ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

竪ヶ浜の往還道筋から八海橋 (平生町)

2024年07月03日 | 山口県上関・平生・田布施町

                         
                        この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製加工したものである。
         竪ヶ浜は田布施川下流の左岸低地に位置する。地名の由来について玖珂郡志は、「余田
        村之内ニテ候ヘ共、竪長キ潟ヲ抱申付、村名ヲ堅ヶ浜ト申候事」とある。「地下上申」以
        後については竪ヶ浜村とあり、古くは玖珂郡に属して岩国領であったが、
1868(明治元)
        年に熊毛郡へ移管された。(歩行約4.7㎞) 

         
         JR田布施駅から防長バス柳井駅行き約10分、坂本病院前バス停で下車する。但し、
        この路線は1日2便のため時間的な制約がある。

        
          病院前から田布施方面へ向かうと、正面の集落は柳井市余田の西山である。    

        
         西山集会所傍に西山荒神社が祀られており、祠には大正3年(1914)3月と刻銘されてい
        る。右手の碑には何か刻銘されていたと思われるが不詳である。この地点から竪ヶ浜往還
        道を歩くことになる。

        
         坂を上がって行くと左手に地蔵尊が祀られている。台座には「三界萬霊」と刻まれてい
        る。この世に存在する一切の霊(萬霊)を多くの人に供養してもらうことを願って、寺院の
        入口や路傍に建立された。

        
         坂の頂上部にある西山溜池は、1807(文化4)年に岩国領主が干害防止のため、溜池を
        堀削させたうちの1ヶ所とされる。

        
        
         最上部の右手に石柱があり、「奉納 四国八十八□□ 是□廿七番一丁とあり。(四国八
        十八ヶ所27番は神峯寺。1丁は109m、□は読めず。) 

        
         墓の最奥部に極楽寺本堂跡を示す石柱がある。1612(慶長17)年創建と伝えられるが、
        1974(昭和49)年に田布施町波野の大恩寺(浄土宗)に合併された。

        
         ウオーキング中の方が寺跡と観音堂があるとおっしゃったが、このお堂が観音堂のよう
        だ。扉越しに見ると3躰の仏像が祀られており、弘法大師が中央にあるが他はわからない。
        四国八十八ヶ所27番札所の神峯寺は、本尊が十一面観音であるので、どちらかが観音像
        であろう。

        
         お会いした方によると、この道が往還道だったが、新道ができたので廃道になったとの
        こと。

        
         田布施の町並みを見ながら次の三差路を左折する。

        
            曲がりくねった道を進むと小さな祠がある。村境、峠などの路傍にあって、外からの疫
        病や悪霊を防ぐ道祖神(賽の神)が祀られていたのであろうか。

        
         ここからが旧竪ヶ浜村である。1889(明治22)年の町村制施行により、竪ヶ浜村、平
        生村、平生町、宇佐木村の区域をもって平生村となる。

        
         右手の森に荒木大明神が鎮座する。

        
         この道と鳥居の向きが違うので参道ではないようだ。額束には「荒木大明神」とある。

        
         石段を上がると石柱には、嘉永6年(1853)癸(みずのと)丑7月吉日に荒木村が寄進したと
        刻字されている。本殿についての詳細は知り得なかった。

        
         境内社についても不詳のままとなる。 

        
         1938(昭和13)年に田布施町立田布施高等女学校と平生町立平生高等女学校が県立に
        移管され、山口県立熊毛高等女学校が設立される。
         戦後の学制改革により県立熊毛女子高等学校と改称、さらに新制高校再編成において、
        県立熊毛南高等学校と改称して男女共学制を実施して今日に至る。

        
         竪ヶ浜は江戸時代の干拓地で、山手に昔から集落があったそうだ。入海に面していたた
        め開作が行われ、1699(元禄12)年に竪ヶ浜浦、1702(元禄15)年に新市浦が完成し
        ている。

        
         土手町の南蛮樋がデザインされたマンホール蓋。

        
         三差路の角に道標。
          右 余田みち 周□六七番 十三丁
          左 田布施□ 十八丁
         (□は読めず、読み違いがあるかも‥)  

        
         三差路を左折すると左手に智願寺。

        
         智願寺(浄土宗)の古記録によると、はじめ禅宗の地蔵院と称していたが、1625(寛永
          2)
年に浄土宗と現寺号に改めたという。当初は山上にあったが、いつの頃からか現在地に
        移転したとある。

        
         寺から25mほど南下すると左手に注連柱。

        
         鳥居の先に竪ヶ浜と遠くに田布施の町並み。

        
         石段の先に大歳神を祀る神社が鎮座する。創建年など詳細を知り得なかったが、大歳社
        の歳とは穀、収穫を得るのに必要な四季の一巡を意味するそうだ。五穀を守護し、家の安
        全・幸福を守護する神とされる。

        
         民家は更新されて街道だった面影は見られない。

        
        
         左手の祠はえびす様で鯛を抱いた石仏が鎮座する。えびす様の原点は海岸の漂着物を祀
        る信仰で、海の向こうからやってくるものが「福をもたらすもの」とされた。
         やがて市場の守護神という神格が生まれ、えびす様といえば商売繁盛の神様というイメ
        ージがつくようになった。ここに「市」があったか否かはわからなかったが、竪ヶ浜新市
        浦の成就と共に、岩国領(藩)は玖珂島に沿って平生古町の裏側に40軒の屋敷を建て、岩
        国や平生から町人を移住させて「市」立てを行なったという。 

        
         明治19年(1886)8月と刻字された灯籠があるので、この先に神社があるのだろうと山
        手に向かう。 

        
         道路の左手に鳥居が見え、民家脇の細い参道を進むと鳥居前に出る。額束に「金比羅宮」
        とあり、柱には紀元2596年3月(昭和11年)とあり。

        
         石段を上がると金比羅宮のお堂がある。広く庶民に親しまれた神さまで、海の神・船の
        神とされる。

        
         竪ヶ浜往還道は岩国市錦見から平生村竪ヶ浜までの全長9里(約36㎞)の路程であった。

        
         さらに南下すると、左手に祠のようなものが見えたので上がってみると、磯崎集会所に
        注連縄が架けられている。 

        
         集会所の裏側に妙見菩薩が祀られている。北極星を神格化した「星の仏さま」で、除厄、
        除災、福寿を増益させることから崇敬されてきた。

        
         往還道は国道188号線を横断して玖珂島まで続いているようだが、手前で右折して田
        布施川へ向かう。

        
         人島という地である。

        
         人島に荒砂稲荷大明神があるが、由緒などは知り得なかった。

        
         参道入口は田布施川沿い。

        
         田布施川を境に右岸が田布施町麻郷(おごう)である。

        
         八海溜池の先に平生の町並み。

        
         1972(昭和47)年竣工の新八海橋の上流に旧八海橋が現存する。八海といえば、19
        51(昭和26)年に当地の瓦製造業を営む夫婦が惨殺され、現金が奪われるという事件があ
        った。犯人は逮捕されたが警察は複数犯と決めつけ、犯人を執拗に責めたてたため、知人
        4名の名前を挙げることになる。4名は17年という長きにわたって冤罪との闘いが行わ
        れ、「無罪」の判決が言い渡された。

        
         無実を世に訴えるために正木弁護士の「裁判官」を映画化した「真昼の暗黒」(1956
        年公開)で八海事件の真相が世に知れることになる。この映画の中で、被告の家族が線香と
        お供え物を持って謝り行くシーンで八海橋が登場する。
         八海橋は通行できないが現存されており、冤罪の証でもある橋は、冤罪がなくなった時
        に使命を終えるのかも知れない。(田布施側の八海バス停よりJR柳井駅)


上関町八島は山口県最南端で絵の島

2023年04月03日 | 山口県上関・平生・田布施町

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         八島(やしま)は熊毛半島の南海上にあり、南北に長く瓢箪型をした島である。近世には大
        島郡に属していたが、1876(明治9)年熊毛郡に移管され、1島1村を形成していたが、
        1889(明治22)年の町村制施行で上関村となる。
         地名の由来は満潮になると島の低い所が水没し、島が8つになることからと言い伝える。
        (歩行約4.5㎞、🚻待合所のみ)

        
         JR柳井駅から防長バス上関行き約53分(1,060円)、道の駅上関海峡前バス停で下車す
        る。室津の発着場は道の駅裏手にあって片道590円である。 

        
         島と本土との連絡は、1879(明治12)年郵便物を運ぶ小帆船の就航が始まりで、その
        後、民営、八島区営を経て、1954(昭和29)年より上関町営として今日まで島民の生活
        を支えてきた。所要時間は約30分だが船室外に出ることはできないし、船室から景色を
        楽しむこともできない船旅である。

        
         どこをどう歩いてよいのかわからずに出発するが、案内板の片隅に「山口県の最南端に
        位置し、自然あふれる美しい島です。歴史的にも古く、弥生時代から集落があり、平家伝
        説も残されており、明治以降では島民がハワイに移民した」とある。

        
         島に上がると目に飛び込むのは壁に取り付けてある絵画で、「絵の島」といった感じで
        ある。

        
         奥に見えるのが蛭子神社。

        
        
         集落の家々は海岸線でなく斜面に立地しているところから、漁業主体ではなく農業主体
        の集落形態と思われる。

        
         阪本商店は島内唯一の店。

        
         渡船から商品を運ぶ女性が、「ほとんどが坂で歩かないとどうにもならないのでみんな
        元気だよ」と笑顔で話してくれる。

        
        
         浄福寺への道を少し上がると壁には動物の絵が掲げてある。

        
         旧小学校跡地への道は等高線上の平坦道。

        
         右手に会社の寮を過ごすと、山手側には民家が並ぶ。

        

        
         八島小学校は1874(明治7)年民家を借りて八島小学として開校する。のち校舎が新築
        されて多くの児童が学んでいたが、1962(昭和37)年代を境に減少傾向が続き、198
        3(昭和58)年には6名となり、3年後に上関小学校へ統合される。
         島の方にお聞きすると、狭い敷地で運動会も行われるなど、どこにいても子供たちの声
        が聞こえてきたという。

        
         八島は伊方原子力発電所から30㎞圏内にあり、モニタリングポストが設置されて放射
        線測定が行われている。

        
         小学校跡から山手に向かう。 

        
         「春山淡冶(たんや)にして笑うが如く」である。

        
        
         斜面を切り開いて石垣で宅地化され、細い道で結ばれている。

        
         集落内では入母屋屋根の主屋と長屋を持つ民家が見られるが、生産用具などを収納する
        長屋が必要だったと思われる。

        
         対岸に上関町の長島と祝島。 

        
         島の方が桜は見上げることが多いが、ここでは目線上に花びらがあるので楽しんでくだ
        さいと‥。

        
         浄慶寺(真宗)の系図によると、上杉景清なるものが天正年中(1573-1592)の石山合戦では
        本願寺に籠城する。のち講和が成立すると兵を罷めて退去させ、門徒等は各々の国に散る。
        景清は八島に一宇を建立し、時に1587(天正15)年7月に現寺号を号すとある。

        
         境内からは八島に来たと実感できる風景が広がる。 

        
        
         所々にこのような光景がられる。

        

        
         浄福寺(浄土宗)は、鎌倉期の1317(文保元)年の創建だが開基は不明とのこと。当時は
        真言宗であったが天正年中(1573-1592)に改宗したとされる。近年廃寺となったようで、境
        内は草木が生い茂り本堂など全景を見ることはできない。

        
         明治期には700人ほどの人口があったが、2022(令和4)年4月現在、15世帯20
        人が暮らしているが、その多くが高齢者のため、何時まで集落としての機能が保たれるの
        だろうか。

        
         集落排水は完備されて住環境は整えられている。 

        
         ハワイの出稼ぎで財を成したといわれ、入母屋造りの大きな家屋が多い。

        
         海岸部にも入母屋の家屋が並ぶ。

        
         弧を描く長い海岸線には、地元で「あぶら石」と呼ばれる丸い石で埋め尽くされている。
        西風が吹くと湾の構造上、大きな波で無数の石を転がし、永い間転がった結果、石が丸く
        なったようだ。
         八島には「あぶらめし」という炊き込みご飯のような保存食がある(あった)とされるが、
        この石と関係があるのか聞き洩らしてしまう。

        
         ミニ八十八ヶ所の1番札所とされる大師堂。

        
        
         八島の中央部(大島と小島の間)のくびれた場所にある砂洲に、八十八体の地蔵尊が安置
        されている。2番以降は石仏で等間隔に並び、草地だが草刈りもされている。(傍にヘリポ
        ート)

        
         ハマダイコン(浜大根)ロードは渡船場から古浦(無人地)への道で、片道約4㎞とされて
        いるが、柳井まで戻ることを考えると、13時の便に乗船せざるを得ないので引き返す。

        
         集落を眺めながら渡船場へ戻る。約2時間半の滞在時間だったが、海面の青さが増す「
        山滴る」頃に再度訪れて、古浦方面を歩きたいなと思いつつ島を後にする。


上関町祝島は石積みの練塀と神舞の島

2022年11月25日 | 山口県上関・平生・田布施町

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         祝島(いわいしま)は熊毛半島の南西約20㎞の周防灘に浮かぶ島である。地内にコッコー
        という植物が自生しているが、この実は不老長寿の秘薬として、秦の始皇帝が徐福を使い
        として
取りに来たという「徐福伝説」がある。
         集落は北東岸の急斜面下に発達した崖錐と、砂州から成る半円状の低地に立地する。(歩
        行約3㎞)

        
         JR柳井港駅の正面にある柳井港(9:30)から祝島行きに乗船し、室津、上関、蒲井、四
        代を経由する1時間10分の船旅である。

        
         この時期にしては海も穏やかで予定の時間に祝島へ到着する。定期船「いわい」は、2
        017(平成29)年に新造されたもので、上関町の第3セクターである「上関航運(有)」が
        運行する。

        
         港周辺が再整備されたようで、渡船場から集落中心部にある岩田珈琲店まで引き返す。

        
         海岸通りの案内板を見て、珈琲店の所から路地に入ると、厨子(つし)2階建ての民家がみ
        られる。

        
         えべす屋さんの向かいにある練塀の民家。練った土と石を交互に積み上げて、表面を漆
        喰で固めているという。塀の厚さは約50㎝もあるので、
強風と防火対策の役目を果たし
        ており、塀の中に水が入らないように上部には屋根瓦が載せてある。

        
         このような路地が縦横無尽にあって、入り込むと居場所がわからなくなってしまう。

        
         練塀が連続する通り。

        
         塀になっているものもあれば、家屋の外壁を兼ねているものあるが、構造は伝統的な軸
        組み構造のようである。

        
         立派な門構えのある民家。

        
         通りの両側が練塀で、最も見応えのある場所である。

        
         海に近い場所では海岸に転がっている石が使われているので、丸みを帯びた石が多いが、
        山側は山を掘って出た石が使われているので、角ばったものが多いのが特徴とされる。

         

        
         民宿「くにひろ」前に共同井戸があるが、集落にとって貴重なものであったのであろう。
        (パンフによると共同井戸3ヶ所) 

        
         善徳寺(真宗)の開基は、祝島の豪農で俗名を石原藤左衛門といい、天正年間(1573-1592)
        の石山合戦に従軍していたが、戦いが終わって帰国する際、顕如上人から名号をいただき
        一宇を結んで善妙寺と称した。明治の廃仏毀釈の際、平郡島の妙徳寺と合併して現在の寺
        号に改めたという。

        
         城の櫓を思い出させるような造り。

        

        
         路地は地形に従い、練塀は地形と水路に従ってその形を変える。

        
         狭くて勾配のある坂道は、大きな荷物を上下させるのが大変であろう。

        
         校門の左側に祝島中学校、右側には祝島小学校の校名があるが、休校と開校を繰り返し
        ているようだが、子供の声がしたので小学校は開校しているようだ。

        
         水産庁の「未来に残したい漁業漁村の歴史的文化遺産百選」に選定された。

        
         海を隔てた対岸に原発建設で揺れる長島がある。長島の人にとっては島の裏側だが、祝
        島にとっては目の前に原発があるようなもので、万が一の場合には一番影響を受けるだろ
        う。
         漁業組合に貼ってあった「ふる里三題」の1つに「我が里を 鳩子の海と人は呼ぶ な
        ぜにさわぐや 原発の波」と、静かに暮らす島民にとって外部から一方的に厄介な問題が
        持ち込まれて、賛成・反対で人間関係もギクシャクしているのではなかろうか。

        
         中学校側から階段を下ると宮戸八幡宮の鳥居。

        
         宮戸八幡宮の社伝によれば、平安期の1168(仁安3)年1月、石清水八幡宮の分霊を守
        (森)友平助が奉祀したというが、この島は、昔、全島を焼失する大火が2度もあったとい
        われ、古い記録が残されていないという。

        
         宮戸八幡宮の境内に鎮座する大歳神社(荒神社)。平安期の886(仁和2)年8月豊後国伊
        美郷の人々が石清水八幡宮より分霊を奉じて海路下向の途中、暴風雨に遭い祝島の三浦に
        避難した。当時この地には3軒の民家があり、生活は苦しかったが彼ら一行を手厚くもて
        なした。
         そのお礼に教わった荒神を祭り、農耕(麦作)を教えてもらったことにより生活が向上し
        たという。島民はそのお礼に毎年「お種戻し」と称して伊美のお宮に参拝した。
         これを縁起として4年毎に別宮八幡宮より神職などを迎えて、合同祭祀を執り行うこと
        になったという。この入船出船の海上神事と小屋掛けされた仮神殿で神楽が奉納される。
        (パンフより)

        
         宮戸八幡宮の参道を下ると、海岸線の県道に合わす。

        
         2020(令和2)年の神舞(かんまい)神事は、コロナ感染により1年延期されたが、最終的
        には中止となる。この櫂伝馬船は、2024年まで格納庫で出番を待つことになる。 

        
         海を眺めていた猫が足音にびっくりして見返る。

        
            「家人は 帰り早来(こ)と伊波比島(いはひしま)
                         斎(いわ)ひ待つらむ 旅行くわれを」
            「草枕 旅行く人を 伊波比島 幾代経るまで 斎ひ来にけむ」
         2つの歌は、万葉集15巻に収められているもので、奈良期の736(天平8)年遣新羅使
        に随行した人が、この祝島に航海の安全を願って詠んだといわれている。

        
                 葉の碑がある場所に練塀仕様のトイレ。

        
         ペンキとセメントで仕上げられた民家。

        
         善徳寺まで戻って照満寺に向けて集落内を歩くと、見応えのある練塀に出会える。(ここ
        から道幅が狭くなる) 

        
         小学校から海へ下る主要道ある民家の側面は、練塀のようだがすっぽりと蔦に覆われて
        いる。

         
         あいご(小路)に入って行くと何度か行き止まりを経験する羽目になる。 

        
         外周を塀や家屋で囲み、中庭をとる形式である。

        
         人口314人(2022.4月現在)が暮らすが、空家も目立つようになってきている。

        
         共用の路地が家を貫いている。

        
         1927(昭和2)年品川九一氏ら有志が発起人となって祝島電灯組合を設立して、重油に
        よる発電所を建設して送電したのが始まりという。
         のち、「農山村電気導入促進法」により、四代(しだい)の田ノ浦から海底ケーブルが敷設
        されて、1956(昭和31)年12月11日に本土から送電が開始された。
         上水は水道組合で行われていたが町に移管されて、1965(昭和40)年度から水源確保
        等の改良が行われた。島の弱点でもある水の確保が難しいときは、給水船で長磯のタンク
        に注入されたこともあるそうだ。 

        
         照満寺(真宗)で行き止まりのため境内を通らせていただき、県道祝島線(海岸線)に出る。
        寺の開基は、大内義隆の家来であった俗姓・石丸四郎左衛門則之と伝える。 

        
         この県道は島の反対側の三浦まで続いているそうだが、島一周はできないという。  

        
         集落の北端付近は海からの強風をまともに受けるので、屋根瓦が飛ばされないように漆
        喰やセメントで固められて屋根が白くみえる。

        
         長い階段が山に向かって延びているが、再び上がって行こうという気持ちになれなかっ
        たが、居住されている方は海岸に出る唯一の道である。

        
         光明寺(真宗)の開基は俗姓・石丸則頼といい、大和国の武士で武者修行の途次、当地に
        来遊し感ずるところあって、1615(元和元)年に出家して草庵を結ぶ。のち本山より木仏
        を賜り光明寺と公称する。        

        
         滞在時間1時間50分と短いため、主だった所を歩いて12時30分の船に乗り込む。

        
         2008(平成20)年に棚田を維持管理されていた平さんにお会いして、棚田の歴史など
        教えていただいた。最後に「ここもわしの代で終わりじゃ」といわれたことが頭の片隅に
        あったが、往復8㎞もあることから棚田を思い浮かべながら島を後にする。

        
         定期船は往路と同じように寄港して柳井港に戻ってくるが、多くの人は室津で下船され
        る。(上関大橋)


平生は南蛮樋が残る町 (平生町)

2021年12月12日 | 山口県上関・平生・田布施町

                
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         平生(ひらお)は室津半島の付け根辺りに位置し、域内の北半部は赤子山南麓にあたり、南
        半部は低地帯で水田が広がる。
         古くは内海で、田布施川をはじめ河川が運ぶ土砂の堆積と、江戸期に開作が行われて低
        地帯を形成している。 (歩行約5㎞) 

        
         JR柳井駅から防長バス上関行き25分、平生小学校前バス停で下車する。1つ手前の
        横土手バス停と距離に差はないが、路地歩きができる道を選ぶ。 

        
         バス停から引き返して水越交差点を横断し、次の三叉路を左折する。

        
         左前方の森に
野島神社があり、その手前のT字路を右折すると、その先に大野毛利家の
        居舘跡がある。(居館跡、野島神社については「大野」に記載)

        
         生野邸に並んで藤井酒場があったようだが現存しない。

        
         大内川に石柱群が立っているが、家屋の礎石のようで平生町の町並み図では川に沿って
        家並みが記載されている。

        
         桜町筋はマロニエ通りが横断している。

        
         何の商売をされていたのだろうか2階には袖卯建が残る。

        
         説明によると、堀川南蛮樋は江戸末期からの塩浜廃止により、耕地化されていくなかで
        築造された。この地域の防潮と排水機能を維持し、海抜0mに暮らす人々の生産と生活を
        守ってきた。公共下水道整備のため、1993(平成5)年堀川公園に移築されたとある。

        
         三界萬霊塔は、世に生を受けたものすべての霊を供養するものとされ、建立される位置
        は墓地などに多く見かけるが、旅先で亡くなった方や争いが起こらないように願いを込め
        て、町の境に設置されたようだ。

        
         三界萬霊塔横の民家には学校を思わすような門柱があるが、この付近に塩業会所があっ
        たとされ、これに関連するものだろうか。

        
        
         1651(慶安4)年から8年の歳月をかけて、約120町歩の耕地と20町歩の塩浜が完
        成する。また、雨水を排水するために大井川、大内川、堀川、熊川などの人工河川も築造
        された。これらの河川に設けられた樋門は42ヶ所を数える。
         その中で、熊川に設けられた土手町樋門にはオランダ技法が採用され「南蛮樋」と称さ
        れた。1987(昭和62)年大内川防潮水門・排水場の竣工により、約300年間の使命を
        終える。(熊川の河川改修のため移築復元) 

        
         西ノ町入口に旧生永酒場。

        
         酒場の地に平生郵便局があったという。

        
         萬安旅館付近には百十銀行平生支店などがあって平生の中心街であった。

        
         平生町のマンホール蓋。

        
         森本油屋だった建物。

        
         浄土真宗の真覚寺。 

        
         寺の横は神社の御旅所。

        
         地元の方にお聞きすると、真言宗の欣成寺という寺があったとのこと。

        
         こちらの三界萬霊地蔵菩薩は座像である。

        
        
         海の島であった
玖珂島は、江戸期に干拓されて陸続きとなり、干拓地は塩田とされた。
              玖珂島に祀られている玖珂島神社は、竪ヶ浜の荒木大明神から勧請されたともいうが、由
        緒がないため創建年など知り得ず。



        
         右にカーブする地蔵尊の前に「小川今蔵旧家跡」の碑がある。1864(元治元)今の平
        生町曽根の布浦作次郎の6男として生まれ、1888(明治21)年小川家の養子となり、そ
        の2年後、久保白船(自由律俳人で種田山頭火の親友)の姉・武免(ムメ)と結婚する。
         今蔵は麻里府村役場の書記をしており、国木田独歩と知り合い、独歩は「酒中日記」に
        大河今蔵として登場させている。
         その後、1905(明治38)年麻里布村長に就任し、1913(大正2)年まで務めるが、村
        長を辞して1年後に47歳で他界する。

        
         戎町には居蔵造の民家(旧立山建具店)と奥に法輪寺。

        
         法輪寺(浄土宗)の本堂を探し求めるが見つからず。平生開作築造の折、犠牲になった者
        のために玖珂島に1ヶ寺建立されたとされるが、欣成寺なのか当寺かは知り得ず。

        
         熊川(旧水保川)傍にある祠。 

        
         堀川南蛮樋は熊川にある土手町南蛮樋を参考に築造された。ロクロの心棒部分と板戸を
        縄で結び、鉄製ハンドルを手動で回転させることにより、板戸を上下させて海水の防禦を
        図る仕組みになっている。干潮時には板戸を巻き上げて上流からの余水を放流し、満潮時
        には板戸を降ろして下流側からの海水の進入を防ぐ仕組みで、毎日2回樋守によって樋門
        が管理されていた。
         この南蛮樋も下流に排水機場が設置され、その役目を終える。その後、公共下水道整備
        のため解体されることになったが、1993(平成5)年堀川公園の一角に移設復元される。

        
         南蛮樋の脇に平生開作の設計・施工をした「横道忠右衛門豊行顕彰碑」がある。この忠
        右衛門の功績を妬む人物により、1676(延宝4)年12月28日大野字中村において暗殺
        される。(享年48歳)

        
         習成小学校は、1872(明治5)年文部省の学制により、翌年1月大野毛利氏の弘道館を
        上関部第3小学として横土手に開設される。その後、各地区にあった小学を統合して18
        78(明治11)年習成小学と改称された。「習成」という名称は、中国古典の書経にある「
        習与性成
」からとったとされる。
         1914(大正3)年塩田跡地であったこの地に新築移転し、1963(昭和38)年大野・曽
        根小学校を統合して平生小学校に改称する。1966
(昭和41)年大野南に新校舎が完成し
        て移転する。
(説明板より)

        
         人間魚雷「回天」2型の胴体部分(実物)で、光市の武田薬品光工場の敷地から発掘され
        たものである。
         この2型は、1944(昭和19)年12月までに2基がテスト用に準備されたが、深度2
        00mまで耐えるように設計されたが、実際には60mが限度であったという。
         最終的には設計上の問題点が解決せずに放置されたが、艦体のみは200基が完成した
        という。(説明より) 

        
         平生歴史民俗資料館内に、神花山(じんがやま)古墳より出土した頭骨の古代女王復顔像が
        ある。

        
         赤子山に向かって緩やかな坂道を進み、坂ノ下1号函渠を潜る。

        
        
         沼八幡宮の創建について、風土注進案は元仁元年(1224)の春、沼の農民・平右衛門の夢
        枕に海中に漂う宇佐の神が立ち、「此地に跡を垂むと欲て来る也,吾が祭の事を司どら
        しむ者ハ汝なり、汝が姓は水沼なり」と告げた。翌朝、海岸に流れ寄った幣を宇佐の神
        として祀ったのが始まりと記す。

        
         秀厳寺(浄土宗)は毛利就頼(旧吉見政春)が、養子先の養父・吉見広頼の菩提を弔うため
        阿武郡大井村に創設し、広頼の戒名をとって現寺号とする。その後、玖珂郡通津村に移転
        し、1679(延宝7)年現在地に移転する。

        
         境内に入ると左手に案内板があり、その上の段に初代就頼の生母と正室ならびに正室の
        生母のお墓がある。(同じような墓が3基あったので撮影するが間違いかも‥)

        
         墓地の一角から見る平生の町並み。

        
         大野毛利家の墓所は、正面の民家前を左折して道なりに進むと案内板がある。

        
        
         案内によると、ここは海前寺(曹洞宗)の墓地で寺は麓にあったが、1868
(明治元)年阿 
        月の岩休寺へ合併される。ここには2代・就詮(なりあき)ほか10基の墓がある。

        
         下ってくると入口に道標が設置されていた。

        
         国道を横断すると十八割バス停だが、交差点先の十三割バス停は路線が違うようで便数
        が多い。 


平生町大野には大野毛利氏の居館があった地

2021年12月08日 | 山口県上関・平生・田布施町

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         大野は室津半島への出口辺り、大星山の北西に位置する。地名の由来を風土注進案は、
        用明天皇の時、豊後国満能長者の娘・玉誉姫が上洛の途次、鳴門(大畠)の瀬戸で、渦に巻
        かれようとした船を救うために入水した。その供奉の大野帯刀が住んだことにちなむとい
        う。(歩行4.9㎞) 

        
         公共交通機関の利便性が悪いため車とし、大野地域交流センターに許可を得て駐車する。

        
         この一帯に大野小学校、大野村役場、大野産業組合(農協)があり、この地に小学校の講
        堂があった。文部省の学制発布により、1875(明治8)年常春寺を仮校舎にして大野南小
        学が創設された。1904(明治37)年校舎を新築して大野小学校と改名したが、1963
        (昭和38)年大野・習成・
曽根小学校が統合されて平生小学校となり、この地での学び舎は
        役目を終える。

        
         浄土真宗の浄圓寺。

        
         1889(明治22)年町村制の施行により、大野北村・大野南村をもって大野村が発足し、
        この一角に村役場が設置された。1955(昭和30)年平生町、曽根村、佐賀村の4町村が
        合併して村役場が廃止される。

        
         常春寺(浄土宗)はもと宝珠院と号する禅庵であったが、弘治年中(1555-1558)浄土宗に転
        宗して正心寺と改称した。寛文年中(1661-1673)の頃、阿曽沼太郎左衛門の菩提所であった
        鳳安寺(旧塩田村)と合併し、鳳安寺にあった阿曽沼先祖の位牌を当寺に移し、阿曽沼氏の
        戒名から現寺号に改めたという。 

        
         常春寺の長い石垣と白塀、江戸初期の建築様式をもつ2階建ての楼門(山門)が目を引く。

        
         神領川傍に西向き地蔵。

        
         県道伊保庄平生線に出ると、人と勘違いするような出来栄えの人形が据え付けてある。

        
         南蛮樋がデザインされた平生町のマンホール蓋。

        
         板塀で囲まれた民家。

        
         建て替えが進んで古き時代の建物は希少だった。

        
        
         野島神社の由緒によると、万治年中(1658-1661)に完成した平生開作は、多くの島(40
        島)を崩して埋め立てられたといわれるが、その時に野島と玖珂島の2島は残された。開作
        後、野島には厳島大明神を勧請して開作の守護神としたとある。

        
         明神町筋に袖卯建を設けた民家と理髪店の看板が残る。

        
         大内川沿いの法雲寺前にある祠。

        
         法雲寺(真宗)は大内義隆の家臣・友吉九郎左衛門俊明は大野村に住し、田布施町国木の
        正信庵に居住の住臣に2人の娘があって、その末妹を妻とする。妻より法義を勤めし、

        いに剃髪して庵を譲り受けたことに始まるという。

        
         大内川沿いにある旧家。

        
         大野毛利館・弘道館跡の説明によると、大野毛利氏の初代は、岩国領・吉川広家の次男
        で、1612(慶長17)年6歳の時に津和野藩主・吉見氏の養子となり吉見政春と名乗る。
         その後、1637(寛永14)年萩藩主・毛利秀就が、大野村を中心に吉見政春を給領主と
        し、毛利就頼と改めさせて毛利一門に加えた。

        
         敷地内にある祠は蘇鉄が邪魔をして見えないが、正面にある家紋は「一文字に三つ星」
        でなく、吉見氏の「丸に二つ引」のように見える。

        
         1814(文化11)年7代当主・親頼が、居館に隣接して郷校「弘道館」を創設して、家
        臣・子弟の教育を奨励する。居館、弘道館および一門の邸宅は現存しないが、ここ50坪
        余りが大野毛利氏の所有地として残されているとのこと。

        
         弘中農園まで戻って右折する。

        
         入口から車道に並行して大野八幡宮の長い参道が続く。

        
         大野八幡宮の社伝によれば、上古・伝承の時代である5世紀末頃、氏神として天照大神
        を勧請し神明宮として祀った。
         その後、鎌倉期の1215(建保3)年宇佐神宮より勧請、合祀して八幡宮と称するように
        なったと伝える。

        
         普段あまり訪れない地だけに方向が定まらず、大野毛利家
居館跡を探し当てるのに時間
        を費やしてしまう。他に史跡や町並みがあったと思うが、
神社から歩いたルートを確認し
        て駐車地に戻る。


平生町曽根は人間魚雷「回天」の基地があった地 

2021年12月06日 | 山口県上関・平生・田布施町

                
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         曽根は平生湾入口の東岸に位置する。地名の由来を風土注進案は、阿曽山権現が天より
        遥降したため、阿曽根村といい、いつの頃からか「阿」を除き曽根村になったという。(歩
        行約4㎞、🚻交流館) 

        
         JR柳井駅から防長バス上関行き30分、新地バス停で下車する。

        
         曽根地域の新地、水場、百済部(くたなべ)地区と、佐賀地域の阿多田、田名地区までぶら
        り歩きする。

        
         昭和の時代には割烹旅館、酒場、廻船問屋などが軒を並べていたという。 

        
       
        

        

        

        

        
         通りには繁栄した時代の商家などが散見できる。

         
         県道23号線(光上関線)に合わす。

        
         海に浮かぶ百済部神社は、1893(明治26)年百済部(くたなべ)に伝えられた百済部神社
        をここにあった文島竜神社に合祀された。海の守護神として崇敬され、地元でが明神さま
        ・龍宮さまの呼び名で親しまれているという。

        
         欄干のついた石橋は、もと大野毛利家にあったものと伝えられている。

        
         百済部神社(旧竜神社)の社殿。

        
         1994(平成6)年に完成した田布施町と平生町を結ぶ南周防大橋。

        
         1585(天正13)年に草創された教相寺(真宗)は、現平生町佐賀および百済部集落を経
        て現在地に移転する。(本堂は雨漏り修理中だった)

        
         水路に沿って上流へ向かう。

        
         額束に「百済部神社」とあり。 

        

        
        
         1942(昭和17)年太平洋戦争が勃発すると、旧海軍の軍事基地として設置される。1
        944(昭和19)年大竹潜水学校柳井分校となり、特殊潜航艇と人間魚雷(回天)の基地へと
        変容する。
         入口にある人間魚雷のレプリカは、2006(平成18)年に公開された映画「出口のない
        海」に使用されたものである。(交流館は月曜日休館)

        
         回天基地及び特殊潜航艇の教育機関があった阿多田半島。

        
         半島の根もとにある「回天碑」は、1945(昭和20)年7月18日に平生基地から伊号
        58潜水艦に回天6基が搭載されて出撃し、沖縄海域で5名、訓練中に3名、終戦直後に
        1名が自決する。碑は元基地搭乗員の希望により、阿多田の海を臨むこの地に建立される。
 

        
         神花山(じんがやま)古墳は標高39mの山頂部にある。(駐車場とトイレあり)

        
         古墳は全長約30m、高さ約2.5mの前方後円墳で、5世紀前半に造られたものと推定
        されている。

        
         この古墳は、1944(昭和19)年頂上に高射砲陣地を構築する際に石棺が発見される。
        この古墳人は男性と思われていたが、再鑑定の結果、20歳代半ばの女性と判明する。こ
        の地域に居住していた豪族の女性首長と考えられるとのこと。(石棺はこの地に埋められて
        いる)

        
         山頂より瀬戸内海の島しょが望める。

                 
         残された頭骨をモデルに復元像が作られたが、これをもとに古代女王像が「ふるさと創
        生」事業として建立された。像の高さは台座を含めて10mぐらいで、左手は胸に鏡を持
        ち、「日出づる」東を向いている。

        
         古墳から県道に出ると田名バス停がある。ただし、便数が少ないので事前に時刻表の確
        認を要する。


平生町の佐合島は自由律俳人・久保白船のふるさと

2021年11月01日 | 山口県上関・平生・田布施町

                
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。 
         佐合島(さごうじま)は平生湾の南方に位置する小島で、地下(じげ)上申や風土注進案には
        佐郷島とあ
り、また、佐河島とも記している。沈水島であるため平地は少なく、比較的緩
        斜面をなす東側に集落が立地する。(歩行約2.7km)

        
         佐賀漁港前の渡
船場には待合室やトイレが完備されている。

        
         田布施町の馬島と平生町の佐合島を結ぶ「ましま丸」。小型船だが内海なのでデッキで
        約8分の船旅を楽しむことができる。

        
         桟橋の正面に佐合島が横たわる。

        
         渡船から覚勝寺と久保白船生家跡。

        
         脇の浜から龍宮の鼻。

        
         並ぶ家々は空家が多い。

            
         脇の浜に係留されているのは尿貯留運搬船。

              
         龍宮の鼻に龍宮様(海の神)が祀られているが、木が階段を塞いで上がることができない。

        
         佐合小学校は1871(明治4)年に創立されたが、1861(昭和36)年統合により廃校と
        なる。

        
         明治期には1,000人近い人々が暮らし、漁・農業が盛んだったようで山裾には農業用
        溜池が残されている。

        
        
        
         2021年4月現在、人口は9世帯13人で人口減少と高齢化が進んでいる。このまま
        だといつかは無人島に帰することになってしまうかもしれない。

        
         佐合島八幡宮は宇佐神宮より勧請され、島の守り神として大切にされてきたようで、苔
        生してはいるが荒廃はしていない。
現在は上関八幡宮の管轄となっている。

        
         さらに路地を歩くと覚勝寺が見えてくるが、この付近も空家が目立つ。

        
         覚勝寺(真宗)はもともと麻郷村(現田布施町)にあったが、1872(明治5)年の廃仏毀釈
        の時に佐合島へ移ってきた。

        
         自由律俳人・久保白船(本名、周一)は、1884(明治17)年佐合島に生まれ、山口中学
        を卒業すると家業の醤油醸造業を継ぐ。
         1911(明治44)年荻原井泉水の自由律俳句誌「層雲」の同人となり、親友の種田山頭
        火や田布施の江良碧松とともに活躍する。
         1920(大正9)年子供の教育のため妻の実家がある徳山に移住すると、多くの文人が集
        まり地方文化の中心的存在となった。1940(昭和15)年種田山頂が急死すると、四国に
        渡り荼毘に付したが、翌年白船も57歳の生涯を閉じる。

        
         入口に火除け地蔵と白船の代表作
           ・踞(うずくま)ればふきのたう
           ・青波わたる、それがとんぼう
           ・海の青さ山の青さに雲重なれり 

        
         北屋敷付近の民家も空家があるようだが、実家に手を入れるため通って来られる人もい
        るようで、空家とは感じさせない家も散見できる。

        
         海にすべるような形の旧渡船場。

        
               島内にはツワブキ、アシタバなどが自生しているが、ツワブキは最盛期であったが、小
        さな黄白色の花が咲くアシタバの花期は終わっていた。

        
         明神の岬先に遊歩道北口があり、南口まで約3.1kmなので1時間あれば周回できると
        踏み入れる。

        
         遊歩道に入ると廃車1台が放置され、さらに進むと歩けなくはないが、蜘蛛の巣とズボ
        ンに取り付く草の実に悩まされ退却する。

        
         遊歩道入口から北へ向かうと、六地蔵と多くの墓石が並ぶ。

        
         対岸に佐賀集落と大星山。

        
         墓地から海岸線をてくてく歩き。

        
         トイレ付待合所あるが店も自販機もない。

        
         14時発の佐賀漁港行きに乗船して戻るが、桟橋近くで出会った方が「住めば都さ」と
        おっしゃった言葉が印象に残る。         


平生町佐賀は古代遺跡と海に沿って集落

2021年11月01日 | 山口県上関・平生・田布施町

        
                 この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         佐賀(さが)は大星山南西麓に位置し、南西は平生湾に面する。平野部が狭く海岸線に沿っ
        て集落がある。(歩行約2.4km)

        
         JR柳井駅から防長バス上関行き35分、佐賀バス停で下車する。

        
         平生町役場佐賀出張所に立ち寄ると、入口に「岩田遺跡」の碑がある。縄文中期から弥
        生前期の遺跡があった地で、狩猟生活から農耕生活に移る時代の生活文化を知る貴重な遺
        跡だそうだ。(碑と説明板のみ) 

        
         佐賀中学校は1947(昭和22)年佐賀小学校の一部を仮校舎として開設されたが、ルー
        ス台風で校舎が倒壊したため、1952(昭和27)年この地に新校舎が竣工する。その工事
        の過程で岩田遺跡が発見される。

        
         はくとり稲荷神社前から見る佐賀の町並み。

        
         はくとり稲荷神社は開運の神様として有名だそうだが、時間の関係で境内には入らず。

        
         県道光上関線の先に心光寺と鳥居が見えてくる。

        
         心光寺(浄土宗)の地は、もと天台宗または真言宗の寺跡で、境内に五輪塔の一部が現存
        する。1642(寛永19)年この地に一宇を創建して心光寺と称した。

        
         3匹のカブトガニと「さが」・「おすい」のあるマンホール蓋。

        
         白鳥神社がある場所は、5世紀中頃につくられたといわれる前方後円墳で、規模は山口
        県内最大のものとされ、後円部の上に社殿が建立されている。

        
        
         参道傍に「佐賀小学校跡地」の碑がある。背後の建物について地元の方に聞いてみたが、
        小学校で使っていたものではないかとのことだった。

        
         海に向かって長い参道。(二の鳥居) 

        
         二の鳥居前から旧道を南東へ向かう。

        
         歩かれている方に佐賀村役場跡を聞き取りする。

        
         1889(明治22)年町村制施行により、尾国村・佐合島・小郡(おぐに)村・佐賀村の区域
        をもって「佐賀村」が発足し、佐賀に村役場が置かれた。
         1955(昭和30)年昭和の大合併により平生町になるまで村の中心であったが、現在は
        公園となっている。 

        
         民家などは更新されて見るべきものはない。

        
         荒木川の東側も民家は更新されているようで、川に沿って海側に出る。 

        
         正面に佐合島。

        
         長閑な地はネコが大手を振って横断する。

        
         佐賀漁港は第2種漁港で、船びき網、さし網業が主な漁法とされる。右手の建物が漁協
        の水産物荷捌所で、その傍に佐合島への渡船場がある。


平生町の小郡(おぐに)に対し南に尾国(おくに)

2021年11月01日 | 山口県上関・平生・田布施町

        
                 この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         尾国(おくに)は熊毛半島の中西部に位置し、西は佐合湾に面する。
         地名の由来は、古く北の小郡(おぐに)と一村で大国または小国といっていたが、南北に
        分れたため、北の小郡に対し南は尾国と改めたという。(歩行2.3km、🚻なし)

        
         佐賀バス停(14:25)より約7分、尾国バス停で下車。

        
         奈良期の736(天平8)年遣新羅使・阿部継麻呂の一行が、当時、可良の浦といった尾国
        湾に船泊りしたことが、万葉集巻の第15に4首の作歌と共に記録されているとのこと。
         碑には「沖邊より 潮満ち来らし 可良の浦に 漁りする鶴 鳴きて騒きぬ」とあるが、
        口訳だと、「沖の方から潮が満ちて来るらしい。可良の浦で餌を求めている鶴が鳴いて騒
        いでいる」と説明されている
。 

        
         広場は御旅所のようだ。

        
         さらに半島の先へ向かう。

        
         三叉路から旧道に入る。

        
         静かな通りは雨戸が閉められた民家もある。

        
         法隆寺(真宗)は小早川隆景の家臣・林宗右衛門正興が主家没落後、1662(寛文2)年出
        家得度して現在の地に一宇を建てたのが始まりとされる。

        
        
         尾国集落は旧道に沿って家並みを形成する。

        
         加茂神社は京都加茂神社より勧請したとされるが、その年月は不明とのこと。現存する
        最も古い棟札は、室町期の1505(永正2)年のものがあるという。

        
        
         旧道に戻って北進するが見るべきものはない。

        
         柳井地域の地図が描かれた広域水道の送水管空気弁蓋。国の小瀬川総合開発事業による
        弥栄ダムを水源として遠距離導入し、棚井市に浄水場を設けて上関ルート、大島ルート、
        由宇ルートの3系統に送水するために企業団が設立され、2001(平成13)年全量供給が
        開始された。

        
         旧道の北側入口。 

        
         1874(明治7)年12月尾国小学校が創立されたが、1967(昭和42)年佐賀小学校に
        統合されて廃校となる。
         尾国バス停(16:13)より柳井駅に戻る。        


田布施町の馬島にトンボロ現象と麻里府に国木田独歩

2020年10月25日 | 山口県上関・平生・田布施町

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
         麻里府は田布施町の南西に位置して瀬戸内海に面し、かって廻船業や塩田で栄えた港町
        である。地名は古くからこの地を麻里府浦と称していたことによるという。
         馬島は麻里府から南の海上1㎞に浮かぶ島で、「馬飼い島」だったことから島名となる。
        (歩行麻里府約2.5㎞、馬島約4.8㎞)

        
         JR徳山駅発の防長バス柳井駅行き1時間5分、馬島渡船場バス停(12:09)で下車するが、
        出航(13:35)まで時間があったので麻里府の旧道を散歩する。

        
         バス停から国道188号を東進して旧道に入る。

        
        
         旧道を進むと長屋門のある住宅。

        
         白壁土塀が並ぶ所の四差路を左折すれば渡船場。

        
        
        
 重厚な構えの塩田家。廻船業だったとされるが詳細は知り得ず。

         
         公民館付近にも白壁の塀が続く。

        
         1891(明治24)年国木田独歩は21歳のとき、東京専門学校(現在の早稲田大学)を退
        学し、家族が住む麻郷村(現田布施町)の吉見家に身を寄せる。
         また麻里府村の浅海家に仮宮し、近くの石崎家にしばしば出かけ、初恋の人・石崎トミ
        に出会う。「酒中日記」(小説集「運命」収録)は、田布施の青春時代の思い出の中から創
        作された馬島を舞台とする作品である。

        
         国道を横断する。

        
         別府(べふ)集落。

        
         1877(明治10)年開校の麻里府小学校は、2015(平成27)年3月をもって閉校とな
        る。

        
         桜川を挟んで小学校の向かい側に住吉神社。

        
         馬島渡船場は尾津漁港の東端にあり、待合所もあって客が猫に餌をやるのか屯(たむろ)
        ている。

        
         馬島と佐合島は自治体が違うが、合理化を図るため「麻里府~馬島~佐合島~佐賀」を
        往復する離島航路である。13時35分に乗船、馬島まで往復320円と格安運賃である。

        
        
         わずか8分の船旅であるので船内でなく、船尾のデッキで潮風を受けながら景色を楽し
        む。

        
         馬島集落が見えてくる。

        
         馬島港にはトイレ付待合所と島の案内板がある。

        
         港から右折して海岸線の広い道を進む。

        
         馬島漁港だが島の人によると、高齢のため漁業する人は少ないとのこと。

        
         2015(平成27)年の国勢調査によると人口は27人。調査から5年経過したが、生活
        条件は厳しい状況に置かれているようだ。

        
         海岸道路から山裾側に入ると1本の路地がある。

        
         門構えのある大きな住宅も空家だそうだ。出会った女性から野菜等は畑で賄えるが、そ
        れ以外は渡船で麻里府に出て、バスで隣町の平生で買い求める。帰りの重たい荷物は重労
        働だし、無医島で病気も心配だが、住み慣れた地が都であると笑顔で話してくれたのが印
        象的だった。

        
         路地を進むと馬島八幡宮の参道に出る。

        
        
         参道周囲は竹林化しているが、想像に反して倒竹もなく管理されているが、秋祭りと関
        係しているのだろうか。

        
         島にはこの神社と恵比須神社があるそうだが、恵比寿さんは見つけ出すことができなか
        った。八幡宮は山城国から勧請したと伝えられるが、詳細は知り得なかった。

        
         八幡宮参道より寿命寺跡の道は、竹の繁茂で廃道化していた。海岸道路に戻ると猫がお
        供してくれる。(八幡宮への道標あり)

        
         1889(明治22)年麻里府小学校馬島分校として開校したが、1964(昭和39)年頃に
        廃校となったようだ。
         校舎は個人の家となって現存するが、民地のためこの地点からの撮影となる。(庇の奥に
        校舎の窓が見える)

        
         渡船場まで戻って南へ向かう。

        
         小山(島)の対岸に風力発電用風車が建つ大星山。

        
         岬の先にも民家が連なるが空家も目立つ。 

        
         くるまえび養殖場跡はアサリ養殖池となったようだ。

        
         「のんびらんど・うましま」と刎(はね)島分岐。

        
         海水浴場とされる地は波穏やかだ。

        
         刎島は馬島の南側にある無人島だが、干潮になると陸続きになって渡ることができる。

        
         のんびらんど・うましまはキャンプ場として整備された施設で、テントサイト、キャビ
        ンなどがある。

        
         要害山への登山道(遊歩道)も整備され、登山靴でなくても登山可能である。

        
         島内で最も高い要害山(標高110m)への道は、倒木もなく途中にはベンチも設置され
        ている。

        
         山頂から近くの島々を一望することができる。山名のとおり昔はのろし場だったとか、
        見張り場であったともいわれているが詳細は不明のようだ。

        
         刎島と陸続きになるトンボロ現象が見られる。右下の標柱は墓地。

        
         手前に標高65mの大塩山があって、刎島、佐合島、上関町の長島、左手には半島上に
        皇座山が聳える。

        
         正面に牛島(うしま)と奥に祝島。残念ながら北面は樹木が邪魔をして展望を得ることがで
        きない。

        
         馬島港に戻って16時10分に乗船。渡船場バス停(16:41)からJR柳井駅に出る。