ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

福知山は明智光秀築城の福知山城と城下 (福知山市)

2018年07月19日 | その他県外

           
        この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分1地形図を複製したものである。(承認番号 平30情複第467号)
         福知山は16世紀に織田信長の家臣・明智光秀が、この地方を支配していた有力豪族で
        ある塩見信房を倒し、その居城であった横山城を大修築して福知山城と改めた。(歩行約
        5.5㎞)

           
         JR福知山駅は、2009(平成21)年に高架化及び駅改修事業が完了する。

           
           
         1808(文化5)年に始まった藩校「惇明館」は、のちに惇明小学校となる。1937(昭
           和12)
年に丸窓を配した直線構造の本館棟が建設されるが、戦前最後の鉄骨建築であると
        のこと。

           
         お城通りの市役所付近から見る福知山城。

           
         福知山城公園から法川(旧堀)に架かる昇龍橋。

           
         福知山城は丹波平定を行った明智光秀が、当時の城郭建築の粋を集めて改築した。

           
         登城路。

          
         昇龍橋の傍には郭を模した美術館がある。

           
         転用石が積まれた石垣。

           
         福知山城二の丸の銅門脇(市役所の東)にあった番所で、大正時代に天守台へ移され、さ
        らに天守閣の再建に伴い、この場所に移された
       

        
         福知山城の石垣には自然石に混じって五輪塔、宝篋印塔などの転用石が大量に使用され
        ている。

           
         築城時に明智光秀が近隣から石塔を集めたという伝承があるが、石垣に使用する石が近
        辺なかったこと、築城に時間的余裕がなかったことが起因しているとされる。

           
         城は明治の廃城令によって取り壊されて石垣だけとなっていたが、1986(昭和61)
        に望楼型という初期の姿で復元される。 

           
         天守の入口前にある「豊磐の井(とよいわのい)」は、直径25mで深さ50mもあるとい
        う。城郭内湛水井としては日本一の深さで、今も清らかな水をたたえている。

           
         築城時になかった門が再建時に新設された。

           
         豊磐の井の先が天守への入口。左から大天守、続櫓、小天守となっている。(東面)

           
         大天守から小天守越しに北方向を望む。城下町通りと由良川に架かる音無瀬橋。

           
         山陰本線から城を見ることができる。(綾部方面) 

           
         旧松村邸は、㈱松村組の創始者松村勇吉の社屋兼住宅として、1912(大正元)年に洋館、
        1917(大正6)年に御殿が建築された。 

           
         市内唯一の本格的な洋風建築で、バランスの取れた良質な木造建物である。現在、これ
        ら建物群は洋菓子販売の(株)足立音衛門が、本店・店舗として活用されており、外観のみ
        を見ることができる。

           
         法川の土手を歩くと、由良川との合流地点にある草むら部分に「明智藪」がある。
         また、京へ出入り口である京口門があった場所でもある。

           
         明覚寺裏が「上船渡」で、この辺りに「下船渡し」があったとのこと。

           
         高良厄除神社(鋳物師の厄神さん)は、由良川の水害に悩んだ当地の人々が、安心立命の
        ために創建した。山陰道の道筋で城下町北口の要路にあたる場所にある。

           
         神社入口左側の道標は、1808(文化5)年に丹波口門付近に立てられた道しるべで、
        「右 京・大坂道」と刻まれている。

           
         寺が並ぶ道筋。

           
         金毘羅神社(丹波口)は、丹後街道から城下町への入口付近に、水運の神として祀られて
        いる。玉垣には京都や大坂の事業者の名前が刻まれており、由良川水運の要所として、日
        本海を介した丹後地域と都市部との商取引が盛んに行われていた。

           
         久昌寺は最も長く福知山藩を治めた朽木家の菩提寺。

           
         法鷲寺の山門(浄土宗)は、福知山城の城門の1つと伝えられている高麗門で、数少ない
        福知山城の遺構とされる。

           
         寺町を過ごすと古い町家。

           
         治水記念館は、水害に対応した特徴的な構造を持つ町家である。1880(明治13)年築
        で、建物そのものが歴史的な資料となっている。

           
         ベンガラ塗りの格子に虫籠窓を持つ町家。


美山は茅葺き民家が残る集落 (京都府南丹市)

2018年07月19日 | その他県外

           
        この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分1地形図を複製したものである。(承認番号 平30情複第467号)
         美山は由良川北側の河岸段丘地に形成された東西約700m、南北約360m範囲の山
        村集落である。全世帯の半数以上が茅葺き民家で、敷地南側が石垣で固め
た家々が続いて
        いる。(歩行約1㎞)


           
         駐車場の横を由良川が流れている。

           
         駐車場傍の茅葺きの家は、お食事処とお土産屋さん。

           
         道路の反対側が茅葺屋根の美山集落。

           
         美山は夏が過ぎると朝霧が目立つようになり、“美山時雨”と呼ばれる雨が降り出すと、
        一気に冬の装いに変わるとのこと。


           
         歩く人の多くは中国や東南アジア系の観光客。

           
         赤い丸ポストと茅葺屋根は、まさに日本の原風景といった感じがする。この赤いポスト
        は、日本郵政のCMにも登場した。


           
         小さな小屋は放水銃格納庫。

           
         寺に通じるメインロードにお地蔵さん。(ここの四差路を左折する)

           
         伝統的な様式は茅葺屋根で入母屋造、周囲に下屋を巡らし、棟をほぼ東西に揃えており、
        棟飾りの千木(ちぎ)や破風の意匠にも特徴がある。


           
         茅葺屋根の家は民宿を除き、民家のため非公開となっている。(稲荷神社への道を上が
        る)


           
           
         江戸時代から50戸の農家が維持されてきたが、うち38戸(トタン覆い3棟含む)が茅
        葺屋根の家である。これらの茅葺き家屋が建てられたのは、主に15
0年から200年前
        とされる。


           
         裏山の山麓に鎮座する稲荷神社。境内には樹齢400年以上のトチの木がある

           
         屋根の形状から北山型民家と呼ばれ、木を組み合わせて棟を覆う構造の千木を、地元で
        は、”馬乗り”とか”雪割り”と言うそうだ。


           
           
         美山民俗資料館は、2000(平成12)年の火災により主屋と納屋を焼失したが、200
        2(平成14)年に約2年をかけて200年前の家屋に復元された。


           
           
         民俗資料館は江戸後期に建てられた農家住宅であり、この地方の北山型農家住宅の特徴
        を色濃く残しているとされる。主屋、蔵、納屋の3棟で構成され、
納屋は農林業に使用す
        る道具と様々な作業する場でもあった。 


            
         台所の囲炉裏は家族団らんの場所であり、部屋とされる場所は寝間であったとのこと。

           
         座敷の間には仏壇や床の間があり、冠婚葬祭や客間として利用された。

           
         主屋の中に厩があるが、農耕用の牛は家族の一員であった。

           
         屋根裏は本来床がなく、竹を並べた「すのこ天井」で、昔は萱や藁を収納していた。

           
         風呂の床は竹敷き。

           
         蔵は夏でも低温に保てることや、ネズミや火災から守るために、米などの穀物・貴重品
        等が保管されていた。


           
         寺前からの集落風景。

           
         普明寺は曹洞禅宗の寺院で、南北朝時代(14世紀中頃)の創建とされる。第二次大戦中
        に火災で焼失し、戦後に再建される。


           
         寺の横にある家の玄関は妻側にあり、面上部の三角破風には穴が開けてあり、煙出しと
        なっているなど構造美に優れている。


           
         民俗資料館前を過ごして藍美術館へ向かう。

           
         次の道を下ってゆくと、左手の小さな茅葺きの家が藍美術館の一角である。

           
         苔生えた屋根に三角形の煙出し。

           
         下ると鯖街道に合わす。

           
         集落の中を貫く街道は、若狭の小浜から京に抜ける鯖街道の一つとされ、多くの旅人が
        行き来した。このため建築や生活
様式は、いろいろな地方の影響を受けた。 

           
         集落での茅葺家屋の数は、白川郷荻町(岐阜県)、大内宿(福島県)に次いで全国3位であ
        る。


伊根は舟屋のある集落 (京都府伊根町)

2018年07月18日 | その他県外

           
        この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千1地形図を複製したものである。(承認番号 平30情複 第467号)
         伊根浦は出口に青島があって湾内は波静かなことから、古来、主屋の前に海面を張り出
        した舟屋が造られた。海岸沿いに連続する舟屋群は切妻造妻入りで、かつては茅葺きで壁
        はなく「ともぶと」と呼ばれる軽船を格納する質素な造りであった。(歩行約7㎞)

           
         舟屋を見るには遊覧船がベストのようだ。(日出)

           
         9時30分出航の便。

           
         左手に大西の入江。

           
         出航するとカモメが餌を求めて乗船してくる。

           
         右手に青島を見ながら船は対岸の立石・亀山へ向かう。

           
         鯨舟屋がある高梨地区付近。

           
         高梨の大乗寺付近には江戸期の舟屋がある。

           
         亀山の赤灯台。秋にはアオリイカの釣り人がずらりと並ぶ風景は、伊根の風物詩とされ
        る。

           
         立石地区の舟屋。

           
         西平田地区の舟屋。

           
         日出の町並み。

           
         伊根湾では昔、鯨漁がおこなわれていた。捕獲した鯨は舟屋で解体されていたことから、
        鯨舟屋とされている。

           
         伊根浦公園から東に見える舟屋。

           
         公園から舟屋が軒を連ねる様子が間近に見られる。

           
         公園から西平田地区を歩く。

           
         歩き始めると古民家。

           
         向井酒造と接する白い建物は、何に使用されたかは不明である。
  
           
         伊根湾の一画にある小さな酒蔵は、1754(宝暦4)年創業の向井酒造。

           
         瓶詰の作業が行われている海側の蔵は、壁のすぐ向こう側が海で、まさに「日本で一番
        海に近い蔵」である。

           
         東平田地区付近から見る西平田地区。(左手奥に海蔵寺)

           
         大浦付近の舟屋。

           
         伊根舟屋の里公園から見る伊根湾。

            
         NHKの朝ドラ「ええにょぼ」が、1993(平成5)年に放映されたが、伊根・舟屋の里
        公園には記念のオブジェクトがある。

           
         伊根湾と高梨地区。

           
         新道に設けられた道の駅は、レストラン、お食事処、ラウンジ、おみやげ屋などがある。

           
         大浦の町並み。

           
         伊根浦発信館・おちゃやのかか(資料館)は、伊根町亀島の空家を改修し、伝統的な漁具
        や民族資料を保存・展示している。「おちゃやのかか」とは地元でよく捕れるハゼ科の魚
        にちなんだとか。

           
         立石地区にある舟屋。(釣り船と舟屋の宿)

           
         船を引き上げる機能を有しているのは、立石・亀山地区に多く見られる。

           
         右手が舟屋、道路を挟んで左手が住居という風景が続く。

             
         土蔵には鏝絵も見られる。

           
         左手に慈眼寺の階段を過ごすと、この先で道は大きく右カーブする。

           
         耳鼻地区から見る舟屋。

           
         亀山地区の舟屋。

           
         ガンジャが鼻の赤灯台

           
         目の前に青島。神が宿る島として、樹木の伐採や生物の採集はおろか、枯れ枝たりとも
        島から持ち出してはならないと言い伝えがある。島には海を守る蛭子神社が祀られている。      
    


東舞鶴に旧海軍施設と終戦後の引揚港 (舞鶴市)

2018年07月18日 | その他県外

           
        この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分1地形図を複製したものである。(承認番号 平30情複第467号)
                  
         東舞鶴にはかつて舞鶴鎮守府が開設され、日本海に面するわが国最初の軍港として都市
        計画された。海岸線には煉瓦造の海軍施設が次々と建てられたが、1
922(大正11)年の
        ワシントン軍縮会議で鎮守府は廃止されたが、敗戦まで
軍港都市として発展した。(歩行
        約1.5㎞)


           
         駐車場のすぐ傍が自衛隊桟橋。

           
         駐車場から見えるのが赤煉瓦8号棟。

           
         8号棟は、1902(明治35)年に建てられた需品庫の第二水雷庫。

           
         8~6号棟が連続するが、現在は文科省所管で中は見学できない。石の歩道は長い間、
        土の中に埋もれていたが、2004(平成16)年に往時の姿を復活さ
せ、今は赤煉瓦ロード
        とされている。


           
         8号棟の鉄扉。

           
         7号棟は需品庫の第一水雷庫だった。

           
         6号棟も8・7号棟と同じ年に建設され、電気庫として使用された。

           
         6号棟の向い側に5号棟の裏出入口。1901(明治34)年に新設された舞鶴鎮守府の初
        代司令長官には東郷平八郎が就任する。

           
         5号棟先にある4~2号棟は、1902(明治35)年に建てられた。

           
         4号棟(赤煉瓦工房)は、兵器廠雑器庫並預兵器庫(雑品庫並損兵器庫)

           
         4号棟は市民のものづくりの拠点として、創作活動やスタジオ、貸しスペースとして活
        用されている。


           
         3号棟(まいづる知恵蔵)は、兵器廠弾丸庫並小銃庫として建てられた。

           
         3号棟の2階内部。

              
                   窓から見える2号棟。

           
         4号棟と3号棟の正面に5号棟。

           
         2号棟は兵器廠予備艦兵器庫として建てられたが、現在は舞鶴市政記念館に活用されて
        いる。


           
         東体育館付近からの港。

                   
         煉瓦をテーマにした赤煉瓦博物館。

           
         1号棟の赤煉瓦博物館は兵器廠魚形水雷庫として、1903(明治36)年に建てられた。

           
           
         イギリスとフランス式の煉瓦の積み方の違い。

           
           
         館内は“れんが”をテーマにした博物館。

           
         5号棟(左手の建物)は軍需部第三水雷庫として、他の建物より遅い1918(大正7)年に
        建てられた。


           
         足元元には線路が残されているが、もともと貨物で兵器などを運ぶ構造となっていた。

           
         天井には積み下ろしに使用されたクレーンも保存されている

        
         
  舞鶴引揚援護局跡を見下ろす丘陵地に記念館がある。(東舞鶴市街地から車で10分程
        度)


           
         写真を見ながら展示室へ入る。

           
         舞鶴は主として旧ソ連、中国などから13年間に66万4,531人の引揚者と、1万6
        ,269柱の遺骨を受け入れる。終戦時に約66万人がソ連に送ら
れ、そのうち4万人がシ
        ベリアなどの収容所で長い年月、辛い抑留生活を強い
られた。(収容所の生活を再現した模
        型)


           
         引揚地は舞鶴のほか、仙崎(約42万)、博多(約140万人)、佐世保(約140万人)、
        鹿児島(約36万人)、浦賀(約57万人)、横浜(約5千人)、他に下関、
呉が引揚港に指定
        された。


           
         “岸壁の母”と言われる端野(はしの)いせさんは、1954(昭和29)年にヒットした歌謡
        曲のモデルとされる方である。1956(昭和31)年に東京都から端野
新二氏の死亡告知書
        が送られたいせさんは、1981(昭和56)年にこの世を去
る。他に戦地から帰らぬ夫を港
        の岸壁で待ち続ける妻たちもいたとのこと。


           
           
         当時の引揚港の様子であるが、援護局あった地は工場になっている。突き出ている桟橋
        は引揚桟橋といって、祖国の第一歩を踏んだ場所である。


           
         舞鶴港への引揚は、1945(昭和20)年10月に引揚船が入港したのを皮切りに、19
        47(昭和22)年には旧ソ連からの引き揚げがピークを迎える。 

         一時、旧ソ連からの引揚が中断したが、再開された後は、舞鶴港だけが国内唯一の引揚
        港となり、1958(昭和33)年に最後の引揚船「白山丸」が、舞鶴
港に入港して引揚事業
        は完了する。


           
         公園の高台から舞鶴湾を眺めることができる。

           
           
         1994(平成6)年に復元された引揚桟橋。引揚の歴史はユネスコ世界記憶遺産に登録に
        れた。


加悦はかつて丹後ちりめんで栄えた町 (京都府与謝野町)

2018年07月17日 | その他県外

           
        この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分1地形図を複製したものである。(承認番号 平30情複第467号)
         加悦(かや)は城下町として町割りがされた加悦は、すぐにその役割が廃れ、代わって奈良
        時代から続く織物の生産の町として、江戸時代中期以降は京都西陣の技術を取り入れた「ち
        りめん産業」が発展する。(歩行約2㎞)

           
         ちりめん街道北側の入口に建つ旧加悦町役場は、1929(昭和4)年に甲子園球場を設計
        した当時の大林組設計部長だった今林彦太郎が設計する。

           
         対震補強工事のため内部を見ることができなかった。

           
         加悦奥川に架かる天神橋が改修工事のため通行できず、県道を経由すると入口左手に藤
        菊呉服店がある。

           
         ちりめん街道下の町地区に出る。(左手は機屋)

           
         街道に入るとすぐ右手に、1890(明治23)年創業の井筒屋旅館がある。現在の建物は、
        1933(昭和8)年に建て替えられた現役の旅館である。

           
         井筒屋旅館隣の丹波屋さんは、現在はちりめん街道を守り育てる会のちりめん展示・実
        演場となっている。

           
         「手作り工房・遊」は街道で唯一のお土産屋さん。

           
         その右手の杉本家住宅は、1848(嘉永元)年に建てられた「ちりめん街道」で最も古い
        部類にあたる建物とのこと。こちらの家主は明治末期に電気事業を興し、郵便局や医院と
        しても使われた。

           
         左手には白壁が映える旧川嶋酒造酒蔵で、酒蔵らしく窓が少ない造りである。昭和初期
        の酒蔵風情を色濃く残しているが、現在は酒造りをされていない。

           
         平入りの町家が続くが、各戸にはちりめんの暖簾がかけられている。

           
         右手に「ちりめん街道」のシンボル的存在である旧尾藤家は、江戸時代前期に加悦に定
        住したといわれ、江戸後期にはちりめん問屋を営んでいる。1863(文久3)年築の建物は、
        昭和初期頃に2階部分が増築されている。 

           
         昭和初期まで繊維産業で栄えていたというだけあって、明治・大正・昭和が入り混じっ
        た町並みである。

           
         中市地区には平入りの民家が立ち並ぶ。

           
         ちりめん街道が左に折れる角に、石垣と山門が印象的な実相寺(日蓮宗)がある。156
        0(永禄3)年加悦奥に放光寺として開創したのが始まりで、その後、現在地に移転して現寺
        号となったという。境内には明治初期に当時の住職が、養蚕織機の神(金色蚕糸神)を勧請
        して祀った金色堂がある。

           
         左に折れて四差路方向へ進む。

           
         四差路を左に折れると白壁の蔵があるが、かつての丹後産業銀行のものである。融資の
        際に反物(たんもの)を担保として預かり、それを保管していた蔵といわれている。

           
         土蔵傍の民家に旧丹後産業銀行があったとされる。

           
         ちりめん街道を挟んで向かい側にも白壁の蔵がある。ちょうど辻の角にあることから角
        屋と呼ばれており、廻船問屋で財をなし、京都にちりめんの店を出した下村家の住宅であ
        る。

           
         何を生業にされた家だろうか。

           
         旧機業場にあった蔵のようである。

           
         ここも機屋だったそうだが腰高格子が目立つ。

           
         天満神社は丹波道主命の子孫とされる細目倉彦が菅原道真に仕え、道真が太宰府に配流
        された後に丹後に戻り、天神社を建てて祀ったと伝える。元禄年間(1688-1704)の火災で記
        録が失われて、変遷等は定かでないという。

           
         1599(慶長4)年に開創されたという宝厳寺(浄土宗)は、ちりめん街道の最も南に位置
        する。石段を上がった山腹に寺地を構え、正面に楼門形式の山門、その奥に本堂が直線的
        に位置する。

           
         この辺りでは珍しい「うだつ」を構えた家がある。(杉本家住宅)
       
           
         木造2階建て入母屋造・桟瓦葺き洋館の旧伊藤医院診療所で、1917(大正6)年頃に建
        てられたといわれている。

           
         丹後ちりめんの始祖である手米屋小右衛門の本家(杉本家住宅)。
主屋は江戸期の建物を
        大正初期に移築したもので、敷地内に3棟の織物工場が建てられた。

           
         現在でも稼働する明治期の工場があり、家の前には「縮緬発祥之地」の石碑が立ってい
        る。

           
         1926(大正15)年加悦鉄道の開業に合わせ、洋風2階建ての加悦駅舎が建てられ
た。
        鉄道はニッケル鉱石輸送の終了にと伴い、1985(昭和60)年に廃止された。            


出石は但馬の小京都 (兵庫県豊岡市)

2018年07月17日 | その他県外

           
        この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分1地形図を複製したものである。(承認番号 平30情複第467号)
         出石(いずし)は周辺部を低い山地・丘陵に囲まれた盆地の中にあり、円山川の支流である
        出石川右岸に位置する。水害の少なかった出石が但馬地区の中心をなしていたが、鉄道の
        敷設や治水の成果などで中心地は豊岡へ移る。(歩行約3.8㎞)

           
         江戸時代の一国一城令で但馬唯一の城となった出石城は、1604(慶長9)年に小出吉英
        (こいでよしふさ)が、有子山山頂から麓に移して築城したものである。
         以来、小出氏8代の居城となり、松平(藤井)氏を経て、1706(宝永3)年に仙石政明が

        入封し、明治に至るまで仙石氏7代が居城した。

           
         かつて埋門があった場所で、江戸期にはここに谷山川はなかったので登城橋もなかった
        が、1884(平成6)年に登城橋が復元された。

           
         登城門から二の丸、本丸、稲荷曲輪へと雛壇状になっている。 

            
                      出石城縄張図

           
         二の丸北西隅部の石垣と本丸西隅に建つ西隅櫓。

           
         本丸石垣上の西隅櫓は復元されたものだが、野面積みの石垣が今も残されている。

           
         二の丸から見る東隅櫓。
        
           
         お城坂(稲荷参道)は江戸時代、最上段の有子山稲荷社への参道であった。明治期に15
        7段と37基の鳥居が整備された。

           
         天守は築かれず、櫓が本丸に一基、二の丸に一基、東門脇に一基、下の曲輪東門脇に一
        基と4カ所に築かれていた。

               
         感応殿は仙石正明が出石に移封されて7代まで続いたが、明治になって旧家臣らによっ
        て建立された。 

           
         稲荷曲輪側から見た本丸西側石垣と西隅櫓。前方の曲輪は二の丸曲輪と石垣。

           
           
         旧京街道を東進する。

           
         武家の表門を思わせる経王寺の山門。

           
         経王寺は出石城の東北麓、京街道の丹波口にあたるため、石垣の構えで挟間を有する高
        櫓形式の鐘楼が設けられている。これらの構造から戦時の際の役割
を担っていたと考えら
        れている。


           
         もとは真言宗であったが、江戸初期に日蓮宗に改宗して経王寺となった。松平、仙石氏
        の菩提寺であり、現在の堂宇は天保年間(1830-1843)の火災後に再建
されたものである。

           
         伏見稲荷より分霊を受け、出石稲荷神社(有子山稲荷神社)を城内に建立したが、町民は
        年に一度、初午祭の時にしか参拝できなかったので岩鼻地区に稲荷
神社を建立し、いつで
        も参拝できるようにしたとされる。


           
         1892(明治25)年に旧出石郡役所として建設された木造の疑洋風館。正面玄関にはペ
        ディメント(三角形の部分)や装飾的な柱頭などが用いられている。


           
         正面玄関のある木造2階建ての背部に平屋建てを連結した構造である。

           
         明治館からの道。

           
           
         出石酒造さんの「楽々鶴」は出石藩主・仙石公の別荘「楽々園」に由来するそうだが、
        「ささづる」とはなかなか読めない。


           
         1708(宝永5)年創業の老舗蔵元裏にある赤い土壁の酒蔵は、土壁独特の味わいを見せ
        る。


           
         日蓮宗・本高寺脇から直線的に上ってゆく。 

           
         願成寺(臨済宗)は出石藩の下級藩士であった川崎家の菩提寺で、NHK大河ドラマ「八
        重の桜」のモデルとなった山本八重(会津藩)の夫であった川崎尚之
助の墓がある。後に八
        重は新島襄(同志社大学創設者)と再婚する。
山門には木彫りの達磨大師が鎮座する。

           
         臨済宗・宗鏡(すきょう)寺山門。

           
         たくあん漬けの考案者ともいわれる沢庵和尚が、400年前に再興した寺と伝えられて
        いる。沢庵和尚もまた出石の人であった。 


           
         沢庵和尚作で池の形を鶴に見立て、亀島を配した「鶴亀の庭」がある。

           
         庭を見下ろすひときわ高い所に沢庵和尚の墓がある。

               
         沢庵和尚が植えたといわれるワビスケ。名の由来は多くあるが、文禄・慶長の役の際、
        志野侘助という人物が朝鮮半島から持ち帰ったからという説が有力
である。ツバキの一品
        種で花は一重で小さく、半開状に咲き、茶人に好まれる。


           
         出石史料館の建物は、生糸を商う豪商・福富家の本邸であった。1876(明治9)年の大
        火で出石城下町の80
%以上を焼失したが、大火直後に建てられた建物である。(火曜日は
        休館日)

 
           
         伝統的町家景観通り。

                  
         宵田通り。
  
           
         1864(元治元)年7月の禁門の変で敗れた長州藩は朝敵となり、桂小五郎も追われる身
        となる。出石の町人甚助・直蔵兄弟の義侠により京都を脱出して
町内各所にかくまわれた。
        当地は荒物屋を営んでいた跡で、愛人の幾松(後の木
戸松子)も訪れている。潜居9ヶ月、
        九死に一生を得た桂小五郎にとって、出石
は再生の地であった。

           
         沢庵寺口に出る。

           
         見性寺通りにある出石手打皿そば「およろい」前。

           
           
         出石藩の藩士は800名ほどいたとされるが、その半数は足軽・中間であった。侍屋敷
        は城を要に城下町をぐるりと取り囲むように配置されていた。現在
は1軒のみで出石歴史
        文化交流館(足軽長屋)となっている。


                
         江戸期、交通運輸に利用された旧出石川の大橋東詰めにあった船着き場の燈籠で、現在
        は常夜灯として使用されている。おりゅう燈籠と呼ばれているが「
おりゅう」という名の
        由来は、鎌倉時代の悲恋物語の主人公にちなんだとされ
る。

           
         枡形通り。

           
         内堀通り。

           
         出石城内にあった江戸後期の出石家老屋敷。

           
           
         辰鼓楼(しんころう)は、1871(明治4)年に旧三の丸大手門脇の櫓台に建設された鼓楼で
        ある。当時は1時間ごとに太鼓で時(辰)を告げていたが、1881(明
治14)年に大時計が
        寄付されてからは、時計台として親しまれている。   
   


浴衣に下駄履きが似合う城崎温泉 (兵庫県豊岡市)

2018年07月16日 | その他県外

           
        この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分の1地形図を複製したものである。(承認番号 平30情複第467号
)
         城崎は但馬地方の北部に位置し、城崎温泉の東側を日本海に注ぐ円山川が北流し、その
        支流の大谿川(おおたにがわ)に沿って市街地が形成されている。

         奈良期の717年から720年、道智上人が千日の修行を行った末に湧出したことが城
        崎温泉の始まりとされ、古くから温泉町として知られている。(歩行
約2.5㎞)

           
         約1400年前に2羽のコウノトリが足の傷を癒したと伝わる鴻の湯。7つの「外湯」
        の中で最も古い歴史がある。


           
         大谿川に沿って市街地へ向かう。

           
         温泉寺まで歩くには至難でありロープウェイを利用する。

           
         温泉寺奥の院。

           
           
         「かわらけ投げ」とは、厄よけなどの願いを掛けて、高い場所から素焼きや日干しの土
        器の酒杯や皿を投げる遊びのこと。京都市の神護寺が発祥の地とさ
れ、以後、日本各地の
        高台にある花見の名所などで、酒席の座興として広まっ
たとされる。

           
         途中に駅がある珍しいロープウェイ。

           
         温泉寺駅を下りると本坊がある。

           
         温泉寺は道智上人が、奈良期の738(天平10)年に開創された古刹で、以後、城崎温泉
        の社会的中心となる。本堂は5間4面の南北朝時代を代表する建築で、和様・唐様・天竺
        様が融合した折衷様式である。


           
         温泉寺山門の奥に薬師堂がある。


           
         温泉街を東進する。


           
         お寺の堂を模したまんだら湯は、道智上人が難病の人たちを救うため、1千
日修法をし
        た所に湯が沸き出たとされる。


           
         木屋町通りは静かな散歩道となっている。(桂小五郎が潜伏したとされる三木屋付近)

           
         1925(大正14)年5月の北但馬地震では、城崎温泉は壊滅的な打撃を受ける。震災復
        興の1927(昭和2)年、三木屋は敷地内で温泉を掘り当てて内湯を設け
たため、城崎温泉
        内湯訴訟事件まで発展して20年以上の紛争となった。
         内湯の設置を認めるが規模の制限し、すべての泉源を財産区が管理することとし、現在
        はすべての宿に内湯が存在する。


           
           
         さくら橋を渡る。

           
         北但馬地震で町は全焼するが、現在の和風木造3階建ては震災復興時の建物と思われる。

           
         城崎文芸館通りを直進すれは駅通り。

           
         志賀直哉の「城崎にて」は、1913(大正2)年事故に遭い、当地で療養した折の経験を
        素材にしている。


           
         駅通りは一変してにぎやかである。

           
         城崎温泉駅は、1909(明治42)年に豊岡駅~城崎駅間が開通して終着駅となったが、
        その後、山陰本線の延伸により中間駅となる。2005(平成17)
年に豊岡市と合併する際、
        城崎駅から城崎温泉駅へ駅名変更する。


           
         下駄奉納板には城崎温泉旅館の「下駄」が並ぶが、毎年、お焚き上げの供養祭が行われ
        る
とか。

           
         「さとの湯」は城崎温泉駅の隣にあり、日本最大の駅舎温泉でもある。

           
         駅通りを北へ向かうと、お土産屋、お食事処が建ち並ぶ。

           
         正面に地蔵湯が見えてくる。

           
         江戸時代から里人の湯として親しまれていた地蔵湯は、この湯の泉源から地蔵尊が出た
        のでこの名がある。外観は和風燈籠、六角形の広い窓は玄武洞をイ
メージしている。

           
         大谿川の護岸は玄武洞から玄武岩を運び、ウロコのように積み上げたものとなっている。

           
         大谿川にかかる弓形の橋(愛宕橋、柳湯橋、桃島橋、弁天橋)、しだれ柳とウロコ護岸と
        いう古くからの温泉町旅情が引き継がれている。


           
         柳の揺れる川沿いは下駄の音が似合う。

           
         「柳湯」の名は、中国の名勝西湖より移植した柳の木の下から湧き出たことによる

           
         岩手県盛岡市生まれの詩人・富田砕花が、城崎を訪れた際に詠んだ歌「城崎の いでゆ
        のまちの 秋まひる 青くして散る 柳はらはら」


           
         「一の湯」は江戸中期、温泉医学の創始者・後藤艮山の高弟香川修徳が、その著「薬選」
        の中で、当時、新湯といったこの湯を、天下一と推賞したことから名づ
けられた。桃山方
        式の歌舞伎座を思わせる建物で、町の中央に位し、名実共に城崎温泉
の象徴ともいえる。

          
         湯の里通りには下駄の音が響く。

           
         四所神社は、平安前期の798(延暦17)年に日生下権守が神託をうけ、四柱(四所)の明
        神を奉祀し
たことに始まったとされる。四柱の神は温泉守護神の湯山主神と水の守護神で
        ある宗像三女神である。


           
         「御所の湯」は南北朝時代の歴史物語「増鏡」に、鎌倉期の1267(文永4)年、後白
        天皇の御姉・安嘉門院が入湯されたとある。

         江戸時代、西隣に陣屋がおかれ「殿の湯」または「鍵の湯」と呼ばれた湯であった。明
        治になって御所の湯とされたが、京都御所を彷彿させる建物である。  


           
         蓮成寺(浄土真宗)の開創は不詳であるが、1933(昭和8)年建立の大本教但州別院鶴鳴
        殿を移築し、向拝と下屋を付した。西側に一列室を設けたため、
向拝が中心よりずれ、西
        端に花頭窓を穿ち特徴ある外観を形作る。          


竹田は天空の城と城下町 (兵庫県朝来市)

2018年07月16日 | その他県外

          
        この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分1地形図を複製したものである、(承認番号 平29情複 第467号)
         竹田は西に古城山と東を円山川が北流する地に位置し、播但道に沿って町を形成する。
        山裾をJR播但線が走り、寺町と街筋を分断しているが、国道が川の反対側にあるため静
        かな佇まいを見せる。(歩行約2.5㎞)

          
         播但線のJR竹田駅は、1906(明治39)年に山陽鉄道新井駅ー和田山間の延伸時に開
        業する。一時普通列車のみの停車であったが、観光客の増加により特急が停車するように
        なった。

          
         7月の豪雨災害で山城の郷へ通じる道路が通行止め。このため天空バスが利用できず、
        タクシー利用でスタッフ駐車場まで上がる。

          
         ここから0.7㎞の舗装路歩き。 

          
         関所(料金収受棟)を通らなければ登城できない。

          
         料金所からは石段。

          
         石段の先に石垣が見えてくる。

          
         城に関しては不明な点が多いが、室町期の1441(嘉吉元)年に嘉吉の乱が勃発すると、
        但馬国守護の山名氏と播磨国守護の赤松氏との間で軍事衝突が起き、竹田城は山名氏の最
        前線基地として築城された。

          
         北千畳郭から三の丸。

          
         北千畳郭。

          
         北千畳郭から本丸。

          
         北千畳郭から三の丸への大手門跡。

          
         三の丸から竹田の町並み。

          
         二の丸への登城口(弐之門跡)

          
         二の丸より天守跡。その下の平地は平櫓跡。

          
         二の丸より南千畳郭。

          
         天守台

          
         天守台から二の丸方向。

          
         天守台から南千畳郭。

          
         二の丸から本丸跡を見ながら花屋敷跡へ向かう。

          
         築城した当時は石垣がさほどなくて、土塁で構築された砦であったようだ。1580(天
        正8)年に秀吉の命令を受けた羽柴小一郎長秀(のちの羽柴秀長)によって攻め落とされる。
        1585(天正13)年に赤松広秀が城主となり、現在に残る豪壮な石垣を完成させたが、
西
        軍に加わり廃城となる。(本丸跡の石垣) 

          
         平櫓跡・天守跡の石垣は、400年を経過した今も健在である。(南千畳郭から見る本丸
        跡) 

          
         南千畳から散策ルートを下ると登ってきた道と合わす。

          
         たけだ城下町交流館は、旧造り酒屋をリノベーションしたもので、観光案内所やレスト
        ラン、ホテルなどがある。

          
         城普請で集まった職人が住みついたことから城下町へと発展する。江戸初期に廃城され
        たが、播但道・山陰道の接点にあり、交通の要衝として宿場町に変化する。

          
         旧木村酒造場の主屋は、1902(明治35)年~03年頃に建て直されたもので、通りに
        面した外観は、うだつや虫籠窓などの意匠を施している。 
       
          
          
         酒は主屋から続く土間で造られ、酒米を蒸すためのカマドや酒造りに使用された井戸が
        残る。

          
         木村家は信州の飯尾家を祖とすると伝えられ、1625(寛永2)年頃に竹田に移り住み酒
        の醸造を行った。日本酒の需要が減少すると、1979(昭和54)年に約350年続いた酒
        造の歴史に幕を下ろした。

          
         古民家の御土産屋さん。

          
         虫籠窓のあるお好み焼き屋さん。

          
         明治時代の町家は古民家の宿「寺小屋はな亭」 

          
         1日2組限定で、名前を天(てん)と宙(そら)という。

          
         駅前を過ごすと鉤の手通り。

          
         警察派出所前を左折すると寺町。

          
         線路に沿って寺町筋。

          
         
通りには水路も沿う。

          
         浄土宗知恩寺派の法樹寺は、1578(天正6)年に川原町に創建されたが、竹田城最後の
        城主赤松広秀の居住地に、生野代官所の寄進を受けて移転する。


          
          
         水路や石橋など城下町の面影を色濃く残している。

          
         勝賢寺(浄土真宗)は、1664(寛文4)年頃にこの地にあった平位善右衛門屋敷跡へ移転
        する。


          
         常光寺(真宗)は。1610(慶長15)年の大火災で焼失後にこの地へ移転する。淡い黄
        い壁には門跡寺院を示す白の五条引き(貴族や天皇の血族で僧籍のあった者
が務めた寺院)
        がある。


          
         各寺の門前には江戸時代の石橋が架かっている。常光寺の石橋は、1707(宝永4)年と
        古く、但馬最古の石橋とされる。


          
         表米神社の相撲桟敷を拝見したかったが、この猛暑ではこれ以上歩くことは困難で、城
        下町交流館裏で散歩を終える。


          
         雲海に浮かぶ「天空の城」の展望スポットとされる立雲峡に立ち寄る。

          
         猛暑のため第3展望所からの眺めとなる。


国宝の姫路城周辺をぶらっと散歩 (姫路市)

2018年07月15日 | その他県外

          
         JR姫路駅北口から姫路城が見え、大手門通りを15分程度(約1㎞)歩くと姫路城前に
        出る。

          
         桜門橋から登城する。

          
         内堀にかかる桜門橋は、2007(平成19)年に復元された。

          
         桜門(大手門)は高麗門という形式であるが、江戸時代のものではなく、1938(昭和1
        3)年に建てられたもので、江戸時代のものとは位置や大きさが異なるようだ。

          
         入城口手前からの天守。

          
         菱(ひし)の門手前から「り」の一渡櫓。

          
         菱の門は、三の丸から二の丸へと通じる大手口を固める櫓門。両柱上部の冠木に木彫り
        の菱の紋があることに由来するとか。

          
         三国堀(さんごくほり)は、菱の門から入ってすぐのところにある四角い堀。二の丸につな
        がる本道と間道の要所をおさえる重要な位置にある。
         名前の由来は、江戸時代に姫路城を築いた池田輝政が播磨・淡路・備前の三ヵ国から人
        夫を集めて築いたことによる。

          
         西の丸南門への坂。

          
          
         本多忠刻(ただとき)と千姫の居館は、西の丸内に本館の中書丸、桐の門内に下屋敷として
        武蔵御殿をそれぞれ築き住んだ。
         これらの建物は、豊臣秀吉が築いた伏見桃山城を取り壊した用材を移して建てたもので、
        桃山様式の書院造り建物であったとされる。

          
         西の丸は本丸の西の方角にあたり、左手一帯には隅櫓、渡り櫓、長局(ながつぼね)、多聞
        櫓と呼ばれる建物が300mにわたって連なっている。連続した建物の内部は,小さな部
        屋に仕切られて土塀と倉庫を兼ねており、城郭建築としては珍しい構えである。

          
         西の丸長局(百間廊下)には千姫に仕えた侍女たちが居たところである。

          
         千姫は天満天神を信仰し、姫路へ来てからは西方の丘・男山にこれを祀り、毎朝西の丸
        の長局の廊下から参拝した。このとき、休息所として化粧櫓を利用したとされる。

          
         千姫は徳川2代将軍秀忠の長女として、1592(慶長2)年に生まれ、政略によって豊臣
        秀頼に嫁いだが、大阪落城の際に救い出され、後に本多忠政の子・忠刻に再嫁した。(千姫
        20歳) 
         1617(元和3)年忠政が伊勢桑名から姫路15万石の城主となったとき、忠刻も千姫の
        化粧料として、部屋住みのまま十万石を与えられて姫路に移り住んだ。

          
         姫路に来てから勝姫(のち池田光政室)、幸千代の2児をもうけ平和な日々を送ったが、
        長続きせず、幸千代は3才で早逝、忠刻も31才で世を去った。千姫は天樹院と号し、姫
        路を発って徳川家に戻る。

         
         南北朝期の1346年に赤松貞範による
築城とされ、室町時代は赤松氏、戦国時代には
        小寺氏が在城する。豊臣秀吉が中国地方の毛利氏を攻める拠点として、1580(天正8)
        頃に3層の天守閣を築いたが1600(慶長5)年に城主となった池田輝政が現在の規模にす
        る。

           
         「は」の門付近は迷路で、石垣と土塀に囲まれて道幅も狭くなっている。

          
         「に」の門は天井が低く右側に屈折という難解の構造で、2階の床板をめくって下を通
        る敵兵を攻撃できるようになっている。

          
                
          「ほ」の門は鉄板張りで低く狭いため、多くの敵兵を一度に通すことができ
         ないような仕組みとなっている。

          
         腰の曲輪、塩櫓、水一門から天守へ入る。

          
         大天守の1階は、天守台の石垣の上に構えている部分で、俗に「千畳敷」といわれ55
        4㎡の広さがある。

          
         武者走りとは陣の外側をとりまく廊下ことで、戦闘時に武士が行き交い、敵兵を射撃す
        る鉄砲狭間も窓下に設けられている。

          
         内陣は武具庫で火縄銃や小道具をかける武具掛けとなっている。

          
         武者走りの壁上部には、竹で作られた用具掛けが並んでいる。

          
         木製の釘隠しは天守内に600個以上あるとのこと。

          
         火縄銃や槍が武具掛けにかけられた形で展示されていたが、平成の修復以降は西の丸へ
        移動したとのこと。

          
         階を上がるごとに傾斜が増してくる。(2階から3階への階段)

          
         東大柱は樅木で継ぎ手無しの通し柱であったが、昭和の大修理のとき、根元54mを台
        湾檜で根継ぎされている。

          
         
西の大柱は当初から二本継ぎで、上部が栂、下部が樅であったが、昭和の大修理の際に
        通し柱とする予定で、新たに木曽檜を切り出したが運搬中に折れてしまう。修理では当初
        の3階床上で二本継ぎの柱となったとのこと。

          
         破風の間は破風の屋根裏で、鉄砲が使える攻撃の陣地である。

          
         守り手にとって外敵が見えないのは弱点で、これを補うために窓際には「石打棚(いしう
           ちだな)
」が置かれている。3階は南北、4~5階は四面に設けられている。
また、4~5
        階は内陣、武者走りの区別がなくなっている。


          
         6階が大天守の最上階で、これまでの階と違って天井があり、廻縁は室内に取り入れら
        れている。大天守の高さは石垣を含めて約46m、姫山の高さを加え
ると海抜92mにも
        なる。


          
         西側の正面に西の丸、右手に男山、左手前には三国堀と菱の門。

          
         破風の上にある鯱(小)は高さ90cmもあり、姿は魚で頭は虎、尾ひれは常に上を向き、
        背中には幾重もの鋭いとげを持っているという想像上の動物を模し
ている。

          
         南側は姫路駅方面で、中央下に備前丸と「リ」の一渡櫓、その向こうは三の丸広場で、
        その先に大手前通りがのびている。


          
         東面下に「と」の一門。

          
         腰曲輪の渡櫓と右側に櫓が続く。

          
         大天守南の広場には池田輝政の別館があったが、1882(明治15)年に焼失する。

          
         本丸御殿の東側入口に設けられた廻櫓と備前門で、西側は大天守の石垣に接している。

          
         備前門の2階部分は折廻櫓の続き櫓となっている。

          
         備前門右手には縦石として石棺が配置されているが、人目につきやすい石垣の出隅部を
        見栄えよくするためといわれている。


          
          
         播州皿屋敷のヒロインお菊が責め殺されて投げ込まれたといわれるお菊井戸。もとは釣
        瓶取(つるべとり)井戸と呼ばれ、直径3m、深さ20mの井戸である。


          
         「ぬ」の門は門櫓で唯一の三層の櫓門。二層目の櫓には隠し石落しがあり、門に入る者
        を監視し射撃できるようになっている。(上が出口、左が入口側)


          
         「ぬ」の門前の石垣は、扇を開いたような勾配を持たせることで、より高く積み、強度
        を高めるとともに、攻め手が登るのを防ぐ効果がある。


          
         「い」の門の左は西の丸。ちょうど化粧櫓の前である。

          
         内堀の傍を通ると好古園。

          
         姫路城西屋敷跡庭園「好古園」は、1618(元和4)年に本多忠政が造営した西御屋敷や
        武家屋敷・通路跡等の遺構が確認され、酒井家(姫路城最後の城
主)の絵図と合致したとの
        こと。これに基づいて市政100周年を記念して、19
92(平成4)年に建造される。

          
         屋敷の庭への門。

          
         渡り廊下は「唐傘割工法」とされる中央に曲線を描き、歩くと太鼓に似た音の余韻を味
        わうことができる。


          
         潮音斎(ちょうおんさい)は中秋の名月を愛でる方向に建てられている。

          
         藩主の下屋敷にあったこの庭は、姫山原生林を借景とした池泉回遊式庭園である。

          
         武家屋敷の築地塀も趣がある。

          
         茶室「双樹庵」を中心に、飛び石、燈籠などが配置された茶庭である。

          
         1945(昭和20)年6月20日の姫路大空襲により、姫路城は焼失を免れたが市街地は
        焼失したため、建物はそれ以降に建設されたものである。


          
         レトロ調ボンネット型の「姫路城周辺観光ループバス」に乗車して駅に戻る。(ワンコ
        インの100円)