ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

山口軽便鉄道(小郡~山口)の鉄道敷跡を巡る (山口市)

2024年05月29日 | 山口県山口市

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製加工したものである。(左は1910(明治43)年陸軍が作成した地形図)
         1907(明治40)年12月に山口軽便鉄道を建設することで山口軌道会社が設立され
        たのだが、資金の問題で大日本軌道㈱と合併することになる。その翌年に山口支社が発
        足し、11月に軽便鉄道として小郡新町―湯田間が開通する。12月に湯田―山口新道
        (後に亀山駅)間が、1909年2月には小郡新町―小郡間が開通する。
         その後、普通鉄道開設運動が起こり、1913(大正2)年2月に山陰縦貫鉄道の一環と
        して小郡―山口間の山口線が開通する。わずか4年半の営業で廃止となった路線である。
         普通鉄道は現在の在来線でレールの間隔(軌軸)が1,067㎜だが、軽便鉄道は762
        ㎜と狭く、安定性や機関車の性能が劣っていたとされる。

        
         山陽鉄道㈱は三田尻ー下関間の敷設に際し、三田尻から県庁所在地の山口を通って小郡
        に出る路線を計画していた。これに対し旅館業者が、「客足が留まらなくなり商売に困る」
        と反対したため計画は取りやめになる。
         しかし、後に県庁を鉄道沿線の便利のよい場所に移転すべきとの意見が出たため、18
        99(明治32)年に山口町は鉄道委員会を設置して鉄道建設を推進するという背景があった。

        
         新山口駅在来線口前の一帯に軽便鉄道小郡駅があったとされる。

        
         明治通りが鉄道敷跡と思っていたが、地形図によると通りの左側は田圃で、その中に鉄
        道敷が記載されている。

        
                 明治西会館付近を北に向けて敷設されていたようだ。

        
         旧国道2号線と旧山陽道を横断して、光明寺裏から旧国道9号線に至っていたと思われ
        る。この路地は用水路に蓋がされているので、この付近に鉄道敷があったようだが消滅し
        ている。

        
         旧国道9号線が鉄道敷跡のようで、信光寺裏附近に津市停車場があったとされるが、場
        所は特定できなかった。

        
         津市から中領八幡宮までは道路拡幅工事で消滅している。

        
         国道9号線を横断して、中領八幡宮前から四十八瀬川に至っていたようだ。

        
         四十八瀬川を横断しているが、護岸改良工事で遺構は消滅している。

        
         当時の新町は、旧石州街道筋で民家などが連なっており、駅の設置は困難だったと思わ
        れる。裏手の田園の中に駅が設置されたようである。

        
         中郷八幡宮前から国道9号線を横断して、JR上郷駅付近から椹野川沿いに至っていた
        と思われる。(駅にトイレあり) 

        
         椹野川右岸には旧石州街道があったが、その脇に設置されていたようだ。

        
         小郡桜とSLやまぐち号、種田山頭火の句がデザインされた旧小郡町のマンホール蓋。 

        
         一部狭隘な場所もあったが、並行して山口秋吉台自転車道が設置されている。(小郡の仁
        保津地区)

        
         車を気にしないで歩ける自転車道を利用して中国自動車道下を潜る。

        
                        (仁保津~大歳)
         山口支社長の中村竹兵衛は山口の銭湯小路で旅館を営み、山陽鉄道の山口経由を反対し
        た中心人物だったという。県庁移転に絡んで鉄道の便利さに気付いたのか建設運動に取り
        組んだ。

        
         右手に権現堂橋を見て車道を横断する。

        
         権現堂橋の先に仁保津停留場があったとされるが、明治の地形図には記載がない。

        
         朝田川に架かる関屋橋の橋台に遺構は見られない。この付近が旧小郡町と旧山口市の境
        界。

        
        
         国鉄は軽便鉄道跡でなく洪水の少ない北側を、また煙害を避けて敷設された。

        
         和田橋停留場付近に残る和田橋の欄干。

        
         吉敷川はこの先で椹野川と合流する。

        
         この附近は昔から洪水による被害を受けてきた地域である。そのため土盛りをして敷地
        を高くし、石垣を築いた「水塚」と呼ばれる構えをした民家が見られる。


        
         天明三年(1783)年建立の石仏、三界萬霊塔などが祀られている。

        
         鉄道敷跡は吉敷川の大歳橋で左岸に移動している。(左岸側より) 

        
        
         大歳橋を渡ると石州街道筋となるが、黒川市とされて民家などが軒を連ねていたためか、
        吉敷川の左岸に敷設されたようだ。

        
         鉄道敷跡は千代松橋で吉敷川左岸から離れる。

        
         明治の地形図によると、大歳小学校校内を縦断していたようだ。

        
         小学校内を縦断した鉄道は、山口線下湯田踏切付近に大歳駅(停)があったようだが位置
        は特定できず。

        
         軌道は道路併用であり、軌道条例(明治23年)により道路幅は6間(10.98M)以上とされた。
        小郡~湯田間の旧石州街道は規定の道幅でなかったので、「拡幅予定」として認可された
        という。(短命だったため拡幅されず)

        
                  (石州街道筋から湯田経由で山口駅間) 

        
         この先で鉄道敷は旧石州街道筋を離れ、現在の湯田温泉市街地へ敷設されていた。

        
        
         県道200号線を横断し、井上公園の南東側から北西側に縦断して湯田市街地に至って
        いた。

        
         ホテル松田屋前付近で旧国道9号線と合わしていたようで、湯田駅もこの付近にあった
        と思われる。

        
         湯田温泉から市民会館まで約2.5㎞の距離には、遺構もないことや讃井停留場があった
        ようだが、位置ははっきりしないためバスで移動する。

        
         営業当初はこの付近に山口駅(後に亀山駅)があったという。 

        
         1910(明治43)年7月20日に一の坂川の御茶屋橋まで延伸されて山口駅(停)が設置
        された。

        
         明治の地形図を頼りに歩いてみたが、目標物がないため鉄道敷跡を外れた箇所や曖昧な
        地点もあったが、史跡探索ではないので納得してJR山口駅へ向かう。


長門鉄道(岡枝~西市)の鉄道敷跡を巡る (下関市)

2024年05月21日 | 山口県下関市

                
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製加工したものである。
         長門鉄道は小月駅から旧豊田町の西市駅を結ぶ18.2㎞の軽便鉄道であったが、今回は
        岡枝駅跡から西市駅跡までの鉄道敷跡を巡る。

        
         JR小月駅からサンデンバス大泊行き約16分、岡枝バス停で下車する。

        
         中間の主要駅だった岡枝駅は、倉庫との間がかなり広いが、倉庫に積み下ろしするため
        の貨物用側線が設置されていた。廃止後は農協用地に転用され、現在も木造農業倉庫は健
        在である。 

        
         木造倉庫の軒下に文字が見えるが、蔦ですべてが読めないが「□□村産業組合農業倉庫」
        とある。

        
         県道233号線(美祢菊川線)の南側に、鉄道敷跡と思われる土留めされた道がある。

        
         県道を横断すると北に延びる草地の道が鉄道敷跡。

        
         草地から解放されるとサングリーン菊川までは舗装路。

        
         サングリーン菊川の先で鉄道敷跡は消滅する。

        
         お会いした高齢者の方にお聞きすると、「いつ頃か忘れたが、圃場整備が行われて消滅
        してしまった」とのことだった。(この中を走っていた)

        
         込堂(こみどう)停留所は歌野川の北にあって、同名のバス停後ろ辺りにあったようだ。

        
         三界萬霊塔と富成橋を過ごすと、山の斜面と木屋川の間に敷設されていた。

        
         右に分岐する道が、さらに二手に分かれるが、左手の道が鉄道敷跡である。

        
         右手に数軒の民家を過ごすと、正面に函渠が見えてくる。西部利水事務所への取付道路
        で、木屋川に設置された工業用水用の2つのダム(木屋川と湯の原)を管理する。

        
         県道の一段低い道が鉄道敷跡で、現在はサイクリングロードになっている。

        
         県道を少し離れるとトンネルへの案内がある。

        
         案内の先にトンネルへの分岐。

        
         計画では込堂から木屋川沿いに敷設されることになっていたが、経費が嵩むとの理由で、
        1814(大正3)年に路線変更されてトンネルが掘削されることになったという。(岡枝側
        入口) 
          概要 全  長 104m
             掘削開始 1915(大正4)年6月
             開  通 1817(大正6)年春 

        
         内面側壁には煉瓦が用いられ、直線的なトンネルでなく、中央付近で湾曲しており、当
        時としては高度な掘削工事であったと思われる。

        
         路線唯一のトンネルは、煉瓦の剥離もなく線路はないが現役時代のままに残っていた。
        湾曲しているが入口の明かりも見え、路面は砕石混じりの土だがぬかるみもない。

        
         アーチ部分は長手積み、坑門部分はイギリス積みで構成されている。(西市側)

        
         トンネルの先は藪と化しており、舗装路の出口はトラロープで進入禁止とされている。
        岡枝側には何もなかったので、トンネル内部だけは見せようとの配慮だろうか。

        
         この道と鉄道敷の離合地点はわからなかったが、湯の原ダムの竣工は、1991(平成3)
        
年3月なので河岸に沿って敷設されていたと思われる。
         川向こうの東中山集落は、かつて長府藩の御用和紙村と名を馳せた。

        
         県道下の鉄道敷跡は、左右に半円形を描きながら西中山集落に入る。 

                
                      (西中山~石町区間)

        
         橋台の下部が石積み。

        
         県道に合わすと猿猴塚があるが、各地にこのような伝承が残されている。昔、この下の
        淵に悪戯好きの猿猴が住んでいた。ある年の夏、影山家の下男が馬を洗いに行くと、猿猴
        が馬の手綱を体に巻き淵へ引き込もうとしていた。下男は驚き、青竹で猿猴目がけて打ち
        下ろしたが手元が狂い、馬の尻を叩きつけた。馬は驚き影山家に猿猴を引きずって一目散
        に逃げ帰った。
         猿猴は捕まり、働かされて弱りきると涙を流し哀願したとある。

        
         中山橋の正面にある西念寺(真宗)は、1576(天正4)年創建と伝えられ、毛利家の御休
        息所として毛利の家紋使用が許されたという。 

        
         中山橋の近くに西中山停留所があったが、同名のバス停がある。

        
         庚申塚の先に鉄道敷跡が延びる。

        
        
         途中の城戸バス停を過ごし、さらに県道に沿って北上する。

        
         案内板のようなものが見えたので立ち寄ると、平安・鎌倉時代の関所跡という石柱が立
        っている。
         平安時代の中頃に豊田氏が定住すると、この要害の地に城戸(木戸)を設けて関所とし、
        南(小月側)からの侵入者を警戒したという。今、この地を城戸といい、関所の地を節所(せ
          つそ)
というと説明されている。 

        
         中山橋から石町入口まで約3㎞の道程であるが、城戸から石町駅までの鉄道敷跡は県道
        の拡幅によって消滅したとされる。

        
         鉄道敷跡は県道より離れるが、現在は生活道路に転用されている。

        
         石町駅は旅客とともに筑豊炭鉱の坑内用坑木が毎日のように積み出され、豊田下村の範
        囲で米穀や肥料などが入出荷された。
         小月駅から石町駅までは14.7㎞で、飯塚山付近で約15㎞とされ、「15」を示すキ
        ロ程の石柱があったという。

        
         案内に「米の備蓄倉庫があり、今でも当時を偲ぶレトロな煉瓦造の建物が残されている」
        とあるが、取り壊されたようだ。(石町駅方向を見返る)

        
         江良川付近からの農免道路が鉄道敷跡。

                
                      (石町から西市)

        
         江良地区に入ると、左手に菊川のシンボルである華山が聳える。

        
        
         江良古墳は古墳時代末期の7~8世紀の古墳群とされる。全体的に小さめの古墳で、墳
        丘はほとんどなく天井石もない。

        
         豊田神社前を過ごすと緩やかに左へカーブする。

        
         阿座上集落の鉄道敷跡は直線的で、前方に西市が見えてくる。

        
         阿座上停留所があった場所に駅標板が設置されている。

        
         切通しの鉄道敷跡。

        
        
         旧豊田町を流れる木屋川のゲンジボタルがデザインされたマンホール蓋。

        
         県道65号線(山陽豊田線)に合わして北上する。 

        
         約320mの先で県道と分かれて市街地に入る。(入口に材木店) 

        
         現在は梨選果場となっているが、ここに西市駅があり給炭水設備が設けられていた。 

        
         西市駅は豊田中、殿居に加え、俵山や豊東との流通の基点になり、倉庫が足りないため
        付近の民間倉庫を借りるという盛況ぶりであったという。列車は客車と貨車を併結した混
        合列車であった。 

        
         道の駅蛍街道西ノ市には、長門鉄道で使用された101号機関車が保存展示されている。
        西
市バス停から片道400mほどなので立ち寄る。

        
         機関車の銘板には、アメリカ合衆国 ペンシルベニア州ビッツバーク ヘンリー・カー
        ク・ポーター社 1915(大正4)年の製造年と製造番号がある。

        
         アメリカの鉱山で採掘された鉱石の運搬や、山岳鉄道に使用する目的で開発された。
        「速度は出ないが力は強い」という機関車は、小月~西市間を平均時速21.8㎞ほどで走
        り、ゆったりとして愛らしい姿から「長門ポッポ」と呼ばれた。
         1947(昭和22)年滋賀県の東洋レーヨン㈱に売却され、その後、宝塚ファミリーラン
        ドを経て、京都府与謝野町の加悦(かや)SL広場に展示されていたが、2020(令和2)年3
        月の閉鎖に伴い、この地へ里帰りする。


長門鉄道(小月~岡枝)の鉄道敷跡を巡る (下関市)

2024年05月15日 | 山口県下関市

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製加工したものである。
         長門軽便鉄道は、1918(大正7)年から1956(昭和31)年まで小月ー豊田町の西市
        間18.2㎞で営業された民営鉄道である。当初は大津郡の温泉地・俵山、さらには北浦
        の水産基地である仙崎までを結ぶ計画であったが、開業時からの営業不振で路線の延長は
        実現しなかった。
         第二次大戦が始まると、1942(昭和17)年に政府の交通事業統制令を受けて、山陽電
        気軌道に併合されて山陽電気長門線となった。1949(昭和24)年営業収入の少ない本路
        線は、分離されて再び長門鉄道に戻った。
         しかし、その後も石炭産業の不振と自動車の普及により、経営は極度に悪化して廃止を
        余儀なくされる。

        
         現在のJR小月駅が長門鉄道の終始点であった。

        
         右手の駐車場に長門鉄道小月駅があったという。

        
         駐車場内にはプラットフォーム跡のような遺構がある。

        
         工事中で通れなかったが、この付近が鉄道跡と思われる。手前にバス停のような構築物
        が現存する。(隣はスーパー)

        
         スーパーの敷地内から正面に見える市営住宅の中を通っていた。

        
         消滅した先は浜田川に沿う形で北上するが、民地になった所もあるようだ。

        
         旧山陽道に合わすと、北へ向かう細い道が鉄道敷跡である。

        
         長門上市駅は、明円寺前の通り筋にあったそうだが場所は特定できなかった。開業時の
        小月駅は貨物専用で、この駅で乗客は乗降しており、ここに機関車庫、給水塔、本社があ
        ったという。本社は後に昭栄通りに移転する。

        
         鉄道敷跡は拡幅されて生活道路となり、山陽新幹線が横断する。

        
         生活道路は右折するが鉄道敷跡は直進している。

        
         両側にある煉瓦造の構築物は、「通い樋(かよいどい)」と呼ばれるもので、高低差を利用
        して導入管で送水する江戸時代に開発された持術である。長門鉄道では軌道を敷設する
        ため、分断される田畑に水を送るため、軌道下に送水管を設けた。
         高い方の煉瓦造の枡に水が溜まると、サイフォンの原理で低い方に水が送られる仕組み
        である。(上小月側より)

        
         用水路を渡った先で、中国自動車道小月ICの取付道路により消滅している。

        
         国道491号線を横断して自動車道の下を潜るが、ここも橋脚の設置により消滅してい
        るが、付替え道路が設けてある。

        
         鉄道敷跡は国道が接近するまでは直線道である。

        
         鉄道敷跡は国道の左側だったようだが、横断が難しいので上小月交差点まで進む。

        
         上小月停留所は針路を北東に変えた上小月交差点付近にあったようだ。道路工事により
        鉄道敷跡は消滅したが、この細い道に接続していたと思われる。現在は交差点近くの国道
        に上小月バス停が設置されている。

        
         小川を渡ると県道260号線(宇賀山陽線)に合わす。どうも歩道部分が鉄道敷跡のよう
        だ。

        
         鉄道敷跡は高速道にシフトしているようだが、遺構もないようなので県道を下って行く。

                

        
         Y建設の裏附近から県道と高速道の間を抜け、下大野停留所に繋がっていたようだが、
        このまま県道を利用する。

        
         地元の方にお尋ねすると、ここに下大野駅があったとのこと。下大野バス停(下関行き)
        の向い側だが、交換設備を有していたとされるが遺構は残されていない。
         1922(大正11)年に停留所から下大野駅に変わっているが、駅名は「しもおうの」で
        あったという。

        
         その先に下大野バス停があり、鉄道敷跡は県道に沿っている。

        
        
         大野神社の鳥居が見えたので、昼食を兼ねて参拝する。神社の創建は、平安期の859
        (貞観元)年に山城国の男山八幡宮(石清水八幡宮)より勧請したと伝える。厄除けや武運長久
        などにご利益があるという。 

        
         下大野停留所から200m足らずで、県道から分かれて左の道に入る。やっと鉄道敷跡ら
        しい道幅になる。長門鉄道はもともと木材輸送を目的としたため、軌間(レール間の幅)は、
        JRの在来線と同じ1,067ミリメートルであった。

        
         トンネルを作るほどではない山の斜面を切り開き、切通しにした鉄道敷跡である。

        
        
         どの辺りが下大野と上大野の境界なのかわからないが、山裾に舗装路が続く。

        
         集落入口に庚申塚と地蔵尊。

        
         人道橋には石積みの橋台が残されている。

        
         再び切通しの鉄道敷跡。 

        
         ここにも導入管が設けられていた。

        
         「遠くに見える村の屋根 森や林や田や畑 後へ後へ飛んで行く」という鉄道唱歌「汽
        車」の一節にあるような光景だったのだろうか。今は長閑な放牧地となって多くの牛に見
        送られる。 (下大野方向を見返る) 

        
         車窓から見えたであろう大堤溜池。上大野停留所付近の緩やかな坂を登るのに、乗客や
        荷物によっては、一旦バックして助走をつけて登ったというエピソードも残されている。

        
         上大野停留所跡は豊東小学校前方に三角の緑地帯が取られ、大きな木の下に小さな駅跡
        碑が設置されている。碑の表面に「長門鉄道 上大野(かみおうの)停留所跡」、裏面に「
        大正7年10月7日 昭和31年3月末日」とある。

        
         「町の木・やまざくら」と「菊川町農業集落排水」の文字と、中央にやまざくらと町章、
        周囲に川を流れる桜がデザインされた農業集落用のマンホール蓋。

        
        
         上大野から田部への鉄道敷跡は、サイクリングロードになっている。

        
         田部地区に入ってくると桜並木が続くが、桜街道と呼ばれている。

        
         桜並木の下を流れる水路に橋台が残る。

        
         田部停留所のプラットホームが現存するが、全長45m、ホームの高さ0.65mであっ
        た。
         長門鉄道の駅と停留所の違いは、駅は貨物と乗客、停留所は乗客のみで区分されていた。

        
         田部停留所を過ごすと小川を跨ぐ橋台が残っている。水路は水を分岐するようになって
        いる。

        
         山口県十八不動三十六童子霊場の4番札所である千寿院。平成に入ってから開創された
        新しい霊場だそうだ。

        
         岡枝駅から右に湾曲しながら田部川に至る。

        
         田部川橋梁の正式名称は「吉賀川橋梁」で、3m3連の39.5mの橋長であった。19
        17(大正6)年10月5日に設置されたが、護岸の改修などで遺構は残されていない。

        
         田部川左岸から岡枝駅間ははっきりしないが、民家に至る道が鉄道敷跡のようだ。 

        
         岡枝駅は交換可能駅で、長門鉄道時代の倉庫が残されているが、現在はJAの倉庫とな
        っている。岡枝駅で歩きを終えて、岡枝バス停よりJR小月駅に戻る。


山口市徳地の狗留孫山に観音霊場と穴観音

2024年05月04日 | 山口県山口市

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製加工したものである。
         狗留孫山(くるそんざん)は佐波川右岸に聳える山で、山口市徳地庄方の背後に位置する。
        下関市豊田町に同名の山があるため、東の狗留孫山とされている。
         仏教では、釈迦仏が仏教という大宗教を成したのは単に釈迦一代のみの事業ではなく、
        過去においてすでに成道し成仏した前世の功徳が累積した結果であるとされる。過去七仏
        (かこしちぶつ)とは釈迦仏までに(釈迦を含めて)登場した7人の仏陀をいう。古い順から毘
        婆尸(びばし)仏、尸棄(しき)仏、毘舎浮(びしゃふ)仏、倶留孫(くるそん)仏、倶那含牟尼(くなご
          んむに)
仏、迦葉(かしょう)仏、釈迦仏だそうだ。

        
         JR防府駅から防長バス堀行き約32分、須崎橋バス停で下車する。かつて町の中心だ
        った通りから佐波川に出る。

        
         標高510mの狗留孫山を佐波川から眺める。

        
         佐波川に架かる出雲合橋を渡り、庄方集落内を進む。

        
         法華寺(真言宗)は、奈良期の739(天平11)年光明皇后が僧・行基に詔して(命じて)、
        諸国に創建させた長門国法華寺で、豊浦郡豊浦村にあった。
         1873(明治6)年8月に赤間関(現下関市)の東南部町に移り、1897(明治30)年5月
        月に金徳寺跡へ移転してきた。

        
         霊場見取図で巡るルートを確認して山に取り付く。

        
         寺右側の通りに出て山へ向かうと一丁目石(丁塚)がある。4体の石仏のうち、左から2
        つ目の青面金剛(しょうめんこんごう)明王は、病魔や悪霊を力尽くで追い払うという。

        
         一丁目石の向い側にある階段を上り、中国自動車道に架かる陸橋を渡って左折する。

        
        
         入口には登山道案内図が設置されており、参道の石段を上がると2丁目石と石仏が鎮座
        する。概ね丁目石は2丁ごとに見ることができる。

        
         鉄製階段の先に大きな石鳥居が現われる。扁額は風化して読めないが、柱には「慶應四
        年戌辰(1868) 正月吉日」の刻字がみえる。鳥居といえば神社であるが、神仏習合時代の
        名残なのか、金精神(こんせいしん)に対するものなのかはわからない。

        
         伐採地の東側に展望があって、中国自動車道の西に徳地小古祖集落、東に要害岳が聳え
        る。

        
         登山道は尾根上の一本道で迷うことはないが、樹林に囲まれて展望は期待できない。風
        化花崗岩が削り取られ、溝状になった箇所もある。

        
         何丁目石なのかわからないが、下部がえぐれて根っ子に挟まっている。

        
         15丁目(約1.63㎞)に「狗留孫山霊場入る」と刻まれた石柱があり、ここが結界とい
        うことらしい。かつてはこの先からは女人禁制だった。

        
         さらに進むと、「八重かすみ みねよりかけて くるそん乃 佛のちかい た乃もしか
        な」と刻まれた御詠歌岩がある。

        
         岩の先で尾根に上がる道が右に分岐する。ここが三十三観音霊場入口で、観音巡りをす
        るため右の山道へ入る。

        
         1番目の摩崖仏の傍に「1」と記されたパウチ加工の番号札がある。よくわからないが
        柳の枝を持ち、悪病をはらうとされ、観音さまには珍しい忿怒相をしている楊柳(ようりゅ
          う)
観音だろうか。 

        
         2番は道より奥まった所にあり、引き返して斜面を上がって行くと3番がある。立体的
        な摩崖仏ではなく、浅くリレーフ状に刻まれたもので、風化によってはっきり見えないも
        のもある。

        
         番号札のみで摩崖仏もはっきりしないので、どの観音像なのかはわからない。(4番) 

         
             5番の刻字が見える。         6・7・8番もはっきりしない。

        
         西院(さい)の河原とされているが、親よりも子供が先に死んでしまうと、三途(さんず)
        のほとりにある河原に行くことになる。
         ここで子供は父母の供養のために、小石を積み上げて仏塔を作らなければならないが、
        絶えず鬼に崩される。地蔵菩薩が現われて子供を救うとされるが、賽の河原の石積みは私
        たちの人生の姿とされる。

         
         9番の摩崖仏は岩上に座り、人びとの苦  10番を過ごすと道は二手に分かれるが、
        しみを取り除くとされる施薬観音だろうか。 番号順だと「8」の字を描くように設定さ
                             れている、何か意味があるのだろうと順番
                             に従う。
        
        
         11番に行く途中に「悪人戒め岩」がある。言い伝えによると、悪人が通ると挟まれて
        脱出することができないという。

        
         奥の院裏手に出ると、堂は崩壊の途にある。

         
         11番は足場の悪い位置にあって摩崖仏   場所や向きによって風化が進んだものや、
        もはっきりしない。この先で山頂と案内さ  苔に覆われた摩崖仏もある。(12番)
        れた道に上がる。

        
         穴観音への分岐だが、どう歩くか思案の場所である。21番まで行って穴観音へ向かう
        ことにする。

        
         13番摩崖仏。

        
         参道途上に東方遥拝所の案内があり、テラス状の展望地には遥拝所を示す石柱がある。

        
         残念ながら木立の生長で展望はよくない。遥拝所は神道にみられるが、何を遥拝してい
        たのだろうか。

        
         参道の斜面に14番摩崖仏。

         
         15番と16番の摩崖仏は、日差しの関係でこんな撮影となる。15番から21番まで
        は連続して見ることができる。

         
         17番・18番は風化して摩崖仏を探すのに苦労する。番号札がないと通り過ごしてしま
        うだろう。 

        
         19番摩崖仏。

         
               20番摩崖仏。         21番で穴観音分岐まで引き返す。

        
         穴観音への道は、概ね山腹をトラバースする感じだが、意外と長く感じる。登山者は参
        道と穴観音道を往復に利用されているようだ。

        
        
         風土注進案に「是より奥の院に穴観音9尺(272.7㎝)の石の中に尺位の穴あり。深さ
        曲りをしれず、内に水晶石なり、是を出現石という」とある。
         穴観音についての詳細はわからないが、ひょっとすると男性と女性の象徴を神格化した
        ものではなかろうか。男根と女陰が重なり合うことではじめて人間の生命が誕生するので、
        子授かりのための信仰は自然で根源的ものと思われる。
         2012(平成24)年に有志が探索した結果、偶然に発見されて登山道などが整備された
        という。

        
         穴観音の右側に山頂への標識があり、上がって行くと分岐に出る。山頂を示す標式は鷲
        ヶ嶽を示すもので、狗留山山頂は反対側の道にある。

        
         標高510mの山頂に石仏が鎮座する。三角点のある所も山頂には違いないが、鷲ヶ嶽
        という別の山頂である。なぜこのような変な形になってしまったのだろうか。地元の方に
        お聞きすると、奥の院のある頂上が狗留孫山の山頂だよという返事だった。

        
         山頂の展望も狭まり、東面の山並みが望める程度である。

        
         下って行くと、佐波川流域の集落や防府の山々が望める。

        
         巡拝路に合わすが、22~26番を残していたので穴観音分岐方向へ下る。  

        
         22番摩崖仏だが、摩崖仏とは自然の岩壁を利用し、岩面に彫刻された仏や菩薩等の総
        称であるという。

        
         23番摩崖仏は巡拝路から外れた位置にある。

        
         24番摩崖仏。

         
              25番摩崖仏。              26番摩崖仏。

         
         分岐まで戻って27~33観音へ向かう。27番と28番は風化している。

        
         29番摩崖仏は岩質がいいのかはっきりしている。合掌観音だろうか、蓮華座に座って
        合掌し、人びとのお手本となるよう自ら拝んでいるようにも見える。

        
         風化花崗岩とシダは相性が良いのか、シダが繁茂した道となっている。

         
         30番と31番摩崖仏。この霊場
がいつ頃に設けられたのかわからず終いとなる。

         
         32番と打ち止めの33番を見て、再び悪人戒め岩経由で奥の院を目指す。

        
         山頂との分岐を過ごすと宝篋印塔(ほうきょういんとう)があり、宝筐印陀羅尼の経文を納め
        た塔なのか、供養塔・墓碑塔なのかはわからなかった。

        
        
         金徳寺は天武天皇(   -686)の勅願寺であるといい、建久年間(1190-1199)に俊乗坊重源
        上人が中興したと伝える。
         1699(元禄12)年と1817(文化14)年の火災に罹りて、寺記などが焼失したという。
        もと観音堂の側にあったが、寒威烈しき場所だったため、1752(宝暦2)年法華寺がある
        地に移建する。当寺は真言宗で萩の満願寺の末寺だったが、1870(明治3)年12月満願
        寺に合併して寺号が廃止された。 

        
         奥の院入口の彫刻だが、奥の院辺りに観音堂があったと伝えられている。

        
         奥の院の右側には、俊乗坊重源上人が当寺にしばらく滞在して再建(中興)したといわれ
        る中興開山の碑がある。一説によると、飛鳥期の673(白鳳元)年に金徳寺が創建されたと
        伝えられている。

                
         観音堂の右手に御勅願岩(御神体)がある。男根の形はしていないが、穴観音に対する金
        精様のようでもある。

        
         「不許葷酒肉寺内」の石柱があるが、においの強い野菜(ニラ・ニンニクなど)や肉、酒
        を口にしたものは、心を乱し修行の邪魔になるので、寺の中に入ることを許さないという。

        
         法華寺に戻って下って行くと、最近は見かけることが少なくなったヤギが飼育されてい
        る。
         堀バス停よりJR防府駅行きのバスに乗車する。