ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

山陽小野田市の厚狭は旧山陽道筋と寝太郎さんの町 

2018年09月08日 | 山口県山陽小野田市

                     
        この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分の1地形図を複製したものである。(承認番号 平29情複第968号)
 
   
         厚狭は町の東部を厚狭川が南流し、標高の低い山に囲まれた厚狭盆地に市街地、その周
        囲に水田地帯が広がる。東西を旧山陽道が通り、南流する厚狭川と交差する左岸に厚狭市
        が形成される。船木、吉田宿の半宿であったが、海辺への利便性がよく商業が発達する。
        (歩行約8㎞)

           
         JR厚狭駅は、1900(明治33)年に山陽鉄道が三田尻駅から延伸し、その終着駅とし
        て開業する。1959(昭和34)年に鉄筋コンクリート造で改築された駅舎は健在である。

           
         厚狭の寝太郎伝説は、1842(天保13)年の「防長風土注進案」に物語の原型とされる
        記述がある。この物語は灌漑工事という事実と、それを行った寝太郎という人物が民話と
        して結びついたと考えられている。
         民話によると、寝太郎の父が庄屋であることや三年と三ヶ月寝て暮らしたこと。佐渡金
        山の草鞋から資金を調達し、厚狭川を堰き止め、大井出(土手)や水路を作り、千町ヶ原の
        沼地を水田にした話などが加えられて、現在の寝太郎物語が形成されていったとされる。
         一説には大内氏の家臣だった縄田四郎兵衛(平賀)清恒がモデルともいわれている。

           
         閑散とした千町商店街。

           
         美祢線踏切を越えた四差路の角に福永薬局。看板は武田薬品前身の武田長兵衛商店時代
        のもので、全国的にも珍しいとか。

           
         明治36(1903)年創業の民正堂は、厚狭銘菓のダイナマイト羊羹を製造・販売されてい
        た。ダイナマイトの形をした羊羹とのことだが、厚狭にある日本化薬の工場でダイナマイ
        トを製造していたということに由縁するそうだ。

           
         杉井金物店は店舗兼住宅といった造りである。

           
         厚狭毛利家の助言により、1625(寛永2)年に当地の枝村家が同家の鎮守神として、萩
        の金谷天満宮の分霊を勧請したことに始まるという。天明年間(1781-1789)の頃、鴨ノ庄村
        や末益村の開拓地が水害にあい、土手を築いて侵入を防止したが役に立たなかった。18
        30(文政13)年に天満宮をこの堤防に遷祀して堤防の守護神としたとされる。 

           
         街灯があってレトロな感じの鴨橋だったが、新しい橋に架け替えられ、明治4年(1871)
                8月と刻まれた橋の親柱が残されている。橋を渡れば旧山陽道筋の厚狭市(本町商店街)で
        ある。

           
         健康茶「どくだし茶」の看板がある村谷茶店。
  
           
         清酒「山猿」の銘柄のほか、焼酎、ワインを手がけられている永山酒造。

           
         本町は江戸期から明治にかけて、厚狭川を渡った千町は明治から昭和初期に建てられた
        家屋が多いとされる。

           
         レトロな雰囲気を残す佛工所。

           
         現在は日本棋院山陽支部となっているが、それ以前は何に使われていたかは不明である。

           
         フクマン醤油の商標で、みそ・しょうゆを製造販売されていた福田屋本店。その手前は
        旅館「山城屋」だったとか。

           
           
         村田家の軒丸瓦と妻壁には丸に十字の家紋。

           
         左手の重厚な家は元造り酒屋で、雛めぐり期間中は公開されるとか。

           
         形状の違う鳥居が2つ並んでいるが、手前が護国神社の神明鳥居。奥側は鴨神社の一の
        鳥居で、その間を旧山陽道が通っている。

           
         鴨神社参道を旧国道2号線が横断する。

            
         風土注進案によると、大内氏の祖と伝える琳聖太子の母が来朝の折、厚狭の久津(現沓)
        に宮居した所と伝える。

           
         神社名は村内に賀茂御祖神社(現在の下鴨神社)の社領が、厚狭庄にあったことに由来す
        ると伝えられる。

           
         物見山の厚狭護国神社は、1866(慶応2)年12月に厚狭毛利家が開いた招魂場である。

           
         社殿左右に霊標が並んでいるが、その中に小倉戦争戦死者7名の家臣と、脱退騒動鎮圧
        の戦死者・桑原玄播の霊標がある。

           
         村谷茶店前まで戻って左折すると殿町筋。

           
         浄土宗・貞源寺の山門。

           
         向拝口は厚狭毛利家の玄関を移築したものとされる。厚狭毛利家の側室(3代元宣)の墓
        があるが、どうやら側室は自分の出所に縁のある寺に葬られたようである。

           
         毛利元就の五男である元秋を祖とし、後に八男の元康が元秋の後を継ぎ、関が原の合戦
        後、厚狭郡に1万5百石を拝領したのが厚狭毛利家の始まりである。
         その後、元秋の子・元宣が家督を相続し、厚狭郡末益村(現在の山陽小野田市大字郡)に
        居館を構えたことで「厚狭毛利」と呼ばれるようになる。現在は、殿町四自治会内に井戸
        と石垣の一部がわずかに残されているのみである。

           
         屋敷内に祀られていた神社。

           
         総社八幡宮の一の鳥居は、厚狭毛利家5代就久が奉納したという。

           
         厚狭毛利家との関わりが深い神社である。

           
           
         1582(天正10)年に毛利元康によって建立された妙徳寺は、厚狭毛利家の菩提所でも
        ある。

           
         洞玄(とうげん)寺は、毛利元宜が父元康(洞玄寺殿)の菩提を弔うため一宇を建立し、洞玄
        寺と寺号を改め曹洞宗の寺院として再建した。

           
         厚狭毛利の菩提寺として庇護を受けてきたが、1869(明治2)年の長州藩脱退騒動で、         
        時の住職・実音が反乱軍に加担脱走したことにより形式上は廃寺となる。正福寺(大津郡よ
        り引寺)と名前を変えさせられたが、1969(昭和44)年、洞玄寺に復した。

           
         千林尼(せんりんに)は宇部市西岐波に生まれ、16歳で結婚するがすぐに離婚して、20
        歳前後で仏門に入る。船木の逢坂観音堂の堂主となり、1869(明治2)年に玉泉庵(厚狭
        の吉部田)で60歳で生涯を終えた。悪路を石畳にするなど社会活動に貢献したため、女性
        ボランティア活動の先駆者ともいわれている。
         寺資料によると玉泉庵は洞玄寺末庵であり、2003(平成15)年に千林尼の墓石等を当
        境内に移したという。

                
         厚狭毛利家では、1774(安永3)年に6代元連の死により、世子がいなかったため娘の
        千代菊に徳山毛利家より養子を迎えた。
         しかし、夫は26歳の若さで逝去、一男二女の愛児にも先立たれる。1780(安政9)
        亡き父の7回忌にあたり「法華経一宇一石塔」を造立して追善供養を営んだとされる

           
           
         苔むした石段を上がって行くと、厚狭毛利家の2代(元康)から太平洋戦争で戦死した1
        4代(一彦)までの墓所で、42基の五輪塔と笠塔などがある。

           
         樹林に囲まれた寝太郎荒神社は、厚狭駅新幹線口近くの住宅街の一角にある。

           
         沼地だった千町ヶ原を美田に変えたとされる寝太郎に感謝し、1750(寛延3)年に石祠
        が建立される。 

         JR厚狭駅新幹線口から在来線の利用も可能である。