ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

和木町の関ヶ浜は小瀬川を北面する集落

2021年09月09日 | 山口県和木町

                 
                 この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
         関ヶ浜(せきがはま)は小瀬川の河口部より少し上流にあり、平地の少ない山間部に立地す
        る。
         地名の由来は、かって小瀬川は海が深く入り込んでいて、関ヶ浜付近が河口部にあたり、
        河関所が設けられていたことによるという。(和木駅までを含めて約6.3km)
        
        
         瀬田から約1.2kmの距離だが、和木町のコミュニティバス停留所が見つからず歩く羽目
        になる。小瀬川と対岸の大竹を眺めながら歩くこと15分、関ヶ浜バス停前に至る。

        
         県道北中山岩国線沿いに町営緑ヶ丘団地。

        
         1つ奥の筋は一般の団地。

        
         関ヶ浜の中心部付近に農地。 

        
         口屋番所は交通の要所や通船を持つ河口に設けられ、通行人の取り締まりや運上銀の徴
        収がその主な役目であったとされる。

        
         良い場所(擁壁)に鎮座されている。

        
        
         山裾に沿う民家は広い屋敷地を構える。(二階の軒下にスズメバチの巣が3つ)

        
         関ヶ浜川に沿う。

        
          
         
         宗永寺(曹洞宗)は初め清源庵といったが、吉川家の重臣であった桂春房が1620(元和
          6)
年没し、嫡子家好によって当寺に葬られ、寺号を父の法号から現寺号に改め、以後長く
        桂家の菩提所となった。(現在は無住)  

        
         境内に桂春房の墓があるとされるが、本堂裏に五輪塔と歴代住職の墓があるるものの特
        定できず。他に地蔵堂1基あり。

        
         学校の校門を思い出させるような石柱2本あり。(ここで引き返す)

        
         往路との分岐を過ごして関ヶ浜川の左岸を下る。

        
         疫神社は妙見山の麓、妙見神社の参道入口の側にあり、御神体は樹齢500年以上とい
        う「タブノ木」である。その昔、大蛇が巻き付いたという故事に倣って、毎年、ワラで作
        った大蛇をタブに巻きつけ、神事の後、当屋の人がシシ頭を被って村中をまわる疫病追い
        という風習が伝承されている。

        
         142段の階段を上がると妙見社。中世の頃より妙見本宮として広く信仰されてきたと
        いう。北辰妙見社(現降松神社)より勧請されたものといわれる。
         正面に一基だけの石灯籠があるが、一基だけのものは古く二基を一対にして立てるのは
        桃山期以降といわれている。
         
        
         和木町のマンホール蓋は亀甲模様、中央の輪の中にある町章は、輪(ワ)とカタカナのキ
        を図化したものである。(逆方向に撮影)

        
         域内で唯一の商店は貴重な存在だ。コミュニティバス関ヶ浜バス停より乗車予定であっ
        たが、30分(約2.5㎞)かけてJR和木駅まで歩く。


和木町の瀬田は旧製紙工場の山手側に集落

2021年09月09日 | 山口県和木町

                
                     この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製加工したものである。
         瀬田(せた)は小瀬川の右岸に位置し、その支流瀬田川沿いの沖積平野に民家が並ぶ。その
                周辺は山地に囲まれている。
         地名の由来は、山広く大小の谷が多く、谷水がいたる所に流出しており、雨がよく降る
        年には谷川が瀬となって田に流れ込むため瀬田という。(歩行は和木駅から約3.6km、🚻
        ポンプ場) 

        
         JR和木駅に下車すると和木町コミュニティバスがあったが、土地不案内なので歩くこ
        とにする。

        
         小瀬川に合わす手前に和木用水の説明板がある。村の墾田約19町歩の水不足を解消す
        るため、1644(正保元)年岩国領の命により、瀬田から水路が設けられたが行き渡らず、
        1703(元禄16)年現在地(宮ノ下)より三田開に至る水路を開いたとある。

        
         小瀬川を挟んで対岸は広島県大竹市。幕末にはこの地で第二次幕長戦争芸州口の戦いが
        行われた。 

        
               1993(平成5)年に完成した小瀬川中市堰、鉄塔は国交省小瀬川出張所。

        
         1644(正保元)年用水路を瀬田口より八本松まで延長し、開閉式堰堤と噴閘(ふんこう)
        によって小瀬川から直接水を引き、和木・装束一帯の農地に活を与えた三分一源之丞父子
        の顕彰碑。

        
         用水路噴閘跡と聞きなれない言葉だが、和木町の説明では「うぐろ樋」と表示されてい
        る。同じ意味だそうだが、“うぐろ”とは方言で「もぐら」の意味だそうで、もぐらの水
        門ということのようである。

        
         県道北中山岩国線から分かれて瀬田川に沿うと、瀬田入口は旧日本大昭和板紙㈱和木事
        業所が占める。

        
         1907(明治40)年日本製紙㈱の前身である芸防抄紙㈱として操業開始し、後に変遷を
        重ねながら日本大昭和板紙㈱大竹工場(現日本製紙㈱大竹工場)の事業所であったが、20
        08(平成20)年9月末に閉鎖された。

        
         集落は瀬田川の上流に形成され「ほたるの里」とされている。

        
         瀬田川の右岸にある浄蓮寺(真宗)は、1575(天正3)年開基とされ、もとは天台宗であ
        ったが寺を再興して浄土真宗に改め浄円寺と称し、のち現寺号になったという。 
         第二次幕長戦争・芸州口の戦いでは、1865(慶応元)年11月から約1年間、緒戦にお
        いて勇名を馳せた戢翼団(しゅうよくだん)をはじめ、室木口先鋒の各隊が宿として使用する。

        
         この先も山裾を縫うように民家があるようだ。

        
         和木公民館瀬田分館前を左折して「ふれあい通り」に入ると、角に旧用水路取水地点と
        記載された標柱がある。

        
         すぐ左手に砂防提が見え、傍に鬼神社が祀られている。

        
         急階段を上がると鬼神社。祭神は猿田彦だそうで、その昔、巌国山の峰から迂祀したと
        伝え、400年以上前に創建されたという。神宝「鬼神の歯」に注いだ水は、歯の病に霊
        験があるという。

        
         瀬田分館から浄蓮寺付近の家並み。和木町の区域面積のうち50%が山林で、海辺付近
        に工場群と辺地は宅地化されている。 

        

         1889(明治22)年まで瀬田村と称していたが、町村制施行により近隣の4ヶ村の区域
        をもって小瀬川村(後に和木村)となる。 

        
         1981(昭和56)年に供用開始された和木町の下水道マンホール蓋。撮影時に鍵穴を見
        落としてしまい、下面が左側になってしまう。
         中央の大きな輪の中にある町章は、輪をワキの「ワ・和」、中央にカタカナの「キ・木」
        を図化したものである。

        
         住宅地側との境には何かを思い出させるような高い塀が設けてある。水難地蔵、瀬田小
                学跡、口番所跡、松月院寺跡などがあるようだが見つけ出すことができなかった。     


和木は第二次幕長戦争芸州口の戦いが行われた地

2019年09月17日 | 山口県和木町

        
        この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分1地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複 第546号)      
         和木(わぎ)は山口県の東端にあって、北に県境である小瀬川を挟んで広島県大竹市に接し、
        小瀬川の堆積作用と新田開発による平地に立地する。
         
1889(明治22)年に瀬田・和木・関ヶ浜・小瀬の4村が合併して小瀬川村となったが、
        1899(明治32)年に小瀬村を分割して和木村となり、現在の和木町の町域が確定する。
        (歩行 約6㎞)  


        
         2008(平成20)年に新設開業したJR和木駅は、相対式2面2線のホームを有してい
                る。

        
         小瀬・上関往還道は、小瀬の渡し場からこの地点が一里とされた。

        
         県道122号線(大竹和木線)を北上すると小瀬川に突き当るが、手前の和木郵便局を右
        折すると山陽本線に合わす。

        
         線路に沿うと小瀬川に出る。

        
         200年にわたる吉川・浅野藩の国境争いの中で、1752(宝暦2)年には小瀬川口の与
        三野地で騒動が起き、双方に死傷者が出る惨事となった。50年後の1802(享和2)年に
               和解して国境が確定したが、この時に岩国藩主は祠を建てて犠牲となった3名を祀ったと
        いう。祠の前面にある「三秀(みつぼし)神社遺跡紀念碑」は、後世になって建立されたもの
        と思われる。

        
         小瀬川右岸を上流へ向かうと、こんもりとした森が見えてくる。

        
         玉垣に囲まれた中に米元廣右衛門(1823-1889)碑がある。若くして織工、製紙、養蚕など
        の事業を手掛けたが、ことごとく失敗する。晩年、海苔養殖の研究を続けた結果、188
        8(明治21)年に成功を収める。これにより農家では海苔の製造を副業とし家計を潤すこと
        になる。

        
         小瀬川河川敷に遊歩道が設置されている。

        
         1880(明治13)年2月廿日市~和木間に新道が完成し、小瀬川に木橋が架けられた。 
        大竹と和木の連携を深めるため、両地区の頭文字を組み合わせ「大和橋」と名付けられた。

        
         大和橋が完成した5年後には、橋から和木、装束に至る海岸ルートが開通する。これに
        より小瀬峠を越えていた旧山陽道に代わって、1951(昭和26)年新国道2号線が完成す
        るまで国道としての役割を果たす。
         また、大竹から大和橋を渡ると左右分岐であったため、道に迷う者が多く、「道しるべ」
        が設置された。

        
         石柱には竹原七郎平渡渉地点とあるが、1866(慶応2)年6月14日の朝、彦根藩使番
        (つかいばん)・竹原七郎平ら3人が先陣を切って小瀬川を渡りはじめると、対岸の竹藪に身
                を伏せていた岩国の戢翼団(しゅうよくだん)に撃ち殺される。

        
         「四境之役 封境(国境)之地」とある。

        
        
         願掛地蔵の由来によると、八幡山の崖下は深い淵で、毎晩のように得体の知れないもの
        が出没するため、道辺に地蔵菩薩を祀ったところ出なくなったとされる。

        
         安禅寺の境内入口には大門(鐘楼門)がある。ここに架かる扁額は1725(享保10)年に
        寄付されたが、船板が使用されて表面には船虫による無数の虫穴があるとのこと。寺名は
        粟屋元俊の戒名・安禅院によるという。

        
         本堂から離れた所に釈迦堂。

        
         戢翼団(しゅうよくだん)隊長の品川清兵衛が竹原七郎平の遺骸を検めたところ、守袋の中
        に妻から息子が亡くなり、49日の法要を済ませたことが記されていた。
         品川も息子を亡くしており、竹原の胸中を察して芸州口の戦いが終わった後、同寺に墓
        を建立したとされる。

        
         瀬田八幡宮へは急坂である。

        
         参道より小瀬川上流。

        
         きつい上り坂を終えると鳥居の先に石段が待っている。

        
         瀬田八幡宮は、1715(正徳5)年6代藩主・吉川経永の命により修造されたもので、前
        室付三間社流造、向拝(本殿の正面の張り出し部分)一間の銅板葺き社殿である。神社建築
        の様式を継承し、県下でも数少ない18世紀初頭の神社建築である。(説明版より)

        
         江戸時代の和木村では15歳になると若連中に入り、村の働き手になる習いがあった。
        若連中に入ると力試しが行われ、差し上げた石の重さで報酬分配の基準が定められたとい
        う。一番石の重さは240㎏(60貫)で、「和木村の住人都石源之進」と刻まれていて、
        この人以外に差し上げた人がなかったものと思われる。(説明版より)

        
         参道より小瀬川下流域。芸州口の戦いでは、長州藩がこの山に大砲を据えたとある。

        
         中市堰手前の交差点に和木装束水道記(三分一父子顕彰碑)がある。1644(正保元)年に
        建設された用水路を、天保年間(1830-1844)瀬田口から直接水を引いて、和木装束一帯に活
        を与えた父子を称えた碑とのこと。

        
         天保年間(1830-1844)に農業用の中市堰が造られ、長年にわたって役目を果たしてきたが、
        1951(昭和26)年のルース台風で流され、その後、可動堰に改良されたが、治水上の問
        題等から新たな堰が完成する。

        
         1928(昭和3)年創業の三国酢造は、広島県大竹市が広島県西端にあり、廃藩置県前の
        安芸の国、周防の国、石見の国の三つの国の境になることから、三国一の酢になるように
        との願いで「さんごくす」と社名がつけられた。

        
         大竹側にある長州の役(芸州口の戦い)古戦場跡案内板によると、竹原七郎平(120石の
                武士・39歳)は赤い陣羽織に身を固め、軍扇を開き、封書を高く掲げて軍使であることを
                表示していたとされる。

        
         明治百年を記念して青木神社に建立されたが、現在は青木公園に移設されている。
         表には「慶応2年5月28日長州藩応戦を布告。幕府の先鋒井伊・榊原(高田)軍ここ大
        竹口に陣を進め、木野川を隔てて毛利吉川軍と相対す。6月14日未明、戦いの火ぶたが
        切られ激戦、幕府軍敗走兵火により家財を失う者九千人にのぼる。9月2日休戦成りこれ
        より政局は西南雄藩に指導され明治維新へと動く」とある。

        
         1926(大正15)年永久橋(コンクリート橋)に架け替えられ、1997(平成9)年に現在
        の橋が完成する。その際に親柱が記念として残された。

        
         青木神社は、1801(享和元)年安芸国と周防国の長年の境界争いが解決し、国境が確定
        したのを受け、1803年1月に、当地青木新開の守護神として勧請された。青木新開は
        大竹地区の最初の干拓地で、明治初頭まで大規模な干拓事業が行われた。

        
         本町と新町の境道だが古民家などは見られない。

        
         JR大竹駅は、1897(明治30)年山陽鉄道の広島~徳山間が開通すると同時に開業す
        る。広島県と山口県の境をなす駅で、この地には第二次世界大戦中、海兵団や海軍潜水学
        校が置かれ、戦後は臨海工業都市となる。