ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

周南市の津木・桑原は溺れ谷海岸に小集落  

2023年04月28日 | 山口県周南市

        
               この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         津木(つぎ)、桑原(くわばら)は周南市大字戸田の小字で南陽湾に面する小集落である。(歩
        行約9.3㎞)

        
         JR福川駅の海側にふれあいセンター前バス停があり、防長バス長田海浜公園行きに乗
        車すると、行先に団地があるためか多くの方が乗車されていた。

        
         バスは常盤橋から反対方向を循環して海浜公園へ向かう。室尾2丁目バス停(旧世界長バ
        ス停)で下車して工場群筋を歩く。

        
         海岸部には長田フイシャリーナと銘打ってヨットハーバーが設置されている。年間使用
        料13万から19万と庶民には無縁の施設である。

        
        
         こちらが一般庶民向けの海浜公園のようだ。

        
         長田海浜公園は人口ビーチや遊歩道が設置されており、夏場には周南市唯一の海水浴場
        として賑わうそうだ。
         また、事前に許可を受ければ、キャンプ・バーベキューをすることが
できる。

        
         防波堤はサメ防止網の設置と波消しの役を果たしているようだ。正面の島は御影石の採
        石が行われている黒髪島だが、島自体は国有地だそうだ。

        
         大津島など島々を眺めながら海岸道路を西進する。津木、桑原、四郎谷の海岸線は、丘
        陵地が沈水して生じた溺れ谷海岸の特徴を示す。

        

        
         次の湾に入ると正面に東津木集落が見えてくるが、旧新南陽市から旧徳山市域に入る。

        
         海岸部でなく谷筋にも民家がみられる。

        
         正面に回天の基地があった大津島。

        
         海岸線が目前だったのか石組みが残されている。

        
         戸田市民センター津木分館のある地には、1877(明治10)年戸田小学校津木分校が創
        設される。のち支校、分教場に名称変更されたが、1962(昭和37)年に廃校となる。校
        舎は火事により焼失したそうで、津木公民館として建て替えられた。

        
         17世帯27名が暮らす東津木集落の海岸部は、埋め立てられて戸田(津木)漁港が整備
        されているが、漁業主体という生活スタイルが少し変化しているようにみえる。

        
         海岸部を巡ればハマダイコンの咲く散歩道。

        
         散歩道で会えたのはこの方のみだった。

        
         西津木集落も東と同様に13世帯26名の小集落だが、コミュニティバスは運行されて
        おらず、車が唯一の交通手段のようだ。

        
        
         馬蹄形の集落は付替え道路で湾を塞がれている。

        
         集落の西入口には岩の隙間に地蔵尊が鎮座。 

        
         海岸部から離れると長い上り坂。(集落を見返る)

        
         峠越えをすると鰯浜散策路の案内があるので海岸部で休憩。左手の山裾に見える石組み
        が戸田(長江)漁港のようだ。

        
         戸田(長江)漁港まで来ると正面に周南コンビナート、海には仙島、黒髪島、大津島の島
        々が浮かぶ。

        
         戸田(長江)漁港を過ごす。 

        
         長江集落は背後に山が迫るため道路筋に並ぶ。(通過後に撮影)

        
         長江集落からは再び上り坂。

        
         この看板を見ると桑原集落へと下って行く。

        
         眼下に戸田(桑原)漁協の防波堤、遠くに防府市の大平山が見えてくる。 

        
         三方を山に囲まれた入江に桑原集落がある。

        
         家の立地状況からすると、ここも後に海岸部が埋め立てられたのであろう。

        
         裏手を山陽本線が走っており、車窓から湾を眺めることができる。 

        
         プラ用タコ壺を多く見かける。 

        
         29世帯56名が暮らす漁村集落だが、漁村といったイメージが一掃された建物が多い。

        
         津木への分岐に戻ると貨物列車が通り去る。

        
         桑原集落からは山陽本線が並行する単調な道筋である。

        
         山陽自動車道下と夜市川の橋を渡ると国道2号線と合わす。徳山方面へ進むとJR戸田
        駅がある。


周防大島町の前島はスナメリに会える島 

2023年04月27日 | 山口県周防大島町

                
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         前島は周防大島町久賀の北方約5㎞沖に浮かぶ面積1.09㎢の島である。島名の由来
        は、久賀の前にある島だといわれている。
         江戸初期には無人島となっていたところに、草木の採取が行われ始め、そして田畑の開
        墾を行った歴史がある。(歩行約3.1㎞)

        
         JR大畠駅から防長バス橘病院行き約20分、周防久賀バス停で下車する。(@730-)
         バス停前にふるさと館があり、前島航路の乗船券が購入できるが、桟橋は天神前バス停
        近くにあって約300m引き返さなくてはならない。(天神前だと140mほど)

        
         定期船「くか」は28人乗りと小型船であるが、この航路では、波が穏やかでエサとな
        るイワシが多い4~11月頃「スナメリ」に会えることで知られている。 

        
         ライフジャケットを着用すれば、船首から船旅を楽しむことができる。 

        
         約20分の船旅を楽しんで島に上陸するが、船は5分後に久賀に戻るのでスナメリウオ
        ッチングの方はそのまま引き返して行く。

        
         渡船場前の大きな家は民宿をされていたようで、庭に五右衛門風呂と2階には展望でき
        るバルコニーが設置されている。

        
         倒壊した家屋などが目に付く。

        
         石組みの防波堤から渡船を見送る。

        
         この急坂は島民の方にとっては苦坂のようだ。商店がないため生活物資は島外に頼る以
        外にないようで、通常はJAに注文して渡船で送ってもらうまでは問題ないが、渡船場か
        ら重たい荷物を持ってこの坂を上がらなくてはならないという。

        
         大きな家に囲まれた畑地は耕作されているので、見える範囲の家にお住いのようだ。

        
         島は南北に長く、集落は小高い丘を挟んで東と西になっているため、境である丘の上に
        集会所が設けてある。

        
         前島集会所は大師堂と老人の家を兼ねており、集会所前には顔を覆った地蔵尊も祀られ
        ている。

        
         東集落の風景。

        
         海岸部の地蔵尊は、漁師たちの豊漁と安全を見守ってきたようで、今も大切に祀られて
        いる。

        
         1981(昭和56)年に沿岸漁業構造改善事業(漁船用補給施設)で設置された漁船用燃料
        タンクと漁具倉庫。

        
        
         すでに漁港の役割は終えたようで、周囲には漁船の残骸がみられる。

        
         東集落には1名がお住いとのことだが、野菜は自給が原則のようだ。島にはイノシシは
        いないが、鳥が悪さをするので網掛けされているとのこと。

        
         右手に黄幡神社と砲台跡への道。
        
        
         山頂に旧軍の砲台跡が残るというので、雑草を踏んでヘリポートまでは何とか上がるこ
        とができたが、その先の旧軍用路に入ると藪道である。藪にはサルトリイバラが繁茂して
        おり、山頂までの距離を考えて残念する。

        
         山道には1ヶ所だけ海に浮かぶ福島が見える場所がある。手前はビロウの木だ
ろうか丸
        々と太っている。

        
         境内から鳥居までは上り坂で、安永九年庚子春(1780)と刻まれた明神鳥居が建つ。

        
         黄幡神社の御神体は巨岩で、金運・海運の神として祀られている。社殿の前には銭にま
        つわるバクチノキがある。

        
        
         お堂の隙間から内部を覗くと、祭壇と御神体用の注連縄が保管されている。壁には奉納
        者氏名がずらりと並ぶ。

        
         周回路を下り終えると海岸部に出る。

        
        
         前島神社の創建年代は不詳とされるが、古くは荒神社と呼ばれていたが、1872(明治
          5)
年現社号に改めたという。江戸時代には島内に野ネズミが大量発生し、島民の多くが飢
        えに苦しんだことがあったという。このため、御神体を祀って祈祷したのが、この神
社の
        起源ともいわれている。
         島の開墾に私財を投げ打って尽力した久賀の庄屋・伊藤惣左衛門(1770-1820)が合祀され
        ているようで、境内の隅には恵比須社も祀られている。

        
         1866(慶応2)年6月の第二次幕長戦争において、幕府軍の軍艦4隻が宮島から久賀沖
        にやってきて碇泊する。同月13日高杉晋作が指揮する丙寅丸(へいいんまる)が夜襲をかけ
        た所である。 

        
         久賀小学校前島分校は、1873(明治6)年前島小学として創立されるが、1881(明治
          14)
年に開明小学校の分校となる。1979(昭和54)年以降は休校と再開を繰り返したが、
        2000(平成12)年3月をもって廃校となる。

        
         校舎は1969(昭和44)年に新築されたが、現在は前島公民館として活用されている。
        同校の校歌は、周防大島出身の作詞家・星野哲郎氏が作詞したとされる。

        
         戸数にして70戸ぐらいあったようで、現在は4戸、5人が暮らす島である。

        
         大きな家だったが一瞬にして屋根が崩れ落ちたそうだ。

        
         西集落の生活道は細い坂道である。

        
         この坂道には一軒の人家以外は無住である。

        
         集落内のどこからでも海が見渡せる。 

        
         大きな家だが廃屋である。

        
         渡船待合所からの路地に入ってみると、商店だった家を含め廃屋が並ぶ。

        
         ここから見ると他と変わらない集落に見える。

        
         漁船の船底塗装などに使用された引揚げ用レールが残されている。

        
         防波堤から見る西集落。 

        
         予定していた砲台跡に行けなかったため、海岸部で波音を聞きながら対岸の銭壺山、琴
        石山などを眺めながら時を過ごす。波音を打ち消す異様な爆音を発しながら真上を戦闘機
        が飛び去るが、乗船まで周期的に爆音を聞く羽目になる。 

        
         待合所でスナメリが見られますようにと願掛けスタンプを押す。

        
         約5時間を過ごした前島から久賀に戻る。 

        
         願掛けが効いたのか2頭のスナメリが渡船を追いかけるように現れる。突然の出現と渡
        船のスピードが早いため頭部のみの撮影となる。
         「スナメリ」はスナメリ属の小型イルカだそうで、背びれのないイルカだそうだ。 
 
        
         周防久賀バス停前にトイレと信号機もあるので、こちらに戻ってJR大畠行きバス(17:
        08)に乗車して前島散歩を終える。


山口市徳地の堀に旧石州街道筋と周防二の宮

2023年04月22日 | 山口県山口市

                
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         二の宮・庄方(しょうがた)は、中国山地に源を発する佐波川が南北に流れる右岸にあり、
        川と山地に挟まれた長い平地に立地する。これらの集落は行政上では山口市徳地堀の一部
        である。(歩行約6.6㎞) 

        
         防府~徳地の旧道歩きは、JR防府駅から防長バス中山経由堀行き約30分、徳行(とく
          ぎょう)
バス停で下車する。

             
          防府市右田から山口市徳地、山口市阿東に至る旧石州街道があったというが、資料を得
        ていないので民家のある旧道歩きとなる。バス停からバス進行方向に進むと、田屋川の左
        手に旧道が見えてくる。

        
         こんな所を一人歩きする他者はいないのか、野良仕事をされている方々が手を休めて挨
        拶してくれる。

        
        
         左手に1892(明治25)年建立の石灯籠と、奥に鳥居が見えたので立ち寄ると、西大津
        公民館の表札が掲げてあった。この集落は山口市徳地伊賀地である。

        
         「希望の桜」と銘打った土手下を歩いて行くと、花見用なのか「さくら小屋」が設けて
        ある。広い敷地に威勢よく鯉のぼりが風に乗っているが、旧伊賀地小学校は佐波川の左岸
        にあったようで、何の跡地かわからないままとなる。

        
         一旦県道に出ると歩車分離でないため、車とすれ違うたびに避けなければならない。こ
        の先が伊賀地と堀の境のようだ。

        
         二の宮集落が見えてくる。 

        
         長い堰が設けてあるが、河川の流水を制御し用水路などへ取水を容易にするために設け
        られたが、一方で河道が樹林化する要因の1つとも考えられている。

        
         二の宮集落だが概ね人家は更新されている。

        
         出雲神社参道入口に田中翁之碑があり、裏面に碑文があったが風化して読めず。

        
        
         二の宮の石風呂。

        
         石風呂の隣にある祠は布で覆われており、中を覗くと人の顔をした座像が安置されてい
        た。

        
         出雲神社の由緒によると、鎮座は奈良期の715(霊亀元)年と伝えられ、737(天平9)
        年周防国二宮として勅許を受け、平安初期の延喜式神名帳にも周防国出雲神社として式内
        に勅撰されている。以降、延喜式内社として摂政藤原氏をはじめ大内・毛利氏等歴代の領
        主、藩主の祈願所として厚い崇敬のもとに、徳地地方の総氏神として護持されてきたとあ
        る。 

        
         かつて日本には国毎に一宮から五宮と呼ばれる神社があり、奈良時代の国司は朝廷から
        派遣されると着任挨拶を兼ねて宮巡りをしたという。

                
         二の宮の大杉は出雲神社の境内にあって、説明には樹齢は記されていないが、根元の周
        囲12.5m、樹高43mの老樹とある。いつ頃からか高杉大明神とも呼ばれ、御神木と
        されている。他に国指定天然記念物の「ツルマンリョウ」の自生地と紹介されている。

        
         神社前の廃屋は製縫工場跡のようだ。

        
         路傍の地蔵尊は大切に祀られている。

        
         再び県道に出て佐波川を見ながら北上する。

        
         幕末に藩庁が萩から山口に移されると、山代地方から萩を結ぶ山代街道は、鹿野から島
        地村、堀村に至る鹿野道と、石州街道の八坂から引谷、仁保を通る道に変更されたようだ。
        この道も引谷に通じる道だが、後年になって開かれたものと思われる。

        
         漆尾内を過ごして見返る。

        
         注連縄は神道の神祭具であるので、何らかの神が祀られているのだろう。

        
         沖の原橋の赤い杭は国交省の「流量観測見通杭」とある。

        
         鎌倉期には周防の国司となった重源上人が東大寺再建のため、徳地の杣地から用材を切
        り出し、佐波川を流下させて瀬戸内海から奈良へ搬送したという。
         時は下って1767(明和4)年炭や木材など運ぶため、野谷村から防府まで通船が始まっ
        たが、増水時以外はまったく船が通らず中止された。幕末の1858(安政5)年徳地代官が
        通船を開始したが、いつ頃まで行われたかはわからないが、道路の改修などにより消滅し
        たものと思われる。

        
         1883(明治16)年防府市新橋から鈴屋、奈美及び二の宮から堀に至る石州街道の改修
        に着工、翌年に竣工された。 

        
         庄方集落。

        
         小さな祠と石柱が建つが風化して文字は読めず。 

        
        
         地元の方にお尋ねすると、中国自動車道により参道が付け替えられて急階段となってし
        まった。秋葉社と人丸社は一緒にされたと聞いているとのこと。 

        
         茅葺き屋根に金属を被せた古民家も少なくなった。 

        
         田園の中に1本道。

        
         庄方八幡宮は、もと吉敷郡の真光院地にあり、室町期の応永年間(1394-1428)大内盛見
        が宇佐八幡宮より勧請したと伝える。1870(明治3)年10月庄方の現在地に引社して、
        のち社号を庄方神社に改称したという。

        
         下庄方と上庄方の境なのか庚申塚と舟形地蔵が祀られている。

        
         最近は山羊を見る機会が少なくなったが、法華寺の道に入ると山羊牧場。大小合わせて
        23頭ほど飼育されているという。

        
         山門に「大内菱」 

        
         奈良期の723(天平11)年聖武天皇が国分寺・国分尼寺(こくぶんにじ)建立の詔(みことの
          り)
を発し、諸国に創建された。長門国の法華寺は豊浦郡豊浦村にあったが、1873(明治
          6)
年8月赤間関(現下関市)東南部(ひがしなべ)に移り、更に1897(明治30)年5月この
        地にあった金徳寺址に移転してきた。現在は無住で防府市の国分寺が管理されているとか。

        
         金徳寺(のち萩の満願寺に合併)は、天武天皇の勅願と伝え、重源上人を中興とする。そ
        の草創時期の真偽はわからないが、修験道の霊場であったと思われる。(寺前から見る堀の
        町並み)

        
         法華寺への入口であるが、その背後にある山は、古くには観音嶽といい、国土地理院の
        地形図は狗留孫山と記してある。中腹に(廃)金徳寺があって山号を狗留孫山と称していた
        ことに由来するようだが、現在は奥の院観音堂と三十三観音霊場が残されているという。
         さきほどお会いした方は観音嶽に登られましたかと聞かれたが、地元では観音嶽と呼ん
        でいるようだ。法華寺には行基作と伝わる聖観音菩薩が安置され、庄方観音として知られ
        毎年2月18日に縁日が開かれる。

        
         佐波川に架かる出雲出合橋は、1951(昭和26)年7月の水害により流失し、1954
        年約50m上流に架け替えられたが、堀の商店街北を通ることになった。


広島市中区の縮景園・平和公園を巡る

2023年04月18日 | 広島県

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         広島は太田川河口部のデルタ地帯に位置する。地名は広い中州に由来する説と、毛利輝
        元が広島城築城に際し、城地選定を担当した土豪・福島元長の「島」と毛利氏始祖の大江
        広元の「広」と合わせ、「広島」とした説がある。 (歩行約6.9㎞)


        
         JR広島駅南口広場は新たな複合駅ビル建設のため、迷路のように迂回路が設けてあっ
        て、しばらくはどこに出たのかわからなかった。(完成は2025年3月)

        
         城北通りに出て栄橋を渡る。

        
         幟町中学校校内に「折り鶴の碑」が
建立されているが、碑文によると「1955(昭和3
          0)
年幟町中学校1年生だった佐々木禎子さんが、原爆による白血病のため12歳で短い生
        涯を閉じた。級友たちはその死を悲しみ、全国の子どもたちに呼びかけて平和記念公園に
        「原爆の子の像」を建てた。病床で生き抜く希望を折り鶴に託した禎子さんの物語は、や
        がて国内外に広がり、多くの折り鶴がヒロシマに届けられるようになった。
         それら折り鶴の一羽ずつに込められた願いを大切に受け継ぎ、禎子さんの命日である1
        0月25日には碑に折り鶴を置き、世界平和を築く決意を明らかにする」とある。

        
         幟町中学校筋に「雪椿の乙女」というタイトルの像が建っている。建てられた理由は定
        かではないそうだが、「平和」に関係するものだろうか。

        
         縮景とは各地の景勝を聚(あつ)め縮めて表したことを意味するそうで、この庭園は中国浙
        江省の西湖周辺の風景が縮景されたといわれる。門は冠木(かぶき)門形式で、冠木を2柱の
        上方に渡した屋根のない構造である。

        
         縮景園は、1620(元和6)年広島藩初代藩主浅野長晟(ながあきら)が、別邸の庭園として
        築成したもので、作庭者には茶人として知られる家老の上田重安(号は宗箇)が起用された
        という。

        
         池泉回遊式庭園の中央に「濯纓池(たくえいち)」と呼ばれる池を配し、「跨虹橋(ここうき
          ょう)
」で東西を二分している。

             
         跨虹橋は天明の頃(1781-1789)に架けられた石製アーチ橋と陸橋で、戦前からある建造
        物だという。地上と天上を結ぶ虹に例えられているため、橋が大きく反った形になってい
        る。

        
         左前方に悠々亭を見ながら石橋の映波橋、昇仙橋、望春橋を渡る。悠々亭は木造平屋建
        て茅葺きの東屋で、古くは茶会や歌会に使用されたという。

        
         迎暉峰(げいきほう)は標高約10mの小丘で、かっては頂上から広島湾の島々が眺められ
        たという。

        
         悠々亭前は水面が開けて烟霞島(えんかとう)・緑亀島(りょくきとう)が浮かぶ。

        
         正面の清風館は数寄屋造りの茶室で、園のほぼ中央に位置し、これを基準に他の建物が
        配置されているという。
         日清戦争の際に大本営が広島に移され、縮景園は大本営の副営となり、明治天皇の居所
        として清風館があてられた。

        
         池の面積が8,020㎡あって、園内をぐるり一周すると1時間を要する。(日本の庭園
        100選)

        
         県立美術館前からの直進道には国の機関などが並ぶ。

        
         護国神社の鳥居を潜って広島城裏御門跡から城内に入る。

        
        
         裏御門は本丸の東に位置する城門で、櫓台石垣の間に門扉があり、その上に渡櫓が築か
        れていたという。

        
        
         1877(明治10)年広島鎮台司令部として2階建ての木造洋館が建てられ、のちに第5
        師団司令部庁舎となる。
         日清戦争(1894-1895)の際、大本営が東京から広島に移されたが、戦場だった朝鮮半島に
        近く、鉄道が整備され、宇品港(現広島港)に大型船舶が着岸できることが大本営移転の理
        由とされる。大本営の建物は原爆により倒壊し、現在は礎石のみが残る。(大本営とは天皇
        が戦争を指揮する機関)

        
         1957(昭和32)年天守再建工事の時、撤去された旧天守の礎石をそのまま移したもの
        で、一段低い石は現在も天守台に埋もれている石の位置を示しているという。

        
         旧広島城は、1599(慶長4)年毛利輝元が築城したもので、大天守から渡櫓で2つの小
        天守を連結する複合式の天守で、望楼型の大坂城を模したといわれる。
         1945年の原爆により小天守は一瞬にして倒壊したが、大天守は爆風による衝撃波と
        圧力で下部2層が上部の重さに耐えきれず自壊したという。現在の大天守は、1958(昭
          和33)
年広島復興大博覧会開催に際し、鉄筋鉄骨コンクリートで修復された。(日本100
                名城)

        
         天守閣からは広島市内が一望できる。

        
         広島護国神社は旧市民球場近くにあったが、原爆により焼失ため小祠を設けて祭祀を続
        けてきたという。広島復興に際して移転を余儀なくされ、広島城再建時に移転再建された。
        堀は中堀が埋め立てられて内堀だけとなる。 

        
         多門櫓は平櫓と太鼓櫓を結ぶ長い櫓で約63mもあり、左奥が太鼓櫓で二の丸唯一の2
        階建てである。かっては太鼓で時を知らせて城門開閉の合図をしていた。

        
         表御門は櫓門形式の門で、戦前まで残されていたが原爆により焼失したが復元される。
        右手に平櫓、堀にかかる橋が御門橋で広島城入口である。 

        
         城南通りから旧広島市民球場跡地への道を進む。

        
         旧市民球場跡地は公園化されたようで、道路の向い側に地上14階の複合商業施設「お
        りづるタワー」が建つ。

        
         原爆ドームとされる建物は、1915(大正4)年広島県物産陳列館として建てられ、煉瓦
        造3階建てで正面中央部分を5階建てとし、その上に楕円形のドームが載っていた。
         その後、広島県産業奨励館と名称変更されたが、1944(昭和19)からは内務省中国
        四国土木出張所など官公庁の事務所として使用される。 

        
         原子爆弾は広島市中心部の上空約600mで爆発し、建物は倒壊しおびただしい生命が
        奪われた。産業奨励館は爆風と熱線を浴びて天井から火を吹いて全焼し、建物内にいた全
        員が即死する。残骸は円盤状の鉄骨の形から、いつしか「原爆ドーム」と呼ばれるように
        なる。

        
         鈴木三重吉(1882-1936)はこの地に生まれ、1918(大正7)年に小年少女の雑誌「赤い       
        鳥」を創刊するなど、わが国の児童文学の父ともいわれている。赤い鳥文学碑は、被爆地
        ヒロシマの文化復興のシンボルとして、原爆ドーム近くに建立された。
         隣の碑には「 私は永久に夢を持つ たゞ年少時のことく ために悩むこと浅きのみ 三
        重吉」とある。

        
         初代相生橋の親柱(右側)と、1940(昭和15)年に建立された旧相生橋碑(左側)は被爆
        遺構の1つである。

        
         ドーム内部。 

        
         動員学徒慰霊碑は第2次世界大戦中、増産協力、建物疎開作業などの勤労奉仕に動員さ
        れて亡くなった学徒(原爆の犠牲者6,000余人を含む)約1万余人の霊を慰めるため建立
        された。塔の高さは12m、有田焼陶板張り仕上げで、平和の女神像と8羽の鳩を配した
        末広がりの5層の塔で、中心柱に慰霊の灯明がつけられている。

        
         元安橋東詰北側に広島市道路元標あるが、この辺りは陸上交通の主要街道が交差し、太
        田川の水運の利もあって広島城下の中心となっていた。江戸期には高札場があり、付近に
        は馬継場や藩公式の宿舎である御客屋などがあったという。
         広島からの里程はすべてこの地点から起算されていた。明治以後の県制施行にともない、
        ここに木柱で「広島県里程元標」が建てられたが、1889(明治22)年市制施行後は、現
        在の石柱に改められた。

        
         元安川では原爆投下後、熱線や放射線、爆風で傷ついた多数の被爆者が水を求めてこの
        川まで来て亡くなったという。
         資料館本館前の広場には、「水を、水を」と言いながら死んでいった犠牲者の霊に捧げ
        る噴水「祈りの泉」が設けてある。

        
         元安川右岸から見るドーム。

        
         すべての核兵器と戦争のない、平和共存を達成することを目的に設置された「平和の鐘」
        の表面には、「世界は1つ」を象徴する国境のない世界地図が浮彫りされている。

        
         1946(昭和21)年無数の死体を焼いたこの地に仮の供養塔が建てられ、1955(昭和
          30)
年に現在の姿となった。土盛りの内部には、原爆犠牲者約7万人の遺骨が納められて
        いる。名前不詳が大多数であるが名前の分かる遺骨もあり、現在でも遺族が分かり次第手
        渡されている。

        
         韓国人原爆犠牲者慰霊碑は、亀を象った大きな台座の上に碑柱が立ち、頂部に双竜の図
        柄を刻んだ冠がかぶさっている。原爆投下により2万余の韓国人が軍人、軍属、徴用工、
        動員学徒などで尊い人命を奪われた。
         碑は平和記念公園の外の本川橋西詰の河岸緑地にあったため、「民族差別」ではないか
        との声が出されていた。このため、広島市長は1998(平成10)年公園内への移設を許可
        する方針を表明したというが、日本のために犠牲となった人々に差別を設けた悲しい出来
        事でもある。

                
         三脚型ドームの頂上にある金色の折り鶴を捧げ持つ少女のモデルは、白血病で亡くなっ
        た佐々木禎子さんとされる。原爆で亡くなった多くの子どもたちを慰霊し、平和を守るた
        めの記念像を造ろうと、禎子さんの同級生らが募金を呼びかけて、1958(昭和33)年5
        月5日の子どもの日に建立された。

        
         1964(昭和39)年に建立された平和の灯(ともしび)の火種は、全国12宗派からの「宗
        教の火」、全国の工場地帯からの「産業の火」と宮島弥山の「消えずの霊火」が用いられ
        ている。
         以来、燃え続けているが、地球上に核爆弾がなくなり、核の脅威がなくなるまで消える
        ことはないという。

        
         碑文には安らかに眠ってください。過ちは繰り返しませぬから」とあるが、今でも愚
        かな人間による悲しい出来事が繰り返されていることに、ただ頭を下げるのみであった。

        
         悲惨な現実のすべてがここ広島平和記念資料館に集約されている。2006(平成18)
        資料館の本館部分が、戦後建築のものとしては初めて国登録重要文化財に指定される。

        
         「嵐の中の母子像」は、右手で乳飲み子を抱え、左手でもう一人の幼児をかばいながら、
        苦しみに耐え生き抜こうとする母親の姿を表す像である。
         1959(昭和34)年に開催された第5回原水爆禁止世界大会を記念して、彫刻家本郷新
        氏の石膏像が広島市に寄贈されたが、この原型を広島市婦人会連合会がブロンズ像にする
        ための募金活動が行われて建立された。 

        
         1936(昭和11)年に竣工した旧日本銀行広島支店は、鉄骨鉄筋コンクリート造3階建
        てで、外観は中央を花崗岩、その他を人造石ブロックで仕上げられている。
         爆心地から約380mの距離にあり、原爆投下により外形は残ったものの内部は破壊さ
        れて42名が犠牲となった。市内金融機関のほとんどが壊滅したため、各銀行は内部を仕
        切って窓口を設け、8月8日から業務を開始したという。

        
         広島電鉄でJR広島駅へ戻るが、時間の関係で本川小学校と袋町小学校の資料館を訪れ
        ることができなかった。 


東広島市の白市は坂の上に町並み 

2023年04月18日 | 広島県

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         白市(しらいち)は高屋盆地の東端に位置する。地名の由来は平賀氏が白山に城を築き、高
        屋東村の内を城下として分けて白市としたという。(歩行約5.3㎞)

        
         JR白市駅は、1895(明治28)年河内ー西条間の開通と同時に設置される。設置当時
            は小谷村で、白市は東高屋村であったが、白市の住民が出資して開業させたので白市駅と
        なったという。もともとは白市の方が賑わっていたので、こちらに敷設されてもおかしく
        はないが、機関車の音で牛馬が暴れるので離れた位置に設置されたという逸話もある。

        
         タクシーに乗車する予定はなかったのだが、運転手さんに距離を確認すると「すぐそこ
        が町並みなので歩かれた方が‥」との返事。

        
         県道59号線に合わすと西条方面に引き返し、次の小谷交差点を右折すると長い上り坂
                である。

        
         地元の方によると、木原家住宅前の道が県道(造賀田万里線)であったが、幅員狭小を解
        消するため御土居付近に県道が新設されたという。(右手の山が城山) 

        
         小祠の先に修路碑があるが、1928(昭和3)年道路の改修が行われた記念碑のようだ。

        
         浄土宗の西福寺(さいふくじ)は、平安期の1100(康和2)年代に安芸国賀茂郡溝口村(現
        ・広島県山県郡)に大福寺として創建された。1584(天正12)年当時の住僧・西蓮法師
        が現在地に移転させ、その名の一字をとって西福寺に改称したという。

        
         本堂に向って右手の石灯籠には、天明6年(1786)と刻まれているという。 

        
         平坦地でなく坂に沿って石州瓦の民家が並ぶ。

        
        
         道路の両側に大正期の建物であろう袖卯建を備えた民家がある。

        
         勝田家は江戸後期から末期頃の建物とされ、醤油醸造を生業にされていたという。 

        
         路地にも素敵な空間がある。

        
         重満家も江戸末期から明治初期の建物で、酒造業を生業されていたようで通りには跳ね
        上げの大戸が設けられている。

        
         郵便局の向い側は厨子(つし)2階建ての建物だが、構造上に違いがあるのか1階の屋根が
        長い。

        
         中央から四方向にペンと鉛筆が描かれ、その中に東広島市の「ひ」2つが鳥で表現され
        た市章があり、4つの輪には市の花「つつじ」と市木である「松」がデザインされたマン
        ホール蓋。

        
         酒店だそうだ。

        
         旧木原家は酒造業や竹原で塩田などを営んでいたという。(入館料@150-)

        
         1665(寛文5)年の鬼瓦があることから、江戸初期に建てられた商家と推測される。

        
         中の間と次の間(板間)

        
         下店と厨子2階部分。

        
         旧木原住宅の傍にある恵比須神社だが創建年などは不詳。

        
         恵比須神社側から見ると急坂である。

        
         T字路を左折すると伊原総十郎邸。明治期の特徴を持つ豪壮な造りで、町家の大型化を
        よく示した貴重な事例とのこと。伊原惣十郎は鋳物製造業を営み、京都御所や厳島神社の
        灯籠を手掛けるなど幅広く活躍したという。

        
         伊原八郎家住宅は、1915(大正4)年から2年かけて建築されたもので、玄関の熨斗
          (のし)瓦、鯱(しゃち)、格子窓など豪華な造りとなっている。

        
         稲荷神社の建立年代は不詳だが、1915(大正4)年建立の鳥居と、境内にはサイレンス
        ピーカーが置かれている。近くに火の見櫓があったようだが消滅していた。

        
         室町期の1503(文亀3)年平賀弘保は自領の中心に位置する高屋東村に白山城を築くが、
        大内氏と尼子の戦いの中に巻き込まれて衰退する。のち毛利氏に属する国衆となり、毛利
        氏の防長2州移封に随行して、その後は毛利氏の家臣として続いたという。

        
         舛木家は明治後期の建物とされ、奥行きが制限されているためか入母屋造の平入りであ
        る。 

        
         1503(文亀3)年平賀弘保によって牛馬市が始められたというが、本格的に行われ始め
        たのは1617(元和3)年といわれている。明治以降の白市は伯耆大山、備後久井と並ぶ牛
        馬の三大市と称された。(傍のお好み焼き「のむら」で昼食休憩) 

        
         西福寺からのT字路に至る南北の通りを本町、この東西の通りを西町といい、江戸初期
        には現在の町並みが形成されていたという。 

        
         養国寺(真宗)は平安期の元暦年間(1184-1185)創建とされ、当時は真言宗の法乗院という
        寺号であったが、1673(延宝元)年改宗して養国寺と称す。境内には江戸期の石灯籠や手
        水鉢などがある。

          
         本堂、山門(鐘楼門)ともに江戸期に建立された。

        
         土宮(つちのみや)神社は養国寺の隣に鎮座する。由緒がないのではっきりしないが、江戸
        期に伊勢神宮外宮の別宮である土宮(地主の神)を勧請したとされる。 

        
         石段を下ってくると明神鳥居の下にブロック状の石で山が描かれ、灯籠下の石段は鳥居
        の笠木が用いられている。

        
         光政寺への筋だが、牛馬市の期間中には上方から歌舞伎役者を招き、長栄座という劇場
        で歌舞伎が上演されたという。芝居小屋「長栄座」は戦後まであったというが痕跡は残さ
        れていない。

        
         旧木原住宅は主屋のほか蔵、井戸、庭園の一部が残されている。

        
         東町しろやま公園から見る白市の町並み。

        
         光政寺(こうしょうじ)は白山城跡の西麓にあり、城主の平賀弘保が1505(永正2)年に菩
        提寺として建立したという。本堂横には木原家の墓所があり、境内には1734(享保19)
        年の年号がある木原家寄進の宝篋印塔、石灯籠などの石造物がある。現在は無住のお寺の
        ようだが、荒廃している感じは見受けられない。

        
         寺入口に「六地蔵・うぐいす塚」が案内されており、70m程の山道を進むと右手に六
        地蔵がある。建立年代はわからなかったが、どうも木原保満寄進の石造物のようだ。 

        
         山道をさらに奥へ進むと鶯塚がある。多賀屋風律(1698-1781)は江戸前期の俳諧師で、風
        律13回忌(1793)に白市の弟子達が建立した追慕の碑とのこと。風律の句「鶯やとなりな
        れとも この地の枝」にちなんで「鶯塚」と刻まれた。

        
         西福寺から白市の町並みを見て白市駅に戻る。

        
         JR白市駅は広島シティネットワークの東端駅に位置して終始発駅になっているようだ。
        広島市と広島市のベッドタウンを結んでいる通勤・通学路線で、ローカルな地方に住む者
        にとっては羨ましいほどの運行本数である。 


山口市の吉敷・朝倉にある山裾のお宮巡り

2023年04月12日 | 山口県山口市

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         朝倉は山口盆地の北西、兄弟(おととい)山の南麓、湯田温泉街の北方に位置する。江戸期
        には朝倉村として小村に赤妻、西、土井、馬場などがあった。(歩行約5.1㎞)

        
         JR湯田温泉駅から約100m先の大通りに湯田温泉駅前バス停があり、山口市コミュ
        ニティバス(大橋まわり)で約12分、上東バス停で下車する。(運賃一律200円)

        
         バス停から引き返すと、吉敷川に至る市道神田町上東線であるが、この道路は中原道路
        とも呼ばれている。 

        
         1930(昭和5)年山口-美東町大田間の県道完成に伴い、支線の市道神田町上東線が建
        設され
たが、その際に中原岩三郎氏が多額の寄付をしたことから一部区間が「中原道路」
        といわれ、その功績を称え「中原道路碑」が建立されている、                      
         同氏は東京電力の技師長として、甲府の水力発電所から東京に向けての長距離高圧送電
        の先鞭をつけた人物である。

        
         バス停に戻りバス進行方向にある横断歩道で左折する。

        
        
         お堂に納められているのは、1851(嘉永4)年に亡くなった市右衛門という坊さんの墓
        という。言い伝えによると、痔で苦しみながら田畑で働く人たちに出会い、念仏を唱えた
        ところ痛みが治ったという。のち敬愛の気持ちを込めて「いちじいさま」と呼び始め、亡
        くなると墓を建てて大好きなお酒を供えるようになる。
         その後、誰となく「お墓に酒を供えてお願いしたら痔が治る」という話が広まったとい
        う。 

        
        
         所郁太郎(1838-1865)は美濃国(現岐阜県)で生まれ、緒方洪庵に医学を学び京都の長州藩
        邸近くで開業する。この時代に長州藩の青年志士らと交游し、1863年8月18日の政
        変で
七卿とともに長州に逃れ、長州藩に身を投じる。吉敷新町に住んで医院を開き、18
        64(元治元)年刺客に襲われた井上門多の傷口を畳針で処置して一命を救う。 
         翌年の内訌戦では遊撃隊参謀として大田絵堂の戦いに参戦するが、圓正寺の陣舎におい
        て28歳という若さで病没する。

        
         所郁太郎の墓がある三舞墓所から見る町並み。

        
         再び県道に出て北進すると、湯田カントリー俱楽部入口の先に土師八幡宮がある。

        
        
         土師(はじ)宮として祀られていたが、毛利家家臣の福原元俊がこの地の給領主となり、1
        621(元和7)年に安芸国高田郡福原村にあった内部八幡宮を合祀して土師八幡宮と改める。

        
         入口案内板に「日本第二・生目(いきめ)八幡宮」あるが、全国には「生目」と名の付く
        神社は多数あるという。

        
         「置き屋根」方式の土蔵。

        
         日本第一・生目神社は宮崎県宮崎市に鎮座し、眼の神様としても崇敬されている。社伝
        がないため勧請時期など詳細不明という。

        
         神社から見える湯田の町。

        
         桜から藤の花へと移り替わる。

        
         赤妻神社の祭神は錦小路頼徳で、1864(元治元)年5月湯田の龍泉寺での葬儀後、この
        地に埋葬されて同7月に御霊社を建立し、神霊を勧請して赤妻社と号した。
         創建当初は、現在地より奥地にあって拝殿と社殿を構えていたが、後年に土地開発に伴
        い現在地に遷座する。

        
        
 錦小路頼徳は、1863(文久3)年8月18日の政変時、京都から落ちのびてきた7卿の
        一人である。朝廷の権威回復に奔走し、長州に来た後も藩内を駆け巡り、諸隊の士気を高
        めることに努力する。1864(元治元)年3月下関砲台を巡視するため、三条実美らと馬で
        湯田を出発するが、厚狭郡で喀血(かっけつ)し、巡視を終えて豪商・白石正一郎宅で静養し
        たが4月に病没する。(享年30歳)
         神社傍には「君がため すてむ命のいたづらに 露と消へ行くことを しぞ思ふ」の歌碑
        が建立されている。

        
         長州藩士広沢真臣は、藩内では外交官のような存在で、四境戦争では藩の代表として宮
        島に出向き、勝海舟と休戦交渉にあたる。
         明治になり参議も務めたが、1870(明治3)年に東京麹町の私邸で暗殺されるが、真相
        は不明のままである。墓は東京世田谷にあるが、山口は分骨墓として祀られた。木戸、大
        久保の遺族とともに、広沢家も華族に列せられたが、華族令以前にこの3例を除いて士族
        から華族になることはなかった。

        
         田園地帯であったが新興住宅が建ち並ぶ。 

        
         朝倉八幡宮の神輿台からは一直線の参道。

        
         参道石段の横には土台を石造りとした灯籠がある。 

        
         朝倉八幡宮は湯田温泉の北1㎞ほどの所にあり、平安期の859(貞観元)年宇佐八幡宮よ
        り勧請して創建された。
         大内政弘(1325-1380)の時代に今八幡宮へ合併されたが、大内氏滅亡後衰退したため、1
        725(享保10)年再興されて現在地に移る。

        
         1863(文久3)年8月の政変により、長州に逃れた三条実美ら七卿は、湯田に滞在中に
        尊皇攘夷の祈願ため度々参拝したといわれている。1864(元治元)年四卿(三条・三条西・
        壬生・東久世)が奉納した和歌が碑に刻まれている。

        
         温泉神社の鳥居には「昭和四年(1929)六月建立」とあり、参道には湯田温泉の各旅館が
        奉納した灯籠が並ぶ。隣の稲荷神社は温泉神社建立後に創建されたようだ。

        
         大林寺(だいりんじ)傍にある観音堂は、寺後方の岩戸山にあったが、江戸期に当地へ移し
        たとされる。33年毎のご開帳とのことで閉扉されている。

        
         大林寺(曹洞宗)は朝倉八幡宮の東隣にあり、1693(元禄6)年荒廃していたものを当村
        の給領主の宍道就則が菩提寺として再興し、現寺号にしたという。

        
         済生会湯田温泉病院前バス停から山口市コミュニティバスでJR湯田温泉駅に戻る。     


山口市吉敷の四ノ宮から肥中街道と吉敷毛利家   

2023年04月10日 | 山口県山口市

                 
                この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
         吉敷(よしき)は山口盆地の西北部、椹野川の支流である吉敷川流域に位置する。古代、周
        防国吉敷郡の郡家(こおげ:律令制下の郡の役所)の所在地ともいわれる。(歩行約5.7㎞、
        🚻赤田神社、玄済寺) 

        
         JR山口駅(10:00)からJRバス秋吉行き35分、四ノ宮バス停前で下車する(@410)。
        (見える山は東鳳翩山)

        
         赤田神社(周防四宮)は弥生期の139(成務天皇9)年出雲国の杵築大社(現在の出雲大社)
        より勧請し、古(ふる)四の宮に創建されて良城大神宮と称した。
         奈良期の717(養老元)年現在地に遷座し、赤田大神宮に改称したという。かつて日本に
        は国毎に一宮から五宮と呼ばれる神社があり、奈良時代の国司は朝廷から派遣されると着
        任挨拶を兼ねて宮巡りをしたという。周防国では防府の玉祖神社(一の宮)、徳地の出雲神
        社(二の宮)、宮野の仁壁神社(三の宮)、大歳の朝田神社(五の宮)と共に周防五社に数えら
        れ、「四の宮さん」として親しまれている神社である。

        
        
         現在の社殿は江戸後期に建立されたもので、拝殿の天井には内藤鳳岳(1804-1871)作の龍
        が描かれ、社殿の彫刻は、内海忠勝の実兄・吉田岩亀の作といわれている。

        
         参道前は大内氏の拠点であった山口と豊北町神田の肥中を結ぶ67㎞の「肥中街道」で
        ある。

        
         吉敷川は丸岳西麓を源とし、南下しながら寺領(じりょう)川、沓掛川と合流して椹野川に
        合わす。

        
         肥中街道「関屋の一里塚」が構築されており、塚木には肥中浦より14里、山口の道場
        門前より1里23町とある。萩藩の一里塚は石盛りで塚を作り、上に里程を記した塚木が
        立てられた。

        
         石碑は風化して判読できないが「矢田義溝碑」のようだ。矢田太兵衛は吉敷の四ノ宮下
        から水を赤田、佐畑、中村などの水田に水を引く用水路を設け、これにより耕地の枯渇被
        害が救われたという。この功績を後世に伝えるため建立されたという。 

        
         赤田の地蔵堂はもとから肥中街道に面していたといわれるが、道路の拡張により位置は
        変えられたという。隣の庚申塚は、古来、集落の境や辻に置かれたが、もともとここにあ
        ったかどうかはわからない。

        
         国道435号線のコンビニ付近に成瀬仁蔵誕生地を示す案内がある。湯田側から来れば
        左折して突き当りが成瀬公園。

        
         成瀬仁蔵(1858-1919)は吉敷毛利家の家臣であった成瀬小左衛門の長男としてこの地に生
        まれる。少年時代は憲章館に学び、1876(明治9)年山口県教員養成所を卒業し、しばら
        く小学校の教師をしていたが、アメリカから帰国した郷土の先輩・澤山保羅(ぼうろ)に導か
        れてキリスト教に入信する。
         後に上阪して、沢山保羅が創設した梅花女学校の教師を務めた後、「新潟女学校」を創
        設する。その後、渡米して女子教育について学び、帰国後日本に女子大学を創ることを計
        画し、官・財界の協力を得て、1901(明治34)年日本初の女子大学校(現日本女子大学)
        を創設し、女子教育の発展と向上にその生涯を捧げた。

        
         成瀬家の遺品として残る手水鉢。

        
         地蔵菩薩は玄済寺で祀られてきたが、明治期に当地区の守護仏としてこの地に遷座した
        という。従来の地蔵尊は厨子の中に収め、8月24日の地蔵盆に開帳されるという。

        
         良城小学校から龍蔵寺へ向かう途中の左手、長楽寺墓地の一角に天神山古墳がある。1
        962(昭和37)年墓地の造成中に発見されたもので、古墳時代中期頃の地方豪族墳墓とさ
        れる。(竪穴式石室) 

        
         天神山公園には宣徳社、百万一心の碑、英霊之碑、名和道一の墓、内海忠勝顕彰碑など
        がある。

        
         内海忠勝(1843-1905)は吉敷毛利家臣・吉田治助の4男として生まれ、内海家の養子とな
        る。幕末には服部哲二郎らと宣徳隊を組織し、蛤御門の変、内訌戦、幕長戦争に参加する
        も重傷を負う。
         明治期に岩倉使節団に随行して欧米を視察、大阪などの知事を歴任し、内務大臣となっ
        たが病を得て辞職する。(享年63歳) 

        
         名和道一(どういち)は名井(みょうい)弾右衛門の次男で名井守介の実弟。のち母方の家を継
        いで服部哲二郎と名乗る。
         宣徳隊を結成して禁門の変に参加して終身禁固の刑を受けたが、解かれた後に名を改め、
        名和緩(縄ゆるむの意)とする。さらに改名して名和道一と名乗り、幕
末には内海忠勝らと
        幕長戦争などに出陣する。
         1871(明治4)年民法研究のため渡米、将来を嘱望されていたが、ボストンにおいて3
        6年の生涯を閉じる。

        
         1845(弘化2)年吉敷毛利13代元潔が、領国の繁栄を祈願して宣徳社を建立する。

        
         玄済寺(曹洞宗)は吉敷毛利氏の菩提寺。毛利元就の末子で吉敷毛利家の始祖である秀包
        (ひでかね)が阿川村(現下関市豊北町)に創建する。1625(寛永2)年の知行地替えにより、
        孫の元包が現在地に移したとされる。

        
         山門から本堂との間に「幽石大田翁壽蔵碑」があり、右手の碑に翁のあらましが刻まれ
        ている。大田報助は豊後国日田の咸宜園で学び、憲章館の学頭となった人物で、幕長戦争
        では良城隊の総司令官として芸州口に出陣した。維新後京都府などに勤め、1894(明治
          27)
年毛利家から請われて「毛利家編纂所」に入り、「毛利11代史」の編纂にあたった。  

        
         入母屋造りの本堂は、寺の構えからするとシンプルである。

        
         毘沙門堂にある毘沙門天は、大内義隆が念持仏として信仰したもので、堂内には義隆の
        霊牌が祀られている。山口市中尾にあった凌雲寺(廃寺)に伝わった仏像を移し、1956
        (昭和31)年に堂が建立された。毘沙門天像は平安期のものが1基、鎌倉期のものが2基安
        置されている。

        
         13代福原広俊(1567-1623)が祀られているが、福原家は萩藩の永代家老であり吉敷の給
        領主であった。1622(元和8)年家督を嫡男・元俊に譲るが、1625(寛永2)年家臣団の
        知行地再編により宇部村へ知行地替えとなった。

        
         初代秀包公の正室引地の君(洗礼名、マセンシア)を表したエンジェルと伝えられている。

        
         吉敷毛利家墓所には墓が整然と並ぶ。初代秀包の墓は豊北町滝部、2代元鎮の墓は豊田
        町殿居にあって、この墓所には供養塔が建立されている。5代~7代と10代は別の墓所
        とのこと。

        
        
         旧吉敷毛利家の居館跡は病院となり、池が昔を語るだけとなっている。(右手の建物に邸
        跡碑)

        
         良城小学校校内に名井守介の頌徳碑があるが、1873(明治6)年圓正寺を借りて新町小
        学校を開設。校長として良城小学校の基礎を確立する。
         学校名の由来について、開墾されたこの地は荒城(あらき)と呼ばれたが、荒の字が開墾地
        にふさわしくないとして「吉城」「良城」とした。読み方が「よしき」となり、吉敷の字
        が当てられたが、学校名に「良城」を残し、読みを「りょうじょう」とした。

        
         郷校・憲章館は服部傅厳(ふがん)の建言により、1805(文化2)年2月に創設された。
        現在の良城小学校敷地の一部にあり、名称は「仲尼は堯舜を祖述し、文武を憲章す」(儒教
        の四書「中庸」)による。(章蔵は曽孫)

        
         長楽寺(浄土宗)の寺伝によると、1600(慶長5)年創建と伝えられ、中原家(中也)の菩
        提寺とされる。

        
         1852(嘉永5)年澤山保羅(ぼうろ)はこの地で生まれ、憲章館で学び、幕長戦争では良
        城隊の最年少鼓手として芸州口に出陣する。18歳の時に神戸でアメリカ宣教師から英語
        を学び渡米する。アメリカの教会で洗礼を受けてクリスチャンとなり、帰国後の1876
        (明治9)年大坂で浪花公会(教会)が設立されると、日本で最初の牧師となる。女子教育にも
        携わり、1878(明治11)年梅花女学校(現在の梅花学園)を創設する。

        
         再び肥中街道に戻って東進する。

        
         服部章蔵(1848-1916)は青年期には同志と共に倒幕運動に参加し、幕長戦争では良城隊の
        司令として幕軍と戦う。兵学を大村益次郎に学び、維新後、海軍兵学校の教官となったが、
        その後、キリスト教に入信して伝道者の道を選び、山陽地方の各地に教会を設立するため
        奔走する。
         日本キリスト教団山口教会の初代牧師となり、山口市に光塩学校を開設する。後に広島
        の広陵女学校と合併し、校名を光城(こうじょう)女学院として女子教育にも尽力する。19
        14(大正3)年下関の梅香崎女学校と光城女学院が合併し、下関梅光女学院が誕生する。

        
         圓正寺(真宗)の寺伝によると、美濃国宇留馬城主・大澤治郎左衛門の子である佐渡守が、
        顕如上人の弟子となり、天正年間に西国を巡行中、当地を訪れ一宇を建立したといわれて
        いる。1700(元禄13)年頃現在地に移転し、1873(明治6)年には良城小学校の前身で
        ある新町小学校が置かれた。本堂裏に「曼荼羅の庭」があるようだが拝見することができ
        ず。

        
         山口市のマンホール蓋。

        
         吉敷川の袂に古四之宮社があるが、社伝によると出雲国杵築神社(出雲大社)より勧請し、
        良城大神宮と呼ばれていた。奈良期の717(養老元)年託宣により、北方20町(2.18㎞)
        に神社を遷座させ、地名にちなんで赤田大神宮と改称したとある。現在は赤田神社から分
        霊を勧請して祀っているという。

        
         野村勇は、中村、木崎の水田に水が乏しいのを憂い、誹謗を意に介さず日夜努力して吉
        敷川の水を田に注ぐ。また、米倉を設けて飢饉に備えるなど、その功績を後世に伝えるた
        め「溝倉設施表徳之碑(こうそうせっしひょうとくのひ)が古四之宮境内に建立される。

        
         旧肥中街道筋には吉敷川があって、現在の吉敷大橋はコンクリート橋であるが、当時は
        水の流れのある所だけに橋が架けられていたのではないかと推測される。 

        
         中原家はもともと吉敷の出で、湯田温泉で中原医院を開業。中也はそこで生まれて山口
        中学から立命館中学校に転校。叙情詩人として脚光を浴びたが、1937(昭和12)年死去。
         経塚にある「中原家累代之墓」の字は、中也中学2年の時の書とされる。

        
         ホタル塚は元々湯田大橋の袂にあったもので、歌人の吉井勇が湯田大橋のホタルを称賛
        し、塚の建設を勧めたといわれている。
           吉井勇の歌碑
            「うつくしき 蛍の群れのかがやきを 
                       このうつし世の光ともかな」
         1996(平成10)年良城橋が完成し、周辺も整備されて、ホタルの放流が行われるよう
        になったため碑が移転された。

        
         良城橋の袂にはホタル塚の他に「刀匠二王之碑」がある。始祖は清平で、鎌倉時代に大
        和から山口に来たとされ、その子孫である守綱・正綱らが活躍する。二王の刀剣は美術的
        色彩が濃く、刀は大内氏の中国貿易の貴重な輸出品とされた。 

        
         旧良城橋の親柱4基が記念として残されている。その先の吉敷バス停よりJRバス防府
        行き13分、湯田温泉バス停で下車する。


上関町八島は山口県最南端で絵の島

2023年04月03日 | 山口県上関・平生・田布施町

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         八島(やしま)は熊毛半島の南海上にあり、南北に長く瓢箪型をした島である。近世には大
        島郡に属していたが、1876(明治9)年熊毛郡に移管され、1島1村を形成していたが、
        1889(明治22)年の町村制施行で上関村となる。
         地名の由来は満潮になると島の低い所が水没し、島が8つになることからと言い伝える。
        (歩行約4.5㎞、🚻待合所のみ)

        
         JR柳井駅から防長バス上関行き約53分(1,060円)、道の駅上関海峡前バス停で下車す
        る。室津の発着場は道の駅裏手にあって片道590円である。 

        
         島と本土との連絡は、1879(明治12)年郵便物を運ぶ小帆船の就航が始まりで、その
        後、民営、八島区営を経て、1954(昭和29)年より上関町営として今日まで島民の生活
        を支えてきた。所要時間は約30分だが船室外に出ることはできないし、船室から景色を
        楽しむこともできない船旅である。

        
         どこをどう歩いてよいのかわからずに出発するが、案内板の片隅に「山口県の最南端に
        位置し、自然あふれる美しい島です。歴史的にも古く、弥生時代から集落があり、平家伝
        説も残されており、明治以降では島民がハワイに移民した」とある。

        
         島に上がると目に飛び込むのは壁に取り付けてある絵画で、「絵の島」といった感じで
        ある。

        
         奥に見えるのが蛭子神社。

        
        
         集落の家々は海岸線でなく斜面に立地しているところから、漁業主体ではなく農業主体
        の集落形態と思われる。

        
         阪本商店は島内唯一の店。

        
         渡船から商品を運ぶ女性が、「ほとんどが坂で歩かないとどうにもならないのでみんな
        元気だよ」と笑顔で話してくれる。

        
        
         浄福寺への道を少し上がると壁には動物の絵が掲げてある。

        
         旧小学校跡地への道は等高線上の平坦道。

        
         右手に会社の寮を過ごすと、山手側には民家が並ぶ。

        

        
         八島小学校は1874(明治7)年民家を借りて八島小学として開校する。のち校舎が新築
        されて多くの児童が学んでいたが、1962(昭和37)年代を境に減少傾向が続き、198
        3(昭和58)年には6名となり、3年後に上関小学校へ統合される。
         島の方にお聞きすると、狭い敷地で運動会も行われるなど、どこにいても子供たちの声
        が聞こえてきたという。

        
         八島は伊方原子力発電所から30㎞圏内にあり、モニタリングポストが設置されて放射
        線測定が行われている。

        
         小学校跡から山手に向かう。 

        
         「春山淡冶(たんや)にして笑うが如く」である。

        
        
         斜面を切り開いて石垣で宅地化され、細い道で結ばれている。

        
         集落内では入母屋屋根の主屋と長屋を持つ民家が見られるが、生産用具などを収納する
        長屋が必要だったと思われる。

        
         対岸に上関町の長島と祝島。 

        
         島の方が桜は見上げることが多いが、ここでは目線上に花びらがあるので楽しんでくだ
        さいと‥。

        
         浄慶寺(真宗)の系図によると、上杉景清なるものが天正年中(1573-1592)の石山合戦では
        本願寺に籠城する。のち講和が成立すると兵を罷めて退去させ、門徒等は各々の国に散る。
        景清は八島に一宇を建立し、時に1587(天正15)年7月に現寺号を号すとある。

        
         境内からは八島に来たと実感できる風景が広がる。 

        
        
         所々にこのような光景がられる。

        

        
         浄福寺(浄土宗)は、鎌倉期の1317(文保元)年の創建だが開基は不明とのこと。当時は
        真言宗であったが天正年中(1573-1592)に改宗したとされる。近年廃寺となったようで、境
        内は草木が生い茂り本堂など全景を見ることはできない。

        
         明治期には700人ほどの人口があったが、2022(令和4)年4月現在、15世帯20
        人が暮らしているが、その多くが高齢者のため、何時まで集落としての機能が保たれるの
        だろうか。

        
         集落排水は完備されて住環境は整えられている。 

        
         ハワイの出稼ぎで財を成したといわれ、入母屋造りの大きな家屋が多い。

        
         海岸部にも入母屋の家屋が並ぶ。

        
         弧を描く長い海岸線には、地元で「あぶら石」と呼ばれる丸い石で埋め尽くされている。
        西風が吹くと湾の構造上、大きな波で無数の石を転がし、永い間転がった結果、石が丸く
        なったようだ。
         八島には「あぶらめし」という炊き込みご飯のような保存食がある(あった)とされるが、
        この石と関係があるのか聞き洩らしてしまう。

        
         ミニ八十八ヶ所の1番札所とされる大師堂。

        
        
         八島の中央部(大島と小島の間)のくびれた場所にある砂洲に、八十八体の地蔵尊が安置
        されている。2番以降は石仏で等間隔に並び、草地だが草刈りもされている。(傍にヘリポ
        ート)

        
         ハマダイコン(浜大根)ロードは渡船場から古浦(無人地)への道で、片道約4㎞とされて
        いるが、柳井まで戻ることを考えると、13時の便に乗船せざるを得ないので引き返す。

        
         集落を眺めながら渡船場へ戻る。約2時間半の滞在時間だったが、海面の青さが増す「
        山滴る」頃に再度訪れて、古浦方面を歩きたいなと思いつつ島を後にする。