ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

宇部市丸尾は埠頭と佐々木ゆか 

2020年05月30日 | 山口県宇部市

           
        この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分1地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複 第546号
         丸尾は宇部丘陵の東部に位置し、低い台地と低地が大部分を占め、東は周防灘に面して
        いる。
(歩行約8.5㎞)

           
         JR新山口駅から宇部線にてJR丸尾駅に下車する。1924(大正13)年に宇部鉄道の
        駅として開業する。
島式ホームであったが貨物列車廃止により行き違い・退避の設備が不         
        要となり、西側の線路は取り払われて単式ホーム1面1線となる。

           
         駅前から踏切を横断して丸尾自治会館前を左折する。
   
           
         丸尾原の一角に高嶺(現在は山口)大神宮と刻まれた石灯籠には、側面に「天保11年(18
        4
0)庚子‥」とある。伊勢神宮と同じ祭神であるので、お伊勢信仰の講中が遥拝所として建
        てたものと思われる。 

           
         丸尾原の住宅前にポツンと地蔵尊1基。

           
         左手に石碑があるが詳細不明である。

           
         広い屋敷地を持つ民家が多い。

           
         周防灘に合わす。

           
         小さな坂を越えると丸尾崎が見えてくる。(建物は病院)

           
         丸尾墓地の一角に法秀様というお堂がある。天保年間(1830-1844)頃東仙寺(現弘済寺)
        に寄宿した旅僧で、薬草の知識があり多くの病人を救ったと云われる。晩年は難病を患い、
        東仙寺の縁の下で他人を寄せ付けずに死亡。後に地元の人たちが石像を作って供養したと
        いう。

           
         墓地の先を右折して丸尾崎に出る。

           
         弘済寺は、奈良期の751(天平勝宝3)年からの古刹であるが、開山などは不明とのこと。
                1871(明治4)年に寺社分離の際、同寺の末寺であった東仙寺に移して弘済寺(曹洞宗)と
        する。

           
           
         庄屋だったとされる部坂家。

           
         地元の方の説明では、部坂家の米蔵だったそうで収穫期には小作人が米を納めに来てい
        た。戦後の農地改革により住まいに改装され、借家人がいたが今は無住とのこと。

           
         1905(明治38)年から1925(大正14)年まで丸尾崎には、海難救助に備えて帝国水
        難救済会の救難所があった。この小路の右側辺りとされるが、位置を特定することができ
        なかった。

           
         丸尾崎の防波堤入口に建つ埠頭碑は、風化が進んで判読できない。

           
         碑の向かい側に、煉瓦造の建物一部が残されているが詳細不明となる。

           
         1645(正保2)年長崎奉行・新見七右衛門が長崎から江戸に向かう途中、暴風雨に遭い、
        宇部沖で難破する事件が起こる。それが動機となって丸尾崎埠頭(波止)が実現した。

           
         1679(延宝7)年に埠頭工事が始まり翌年に完成したが、台風の度に破損し修理を繰り
        返した。
         庄屋・部坂神兵衛は、1827(文政10)年三保虎五郎の協力を得て2年かけて大修理を
        行う。1835(天保6)年に木造の灯籠堂が設置されたが、1942(昭和17)年の台風で流
        失する。

           
         1784(天明4)年豊漁と海の安全の神である恵比須神社が勧請される。毎年旧暦の6月
        17日、宵の海に管弦船が提灯で飾られ、「しゃぎり」と呼ばれる管弦楽が演奏される十
        七夜祭が行われる。

           
         1828(文政11)年丸尾埠頭の大修理に併せて、庄屋部坂神兵衛が藩に願い出て、船積
        み用荷物の保管(倉庫業)による収益を目的とした越荷会所を開設する。1871(明治4)
        まで運営されたが、その収益は埠頭の修理と借入金の返済に充てられたとか。

           
         丸尾港の開港に併せて港を管理する丸尾崎番所が設けられた。番所の敷地は1,000
        ㎡で、現在番所跡に井戸が残っており、その井桁には「天保7年申12月(1836)」と刻ま
        れている。

           
         丸尾崎の中心地だが、多くが新しい民家である。

           
         1965(昭和40)年に丸尾港は普通港から漁業港になった際、西の浜が埋め立てられて
        魚市場も移設される。

           
         大正期になると諸工業の勃興から煉瓦の需要が増加し、丸尾崎に煉瓦工場が設けられる。
        要因として豊富な材料と、丸尾港を利用して出荷が可能であったことによる。

           
         三神社の南から港にかけて車エビ養殖場池がある。1966(昭和41)年に宇部市内の8
        つの漁業組合が出資して始められた。酸素欠乏、赤潮、アサリの異常発生、魚病の発生な
        ど多くの被害を受けたが、今では順調に出荷されている。(三神社入口に🚻)

           
         丸尾三神社は、1680(延宝8)年丸尾港が築かれた時に豊後国から勧請される。住吉と
        厳島大明神、八大龍神の三神を祀ったので三神社と云われる。当初の建物には本殿と拝殿
        があったが、老朽化したためこぢんまりした社殿に建て替えられた。

           
         海の守り神とされるため正面の階段も丸尾港方向を向き、鳥居の下は海である。(昔は
        島であったと思われる)

           
         三神社周辺部を周回できるように遊歩道が設置してある。森の中にはトベラの木が自生
        しているが、昔から大晦日や節分の日には扉に挿み疫病退散の印とした。扉に挿むためト
        ビラと呼ぶ地方もあるようだ。

           
         久しぶりに子供たちの遊ぶ姿を見る。

           
           
         通りにデザインの違うマンホールが並ぶ。上段のマンホールにはときわ公園の白鳥が大
        小に描かれ、下段には中央にハナショウブ、周りにクスノキ、サルビアがデザインされて
        いる。

           
         直進道を進むと県立こころの医療センターを右手に見る。宇部線松永踏切先を左折して
        て線路に沿えば、JR丸尾駅に戻ることができる。(ここまでの歩行約7㎞)
         佐々木ゆかの墓を確認のためもう少し先に進む。

           
         踏切から直進して国道を横切ると、コンビニの角に「孝婦の墓北250m」と案内され
        ている。 

           
         案内に従うと左手に入口を示す石標がある。

           
         佐々木ゆかは、1804(文化元)年貧しい百姓の一人娘として古殿の郷に生まれる。年頃
        になって養子を迎え、一子を設けたが若くして離縁する。娘を育てながら生計をたてるた
        めに日夜賃仕事等に励み、両親に尽くし近所付き合いも怠ることがなかった。その善行が
        藩の知ることになり、親孝行の模範者として表彰し称えた。79歳で生涯を終えたが、孝
        婦として語り継がれている。

           
         引き返して国道経由で駅に戻る。     


萩市玉江は橋本川左岸に位置する町

2020年05月28日 | 山口県萩市

        
        この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分1地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複 第546号)
         玉江は橋本川下流域の左岸一帯に位置し、北は日本海に面し、東は橋本川を挟んで萩
        下に接する。域内は南北に長く、橋本川河口の漁村集落のほか、玉江川沿いに
も集落が形
        成されている。1
923(大正12)年に萩市と合併するまで山田村として存立していた。
        (歩行
約4.5㎞)

        
         萩バスセンターから防長バスJR長門市駅行き6分、奥玉江バス停で下車する。

        
         赤間関街道は国道を横切って玉江川に沿いながら山中に入って行くが、この地点から玉
        江川河口へ向けて歩く。

        
        
         建物は建て替えられて街道だった面影はない。

        
         玉江川に架かる橋で左岸に移動する。

        
         1873(明治6)年に玉江小学校として創立された白水小学校は、その後、校名変更を経
        て、1947(昭和22)年現在の校名となる。

        
         光山寺は京都から武田信春という武士が萩に来て真宗信者となり、出家して了春と号し、
        諸国行脚の後、室町期の1564(永禄7)年に一宇を建立したのが始まりとされる。

        
         玉江川下流から見る町並み。

        
         玉江神社の社伝によれば、毛利輝元の病気平癒を祈祷するため大江山より前鬼、後鬼を
        招いたことによるという。萩城の坤(こん・南西)の方角で裏鬼門にあたるため、代々の藩主
        から帰依を受けた。(本殿は石段の先)

        
         山陰本線玉江第2踏切先で県道に合わす。

        
         県道をJR玉江駅方向へ進む。

        
         1925(大正14)年美祢線の延長によりJR玉江駅が開業する。単式ホーム1面1線を
        有する小さな駅。

        
         夏みかんと土塀がデザインされたマンホール蓋。

        
         かってのメインロードに民家が連なる。

        
        
         鉤の手と湾曲した通りに同じような空間が続く。

        
         観音院参道前に格子が美しい礒部邸。

        
         橋本川河口の倉江との境、玉江浦に接する台地にある観音院(臨済宗)

        
         寺伝によれば、不見別当が平安期の大同年間(806-810)に創建したとある。

        
         対岸に萩城下と指月山。

        
         橋本川左岸の町並み。

        
        
         倉江の町は漁港に近いが、その雰囲気を感じさせない。

        
         家並みもこの先で終わりとなる。

        
        
         橋本川河口に出ると防波堤にウミネコの群れ。玉江の風物詩だそうだ。

        
         橋本川左岸に沿う。

        
         橋本川右岸より見る観音院。

        
         萩まあーるバスの玉江駅前バス停より萩バスセンターに戻る。


萩の小畑に世界遺産の反射炉と造船所跡

2020年05月28日 | 山口県萩市

           
        この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分1地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複 第546号) 
         小畑(おばた)は椿東エリア内にあり、萩中心部の北に位置し、海と山に挟まれた細長い域
        内を国道191号が海岸線と並行する。(歩行約4.8㎞)

           
         萩バスセンターから萩まあーるバス東廻りに乗車し、松陰神社前バス停で下車する。

           
         石州街道(仏坂道)の起点は、唐樋の札場(萩バスセンター近く)で松本橋を渡り、松陰神
        社
歴史館の裏で月見川を横切る。三差路で山代街道と分かれて北へ向かっている。(右手に
        明安寺)

           
         その先に椿東(ちんとう)小学校のグランドがあり、この辺りを無田ヶ原という。「御国廻
        行程記」によれば、深山で田もないことからその名が付いたようだ。

           
         今は真っ直ぐな市道が街道の横に新設され、近代的な建物が建ち並び、往時の状況を推
        察することはできない。街道は小学校の外れから左の路地に入る。

           
         車幅ぎりぎりの道に住宅の軒と生垣が迫る。

           
         松本川からの市道に合わすと、そのまま横断して次の路地へ入る。県道と合わす手前に
        地蔵尊があり、台石には三界萬霊、右面に無田ヶ原□□、左面に寛政元己酉□8月14日
        と刻字されている。(□は読めず)
         1872(明治5)年に合併して廃寺となった旧長慶寺の参道入口にあたる場所のようだ。

           
         市道に戻って北に進むと、まつお歯科医院の向い側に小路がある。

           
         城越山の麓を抜けると広い道に合わし、正面に市営住宅を見ると左折する。

           
         街道筋かどうかはっきりしないが、変則四差路は左手の道に入る。
 
           
         左手の石井家は吉見氏家来の末裔で、江戸期は庄屋を務めていたという。 

           
         その先100mほど進むと、白山神社の参道入口がある。

           
         白山神社は、平安期の815(弘仁6)
年に藤原冬嗣家臣の別府義澄・小木広員が加賀の白
        山から
勧請したと伝える。大内氏時代には大内氏の祈祷所であったという。

           
         さらに街道を進むと庄屋川に架かった橋前に出る。ここで街道と分かれて河口へ向かう。

           
         庄屋川河口付近で山陰本線下を潜る。

           
         国道191号を奈古方面へ進むと反射炉の案内がある。

           
         庄屋川の北、上ノ原の丘陵地に萩反射炉がある。萩藩の大砲は青銅で着弾距離が短く、
        実用に適していなかったため、1856(安政3)年海防の必要から当地に反射炉を設ける。

           
         1855(安政2)年萩藩は、反射炉の操業に成功していた佐賀藩に藩士(山田宇右衛門ら)
        を派遣し、鉄製大砲の鋳造法伝授を申し入れるが、拒絶されて反射炉のスケッチのみが許
        される。1856(安政3)年の一時期に試験操業されたという記録のみで、試作的に造
られ
        たものとされる。

           
         この遺構は煙突にあたる部分で、高さ10.5mの安山岩積み(上方一部煉瓦積み)は、中
        央部から上部は2つに分かれている。

           
         技術面、費用面で本式の反射炉は築造されなかったが、自力で西洋技術を取り入れよう
        とした遺構である。「明治日本の産業革命遺産」として世界遺産に登録されている。

           
         反射炉から見る小畑の町並み。正面の森が中ノ台で、日本海に接する所に恵美須ヶ鼻造
        船所があった。

           
           
         右手の旧道(中小畑)に入ると、新しい民家が主流を占める。

           
         旧道の中間にある松龍院(浄土宗)は、1639(寛永16)年小畑浦の宇京という漁夫が霊
        夢により、十一面観音を海中で発見して祀ったところ、多くの漁業者が信仰するようにな
        った。1684(貞亨元)年に観音堂が建立されたが、歳月を経て荒廃し妙雲院の弟子が再建
        する。現在は漁協管理しているとか。 

           
         境内に「鱗蟲魚貝諸霊魂塔」が建立されている。

           
         旧道の長さ約380m。 

           
         国道を横断して海岸線に出ると萩漁港。南を鶴江台、北を中ノ台という台地状の半島を
        抱えた天然の良港である。

           
         1853(嘉永6)年幕府はペリー来航により、1609(慶長14)年以来続いた諸藩大船建
        造の禁を解く。萩藩は伊豆でロシアのスクーナーを建造した大工高橋伝蔵を萩に招へいし、
        1856(安政3)年4月この地に軍艦造船所を築造し、12月には最初の洋式軍艦「丙辰丸」
        を進水させる。(造船所跡は発掘調査中)

           
           
         1937(昭和12)年に山口県が刊行した「萩港修築工事誌」によれば、造船所建設時に
        石造防波堤が築造されたと記述がある。 
         一方、当時の萩藩造船所建設計画絵図面に、防波堤や護岸などの施設が既存のもののよ
        うに描かれているとか。

          
         全長51.3mもあり当時としては大規模な防波堤で、本体は柔型構造で船繋を有する
        子持波止である。
         ともあれ、江戸期以来の典型的な防波堤の特徴を今に伝えていることは確かである。

           
         造船所跡横にある恵比須神社。

           
           
         時代は既に蒸気船が主流となり、藩は蒸気船購入することに方針転換して恵美須ヶ鼻造
        船所は役目を終えたが、新しい時代への橋渡しをした史跡の1つでもある。
         時代が挑戦と決断、素早い実行を求めたのは確かではあるが、否応なしに現在のトップ
        と比較してしまうのは酷だろうか。そんな思いを馳せながら漁港前バス停から萩バスセン
        ターに戻る。


萩市福井下に木喰上人の立木仏と森田家住宅

2020年05月27日 | 山口県萩市

        
        この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分1地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複 第546号) 
         福井下は旧福栄村の南西にあって四方を山に囲まれ,大井川の支流である福井川の流域
        に位置する。
         萩から白坂、福井下を経て、津和野に至る石州街道白坂筋があった。(歩行約6㎞)


        
         萩バスセンター(10:23)から防長バス吉部行き20分、堀割バス停で下車する。

        
         県道11号線(萩篠生線)を萩方向へ引き返す。

        
         石州瓦の民家が並ぶ。

        
         戸数にして15軒ほどが県道に沿う。

        
         西宗集落より福井下の中心部を見ながら県道10号線(山口福栄須佐線)を横断する。

        
         福井川に架かる希望(のぞみ)橋から桜並木に入ると、鳥たちにとってさくらんぼの実が食
                べ頃のようだ。

        
         福栄小中学校をぐるりと巡ると校門前に出る。(見るべきものなし)

        
        
         山裾に大きな家が並ぶ東宗集落。

        
         長閑な田園風景が広がる。(右上に願行寺)

        
         県道に出ると願行寺まで600m、立木薬師如来像がある旨の案内がされている。最初
                は緩やかな道だったが、寺前はしんどい坂道である。(参道入口を見つけられず)

        
         願行寺(浄土宗)は、安土桃山期の1592(文禄元)年僧願誉が黒川村の手水川上流の山中
        に仏堂を建て、1610(慶長15)年に福井村にあった安全庵を移して願行寺と改めた。1
        682(天和2)年大破したので現在地に移建したとされる。

        
         1797(寛政9)年12月翌年の2月まで、木喰五行上人が当寺に逗留する。滞在中に彫
        った3体の像が現存するが、1体は本堂前にある榧(かや)の大木に薬師如来立像が刻まれて
        いる。

        
              県道に戻って幅の狭い歩道を中心部へ向かうと、1928(昭和3)年創業で木桶仕込みの
        醤油を製造されているフジノ醤油屋さん。昔ながらの佇まいと醤油瓶と思われる瓶が積み
        重ねてある。

        
         石州街道白坂筋の福井市。

        
              1947(昭和22)年創業の鍛冶屋さんは、「くわ・かま・柄」の看板が残る。建物は昔、
        木賃宿だったとか。

        
         鍛冶工場の向かいにある重厚な民家は無住のようだ。

        
         少し趣の違う建物がある。江戸期にはこの付近に高札場があり、脇に田畑春定札、目代
                (もくだい)所・駅があったとされる。


        
        
         福井市には「梅の友」という銘柄の岡酒場があったが、1938(昭和13)年に当主の岡
        十郎没後、未亡人のムツさんの手に移ったが企業整備に遭い廃業となる。現在は白神酒店
        となっている。

        
         福井市は毎月末に市が立ち、人や物資が集散する在郷町として発展したが、昭和の中頃
        から衰退の途をたどる。

        
         金石山八幡宮参道下にあるF商店さん。

        
         金石山八幡宮は福井下の北、鎌浦台のほぼ北麓に鎮座する。平安期の1014(長和3)
        石清水八幡宮より勧請されたという。

        
           八幡宮参道下にあるたばこ店。

        
         石仏に手を合わせて県道を西進する。
        
        
         福井下と旧川上村の境にある扇子落滝(おうぎおとしのたき)と魚2匹がデザインされた旧福
                栄村のマンホール。

        
         「徳蔵寺観音堂」の案内を見て左折すると、途中に防獣フェンスがあって路傍に忘れら
        れた石仏が迎えてくれる。

        
         徳蔵院の開山などは不明だそうだが、平安期の794(延暦13)年に一宇が建立されたと
        いう。
         その後、寺が大破したため正保年中(1644-1648)に四面2間2尺の一宇が建立されるが、
        1869(明治2)年の廃仏毀釈により同地区内の禅昌院に合併される。(観音堂として現存)

        
         正面に体育館を見て萩市総合事務所前に出る。1889(明治22)年の町村制施行により
        福井上村、福井下村、黒川村が合併して福川村となるが、昭和の大合併で紫福村と合併し
        て福栄村、平成の大合併で萩市の大字となる。
    
        
         道の駅ハピネスふくえで昼食を済ませて、萩市福栄総合事務所前バス停から5分、吉田
        入口バス停で下車する。

        
         次のバスまで1時間以上あるが、バス路線上にある国指定重要文化財の森田家住宅を見
        ておきたいと立ち寄る。

        
          18世紀中期頃の農家住宅で、森田家は慶安年間(1648-1652)に黒川村一帯を開墾し、
        その功で庄屋を務めたという。
         主屋、塀重門、貫木門、舟板塀、蔵などが残されており、当時の庄屋屋敷を伺い知るこ
        とができる。

        
         萩藩主が鷹狩りの折、当家が本陣や休息所に使われ、「殿様御成間」が残されていると
        いう。       

        
         貫木門の先から私有地のため車庫前でバス待ちしていると、当家に顔なじみの植木屋さ
        んが来訪する。声掛けをしていただいて主屋まで案内していただく。      
        
        
         主屋は桁行8間(14.4m)の大きさで、土間の隣には式台付きの玄関を備え、玄関と庭
        は板塀で仕切られて塀重門が設けてある。

        
         吉田松陰の養母・久満さんの実家でもあり、時折この家に訪れたという。

        
         長い滞在時間となったが、萩バスセンター行きのバスに乗車して萩に戻る。


萩市椿にはレトロな駅舎と大照院

2020年05月23日 | 山口県萩市

           
        この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分1地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複 第546号)
         椿は北部に日本海へ注ぐ阿武川とその支流の橋本川左岸の沖積地、南部は橋本川に注ぎ
        込む大屋川流域に立地する。地名の由来は、昔、この地に毎夜光を放つ椿の
大木があった
        ことによるという。大椿山歓喜寺(現大照院)の縁起にちなんだとい
う。
         また、一説には津牧と称していたが椿になったとも伝える。(歩行約9㎞)

           
         1925(大正14)年開業したJR萩駅は、一部補強改修されているが開業当時の姿を残
        している。


           
         駅前から市街地に向けて萩往還道を北上する。

           
         金谷神社は城下の南出入口にあたる地で、かっては傍らに大木戸が設けられていた。

           
         社伝によれば祭神は菅原道真で、鎌倉期の1186(文治2)年に長門守護職佐々木高綱が、
        太
宰府天満宮から現在地よりやや東方の奥金谷に勧請する。1720(享保5)年現在地へ遷
        座したという。


           
         明治の神仏分離令により別当だった正燈院が、1870(明治3)年に廃寺となり、鐘楼・
        庫裡は解体され、仁王門は隋神門に変わり本堂などは他寺に移され
た。

           
         椿町バス停手前を右折して、2つ目の路地を左折する。

           
         川上弥一(弥市)は8月8日の政変で帰国し、滝弥太郎と奇兵隊総督に任じられるが、失
        地回復を企て沢宣嘉を擁して脱走し、但馬国(現兵庫県)の生野で挙兵するが幕府追討軍

        敗れ自決する。門前に旧宅地碑がある。

    
           
         市民体育館より大屋川に沿う。

           
         県道64号線(萩三隅線)と山陰本線大照院踏切を横断すると、前方に山門が見えてくる。

           
         大照院の山門は三間一戸の重層門で、かなり変な門でじっと眺めていると、上段に目が
        あって鼻と髭、アーチ型の通路が口で顔のように見えてくる。


           
         古くは観音寺と称していたが、南北朝期の1334(建武元)年に歓喜寺と改められ、天
        宗から臨済宗に改宗される。

         その後の変遷はつまびやかでないが、戦乱の世を経て荒れ果てる。1651(慶安4)年に
        毛利秀就が没し、その菩提所とするため大照院と改号して伽藍が新造
される。

           
         1747(延亨4)年火災に遭い、1759(寛延3)年に再興されたのが現在の本堂である。
        方丈風の一重入母屋造、屋根は錣(しころ)屋根となっている。


           
         池の正面にある書院は濡れ縁を廻している。

           
         池には「コウホネ(河骨)」が、水中から花茎を伸ばして5cmほどの黄色い花を咲かせて
        いる。


           
         初代毛利秀就をはじめとする7藩主と正室およびその一族の墓があり、秀就に殉死した
        墓もある。


           
         大照院には初代秀就と2代からは偶数代藩主と正室、東光寺(椿東)には奇数藩主と正室
        の墓がある。


           
         萩往還道傍にある国登録有形文化財の鹿背(かせ)隧道、涙松と椿、桜がデザインされた椿
        南農業集落用マンホール。


           
         青海集落付近から見る椿南一帯。

           
         次の集落に入ると八幡宮の鳥居。

           
         茶臼山の北東麓に鎮座する椿八幡宮の社伝によると、鎌倉期の1188(文治4)鶴岡八
        幡宮より川上村に勧請されたのが始まりとされ、約70年後に現在地へ
移したとされる。

           
         境内から遠くに萩のシンボル指月山。

           
         鳥居の先が馬場跡とされる。

           
         左手の水路に逆サイフォン式水路があるとのことだったが、見つけることができず。

           
         県道を横断して中国電力の鉄塔を目指すと、萩往還道(萩から防府への街道)に合わす。

           
         大屋川の手前に地元では萩の乱供養碑と伝えられている石碑がある。この一帯は前原一
        誠が、1876(明治9)年不平士族とともに起こした萩の乱の激戦
地だった。

           
         大屋川に沿う。

           
         観音橋の道標「左 山口・小郡道 右 河内・木間道」とあり。

           
         大屋の町筋を見て南明寺橋まで引き返す。

           
         南明寺橋で萩往還道と分かれて下木部集落に入る。

           
         夏みかんの花。

           
         やや左カーブする右手に大屋窯があり、和泉寺(わせんじ)跡と小倉四賢墓所への道には登
        り窯がある。


           
         小倉四賢(尚斉、鹿門、南皋、遜斉)墓所は、元和泉寺の地にあったとされ、今は小高い
        夏み
かん畑の
西側に位置する。四賢は藩校明倫館の教育に尽力する。

           
         南明寺は南明寺山の北側中腹に位置し、寺伝によると毛利氏萩入城のとき、
山口の氷上
        にある興隆寺
の脇坊であった仏乗坊の源康法印という僧が招かれる、1606(慶長11)
        住職が任じられ、天台宗寺院として中興した
とされる。
         参道入口にあるイトザクラは、早く咲いてすぐに散ってしまうことから見に行くタイミ
        ングが難しいそうだ。


           
         「賓頭盧(びんずる)」とは釈迦の弟子で、特別の神通力を持ち合わせ、その神通力を世の
        人々に自由自在に誇示して見せたので、釈迦の怒りを受ける。「この
世にとどまって仏法
        を守り、人間の病を癒し、多くの衆生を救え」と、今に至っ
ても人々を救う仏さまである。
         自分の病める箇所と賓頭盧像の同じ箇所を撫でることによって、回復を祈る撫仏として
        信仰されている。


           
         鋳造方は、1860(万延元)年郡司千左衛門の指導によって開設された。この地は鉄砲鍛
        冶だった荒地清蔵が萩藩から賜わったもので、ここでゲベール銃を製造
した。現在は遺構
        が残されていないが、沖原バス停前に碑がある。


           
         国道を西進すると山陰本線に接する付近で右折する。1879(明治12)年の町村編制法
        によりこの一帯は椿郷西分村となったが、1910(明治43)年椿
村に改称し、1923(大
          正12)
年萩町と合併する。


           
         この先、人のみが横断できる踏切があり、国道をくぐるとJR萩駅である


萩市の古萩に萩藩の中・下級武家屋敷と町家

2020年05月22日 | 山口県萩市

           
        この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分1地形図を複製したものである、(承認番号 令元情複 第546号)
         古萩は萩市街地の北東部に位置し、住宅、商店、旅館などが混在する地域である。地名
        の
由来は、毛利氏が萩を城地と定めた時、当地のみに町並みが少々あり萩村と呼ばれてい
        
たのだが、のちに城域全体を萩と呼ばれるようになったため、もとの萩村の地を古萩と
        いうようになったと伝える。(歩行約4.6㎞)
 

           
         JR新山口駅(9:40)から防長バス東萩駅行き65分、萩バスセンター下車する。裏路地
        を利用して萩市役所を目指す。

           
         1849(嘉永2)年新明倫館聖廟の前門として建てられた前門(観徳門)で、木造瓦棒銅板
        葺きで左右に唐破
風を備えた平唐門である。本願寺萩別院に移築されて客殿門となってい
        たが、1980(昭和55)年不審火により本堂を焼失して再建されなかったため、2年後に
        旧明倫小学校敷地内へ移された


           
         剣槍稽古場・他国修業者引請剣槍術場(有備館)は、旧明倫館内の剣術場と槍術場を合体
        させて当地に移転された。藩士の練武のほか、他国からの剣槍術の修業者との試合場でも
        あり、1862(文久2)年1月萩を訪れた土佐の坂本龍馬も、ここで剣術の試合をしたとい
        われている。
         有備館の名は大正年間に命名され、江戸桜田の藩邸内にあった文武講習所の名にちなむ
        という。 

           
         建物の北半分は板の間の剣術場、南半分は土間の槍術場とし、各西側を藩主の上覧場(家
        
老などの検分含む)とした。

           
         萩藩校明倫館は、1719(享保4)年堀内追廻し筋に創建されたが、1849(嘉永2)
        に現在地へ移転する。約5万㎡の敷地(旧館の15倍)に学舎や武芸修練場、練兵場などが
        あった。

           
         最初の明倫小学校校舎は、現在の旧明倫小学校の西側にあって現在の校舎地はグランド
        だった。1935(昭和10)年グランドがあった地に旧校舎が建設され、2014(平成26)
        年に旧萩商業高校跡地に移転するまで現役の木造校舎として使用
された。現在は萩の観光
                起点「萩・明倫学舎」として活用されている。 


           
         校舎前に明倫館碑2基が建立されているが、左が旧明倫館について書かれ、1741(元
        文6)年に建立されたので「元文碑」と呼ばれる。
右は現在地に建て替えられた時のことが
        書かれ、1849(嘉永2)年に建立
されたので「嘉永重建碑」と呼ばれる。

           
         1848(弘化5)年新明倫館の正門として建てられたもので、明倫館の南側に位置するた
        め南門と名付けられ、藩主が聖廟を拝する時のみ開かれた。明治以降に本願寺萩別院の表
        門として移築されたが、2004(平成16)年元の位置に戻される。


           
         新堀川に架かる慶安橋を渡れば萩城下町である。

           
         江戸屋横町。

           
         円政寺は大内氏の祈願所として、今の山口市円政寺町に創建されたが、大内氏滅亡後、
        毛利氏が萩へ築城すると塩屋町に移建する。1870(明治3)年この
地にあった法光院と合
        併して現在に至る。


           
         境内には金比羅社が祀られ、神仏習合を色濃く残している。幕末頃の住職は林利助(の
        ちの伊藤博文)の母方の親戚で、小僧として預けられて読み書きを習った
という。

           
         拝殿の欄間に赤い大きな天狗の面が飾られているが、高杉晋作が物怖じしないように見
        せ付けられたと云われている。


           
         本堂前には、1858(安政5)年製作の大燈籠があり、他にも石仏などが所狭しと置かれ
        ている。


           
         青木周弼(しゅうすけ)は大坂や江戸、長崎で蘭学を学び藩医となり、藩校明倫館に西洋医
        学所を設けて後進を育成する。全国に名声が広がると訪れる者が多くな
ったため、宅は1
        859(安政6)年に新築される。
弟の研蔵も医者だったが海難事故で没し、研蔵の養子であ
        る周蔵は外務大臣を務め
た。

           
         外堀の東側が旧城下町、碁盤の目状に区画された町筋に、中・下級の武家屋敷や町家が
        軒を連ねる。白壁と黒い板塀のコントラストは、落ち着いた佇まいを見
せてくれる。

           
         木戸孝允(桂小五郎)は西郷、大久保とともに「維新の三傑」と云われた。和田昌景の長
        男に生まれ、8歳で大組士・桂家の養子になるが、当主が病没したため
実家に引き取られ
        て育つ。


           
         藩医だった実父の屋敷で、生まれてから江戸に出るまで約20年間をここで過ごした。

           
         吉田松陰の門下生となり、藩の要職に就き国事に奔走する。1863(文久3)年藩命によ
        り「木戸」と改め、薩長同盟を結び明治維新に尽力するが、西南の役の途中
で病没する。
        (享年45歳) 


           
         参勤交代時に藩主が通った御成道に出る。

           
         菊屋家は毛利輝元の萩入国に従い山口から萩に移り、萩の町造りに尽力する。萩藩の御
        用商人となり屋敷を拝領し、長大な敷地に白壁の主屋やなまこ壁の土蔵
が並ぶ。

           
         菊ヶ浜が近くにあったことから菊屋としたとか。

           
         萩に現存する町家では最古とされる建物である。江戸から来る幕府役人の宿として本陣
        にもなった。


           
           
         菊屋家の向かい側に呉服商・酒造業を営んでいた久保田家がある。建物は江戸後期とさ
        れ、主屋は屋根裏に物置や使用人の寝間を設けた「つし二階」を持ち、
建築年代の古い菊
        屋家より立ちが高くなっている。


           
         堂々とした町家が向かい合う。 

           
         菊屋家住宅の角を左折すると、「日本の道百選」とされる菊屋横町。

           
         菊屋家の白壁となまこ壁が連なる。

           
         その先に凹んだ一角が田中義一誕生地である。萩藩士の三男として生まれたが、3歳の
        時に平安古に移り住む。後に陸軍大学校を経て、陸軍大臣、1927(昭
和2)年には内閣総
        理大臣となる。


           
         少し行った右手に高杉晋作誕生地がある。1839(天保10)年萩藩士の長男として生ま
        れ、倒幕運動の急先鋒として活躍した。松下村塾で学び久坂玄瑞と
ともに松門の双璧と称
        されたが、倒幕運動の道半ばで肺結核のため、27歳7ヶ月
という若さでこの世を去る。

           
         高杉家は藩庁移転に伴い、萩を引き払い山口の茶臼山に居を構える。もとは500坪近
        くあった屋敷地
は、半分以下に縮小されており、当時の屋敷地の南東部が旧宅跡として公
        開されている。 


           
         夏みかんと土塀がデザインされたマンホール蓋。 

           
         御成道に面して豪商、江戸屋、伊勢屋、菊屋の商家が並んでいたため、横町にはそれぞ
        れの名が残されている。呉服商伊勢屋があった通りで、この道は観光客
用の店舗もなく、
        何気のない通りだが土塀が昔そのままに残っている。


           
         菊屋家東門。樹木が庭園は春と秋に特別公開されている。

           
         1840(天保11)年萩藩の医学校が、萩八丁の南園内に設けられたが、その後に変遷を
        重ね、名も好生館、好生堂と変わる。1861(文久元)年碑のある地(現在の玉木病院)に新
        築移転したが、1866(慶応2)年藩の拠点が山
口に移ると共に移った。
         明治政府は、1874(明治7)年医制を布告すると、山口県は山口好生堂を山口県立山
        口医院とし、さらに同年三田尻(現防府市)に移して山口県立華浦病院へと引き継がれる。 


           
         地元では法華寺(ほっけいじ)と呼ぶ。寺伝によると、西国教化のため広島に下って毛利輝
        元の帰依を受け、萩築城の際に萩に一宇を建立した。
         1658(明暦4)年渡辺宣の父親が山村松庵と囲碁を打って争い、負傷後死亡したため、
        宣が父親の17回忌に当寺の門前で仇討ちを果たす。これにより西向きの本堂は縁起が悪
        いと寺地を広め南面に再建されたが、1903(明治36)年本堂と庫裡を全焼するが、その
        後再建される。

           
         7代藩主・重就、8代藩主・冶親の侍医を務めた栗山孝庵旧宅跡。日本で2番目のなる
        男性の腑分けを行い、翌年の1759(宝暦9)年には女性の腑分けも行
う。

           
         金子重輔は紫福村で生まれたが、父がこの地に移り染物屋を営む。他家を継いで足軽と
        なり、江戸藩邸の雑役を勤め、吉田松陰と師弟を結ぶ。1854(安政
元)年に松陰と共にア
        メリカ密航を企てるが失敗して岩倉獄で病死する。(享年25歳) 


           
         町人地に残る土塀。

           
         菅原道真を祭神とする多越(たお)神社の創建は明らかでないが、もともと山口市円政寺町
        にあった円政寺の鎮守だったが、毛利輝元萩入城後、円政寺とともに現
在地に移築された。 

           
           
         長寿寺(浄土宗)は毛利輝元が萩入城に際して、山口の長寿寺住職が当地に一宇を建立し、
        隠居所としたことに始まるという。


           
         海蔵寺(曹洞宗)の寺伝によれば、応永年間(1394-1428)島根県温泉津に創建されて海蔵寺
        と称した。のち毛利氏の萩移封に際し、1604(慶長9)年椿東の
安養寺(現広厳寺)に仮堂
        を設け、1614年現在地へ移転したとする。


           
         1874(明治7)年に山門と蔵を残して焼失したが、1875年に藩校明倫館の聖廟を買
        収・移築して本堂とする。山門も豪華な造りで風格がある。


           
         ○一酒造は大正の初め頃より酒造りを始められたが、萩の町には煙突らしきものが見ら
        れず、高さ20mほどだが煉瓦造煙突が目を引く。


           
         常念寺(浄土宗)は京都・聚楽第の裏門だったという表門を構える寺。毛利輝元が萩城築
        城時に宿舎とした寺で、豊臣秀吉から門を与えられ伏見の毛利邸に移し、
その後、163
        3(寛永10)年に寺へ寄進したと伝わる。


           
         彫りは左甚五郎作と地元の人が教えてくれる。(事実不詳)
         また、当寺近くにある野山獄の囚人が斬罪に処せられる時は必ず本堂入口に座し、住職
      
  から十念を授けられた後、刑場に引き立てられるのが慣例となっていたとか。

           
         常念寺から南下すると、御成道の一部である田町商店街。

           
         アーケードを過ごすと萩往還道(三田尻街道)の起点で、ここに唐樋札場(復元)があった
        とされる。通りを山口方向へ進むと萩バスセンターがある。
       


岩国市周東町の高森は旧山陽道の宿場町

2020年05月14日 | 山口県岩国市

                 
                  この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分1地形図
                          を複製したものである。(承認番号 令元情複 第546号)

         高森は町の北に周防山地、中央が玖珂盆地の西側で島田川が西流している。元来下久原
        村の小字名であるが、古くからの宿駅で附近の中心であったあったことから、1889(明
           治22)
年町村制施行により、7ヶ村が合併したときに新しい村名が「高森村」となる。
                  藩政時代は萩藩領で最東端の要地でもあったとされるが、地名由来について、タカには
        鷹のこともあるし、また滝、竹の転化したものもある。モリは古くは「山」の意から、の
        ちに杜とも書くように「神のいる所」の意に使われた。
(歩行約9.2㎞、高森天神往復4.
        1㎞)

        
         JR徳山駅(9:40)から防長バス岩国行き55分、千束(せんぞく)バス停下車する。国道と
        岩徳線を横断すると旧山陽道筋に合わす。(複合施設に🚻)

        
         右手に妙見道標と常夜燈があるが、周東町川上にある鮎原妙見宮(鮎原剣神社)への分か
        れ道であった。道標には「従是二十一丁(約2.3㎞)」とあり、常夜燈は1833(天保4)
        年の建立である。


        
         東川を渡ると上市上から上市中。

        
         東川から西進すると南北に街道を横断する小路がある。消防車庫がある角地付近に、そ
        の年の春に秋の貢租予定額を示す「春定(はるさだめ)」の札場があったとされる。


        
         大田・絵堂の戦いのうち「大木津・川上口」の激戦地で戦死した奇兵隊斥候・世木騎六
        の顕彰碑。来島又兵衛の上京阻止に失敗した高杉晋作の脱藩に同行、功山寺決起にも晋作
        と行動を共にしている。(街道の左手にあり、隣には三戸熊太翁碑もある)


        
         椙杜八幡宮の鳥居には、1691(元禄4)年という古い銘と、「施主高森市 相川正太夫
        藤嶋又兵衛」の名が刻まれている。相川というのは相川本陣のことと思われる。(山名は泉
        山)

        
         社倉(現社務所)の南側に御蔵入米蔵があった。

        
         安土桃山期の1592(文禄元)年4月秀吉が朝鮮出兵(文禄の役)に際し、名護屋下向の途
        中に椙杜八幡宮に参詣し、ここに一夜の陣を張ったとされる。


        
        
         八幡宮の起源について諸説あるようだが、椙杜氏の祖先である太田時直が、鎌倉鶴岡八
        幡宮を勧請して、鎌倉幕府の地頭として椙杜庄に居住、椙杜氏に改姓した後、椙杜八幡宮
        を建立し、室町期には大内氏に仕えたとされる。


        
         県道柳井周東線との交差点(往時は南北に道はない)から受光寺にかけて、高札場、御物
        送り場、番所があり、40人の人夫と馬15疋が用意されていた。


        
         受光寺の向かい側に古民家が3軒ほど軒を連ねる。

        
         受光寺(真宗)は、1555(弘治元)年11月14日の鞍掛合戦で、落城討死にした鞍掛城
        家老・宇野景政の長男(教賢)が出家開創した寺である。

         当初は高森市から約2㎞南東に草庵を建立したが、寛永年間(1624-1643)頃に門徒の参詣
        の便をはかるため、現在地に移転する。脇本陣を勤め、公儀役人や諸大名の宿所に当てられ     
        た大寺であった。

         幕末の第二次幕長戦争おいて、遊撃隊が通化寺に駐屯するまでの一時期、陣営が置かれた。
        鐘楼門は17世紀代の楼門建築としては数例が少なく貴重な門とされる。(市有文)

        
         寺の先に本陣を思わすようななまこ壁と門が見えてくるが、「家栄の司」の銘柄で酒造
        されていた中村酒造である。

        
         老朽化した本陣を解体し、たかもり本陣保育園を新設した際に、傍に本陣跡の門塀が再
        現された。
         萩藩の東端に位置する重要な宿駅として本陣が置かれ、相川家が務めたので「相川本陣」
        とも呼ばれた。相川家は上毛国(群馬県)相川村から大内氏を頼って周防国に下り、美祢郡
        荒滝に居住したが、毛利氏の時代に吉敷郡陶村、さらに阿川毛利氏の家臣となって阿武郡
        川上村に居住する。1613(慶長18)年高森市へ移転し、後に本陣を務める。

        
         高森市は上市・中市・下市があり、現在も当時の町並みを残している。山陽道の宿駅と
        して社寺、本陣、脇本陣、町家、商家が連なり、一応の機能を有していたという。

        
         吉田松陰は高森に2回宿泊している。第1回目は山口銀行高森支店がある場所に、吉田
        松陰の親戚である岩本家(岩本医院)があった。ここの岩本家は松陰の生家・杉家と縁があ
        り、1851(嘉永4)年江戸留学に赴く際に松陰が泊っている。岩本家は昭和初期まで醤油
        の製造業営んでいたとされる。

        
         報明寺の隣には造り酒屋宇野家があった所で、宇野千代の父は宇野家の次男で、岩国の
        川西に居を構える。千代は生後1年半で母と死別し、しばらくの間、父の実家に預けられ
        た。碑には「ある一人の女の物語」の一節と、高森の町並みスケッチがはめ込んである。

        
         この敷地に主屋、酒蔵、醸造場などがあったとのこと。

        
         宇野千代文学碑地の向かい側に、吉田松陰が米国密航に失敗して、江戸から萩へ護送さ
        れる際に泊まった亀屋市之助邸があった。(2回目)
         3回目は、1859(安政6)年5月江戸幕府より松陰の身柄差出しの連絡があり、その時
        に高森を通っている。

        
         街道を2つに分割して中央に溝を掘り、東川の水を通して防火用水、洗濯などに利用さ
        れ両岸には並木があったとされる。車の普及と共に1955(昭和30)年代に姿を消す。

        
         旧周東町のマンホール蓋は、中央に町章、周りに町の花だったウメを描き、青い線で
        「川」の文字を4ヶ所に設けている。

        
         下市に入ると古い家が残されている。(N邸とF邸)

        
         似通った家が並ぶ。

        
         切妻の二階中間まで屋根がある。

        
         市尻北側に周防三天神の1つである高森天満宮がある。由緒によると、菅原道真が下野
        する際にこの地に湧き出る泉で喉を潤されたと伝える。現在の天満宮は、1961(昭和3
          6)
年旧社地の隣地に改築移転した

        
         旧社地には古くから小社寺が祀られていたが、1736(元文元)通化寺住職が隠居して再
        建し、1743(寛保3)年大島郡屋代村より総持寺の寺号を譲り受ける。
         1854(嘉永7)年山代の本郷村から麓山(はやま)神社を境内に遷座させ、1868(明治元)
        年通化寺23代住職が同寺に隠居して寺小屋を開き、学問の神と崇拝される菅原道真の坐
        像を、通化寺から移して麓山神社の配神として祀ったのが始まりとされる。

        
         島田川の川岸に通船発着場があった。この事業は庄屋山本喜左衛門の発案により、物資
        輸送用通船が開始され、ひらた船5隻が島田川浅江に通じ、穀類、塩、綿などを輸送した
        とされる。


        
         天神橋を渡ると杉敏介(1872-1960)歌碑。現在の周東町差川に生まれ、第一高等学校校
        長を勤めた教育者であり歌人でもあった。夏目漱石の「吾輩は猫である」の津木ピン助の
        モデルでもある。

        
         島田川から支流の中山川に沿い、県道柳井周東線を南下する。(気候もいいので歩くこと
        にする)

        
         通化寺(つうけいじ)入口より寺まで約900m。通化寺入口バス停から複合施設経由で駅
        に戻る生活バスがあるが、木、土、日曜日は運休である。

        
         寺伝によれば往古には大梅(だいばい)院と号し、平安期の807年に弘法大師が唐より帰
        朝の折、この地に24坊を建立する。後に高野山を開いたので、この地は古高野と呼ばれ
        たという。

        
         寛永年間まで真言宗であったが、数度の火災に遭い、その後、曹洞宗となる。のちに黄
        檗慧極(おうばくえごく)招き黄檗宗に改め、1693(元禄6)年に萩の東光寺末寺なり、寺号
        も通化寺にしたという。

        
         高杉晋作が遊撃隊を訪問してこの詩を即興で吟じる。
             「賊を滅ぼし、正を興すは 我が功
績に非ず 
              幸いにも先達を見習って行動したことで、成し遂げただけである
              豊臣秀吉公も偉大な事業を成し遂げたが、何も不思議な事はない
              昔も今も成し遂げようとする人の心は同じである 
              遊撃軍の諸君を訪うて即吟す」 東洋一狂生東行

        
         境内の南側には、毛利元就のときに尼子氏との戦いで軍功があった天野隆重と元嘉の墓
        がある。 
         関ヶ原後は吉川家の組下となり、椙杜郷久田に給領して屋敷を構える。右から天野元嘉
        夫人墓、中央が元嘉の墓、奥が天野隆重夫妻の宝篋印塔である。

        
         1865(慶応元)年から1869(明治2)年まで遊撃隊の本営となった。第二次幕長戦争の
        芸州口の戦いで活躍したことを顕彰した記念碑である。

        
         庭園は雪舟作とされる。

        
         記念碑の奥に遊撃隊の戦死者を招魂する碑がある。

        
         通化寺より約3.4㎞。(駅通り)

        
         青瓦の屋根正面にファサードを設け、その中に駅名看板が設置してあるJR周防高森駅。


岩国市玖珂町の玖珂 <旧山陽道の宿場町>

2020年05月12日 | 山口県岩国市

                      
         この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分1地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複 第546号)
         島田川の支流笹見川が形成した扇状地上に広がった町で、町内を旧山陽道、国道、岩徳
        線が東西に走っている。古くから山陽道の宿駅・市場町として発達する。(ルート約4.5
        ㎞)
 

           
         公共交通機関の場合、JR徳山駅(11:13)から岩徳線岩国駅行き約50分、JR玖珂駅
        下車。当駅は1934(昭和9)年12月に開業したが、駅舎は当時のままのようだ。
        車の場合、観光用駐車場がないため、玖珂こどもの館駐車場を利用する以外に手立てが
        ない。 

           
         駅前から左手の道を進むと岩徳線架道橋下に出る。(右手の道は旧山陽道) 

           
         岩隈八幡宮参道の門柱と常夜燈。旧山陽道からの参道をJR岩徳線が寸断してしまった
        ようだ。

           
         参道は国道2号によっても寸断されている。

           
         往古は熊毛宮と呼ばれていたが、奈良期の714年、宇佐神宮より勧請し岩熊八幡宮と
        改称し、さらに現在の岩隈八幡宮に改めたとされる。
         もとは下祖生の岩隈山(旧周東町祖生)にあったが、1691(元禄4)年に岩国領主の吉
        川広紀が当宮を参詣し、社の荒廃を見て現在地へ遷座させる。


           
         架道橋まで戻って旧山陽道を南下すると、右手に枝道がある。(歩いて来た道)

          
         1855(安政2)年に田坂市良右衛門は代官の悪政を改めるように進言して幽閉された
        が、屈せず、村民は岩国領家老・吉田菜女に訴えて4年2ヶ月の刑が解かれた。無罪とな
        って積年の弊害も取り除かれたとされるが、1869(明治2)年40歳で死去する。(自然
        石に義民田坂市良右衛門頌徳碑とある)

           
         右折する角が市頭で、左手は周防大島への道。

           
         この地より本郷(本町)に入る。本郷は玖珂三市(本郷、新町、阿山)の1つで月2回市が
        開かれていた。

           
         中央に玖珂町時代の町章、周りに町の花だったツツジがデザインされたマンホール。

           
         市頭から西へ50mほどの所に蓮光寺があるが、毛利の家臣・千代延喜代輔の開基で1
        661(寛文元)年創建とされる。

           
         蓮光寺すぐ西北に祥雲寺(曹洞宗)がある。もとは玖珂町谷津にあったが室町後期の15
        55年、毛利元就に攻められた鞍掛合戦で焼失する。後に野口の地に再興されたが、17
        01(元禄14)年に現在地に移転された。昭和期に鐘楼門、本堂が老朽化し解体され、薬
        師堂が建立される。

           
         境内には江戸期の1717年、1743年、1750年と連続して大火に遭ったことか
        ら、防火の神である静岡県の秋葉神社から分霊を勧請して祀ったとされる。

           
         同寺は鞍掛城主・杉家の菩提寺であったので、鞍掛合戦で戦死した杉隆泰・父宗珊(そう
          さん)
の墓がある。

           
         JR玖珂駅前交差点。狭い旧街道は車が行き交う。

           
         本町下辺りに明覚寺(浄土真宗)があり、その一角に市恵比寿がある。

           
         脇本陣を務めた建林家とされる。

           
         岩国市玖珂総合支所(旧玖珂町役場)付近には代官所、御茶屋などがあった。

           
         旧町役場前から柳井への道が南へ走っているが、1889(明治22)年に設けられた新
        道である。荷馬車で朝早く出て、柳井の問屋から衣類、食料、荒物などの生活物資を持ち
        帰った。

           
         左折する道は柳井までの新道路ができる前の柳井小路で、小路の西側に玖珂こども館。
        (この先が新町)

           
         大福寺(浄土真宗)は鞍掛城主・杉隆泰の家老であった児玉佐渡守が出家して、亦了(えき
          りょう)
と改め建立したとされる。

           
         境内にある自然石碑の正面には「柳門四世栗陰軒貞六翁之塔九十四歳」右脇に「花にく
        らし日に あかして楽しみや 心のこらずきよい雪の世」とある。側面には嘉永4年(185
        1)辛亥12月15日とあり、門人が建立したもので「柳門」とは狂歌の結社である。

           
         古風な文房具屋さんだったが、売却の案内が出ている。

           
         新町下にある浄土宗の浄光寺で、玖の玉(黒岩の玉)、珂の玉(瑠璃潔白)を磨いたされ、
        町名の由来ともなっている。

           
         新町の西端である水無川の袂にある高村酒場。以前は杉玉があったが取り除かれている。

           
         新町と阿山の境が水無川で、長さ10mほどの橋が渡されていたとのこと。

           
         水無川を渡り阿山市に入ると、T家西側の玄関先に共同井戸がある。

           
         阿山市の市恵比寿は萬久寺入口にある。

           
         萬久寺(浄土真宗)は鞍掛城主・杉家の家老であった宇野筑後守正常の次子・西念が創設
        する。

           
         吉川元光(吉川家一族)の篆額による岩国藩士・江木俊敬の奉公碑。高杉晋作挙兵の際、
        藩命で萩藩の内情や萩藩主の本意と徳山藩の動向を探り、役目を終えて帰途の際に間諜と
        間違えられて重傷を負い、萬久寺で自刃する。死後、書状により徳山藩の動向が明らかに
        なり、岩国藩の態度決定に寄与したという。

           
         宇野泰信上人(萬久寺住職であった人)は、明治期に塾を開いて子弟の教育に尽くした。
        「学んで厭(いと)わず 教えて倦(う)まず ああこの人 これ徳の人なり」の銘あり。

           
         
田中家は江戸期には豪商として、岩国藩の専売品であった玖珂(岩国)ちぢみ、茶等を販
        売、明治期には呉服、金物、油などを販売した。建物には格子戸などがあったようだが改
        修されている。

           
         桝永家は明治期には米穀商を営む。建物は本郷村から1899(明治32)年に移築され
        たもので、江戸末期か明治初期の建物である。

           
         醤油醸造元には「ミフヂ醤油」と書かれた古風な看板が歴史を感じさせる。

           
         改修された呉服屋さん。

           
         菅原神社は本郷の大庄屋で杉氏の末裔である岡氏が、防府天満宮より勧請し邸内に祀っ
        ていたが、その後、岩隈八幡宮の境内を経て、1880(明治13)年11月に現在地へ遷
        座する。

           
         菅原神社を過ごすと、街道を隔てて北側(進行方向右手)が旧玖珂町千束、南側が旧周東
        町千束と町境となっている。藩政時代は北側が岩国領で南側が萩藩領であったことによる。

           
         ここで散策を終えてバスを期待したが乗車できるバスはなく、駅まで歩く羽目になる。

           
         旧山陽道と岩徳線の間の路地裏歩きをしてJR玖珂駅に戻る。(駅通り)


周南市須々万はこの地方の中心地だった町 

2020年05月08日 | 山口県周南市

                
        この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分1地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複 第546号) 
         須々万(すすま)は標高200mほどの高原性の小盆地を中心とする地域で、盆地の中央部
                を北西から南東へ旧国道が走る。地名の由来について、風土注進案はわからないとするが、
        ススマのマは「間、処」であろうが、ススは稲積のことのようで、稲積に似た山があった
        ことから地名になったと考えられるという説がある。(歩行約5.8㎞) 


           
         当初はJR徳山駅(11:20)長穂行き防長バスで約22分、桜久保バス停で下車する予定
        であったが、昨今のコロナ事情により車使用とする。スーパーを過ごすと飛龍八幡宮の参
        道。


           
         ミヤマビャクシンの木が覆う二の鳥居。

           
         飛龍八幡宮は須々万(すすま)八幡宮ともいい、社伝によると、南北朝期の頃に周防三宮の
        仁壁神社(山口市)の神主に、男山(石清水)八幡宮の祭神が須々万の地に降臨したいと信託
        があり、1380(康暦2)年に社殿を建立したのが始まりとされる。


           
         拝殿に龍の山車。

                  
         境内南側に聳える大玉スギについて、須々万の守護神を祀る社地の決定をめぐって、新
        庄と本庄の住人が譲らなかったため、2ヶ所にスギを植え、よく成長し
た方を社殿地にす
        ることとし、大きく成長した新庄の現在地に社殿を建てたと言
い伝えられている。遠くか
        ら見ると枝張りの姿が玉の形に見えることからその名
がある。(案内板より)

          
         須々万南部に須々万バイパス(国道375号)が、2012(平成24)年に開通したため市
        街地の交通量は減少したようだ。


           
         須々万川(小辻川)に架かる橋は、古くは花岡や野上(現・徳山中心地)の南部と都濃北部
        に通ずる交通の分岐点に位置し、社寺参詣や市が開かれるなど人々の生
活と文化の交流の
        橋であったとされる。


           
         小辻橋の袂にある道標は、周防北道の要衝であった当時の繁栄ぶりを示すただ一つの証
        とのこと。道標正面には「西 徳山道」右側面に「南 花岡道」と刻ま
れている。

           
         小辻橋の案内板を読んでいると、高齢女性が「この道が古道で、木炭バスなどが走り賑
        やかな通りだった」と、嫁いで来た頃の話をしてくれる。地域のことが
聞けるのも散策の
        楽しみの1つでもある。


           
         旧国道に合わす所に一体の地蔵尊。

           
         須々万の地は、江戸期には萩藩領で上納米倉庫が置かれた。1875(明治8)
年に番屋を
        修築して煤間(すすま)小学が移転する。


           
         徳山百樹とされるメタセコイア(和名はイチイヒノキ、アケボノスギ)

           
         旧街道は道路経路案内板の手前を左に入る。

           
         青岸渡寺より三十三観音を勧請して十五夜行事を始めたという。月を鑑賞するだけでな
        く収穫を感謝し、月への感謝をする行事(旧暦8月15日)が今日も受け継がれている
光明
        寺。残念ながら山門が閉ざされて境内に入ることができず。


           
         石州瓦と漆喰壁が調和する古民家。

           
         その向かい側に「須々万市 開市の碑」がある。1680(延宝8)年百姓有志の願い出に
        より、1682(天和2)年4の日に三斎市が開設されたが、当時
の家数は60軒程度であっ
        た。祠は龍王大明神を祀る。


           
         須々万市に残る商家。

           
         「何事にも打ち勝つ開運の神」、商売繁昌、家内安全の守り神として崇敬される宮地嶽
        神社が祀られている。


           
         宮地嶽神社参道の向かい側に鎮座する地蔵尊。
 
           
         この先で街道と分かれる。

           
         山裾から見る須々万の町並み。

           
         室町後期の1555(弘治元)年10月1日安芸の厳島の戦いにおいて陶晴賢を破った毛利
        元就は、破竹の勢いで周防の国に入る。
1557(弘治3)年2月29日沼城への総攻撃が開
        始されたが、城は沼で三方を囲ま
れていたため沼に編み竹を投げ入れ、この上に筵を敷い
        て押し渡り、3月3日に
落城する。城主であった山崎伊豆守興盛父子は自刃し、ここ通玄
        庵に埋葬された。墓碑は
後の村人が建立したとされる。
    
        

         徳山市の市章入りマンホール。

           
         保福寺前には「沼城主の菩提寺」とあり、参道には「沼城主山崎一族」と刻まれた燈籠、
        煤間小学開校の地を示す石柱がある。


           
         1873(明治6)年に保禅寺と福聚寺が合併して保福寺となる。保禅寺の創建年代は不明
        で、当初は兼元にあって林慶庵と称していたが、その後、当地に移り
保禅寺と改める。

           
         寺背後の城跡に上がると、クワハウス周南温泉などが建てられて城の遺構は残っていな
        いが、周囲には石仏がずらりと並んでいる。室町期に築かれたとされる
が築城者は定かで
        ないとのこと。


           
         城主墓と城址碑。

           
         寺から徳山高校徳山北分校前を西進すると、山手側に唐破風の向拝を持つ徳善寺がある。

           
           
         徳善寺より南進すると神具岩という巨岩があるが、この岩に龍の形をした光が飛来した
        とされ、この岩に宿る神霊を遷座させて祀ったのが飛龍八幡宮と伝えら
れている。

           
         長閑な中心部への道。

           
         当初は高樋口バス停より徳山駅へ戻る予定であった。


周南市大道理は芝桜の里と戦争遺構 

2020年05月07日 | 山口県周南市

        
                この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分1地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複 第546号)
         大道理(おおどうり)は大高神山南麓および富田川上流域に位置する。1889(明治22)
        までは大向(おおむかい)村と大道理(おおどおり)村が存立していたが、2村が合併し「向」と
                「道」も2文字をもって向道(こうどう)村となる。(ルート約7.4㎞・うち大高神山往復3
        .6㎞)


        
         JR新南陽駅からコアプラザかの行きバス26分、夢求の里交流館前で下車する予定で
        あったが、コロナ感染予防対策のため車使用を余儀なくされる。


        
         大道理市民センター(旧夢求の里交流館)は、旧大道理小学校を改修して地区の交流拠点
        となっている。小学校は2011(平成23)年休校し、児童は須々万の沼城小学校に通学す
        ることになり、2018(平成30)年に廃校となる。


        
         旧小学校傍にある三嶋神社。

        
         三嶋神社は山の神とされ、林業、農産をはじめ殖産の神として崇敬されている。

        
         市民センター前の門前集落に龍豊寺。

        
         龍豊寺(りゅうほうじ)は、室町期に周防の守護代を務めた陶弘護(ひろもり)の室が、150
        1年に夫の菩提を弔うために創建する。陶弘護は、室町期の1482(文明14)年大内政弘
        が諸将の慰労のために山口の館で開いた宴席の席上で、吉見信頼に刺されて死亡する。

            
         旧小学校の裏手道を上がる。

        
         路傍のお地蔵さん。

        
         里道の最上部から見る集落。

        
         丁重に祀られている千手観音。

        
         集落から離れると山道。

        
         大道理では10年前から芝桜まつりが開催されてきたが、今年は自粛ムードもあって中
        止されたようだ。

        
         芝桜を見て県道3号線(新南陽日原線)に出会うと、左手に大高神山の登山口を示す案内
        がある。

        
         登山口から整備された1本道で迷うことはないが、すぐに合格(滑らない)コースと不合
        格(滑る)コースの分岐がある。(この先はやや急坂)

        
         ガスボンベの鐘。

        
         地元の方々が整備されているのか快適な道が続くと、左手に建物が見えてくる。

                
                (大道理をよくする会・大高神山を守る会資料より)

        
         海軍徳山警備隊向道特設見張所の電源部門であった遺構が残されている。手前から油脂
        庫、発電所、貯油地下タンクが並んでいたようだ。

        
         油脂庫は原型をとどめている。

        
         発電機設置跡のようだが、ディーデル発電機1基が据えられていたとのこと。

        
         水槽のような遺構も残されているが使途は不明である。

        
         発電設備の先に貯油地下タンクがあった。

        
         登山道を少し進むと右手に兵舎跡がある。敗戦から75年の歳月が流れ、兵舎跡の基礎
        部分にわずかな痕跡が見られる程度である。一説では戦後に建物は崩されて大道理小学校
        の校舎に使用されたとか。

        
         流し台3基は原型をとどめている。(台の上にコバノギボウシ)

        
         浴室、便所などがあったようだが特定することはできず。

        
         水槽前に弾薬庫の穴があったようだが、見つけ出すことができなかった。建設時には国
        家総動員法によるものか、小学生が資材の煉瓦などを背負って運んだとも云われている。

        
         兵舎跡からは勾配が増し、あと300mの標柱を過ごすと左へカーブする。途中にはク
        サアジサイの群落もあり、ジグザグ道を過ごすと砲台指揮所が見えてくる。

        
         戦局の悪化に伴い、1944(昭和19)年徳山要港への敵機侵入を監視する
目的で設置さ
        れた。

        
        
         内部の部屋は原型をとどめている。

        
         指揮所屋上は望遠鏡監視場所とされ、右の石組みから上がる仕組みになっていた。

        
         山頂の丸い窪みは探照灯跡で、九六式150㎝の探照灯が取り付けてあった。原理は強
        力な直流電流を放電させて、その光を凹面鏡に反射させて照射させる方法だったとのこと。

        
         頂上奥の三角点傍には高射機関砲の床盤が残されている。設置されたのは13mm単装機
        銃で射距離1,500m以下であったため、機銃は低空から照聴などの諸施設を破壊しよう         
        とする機に対処すべき装備と思われる。

        
         山頂より50mほどの北に聴音機跡があるが、窪みであったようだが埋もれて形を残し
        ていない。海軍ヱ式空中聴音機が据え付けられたと思われるが定かでない。

        
         展望所へ向かう途中に海軍用標石がある。側面には「海軍」と刻まれているようだが風
        化が進んで読めない。頂面の線は境界線と思われる。

        
         展望所から要港だった徳山湾が広がる。

        
         眼下の山間に大道理地区。

        
         登山口まで戻って県道を下る。(歩車分離ではないが交通量は少ない)

        
         中村集落入口には芝桜で「OODOURI」

        
         中村集落を過ごすと市民センターのある国道に合わす。

        
         毎年5月の連休中に芝桜まつりが開催されている。「自粛」との貼り紙もあって、遠く
        から眺めてセンター駐車場に戻る。