ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

岩国市横山は岩国城下と錦帯橋

2018年03月30日 | 山口県岩国市

                           
        この地図は国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分の1地形図を複製したものである。(承認
番号 平29情複第968号)        
         横山は錦川下流の右岸、城山の南麓に位置する。城山と呼ばれる横山があり、地名
はそ
        の山からきたものと考えられる。江戸期は一部の寺地を除いてすべて武家屋敷地であった。
        (約5.5㎞)

                
         日本三大奇橋とされる錦帯橋は、長さ200mの5連アーチ橋で、岩国城下を横切る錦
        川に架けられた名橋である。1673(延宝元)年に3代岩国領主・吉川広嘉によって創建さ
        れた岩国領の悲願である流されない橋として誕生し
た。
(国名勝)

           
         創建の翌年5月の洪水で流失したが、改良を加えてすぐに再建された。それから276
        年間不落を誇ったが、1950(昭和25)年のキジヤ台風で流失する。1953(昭和28)
        に再建され、2004(平成16)年の架け替えを経て今日に至っている。

            
         香川家長屋門への道。

            
         岩国領の家老を務めた香川正恒が、1693(元禄6)年に建てたと伝わる長屋門。岩国市
        の建造物としては最も古いものの一つで、当時の武家屋敷の構えをよく残している。

            
         岩国高校記念館の由来によると、旧制岩国中学校は、1880(明治13)年に藩校・養老
        館跡に創立され、後に現在の徴古館付近に新築移転する。1901(明治34)年に記念館が
        ある地に移転すると、翌年に岩国高等女学校が創立され、旧中学校の校舎を使用する。女
        学校が川西に移転すると、1916(大正5)年に旧高等女学校の建物資材を利用して武道場
        が建てられたのが、現在の記念館である。
         戦後の学制改革により旧制中学校と女学校の2つが岩国高校と改称する。1986(昭和
          43)
年に新築移転する際に、明治時代の校舎を今に伝えるものとして保存された。

             
         右手は吉香菖蒲園、正面にロープウエイ。

            
         「祖先以来、岩国の住、姓は佐々木といい、名は小次郎と親からもらい、
剣名を”巌流”
        とも呼ぶ人間は、かくいう私であるが・・・」吉川英治の小説「宮本武蔵」の一節では、
        岩国出身となっているが、未だ不明な点が多き人物である。

           
         1793(寛政5)年に岩国7代領主・吉川経倫(つねとも)の隠居所として建てられたのが昌
        明館である。現在は吉川史料館の敷地になっているが、長屋2棟と門が現存する。

           
         史料館の前庭には広島藩家老で茶人の上田宗箇から、枝垂れ桜の返礼として1625(寛
          永2)
年、木菟(みみずく)の手水鉢が初代藩主・広家へ贈られた。(レプリカで実物は広家の
                墓の傍にある)
           
        
         史料館内には吉川家に伝来した歴史資料、美術工芸品などが展示されている。正面の肖
        像画は吉川元春像。

           
         1803(享和3)年に経倫が死去すると、昌明館は8代経忠夫人の居所とされた。18

        1(明治4)年の廃藩置県の際には、岩国県庁が置かれた
が、後に解体される。

           
         角に出格子窓。

           
         岩国徴古館は旧岩国藩主だった吉川家によって、1945(昭和20)年3月に建てられた。
        煉瓦造平屋建ての建物は、外壁にアサマタイル製の鉱滓(こうさい)タイルが使用され、直線
        を強調した外観である。(国登録有形文化財) 

           
         正面中央に角柱を連ね、左右壁には縦長の窓が設けられている。

           
         展示室の列柱は先端で細くなって連続したアーチとなっている。

           
           
         岩国藩知事だった吉川経健(つねたけ)が建設した邸宅の長屋門で、桁行30mと長大で、
        西を正面にして石積基壇上に建つ。南寄りに門口を構えて外壁漆喰塗
とし、要所に横連子
        窓が設けられている。屋根は寄棟造の桟瓦葺き、小屋組は一部に変形トラス組を用いてい
        る。近代の大邸宅の様子を今に伝えている。

           
         旧吉川家岩国事務所として、1931(昭和6)年に建設されたもので、設計は近代日本を
        代表する建築家・堀口捨巳である。事務所、倉庫、便所の3棟で構成され、外内部ともに
        ほぼ建設当時の姿をとどめている。

           
         ここにも物見の出格子窓が設けられている。邸宅は岡山県の後楽園に移築
され「鶴鳴館」
        という名で残されている。

           
         藩校・養老館は、1847(弘化4)年に岩国12代領主・初代藩主だった吉川経幹(つねま
          さ)
により創建されたが、1866(慶応2)年の火災で焼失する。
         岩国藩は本藩の支藩としての届け出が出されず、1868(慶応4)年3月に新政府が岩国
        藩として認める。(写真右側辺りが養老館跡)

           
         堀の山手側に居館(御土居)があったが、明治以降に解体され堀と石垣の一部が残されて
        いる。

           
         仙鳥館(せんちょうかん)は、1698(元禄11)年に岩国5代領主・吉川広達(ひろ
みち)
        児居所として建てられ、以降は代々領主の幼児居所に充てられた。

           
         国木田独歩は父が司法省の役人で、中国地方各地を転任したため、1878(明治11)
        8月から1883年10月まで、岩国市錦見小学校に通学する。
         文学碑に
は、「欺かざるの記」の一節「岩国の時代を回顧すれば~」が記されている。

           
         吉香神社境内近くに、岩国三士(来栖天山・南部五竹・東択潟(ひがしたくしゃ)の活躍を伝
        える碑がある。来栖と東は必死組(のちに精義隊)を組織し、藩風改革運動の先駆をなすが、
        柱島に流刑される。来栖は東を救うため柱島を脱し、同志に訴えるが賛同を得えられず自
        刃する。南部は東の奪還を計画するも露見して切腹させられる。東はその後に釈放されて
        塾を開き、後進を指導して60歳で没する。

           
         1728(享保13)年に造営された吉香(きっこう)神社は、1886(明治19)年に現在地へ
        移築される。鳥居、神門、配殿及び幣殿、本殿が一直線に並んだ構成となっている。

           
           
         錦雲閣(きんうんかく)は、1885(明治18)年に旧岩国藩主吉川家を祀る吉香神社の絵馬
        堂として建てられる。以前の同地には3階建ての南矢倉が建っていたが、その矢倉に似せ
        て造られた絵馬堂である。

           
           
         170石の中級武士だった目加田家が、江戸中期に建てた入母屋造りの家で、簡素なが
        ら端正な造りを庭から見ることができる。

           
         車体後部に設置してあるのが木炭発生炉で、木炭を燃やして発生する木炭ガスでピスト
        ンを動かす木炭自動車である。1937(昭和12)年頃から終戦の1945(昭和20)年頃ま
        で、戦争による燃料の供給事情が悪化したため使用された。これは復元された自動車のよ
        うだ。

           
         ロープウエイから横山地区。

           
         山頂駅からの錦帯橋は、木立の生長で全体を見ることができない。

           
           
         戦国末期に造られた石垣は野面積みで、隅は切り揃えられた石による算木積みがなされ
        ている。

           
         岩国城は城山の頂に桃山風南蛮造りの天守閣を構えている。関ヶ原合戦後、出雲富田1
        2万石から岩国3万石に封じられた吉川広家が、1608(慶長13)年に築城する。
         しかし、一国一城により完成からわずか8年で破却され、領主の館で政治が行われる。

           
         1962(昭和37)年に再建される。

           
           
         この大井戸は、1608(慶長13)年の築城と同時に作られたもので、非常時の武器弾薬
        等の収納と、落城の際に脱出口を備えた井戸とも伝えられている。

           
         臥龍梅がある洞泉寺の門前には、かわいい石像が立っている。

           
         吉川家墓所には6代を除く初代から12代まで、当主及び一族の墓が51基ほどある。

           
         内部は、「山のお塔」「寺谷のお塔」に分かれ、塀が廻らされてそれぞれの墓域を囲ん
        でいる。
 

           
         墓石の多くは五輪塔で、領主及び夫人の墓石は高さ3.5mを越える。墓所から錦帯橋に
        出て、錦帯橋バスセンターに戻る。   


下関市の新地は高杉晋作終焉の地

2018年03月17日 | 山口県下関市

        
        この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分1地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複 第546号
        
         
         新地は古くには大きな入江で、伊崎入江とか長崎入江と呼ばれ、厳島神社から了円寺の
                下まで海が入り込でいたという。そこを江戸期に萩藩が開作によって埋め立て、新しくで
        き
た土地である。(歩行約5㎞)

                           
                             JR下関駅は、1942(昭和17)年世界初の海底鉄道トンネル開通に伴い、細江から現
        在地へ移転する。2006(平成18)年には放火で駅舎が焼失するが、2014(平成26)
        に新駅舎が完成する。(駅西口)

        
         中国電力の敷地内に白石正一郎旧宅跡碑がある。荷受問屋・白石正一郎は勤皇商人で坂
        本龍馬ら各地の志士を支援する。1863(文久3)年6月、高杉晋作は白石正一郎の後ろ盾
        を得て、当地で奇兵隊を結成する。晩年は一切の俗事から離れ、赤間神宮の宮司として生
        涯を終える。(享年69歳)

        
         1849(嘉永2)年に吉田松陰は、藩命により北浦海岸防備視察のため、7月15日から
        20日まで伊崎の付船業(水先案内役)関屋松兵衛宅に宿泊した。(松陰19歳)

        
         伊崎の厳島神社参道。

        
         厳島神社は吉田松陰が小門海峡を視察展望した地とされる。

        
          彦島と伊崎町の間の海峡は、小門(おど)あるいは小瀬戸と呼ばれる急流で知られている。 
        1866(慶応2)年に高杉晋作も舟遊びを楽しんだといわれている。

        
         伊崎は港町下関の歓楽地だったとか。

        
         案内に従って徳利小路に入るが、井戸は個人の敷地内にある。

        
         高杉晋作が刺客から身を隠すために、丸1日潜伏したとされる「ひょうたん井戸」。

        
         伊崎は昭和初期を思い出させる古い佇まいが残っている。

        
         看板はないが現役のお風呂屋さんで「千歳湯」だそうだ。

               
                 千歳湯は土曜日が定休日のため暖簾等もなく、銭湯だとわからないが黄色い張り紙で銭
        湯だとわかる。

        
         国道181号線の手前にも「ゆ」の看板を見ることができるが、現役かどうかは定かで
        ない。

        
         功山寺で決起した高杉晋作らは、1864(元治元)年12月15日に新地会所を襲撃した
        後、この了円寺に立て籠もる。山門は勝山御殿の表門を移設したものである。

        
         本堂は当時のもので、本堂内の柱には挙兵軍の兵士たちがつけた刀疵(かたなきず)が残さ
        れているとのことだが、本堂では卒園式が行われて拝見できなかった。

        
         桜山神社(元は桜山招魂場)は、1865(慶応元)年に亡き同志の霊を祀るため、高杉晋作
        らの発議によって創建される。

        
         七卿が長州へ都落ちした翌年の3月26日、馬関砲台を巡視する途で錦小路頼徳は病を
        発したため、六卿で当招魂場と鋳造場に立ち寄る。

        
         この地は奇兵隊の訓練場跡でもあり、招魂場となった以後に桜を植えたことから、桜山
        と呼ばれるようになった。

        
         龍馬死後、下関に滞在していたお龍は、一時期、桜山招魂社の運営のために設けられた
        「あけぼの」という茶屋で過ごす。この間、招魂場に祀られた人々への想いを詠んでいる。
                「武士のかばねは ここに桜山 
                         花は散れども 名こそ止むれ」

        
         1866(慶応2)年8月9日の招魂社新築落成祭典の日、高杉晋作が詠んだ詩の自筆が刻
        まれている。
               猛烈の奇兵何のために志す所ぞ 
               一死将って邦家に報いんと要す
               尤(もっとも)欣ぶ名を遂げ功成りて後 
               共に弔魂場の花と作らんを 

               「弔らわる人に入るべき身なりしに 弔う人になるそはずかし」とある。

        
         明治維新に散った志士たち391柱の霊標がある。中央に吉田松陰、両側には高杉晋作、
        久坂玄瑞が並び、後ろの方は名前だけが刻まれたものもある。

        
         吉田松陰から奇兵隊の名もない者にいたるまで平等に祀られていることで、整然と立ち
        並ぶ霊標の姿は、奇兵隊における武士、町人の身分制を越えた新しい時代への理念を伝え
        ている。

        
         1959(昭和34)年の吉田松陰没後百年祭にあたり、山縣有朋ら23柱を追祀して、3
        91柱となった。

        
         高杉晋作は小倉戦争では長州軍を指揮して幕府軍と戦うが、この戦いで持病の結核が悪
        化する。桜山神社近くの小さな家で野村望東尼、愛人おうのの看病による療養生活を送る。
         この地を選んだのは、亡き同志の霊を祀る桜山招魂場が近くにあったためとされる。

        
         厳島神社は平家一門が、安芸の厳島神社の分霊を守護神として船中に祀っていたが、1
        185(文治元)年の壇ノ浦合戦後、磯辺に漂着した神霊を祀ったのが始まりとされる。

        
         境内の太鼓堂に、直径1.1m、重さ390㎏の大太鼓は、小笠原藩の小倉城の櫓にあっ
        たものとされる。1866(慶応2)年の第二次幕長戦争における小倉口の戦いでの戦利品と
        して、奇兵隊が持ち帰り神社に奉納したものである。

        
         下関市街地の大半は長府・清末藩領だが、伊崎、今浦の先を埋め立てた新地は萩本藩の
        直轄地であった。
         1864(元治元)年12月15日に高杉晋作が長府の功山寺で決起して、俗論派政権打倒
        のため最初に襲撃したのが萩藩新地会所であった。

        
                療養中に晋作の身を案じた正妻マサが看病のため、萩から訪れたことを機に新地の庄屋
        ・林算九郎宅に移るが、1867(慶応3)年4月14日に27歳8ヶ月という若さでこの世
        を去る。

        
         今浦町界隈。

        
        
         1916(大正5)年開業のノスタルジックな銭湯「えびす湯」がある。山陽本線高架下を
        潜って、ハングル文字を目にするグリーンモール商店街を歩けば下関駅東口である。