造りを始められた蔵
        で、年号をとって延宝蔵といい、改良はされてはいるが取壊しもされず、間口13間、桁
        行30間(54.54m)の規模のまま現存されている。

        
         南端蔵に建つ延宝蔵煙突は、高さ25mのイギリス積みで、最上部は蛇腹状に張り出し
        ている。

        
         高層住宅と対比するように古民家。

        
         白牡丹酒造の「白牡丹」とは、1839(天保10)年五摂家(近衛・九条・一条・鷹司・二
        条)のひとつである鷹司家の当主から、品質の良さを賞され、鷹司家の家紋にちなんで命名
        されたという。酒は甘口で棟方志功らが好んで愛飲したとされる。(白牡丹酒造の主屋)

        
         「冥加の水」は300年以上の歴史を持ち、旅人の喉を潤したとされる。日本酒「白牡
        丹」は創業以来、この水を仕込み水として使い続けているという。白牡丹酒造は2つの井
        戸があって銘柄により使い分けされているとのこと。

        
         小島屋の土蔵は「置屋根造り」といわれ、天井まで土壁で覆われた上に屋根を載せた形
        式で、火事で屋根は焼けても蔵の中に火が入らない構造である。
            
        
         小島家が宿駅の継立役を担っていた江戸後期の土蔵だそうで、明治中期に木村酒造にな
        ったとき、曳屋されて今に位置に移動したとのこと。
         継立場とは幕府や大名が移動する際、必要な人馬を用意しておいて、彼らの荷物を次の
        宿駅まで運ぶのが業務であった。

        
        
         天保井水(西条鶴酒造)は、天保年間(1830-1844)に掘られたと伝えられる井戸で、西条鶴
        が創業した1901(明治34)年から酒造りに使用されてきたという。

        
         賀茂鶴酒造の佛蘭西屋は日本酒ダイニングレストラン。

        
         旧山陽道筋に商家だったと思われる建物が並ぶ


        
         左に酒蔵の壁と右に煙突の壁、中央に酒蔵と東広島市の「ひ」の文字が鳥の飛体で表現
        された市章、広島空港が近いこともあって飛行機が描かれたマンホール蓋。

        
         亀齢酒造の酒は、甘口の酒と言われる広島の酒では辛口に属する。亀は万年といわれる
        ように長命と繁栄を願って「亀齢」と命名されたとか。
         亀齢1号蔵には先祖が毛利家の家臣だったとのことで毛利家の家紋、その下には防火の
        おまじないとして「水」の文字が見える。

        
         明治中頃に建造された井戸。「万年亀(まねき)井戸」は社名の由来にちなんで名づけられ
        た。

        
         路地をまたいで屋根裏がつながった建物があり、この門は通称「くぐり門」と呼ばれて
        いる。昭和初期に賑わった芝居小屋「朝日座」の入口であった。この付近一帯は花街だっ
        たともいわれている。

        
         岡田酒販の前に、「日本映画界のドン」と呼ばれた東映の名誉会長だった岡田茂氏が紹
        介されている。

        
         近世初期まで続いた寺町村(吉行、土与丸、助実、次郎丸)は、のちに分村して次郎丸は
        四日市と合わせて四日市次郎丸村となる。1889(明治22)年の町村制施行により、近世
        以来の区域をもって四日市次郎丸村が発足し、その翌年に町制施行して西条町となる。の
        ちに近辺の村と合併して、改めて西条町となるが、1974(昭和49)年西条町、八本松町、
        志和町、高屋町が合併し東広島市が発足する。

        
         江戸末期からようやく盛んになってきた酒造業が一時に開花した形で、その銘柄を競い、
        西条酒の名を高めた。これに呼応して、1828(昭和3)年に広島県醸造試験場が設立され、
        1975(昭和50)年に廃止されるまで西条の酒造技術向上に貢献した。
         1929(昭和4)年に建てられた五角形のマンサードルルーフが特徴の建物だが、現在は
        賀茂泉酒造が所有する。

        
         左が次郎丸井戸、右が賀茂泉の井戸。

        
         巨釜の傍にある道標は「右 四日市、左 竹原」とあり。賀茂泉酒造付近の辻にあった
        ものと思われる。 

        
         1912(大正元)年創業の賀茂泉酒造は、米と米麴だけで作る純米酒の製造を全国に先駆
        けて始め、広島を代表する純米酒メーカーとなる。

        
         土蔵の妻壁に「大黒天と恵比寿天」の鏝絵。右の恵比寿天は右手に賀茂泉のゴロマーク
        が入ったとっくりを持ち、左手に大きな鯛を抱える。大黒天は米俵に立って、右手に打ち
        出の小づちを持ち、左手におちょこを持っている。

        
         賀茂泉酒造の酒蔵。

        
         福美人酒造大黒蔵側の煙突。

        
         中央を十字方向に区切り、その先にペンと鉛筆のようなものが描かれ、その周囲に市の
        花と木と思われる松とツツジがデザインされたマンホール蓋。

        
         山陽本線の函渠を潜って安芸国分寺へ向かう。

        
         国分寺仁王門は典型的な八脚門で、両脇には仁王像が安置されている。建築年代は16
        世紀後半と推定され、現在の仁王門が建立される前には、この位置に中門または南大門が
        建っていたと推定されている。

        
         奈良期の741(天平13)年聖武天皇の詔により日本全国66ヶ国に建立された国分寺の
        1つで、750(天平勝宝2)年頃には金堂など主要な建物が建立されていたという。平安期
        に国府が安芸郡の府中に移ったこともあって衰退の途を辿り、江戸期には寺領が没収され、
        1759(宝暦9)年の火災で多くの堂宇が焼失する。何度も廃寺の危機に遭いながら、20
        04(平成16)年金堂が再建される。

        
         福美人酒造は、1917(大正6)年に全国の酒造業者が出資して創業。優秀な杜氏を育て、
        全国に送り出したことから「西条酒造学校」とも呼ばれていた。(恵比寿蔵) 

        
         酒蔵通りの福美人酒造界隈。

               
         福神井戸は、その昔、福美人創業の地の字名は「福神」といわれ、そのことから、酒名
        を「福美人」とし、醸造蔵も七福神にあやかって恵比寿蔵、大黒蔵とする。この井戸は、
        地中深く湧き出る竜王山の伏流水で、福美人醸造用水の1つである。(説明より)

        
         酒蔵通りの一角にある円通寺(臨済宗)は、縁起によると聖徳太子の古道場であったとさ
        れるが、その後、廃寺を繰り返し、万治年間(1658-1661)頃に再興されて今日に至るという。
        (境内に入らず)

        
         右手に賀茂鶴酒造、左手に亀齢酒造の5号蔵で、この付近は白壁に囲まれた見応えのあ
        る通りとなっている。

        
         1873(明治6)年創業の賀茂鶴酒造は、1958(昭和33)年に全国に先駆けて吟醸酒を
        製造。広島の酒の代表格でもある。

        
         亀齢酒造の酒蔵通り側の蔵。

        
         白壁の酒蔵になまこ壁と2本の煙突、その傍にレトロな洋館。

        
         江戸時代に西国街道(山陽道)の宿場町として栄えた四日市には、大名や幕府の要人が宿
        泊する本陣(御茶屋)が置かれた。明治以降は賀茂郡役所などに使用されたが、現在は賀茂
        鶴酒造の所有で外観のみ見ることができる。

        
        
         賀茂鶴酒造の福神井戸。

          
         白牡丹酒造延宝蔵北端棟は、1階部分が醸造場で2階部分が麹室となっているようで、
        外観は腰板張りで上部は漆喰塗り、漆喰部分に水切瓦を通している。

        
         西国街道(山陽道)を八本松方向へ歩く。 

        
         1912(大正元)年創業の山陽鶴酒造。山陽道の松並木に鶴をあしらって「黒松山陽鶴」
        と命名したという。

        
         跨線橋で駅北側に移動する。

        
         教善寺(真宗)について芸藩通志は、竹田光明が出家して浄円と号し、庵を結びここに居
        す。天文年中(1532-1555)に近江の佐々木六角弾正、本願寺を攻める日に浄円馳登り、戦闘
        に功あり。帰えるにおいて、この寺を建て光明坊と号す。のちに現寺号に改めたとある。

        
        
         御建(みたて)神社の由緒によると、飛鳥期の706(慶雲3)年諸国に疫病が流行した時、
        素戔嗚命に祈り疫病が止んだ事から当時の人々が社を建てて祀ったのが当社の起こりと伝
        えられている。
         もとは西条町字御建に鎮座していたが、1910(明治43)年西条町字北の若宮八幡神社
        ・胡子神社・金崎神社・西条町大地面の大地面神社及びその境内社を御建神社に合併し、
        翌年10月現在地に遷座した。1824(大正13)年火災により神殿が焼失したが、現在の
        社殿が再建された。
         御建神社の傍らに、京都嵐山の松尾大社から分霊を勧請し、酒都西条の酒の守護神とし
        た松尾神社がある。


三次市の三次町は石畳通りに袖卯建の商家が並ぶ

2022年09月22日 | 広島県

               
               この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         三次(みよし)は標高170mの比熊山南麓に、東・西・南の三方を川に囲まれ舌状に張り
        出す沖積平地に立地する。
         地名の由来について諸説あるようだが、「水(み)」と古代朝鮮語の「村(すき)」が合わ
        さって「みすき」となり、のちに「みよし」に転訛したという説が有力である。(歩行約
        4㎞)

        
         JR三次駅からくるるんバスで約15分、三次もののけミュージアムバス停で下車する。  
        (正面がミュージアム)

        
         ミュージアム傍に86(ハチロク)の愛称で親しまれた機関車が展示されている。Cとか
        Dなどのアルファベットをつける以前の機関車で、機関車は作った順に番号が付けられて
        おり、この型の機関車第1号は8620で、下2桁を20から始め、99に達すると次は
        「86」の前に1を繰り上げて再び20から始める80進法の付番法である。
         ちなみに当機関車は「48650」であるので、4×80と末2桁が50なので合わせ、
        それに1を加えたものが製造順(371番目)となる。1821(大正10)年に製造されて日
        本各地を走り続け、1965(昭和40)年山口県小郡機関区から三次機関区に配属され、1
        971(昭和46)年その役目を終えた。 

        
        
         比熊山の南麓にある鳳源寺(臨済宗)は、1633(寛永10)年中世の領主・三吉氏の居館
        跡に、三次藩祖である浅野長治が先祖の菩提を弔うため当寺を創建する。
         境内には阿久利姫の輿入れの際、三次に迎えに来た赤穂藩・大石義雄手植えの桜、神道
        碑、本堂裏には愚極泉という池がある。

        
         浅野長治の五女・阿久利は、幕府から赤穂藩主浅野内匠頭長矩との縁組が許可され、7
        歳の時に江戸三次藩下屋敷に入り、14歳で長矩の許に嫁いだ。
         1701(元禄14)年松の廊下における刃傷事件で長矩が切腹した後、剃髪して瑶泉院(よ
          うぜんいん)
と称し、三次藩江戸屋敷に引き取られる。生涯をかけて長矩と義士の菩提を弔う
        一方、義士の遺族に心を砕き、その処遇に尽力したという。
         45歳で没した後、夫が眠る泉岳寺に葬られ、遺髪はふるさと三次に持ち帰られ、遺髪
        塔に葬られた。 

        
         吉祥院(真言宗)は平安期の834(承和元)年、弘法大師の勅命を受け秦氏の支援により開
        基した寺で、三次町では一番古い寺とされる。その後、3度の戦禍で焼失し、4度目の本
        堂は、1939(昭和14)年建て替えのため、仮本堂に移されたところで第二次世界大戦に
        入り、戦後は財閥解体のため再建叶わず現在も仮本堂のままという。江戸期には浅野家の
        祈祷寺院であったという。

        
         妙栄寺(日蓮宗)の縁起によると、1648(慶安元)年三次藩主・浅野長治が、母・寿正院
        の菩提供養のため創建した。その後、2度にわたる火災で焼失したが、浅野家の保護で復
        興したとある。

        
         稲生武太夫(1735-1803)は三次藩士の子で、16歳の時友人と肝試しに真夜中の比熊山に
        登ったところ、平太郎(幼名)のもとへ毎晩のようにお化けが姿を変えて脅かしたが、少し
        もひるまず三界の魔王も降参したという。
         この物語は文学作品や絵巻物となって伝えられ、日本の代表的な妖怪物語の1つとなっ
        ている。

        
         臨済宗の西江(せいごう)寺は、もと天台宗で日叡尾山の麓にあったと伝え、中世、この地
        方の領主・三吉氏が菩提寺として再建し高源寺と称した。1533(天文2)年山陰の尼子氏
        に攻められた際、兵火に遭うが、のち三吉氏が比熊山城に入城したとき、寺も城内に移転
        した。
         福島正則の時代に当地方を支配した尾関正勝は、高源寺を菩提寺として現寺号に改め、尾
        関山城近くの現在地に移したという。

        
        
         卯建が似合う町の看板を見て石畳通りに入る。

        
         風物詩「鵜飼」と市の花である花桜がデザインされたマンホール蓋。 

        
         行燈には「もののけ」の絵柄。

        
         この敷地は「万寿乃井」の銘柄で明治初期から130年余り営み、2003(平成15)
        に幕を下ろした酒造蔵跡である。かってここに9棟の酒造蔵が建っていたが、この仕込み
        蔵は明治前期に建てられ、昭和前期に増改築されもので桁行31m、梁間9.8mと長大な
        蔵である。(説明板より)

        
         竈(かまど)には地蔵尊が祀られており、右手にある高さ18mの煙突と竈が繋がっていた。

        
         右手は茶房と宿泊施設、見える山が比熊山で、1591(天正19)年三吉広高が当山の東
        方4㎞の地にあった比叡尾山城を比熊山城に移した。当初の山名は日隈山の字を当ててい
        たが、日を比叡尾の比とし、山の形が熊の寝る姿に似ることから隈を熊に改めたという。

        
         三次町は山陰と山陽を結ぶ交通の要地であり、広島城下からの雲石街道は現在の国道5
        4号線とされ、街角に高さ110㎝の石柱道標がある。
         しかし、ここは街道の分岐点ではなかったようで、示された方向の行先も当てはまらな
        いという。他に尾道からほぼ現在の国道184号線沿いに三次に達する石見路(赤名越)、
        三次からまっすぐ北に延びる雲伯路、庄原・東城を経て備中へ延びる備中新見路があった
        とされる。 

        
         薬局前の道が尾関山・鳳源寺方面の道で、商家に袖卯建が見られるようになる。 

        
         屋号の入った袖卯建が並ぶ。

        
         雲石街道筋であったため敵の侵入を防ぐ策として、カギ型道路(桝形)が2ヶ所設けられ
        ており、ここは北からの侵入を防ぐもので、南の本通り南端にも設けられている。これは
        三次小学校の北側辺りに、藩主の居館があったことによるものと思われる。

        
         カギ型となった箇所にある三勝寺(浄土宗)は、天文年間(1532-1555)に松尾長門守三勝が
        一族の菩提寺として創建する。その後、三次町に移転し、三次藩初代藩主・浅野長治が現
        在地に再移転させて今日に至るとされる。

        
         袖卯建はないが街路灯と犬矢来、「木綿兎(もめんと)」の看板が目を引くが、人形作家・
        辻村寿三郎さんの工房とのこと。

        
         袖卯建の町家が並ぶ先で上市・栄町通りから本通りに入る。

        
         左右の建物に挟まれて窮屈そうにみえるのがえびす神社。由緒等がないので詳細は知り
        得なかった。

        
         専法寺(真宗)は室町期の永正年中(1504-1521)頃に創建された真言宗の寺であったが、の
        ちに浄土真宗に改宗したというが、創建時は別の場所だったようだ。それにしても寺の多
                い町で、すべての宗派が集まっているようにも思える。

        
         万光小路の先に櫓のような三階建ての建物があり、所有者にお聞きすると、3畳半程度
        と狭いが急階段を上がれば三次町が一望できるとのこと。
         ちなみに小路は、三次藩居館の北東に浅野家の祈祷所として建てられた万光院観音寺へ
        の参道であったという。廃寺となった後もその名が残されたという。

        
         本通り(約1.4㎞)の町並み。

        
         白蘭酒造は1904(明治37)年吉舎町で吉舎酒造として創業、1918(大正7)年に三次
        に進出し、のち現社名に変更されたとか。カーテンは閉じられ人の気配が感じられないの
        で廃業されたと思われる。

        
         通りを1つ過ごすと、旧広島銀行三次支店の建物がある。1924(大正13)年広島県農
        工銀行三次支店として建てられたルネサンス様式の洋風建物で、のち日本勧業銀行三次支
        店となる。1950(昭和25)年から55年もの長い間、広島銀行の支店として使用された。
         江戸期にはこの場所に堺屋という商家があり、「御客屋」として幕府の要人や藩主の休
        憩・宿泊所を担う本陣であった。

        
        
         町並み整備事業が行われたようで、2008年に訪れた時よりも様変わりしていた。

        
         三次人形は美しい光沢が特徴で、現代でも節句人形として愛用されているようで、旧暦
        の3月3日の初節句に男子・女子ともに人形を贈る風習があるとか。

        
         1927(昭和2)年旧三次銀行本店として建てられたもので、洋風石積み建築を模した造
        りとなっている。のち建物は芸備銀行中町支店となり、1951(昭和26)年から1977
          (昭和52)年までは三次郵便局として利用される。さらに市歴史民俗資料館を経て、
現在は
        辻村
寿三郎人形館となっている。

        
         袖卯建と正面の鬼瓦に「正」の字が見られるが、民族美術館とされる建物のようだ。

        
         本卯建のある建物と鍵型となった道路、その先に赤い巴橋が見える。

        
         浅田薬店だった2階には大看板と袖卯建には「て」の文字が残る。1720(享保5)年三
        次藩が広島本藩に合併され、1758(宝暦8)年には家臣団も広島城下に引き揚げると、城
        下町から宿場町・在郷町となる。

        
         照林坊(浄土真宗)の山門、本堂、鐘撞堂など8点が国有形文化財に指定されている。

        
         住吉神社は西城川が馬洗川に合流する地の西岸に位置する。三次から高田郡吉田(現安芸
        高田市吉田)へ通う川船が、三次勘定奉行支配から町方に払い下げになると、1758(宝暦
          8)
年川船の持主たちが摂津国の住吉神社より勧請したとされる。寺戸の福谷山麓に祀った
        が、1814(文化11)年に現在地に遷座する。

        
         くるるんバス巴橋バス停に赴くと、待ち時間が長いので距離にして1.1㎞程度なので駅
        まで歩く。


安芸高田市の吉田は毛利氏の城下町だった地 

2022年09月21日 | 広島県

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。 
         吉田は可愛(えの)川が南北に流れ、その支流多治比川が東南流して町の中心である吉田で
        合流する。この両河川に沿って町が開けている。
         1889(明治22)年町村制施行により、可愛・郷野・高原・丹比・吉田の5ヶ村が合併
        して吉田村が発足する
。のち、町制施行して吉田町になるが、昭和初に年分割して消滅す
        る。昭和の大合併で新たな吉田町を経て。現在は高田郡の全6町が合併して安芸高田市と
        なり、市役所は旧吉田町に設置されている。(歩行約6㎞)

        
         JR向原駅からバス便があるものの便数が少なく、JR吉田口駅からだと6~7㎞ほど
        歩かなければならない。JR横川駅(9:50)から広電バス広電吉田出張所行き1時間30分、
        安芸高田市役所前バス停で下車する。

        
         麓から眺める郡山(標高402m)

        
         3本の矢羽根の上に、毛利元就の有名な逸話「百万一心」の文字、町の花木であった「
        ツツジ」と「モクセイ」がデザインされたマンホール蓋。

        
         「おはか道」の石碑を見て坂道に入る。

        
         旧少年自然の家の敷地は、毛利元就の居館であった御里屋敷跡との伝承がある。

        
         この敷地には1968(昭和43)年に廃校となった大江中学校があり、元就臨終に際し、
        3本の矢の訓えを論じたという逸話にちなんで、1956(昭和31)年中学校生徒会の手で
        碑が建立された。
         長男の隆元は元就よりも先に亡くなっているので史実ではないが、子供たちに向けて書
        いた「三子訓戒状」が元ネタのようで、子供たちの結束を大事に考えていたのは事実であ
        る。 

        

         敷地内の一段上に毛利元就の像。

        
         道を隔てて左側の「青教吉師の跡」の碑は、この地に広島県青年学校教員養成所があり、
        卒業生が当時を偲んで建立したとされる。

        
         大通院谷川(内堀?)の橋を渡ると、毛利元就火葬場跡とされる地がある。元就は157
        1(元亀2)年6月14日御里屋敷において、75年の波乱人生を閉じた。遺骸は翌15日に
        大通院に移され、戒名を洞春寺殿日頼洞春大居士とし、初七日の法会を営んだ後、この火
        葬場で荼毘に付されたという。

        
         大通院谷公園から眺める吉田の町並み。

        
         公園の上部に毛利輝元墓所への案内を見て石階段を上がる。

        
         毛利隆元(元就の長子)は、1563(永禄6)年九州の大友氏との和議が整い、帰陣して尼
        子氏との戦いに援軍として向かう途中、佐々部(安芸高田市高宮)にて急死する。(41歳)
         翌年には菩提寺の常栄寺が建立されたが、関ケ原の戦い後に毛利氏が長州に移封させら
        れると、山口にあった国清寺(大内盛見の菩提寺)を常栄寺とした。隆元の急死後、元就は
        孫の輝元を後見とする。

        
         隆元の墓所から引き返すと、正面に元就墓所への参道がある。

        
         鳥居の左手辺りに洞春寺があったとされるが、1573(天正元)年元就の三回忌にあたり、
        孫の輝元が菩提寺として創建した。輝元の広島移城の際に広島城下へ移り、毛利氏防長二
        州に移封されると山口へ移転、さらに萩城下に移されたが、1869(明治2)年再び山口に
        戻された。

        
         石段を上がって行くと右手に「毛利一族墓所」があるが、1869(明治2)年郡山城内や
        城下にあったものを、この洞春寺跡の元就墓所境内に移葬されたものである。
         左側に3基の墳墓が並ぶが、左から毛利興元(元就の兄)、中央に興元の子・幸松丸、右
        に隆元の正室・尾崎局(大内氏の重臣内藤興盛の三女)と、一角の右側には郡山城初代城主
        毛利時親から八代豊元までの合墓である。 

        
         「百万一心礎石」の由来によると、この文字を分解すれば、一日・一力・一心となるが、
        日を一にし、力を一にし、心を一にして事にあたれば何事も成し得るという共同一致の精
        神を示すものとされる。

        
         郡山城の搦め手に設けられた毛利元就の墓標には「はりいぶき」が植えられている。

               
                「本丸800m」「しろあとのぼり口」の道標に従うと、右手の苔生した宝篋印塔は、
        元就葬儀の導師で洞春寺開山の嘯岳(しょうがく)禅師の墓とされる。
師は1599(慶長4)
        10月に没するが、この墓は1788(天明8)年山口の洞春寺によって建立された。

        
         遊歩道には距離標もあって歩きやすいが、木々の生長で展望を得ることはできない。

        
         やがて二の丸下の御蔵屋敷跡に上がる。城内の要所にあることから当主に近い家臣屋敷
        跡と考えられるとか。

        
         釣井の壇は御蔵屋敷より1段下った本丸の西にあり、現在は枯れて水はないが、深さ4
        m、直径1.5mの石組みの井戸が残っている。

        
         二の丸跡。

        
        
         1523(大永3)年に宗家の郡山城を相続した元就は、郡山の南東にあった城(本城)を郡
        山全山に拡張する。本丸に城主の屋敷があったと思われ、北側の山頂部には櫓台が設けら
        れた。

        
         清神社への道を下ると右手に勢溜の壇があるが、御蔵屋敷の下段を堀切(人工的な堀)で
        区画した大小10段からなる郭群で、軍勢が集い出陣を待つ場所とされる。

        
         下って行くと満願寺跡分岐。由緒は不詳とのことだが奈良期の740(天平12)年行基菩
        薩が当地を訪ね、郡山に寺を建立したと伝える。この寺も毛利氏の移動を共にし、広島城
        下、萩城内に移転、現在は山口県防府市にある。(寺跡は訪ねず) 

        
         隆元の居所だったとされる尾崎丸跡入口を過ごすと、カメラスポットの案内があるので
        立ち寄ると、吉田の町並みが一望できる。

        
         本丸まで600mの道標からの上りは階段状であり、上りも大変だが下りも膝に負担が
        増す。

        
         市街地を見下ろす展望台には、布で毛利家の家紋が掲示されている。

        
        
         大師堂と88体の石仏。

        
         1915(大正4)年興禅寺跡(臨済宗)を郡山公園として整備されたもので、寺は毛利氏が
        広島に開府したのに伴い、城下の竹屋村(現広島市中区)に移ったが、その後も江戸期を通
        じて広島に留まった。

        
         清(すが)神社は郡山城築城以前から存在し、祇園社と称していたという。

        
        
         変則交差点を直進すると徳栄寺筋。寺(真宗)は三上土佐守の次男が各地の合戦で殊功を
        あげていたが、足を負傷したことで出家を志す。のちに光明坊と称す一寺を開基したのが
        始まりとする。

        
         安芸高田署を右折すると、可部と三次を結ぶ約46㎞の雲石街道筋である。

        
         商店が立ち並んでいたと思われるが、シャッターやカーテンで閉じられている。 

        
         路地奥の福泉坊(真宗)は、平安期の長元年中(1028-1037)天台宗の寺として創建されたが、
        兵火に遭い甲立郷(甲田町)に再建された。
         室町期の1532(天文元)年に覚正(俗称村上氏)が、吉田村内に寺を移して真宗に改め、
        のちに毛利氏の広島移城・防長二州への移封などがあったが、吉田に帰り現在地に寺を建
        立したとされる。

        
         いろは旅館は江戸末期の創業とされ、道に面した建物の一部は築300年を経ていると
        いう。街道はここで右折して多治比川へ向かう。

        
         右折する角には「土生玄碩(はぶげんせき)生家」の看板と、歴史を感じる建物がある。玄
        碩は代々医家の家に生まれ,大坂などで外科や内科を学んだ後、帰郷して開業する。18
        03(文化5)年広島藩の藩医となり、江戸において藩主の6女(南部利敬の正室)の眼病を治
        療して名声をあげる。
         1810(文化7)年幕府の奥医師となったが、シーボルトから瞳孔を広げる薬を貰い、お
        礼として将軍拝領の紋服を与えたことが発覚して財産没収・禁固となるが、後に赦免され
        る。

        
         袖卯建も現存する。

        
         新旧2つの看板と袖卯建がある商家。

        
         これも看板建築の一種だろう。

        
         街道沿いの一角に商業の神である恵美須社が祀られているが、由緒によると広島市中区
        胡町にある蛭子神社は当社を移したものされるが、現在もこの地にある経緯は不明とのこ
        と。

        
         見飽けることのない建物が続く。 

        
         多治比川に架かる稲田橋で引き返し、恵美須社の角を左折して高林坊前の通りからバス
        停に戻る。

        
         高林坊(真宗)は、室町期の天文年中(1532-1555)高田原(旧甲田町)に創立されたが、吉田
        にも当寺を開基して同号を用いた。本寺との紛争を経て独立したという歴史を持つ。