ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

山口市の阿知須浦は廻船業で栄えた町で居蔵造が現存

2020年06月24日 | 山口県山口市

        
            この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分1地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複 第546号)
         阿知須(あじす)は西部から東部にかけて山地・丘陵地が連なり、その間を流れる井関川と
        土路石川に沿って低地が開け、東側沿岸部に旧阿知須干拓が広がる。
         国道190号が海岸部を南北に走り、JR宇部線も国道に沿っており、市街地は阿知須
        駅を中心に飛石、砂郷、阿知須地区に形成されている。(歩行約3㎞)

        
         JR阿知須駅は、1924(大正13)年に宇部鉄道が床波駅から延伸した際の終着駅とし
        て開業する。開業当時は本阿知須駅だったが、のちに宇部線・阿知須駅となり今日に至る。

        
         阿知須駅前通り。

        
         駅前交差点南側の郵便局付近に井関村役場があった。

        
         阿知須駅前交差点から右前方の路地に入り、次の四差路は南に延びる通りを進む。

        
         この道は旧山陽道の嘉川村中野から深溝、岩倉、阿知須浦を経て、馬刀引(まてびき)峠を
        越えて宇部に至る白松道である。途中の阿知須浦で分岐して丸尾崎に向かう道もあった。

        
         1880(明治13)年もしくは1884(明治17)年築される竹田家住宅。

        
         旧街道筋に手前から第百十銀行、松重菓子店、華浦銀行の支店が並んでいた。右手の建
        物には“百十”をイメージした第百十国立銀行の社章が残る。1900(明治33)年に小郡
        銀行が開設され、日清戦争後の好況、山陽鉄道の開通などもあり、1902(明治35)年1
        月に阿知須に支店を開設する。1912(大正元)年に小郡銀行は経営不振となり、1918
          (大正7)年に下関の第百十銀行と合併し、支店はそのまま引き継がれる。 


        
         恵比寿神社は、1871(明治4)年現社号に改称し、その後、浜の二宮社と寺河内の現人
          (あらひと)社を合併して現在に至っている。蛭子命(ひいるのみこと・海の神様)と三女神(富貴をも
          たらす神様)
が祀られ、阿知須浦の守護神とされる。


        
         神社正面の道を進む。

        
         井関川の近くで廻船業を営んでいた竹代家は、明治中期に廻船業の村田家から建物を取
        得し、女性の副業としてたばこ屋を営業する。後に文具店を経営したが現在は店を閉じら
        れている。建物は1896(明治29)年以前築とのこと。平入・切妻造りの中2階建て、側
        面の小さな屋根を「床の間屋根」というそうだが詳細は知り得なかった。


        
         竹代文具店前のM家。
        
         
         1877(明治10)年の花屋火事後に建築されたと伝える旧松本酒場の建物である。廻船
        業であった西中家が取得して呉服屋を営み現在に至る。平入・入母屋造りの中2階建て、
              両側に袖庇葺き降ろしの居蔵造である。

        
         西中呉服店からお茶の坂へ向かうと、居蔵造りの中村毛糸店がある。元廻船業であった
        とされ、平入・切妻造りの中2階建ての建物は、1892(明治25)年築と伝える。

        
        この一帯は、かって茶畑が広がっていたため「お茶の坂」と呼ばれた。

        
         白松(宇部)道を南進すると右手奥に本龍寺がある。1716(享保元)年頃には阿知須浦に
        寺は無く、地下(じげ)の者は先祖の命日などに難儀していたという。岐波村にあった本寺は
        門徒の多くが阿知須浦に居住していたこともあって、岐波村の地下人と引寺について相談
        した結果、1722(享保7)年往古に光明寺と称した地に移建されたという。

        

         弘中家は「おくの屋」という屋号で廻船業を営む。主屋は築後120年以上とされ、平
        入・切妻造りの中2階建てで、間口が7間(12.72m)の大規模な居蔵造の建物である。            
         現在は玄関や縁側などの建具はアルミサッシに変わり、右手前方に増築部がある。

               
         本龍寺から海岸方向へ向かうと居蔵通りになる。

        
         中尾家の離れは明治末年頃に建てられたもので、阿知須浦で最初の本格的な2階建ての
        家屋と伝える。側面を通りに向けるので海鼠壁が長く続き、寄棟造の2階には海鼠壁・白
        壁・銅板の戸袋が施されている。

        
         中尾家は向い側にある中川家の分かれであり、中川家と同様に野村屋の屋号であったと
        いう。大阪に米を運ぶことを生業とし、廻船業は第二次大戦が始まる行っていたとされる。
         主屋の建築年代は明治以前とされるが、その後に増築や玄関などに手が加えられている。

        
         居蔵造の内部を拝見できる旧中川家だが、水・木曜日は休館日となっている。

        
         幕末から明治にかけて内海産の塩を筑後川の大川で筑後米と交換し、大阪に回送して販
        売していた。1877(明治10)年頃大阪商人がこの商法に着目し、汽船で赤穂塩を持ち込
        むと阿知須の和船は太刀打ちできなくなる。
         その後、産米を買い付け阪神方面で売りさばいていたが、電報の出現もあって米の値段
        が伝わるようになると、利潤が低下して廃業に追い込まれる。(2016年撮影)

        
         江戸時代に廻船業が発達し栄えたといわれる阿知須浦。千石船で、米・塩・綿を九州か
        ら大阪や江戸に運送し大きな利益を得る。その1軒が中川家である。

        
         中川家には井戸が4つあるとされるが、その中に防火用水を供給するためと思われる直
        径4mを超える大井戸がある。時に海水を入れて生けすにも利用し、江戸から帰った乗組
        員に酒等を振舞ったとか。

        
         旧中川家の隣にある河野家は、1951(昭和26)年頃まで廻船業を営み、明治・大正期
        には阿知須廻船業の中心的役割を果たす。石炭・米を大阪に運び、帰りに糸・綿を仕入れ
        て販売も行ったとされる。
         主屋は平入・入母屋造り、中2階建ての居蔵蔵であるが、2階部分は本2階に近い形で
        あり、明治後期の建物とされる。

        
         中川家の東門への路地。

        
         この先の路地が「ひちりん通り」とされ、夕方になると各家は七輪を持ち出し、石炭を
        燃やし煙が出なくなると家に持ち込み、暖房や夕食の準備に使用されたという。

        
         香川家は宇部から大阪に石炭を運ぶ廻船業を営んでいた。1912(明治45)年築とされ、
        家や仏壇の意匠は京都を真似たため、棟上げから完成まで1年を要したと伝える。

        
         中野家は中川家からの分家で、平入・切妻造りの中2階建ての建物は、天保年間(1830-
                1844)頃の築とされる、阿知須浦では古い建物の1つとされ、後に手が加えられたようだ。

        
         縄田地区内をきらら通りが横断する。

        
         格子柄と旧阿知須町の町木であったキンモクセイがデザインされたマンホール蓋。

        
         上野家も廻船業を生業とし、宇部の石炭を大阪、新潟、北海道などに輸送していた。1
        897(明治30)年築とされる主屋は、平入・入母屋造りの中2階建てで、白漆喰と海鼠壁
        がよく残り、防火用の戸は鉄板で作られている。

        
         関川防潮水門とドーム。

        
         井関川の左岸にある磯金醸造工場は、醤油・だしつゆ・味噌などを製造販売されている。

        
        
         中川家住宅の裏手には土蔵1棟と、並ぶように真重酒造場の蔵も残る。

        
         1866(慶応2)年に西条区と砂郷区を結ぶ慶応橋が完成したが、別に葬礼橋とも呼ばれ
        た。砂郷の地には阿知須浦の墓地があり、民家は建っていなかったという。火葬時代にな
        っても火葬場があり、葬式の行列は必ずこの橋を渡ったという。    
         この沖見灯籠は、慶応橋の工事金に余剰があったので、そのお金で造ったとされる。こ
        のためか灯籠には文字が刻まれていない。当時は時化の日に、点火された灯が上陸の目標
        になったといわれる。

        
         井関川右岸から恵比寿神社への通り。

        
         慶応橋の下流に「馬」の字が刻まれた馬石、河童の伝説が残るエンコ石や嫁らく地蔵、
        いぼ地蔵が祀られている。

        
         砂郷区の通りに入ると右手に居蔵造の住宅があるが、建築年など詳細不明のままとなる。

        
         廻船業であった松浦家は、1897(明治30)年築の平入・切妻造りで、低い中2階には
        小さな窓が設けられている。

        
         浜崎家も廻船業で、向かい合って建つ松浦家と同形式の建物で、1897(明治30)年頃
        に建てられたとされる。
         ここで列車の乗車時間が迫り駅に引き返す。


周南市の粭島はフグ延縄漁発祥の地と大島集落

2020年06月23日 | 山口県周南市

          
         この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分1地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複 第546号)
         大島は徳山湾と笠戸湾に挟まれた大島半島部に位置し、中央に太華山があり、集落
は笠
        戸湾に面して形成されている。
         粭島(すくもじま)は徳山湾の湾口に位置し、ほぼ三角形をなす島だが橋で大島半島とつな
        がっている。(歩行約7㎞) 

          
         JR徳山駅から防長バス粭島行き35分、本浦バス停(13:41)で下車する。

          
         恵比寿社と思われる祠には、明治36年(1903)と刻まれている。

          
         徳山方向に戻って旧道に入る。

          
         大島集落には新しい住宅が並ぶ。

          
         漁村集落特有の細い道が海へ向かう。

          
         地元の女性数人にお尋ねしたが、「権現さん」という返答のみだった。

          
         約500mで県道粭島櫛ケ浜停車場線に合わす。

          
         庄ノ浦に入ると日本精蝋(せいろう)徳山(庄ノ浦)工場。

          
         日本精蝋は南満州鉄道の子会社として発足する。ワックスの製造過程で得られる重油を
        海軍に供給してきたが、戦後は日本で唯一のワックス専門メーカーとなる。(道に沿ってタ
        ンク群が並ぶ) 

          
         西の森地区付近から進行方向に粭島。

          
         フグ延縄漁発祥の地される粭島。そのフグ2匹がデザインされたマンホール蓋。

          
         日本精蝋開発研究センターは歴史を感じさせる煉瓦造。

          
         1916(大正5)年に鈴木商店は日本金属㈱彦島精錬所を設立し、亜鉛鉱を徳山で焙焼し
        たが、ガスによる公害の発生を避けるため人里離れた場所で生産が行われた。1928(昭
        
            和3)年鈴木商店が倒産すると事業は三井鉱山に譲渡される。
         大煙突が最短で見える位置は鼓南(こなん)小中学校とのことで、打上集落から山道に沿う
        とグランドが見えてくる。

          
         中学校の先生から煙突は煉瓦造りで、ヒビが入っているように見えるが、煉瓦が剥がれ
        た痕跡と教えていただく。 

          
         1935(昭和10)年に完成した小瀬戸橋により半島と粭島がつながる。

          
         粭島側より見上げると煉瓦造煙突がもう1本ある。

          
         フグの延縄漁法発祥の地として入口にモニュメントが建立されている。延縄漁法とはフ
        グの鋭い前歯に釣り針を取られていたが、1877(明治10)年頃に高松伊予作が糸を切ら
        れないような方法を考案したとされ、さらに改良された漁具として県内外に伝授された。

          
         海岸通り。

          
         通りには珍しい煉瓦造の倉庫。

          
         漁師から海の神として信仰されている龍神さん。

          
         2012(平成24)年に閉校した粭島小学校は、洋風の木造校舎は島の象徴として残され
        ている。

          
         海岸線に沿う新道には、一段高い歩道が設けてあるが、「海を渡る神輿」で有名な貴船
        神社の夏祭りを見学できる場所でもある。

          
         貴船神社の手前に土曜日昼のみ営業のホーランエー食堂がある。入口には「手打ち蕎麦、
        40杯が精一杯です。」と貼紙がしてあるが、平日は他に仕事をお持ちだとか。

          
         貴布祢神社の創建年は不明だが、18世紀の初め頃に2祭神を祀ったと伝えられ、また、
        西国の大名が風待ちをしている間、粭島に散在する鎮堂を集めて社を建立し、海上安全を
        祈願したとも伝える。
         貴船祭は海上安全を祈願して、慶安年間(1648-1651)頃に始まったとされ、神社から御旅
        所までの海上500mを神輿が渡る。

          
         神社入口に石丸好助翁の像があるが、1875(明治8)年粭島で廻船業営む家に生まれ、
        父親を手伝って約26年間北洋漁業に従事する。帰郷後は太華村長などを務め、島の発展
        に貢献したとされる。 

          
         神社前から見る小学校付近。

          
         宮の鼻を廻り込むと対岸に大津島が見えてくる。

          
         島を一周することはできず、この先で行き止まり。

          
         ホーランエー食堂の裏側は神社参道。

          
         島民には「高松」「石丸」「末田」姓が多い。(S邸)

          
         細い路地は生活道で、共同井戸もあって赤煉瓦が目立つ。

          
         地形に沿って住宅が建てられており、路地もその間を縫うように設けられている。

          
         傾斜地利用のため山手側は石垣である。

          
         海に通じる階段状の路地が山手に向かう。入口には運搬用の一輪車も用意されている。

          
         門を構える民家で海岸通りに出る。

          
         大東バス停16時7分の最終便に乗車するが、本数が少ないので慌ただしい散歩となる。
                                          


宇部市西岐波は床波から御駕籠道と南方八幡宮

2020年06月17日 | 山口県宇部市

          
         この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分1地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複 第546号)
         西岐波の大部分は低位・高位の段丘で、北端付近より沢波川、江頭川、白土川などが南
        東方向の周防灘に流れ出る。
         床波地区が中心地で人口が集中し、旧国道付近に商店街が形成されている。JR宇部線
        は床波を通って海寄りを走り、国道191号沿いに店舗などが多く地
内の商業圏が移行し
        つつある。(歩行約6.8㎞)


          
         JR床波駅は、1923(大正12)年8月宇部鉄道が宇部新川駅から延伸した際に終着駅
        として開業する。相対式ホーム2面2線で跨線橋が設けてある。


          
         駅通りから旧国道を横断して、次の交差点を右折する角に、寛文8(1668)年創業の三井
        酒舗がある。もとは「濤乃花」という銘柄の造り酒屋であったが、現在
は周南の蔵で製造    
        してもらっているとか。


          
         床波漁港は第二種漁港で地元だけの漁港でもないが、下関漁港のように全国的な漁港で
        もない。


          
         床波漁港から西方向(山口宇部空港方面)を望むと、墓標のように旧長生炭鉱の2つのピ
        ーヤ(排気・排水筒)が海面から突き出ている。


          
         1942(昭和17)年2月3日の朝、海底坑道のおよそ1㎞沖合で水没事故が発生し、1
        83名の坑夫たちが犠牲になる。そのうち136名が朝鮮人労働者で、
今も暗く冷たい海
        に眠ったままとなっている。床波海岸の一角に追悼碑が建立さ
れて犠牲者追悼集会が行わ
        れている。


          
         海岸道路から一歩奥の道を東進する。(右は床波公園)

          
         沢波川に架かる沢波橋。

          
         床波の由来となる逸話が残る荒人神社は、奈良期の751(天平勝宝3)年漁師や村人が
        吉大明神を祀ったのが始まりと伝える。

         769(神護景雲3)年に和気清麻呂が、宇佐八幡宮に神のお告げを聞きに行く時に海が荒
        れ、
船上からこの社に祈ると海が静まったとか。このとき船が「床」の上を滑るかのよう
        に「波」が無くなったことが、「床波」の地名の由来ともいわれている。
        1715(正徳5)年に疫病が流行した時、京都の八坂神社より勧請して住吉神社に合祀し
        て、荒人神社と呼ぶようになったという。


          
         西光寺(真宗)は常盤湖辺りにあったが、元禄年間(1695-1698)常盤湖築造の際に現在の地
        へ移転した。


          
         この道は床波往還道で、宇部周辺を給領地としていた萩藩家老の福原氏が、駕籠で通っ
        ていたことから「御駕籠道」とも呼ばれた。


          
          
         三井酒造は、1667(寛文7)年長崎奉行中島九郎右衛門が江戸への途中、床波沖で難破
        した時に三井家に救われ、その報恩のために酒造免許が与えられたと伝
える。 
         左手が醸造場で右隣には三井酢造があり、1877(明治10)年頃から大正期にかけては
        朝鮮や満州にも販路を拡大という。            

             
          
         現在の西岐波は、1879(明治12)年に岐波村が分村して西岐波村となり、町村制施行
        時はそのまま村立する。村の中心が江戸期にあった旧床波村で、駅、
郵便局、漁港などは
        床波を表している。


           
         左右に折れ曲がって進むと、右手に大番神社への路地がある。

          
         坂道を下ると大番様と呼ばれる神社前に出るが、由緒書きがないため祭神等は不明のま
        まとなる。


          
         大番様から海岸道路に出る。

          
         白土海岸。

          
         和智元郷の墓が案内されているが、和智家は広島県吉舎町の城主であった。毛利家が防
        長二州に移封された際、毛利氏に従い西岐波旧山村を給領地とし、真河内の溜池を灌漑用       
        に改修するなど地
域の発展に尽力したとされる。

          
         宇部市の花「サルビア」と常磐公園の花菖蒲がデザインされたマンホール。

          
         浜田川に沿って海岸線から丘陵地へ向かう。

          
         JR宇部線の架道橋を潜り、国道190号を横断すると柳ヶ瀬地蔵尊。

          
         西岐波の山村地区に鎮座する南方八幡宮の社伝によると、奈良期の751(天平勝宝3)
        厚
東武綱が宇佐八幡宮より勧請して、古尾の地(現在の東岐波区古尾)に社を建立して賀保
        の
庄の鎮守とする。鎌倉期の1233(天福元)年大内弘貞の時に白松庄を2つに分け、八幡
        宮を南と北
に分社した。

          
         南は吉沢の地(現在の西岐波上ノ原)に建立されたが、鎌倉期の1255(建長7)年現在地
        に遷座する。
室町期の1408(応永15)年火災に遭い、大内盛見により再建された。

       
         大内時代の特徴を示す楼門造りとなっている。

          
           南方八幡宮を背にして進むと、県道西岐波吉見線に出会う。

          
         同地区内には種類の違うマンホールが存在する。常磐公園で放し飼いにされていたモモ
        イロペリカン「カッタくん」と子供、周囲に市の花サルビアがデザイン
されている。

          
         旧石器時代の遺跡とされる長桝遺跡。発掘調査を終えて埋め戻しがされて畑になってい
        る。


          
         県道を直進して国道190号とJR宇部線を横断する。

          
         1872(明治5)年に学制が公布され、1874(明治7)年に寺小屋などを統合して床波小
        路に床波小学が開校する。1884(明治17)年に校名を「錦波(ぎんぱ)尋常小学校」と改名
        したが、後に西岐波小学校と改める。学校跡地は市民センターとなっているが、校門など
        が名残りをとどめる。


          
         市民センターから往還道に入ると右手に道標があり、風化が進んでいるが「右うべしん
        かわ、左床波」と読める。

         道標の向かい側付近に西岐波村役場が置かれていたが、今は住家となって痕跡は残され
        ていない。


          
         駅方向へ向かうと沢波川傍に権代南向地蔵が祀られている。昔はこの辺りは沼地で、渡
        し舟で渡らなければならず事故も多かった。出羽国出身のお坊さんが地
蔵尊を祀ったとこ
        ろ、事故が無くなったとか。
         また、水質が悪く疫病が流行した時、
旅僧が祈ってくれたので病気が退散したという説
        もある。今も庶民の願いをかな
えてくれる地蔵尊として信仰を集めている。(JR床波駅
        に戻る)


周南市の大津島は人間魚雷「回天」の基地だった地 

2020年06月15日 | 山口県周南市

                 
                  この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分1地形図を
                          複製したものである。(承認番号 令元情複 第546号)

         大津島は徳山湾の沖10㎞に浮かぶ島で、面積4.73㎢の南北に細長い島である。
        もとは大津島と馬島の2島に分かれていたが、砂州地形によって1島となり、軍事施
        設ができる際に本格的な埋め立てがなされたという。(歩行約10㎞)

        
              徳山港(9:30)から大津島巡航に乗船し、馬島、刈尾、瀬戸浜を経由して本浦港で下船す
        る。(10:15)

        
         海岸道路奥側の家々をつなぐ生活道がある。

        
         体験交流施設「大津島海の郷」より高台に上がると本浦港と集落。

        
         本浦に大津島郵便局があり、島内の郵便物は早朝にポストから郵便物を回収して、それ
        らを1日1回の巡航船で徳山郵便局へ配送しているとか。
         大津島には7つの集落があるが、柳ヶ浦を除いて各集落には氏神が祀られている。本浦
        の氏神は木原神社であるが、周南市の富田にある山崎八幡宮の末社である。

        
         参道筋に重厚な古民家。

        
         光満寺(真宗)は、1597(慶長2)年冷泉光宗が大内輝弘の挙兵に加担し、防府市富海の
        茶臼山で戦死する。難を逃れた妻子は大津島に渡り、次男が出家し浄西と称して供養寺を
        建てたのが始まりとされる。1720(享保5)年富田平野村にあった寺の寺号と建物を買い
        受け、西本願寺の許可を得て今日に至る。

        
         漁業以外に産業立地に恵まれないため、過疎化に拍車がかかっているようだ。

        
         本浦集落を見納めして苅尾までの山道に入る。途中にはイノシシ専用温泉もあって、相
        当数のイノシシが存在するようだ。

        
         
市道本浦馬島線で島の東側に出ると正面に黒髪島が見えてくる。黒髪島の御影石は国会
        議事堂にも使用された最高級品として知られている。

         島には定住者がいないため巡航船は立ち寄らないが、採石場へは会社の通勤船が関係者
        を運んでいる。

        
         苅尾には周南市大津島支所、診療所、警察駐在所が置かれているが、集落内はひっそり
        としている。

        
         住民生活保全のため周南市が管理する苅尾港。

        
         苅尾の氏神は厳島神社だが、この神社も山崎八幡宮の末社で、木原神社同様に祭神は市
        杵島姫命である。

        
         銭橋ノ岬から見る刈尾の町並みと弧を描いた海水浴場。

        
        
         大津島における採石の歴史は古く、徳川幕府による大坂城再築に際し、堀の堀削と石垣
        の構築は西国と北陸の諸大名が担当する。うち本丸と天守台には毛利家が関わり、大津島
        からも石が運ばれた。
この採石場での石切り出しは行われていないようだ。(赤石集落)

        
         海岸線に沿って市道が走る。

        
         天ヶ浦集落手前に大津島砲台跡入口があるが、樹木の倒壊で通行止めとなっている。

        
         徳山要港及び付近の軍事重要施設等を守るために、太平洋戦争開戦前後(1941-1942)に高
        角砲3基が設置される。1945(昭和20)年5月10日と7月26日の徳山大空襲時に、
        対空砲火で応戦するも、性能及ばず戦果に見るべきものはなかったという。(2015年撮
        影)

        
         
煉瓦造の指令所跡。

        
         
大津島の人口は、1950(昭和25)年頃の約2,500人をピークに減少傾向と高齢化が
        続いている。
         島の暮らしを取り巻く環境は厳しいものがあるが、集落内を結ぶコミュニティ車の運行
        やケーブルテレビ通信網など、生活環境の整備が行われている。(島民以外はコミュニティ
        車の利用不可)

        
         各港の波止場に石祠があるのだが、龍神が祀られているのだろうか。

        
         
巡航船が停泊中の馬島港。

        
         波止場の手前に回天記念館に上がる道がある。

        
         階段の所にある大津島基地配置図。

        
         1937(昭和12)年呉海軍工廠の魚雷整備施設が開設されたが、その跡地に大津島小学
        校が移転する。

        
         この付近には士官兵舎があった。

        
         
戦後、山の中腹にあった宿舎跡に馬島小学校が建てられたが、1968(昭和43)年回天
        記念館が創立される。

         入口までのエントランスには亡くなった搭乗員など145名の墓碑が並ぶ。

        
         敷地内に復元された特殊潜行艇「回天」の模型が置かれている。戦時中は機密保持のた
        め丸六(マルロク)兵器と呼ばれ、母体となったのは九三酸素魚雷で、この魚雷の中央部に、
        乗員のための操縦席を設けたのが回天である。魚雷の長さは9.61mであったが14.7
        5mに延長された。(九三式とは皇紀2593年の末尾2桁の数字)

        
         記念館から下る途中に養浩館という建物があり、その向かい側に展望公園への道がある。
        ほとんどが疑木階段で入口付近は笹が被う。

        
         馬島港のある一帯は魚雷整備工場敷地内で、集落は南側の馬島に形成されている。

        
         鬣(たてがみ)山の山頂手前に、酸素魚雷の性能を確認するための魚雷見張所が置かれた。

        
         窓から見る海上は樹木の生長で見えなくなりつつある。

        
         構造は煉瓦造にコンクリートが上塗りされている。

        
         工場内を囲むように設けられたコンクリート塀の一部が残されているが、秘密を確保す
        るため、島民が通る道と工場の間に設けられた。

        
         記念館から下ると分岐で、案内に従うとトンネル入口が見える。

        
         酸素魚雷の発射試験を行うためトロッコで運搬したトンネルは、1943(昭和19)年9
        月以降は回天が運搬されることになる。

        
         トンネルの長さは247mで、中央部付近の海側に開口部があり、レールが複線となっ
        ている場所には、調整が完了した回天が右側のレール上に置かれていたとか。

        
         1938(昭和13)年10月から約1年を費やして完成した魚雷発射試験基地は、大分県
        で製作された8個の大型ケーソンを船舶で曳航し、大津島で製作された小型のケーソンを
        組み合せて建設された。

        
         2階には簡易机上演習機が用意されて、実地訓練のない搭乗員たちが、その装置を使っ
        て訓練の不足を補っていたとのこと。

        
         呉市の海軍工廠で製作された九三式魚雷を海上運搬して、この発射口から試験を行った。

        
         回天は魚雷よりも長いため、魚雷発射口とは逆の位置にあったクレーンで吊り上げ、横
        の海面に降ろして基地の沖合まで、横抱艇で曳航して訓練が行われた。

        
         小学校地の一角に変電所跡が残る。整備工場の必要不可欠な電源は、1938(昭和13)
        年海底ケーブルにより、周南市戸田から送電された。

        
         山の法面をくり抜いた危険物貯蔵庫。

        
         木造の建物は魚雷点火試験場。

        
         整備工場と兵舎などをつなぐ階段。草が繁茂して階段とは思えないが、訓練にも活用さ
        れ、当時は「地獄の階段」といわれていた。

        
         大津島公園内にある飛行科の入口門。

        
         地峡の海岸から見る訓練基地。

        
         1970(昭和45)年本浦に簡易水道が設置されたが、のちに上水道が整備され、旧水道
        は大津島地区の非常用水源として確保されている。その他の集落は、1974(昭和49)
        10月粭島より敷設される。 

         ごみ処理については、フェリーを活用して島内のごみ及び汲み取り汚水は本土へ運搬・
        処理されている。(馬島集落)

        
         葛原神社も山崎八幡宮の末社で、祭神も同じである。

        
         馬島集落は漁港を取り巻くように東側に向いて山裾に展開する。人に会うことはなかっ
        たが猫の多い島であった。

        
         馬島港から徳山港へ戻るが、馬島で下船してレンタサイクルを利用すれば瀬戸浜まで行
        けたようだ。
         また、せとうちサイクルーズPASSがあれば、自転車を乗船させることができるよう
        になっている。


岩国市の関戸と多田は旧山陽道筋の小さな町

2020年06月09日 | 山口県岩国市

                                  
        「この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分1地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複 第546号)」
         関戸は岩国城下の城山北に錦川を挟んで位置する。旧山陽道が小瀬川を越えて周防国に
        入り、南西に進んで錦川左岸にあった周防最初の宿駅である。
         多田は東流する錦川が城山にぶつかり、北に向きを変えた辺りの西岸に位置する。この
        地で旧山陽道と岩国往来が分岐する。(歩行約5.4㎞) 

          
         関戸へはJR岩国駅前からいわくにバス新岩国駅行き20分、関戸バス停で下車する。

          
         進行方向に見える2つ目の信号機を右折する。

          
         右折すると旧山陽道であるが、下りながらの散歩がベストのようで、旧山陽道を示す標
        柱まで緩やかな坂を上って行く。 

          
         地元の方によると以前は車の往来があったが、左手の山裾にバイパスができたので事故
        の心配はなくなったとのこと。
確かに歩いていると、車に遭遇しない静かな町筋である。

          
         トタンで囲まれた地に脇本陣の東家があったようだ。

          
          
         本陣だった村尾家は、朽ちた土塀だけがわずかに当時の面影をとどめている。案内によ
        ると江戸期の関戸宿には、参勤交代用の本陣や脇本陣などがあった。

          
          
         客(まろうど)神社は安芸の厳島より勧請したもので、室町期の創建といわれている。近世、
        関戸村の氏神で、境内に黄幡社・河内社・今宮・大歳社・鹿島明神・荒神の6末社がある。

          
         神社から関戸の町並みと、正面に岩国城がある城山(横山)が望める。

          
         公会堂敷地内には吉田松陰東遊記念碑が建っている。吉田松陰が当地で詠んだ詩が裏側
        に刻まれているが、漢詩のため理解できない。他資料によると中国の故事を引用し、毛利
        家と吉川家が手を結ぶことを願った詩といわれている。

          
         本陣の向かい側に村域内唯一の宗清寺(しゅうじょうじ)があるが、寺号を「ソーセージ」と
        読み違いをする。1653(承応2)年に小庵を建立して善正坊と称していたが、1693(元
          禄6)
年に現寺号となる。

        

          
         関戸村の庄屋を務めていた村尾家は、幕長戦争の際は戦傷兵の病舎になった。軒柱を支
        えるため屈曲した部材が用いられている。

          
         少し下れば門構えと白塀に囲まれたM家。

          
         高札場が市の西端にあり、幕府の高札のほか駄賃定が告知されていた。交差点で岩国往
        来と合わし、多田まで並走する。

          
         国道2号が旧街道筋だが、歩道は狭く草木が覆う箇所もある。多田まで見るべきものが
        ないので、安全策として団地内を通って多田に出るべきであった。

          
         新幹線や高速道下を潜る。この付近の歩道は広かったが、再び狭い歩道となる。

          
         多田の中心地である古市に出ると、岩国往来はここから北へ分ける。

          
         国道を横断して多田川左岸(遊歩道)を錦川へ向かうと、途中に高速道の函渠がある。距
        離にして片道500mぐらいである。

          
         多田と城下の横山を結ぶ渡り場で、徒歩渡りと船渡りであった。この渡り場は、196
        5(昭和40)年代頃まで続いたとされる。

          
         藤河郵便局まで戻って岩国往来筋に入ると、入口には弥山堂古市大鳥居と常夜燈1基が
        残されている。もう1つは道路拡張時に失われたようだ。

          
          
         街道筋の建物は既に新しいものに建て替えられている。

          
         新幹線高架下先に阿品邸があり、この界隈で見られる唯一の古民家である。

          
         多田川に架かる橋で岩国往来は右手に進むことになるが、左折して国道2号(旧山陽道)
        へ戻る。

          
         狭くアップダウンのある歩道が続く。

          
         関戸では見かけなかったが、錦帯橋と月に浮かぶ岩国城、錦川の鵜飼いと中央に岩国市        
        章がデザインされたマンホール蓋。

          
         塩田歯科医院付近に多田の庄屋・塩田家があり、赤土の蔵があったとされる。

          
         バスセンター付近から本庄八幡宮にかけての間、紙蔵跡があったとされるが特定できず。
           
          
         バスセンターからJR岩国駅へ戻る。


岩国市御庄と柱野は旧山陽道筋の小さな町

2020年06月09日 | 山口県岩国市

                             
        この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分1の地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複 第546号)
         御庄(みしょう)は錦川の右岸に位置し、御庄川が東寄りを北流する。域内に山陽新幹線の
        新岩国駅があり開発が進んでいる。
         柱野は御庄川中流の沖積平野を中心に開けた地にあるが、御庄とは対照的な地である。
        (歩行約8.3㎞)

          
         1960(昭和35)年に国鉄岩日線の御庄駅として開業するが、1987(昭和62)年第三
        セクターの錦川鉄道㈱に移管された。駅名を含めて現行のままとなったが、2013(平成
          25)
年3月のダイヤ改正で「清流新岩国駅」と改称される。

          
         1975(昭和50)年に当時の岩日線を横切る形で山陽新幹線が開業したが、御庄駅と新
        岩国駅は別駅として扱われる。ただし、相互利用ができるよう駅連絡通路が設けられた。

          
         沿岸部に工業地帯を有することから、ルート上に新幹線駅を設けることは考えられてい
        た。場所選定にあたって岩国駅か西岩国駅に併設する案もあったが、工事費用や構造上の
        問題から田畑の広がるこの地が選ばれた。

          
         旧山陽道は現在の御庄大橋付近に御庄の渡し場があった。渡し守は常時一人詰で、1ヶ
        月のうち多田村が10日、残りを御庄村が受け持っていた。

          
         ここから新市の町並みに入る。

          
         1666(寛文6)年の洪水によって、錦川およびその支流の河床が高くなり水害が常習化
        する。1676(延宝4)年旧山陽道は北方の山ぎわを迂回するように付け替えられ、それに
        ともなって町も道筋に移転する。新市は街道の片方だけに屋敷地が割り当てられた片側町
        となる。

          
         市の端にある蓮乗寺(浄土真宗)は、1653(承応2)年に創建されて「善行寺」と称して
        いたが、1693(元禄6)年現寺号となる。
         
          
         市には本陣と馬立所1ヶ所を備えたが脇本陣はなかった。庄屋の重村家が本陣亭主を兼
        ね、間口27間の屋敷を持っていたが、馬立所の建物はなかったという。

          
         御庄市は本宿ではなかったが、川止めなどで止宿の必要が生ずることもあり、「間の宿
        」的性格の宿場であった。

          
         往古に烈しき流行病が発生したため、庄屋などが生命(いのち)の神を祀る
滋賀県犬山郡多
        賀村にある多賀神社より勧請したと伝わるが、創建年などは不明とのこと。

          
         錦川鉄道の架道橋を潜る。

          
         明治以降の御庄は主要な交通路から外れたため、街道の景観を残していたようだが、山
        陽新幹線の新駅ができたことで大きく様変わりした。錦川鉄道の南側は街区整理もなく旧
        態を維持している。

          
         岩国市役所御庄出張所傍に役場の形態を残す建物がある。1916(大正5)年6月藤河村
        から御庄村が分村するが、御庄村役場だったかどうかはを得ていない。

          
         県道岩国大竹線に合わすと御庄川に沿う。

          
         御庄川左岸を南下すると、右岸の井出集落に木造校舎と穀物の神を祀る大歳社がある。

          
          
         素敵な木造校舎は、1947(昭和22)年御庄村立の中学校として創立されたが、201        
        4(平成26)年に休校となる。

          
         錦川鉄道下を潜ると岩国城下へ通じる岩国道が分岐する。1703(元禄16)年御庄川に
        西氏橋が架けられたというが、洪水により流失もあって幾度か架け替えられた。
         西氏橋は別名を「思案橋」といい、この橋を渡って錦帯橋を見学して行くかどうか思案
        したことから、この名が付けられたとか。

         
         さらに川上へ向かうと、JR柱野駅へ通じる西氏橋がある。岩国への橋が思案橋となっ
        たことで橋名が変更されたようだ。

          
         この先の左岸は狭隘で歩車分離の道でないため、橋を渡って右岸道を進む。

          
         柱野の地名由来は不詳とされるが、柱となる材木を出すためとも伝えられる。江戸期は
        柱野村で岩国藩領であった。

          
         岩徳線の鉄橋付近を樫木淵と呼び、昔は青々として底の深い所だったが、現在の淵は土
        砂で埋まり、樫の木は切られ通学路となっている。

          
         沈下橋だったような橋桁が残されている。

          
         コロナ感染や車とは無縁な場所である。

          
         下市橋から見る柱野の町並み。

          
         柱野市は入口で直角に折れる屈折構造となっている。

          
         市は古宿にあったが、たびたび火災があったので下流の「野とろ原」へ移ったが、移転
        時期は不明とのこと。

          
         下市集会所がある場所に本陣があったとされ、九州の大名が利用したとか。

          
         民家は道路より一段高い位置に設けてある。

          
         柱野市も大火後に町並みが再建されたが、再建時に道幅が拡張されたようだ。

          
         通りに古民家は少ない。

          
         右手にある教法寺(浄土真宗)は、1647(正保4)年に西氏が庵を創設する。1681(
        天和元)年柱野市に移転して今日に至る。

          
         蔵の先で道は三差路となるが、旧山陽道は右の道を辿る。

          
         上市橋を渡り古宿に入ると、1947(昭和22)年に師木野村立師木野中学校として建
        てられた校舎があったが、老朽化のため今年の春に解体されたとのこと。
         マンサード屋根と正面にはドーマーを載せたモダンな木造校舎であった。(2018年9
        月撮影)

          
          
         1949(昭和24)年に村立柱野中学校と改称したが、1999(平成11)年に休校、20
        14(平成26)年に廃校となった。

          
         道路の右側に千体仏を祀るお堂がある。仏像群は小さな木彫りの仏で、1715(正徳5)
        年この地にあった黄檗宗の桂雲寺に静間彦右衛門が奉納したと云われている。
         1937(昭和12)年桂雲寺は廃寺となり、その跡に小さなお堂を建てて安置されたが、
        度重なる水害で流失し現在は795体である。

          
         信者が寺に詣でて法要仏事を営む際に、お堂の中にある千体仏から亡き人の顏に似た仏
        像を選び、本堂で位牌と共に読経を乞い、元に位置に収めて退出したとされる。(管理され
        ている方にお会いして堂内を拝見する)

          
         御庄川右岸を引き返す。

          
         古宿入口に柱野バス停があるが、9時と12時台の2本のみである。JR柱野駅まで戻
        って長い待ち時間後に徳山駅行き(16:07)列車を利用する。


山陽小野田市の木戸・刈屋に古い町並み

2020年06月08日 | 山口県山陽小野田市

          
         この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分1地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複 第546号)
         木戸・刈屋集落は市街地の南東に位置し、竜王山の北西斜面に形成された集落である。
        目の前に火力発電所があって小野田港沿岸にはセメント工場などが立地する。

         漁村らしく緩斜面に民家が密集しているが、平らな宅地を造るため石垣が積まれるなど
        瀬戸内らしい構成となっている。(歩行約2.5㎞)


         
         JR小野田港駅から少し離れているため、JR小野田駅から理科大前行きバス20分、
        水神町バス停で下車する。 


          
         小野田港の入江奥へ進む。

          
         入江に祠が祀られているが祭神は不明。

          
         Barberおはら前で山裾の路地に入る。(木戸新町) 

          
         道は直線的ではないが地形に沿って平坦である。

          
         重要文化財の「徳利窯」とツツジがデザインされた雨水用マンホール蓋。

          
         左手に火除明神が祀られているが、消防設備のない頃、火事は地震、雷の次に恐れられ
        ていた。
この木戸でも江戸中期頃に大火があって、19軒が焼失したと伝えられ、集落
        守社として祀った後は大火がないという。


          
         この付近は比較的大きな家が連なる。

          
         通りの電柱に共同井戸と案内されており、路地を上がって行くと「本川の井戸」と呼ば
        れる井戸がある。今でも清水を湛えているが、いつ頃掘られたのかは不
明とのこと。19
        34(昭和9)年に上水道が設けられるまで共同井戸として、
150戸余りの生活用水を供給
        してきたが、今では鯉が泳ぐ井戸となってい
る。

          
         船木宿から刈屋の港を結ぶ道が「木戸刈屋道」で、船木から有帆中村、小野田旦、野来
        見、赤崎大明神を通る3里23町(約14.3㎞)の距離であった。


          
         細い路地は斜面方向に縦道、等高線に沿って横道が網目状に絡んで各家にアクセスして
        いる。一旦入り込むとどこにいるのかわからなくなってしまう。


          
         縦道を上がると工場群が見えてくる。

          
         横道に戻って木戸中ノ町に入ると、木戸公会堂との三差路にM家がある。家の広さから
        手広く商売をされていたようだ。 


          
         三叉路の角に庚申塔。

          
         所々に空家が目立つ。(O家)

          
         刈屋道はH家の先で左折する。

          
         江汐公園のつり橋とツツジがデザインされたマンホール蓋。

          
         木戸と刈屋の道は竜王山が出っ張っているため、海沿いに道を造ることができず、木戸
        から竜王山の山裾に道がつけられた。この道は中道(なかみち)と呼
ばれ、刈屋への主要道路
        であった。


          
         1921(大正10)年頃に大井亀蔵らの尽力で海岸沿いの道が造られる(木戸大鼻集落)

          
         反りをもって積まれた石垣もある。

          
         眼下に海を見下ろす山の斜面に、石垣を高く築いて家が建てられ、その間を迷路のよう
        に細い道が走る。

          
         木戸・刈屋の境界に当たる大鼻の海岸通りに、亀趺に乗った「大井両翁頌徳碑」がある。
         大井善右衛門(酒造業)と亀蔵(醤油醸造業)の兄弟は、郷土の発展に尽くした人物で、魚
        市場の運営、漁港の改修、道路整備など両集落の公益を図る目的として、木戸・刈屋共有
        議会を創設した。弟の亀蔵は刈屋集落の海岸道路の新設に尽力する。

          
         恵比須神社参道に木戸刈屋盆唄由縁の地とある。1830(天保元)年代より続く歌い舞
        う盆唄だそうだ。 

          
         漁労の神として刈屋浦には刈屋の西端、木戸には中央の中ノ町波止場に祀られていたが、
        明治の神社整理を受けてこの地に合祀される。 

          
         恵比須神社の隣には正圓寺があり、その先も中道が続く。(刈屋上条集落)

          
          
         徐行と時速制限の道路標識をみると明圓寺前。

          
         1632(寛永9)年に創建された明圓寺(浄土真宗)は、刈屋集落の最も高い所にあって車
        が入る道はなく、新築や修理を要する資材などはケーブルによって運搬されたという。

          
         開基は俗名・高橋蔵人とい尼崎藩の浪人であった。のちに縁あって当所に来て無住の念
        仏道場に住したことに由来するという。
         当寺は刈屋の波止場に近いこともあって、難風などに遭って避難上陸した幕府の役人や
        九州諸大名の休憩所に使用されたとか。

          
         境内から見る火力発電所。

          
         1847(弘化4)年の正月に火災が発生し、200余戸が全焼するという大火に見舞われ
        ている。

          
         正面のT邸前で鉤の手になっている。

          
         水路にパイプ管が設置されているが、雨水は別にしても汚水処理方法、膨大な石垣など
        の運搬についてお尋ねしようと思ったが、誰にも会うことなく残念する。

          
         傾斜地を切り開いて道や宅地を設けた先人たちの苦労が偲ばれる。

          
         中道も突き当り海岸線へ下る。風土注進案は神功皇后伝説を紹介して「この地に数戸の
        御仮屋を造立し滞陣したるよし‥」と記し、仮屋が誤用されたのが地名の
起りとする。

          
         県道妻崎開作小野田線(1968年開通)に出て刈屋港へ向かう。

          
         漁港の波止場先に高さ3.58mの立派な常夜燈が残されている。1818(文政元)年に
        吉敷毛利氏の手によって建てられ、明治の終わり頃まで毎晩灯されて、位置を沖の船に伝
        えるとともに入船・出船を見守ってきた。この地は江戸期には吉敷毛利氏の給領地であっ
        た。

          
         海岸線から見ると観覧席のように家が建ち並んでいる。

          
         刈屋バス停(魚市場前)から船鉄バスJR小野田駅行きに乗車する。この地の難点といえ
        ばトイレがないことである。
  


山陽小野田市の本山は小野田支線の終着駅と旧炭鉱跡 

2020年06月07日 | 山口県山陽小野田市

          
        この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分1地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複 第546号)
         本山(もとやま)は竜王山の東から南の本山半島に延びる台地状に立地し、宇部市と境を接
        する。本山炭鉱を中心に栄えてきたが、廃坑後の現在は、石油精製所・大学の進出などで
        住宅街に変わりつつある。(歩行約7㎞)


         
         採掘した石炭および石灰石ををいかに搬出・搬入するかが課題となり、1915(大正4)
        小野田駅と小野田港駅は小野田軽便鉄道により、1929(昭和4)年雀田駅ー居能間が宇部
        電気鉄道が開業する。
         1937(昭和12)年宇部電気鉄道により雀田ー長門本山間が開業したが、1943(昭和
          18)
重要物資資源の輸送路線として国有化される。小野田港ー雀田間がつながったのは、1
        947(昭和22)年のことである。


          
         雀田駅ー長門本山駅間の約2.5㎞の支線には、1933(昭和8)年製造のクモハ42系
        電車が使用されて駅に常駐していた。約70年間走り続けてきたが、2
03(平成15)
        3月
14日に姿を消してしまう。(1994年撮影)

          
         Yの字形に線路が分かれ、その開いた線路と線路との間に三角形ホームが置かれている。
        クモハ42形とYの字型配線駅は、鉄道ファンには
知られた駅だった。

          
         JR雀田駅前から左折して踏切を越えると、2016(平成28年)公立大学に移行した山
        陽小野田市立山口東京理科大学。

          
         交差点を右折してJR本山支線に沿う。 

          
         県道妻崎開作小野田線が開通するまでは、本山への主要な通りだったようだ。

          
         県道小野田港線を横断する。

          
         1932(昭和7)年に開業した日本赤十字臨海療養院は、1928(昭和3)年に赤十字社支
        部が御大典記念事業として創設を決めたもので、当時の小野田町が誘致に乗り出して町内
        に建設が決まる。
         松原の海岸約6,300坪の広大な敷地に病棟などが建設され、当初は結核患者の治療
        にあたったが、現在は地域の高度慢性期病院としての役割を担っている。

          
         JR浜河内駅前

          
         JR浜河内駅は支線のほぼ中間点に位置する。

          
         駅前交差点から南下して行くと、標高136mの竜王山が裾野を広げる。山頂からは3
        60度の展望で、自動車道や登山道が整備されているとのこと。

         
         大通りに合わし海岸方向へ向かう。

          
         1943(昭和18)年に設立された正法院は、3年後に本堂が建立された比較的新しい寺
        院である。

          
         支線の終着駅である長門本山駅は、車止めの先に単式ホーム1面1線で来た列車が、そ
        のまま折り返す構造である。列車は朝夕の3本のみで、廃線されない不思議な支線でもあ
        る。

          
         JR長門本山駅先の海岸から見る本山の町並み。

          
         本山公民館手前の海側に炭鉱遺構と思われるものが残されているが、ネットが張り巡ら
        されて確認できず。

          
         大須恵の住宅街に児童公園があり、その一角に本山炭鉱斜坑口跡がある。(左手の林)

          
          
         この坑口は、1917(大正6)年に大日本炭鉱が運搬坑道として設け、1941(昭和16)
        年に宇部鉱業が完成させて、1963(昭和38)年3月の閉山まで使用された。
         坑道は沖合3㎞、最深部は200m、形状は鉄筋コンクリート造で側面は石組みとなっ
        ているが、津布田断層と異常出水に悩まされ続けた炭鉱でもあった。

          
          
         本山岬への周辺部には炭鉱社宅が並び、1940(昭和15)年には約1,873人の抗夫
        と家族が居住したとされる。社宅は6畳と4.5畳、台所があり、石炭・水道は無料であっ
        たようだ。

          
         第二次世界大戦中には本山炭鉱に捕虜収容所があり、連合軍捕虜が炭鉱で働かされた。

          
         本山岬の高台にあった炭鉱鉱員寮を改築し、木造平家の長屋数棟が収容所となる。現在
        は荒地で足を踏み入れることができないが、コンクリート製の水槽と門柱と思われるもの
        が名残りをとどめている。

          
         旧小野田市の最南端、竜王山の峰が南に延びて台地状となり、周防灘に突き出た所が本
        山岬である。(バス停があり1時間毎の便数)

          
         道標に従うと本山岬公園には、駐車場と旧式トイレ、案内板などがある。

          
         公園入口に金毘羅大権現社が祀られているが、1893(明治26)年小野田セメントに原
                料の粘土を運搬していた船問屋の柴田寿之助が、海の神様である讃岐の金毘羅社から勧請
        して建立したとされる。
         隣には観音菩薩と蛇神を祀った石祠2体がある。蛇神は蛇の神様で、この周辺には毒蛇
        が多かったことに所以するという。

          
         海岸への階段を下ると目の前は西部石油山口製油所。

          
          
         地質が砂岩層や礫岩層のため、風波などの浸食によって奇岩が生まれた。残念ながら満
        潮だったため「くぐり岩」は海に沈んで近寄ることができなかった。

          
         長門本山駅バス停から約600m先の海岸線に「きららビーチ焼野」がある。海水浴や
        マリンスポーツができるそうだが、海を眺めながら遊歩道を歩くのも最適な場所である。

          
         本山駅バス停からバスルートが2つに分かれるようで、こちら側は本数が少ない。きら
        ら交流館前バス停(13:32)よりJR小野田駅に戻る。


下関市豊北町に肥中街道終始点の肥中と特牛

2020年06月03日 | 山口県下関市

        
            この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分1地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複 第546号)
         特牛(こっとい)は離島の角島に相対し、響灘の北域に位置して天然の良港がある。海岸線
        を国道191号が南北に走る。
         肥中(ひじゅう)は八ツ手の葉のように湾が幾つも入り込む天然の良港であったが、のちに
        土砂が埋積してその地位を特牛港に譲る。(歩行約4.3㎞) 


        
         1928年(昭和3)年開業のJR特牛駅は、特牛港から距離にして3㎞も離れた内陸部に
        ある。駅からバス路線はあるものの便数は少ない。近隣にタクシー会社があるようで、駅
        舎内に料金表が貼り出されている。


        
         懐かしい木製改札ラッチが現存する。

        
         JR特牛駅(11:03)からブルーライン交通で8分、特牛港バス停で下車する。ゲートのよ
        うなものは,特牛漁港の製氷コンベアとアイスクラッシャー。


        
         地名の由来については、かつてこの地は牧畜が盛んであったことから、雄牛の意味を示
        す方言の「コトイ」から取ったという説と、日本海に面した小さな入り江を示す「琴江」
        から取ったという説など諸説があるが、超難読な地名として知られている。

        
         特牛港は西長門海岸の典型的な溺れ谷に立地する天然の良港である。江戸時代から明治
        期にかけて急激に発展した港町で、風待ち港として船の出入りが多く、旅館のほか遊郭も
        形成されるほどの賑わいを見せたが、今では静かな漁村集落である。

        
         港から安田薬局前の路地に入り、四差路を右折すると国道435号に出るが、その間が
        赤間関街道北浦筋(阿川ルート)のようである。

        
        
         旧特牛製網所(特牛製氷所)の建築年代は昭和初期とのことだが、鉱滓煉瓦で作られた工
        場施設である。

        
         四差路に戻って旧主要道だった道を山手に進む。

        
         肥中街道に合わし街道を折り返す。

        
         そう古くはないがN邸。

        
        
         街道筋は空地・空家が目立つ。

        
         肥中街道は赤間関街道に合流して阿川方面へ向かうが、その角には遊里らしき面影を残
        す建物が残っている。(M邸)


        
         右手の総2階は河野呉服店。

        
         街道は国道191号線に合わす。

        
         肥中港の南側に突出した半島が、湾を囲むように特牛の町並みは展開する。

        
         湾の北側出入口にある蛭子神社は、1822(文政5)年に蛭子大明神と厳島大明神を祀る
        社殿を建立したとされる。


        
         海岸線より一歩奥の生活道を進む。

        
         集落内唯一の寺・専教寺(浄土真宗)

        
         小路は左へカーブすると旧郵便局が見えてくる。

        
         モルタル・人造石仕上げの旧特牛郵便局(現在I邸)は、1931(昭和6)年に建築された
        が、1階と2階の間にある意匠が目を引く。

        
         この先で再び国道191号線に合わすが、左手の蔵も鉱滓煉瓦造である。

        
         肥中街道と赤間関街道北浦筋が国道と重なる。下り坂が左カーブする辺りから街道は、
        国道から離れて誓念寺の裏を廻って肥中に通じていたとされる。

        
         古来は真言宗で善福寺と称していたが、1615(元和元)年に浄土宗・誓念寺と号す。
        (国道傍)

        
         1889(明治22)年の町村制施行により、近世以来の神田下村が単独で自治体を形成し、
        この地に村役場を置いた。後に改称して神田村となるが、1955(昭和30)年6ヶ村と他
        村の一部が合併して豊北町になる。

        
         肥中浦は山口を結ぶ肥中街道の終起点であった。大内氏の時代には筑前博多への出帆が
        多く、明や朝鮮との貿易港として重要な港であった。

        

         湾の奥に主要な通りがある。

        

         右手に浄土宗の恩徳寺。

 
        
         無住で本堂の痛みがひどく立入禁止となっているが、室町期の1551(天文20)年8月、
        大内義隆の夫人・お花の方の開創と伝えられ、持仏が保管されているとか。境内
には国指
        定天然記念物の結びイブキがある。巨樹ではないが、枝張り5.5mの
ところで数本に分れ、
        その枝が竜蛇のように屈曲交錯している。


        
         船の出入りや安全を管理・監督する所と思われる船究番所跡が境内にある。

        
         番所跡から見る肥中港。

        
         ほとんどが新しい民家に入れ替わり、トタン屋根の民家が妙に際立つ。

        
         特牛港に魚市場のあるためか、ひっそりとした漁港である。

        
        
         古民家が国道沿いにあるが、草木に覆われて崩壊の途にある。

        
         路地を抜けると国道。

        
         村役場だった所が肥中バス停(15:34)でJR特牛駅(15:44)に戻る。


下関市豊北町の角島は灯台、大橋と戦争遺構

2020年06月02日 | 山口県下関市

          
        この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分1地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複 第546号)
         角島(つのしま)は油谷湾入口の南西海上にある島で、海土ヶ瀬戸(あまがせと)を挟んで島戸
        浦に対する。島は中央部がくびれた形状をなし、元山の東部、尾山の西部に二分される。
         地名の由来は、島の形が牛の角に似ているためとする。(歩行約8.4㎞、うちレンタ
        サイクル5.3㎞)

          
         JR下関駅(8:58)から山陰本線を乗り継ぎ、JR特牛駅(10:32)でブルーライン交通角島
        行きに乗り換えて約16分、西長門リゾート前バス停で下車する。

          
         バス停から風波クロスロードを角島大橋方向へ進むと、右手に坂道が見えてくる。ここ
        を上がれば角島大橋を一望できるビューポイントがある。時間のロスになるが角島に来た
        
という実感を味わえる最高の場所である。

          
         当地特有のエメラルドグリーンからコバルトブルーへと変化を見せる海士ヶ瀬戸は、南
        国の海と錯覚してしまいそうな光景が広がる。

          
         2000(平成12)年に完成した角島大橋の長さは1,780mで、完成時には離島に無
        料で渡れる橋としては日本最長であった。その後、伊良部大橋、古宇利大橋が建設されて
        座を譲る。

          
         もう1ヶ所立ち寄りたい場所があったので学校横バス停で下車する。左手に角島サイク
        ルポート(レンタサイクル)があるので借用する。

          
         バス停から県道を1㎞ほど進むと、右手につのしま自然館と角島大浜海水浴場がある。
        その敷地内に映画「四日間の奇跡」で使用された礼拝堂のロケセットが残されている。 

          
         大浜海岸とロケット打ち上げのように見える角島灯台。

          
         大浜海岸からの道は上りで自転車を押して行くと、歩道で漁網を修理されている方に遭
        遇する。角島周辺の漁労について話を聞かせていただく。(電動カーの人だが83歳とか)

          
         出発時には灯台公園前バス停で下車予定であったが、この先を考えるとレンタサイクル
        
が大いに役立つ。

          
         本州の西北端に位置する角島灯台は、1876(明治9)年3月1日に初点灯した日本海
        側初の西洋式灯台。

              
         円形の灯塔は高さ22.7m・直径6.04mの白御影石造で、灯塔の上に乗る灯篭は上
        部銅造・下部鉄造の円形で高さ6.92m、直径5mもある。

          
         「お雇い外国人技師」R・H・プラントンが設計、灯台築造鉛工兼器械取付方オースト
        レルの指導で進められた角島灯台の建設は、灯明番教授方バウエルスの手で初点灯され、
        同ディックに守灯業務が引き継がれて、1879(明治12)年まで英国人技師によって保守
       
 されてきた。
         そのため、英国人技師が居住する吏員退息所(現灯台記念館)が築造された。

          
         コロニアル様式のベランダが付いた鎧戸の建物は、その後、日本人吏員の入居にあわせ
        た内装の改修を受けながら存続した。灯台業務の自動無人化で払い下げを受けた旧豊北町
        が、1994(平成6)年に記念館として一般公開している。

          
         風が強いためか煉瓦造の壁に石を張って頑丈な造りとしている。

          
         台所・浴室から見た中央廊下。

          
         1875(明治8)年12月に竣工した赤煉瓦造り倉庫は、生活用具などを入れていたもの
        と思われる。この倉庫は、木造組漆喰瓦葺平屋25m2で、規模が小さいためか災害の影響
        を受けず、独特な小屋組みなど当初の姿をほぼ完全に残している。

          
         角島灯台の北北西約1.3kmにあるクヅ瀬を照らす照射灯。以前は角島灯台の上部に張
        り付くように設置されていたが、角島灯台と同じ石造りのデザインで灯台のすぐ隣に設置
        されている。(1972(昭和47)年に初点灯)

          
         塔内には御影石で造られた105段の螺旋階段があり、海側に小窓が設けられている。

          
         レンズは第一等正八角形の閃光フレネルレンズで、1874(明治7)年に製造された現役
        最古のものである。

          
         灯塔から360度の大展望が広がるが、高度恐怖症にとってはこの1枚が限界である。

          
         灯台見学の受付になっている建物は旧角島灯台気象観測舎で、1943(昭和18)年に旧
        軍部の要請で気象観測業務を強化する目的で建てられた。
         戦後、ようやく観測機器が設置されたが、気象観測は1964(昭和39)年に終了してい
        る。

          
         灯台の海側にあるのが夢崎波の公園。角島出身のプロレタリア作家・中本たか子が「故
        里をとおくはなれて 思うかな 夢さきの波 牧さきの風」と詠んだ歌から、角島の2つ
        の岬にある公園が、夢崎波の公園・牧崎風の公園と命名される。この時期はヒルアサガオ
        の花が満開である。

          
         丘陵地内にある尾山集落に入る。

          
         漁師が多く暮らす尾山地区は、狭い坂道に沿って石垣や防風林が設けられた中に民家が
        ある。

          
         海岸からの狭い坂道に民家が沿うため、坂道と坂道を横道がつないでいるが、すべてが
        連結されていないため、海岸線を出入りしなければならない。(横道にある勝安寺)

          
         袋小路となって引き返さざる得ない坂道もある。(自転車が重荷となる)

          
         丘陵地を進むことを残念して海岸線を走行する。(尾山港) 

          
         2つの地区が中央部の地峡で結ばれ、学校などが存在する。(丘陵地は元山)

          
         元山の先に角島大橋が見え、コバルトブルーの海が続く。

          
         2006(平成18)年に旧豊北町の4中学校が豊北中学校に統合され、角島中学校は閉校
        となる。(下関市に合併した1年後の出来事)
         閉校となったが建物は現存し、グランドの先に体育館と校舎が続く。

          
         レンタサイクルを返却して元山地区へ向かう。

          
         地峡から坂道が続き、頂上部付近で尾山の海岸線が見えてくる。

          
         元山の中心部に角島八幡宮と豊北総合事務所角島支所がある。1889(明治22)年の町
        村制施行により、単独で自治体を形成し角島村となる、1955(昭和30)年に7ヶ村が合
        併して旧豊北町が誕生するまで、角島八幡宮横に村役場が置かれていた。

          
         角島住民の氏神である角島八幡宮は、室町期の1395(応永2)年に神田上村の一宮から
        勧請されたと伝える。神社のある元山地区は、台地や斜面に農村的な風情が見られる。

          
         牧崎風の公園への道を進む。

          
         中本たか子は結婚して蔵原姓となったが、この地で生まれ日本海の怒濤を子守
歌に育ち、
        不屈の闘志で生涯を生き抜く。
プロレタリア作家として精力的に活躍したが、投獄の苦し
        みをなめる。戦後は
民主主義文学を旗印に、基地問題や安保闘争など現代史の断層を描く。
        「闘ひ」
「南部鉄瓶工」「耐火煉瓦」「白衣作業」などが中本たか子の代表作である。

          
          
         来た道を引き返し、徳蓮寺手前の道を右折すると、第一区公民館前には草で覆われた倉
        庫が残っている。戦後、木造兵舎は払い下げられて、民家として利用さ
れていたもので、
        大部分が火災で焼失してしまう。


          
         弾薬庫2基、兵舎棟2棟、監視所1棟などが残存するが、地元住民の施設に転用される。

          
         角島には現役兵と召集兵で編成された約60名の部隊が、1941(昭和16)7月中旬に
        に島へ到着して戦備を担当した。(水槽は当時のものと思われる) 


          
         4号砲座の弾薬庫跡。4号砲座は埋められて畑になっている。

          
         砲台観測所は砲台付近に設け、96式測遠機による射撃設備を具備したとある。この周
        辺に2・3号砲台と弾薬庫はあったようだが畑化されてしまったようだ。 


          
         1937(昭和12)年7月に日中戦争が始まると、海軍省は角島に砲台4基の築造を開
        始し、1940年頃に完成するが、おおよそ南北に50m間隔で並び、
対馬海峡を臨む位
        置に配置された。ここに15K(15cmカノン)砲が設置され
たかどうかは定かでないが、
        実戦に使用されることはなかったとされる。(県道
を横断せずに右折すれば1号砲座の弾
        薬庫跡)


          
         1号弾薬庫跡を挟んだ県道の向かい側に角島砲台の説明板がある。ここに1号砲台があ
        ったようだが歩き方が逆であった。


          
         牧崎公園入口バス停よりJR特牛駅に戻る。