ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

山口市秋穂の秋穂浦 <大内時代のお上使道玄関口>

2020年01月31日 | 山口県山口市

           
         この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分の1地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複 第546号)
         秋穂半島の南東部、長沢川の左岸に位置し、南は周防灘に面する。北に大海山があり、
        この山地がそのまま南へ続いているため、町域は二分され、中心は西側にある。地名の由
        来は「秋の穂の満ち渡る郷」の意という。(ルート約4㎞)

           
         新山口駅10時38分発の秋穂荘行きのバスに乗車して、下村バス停で下車する。

           
         バス停から引き返すと、現在の西中国信用金庫秋穂支店地に旧秋穂村役場があった。1
        879(明治12)年に秋穂東本郷村(大海、青江村合併)と秋穂西本郷村が存立したが、1
        889(明治22)年に合併して秋穂村が誕生する。

           
         かっては商店が軒を連ねていたようだが、その面影は残されていなかった。

           
         商店街として機能しなくなったことや、海岸線に道が新設されたこともあって、時に車
        が通る程度である。

           
         路地奥には秋穂座という映画館があったようだが、その後はスーパーマーケットに移行
        したが、これも時代に波に押し流されて看板だけが証を残している。

           
         大内氏の時代、秋穂浦は山口の表玄関として栄えた地で、ここから山口に入る道は高貴
        な人たちが往来するので「お上使道」と呼ばれた。その町筋の江の川(現在は道路下)に髪
        解橋があった。
         船で来た旅人はここで髪形を整えたといわれ、山口の地には旅装を解き、服装を正した
        場所として袖解橋があった。(説明板より)

           
         お祇園様として親しまれ、昭和時代のお祭りには、近郊から多くの人が訪れたとされる
        八坂神社参道。

                   
         室町後期の1563年に「下村疫神社」として遷座する。1711(正徳元)年に疫病が
        流行し、疫神の傍に祇園牛頭天王を祀ったところ疫病が退散したされる。1871(明治
        4)年に八坂神社と改称する。

           
         藤田勉強堂さんから山口銀行のある通りも閑散としている。

           
         本町には秋穂霊場第26番札所があり、地蔵堂は別棟に移されて「北向地蔵尊」として
        祀られている。
         今もお大師参りでは、地元の方による御接待があるとのこと。札所の東側道筋に高札場
        があったようだ。

           
         通りに戻って直進し、三差路を右折すると加茂地区に入る。ここも同じような光景が続
        く。

           
         左手の秋穂霊場25番札所に石風呂への案内がある。

           
         加茂石風呂は2つの部屋を合体したもので、1887(明治20)年代に造られたとされ
        る。施浴後の体の洗い清めは、敷地内の井戸水を利用した新しい習俗の風呂とされる。使
        用目的は案内されていないが、塩田労務者などの保養に利用されたと思われる。

           
         秋穂街道(お上使道)を歩く場合、屋戸入口バス停が最も近い。

           
         秋穂港と大内氏のいた山口を結ぶ秋穂街道が、山口への一番の近道であった。室町末期
        の1569年に大内輝弘が、山口の毛利氏を攻めるために兵船を率いて上陸した地でもあ
        る。

           
         古い港があったあたりは埋め立てられて面影はないが、案内によると重ね岩に船を繋ぎ、
        山口へ向かったとある。

           
         秋穂街道を辿れば善城寺前に出ることができる。

           
         掘割の道を進む。

                  
         掘割を抜けると右折して丸山の南山麓を辿る。

           
         この風景を見るまでは良かったが、この先はカヤトと竹の繁茂で道は遮断されている。

           
         引き返して右折した地点を直進すると、寺跡と思われる展望地に出る。

           
         秋穂湾を囲むように長浜の地から岩屋の鼻。

           
         秋穂市街地を見て善城寺へ向かう。

           
         下ってくると右手に丸山へ向かって秋穂街道が延びている。

           
         街道の右手奥に真言宗の善城寺という古刹がある。

           
         新堂された寺の前に天然記念物のタブノキがあり、根元の空洞には弘法大師が祀られて
        いる。

           
         参道を下って先ほどの道を直進すると、民家の左を巻いて下村新池の土手を通って県道
        に出る。

           
         寄り道して幕末期に八幡隊が駐屯した菩提寺(今の禅光寺)に立ち寄る。ここにも秋穂霊
        場がある。

           
         吉岡新太郎は秋穂に陣営があった鋭武隊の小隊長で、1868(明治元)年1月の戊辰戦
        争の際、吉岡の隊は大坂に駐屯する。その時に難波くろがね橋にあった商家の娘・山村マ
        サと恋仲になる。 
         同年4月、命により秋穂に戻った吉岡をマサが迫った。このため隊中規則を乱してしま
        い、6月9日に秋穂の宿屋で心中する。不憫に思った秋穂の人々が墓碑を建てる。

           
         はっきりしないが菜の花がモチーフされたマンホールのようだ。
         秋穂街道を中野集落まで歩くことにしていたが、山尾庸三生誕の地を訪ねるため、下村
        バス停14時37分発のサンパークあじす行きのバスに乗車する。

           
         黒潟バス停(14:42)で下車して黒潟海岸に立ち寄ると、海岸から秋穂市街地と串山連峰
        が望める。

        
         長浜入口バス停まで約850mの距離を歩いて、山尾庸三生誕の宅周辺をぐるりと巡る。
        この付近は旧山口市秋穂二島と旧秋穂町の市町境であるが、現在は山口市であるが行政区
        域は別である。

           
         長浜集落に入ると一角に広い屋敷地が見えてくる。

           
         当邸は幕末期に密航留学した長州ファイブの一人・山尾庸三の生家である。山尾家は藩
        重臣の繁沢家の給庄屋(給領地にある庄屋)であった。

           
         山尾庸三は高杉晋作らと横浜・品川の外国公館の襲撃に加わり、翌年伊藤俊輔(博文)、
        井上聞多(馨)らとイギリスに留学する。
         帰国後、工部大学校(現東京大学工学部)を設立し、また、日本で最初の聾唖学校も設立
        する。]

        
         2003(平成15)年に長州五傑顕彰碑が海岸通りに建立されたが、現在は二島中学校     
        に移転されている。(1013年撮影)

           
         長浜バス停までわずかな距離で、15時30分の県庁行きに乗車できる。

           
           
         秋穂街道(秋穂浦~四辻間)のルートが不明朗ではあるが、丸山の切貫道から善城寺前に
        出て、中野、天田から幸田、梅ノ木峠を経て四辻に出る。
                   


宇部市の岐波は海岸線に歴史を残す

2020年01月24日 | 山口県宇部市

           
        この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分の1地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複 第546号)
         岐波は宇部丘陵の東部外れに位置し、植松川・五反田川流域にあって周防灘に面する。
        (歩行約9㎞)

           
         1824(大正13)年に宇部鉄道の駅として開業したJR岐波駅は、島式ホームに待合室
        もなく雨の日は傘を差しての乗降となる。

           
         宇部線の踏切を横断して植松川に架かる高橋を左折する。正面の日ノ山は萩藩の狼煙(の
        ろし)
場山となっていたが、中世にはすでに狼煙場であったと思われる。

           
         日の山の麓に古尾稲荷社がある。

           
         由来によると、奈良期の751(天平勝宝3)年伏見稲荷より勧請し、現在の古尾八幡宮が
        ある地に創建したとされる。
         後に古尾八幡宮は消滅するが、1887(明治20)年稲荷社に八幡宮が勧請・合祀される。
        1953(昭和28)年八幡宮より日の山中腹に分社されたが、1985(昭和60)年現在地に
        新築移転する。

           
         植松川排水機は周防灘高潮対策事業として、1975(昭和50)年に水門が建設される。
         その後、1999(平成11)年9月に台風18号が宇部市付近に上陸し、宇部空港が冠水
        するなど沿線は被災したため、潮位の見直しが行われて供用開始された。

           
         植松川河口部。

           
         1996(平成8)年に宇部市が岐波海水浴場を再整備したキワ・ラ・ビーチ。

           
         遠浅のため干潮期には砂州も見られ、潮干狩り(有料)もできる。

           
         ビーチ裏手には標高10mの狭小な洪積台地に、5基の群集墓を形成してい
る若宮古墳
        がある。

           
         被葬者は不明とのことだが、同程度の規模の古墳が群集することや、地理的位置や年代
        から推して、付近の農村もしくは波雁ヶ浜の製塩業に関係する族長級の家族墓の可能性が
        あると考えられている。

           
         これらの古墳は上部が欠失した横穴式石室であり、古墳時代後期の円墳群とされる。

           
         白髭神社(松堂址)を捜すが手掛かりはなく、小祠と板碑のようなものが岐波浦児童公園
        にある。白髭神社は猿田彦命で白い鬚(ひげ)を蓄えた老人の姿で、延命長寿と導きの神とし
     
   て崇敬されてきた。

           
         三光寺は菩提寺という天台宗の寺で、大内家の伽藍であったが大内家の滅亡と共に寺も
        衰退する。
         1591(天正17)年菩提寺は現在地に移転し、天台宗から浄土真宗に改
宗した。後に本
        山から三光寺の寺号を賜わったという。

           
         岐波浦のメインロード。

           
         右手の岐波墓地には、1775(安政4)年岐波で生まれた三保虎五郎の墓があるとされる
        が、墓標が多く三保家と読める墓標以外に見つけ出せなかった。虎五郎は文化文政の頃、
        兵庫の貿易業者柴屋長太夫のもとで、北前船に乗り込み海産物の貿易に従事する。のちに
        主人の屋号「柴屋」を与えられ柴屋虎五
郎とも称した。「三保」姓は島根県の美保神社の
        神官から得たとされ、岐波浦
の畔頭(くろがしら)として活躍する。

           
         波雁ヶ浜(はかりがはま)の松林は
呼び名が違っていたようだが、1924(大正13)年宇部
        鉄道が開通すると、海水浴誘致に伴って波雁ヶ浜と名付けられた。
         享保年間(1716-1736)花園に住んでいた野村又右衛門が砂防林として、日向松の苗を植え
        たと伝えられる。

           
         波雁ヶ浜の松林にある古尾八幡宮は、奈良期の751(天平勝宝3)年に宇佐八幡宮から勧
        請し、現在の佐山、阿知須、東岐波、西岐波の総鎮守とした。世が進むにつれて参拝に不
        便を感じ、鎌倉期の1233(天福元)年南方八幡宮(西岐波)と北方八幡宮(阿知須)に分社す
        る。
         ところが、1879(明治12)年岐波村が西岐波村と東岐波村に分割されると、東岐波に
        は氏神がなく他の八幡宮を迎え、1887(明治20)年古尾八幡宮が復活する。

           
         現在の社殿は旧稲荷社であり、社殿前に並ぶ灯籠の大半は、王子権現や赤崎神社
など合
        祀した神社のものとされる。

           
         現在の東岐波体育広場は、古墳時代後期(6~7世紀)頃の波雁山製塩遺跡とされる。
         1897(明治30)年黒崎海岸付近に避病院が建設されたが、隔離病舎は村財政の面で延
        期されていた。1906(明治39)年波雁山隔離病棟がこの地に新設されると、黒崎避病院
        は統合されて波雁山避病院となったが、1945(昭和20)年に閉鎖されて解体された。

           
         波雁ヶ浜の海側に東條恩師記念林の碑がある。東條三郎は小鯖村出身で、1889(明治
        22)年に小学校教師として赴任する。35年の長きにわたって東岐波
の教育に尽力し、1
        908(明治41)年卒業生らが波雁ヶ浜に敷地を買い、小松を植えて碑を建てた。

           
         月崎から波雁ヶ浜、三神社のある岬まで続く東岐波の干潟は、満潮時の深さが1~3m
        と遠浅の海が続いている。

           
         見える建物は山口宇部医療センターで、1942(昭和17)年傷痍軍人療養所山陽荘とし
        て建てられた。終戦後はニュージーランド軍に接収されたが、その後は国立結核療養所を
        経て、現在は総合病院としての機能を有している
        
         
         医療センターの坂道を上がって行くと、左手にケアハウス棟が案内され、この道を進む
                と、左手に広々とした芝生先に白亜の4柱が見える。

           
         1946(昭和21)年5月ニュージーランド軍の接収命令を受け、その後2年間は軍の宿
               舎として使われた。1948(昭和23)年8月に解除されたが、ニュージーランド軍が 残し
        ていった記念碑がある。

           
         高台から岐波の海岸線と日の山。山の形が象に似ているので象山とも呼ばれている。東
        には瀬戸内海が眺望できる。

           
         痕跡は残されていないが黒崎避病院(ひびょういん)があった地。1876(明治9)年コレラ
        が流行し、明治政府は日本各地に避病院の設置を進める。ただ、当時の医療技術からすれ
        ば隔離するための施設であった。
         このため郊外に設置されることが多く、迷惑施設のため流行が収まると速やかに
破却さ
        れた。1897(明治30)年伝染病予防法が制定され、法的に伝染病院
となったが、避病院
        
は俗称として長く用いられた。

           
         県立こころの医療センター周辺部を巡って宇部線高架を潜る。

           
         国道に合わす左手に「吉敷郡東岐波村役場跡」の碑がある。1879(明治12)年に岐波
        村は東・西岐波に分村し、1882(明治15)年この地に戸長(村)役場を新築する。195
        1(昭和26)年他へ移転するまでの69年間、村の中心をなした場所である。

           
         国道190号線を阿知須方面に進むと、五反田川のほとりに「部坂正恒頌徳碑」がある。
        碑文には五反田川を造って水難を防いだと記されている。

           
         国道を横断すると浄土真宗の西福寺。

           
         寺前から旧往還道を北上するが、旧道にマッチする建物は現存しない。 

           
         墓地の右手入口には、1723(享保8)年に建立された地蔵立像がある。鎌倉時代以降に
        発達した円頂形の地蔵で、左手に摩尼宝珠、右手に錫杖を持った延命地蔵。大正末期頃ま
        で使用された往還道の道標にもなったとされる。

           
         花園小学校は岐波村と井関村が共同で開校した最初の小学校で、1873(明治6)年まで
        寺子屋があった地に10年間ほど存立する。

           
         山口市嘉川から宇部村に通じていた旧往還道。

           
         民地の傍に一基の常夜灯。

           
         永亨年間(1429-1440)に天台宗・善翁庵と称して、日の山近くに草庵を結び、その後に桃
        林寺と改称したが大内輝弘の乱で伽藍を焼失する。江戸期に浄土真宗に改宗して善照寺と
        なり、当地に引寺される。

           
         境内の花崗岩で造られた宝篋印塔は、1810(明治43)年頃に聖社にあったものが移設
        されたとのこと。

           
         街道筋で唯一の古民家。

      
     
         1903(明治36)年花園東に花園郵便受取所が開設され、その後に東岐波郵便局に改称
        する。大正期に花園南に移転するが、業務拡大と利便性を考えて石碑のある地に再移転し、
        196(昭和39)年までの34年間業務が行われた。


美祢市美東町の絵堂は明治維新のスタート地と江戸期に銭座

2020年01月21日 | 山口県美祢市

           
         この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分の1地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複 第546号) 
         絵堂は瀬戸内海の周防灘に注ぐ厚東川の支流・大田川の上流及びその支流の絵堂川、銭
        屋川流域に位置し、丘陵性に山地と谷底平野に立地する。
(約8㎞)

           
         新山口駅から防長バス東萩駅行き約45分、絵堂バス停で下車する。

           
         バス停から引き返すと県道は左へカーブするが、右手の車道を山手に向かう。

           
         絵堂宿西外れの地は、1865(元治2)年1月7日未明、諸隊斥候隊が最初の砲撃を行っ
        た地である。現地には絵堂戦跡記念碑が建立されている。


           
         萩政府の諸隊鎮静軍は、1864(元治元)年12月26日萩城下を出立し、28日から絵
        堂宿の酒屋・柳井弥伝次邸(幕末頃は藤井邸)を本陣として、18
65(元治2)年1月7日未
        明まで絵堂宿に駐留した。この柳井邸の門がこの地
に移設されている。

           
         門の右柱に弾痕跡。

           
         引き返すと法香院観音堂への案内がある。子授け・乳授けに霊験あらたかな聖観音が安
        置され、長門三十三観音霊場第16番札所にもなっている。


           
         観音堂から絵堂の町並み。正面に城前山が聳える。

           
         観音堂は法香院境内の一角にある。

           
         境内の板碑は豊臣秀吉の朝鮮の役に出兵した毛利輝元が、朝鮮から連れてきた僧尼の供
        養塔と伝えられている。総高183cmの正面上部中央には、阿弥陀
仏如来を示す「キリー
        ク」が刻印され、その下に「妙善、追善、閑誉妙林禅定
尼、慶長5年6月37日」とある。

           
         法香院(浄土宗)は法然寺と称していたが、明治維新の頃に長登村の妙香院と合併して法
        香院と改めた。


           
         右カーブする左手に萩政府軍が本陣を置いた柳井邸があった。戦書を届けた後に諸隊斥
        候隊が銃撃を開始すると、慌てた政府軍が赤村まで退却する。


           
         養泉寺は絵堂宿の西北山裾にあり、絵堂開戦時には萩政府軍側の荻野隊宿陣地となる。
        諸隊の隊員とも親交があって、諸隊からの要請で門前の松に「荻野
隊」の提灯を掲げてお
        り、諸隊は襲撃を避けた。荻野隊は、元来諸隊の一隊で
あったが士分の者が多く、その後
        離反して政府軍側に付いたのである。


           
         街道に面して軒を連ねていたようで、人家の裏手は耕作地となっている。

           
         絵堂宿は赤間関街道と大津郡の要港である瀬戸崎(仙崎)街道の分岐点でもあった。風土
        注進案によると、宿の規模は長さ185間(約336m)で家数63軒
とあり、繁盛した宿
        場
であったようだ。

           
         新しい家屋には黒瓦もあるが、赤い石州瓦の家屋が多くみられる。

           
         上ノ町を右折して赤地区へ向かう。

           
         碇集落を経由して正岸寺(しょうがんじ)を目指すと、地区内を小郡萩道路が横断している。

           
         短い距離だが遠くに感じられる。

           
         1月6日絵堂から退却した政府軍は、赤村の正岸寺を陣所とした。1月16日の夕刻に
        諸隊が攻撃して1時間余りで戦いは終結し、政府軍は山田村
(現萩市山田)に陣を引いた。

           
         荻野隊士であった堀越松三郎は、伊佐村徳定出身の農民で、16日の戦いで戦死する。
        墓碑は石灰岩塊製で刻銘が読める。 


           
         立石、植畠集落内を過ごすと地区の中心である鍔(つば)市が見えてくる。人家は少ないが
        赤郷村の中央部に当たるようだ。


           
         村役場が廃止されて美東町出張所が新築されると、赤郷公民館として活用されてきた。
        平成の合併で美祢市になると、公民館を含む新たな建物ができて解
体されてしまう。(現
        警察官駐在所付近)


           
         1665(寛文5)年に銭屋千軒が焼き払われたが、焼け残ったとされる銭屋のハゼの木。

           
         銭屋集落は絵堂宿の北半里(約2㎞)にある小集落。


           
         1637(寛永14)年幕府は貨幣経済流通のため、全国8ヶ所に「寛永通宝」を鋳銭する
        ための銭座を設けた。その内の1ヶ所が萩藩銭座で、藩は幕命によりこの地を選んで鋳造
        を開始した。鋳造事業は1ヶ年の更新契約であったが、3年後に幕府は新銭過剰のため諸
        藩に製造中止を命じる。しかし、銭貨鋳造は利益が多いため、停止令後も藩の黙認のもと
        に私鋳が続けられた。

           
         銭屋銭は白銅色で文字に特徴があり、判別が容易であったため幕府の探索が厳しくなる
        と、藩は責任を村民に転嫁し、1665(寛文5)年郡代官が銭屋千軒を焼き払ったと伝える。


           
         集落の間を抜けると国道490号線に銭屋バス停がある。ここで乗車すれば新山口駅に
        戻ることができる。


美祢市美東町の大田は維新分け目の戦いが行われた地 

2020年01月21日 | 山口県美祢市

        
        この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分の1地形図を複製したものである。 (承認番号 令元情複 第546号)
         大田(おおだ)は東高西低の山地に囲まれた中に小盆地を形成し、中央を大田川が南流する。
        左岸の中央部に市街地があるが、長登鉱山の繁栄に伴い物資の集散地となり市が立った。
         また、船木街道の宿場町としての機能も有した。(歩行約7.5㎞)


        
         新山口駅から防長バス東萩駅行き約35分、大田中央バス停で下車する。

        
         県道30号線(小郡三隅線)を引き返し、交差点の先で大田川堤防に沿う。

        
         道の駅みとうにある大仏さん。ちょっと顎髭(苔)を付けられたようだ。

        
         道の駅から県道を小郡方面へ進むと、左手に旧道(旧船木街道)がある。

        
         幕末期の1865(元治2)年諸隊と萩政府軍が、大田・絵堂の地で維新分け目の戦いが行
        われたところである。諸隊の勝利で明治維新の道を歩む第一歩となったが、まさに明治維
        新発祥の地ともいえる。


        
         1865(元治2)年1月6日夜半、諸隊は赤間関街道中道筋の絵堂宿に進軍した萩政府軍
        本陣を夜襲して、開戦の火ぶたが切られる。大田・絵堂の戦役は1月16日までの10日
        間の戦いであったが、近代兵器を装備した
諸隊が勝利し、長州藩は再び尊王攘夷を掲げて
        倒幕の道を進むことになる。


        
         1月7日、絵堂の夜襲に勝利した諸隊は絵堂宿を守備していたが、防戦には不利な地で
        あることから8日に諸隊を大田に移動させた。西光寺(浄土真宗)は銃隊が陣所とする。

        
         旧道を右折すると、福田寺(ふくでんじ)には八幡隊の陣所が置かれた。

        
         福田寺から東進すると地蔵院(臨済宗東福寺派)には、奇兵隊の陣所と諸隊の器材置場に
        なった。


        
         当寺は無住で小郡下郷の妙湛寺(臨済宗)が兼職されているようだ。        

        
         裏山の岩盤と自然石をそのまま利用した築山式枯山水庭園は、江戸時代後期の作庭とさ
        れる。


        
         諸隊は光明寺に本陣を置いたが、後に美祢勘場、金霊社へと本陣を移動させる。光明寺
        は勘場に本陣が移動した後は病院としての役目を果たす。


        
         境内には幕末に大田で雩山塾を開き、多くの門人を輩出したとされる羽仁敬斎の碑があ
        る。


        
         ここは奇兵隊・南園隊・八幡隊・遊撃隊など諸隊の戦死者17名の墓である。呑水峠や
        や天神峠などの町内各所に散在していたが、1913(大正2)年この地に合葬されて国が祭
        祀をしていたので官修墳墓と呼ばれた。


        
         その隣にあった崇国寺(跡)は鉄砲隊の陣所となった。

        
         大田地区は古来よりその名が知られ、奈良時代には長登銅山が奈良東大寺大仏鋳造のた
        めの銅を産出していたと云われている。さらに寛永年間(1624-1644)には町内の銭屋に幕府
        の命により、寛永通宝の鋳銭所が開かれるなど、古くから銅の産地として栄えた町であっ
        た。


        
         時折、車が通行する程度の通りである。

        
         右手に官修墳墓入口を示す標柱。

        
         江戸期には萩藩の代官所(勘場)が置かれたが、この代官所は藩主が領内視察や狩猟の際
        に休憩する本陣(御茶屋)も兼ねていたので御茶屋勘場と呼ばれていた。明治になると美祢
        郡役所や大田警察署、裁判所、税務署等が置かれ、この地域における行政の中心地となる。


        
         1932(昭和7)年頃の種田山頭火は小郡の其中庵に居を構え、たびたび大田方面に行乞
        を行っている。
               
「朝ぐもり もう石屋の鏨(のみ)が 鳴だした」
         この句は、1933(昭和8)年7月15日この場所(伊東敬冶居)で詠まれたものである。
        敬冶と山頭火の交流は同じ熊本に居る山頭火を訪ねたことに始まるという。吉敷郡小郡町
        出身の敬冶は国森樹明と其中庵を手配した人物である。農協に技術指導者として勤めてお
        り、転勤で旧美東町にあって大田に居を移していた。山頭火は前日に敬冶宅を訪れて風呂
        と酒を御馳走になり、15日の朝に出立している
。(現居住者の小方氏が建立)

        
         現在の大田小学校創立以前は、郷校の温故堂があった場所で、在郷の士及び庶民の教育
        場として幕末期に創始された。敷地北側に美祢勘場、1879(明治12)年に郡役所が置か
        れ、郡制廃止された以降は大田町役場に引き継がれた。


        
         一対の灯籠は、1866(慶応2)年の第二次長州征伐(四境の役)の際に、奇兵隊が小倉の
        戦いで延明(命)寺から手に入れた一対の灯籠を寄進する。灯籠の寄進年は慶応3年であっ
        たが、元治4年としているのは、時の将軍・德川慶喜に応じないといった意気込みが伺え
        ると案内されている。


        
              「星ににた うめのひかりや ちとせまで」古鐘(杉孫七郎)
         奇兵隊は天神信仰に厚かったことから、星は明けの明星を指していて、梅の光は大田・
        絵堂の一戦が維新の夜明けを迎えたことを指しているとのこと。


        
         大田・絵堂の戦いで諸隊の本陣となったが、当社が長登(呑水峠)と川上口の分岐点にあ
        り、作戦上絶好の位置にあったことによる。
明治の神社整理で大田八幡宮に合祀され、大
        田天神は隣に移設されて無格となる。
         1917(大正6)年山縣有朋が萩に帰郷の際に無格となったのを知り、社格を復旧させて       
        「金麗社」と正式名称になった。傍らの大田川を金麗(かなつく)川と云っていた由縁である。


        
         大田絵堂の戦いで散った諸隊の天宮慎太郎など十七士を祀る碑がある。碑には「明治維
        新の成敗は防長二州の向背に繋がり、防長二州の向背は大田絵堂の一戦に決す‥」 とあ
        る。(墓は官修墳墓)
       

        
         高さ3.5mもある石碑は、神奈川県から持ち込まれた大田邑(村)碑である。杉孫七郎撰
        だが、ペリー来航から始まって長州藩の概述し、大田絵堂の一戦が明治維新に果たした意
        義が述べられている。(1906(明治39)年建立)


        
         金麗社の隣にある大田八幡宮は、室町期の1420(応永27)年平原の西山に創建され、
        1911(明治44)年現在地に移された。


               
                     (大田・絵堂の戦い)

        
        
         川上口の戦いで戦死した萩政府軍の駒井小源太と水津岩之允の墓碑二基が、集落の畑地
        にひっそりとある。


        
         1864(元治元)年1月10日の午後、萩政府軍が大挙して大木津(おおこつ)口へ攻め込
        み、奇兵隊は持ちこたえるができずに後退し、政府軍は勢いに乗じて川上口へ進撃する。
        (大田川と原集落)


        
         神社奥の坂が幣振坂とされ、奇兵隊第二銃隊が政府軍の側面を攻撃し劣勢を挽回する。
        この時に隊員は大田天神の御幣を身に着け、決死の覚悟で挑んだので幣振坂と呼ばれるよ
        うになった。


        
         激戦地となった川上に戦跡記念碑。

        
         もう一方の激戦地となった呑水峠(のみずのたお)にも戦跡碑がある。(国道の峠下の山手側)

        
        
         1865(元治2)年1月14日の朝6時頃、萩政府軍が長登口から呑水峠に進撃。庸懲隊
        は退却して八幡隊と合流し、赤坂堤の土手を楯にして防戦。南園隊、奇兵隊が加勢し、折
        からの雨で政府軍の火縄銃が役に立たず、15時頃に政府軍は総崩れとなる。


        
         赤坂堤から下ってくると鷹の巣バス停があり、新山口駅行きバスに乗車できる。道の駅
        からトイレ(金麗社は冬場使用禁止)がないので要注意である。
         


柳井市阿月は神明祭で知られる地

2020年01月10日 | 山口県柳井市

           
        この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分の1地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複 第546号)
         阿月(あづき)は周防灘に突出する室津半島の東部に位置し、西に山塊があり、海岸に沿っ
        て南北に長く、小瀬上関往還道に面して集落が形成されている。(歩行
約6㎞)

           
         JR柳井駅から防長バス宇積行きがあるが、便数が少なく帰路を考えると利便性が悪い
        ため車対応とする。(バス停近くに駐車)


           
         バス停から県道72号線(柳井上関線)柳井方面へ歩くと円勝寺がある。この地方では最
        も古い浄土真宗の寺で、境内にはホルトノキがあるとのことだが、平賀源内がこの木をオ
        リーブの木と勘違いして「ポルトガルの木」して紹介してしまった木である。どの木かわ
        からず拝見できなった。


           
         さらに柳井方面へ引き返すと伊保庄と阿月の境に小池峠があり、左手の旧街道に長石が
        建っている。表面に「祝凱旋」「阿月尚武会」その裏に「明治38年(1905)10月建之」
        と刻まれた日露戦
役凱旋門がある。柳井津駅(現柳井)から歩いて帰った兵士が、村を挙げ
        て迎えら
れた名残りとされる。

        
         道は旧小瀬上関往還道。

           
         青木バス停を右折して無動寺へ向かう。

           
         琳聖太子の創建と伝えられる無動寺(真言宗)は、鎌倉・室町時代に栄えた。その後、
        利氏の祈願所となり、堂宇の鬼瓦には毛利本藩の家紋がある。


           
         寺から引き返すと左手に防護柵が見え、柵に沿って最上部に上がる。(急坂に葛の蔓が
        繁茂)


           
         国行雛太郎(1843-1866)は阿月に生まれて「克己堂」で学び、第二奇兵隊に入隊する。第
        二小隊長として幕長戦争大島口の戦いに参加するが戦死する。(享年23歳)


           
         車庫付き住宅の先を左折する。

           
         白井小助(1826-1902)は
萩に生まれ、26歳の頃に阿月へ移住して浦靱負(ゆきえ)の家臣
        となる。第二奇兵隊の創設に尽力し、幕長戦争では大島口の戦いで総督として、戊辰戦争
        では討幕軍の参謀として
活躍した。維新後は明治政
府に出仕せず、平生町田布路木で私塾
        「飯山塾」を開いて子弟の教育に努めた。


           
         阿月郵便局の先を左折して山方向へ向かうと、曹洞宗だった岩休寺がある。開基
につい
        て何ら伝えるところがないが、もとは「心岳寺」という寺号であったが、浦氏が上関から
        移封された際に同家の菩提寺となり、1648(慶安元)年に寺号を改称する。
         その後、後ろ盾を失ったことや門徒も少なく衰退の途を辿り、無惨な姿となっている。

           
         境内地には浦家の墓所がある。

           
         寺向い側の山手を上がって行くと墓地があり、その最奥部に坂田昌一(1911-1970)の墓碑
                がある。湯川秀樹、朝永振一郎と共に日本を代表する素粒子物理学者で、湯川秀樹の求め
        に応じて協力者となる。正面は日本に留学した中国の学者・郭沫若の漢詩、側面に湯川秀
        樹の撰文がある。
         坂田は東京生まれであるが、ここに墓碑がある理由について、先祖が阿月出身であると
        いう以外、根拠を見つけることができなかった。

           
         芥川義天は秋良敦之助の妹の子として円覚寺(真宗)に生まれ、克己堂に学び、赤禰武人
        に誘われて奇兵隊に入隊する。第二奇兵隊では書記を務め、幕長戦争では大島口の戦いに
        参戦する。明治以降は阿月の教育に尽力する。(門右に出生の石碑)

           
         1644(正保元)年上関から阿月に給領地替えとなった浦就昌が、阿月の東西2ヶ所に神
        明宮を奉斎したとされる。ちなみに東神明宮は
天照皇大神を祀る。

           
         旧往還道は円覚寺前を南進する。

           
         小瀬上関往還道と旧県道が合流する所に旧阿月郵便局が残されている。

           
         ここから松浦橋まで旧県道と旧往還道が重なる。

           
         左手に市出張所と公民館。この付近が阿月の中心部のようだ。

           
         克己(こっき)堂は、1842(天保13)年浦靱負(ゆきえ)が家臣の子弟教育のため作った学
        塾である。
秋良敦之助を筆頭に、赤祢武人、白井小助、世良修蔵など多くの人材を輩出す
        る。
         1872(明治5)年に廃校となり、1902(明治35)年に建物は解体され、小学校の校
        地となるが、浦氏居館旧表門一棟(克己堂の門)が現存する。

        
         1889(明治22)年町村制施行により伊保庄南村なるが、1901(明治34)年に阿月村
        と改称し、役場は体育館がある場所にあったとのこと。

           
         1811(文化8)年この地で生まれた秋良(あきら)貞温(敦之助)は、浦靱負を補佐して浦氏
        の財政立て直しに注ぎ、維新戦力を蓄積するなど人材育成に努める。

           
         西神明宮には豊穣を象徴する豊受大神が奉祀されている。

           
         毎年、2月11日には東西神明宮前の海岸で火祭りの「神明祭」が行われる。災厄除け
                や病気除け、その年の豊かな収穫を願う行事で、1644年以来の歴史を持つ伝統行事で
        ある。(国の重要無形民俗文化財)
         神明祭の由来について、「左義長(さぎちょう)」という宮中の行事が、民間に伝えられた
        俗称「どんど」と神明信仰、そこに小早川家の軍神祭が習合した祭りである。
         祭りは神明の「起こし立て」に始まり、「神明踊り(武者踊り)」があり、「ハヤス(燃や
        す)ことで終わる。(説明より)

           
         もとは真言宗で浄土宗に改宗した願成寺は、江戸から明治にかけて防陽88ヶ所霊場の
        札所とされた。

           
         願成寺の山上にある石風呂は、いつの時期に利用されたのか説明書きもなく、詳細は不
        明である。

           
         阿月の町並みと海を挟んで対岸は周防大島。

           
         阿月バイパスが完成するまで、この小瀬上関往還道が主要道であったが、今では静かな
        通りとなっている。(右手に看板建築)

           
         赤禰武人(1838-1866)は瀬戸内海に浮かぶ柱島の島医者・松崎家の次男として生まれ、海
                僧・月性や克己堂、松下村塾に学ぶ。
         1857(安政4)年浦家の家老・赤禰家の養子となる。その後、奇兵隊の総督となり下関
        で外艦と戦ったが、長州征伐をめぐる意見が対立し、1866(慶応2)年幕府に内通したと
        の罪で処刑される。

           
         赤崎神社は伊保庄の賀茂神社の末社で、1854(嘉永7)年3月に今の地に移転したとさ
        れる。

           
         長い石段を上がれば社殿。水の神・海の神とされる市杵嶋姫命(いつきしまひめのみこと)
        祀る。

           
         赤禰武人の墓へは阿月バイパスで掘割されたため、急峻な道を辿らなければならない。

           
         墓碑銘は「赤禰武人是一墓」となっているが、生まれ故郷の柱島にも分骨された墓があ
        る。裏切り者扱いされ処刑されたためだろうかひっそりとした場所にある。他の墓碑は判
        読できない。

           
         松浦地区の町並み。

           
         山手から海へ出ると阿月漁港。

           
         小瀬上関往還道は松浦橋手前から川上へ向かい、山中を巡って宇積へ出る。

          
         世良修蔵(1835-1868)は周防大島の庄屋の家に生まれ、浦家の家臣・世良家を継ぐ。奇兵
                隊書記、第二奇兵隊の総督などを務め、戊辰戦争では奥羽鎮撫総督参謀となり、先兵隊と
        して会津に進撃するが捕らえられて斬首される。(旧宅跡)


          
         阿月には商店や食堂はないが、歴史ある域内が堪能できる町であった。旧街道を