ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

瀬戸内市の牛窓は風待ち・潮待ちだった港町

2022年10月21日 | 岡山県

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         牛窓(うしまど)は、古くには牛転(うしまろび)、牛間戸とも書いた。瀬戸内海に面する牛窓
        半島に位置し、牛窓瀬戸を挟んで前島、黒島、黄島、青島がある。
         1889(明治22)年町村制の施行により、近世以来の区域をもって邑久郡牛窓村となる。
        のちに町制に移行して、1954(昭和29)年牛窓町、鹿忍町、長浜村が合併し、改めて牛
        窓町が発足する。現在は平成の大合併で邑久町、牛窓町、長船町が合併し、瀬戸内市の一
        部となる。(歩行約2.5㎞)

        
         JR邑久駅前から瀬戸内市営バス牛窓行き約22分、終点の牛窓バス停で下車する。こ
        の牛窓中央線は、両備バス路線廃止に伴い新設されたもので、平日13往復が運行されて
        利便性が高く、しかも運賃が100円と格安である。(駅にコインロッカーなし)

        
         バス停からバス路線を引き返すと牛窓きらり館(観光センター)があり、レンタサイクル、
        コインロッカーなどが常備されている。

        
         岡山県の東、瀬戸内海に面する温暖な地と他島美から「日本のエーゲ海」と称され、中
        世には中国・朝鮮との交易が行われ、瀬戸内海屈指の商業港となった。1695(元禄8)
        岡山藩主・池田綱政は津田永忠に命じて牛窓西港前の海に、長さ373間(678m)の一
        文字波止を藩の負担で築造させる。

        
         海遊文化館には牛窓が朝鮮通信使の寄港地であったため、通信使にまつわる資料が数多
        く展示されている。
         建物は、1887(明治20)年牛窓警察署として、牛窓村の助成金と20数名の篤志家寄
        付金で、地元大工の手によって建てられたもので、1977(昭和52)年まで牛窓警察署庁
        舎として使用された。明治中期に長崎や神戸などの大港湾都市に建築された真壁、大壁造
        りの和洋折衷の建物が、地方の港町に現存し、玄関を飾るステンドグラス等によって往時
        の文明開化の様相を知ることができる。玄関前には樹齢150年以上とされる大蘇鉄は、
        豪商・奈良屋(那須家)の庭から移植されたものという。

        
         「だんじり展示室」には、牛窓神社の秋季例大祭で町を練り歩くだんじり(山車)が展示
        されている。牛窓のだんじりは竜頭をモチーフにした船型のもので、綿密な彫刻が施され
        ている。

        
          文化館の背後に本蓮寺の三重塔と鐘楼。

         
          本蓮寺(法華宗)は、鎌倉期の元弘年間(1331-1333)京都の妙顕寺2世が、西国布教の途中
         に海路で牛窓に立ち寄って法華堂を建てたのが始まりという。

         
          本堂は室町期の1492(明応元)年建立とされ、平面及び側面は5間(9.09m)で中央
         に向拝をつけ、構造は寄棟造である。(国重要文化財)
          1607(慶長12)年から1811(文化8)年の間に12回渡日した朝鮮通信使の三使(正
         使・副使・従事官)の宿館として4回利用された。三使の宿館は御茶屋に変更された後も、
         通信使が寄港する度に岡山藩の中心的な施設として利用された。

         
          1690(元禄3)年創建の三重塔は、平面は方3間(5.45m)、高さは12.6mの禅宗
         様式である。(県指定文化財)

         
          しおまち唐琴通りは江戸期の道幅のままとされる。

         
          牛転(うしまろび)と記された喫茶店は、1935(昭和10)年に建てられた旧牛窓郵便局を
         改修して使用されている。

         
          入口に架かるのは「牛王宝印」で、新年にお寺から授与される護符である。

         

         
          海への路地にも焼き板壁が用いられているが、潮風や雨水で外壁が傷まないように工夫
         されたものであろう。

         
          旧松屋本家の長屋門は、明治期に武家屋敷構えで建てられたもので、江戸期より材木流
         通業を営み、
木造船の材料などを多く扱ったという。

         
          通りの中央付近に火の見櫓。

         
          牛窓天神社の石段は120段あるとのことで参拝を残念する。火の見櫓が設置してある
         地は、旧牛窓町役場跡のようで門柱が残されている。

         
          牛窓の秋祭りに使用される関町のだんじりは、1845(弘化2)年に制作されたもので、
         町内8基の中ではもっとも華やかな総欅造りである。前部は目をらんらんと輝かせ、牙を
         むき真っ赤な舌をのぞかせた竜の頭を取り付け、船形の上に二層の屋形を建て、船底には
         木製の車輪が取り付けてある。10月23日が秋祭りとのことで、その準備をされている
         最中であった。

         
          天保年間(1830-1844)創業の備中屋高祖(こうそ)造は、1955(昭和30)年代までこの
         地で酒造されていたが、現在は2㎞西にある千寿蔵で酒造されている。
          主屋は明治中期の和風建築で、酒造家住宅の佇まいを見せる座敷蔵と圧搾蔵は創業当時
         に建てられ、煉瓦煙突は1932(昭和7)年頃建造されたという。(国登録有形文化財) 

         
          岡山城下を結ぶ牛窓往来の起終点とされる地。道程6里28町で、寛文・延宝年間(166
         1-1680)頃に整備された考えられている。この中庭には、往来の起点を示す道路元標があっ
         たという。(関町だんじり小屋前の小公園)

         
          しおまち唐琴通りの町並み。

         
          最一(さいいち)稲荷の由来によると、北側の山にいた老狐が、1871(明治4)年に社のあ
         るところで天寿を迎えた。霊狐となって人の願いを叶えたため多くの訪れるようになり、
         1874(明治7)年伏見稲荷より分霊を賜ったという。

         
          金比羅宮への参道口だが先に進む。 

         
          赤煉瓦の建物が見える場所は桝形の道だったようだ。

         
          赤い鳥居なので稲荷社であろう。

         
          1915(大正4)年に牛窓銀行本店として建てられ、その後、中国銀行牛窓支店に引き継
         がれ、1980(昭和55)年まで使用された。現在は街角ミュゼ牛窓文化館として活用され
         ている。

         
          内部は吹き抜けで、上の階の窓を開閉するための細い通路(キャットウォーク)が設けて
         ある。

         
          銀行裏手にも同じ構造の付属屋が建てられている。

         
          敷地内には金庫のような土蔵も残されている。

         
          牛窓は大きな川もなく、夏になると水をめぐる争いが起こり、水売りが来る地域であっ
         た。この井戸は、1654(承応3)年岡山藩が御茶屋用として掘ったもので、他の井戸が枯
         れてもここだけは枯れなったと伝える。

         
          旧銀行が見える通り。

         
          屋根部分が道路側と山側に違いをみせる。

         
          しおまち唐琴通りの町並み。(本町付近) 

         
          纜石(ともづないし)といわれ、神功皇后の船を繋いだという伝説が残る。

         
          牛窓燈籠堂は唐琴の瀬戸に面して建てられているが、いつ頃創建されたかは不詳のよう
         だが、1680(延宝8)年以前に建てられたといわれる。明治時代になって堂は壊されて石
         垣のみ残されていたが、1988(昭和63)年に復元された。(手前はえびす宮)

         
         
          纜石前の石段を上がると、塀に囲まれた五香宮(ごこうぐう)の社殿がある。往古、神宮皇
         后が三韓征伐の折に当地に立ち寄り、住吉三神を祀り、海路の平安・安産を祈願をされた
         という伝説が残されている。
          住吉神社は江戸時代に一度破却されたが、京都伏見の御香宮から勧請して五香宮にした
         といわれている。現在の社殿は1918(大正7)年に建てられたもので、一間社神明造り銅
         板葺きである。

         
          境内から海上3里(約11.7㎞)を照らしたという高さ5間半(約10m)の燈籠堂。

         
          高台より牛窓の東町。

         
          地元では東寺と呼ばれる妙福寺観音院(高野山真言宗)は、瀬戸内三十三観音霊場6番札
         所とされている。創建は天平勝宝年間(749-757)とされ、現在の建物は1746(延亨3)
         に再建されたという。正面と側面5間の建物で、中央1間に向拝をつけている。

         
          境内から海が垣間見える。

         
          寺から海岸線に出てバス停に戻るが、参勤交代が実施されて以来、瀬戸内海を往来する
         幕使や諸大名の多くは牛窓に寄宿した。また、西廻航路の開設によって物資の集散地とも
         なり、「備前牛窓帆舟の柱、町に黄金の花が咲く」といわれたほど繁栄した。

         
          家前は海だったようで、階下に舟の格納庫のような痕跡が見られる。


岡山市西大寺は裸祭りで有名な寺がある地

2022年10月20日 | 岡山県

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         西大寺は南西流する吉井川河口近くの右岸、砂川との間の沖積地に位置する。地名は寺
        名の西大寺に因み、西大寺の門前市場として、また後背地からの物資が集散する川湊集落
        として発展した。(歩行約2.5㎞、🚻なし
)

        
         JR西大寺駅から両備バス南まわり牛窓線に乗車し、西大寺観音院入口バス停で下車す
        る。(乗車時間2分程度)  

        
         仁王門は裸祭りの入場にふさわしい三間一戸の楼門で、和様と禅宗様が併用された建物
        である。1740(元文5)年に再建されたもので、高欄に回縁をめぐらした雄壮な構えをみ
        せる。

        
         寺伝によると、奈良期の751(天平勝宝3)年周防国玖珂庄の藤原皆足媛(みなたるひめ)が、
        大和国長谷観音の化身である仏師に千手観音を彫らせ、彩色のため都に運ぶ途中、金岡浦
        に停泊したところ船が動かなくなった。そのため同所に小堂を建て、観音を安置したのが
        草創という。
         その後、777(宝亀8)年紀伊国の人・安隆が長谷観音の夢告によって、浄財を募り現寺
        地に竜神から授かった犀の角を埋めて伽藍を建立したことから「犀戴寺(さいだいじ)」と号
        した。のちに後鳥羽上皇の祈願文から「西大寺」に改称された。現在の本堂は、1854
          (嘉永7)年四たび消失して、1863(文久3)年再建された。

        
         中国観音霊場会は普陀山仏教教会の交流10周年を記念して、普陀山から10分の1の
        大きさの南海観音像の贈呈を受け、1番札所の当山でお祀りすることになったという。

        
         1880(明治13)年に再建された牛玉所殿。本殿には牛玉所大権現と金毘羅大権現が合
        祀され、脇には青面金剛が祀られている。

                 
         2本の楠が寄り添うように立つ姿から和合の楠といわれている。指(右指上)を交差和合
        させて合掌し、子宝・家庭円満良縁成就をお祈りくださいとある。樹齢約150年。

        
         西大寺本坊の客殿に到る鐘楼門は、入母屋造りで門にかかる梵鐘は朝鮮鐘(国の重文)と
        される。2階部分には会陽(えよう)の祝主と福男の名が記された行灯が掲げてある。

        
         弘法大師を祀る高祖堂(御影(みえ)堂とも呼ばれる)は、延宝年間(1673-1681)に建立され
        たが、軒の出が深いためか低平な感じがする。

        
         三重塔は、1678(延宝6)年に再建されたもので、総高22.1mの本瓦葺きで境内の
        中では最も高い。江戸時代の塔としては均整がとれた美しい塔である。

        
         俗に石門と呼ばれているが、扁額にあるように正式には「龍鐘楼」という。1819(文
          政2)
年に建立されたもので、1階が石造で2階は木造の漆喰塗、縁は朱塗りとなっている。

        
         「裸祭り」とも呼ばれる西大寺会陽(えよう)は、
日本三大奇祭(組合せ複数あり)の1つと
        され、会陽に際して2週間前からお祭り当日まで、ここで心身を清める「水垢離の行」と
        いう修行が行われる。

        
         神明鳥居の先に恵比寿神社。千鳥破風を載せた切妻造りで、擬宝珠高欄付き縁を設けて
        おり、屋根には外削りの千木と鰹木がついている。

        
         会陽橋から見える新堀川左岸は桜並木。

        
         「犀戴寺」という名の起こりに因んで作られた像。(向洲公園の一角)

        
         現在の清水橋は3代目で、2代目は1956(昭和31)年相撲巡業に来ていた相撲取りが
        渡った直後に落ちたというエピソードが残る。

        
         高瀬舟が荷物の積み下ろしに使った雁木(石の階段)で、当時の面影が残っている唯一の
        証だそうだ。

        
         琴松庵の創始は室町時代だが、昔、奇怪な運命に翻弄されて、たびたび三毛猫から命を
        助けられた女性が、最後は尼となって愛猫と暮らしたという。それに因み、通称「猫庵」
        とも呼ばれた。(左手の建物で2005年改築) 

        
         琴松庵から五福通りに出ると、看板建築の商家が立ち並ぶ。(野口商店の看板建築) 

        
        
         「五福」とは人生の五種の幸福、すなわち、寿(寿命の長いこと)、富(財力の豊かなこ
        と)、康寧(無病なこと)、好徳(徳を好むこと)、終年(天命をもって終わること)で、裸祭
        りで裸衆が奪い合う宝木(しんぎ)は、この五福を授ける意味で与えられたことから、この
        通りが五福通りと呼ばれるようになったという。

        
         五福うさぎさんと茶蔵さん付近の町並み。

        
        
         1907(明治40)年築の松島屋さんは、跳ね上げ大戸と袖卯建が特徴。もともとは木・
        竹製品を扱うお店だったとか。

        
         ガラス看板には「履物問屋・野崎本店」とある。

        
         中央に岡山の「岡」が図案化された市章と、周囲に「山」を幾重にも配置したマンホー
        ル蓋。

        
         左手2軒目の看板建築された久山薬局は、明治初期築の建物だそうで、2008(平成2
           0)
年まで営業されていた。その奥側の看板建築は野村帽子店で、明治初期~中期頃に建
        てられたという。

        
         1930(昭和5)年から1936年にかけて、バスなどを通すために道路の拡張が行われ、
        道路側の1階部分の軒先が切られたため、看板建築という手法が用いられ、現在のような
        特徴ある町並みが形成されたという。

        
         五福通りから県道西大寺山陽線にある商家。

        
         旧今町・渡場町の町並みを歩きたかったが、時間の制約もあって西大寺駅に戻る。


備前市伊部は備前焼の里

2022年10月20日 | 岡山県

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         伊部(いんべ)は北に熊山山魂、南は大平山山魂が続き、中央に平地が開け、不老川が南流
        する。地名は氏族的職業集団として勢力を誇った忌部氏に由来するものと考えられている。
        伊部周辺には忌部の人々が住み、そこから忌部が地名となり、漢字が転じて伊部になった
        という。(歩行約2㎞)

        
         JR伊部駅は、1958(昭和33)年赤穂線が日生(ひなせ)から当駅まで延伸した際に終着
        駅として開業し、北側に平屋の駅舎が設置された。のちに南口が開設され、北口は198
        7(昭和62)年備前焼伝統産業会館内に併設された。
 
        
         国道2号線を横断すると窯元の煙突が並ぶ。

        
         不老川への道筋。

        
         履掛(くつかけ)天神宮は、菅原道真公が太宰府に西下の時、休憩されたという伝承があり、
        鳥居前には備前焼の狛犬が置かれ、お宮の屋根も備前焼である。

        
         板壁と石壁、瓦壁が並ぶ。

        
         不老川に出ると蔓が這う2つの煙突。

        
         川上へ進むと旧山陽道に合わす。
        
        
         不老川と山陽道が交わる場所に茅葺きの屋根と門構えのある民家は、伊勢崎さんの工房
        で築200年以上の建物とか。

        
         伊部橋から赤穂方面への街道歩きだが、橋の親柱は備前焼で、橋の袂にあったお地蔵さ
        んも備前焼だった。

        
         10月15・16日は備前焼まつりが行われたようが、静かな備前焼の里をのんびり歩
        くのも格別である。

        
         備前焼の狛犬と市章がデザインされたマンホール蓋。 

        
        
         町中を歩くと美術館の中にいるような感覚となる。

        
         煙突から煙がみられる時期ではないようだが、1200℃を超える中で2週間も焼き続
        けられるという。

        
         店先で見られるのは作家の自信作のようだ。

        
         からくり人形でも出現するような造りの店構え。

        
         通りにも備前焼の工房が並ぶ。

        
         焼物の知識を持ち合わせていないが、備前焼は釉薬(ゆうやく)を使わない独自の製法が特
        徴のようで、釉薬を塗ると光沢と耐水性が増すが、備前焼は使わないためひとつとして同
        じものができないとされる。

        
         看板には「陶印」が施してあるが、備前焼が「大窯」と呼ばれる共同窯で焼かれるよう
        になった室町期頃から、作品を見分けるために刻印を始めたという。

        
         備前焼の歴史は古く、平安末期から中世にかけて当初は熊山山中で焼かれていたが、時
        代が経つにつれて麓に降りてきたという。
         「備前の擂り鉢、投げても割れぬ」と謡われたように、堅牢な作りから生産を増やし、
        山陽道だけでなく片上湾の海運と吉井川の高瀬舟の水運にも恵まれて販路を拡大した。(駅
        通り)

        
         備前焼の魅力に惹かれて何度も訪れる陶芸ファンも多いという。

        
         左右には和と洋の小西陶古。

        
         店先には大甕が並ぶ。

        
         しっとりと落ち着いた佇まいを見せる。

        
         天津(あまつ)神社の鳥居にある扁額は屋根付き、狛犬は履掛天満宮同様に備前焼であり、
        参道には陶板が敷き詰めてある。

        
         神門の屋根も備前焼瓦で葺かれている。

        
         由緒等は不明のようで、古老の口碑によると、昔から伊部、浦伊部は菅原氏の荘園であ
        ったことにより、室町期の1411(応永18)年に配祀されたという。
         社殿は当初、浦伊部に創建されたが、1579(天正7)年伊部に疫病が流行した際に遷座
        したという。

        
         天津神社境内に室町時代から江戸時代にかけて、この地に備前焼の同業者が共同で使用
        した大規模な窯のひとつである伊部北大窯があった。室町時代末期に北、南、西の3ヶ所
        に大窯が設けられたが、幕末になると窯の経営がたちゆかなくなり、使用されなくなった
        という。(窪地になっている所が大窯跡と、窯を保護するための溝だそうだ。) 

        
         忌部神社は天津神社の境内末社で、備前焼の窯元六姓(金重・森・木村・大饗・寺見・頓
        宮)が、古くから小祠のあったこの地に、1929(昭和4)年伊勢神宮から摂末社をいただ
        き、伊勢から船で片上湾へ船で運ばれて建立されたという。祭神は天太玉命で、玉串、注
        連縄をはじめ多くの祭具を作ったことにより、物造りの神として祀られている。

        
         神社から2~3分ほど小径を登ると、展望台(標高60m)から伊部の里が一望できる。

        
         天保窯のある道を下ると町並みが見えてくる。

        
         町全体に窯元の赤煉瓦煙突が並ぶ。

        
        
         江戸後期まで三大窯で生産していた備前焼も、藩の保護の減少、燃料の関係で規模を縮
        小した三基の小窯が造られた。天保窯はその1つで、1832(天保3)年頃に築窯され、1
        940(昭和15)年頃まで焼き継がれた。
         当初は長さ23mであったが、乾燥などによる崩壊で残存長は17.5mになったという。
        保護屋根の設置や窯体を強化保存する工事が行われたが、崩落による危険防止のため金網
        が設けられている。(上部の写真は燃焼口、下部は崩壊の様子) 

        
         街道を過ごして駅に戻る途中、煙突を間近に見ることができる。次の予定もあって駅の
        南側を見て歩きできなかったが、日本六古窯に数えられる備前焼の里を見納めする。


備中高梁は備中の小京都

2018年10月24日 | 岡山県

           
        この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分の1地形図を複製したものである。(承認番号 平30情複 第467号)
 
         近世、城下町松山に起源をもつ備中高梁は、域内の中央部を北から南へ貫通する高梁川
        の左岸に市街地が形成されている。
         松山城の南麓に城下町松山の建設が本格的に始まるのは、1600(慶長5)年に小堀新助
        ・作助父子が、備中国奉行として松山に赴任してからである。(歩行約5.5㎞)
 
           
         備中高梁駅は、2015(平成27)年に駅上駅舎となり、隣接する地には複合施設が設け
        られるなど駅周辺は様変わりしたようだ。

           
         散策しながら備中松山城を見学する予定にしていたが、 駅に降り立つと微雨のため、
        タクシーでふいご峠まで上がる。
         ふいご峠は臥牛山8合目で、備中松山城の御社壇に納められた三振の宝剣をここで作ら
        せていたので、大きな「ふいご」が設置されていたとのこと。

           
         ふいご峠(標高290m)から山頂まで700mと表示されているが、城のある地点が標
        高430mなので、標高差140mを登らなければならない。

           
         登城心得「あわてず ゆっくり歩むべし 城主」と高札あり。

           
         中太鼓櫓には石垣で造られた櫓台が残されている。

           
         下太鼓の丸と大手門とのほぼ中間で、城主の登城の際や有事の際に、太鼓の音で情報伝
        達をしていた重要な拠点でもあった。

           
         櫓台から見る高梁の町。

           
         美濃岩村城、大和高取城と共に日本三大山城とされるが、兵庫の竹田城も有名な山城で
        はあるが、江戸初期に廃城となり、幕末まで使われた城とは異なることから選ばれなかっ
        たとされる。

           
         両脇の櫓台の上に建物が建てられ、その下に門が設けられた櫓門形式の大手門であった
        とのこと。

           
         大手門の先には多くの石垣が残されている。正面の塀は天守と二重櫓と同様に現存する
        三の平櫓東土塀である。

          
         大手門跡の右手に聳える石垣群は、大きな岩盤を利用して石垣、土壁が築かれている。

           
         三の丸に足軽番所跡と上番所跡がある。

           
         曲輪ごとに石垣が築かれて段状に連なっている。

           
         鎌倉期の1240(延応2)年に秋庭三郎重信が備中有漢(うかん)郷(現・岡山県高梁市有漢
        町)の地頭となり、大松山に城を築いたのが創始とされている。(三の丸櫓跡)

           
         黒門跡。

           
         現在、日本に12箇所ある現存天守の1つであり、国の重要文化財となっている。他の
        11ヶ所は、弘前、松本、丸岡、犬山、彦根、姫路、松江、丸亀、伊予松山、宇和島、高
        知。
         
                                                   
           
         国内の山城に残っている唯一の天守は、1683(天和3)年に水谷勝宗が大修復する。三
        層に見えるように造られているが、二層二階の望楼型で高さは11mである。

           
         本丸にある東御門。石段を上がれば天守曲輪と二重櫓へと続くが、あいにくの雨で残念
        する。

           
         7代藩主の板倉勝静(かつきよ)は、1868(明治元)年の戊辰戦争で幕府軍に最後まで忠義
        を果したため、新政府の追討を受ける事態になる。松山藩の執政であった陽明学者の山田
        方谷は、朝敵となったことや領民を戦火から救い、板倉家存続させるために無血開城とす
        る。

           
         天守に入ると八の平櫓との接続廊下。急階段で1階に上がる。

           
         天守同様に現存する二重櫓は、天然の岩盤の上に石垣を築き、櫓が建てられている。

           
         天守1階には囲炉裏が設けられている。

           
         籠城時の城主一家の居室とされる装束の間で、戦いに敗れ、落城の時は死に場所にもな
        った。

           
         天守から本丸、五の平櫓、南御門、六の平櫓。縦連子窓のため展望は得難い。

           
         二階には御社壇と呼ばれる神棚が祀ってある。

           
         城見通りから花水木通りに入り、2つ目の信号を右折すると下町である。

           
         下町から本町にかけては、幅員三間余(5.45m)の備前往来沿いに町家が並んでいる。

           
         金物屋さん。

           
         平格子を持つI邸。 

           
           
         庇の下に帯状の板暖簾が吊り下げられているが、町家の前面がすり上げ戸で解放される
        ため、陽射しを防ぐ目的で付けられたとされる。

           
         紺屋川手前の左手には元醸造家の大きな町家があり、木瓜縁で縦格子とした虫籠窓と、
        縦格子の虫籠窓がみられる。

            
         高梁市中心部を流れる紺屋川(外堀)の橋上には、蛭子神社が祀られている。

           
         海鼠壁が目立つ町家。

           
         伝統的な町家建築に袖壁が見られ、これによって各家は独立性を高めている。

           
         縦格子の虫籠窓が多く見られる。

           
         柱から外に突出した部分を受ける支え板(絵様(えよう)持ち送り)は、装飾のため様々な意
        匠がされている。

           
           
         通りに面して1階のみならず、2階の壁面にも格子が見られる。

           
         、享保年間(1716~1736)頃に池上家は、この地で小間物屋「立花屋」を開業し、その後、
        両替商、高瀬舟の船主等を経て「かねたつ」醤油製造で財をなした豪商とのこと。

           
         千本格子や漆喰壁、掲げられた看板などに歴史が感じられる。

           
         池上邸の帳場と暖簾。商家の雰囲気が伝わってくる。

           
         1843(天保14)年に建てられた現在の建物は、大正時代に一部改修されたとのこと。

           
         小高下谷川(内堀)にも蛭子神社が祀られている。

                                   
           
         御根小屋とは藩主の住居と行政用の建物を兼ねたもので、1605(慶長10)年に備中国
        奉行となった小堀遠州が頼久寺からここに移り住んだ。1681(天和元)年に水谷勝宗が備
        中松山城と御根小屋を大改築したが、現在は当時の建物は残っておらず、跡地は岡山県立
        高梁高校となっている。

           
         武家屋敷通り(石火矢町)には土塀が250mほど続いている。武者窓が見られるが武家
        屋敷の表長屋の外側に設けた竪格子のある窓で、屋敷を警固するため外の様子を窺う目的
        で作られたとされる。板倉藩の家老・中之条左衛門の屋敷跡の一部で、かつては北側の古
        井戸塀に武者窓があった。今の武者窓は、現梶谷邸を新築した際に作り直したものとされ
        る。

           
         ひときわ立派な風格を漂わせる屋敷が旧折井家で、書院造りの母屋などから当時の武士
        の生活を知ることができる。

           
         160石馬回り役を勤めた折井家の屋敷は、180年前の天保年間(1830-1844)に建てら
                れた。

           
         長屋門をくぐると前庭があり、式台、玄関へと続く。

           
         奥座敷と手前は居間。

           
           
         白壁、土塀が続く町並み。

           
         旧埴原(はいばら)家は120~150石取りの武士であったという。

           
           
         式台と玄関、玄関の奥に棚が設えてある。

           
         内玄関から入ると、手前から広敷、玄関座敷、座敷と連なっている。

           
         奥座敷には付書院、花燈窓と違い棚などがあり、武家屋敷としては寺院建築風の要素を
        取り入れた珍しい造りとされる。150石取りの武士だが、
藩主の生母を出したため贅沢
        な造りになっているという。


           
         武家屋敷南端辺りから、往時の御根小屋跡に建つ高梁高校が見える。

           
         1877(明治10)年に上房郡役所が本町に設置されたが、その門が岡村邸に移設されて
        いる。「男はつらいよ 寅次郎恋歌」の映画では、葬儀の会場に使用された。

   
        

         1615(元和元)年の武家諸法度(ぶけしょはっと)によって、城の新築・改修などが厳しく
        規制
された。時の城主・水谷勝隆は堅固な石垣で囲まれた寺院を建立することで、町を城
        塞化したのである。

         このため、源久寺や水谷氏の菩提寺である定休寺など20余の寺院が建ち並んだとのこ
        と。


           
         頼久寺は足利尊氏が諸国に命じて建立させた安国寺の一つである。当寺の庭園は備中国
        奉行・小堀新助の作庭とされる。


           
           
         頼久寺の書院から望む枯山水の庭園。今回は時間の都合で入園できなかった。(06年
        撮影) 


           
         1889(明治22)年築の高梁基督教会堂は、現存する岡山県下最古の教会であるとのこ
        と。1879(明治12)年に始まった高梁でのキリスト教布
教活動は、翌年に新島襄が来高
        すると急速に発展し、信者の浄財によって教会
が建築される。

           
         泰立寺・薬師院は寺伝によると、花山法皇の開基により、平安期の968(安和元)
に創
        建されたと伝える。山門前に「男はつらいよ ロケ地」の石柱が立つ。


           
         仁王門から境内に入る。ここは中国薬師霊場2番札所でもある。

           
         客殿。

           
         1624(元和10)年築の薬師堂(本堂)は、勾配のある大屋根とこれを支える組物、浅唐
        戸の彫刻、ほか随所に桃山風の特徴がよく表れている。

     
           
         地名の由来は、古くは高橋と称したが、鎌倉期の1330(元徳2)年頃に高橋宗康が備中
        国の守護職として当地に入った際、地名と城主の名が同じであることは
好ましくないとの
        理由で「松山」とした。 

         市史には、1868(明治元)年に伊予松山と混同するために元に戻し、「橋」の字に雅字
        の「梁」の字を当てて高梁藩としたとある。


備中高梁市の吹屋はベンガラ色の町並み

2018年10月24日 | 岡山県

           
        この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分の1地形図を複製したものである。(承認番号 平30情複 第467号)
         吹屋は標高500m前後の高原にある村で、吹屋往来や備後東城に至る道が通る。往来
        には弁柄釜元、問屋、酒醤油製造、米問屋などが軒を並べた。(歩行約1.5㎞)

           
         高梁バスセンターから備北バス吹屋行き約1時間10分、終点の吹屋バス停に到着する。
        最終便まで4時間超の滞在が可能であるのでゆっくりと散策できる。駐車場にトイレが併
        設されているので、一旦駐車場まで下って引き返すことになる。

           
         土産物屋のベンガラ屋(山内家)は、明治初期の入母屋造、妻入りで二階建ての建物。鬼
        瓦は山と内の字を組合せたデザインになっている。
         三菱商会の吉岡銅山に、鉱夫の扶持米を納める米問屋だったが、大正末期にベンガラ化
        学工場を始めた。この建物は別荘に使っていたとのこと。

           
         本片山家が明治期に分家を出し、本家の向かい側に分家3棟が建ち並ぶ。坂上から北片
        山、中片山、角片山と呼ばれた。中片山家は明治期に薬屋、大正初めから終戦までは銀行
        の代理店を務めていた。

           
         坂本村の本山銅山で硫化石鉱が採掘されたのを契機に、江戸期の1751~64年頃よ
        り吹屋村、坂本村、中野村で緑礬(ローハ)作りが本格化し、吹屋の片山家などで株仲間を
        を結成して弁柄を量産した。

           
         1759(宝暦9)年創業の旧片山家は、220年にわたって弁柄の製造及び販売を手掛け
        た老舗である。主屋は18世紀末期築を基本に、1830(文政13)年までに増築が続けら
        れて現在の形となったという。

           
         仏間から、主婦居間・奥座敷へは床が1段高くなっている。

           
         1階は店舗と接客の場に充て、2階を寝室や物置に使用。通り土間に面した所に店の間
        や台所があり、当時の商家の佇まいを見ることできる。

           
           
         当時使用されていた運搬具、帳箱なども置かれている。

           
         庭のある地には弁柄蔵、仕事場及び部屋がある。

           
         裏門を潜ると最奥部に道具蔵、弁柄蔵、米蔵が取り巻いている。

           
         意匠のよく似た建物が2軒並ぶが、手前が中片山家で隣は角片山家である。中片山家は
        1866(慶応2)年頃の建物で、入母屋・妻入り形式で、入口は捲り上げ大戸が残ってい
        る。

           
         分家の角片山家住宅は郷土館として活用されている。1874(明治7)年から5年をかけ
        て、石州大工の手で建築された入母屋・妻入り形式である。

           
         主屋は採光のため中庭が設けてある。

           
         座敷の書院まわりは生漆と弁柄で塗り上げ、それぞれに飾り金具が用いられている。

           
         間口5間、奥行16間という中級商家の定形でもある。

           
         長尾屋(本長尾家)は弁柄釜元の1軒で、江戸期には鉄・油などの問屋で酒造業も営む。

           
         1700年代末頃の建物をベースに、大正時代まで増改築を重ねたとされる。左側にく
        ぐり戸付きの長屋門を持つ。

           
         長尾家の向かいが仲田家。江戸末期造の切妻造りの平入りで、二階の外壁が黒漆喰塗り
        である。左右の虫籠窓には白い格子戸、玄関の左側には出格子がある。叶(川野)屋という
        弁柄釜元で、天領だった吹屋村の庄屋を務めた。

           
         明治に入ってから弁柄屋は5軒だったが、その中の1軒が東長尾屋(東長尾家)であった。
        明治中期頃の建物で、表側は半蔀戸(はんしとみど)格子になっている。

           
         1874(明治7)年開局した吹屋郵便局は、1993(平成5)年に3代目の局舎として建て
        替えられる。左側の建物は元呉服屋、右側は前局舎を撤去して、以前にあった建物に近い
        姿で復元される。

           
         暖簾が掛かる玄関脇には、1871(明治4)年の郵便事業開始頃に使われていた書状集箱
        と同型の黒いポストが置かれている。(現役のポスト) 

           
         長尾家(旧松田家)の屋号は氏屋と称し、本片山の弁柄の売り子で、陶器、金物などの雑
        貨屋だった。松田家は、大正初期、県南で弁柄製造を手掛けていたが、東長尾家が大正時
        代に建物を買い取り、農協の事務所として使用されていた。(現在はギャラリー吹屋)

           
         中野屋(中山家)は弁柄釜元の1軒であったが、明治・大正期は醤油屋を営む。1700
        年代末の建物でなまこ壁に特徴がある。

           
         歩いて来た町並み。

           
         1902(明治35)年創業のおみやげ「あさだ」は、100余年続く老舗の土産店。

           
         明治中期に建てられた赤木家は、1965(昭和40)年頃まで「松栄館」の屋号で旅館業
        を営んでいた。

           
         中野口へ下って行く。

           
         吉川家(栩木屋)は江戸時代末期の建物で、吉川家の先住は旅館業を営み、大正末期から
        1965(昭和40)年頃まで理髪業を営んでいた。

           
         町並みは緩やかな下り道。

           
         川本家の建物は江戸末期に建てられたもので、2階の右側の手摺は開閉できる仕組みと
        なっている。表の木製衝立は泥除けのものである。

           
         下って見返ると右手に江戸末期、弁柄仲間の一人であった大黒屋の建物がある。その後
        は居住人が数回入れ替わり今日に至る。

           
         那須家(旧永野旅館)は江戸時代末期の建物で、屋号を松乃屋と称し、昭和初期から2代
        にわたって旅館業を営んでいた。

           
         赤木家(大工屋)は明治中期の建物であるが、雨漏り等が激しくなったため、2001(平
        成13)年に屋根を葺き替えるなど手が加えられてきた。

           
         松浦本家(旧日向家)は江戸時代末期の建物で、屋号は松木屋と称して雑貨商、木賃宿な
        どを営む。1950(昭和25)年から約60年、名物おばあちゃんの日向氏が美容院を営む。

           
         中野口手前の下町付近から引き返す。

           
         三叉路まで戻ると吹屋小学校方向から下ってきた人が、吹屋小学校は工事中と教えてく
        れる。(とりあえず行って見る)

           
           
         吹屋小学校は、1900(明治33)年に西校舎・東校舎(木造平屋建)が竣工し、1909
        (明治42年)に本館が竣工する。現役で使用される日本最古の木造校舎として知られていた
        が、児童数の大幅な減少により、2012(平成24)年3月に廃校となる。現在は保存修理
        工事中のため見ることができない。(06年5月撮影)

           
         姿を見ることができないのでバス停に戻る。

           
         笹畝坑道や広兼邸まで約3㎞の距離だが、残念してJR備中高梁駅に戻る。