ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

山陽小野田市の有帆は石炭の積出などで栄えた地 

2021年04月26日 | 山口県山陽小野田市

                
                 この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
         有帆(ありほ)は菩提寺山系の西部、有帆川流域に位置する。同川は地内のほぼ中央を南流
        し、近世、高泊開作が造成されるまでは岩崎寺付近に河口があった。
         地名の由来については、一連の神功皇后伝説があり、神功皇后一行は船木で軍船を造り、
        有帆で帆を上げ、梶浦で梶を造ったという。(歩行約8.5km)

        
         JR小野田駅(12:17)から船鉄バス船木行き7分、有帆小前バス停で下車する。

        
         有帆川左岸。

        
         高泊開作の灌漑用水のために、有帆川に石堰を造り、取水口に樋箱(火箱)を設けて開作
        の用水路に流した。この取付口付近を石井手、対岸を火箱と称するようになった。
         1765(明和2)年火箱に有帆炭の積み荷場が設けられ、三田尻塩田などへ出荷された。
        この付近に石炭問屋も形成され、市も立つようになった。高千帆橋の袂に恵比須明神が祀
        られているが、石炭問屋が奉納したであろう15軒の問屋名が刻まれている。

        
         有帆川の右岸を北上すると石碑が立っているが、風化して刻字を読むことができない。

        
         県道小野田美東線を横断すると、川土手に庚申塚と石祠。

        
         岩崎寺(がんきじ)は門前を有帆川が流れ、背後に岩崎山を臨む閑静な所にある曹洞宗の禅
        寺である。

        
         岩崎寺の寺伝によると、坂上田村麿が東夷征伐の戦勝報賽として、一国一佛を奉納した
        時の御仏で、弘法大師作とされる千手観音菩薩を本尊としている。平安期の806(大同元)
        年創建の古刹である。 

        
         正面に山陽自動車道を見ながら有帆川を離れる。

        
         集落の境にある庚申塚。

        
         岩崎寺の北方500mに、石垣の高さ1mと正面の長さ37mの石組遺構がある。室町
        期特有の石組みで近郊を領地とした中世豪族の屋敷跡と考えられている。
         岩崎寺観音堂に掲げる明徳3年(1392)の鰐口銘に、「道乾(どうかん)」という字
が見え、
        俗称が記されていない人物の屋敷跡だと云われ、「どうかん屋敷跡」として市の指定遺跡
        
になっている。

        
         仁保の上集落への道。

        
         集落内に入ると古墳が案内されている。(左に50m)

        
        
         仁保の上古墳は横穴式石室墳で覆っていた土は、流失して玄室のみで、ほぼ完全な形で
        遺存されている。玄室の中には大師像が祀られ、地域の人々の信仰の対象となっている。

        
         古墳の上方に山の斜面をくり抜いて造られた横穴墓(おうけつぼ)があり、6世紀末のもの
        とされる。横穴墓は墓道、羨道、玄室で構成され、南に開口しているが、石室を持たない
        横穴である。

        
         有帆川の中国橋を渡ると大休団地。

        
         覚天寺の上り口に「三界萬霊 安政四年(1857)巳三月吉日」とあり。

        
         瑞松庵4世守邦和尚が隠居所として、室町期の1428(正長元)年に創建して大休庵と名
        付けた。その後、宍戸家の菩提所としたが、1873(明治6)年豊北町田耕の覚天寺を引寺
        して現在に至る。

        
         1820(文政3)年有帆の給領主であった宍戸房寛が、初代宍戸就俊の150回忌追善の
        ために宝篋印塔を境内に建てた。

        
         本堂の裏山に十三仏の石像が建立されている。十三仏とは死者のために仏事などを執り
        行う初7日から33回忌までの13回の追善供養に、本尊として拝まれる13体の仏のこ
        とで、室町期に始まったとされる。 

        
         船木への道を横断して別府八幡宮へ向かう。

        
         民家入口にも三界萬霊塔。

        
         もと船木鉄道の線路地だった道から東の奥に入ると、丘に別府八幡宮が鎮座している。

        
         創建については2説あるようで、奈良期の724(神亀元)年宇佐八幡宮から勧請したとす
        る説と、
770(宝亀元)年に和気清麻呂が九州から帰京の途中に勧請し、村人が同年社殿を
        建立したとするが、社伝は和気清麻呂の説を伝えている。 

        
         1982(昭和57)年神殿の修理の他は新築されたが、この年から新社殿にふさわしい注
        連縄が掲げられた。直径1m、長さ9m、重さ400㎏のビッグサイズである。

        
         厄除け祈願として「厄割り玉」が設けてある。玉に息を3度吹きかけて心身の罪・穢・
        厄を移し、これを割ることにより厄を砕くという。割り方は投げるか、叩くか、落とすか
        という方法のようだ。

        
         別府八幡宮社務所は百済文輔の旧宅である。神職である百済忠敬の息子として1883
        (明治16)年に生まれ、官選知事として群馬県知事などを歴任する。

        
         有帆一里塚には地蔵尊と庚申塚が並んでいるが、もとは少し西にあり、船木から刈屋に
        至る「かりや道」にあった。

        
         北向き地蔵尊は引込集落出口にあったが、山陽自動車道の建設に伴い、今の位置に移設
        された。道祖神も同じ堂の中に祀られている。

        
         山陽自動車道の函渠で南側に移動する。

        
         祇園神社も山陽自動車道の建設に伴い移転を余儀なくされ、1997(平成9)年この地に
        移転した。梅田祇園神社は、その昔、地域一帯に疫病が流行した時に創建されたもので、
        鳥居の額束は疫神社とされている。

        
         雨乞碑には「雨乞成就記念碑 大正11年(1922)9月4日、梅田区中」とある。
         その年は7月7日の小雨以降、まったく雨が降らない日が続き、8月も降る気配がない
        ので9月4日、地下(じげ)の人たちが総出で雨乞いの祈祷を始めた。その心が通じたのか5
        日の夜から7日にかけて雨をもたらした。感謝の気持ちを忘れることのないようにと建立
        された。

        
         杵築山王社の社伝によると、この地は入江であって、埋め立てて田地を造成しようとし
        たが、開作工事は難事業のため挫折した。
         平安期の1004(寛弘元)年出雲国杵築神社の三神を勧請すると、加護により事業は成就
        したとされる。

        
         別府八幡宮末社で境内には芭蕉の句もあり、桜の名所にもなっている。 

        
         コンビニ前の土取バス停からJR宇部駅に戻る。
     


周防大島町の笠佐島は般若姫伝説のある地 

2021年04月22日 | 山口県周防大島町

        
                 この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
         笠佐島は小松港の西約2kmの海上にあり、地形は比較的穏やかである。柳井市新庄にあ
        った塩田で使用される薪の供給地であり、その後、石炭へと変遷すると島内の開墾が始ま
        ったとされる。
         島の由来は、昔、大畠の瀬戸に身を投げた般若姫に、笠を捧げたことから「笠捧げ島」
        と呼ばれるようになり、現在の「笠佐島」になったと伝わる。(歩行約1.3km)

        
         本土側連絡船乗り場は町立大島病院傍の小松港だが、運賃は往復220円である。

        
         行政連絡船「かささ」は定員12名で、気さくな船長夫婦の運行で約7分の船旅だが、
        流れ行く風景を楽しむことができる。 

        
         潮風をうけながら景色を楽しむと笠佐島港へ到着。水曜日のみ10時発があるが、船長
        によると給食を運んでいた時代があって、それが今日まで引き継がれていると説明あり。

        
         2020(令和2)年4月時点で10人が生活している島である。(現在は9人とか?)

        
         笠佐島の港と家並み。

        
        
         港に到着すると島を案内してくれるワンちゃんに出会う。

        
         東海岸より柳井の琴石山と大畠瀬戸。

        
         対岸に周防大島。

        
         右手にS邸を見ながらワンちゃんの先導で山手に向かう。

        
         港から山手に向かう途中に喚鐘があり、「天保壬寅七月(1842)‥道場‥」の刻字が見え
        るが、寺の鐘ではないようだが時鐘だったのだろうか。

        
         製塩燃料として石炭が用いられるようになると、小松志佐村の中村という武士が農民た
        ちをこの島に住まわせて開墾させたという。 宝暦年間(1751-1764)に限られた土地利用に
        ついて工夫がなされ、35坪以上は増さぬようにし、分家は島外に出したとのこと。

        
         小規模な田畑と漁業で生活が営まれてきたようだが、今は担い手不足で水田は無くなり、
        港にわずかな漁船と、年寄りが耕やす自給の畑が人の気配を感じさせる。 

        
        
         島にはお寺がないが、島民にとっては大事な笠佐八幡宮。神社のご神体は阿弥陀如来だ
        そうで、伝説によると、阿弥陀如来を子供たちが持ち出して、小川で水や砂をかけて遊ん
        だという。集落の爺が「ばちがあたるぞ」と取り上げて神殿におさめた。
         ところがその夜、爺の枕元に「楽しく子供たちと遊んでいたのに、いらぬおせわをして
        くれた」とおっしゃった。そのためか金箔もはげて、白木の肌をあらわしているという。

        
         何人を案内したのか場所をよく知っている。

        
         神社から民家までは草が被さるが、島にはマムシがいないとのことで安心して歩ける。

        
         道は水路に沿っているようだが、廃道になっているので屋敷地内を通行させていただく。
        (ほとんどが空家)
 

        
         家に表札はあるものの無住である。

        
         堤防跡のような痕跡が残る。

        
         海水はきれいで砂浜もあって海水浴ができそうだ。

        
         島内はすべて軽トラで車検とは無縁のようだ。

        
         島を周回できる道には、竹やぶや畑、途中にはビーチもあってのんびり散歩ができるそ
        うだが、1~1.5時間必要とのことで今回は残念する。

        
               少し上がれば大島大橋を一望できる。

        
         1933(昭和8)年まで笠佐島分教場があったが、人に会えず跡地の確認はできず。(山
        は屋代島の飯の山)

         
        
         島には商店も自販機もないが、2010(平成22)年3月にオープンした漁家民宿「かさ
        さ」がある。

        
         2時間という短い滞在時間だったが、ワンちゃんが同行してくれて楽しい島旅であった。
        (ワンちゃんは民宿の家族だそうだ)

        
         笠佐島の面積は0.83㎢で、標高115mの高尾山があり、東側海岸に砂浜があるが、
        南側は険しい地形をなしている。

        
         島民の方は屋代島に車を置かれているようで、ここから小松あるいは本土へ出かけられ
        ている。郵便局員は大変で12時の便で島に渡って大急ぎで配達を済ませ、12時10分
        の便で戻ってくるというあわただしさである。


周防大島の横見・日見は沖浦往還道と大仏さん

2021年04月21日 | 山口県周防大島町

        
                 この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
         横見は屋代島の南西部に位置する。北は頂海山と馬の背の分水嶺で区切られ、南は海に
        面している。
         日見(ひみ)
は北東に頂海山があり、北及び東はその支脈で区切られている。(歩行約6km)

        
         小松港バス停から防長バス橘病院行き約23分、横見バス停で下車する。

        
         バス停前から見る横見の海岸線。

        
         これといった史跡はないが、周防大島町の他地域と同様に海側と山手に集落を形成して
        いる。(右手の建物は沖浦小学校)

        
         浜と郷とされる間に耕作地。

        
         地内には海岸部から山に向かって数本の車道がのびている。

        
         みかん畑と室津半島にそびえる皇座山、海の浮かぶのが彦島。 

        
         ほとんどの家屋は更新されている。

        
         小松から地家室間に沖浦往還道が設けられ、この地に一里塚があったとある。

        
         神社名の記載がないので詳細不明だが、横見神社だとすれば、1870(明治3)年新宮大
        明神を改称したとされる。

        
         旧道分岐から日見バス停までは約950m。

        
         県道沿いに日見大仏の入口を示す案内がある。

        
        
         日見も横見と同じ地形をなしており、浜側と郷側に分かれ、中心部に耕作地がある。こ
        ちらは圃場整備されて農地として活用されている。 

        
        
         山手側には瓦を漆喰で塗り固めた家が点々と見られる。

        
         西長寺への道筋に五穀豊穣の神・大歳神社がある。由緒書きがないので創建年などはわ
        からないが、1955(昭和30)年に社殿が再建されている。
   
        
         御神木のムクノキには注連縄が7周半巻かれているが、祝詞の7折半に由来するとのこ
        と。

        
         大歳神社から坂を上がって行くと、真言宗御室派の西長(さいちょう)寺。

        
         もと西向寺と称していたが、1870(明治3)年村内にあった長楽寺と合併し、各1字を
        とって現寺号を称するようになった。

        
         松雲橋を渡ると周防大島八十八ヶ所第19番札所の本尊は延命地蔵菩薩。

        
         境内の護摩堂にある阿弥陀如来座像(2.84m)は、「日見の大仏」と知られ、平安末期
        の作と推定されている。風土注進案によれば、昔海中に夜々光を放ち、ある時、漁人の夢
        に「吾ヲ引上ヨ」との告があって、この本尊を引き上げたという。平安前の807(大同2)
        年に伽藍を建立したのに始まるという。ご開帳は土・日・祝のみで平日はガラス越しでの
        拝観となる。 

        
         境内から見る日見の家並み。

        
         山裾に並ぶ家々。

        
         小松への道。

        
         日見の漁港と海岸線。

        
         県道と海の間に集落道がある。

        
         集落の中央を粕田川が流れる。

        
         狭い路地の家々は空家が多い。

        
         県道に戻ると日見バス停からJR大畠駅に戻ることができる。


岩国市美川町四馬神は難読地名だが美川の中心地

2021年04月16日 | 山口県岩国市

        
                 この地図は、
国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
         四馬神(しめがみ)は錦川が中央を南流する細長い地域で、集落は川の左岸に集中する。岩
        国市美川支所などがあって美川町の中心地である。 (歩行約2.5km) 

        
         河山(かわやま)駅は、1960(昭和35)年岩日線の終着駅として開業したが、その後、錦
        町駅まで延伸されて途中駅となる。1987(昭和62)年の国鉄民営化により錦川鉄道(第三
        セクター)に移管される。

        
         島式ホーム1面2線を有して上下列車交換可能駅であったが、駅舎側に面する線路が撤
        去されて交換機能が廃された。構内には
転轍器挺子などの交換可能な設備などが残されて
        いる。 

        
         駅構内の敷地が広いのは、かって日本鉱業河山鉱業所(旧美川町添谷)から産出された硫
        化鉄鉱石を搬出するための貨物ヤードが設けられていた。1971(昭和46)年に鉱山は廃
        止され、ヤードと線路は撤去されたが敷地などは当時のままである。

        
         駅舎前には商店もあったようだが閑散としている。

        
         旧河山小学校は、2002(平成14)年桑根小学校と統合し、美川小学校(旧桑根小学校校
        舎)が開校する。

        
         県道徳山本郷線を錦川上流方向へ進む。

        
         錦川に架かる錦雲橋で国道に合流する。

        
        
         川筋にへばりつくように建物が並ぶ。

        
         旅館丸屋があったが廃業された。

        
        
         1889(明治22)年町村制が施行され、四馬神・添谷・小川・波野村をもって河波村が
        発足したが、その後、波野が本郷村に編入されたため河山村となる。1955(昭和30)
        に美川村が発足するまで村役場があり、旧美川町役場へと引き継がれる。当地は神社地で
        あったため、岩国市との合併後、地内に出張所を新築移転する。
        
        
        
         河山河内神社は都濃郡の二俣神社の神霊が、洪水によって当地に流れ着き、この神霊串
        を崇敬して河内神社を設立したと伝える。

        
         神社先の通り。

        
         看板建築が往時の繁栄を物語る。

        
         旧美川町の町花であるカワツツジがデザインされた仕切弁蓋。

        
         左からアユ、カワツツジ、巨大水車のでかまるくん、下にカジカガエルが描かれた消火
        栓蓋。

        
         地名の由来となった四馬神岩。かっては川上村と呼ばれていたが、平安期の1182(養
          和2
)年の秋に洪水があり、神霊串が流れてきて、石上にひかかっていた。里人が取り上げ
        て注連をかけた。つまり、「注連(しめ)」が「四馬」に変化して、「神」の関係から四馬神
        となり、その石を四馬神石と呼び、村名も四馬神となった。

        
         河村商店横に四馬神石。

        
         1903(明治36)年から1987(昭和62)年まで旧河山小学校があった地は、現在は岩
        国市美川支所等になっている。

        
         GS付近で集落は途切れる。

        
         錦川沿いから家並みを見て柳瀬集落に移動する。

        
          河山駅から錦川上流3.4kmのところに錦川鉄道・柳瀬駅がある。この地も美川町四馬
         神であり、錦川に並行して単式ホーム1面1線と待合所がある。

        
        
         柳瀬集落は平地がなく、傾斜地に張り付くように民家が建っている。


岩国市錦町深川は宇佐川沿いの山間集落

2021年04月16日 | 山口県岩国市

        
                 この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
         深川は西の大将陣山・城将山を結ぶ山峰と、東に続く山峰の間に挟まれた山間の地。地
        内を南北に貫流する宇佐川河域の河岸段丘に集落が立地する。
         地名の由来は、東西に山高く、谷深き土地柄のためとあり。(歩行約2.5km)

        
         深須郵便局付近の駐車地から川下に向いて歩くと、国道を旧岩日線の高架が横断する。

        
         集落へは国道下を潜る。

        
         橋下の先に円乗寺(真宗)の本堂と庫裏。寺伝によると芸州安村にあった法正寺の弟子・
        教誓が天正年中(1573-1592)に小庵を建てたのに始まるという。寛永年間(1624-1644)に寺
        号を申請して現寺号を称する。

        
         もっとも水辺に近い鐘楼とか。

        
         宇佐川は山口県の最高峰・寂地山を源に発し、険しい谷間を流れる急流河川である。豊
        かな水量と大きな砂礫や岩が露出し、様々な河川景観を形成している。
 
        
         寺の先に神代増作先生顕徳碑が建立されているが、1862(文久2)年佐波郡高瀬村(現
        周南市高瀬)の村田家に生まれ、後に深須村の神代家に養嗣子となる。学校教育に多大な功
        績をされたとある。

        
         1889(明治22)年町村制の施行により須川村と深川村の区域をもって深須村が発足。
        1955(昭和30)年まで現市役所の出張所がある地に村役場が置かれた。

        
         明智庵文殊堂。

        
         県道秋掛錦線の鶯笛隧道の手前右手に愛宕社への参道。

        
         深川の家並み。

        
         頂には火伏せ・防火の神である愛宕社と、水神・雷神の三輪社が祀られている。

        
         小山橋まで戻って集落内を過ごして国道を横断する。

        
        
         下向吊橋。

        
         錦川鉄道錦町駅から雙津峡(そうづきょう)温泉までの約6km間を、旧岩日線の予定地だっ
        た跡地を利用して、観光用トロッコ遊覧車が運行されている。片道40~50分、土・日
        ・祝日及び春・夏休みのみとされている。

        
         錦パレスは1980(昭和55)年国の施設である労働福祉事業団山口保養所・錦グリーン
        パレスとして開設されたが、当時の錦町が第三セクター方式で経営に参加する。建物は鳥
        が羽を広げて飛び立つイメージで設計されたとのこと。

        
         集落を見ながら駐車地に戻る。


岩国市錦町の須川は宇佐川いの山間集落

2021年04月16日 | 山口県岩国市

        
                  この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
         須川は羅漢山より南にのびる山稜と大将陣山系などに東西を挟まれ、地内を南北に宇佐
        川が蛇行してつくる河岸段丘と山麓の緩傾斜地に集落が立地する。
         地名の由来は、讃井兼道が山林を切り開いて当地に居住、鎮守として河内国須川より河
        内神社を勧請したためとある。風土注進案では宇佐川が石瀬・洲・渚が多いので洲川と称
        したためとある。(歩行約2.3km)

        
         錦川鉄道の錦町駅から岩国市生活交通バスが運行されているが、錦川鉄道と生活バスの
        併用は日帰りを考えると厳しいので車に頼らざるを得ない。駐車地は大将陣茶屋バス停前
        に広い駐車地がある。

        
         宇佐川沿いの道。

        
         大将陣橋の袂にある石造物は、石仏のようだが風化して判別できない。

        
         石造物と対峙して狸が手挽き石臼の上に陣取る。

        
         橋を渡ると石垣が積み上げられた中に民家が建つ。

        
         高台から見る須川の家並み。

        
         向かい側の高台にも民家。

        
         傾斜地の最上部に穀物の神・大歳社。

        
         傾斜地にある佐古谷川。

        
         深須小学校は、1978(昭和53)年深川小学校と須川小学校が統合して創立されたが、
        2002(平成14)年休校となる。

        
         1889(明治22)年町村制施行により、須川村と深川村が合併して各1字をもって深須
        村となる。これといった史跡もなく、通る車のほとんどが素通りする。

        
         空家が目立つ。

        
         安村とうふ店の裏筋。

        
         宇佐川右岸にある傾斜地の家々。

        
         誰とも会うことなく集落内を過ごす。

        
         国道に並ぶ集落は約400m範囲にある。

        
         大将陣茶屋バス停の山手側に大元神社。鳥居の額束は松尾社とされ、境内社として弥山
        神社が祀られている。


下松市笠戸島の深浦は島南端にある集落 

2021年04月10日 | 山口県下松市

                        
                      この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
         瀬戸内海西方、笠戸湾南方に位置する笠戸島。地名の由来は、厳島明神が当地に笠を捨
        て置いたという伝説にちなむという。古来、海運上の要地であり、地内に笠戸本浦、尾郷、
        江ノ浦、深浦があり、深浦は県道笠戸島線の終点にある集落である。(歩行約2.1kmだが
        高壺山までの距離は除く)
 

        
         JR下松駅(10:00)から防長バス深浦行き35分、終点の深浦バス停で下車する。

        
         防波堤には多くの太公望たち。

        
         バス路線を戻ると左手に深浦八幡宮。

        
         参道を上がって行くと海岸部に家並み、山手側は耕作地のようである。

        
         由緒によると、平安期の857(天安元)年宇佐八幡宮より勧請されたとあるが、それ以後
        は文字が擦れて
判読できない。

        
         龍と富士山と思える山が描かれた鏝絵。

        
        
         道路を挟んで八幡宮の向い側に稲荷神社。

        
         集落道に入ると左手に笠戸八十八ヶ所第43番札所。八十八ヶ所は1925(大正14)年
        勧請されたそうだ。

        
        
         平入りの民家。

        
         四差路を左折すると、正面に深浦公民館(旧深浦小学校跡地)

        
         深浦小学校は、2014(平成26)年に廃校となり、地区住民の交流の場となっている。

        
         子持ち地蔵と観音像。

        
         周慶寺の阿弥陀堂。周慶寺は下松市西豊井にある浄土宗の寺である。

        
         山手側に棚田が設けられていたようだが、担い手不足によるものか耕作放棄が進行して
        いる

        
         集落道に戻って西進すると空家が目立つ

        
        
         急に道幅が広くなるが、この付近も空家が続く。

        
         地元の方が高壺山周辺に旧軍の軍事施設が残されていると、地図で案内をしていただく。
        バスの乗車時間が
気になったが、この地より大浦道を上がることにする

        
         大浦道は小屋の所で左手に上がる道が分かりづらいが、あとはスカイ4号道を進めば高
        壺山である。

        
         貯水槽と思われるが戦争遺跡に関する知識がないのでよくわからない。

        
         開戦直後に防空を目的に探照灯と聴音機を備えた深浦見張所が設置され、戦争末期には
        は防空砲台も設置されたという。(兵舎跡?)

        
         換気口だろうか桝が5つぐらい現存する。

        
         高角砲台への塹壕。

        
         反対側からの塹壕。

        
        
         赤煉瓦造にモルタルで上塗りされているが、関連施設の指揮所と思われる。

        
         深浦から唯一の展望地。(火振岬)

        
         大浦道は水害で一部寸断されていたが、総じて歩きやすい道であった。

        
         西端から見る深浦漁港。

        
         県道は地元の方の駐車場のようだ。

        
         長く住民の生活に欠かせなかった井戸水も、1970(昭和45)年11月笠戸大橋の完成
        に伴い、1年後に島内全域へ上水道が完備されて役目を終えた。

        
         再び県道に出ると深浦バス停。13時30分下松駅行きに乗車して江の浦へ向かう。


下松市笠戸島の江ノ浦はドックの片隅に集落 

2021年04月10日 | 山口県下松市

        
                この地図は、
国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
         江ノ浦は笠戸湾南方の笠戸島の中央部に位置する。島名の由来は厳島明神が当地に笠を
        捨て置いたという伝説にちなむという。(歩行約2.6km)

        
         深浦バス停(13:30)から防長バス約9分、笠戸ドック前バス停で下車する。

        
         車窓から見たドックを見るためバス路線を引き返す。

        
         1918(大正7)年笠戸島船渠㈱が江ノ浦に創設され、この建設工事の人やその生活を支
        える人々が多く移住してきたと云われている。

        
         県道を挟んで右手に本社事務所、山手側に寮・アパート群が並ぶ。

        
         稲荷大明神。

        
         工場入口より集落に入ると、右手に笠戸霊場八十八ヶ所第73番札所がある。阿波国・
        平等寺、讃岐国・出釈迦寺と金倉寺などの座石があるが、その上に石仏があったのであろ
        う。

        
         札所から高台への急坂を上がると、集落全体を見渡せないが狭い平地に民家等が軒を寄
        せ合う。

        
         どの路地からも大型クレーンを見ることができる。

        
         門構えのある家。

        
         集落内に2本の道が山手にのびる。架橋される前は船渠従業員は社用船を利用していた
        が、島民は食料・雑貨の調達は運搬船もしくは漁船に頼っていた。

        
         三角地にある建物。

        
         海からわずかで山が迫るという狭い空間の地も、架橋によって利便性は増したが、同時
        に他の地域から通勤可能な地となる。人口流失が始まると商店などが打撃を受けてひっそ
        りとした集落へと変貌する。

        
         笠戸島船渠㈱は、1988(昭和63)年3月長引く造船不況により解散し、全員解雇とい
        う憂き目に遭う。のちに修繕船を主体とする新笠戸ドックが設立されて今日に至る。

        
         かっての海岸線と思われる堤防が残されている。

        
         江の浦バス停より下松駅に戻る。 
 


周南市の和田は島地川沿いの山間集落

2021年04月09日 | 山口県周南市

        
                 この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
         島地川およびその支流串川流域に位置し、地内を地下(じげ)道として、米光から島地川
        さかのぼるかたちで和田、中村、小津(高瀬)を通り、熊坂峠を経て仁保津に至る道があっ
        た。(歩行距離約2km)

        
        
         米光バス停からバス便がないため、和田までの1.2㎞の道は歩く他ない。和田橋で旧道
        に入る。

        
         和田農協前バス停から旧道を下る。

        
         農協裏手に松田家長屋門がある。同家は藩政時代に支配階級の末端としての面と被支配
        者階級の代表者という面を持つ垰村の庄屋であった。長屋門は藩政時代とされるが、建造
        された年代は不詳とのこと。6畳2間には中間部屋として下男下女を住まわせたという。

        
         商店もあったようだがすべて廃業されている。

        
         元広島東洋カープの投手だった津田恒美生家を案内する看板が設置してある。1960
        (昭和35)年8月生まれで、同地区の小・中学校を卒業し、南陽工高~協和発酵を経て広島
        カープに入団する。
         しかし、病に冒され32年の短い人生を閉じ、今はこの地に静かに眠る。 

        
         通りには石州瓦の家並みが続く。

        
         1889(明治22)年の町村制施行により、高瀬、夏切、垰、米光、馬神村をもって佐波
        郡和田村が発足する。現在の周南市和田支所付近に村役場が置かれ、1955(昭和30)
        都濃郡南陽町に編入されるまで村の中心であった。 

        
         1947(昭和22)年に開校した和田中学校は、2021(令和3)年3月末をもって64年
        の歴史に幕を閉じ、富田中学校へ統合された。

        
         津田恒美はわずか10年のプロ野球人生であったが、旧中学校跡に顕彰碑が建立されて
        いる。
         碑には当時監督だった山本浩二氏が、彼に「直球人生」という言葉を贈っている。(20
        12年野球殿堂入り)

        
         旧中学校とグランドなどを共有していた和田小学校。声掛けすると「和田には何にもな
        いよ。ゆめタウンもないので寂しいけど、パパもママもここが好きだから僕も大好きだよ」
        と言ってグラウンドに駆け出す。

        
         小学校を過ごすと人家は少なくなる。右手の建物に「和田丸太」の看板あり。1978
        (昭和53)年当時新南陽市の本田市長が「和田丸太」と命名し、木材製品として高い評価を
        得ていた。

        
         左に島地川ダム、右に和田丸太の山林、下にホタルがデザインされた新南陽市時代の環
        境保全型マンホール蓋。

        
         高瀬郵便局は1880(明治13)年高瀬村に開設されて、和田と串村の集配業務を行って
        いたが、行政区域の変更で串地区の集配業務を島地局が行うようになった。
         その後、当地に移転して和田郵便局とすべきところだったが、大島郡に和田郵便局があ
        るので高瀬にしたという。

        
         日露戦役従軍碑とあるが小文字は判読できない。

        
        島地川が寄り添うようになると三作(みつくり)バス停が見えてくる。
 
        
         バス乗車まで少し時間があったので三作神楽伝承館まで往復する。
        
        
         国指定重要無形文化財の「三作(みつくり)神楽」は、和田三作地区(林・原赤。中村)に古
        くから伝承され、7年目毎の式年祭で地元河内社へ奉納されてきた。言い伝えによると、
        大宝年間(701-704)に五穀が実らず、疫病が流行したため五穀豊穣と疫病退散を祈願したと
        ころ、翌年から作物は実り疫病も絶えたため、そのお礼として神楽を奉納するようになっ
        たという。


        
         JR徳山駅行きの防長バスに乗車する。
                 


周南市の米光は島地川右岸に集落 

2021年04月09日 | 山口県周南市

        
                 この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
         米光(よねみつ)は島地川流域に位置する。地名の由来は、往古村民が富裕な生活を営み、
        有徳者も多く、米穀も多くとれたことによるという。(歩行約1.9km)

        
         JR福川駅から防長バス高瀬行き35分、米光バス停で下車する。
        
        
         小郡から高森へ至る裏往還道は、徳地・上村境の天王峠を下り、地内を通り島地川を渡
        って大谷・垰の車坂に至る道があった。 

        
         北背後にある岡の山に築城年代は定かでないが米光城があったとされる。「和田村誌」
        は、1557(弘治3)年毛利氏が防長に進軍した際、陶の残党が富田・徳地・防府地方で蜂
        起したので、毛利輝元は野上庄の領主・杉元相を上徳地に置き、徳地を沈む鎮撫するため
        山上に城を築いたという。風土注進案は杉次郎左衛門行並(つらなみ)の古城と伝えるが、同
        一人物否かの確証はないとする。

        
         商売をされていたのであろう軒下に〇キの文字が残る。

        
         明治期の局舎を思い出させるような造りの米光簡易郵便局。1933(昭和8)年米光郵便
        取扱所として開設され、その後に米光郵便局となったが、高瀬郵便局移転の頃に簡易郵便
        局に改定された。

        
         郵便局の斜め向かいに河内神社の参道。

        
         弘化年間(1844-1848)創建と伝える河内社と、近くにあった柿本大明神を合祀して河内神
        社を再建したと伝える。大豪雨で後山が崩れて社殿が崩壊し、1944(昭和19)年に再建
        されたのが現社殿である。

        
         境内の右手に石像が並ぶが、それぞれに何番と刻字されいるので八十八ヶ所の石仏のよ
        うだ。

        
         参道から見る米光の家並み。

        
         ほぼ直線的な通りである。

        
         商店名のあるテントに懐かしさを感じる。

        
         通りに流れる水路は灌漑用水。

        
         山手に石組みされた棚田。

        
         左に島地川ダム、右に和田丸太の山林、下にホタルがデザインされた新南陽市時代の環
        境保全用マンホール蓋。

        
         山裾に石州瓦が映える。

        
         家前の池に鯉。

        
         このような家屋も少なくなった。

        
        
         伝福寺(曹洞宗)の寺伝によると、もとは伝福庵と称して創建の時期ははっきりしない。
         1929(昭和4)年馬神の万福寺と合併して現寺号に改めた。

        
         寺から集落道に沿うと河内神社参道を横断する。