ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

赤穂市の赤穂城界隈を巡る

2022年10月22日 | その他県外

                
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         赤穂は千種川河口に発達したデルタに立地する。地名の由来は、海辺に生じる蓼(たで)
        の穂が赤いこと。また、元正天皇の時、赤穂の蓼が生じて帝へ奉献したことによると、い
        ずれにしても特産の赤い穂の蓼に由来するという。(歩行約5.8㎞)

        
         播州赤穂駅は、1951(昭和26)年に赤穂線の終着駅として開業する。現在の橋上駅舎
        は、2000(平成12)年に供用開始された。駅名は開業当時、飯田線に赤穂(あかほ)駅が存
        在していたので、頭に「播州」を冠した。

        
         駅からお城通りを歩くが、城までは約1㎞、約15分の距離である。

        
         1616(元和2)年日本三大水道(江戸神田水道、広島福山水道)の1つ、赤穂上水として
        築造された。赤穂城下の上流にある切山に隧道を堀削して千種川の水を導入し、城と城下
        町の各戸へ給水した。赤穂城下はデルタ上にあるため掘井戸は塩水が湧き、飲料にならな
        いため上水道が造られたが、この事業は池田家の赤穂郡代だった垂水半左衛門が築造の指
        揮をとったと伝える。

        
         主君浅野内匠頭長矩の江戸城での一件を知らせるため、早水藤左衛門と萱野三平が、江
        戸から早駕籠を乗り継いで4日半かけて赤穂城下に到着し、その時、この井戸で2人は水
        を飲み一息継いで赤穂城(大石邸)に向かったと伝えられる。(息継ぎ井戸)
         同広場には高さ4mほどのからくり時計「義士あんどん」が設置してある。9時から2
        0時までの毎正時に、義士の音楽と共に扉が開き、からくり人形が忠臣蔵の名場面を再現
        するそうだが、タイミングが悪く見ることができなかった。

        
         赤穂市のシンボル木である桜の中に市章、その周りに市花であるツツジとギザギザ模様
        は陣太鼓、下部に千種川と思われる川面がデザインされたマンホール蓋。 

        
         花岳寺筋の商店街。

        
         曹洞宗の花岳寺(かがくじ)は、1645(正保2)年常陸国(現茨城県)笠間より転封になった
        浅野長直が浅野家の菩提寺として創建する。
         山門は、もと赤穂城の西惣門(塩屋門)を、1873(明治6)年に寺が購入して移築したも
        のとされる。

        
         現在の本堂は、1758(宝暦8)年に再建され、幕に2つの家紋が施してあるが、右の
        「違い鷹の羽」は赤穂浅野家の紋。左の「二ツ巴」は大石家の家紋。

                
         
本堂の中には入れないが土間まで入ることができる。参拝を済ませると天井には大額
        (法橋義信の「竹に虎」)がある。

        
         拝観受付を済ませて義士墓所に参詣する。1701(元禄14)年3月14日(旧暦は4月
        21日)江戸城中で、浅野内匠頭長矩が旗本の吉良上野介義央に対して刃傷沙汰を起こし、
        即日切腹、浅野家は改易となる。
         その後、浅野の遺臣である大石内蔵助義雄以下赤穂浪士47名が翌年12月14日(旧暦
        1月30日)に吉良邸に討ち入り、吉良の首を泉岳寺の主君の墓前に捧げたのち、幕命によ
        り切腹する。
         花岳寺に墓所が建てられたのは、1739(元文4)年義士の37回忌とされる。墓には遺
        髪が埋められ、中央に浅野内匠頭長矩、右に大石内蔵助良雄、左に大石主税良金、周りを
        囲む墓標は格式順に建てられている。

        
         浅野家墓所には笠間藩主だった長重、赤穂藩初代藩主の長直、二代藩主の長友の他に、
        大石頼母の墓、義士宝物館、義士木像堂、森家の墓、大石家先祖の墓、義士家族墓などが
        ある。

        
         花岳寺門前にある古民家。

        
         旧備前街道筋の古民家。

        
         右手の古民家は旅館として再生されている。

        
         
        
         花岳寺から赤穂城まで道は、かってのお成り道(藩主が通った道)とされる。  

        
         赤松滄洲(そうしゅう・1721-1801)は江戸中期の儒学者で、藩主森忠洪(ただひろ)により藩儒
        に登用され、私邸では塾静思亭を開いた。のち、儒業を長子・蘭室に譲るが、蘭室ととも
        に藩校の設立に尽力し、1777(安永6)年塩屋門外に「博文館」が設立される。その後、
        京都で生活したが晩年は赤穂に帰り、81歳で没した。(宅跡) 

        
         お成り道に残る町家。

        
         赤穂城は現在の千種川によって形成された三角州の先端部分に築かれた平城で、現在は
        城の周囲が埋め立てられて、海岸線から遠く離れているので海に守られた城とは想像しが
        たいが、城の南側まで海が入り込んでいたという。

        
        
         この城の特徴の1つとして、櫓台状の突出部・櫓矢桝形が城全体に多用され、防衛力を
        高めていた。1935(昭和10)年に太鼓橋、1955(昭和30)年に三の丸大手隅櫓と大手
        門(高麗門形式)が復元された。

                 
         大手門を潜ると内桝形構造になっている。

        
         大石神社の白壁塀を見ながら進むと、重職にあった近藤源八宅跡の長屋門がある。源八
        の妻は大石内蔵助の叔母にあたり、大石家とは親戚関係にあった。
         長屋門は4戸部分に別け、下級武士の住宅として使われていたという。近藤家の門は大
        石家の長屋門の斜め向かいにあったと考えられている。

        
         大石家は、1645(正保2)年浅野長直が赤穂に入封して以来、1701(元禄14)年浅野
        家が廃絶するまでの57年間、3代にわたりこの地に居住した。赤穂城開城の4月16日、
        ここを引き払って尾崎の仮寓に移る。
         後に屋敷は森藩の藩札製造所や会所に使われたが、1729(享保14)年火災により建物
        の大半が焼失し、長屋門と庭園を残すのみとなった。長屋門は間口29m、奥行き9mの
        木造瓦葺きである。

        
         赤穂城三の丸から本丸にいたる重要な位置に二の丸門が設けられた。やや南寄りの西方
        に開かれた桝形構造を持つ切妻式楼門であったようだが、明治維新後に門は取り壊されて
        しまう。

        
         二の丸門を挟んだ東方の東北隅櫓台から西方の北隅櫓台にかけての石垣土塁は、189
        2(明治25)年千種川の洪水による災害復旧と流路変更のため、築石として取り除かれたが、
        現在は白壁の一部と低石垣が復元されている。

        
         大石頼母助良重は大石内蔵助の大叔父にあたる人物で、家老職にあって藩主・浅野長直
        に重用され、二の丸に屋敷を構え、妻は長直の娘を迎えたという。
         山鹿素行が赤穂に配流された際、素行はこの屋敷の一角で8年余を過ごしている。門は
        発掘調査に基づき、薬医門形式の屋敷門として復元された。

        
         二の丸庭園は、赤穂城二の丸北西部に存在した回遊式庭園で、東は大石頼母助の屋敷か
        ら、西は西仕切りまで及ぶひょうたん形の雄大なものであったという。

        
         赤穂城は、天正年間(1573-1592)に宇喜多秀家が岡山城の支城として構築したが、160
        0(慶長5)年播磨国が姫路城主・池田輝政領となり、当地には末弟の池田長政が配され掻上
        城が築かれた。1615(慶長20)年輝政の第5子正綱が3万5千石で分知立藩、正綱没後
        に弟輝綱が入封するが乱心により改易となる。
         1645(正保2)年浅野長直が移封され、幕府から新城構築の許を得て、支城のあった場
        所に13年の歳月をかけて築城する。1701(元禄14)年浅野長矩が江戸城中で刃傷にお
        よんで改易となり、一時幕府領となったが翌年に永井直敬が入封、1706(宝永3)年森長
        直が入封して廃藩まで続く。(本丸表門)

        
         この城の特徴的なものとして、江戸軍学をそのまま具現化したことにあり、本丸御殿か
        ら見える位置に単独で天守台のみが構築され、天守台まで上がれるように石段が付設され
        ている。天守を築ける天守台を持つことが何よりも優先されたと考えられるが、最後まで
        天守が築かれることはなかった。

        
         廃藩置県後に本丸跡地は田畑となったそうだが、1928(昭和3)年に兵庫県立赤穂中学
        校(現在の赤穂高等学校)敷地として使用されることになる。
         その後、国史跡となったため校舎は城外に移転し、絵図を基に御殿の間取りが復元され
        る。 

        
         御殿南面に大池泉庭園が復元されている。

        
         浅野家改易の報が赤穂に届けられ、籠城か切腹か大評定の結果、城を明け渡して家中は
        離散した。山科(現京都)に隠棲した大石内蔵助は長矩の弟・浅野大学長広による浅野家再
        興を目指しながらも、同志と連絡を取りながら堀部安兵衛らの急進派を押さえつつ仇討ち
        の時期を待つ。
         しかし、翌年の1702(元禄15)年長広が広島藩宗家に預けと決まると、吉良邸討入り
        に向って行動を起こす。初め120名の同盟者がいたが最終的に47名となり、同志たち
        は江戸に集結して12月15日未明吉良邸に討入りする。吉良の首級をあげ、芝・泉岳寺
        へ引き上げて幕命を待ったが、結局切腹と決まりお預かりの大名家で切腹する。

        
         1873(明治6)年に一般的にいわれる廃城令で、赤穂城も民間に払い下げることになる。
        このような事態を見かねた花岳寺の住職が、大石家の屋敷を買い取り、1912(大正元)
        大石神社を建立する。

        
         赤穂城塩屋門は三の丸の西に開かれた門で、搦手にあたり桝形と高麗門で構成されてい
        た。浅野長矩の刃傷・切腹を知らせる早便が入った門とされ、城請取り役となった備中足
        守藩主木下肥後守の軍勢も、この門から入城したとされる。

        
         赤穂といえば忠臣蔵で有名だが、赤穂の塩として名を馳せていた。1645(正保2)年浅
        野長矩が入封すると、入浜塩田の開拓に着手し、3代で約100haの塩田を開いた。のち、
        永井、森家へと引き継がれ、結果的に千種川を挟んで左岸(東浜塩田)に約150ha、右岸
        (西浜塩田)に約250haが開拓された。
         明治になると日露戦争の戦費調達と国内塩業保護を目的に、1905(明治38)年専売法
        が導入され、全国22ヶ所に塩務局を設置して塩の収納と売渡しを担わせ、下部組織に出
        張所(167ヶ所)を設ける。

         
         1908(明治41)年大蔵省塩務局庁舎として建てられたが、赤穂在住の大工たちによっ
        て、和の技術を用いながらアーチ状の庇屋根、イオニア風の柱頭飾、壁面から突き出た梁
        (ハンマービーム)を多用した西洋風の趣を持つ事務所が建築される。
         事務所のほか文書庫、塩倉庫も建築され、ほぼ完全な形で残されているのはここだけと
        のこと。1907(明治40)年10月塩務局や煙草専売局などが統合されて、新たに「専売
        局」が設置されて業務が引き継がれた。後に日本専売公社赤穂支局、現在は民俗資料館と
        して活用されている。

        
         入館すると吹き抜けのホールがあり、2階部分にはギャラリーを廻して 手すりが備え付
        けられている。今は狭いホールだが、かっては事務室との間に長いカウンターがあったと
        のこと。

        
         当時は事務所として利用された場所で、その天井には、メダイヨン(フランス語で「大型
        メダル」)とよばれる円形の浮き彫りが2ヶ所に施されている。(1ヶ所だけ撮影) 

        
         塩倉庫だが当時は11棟あったとされる。

        
         本館南側にある煉瓦造の建物は文書庫で、外壁はイギリス積みが変形したような積み方
        がなされている。(内部は非公開) 

        
         2階に上がると部屋の左右に、向き合った形で壁の上部から水平に突き出した梁が支え
        ている。これがハンマービームと呼ばれるもので、壁の上端から突き出した片持ち梁を利
        用している。

        
         城の石垣に沿ってお城通りに出て駅に戻る。

        
         ホーロー看板など昭和のものが所狭しと置かれているが、「赤穂玩具博物館・懐かしい
        昭和の世界」とされ、通りから目を惹く一角である。


赤穂市坂越は赤穂の塩積出し港だった地

2022年10月19日 | その他県外

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         坂越(さこし)は東に釜崎半島の尾根沿いに半島南端まで内海川を占め、南は播磨灘に開け
        る坂越湾、北はほぼ南西に流れる千種川に接する。
         地名は地勢上狭い鳥居坂を越えたことに因むという。また、644(皇極天皇3)年秦河勝
        が、曽我入鹿の乱を避けてきた地が転じたという説もある。(歩行約5.5㎞)

        
         JR坂越駅は、1951(昭和26)年12月に赤穂線が相生ー赤穂間が開業したと同時に
        設置された。
        
        
         駅前はひっそりとしているが、千種川に向って桜並木となっており、春には桜の花が出
        迎えてくれるという。
         1889(明治22)年の町村制施行により、坂越、浜市、高野村など6村の区域をもって
        坂越村となる。のち町制に移行し、現在は赤穂市の一部だが、駅のある地は旧浜市村であ
        る。

        
         駅から木戸門跡まで約1.3㎞と離れており、途中には千種川が南流する。(左岸に坂越
        の中心地)

        
         坂越橋東詰の地下道を潜り、坂越小学校前を過ごすと坂越大道への広い通りに出る。

        
         高谷の石仏がある付近は田畑で、石仏があると耕やすに不便なので、何度か他に移すと
        一夜にして元のところへ帰ってきたという。石仏は「高谷の霊石」と呼ばれ、このあたり
        の地名も「石仏(いしぼとけ)」というようになったという。

        
         廻船業で栄えていた頃、町を守るために木戸門(幅約4m、高さ約2m)が設置され、朝
        に開いて夕に閉じる門番がいたといわれる。

        
         かって高谷駐在所付近にあった道標だそうで、「右:大坂、左:城下 道」、側面は「右;
                み那と」とあり、右方面が坂越港及び大坂方面の道、左が赤穂城下への道を示していた。

        
         鳥井町付近は上り坂。

        
         坂越大道の坂の頂上付近にある鳥井町地蔵堂は、1721(享保6)年築とされる。

        
         本町への下り坂。 

        
         坂越浦は領内廻船の基地、他国船の寄港及び退避港であり、17世紀後半には、奥藤、
        大西、岩崎、渋谷の各家が廻船業を営んでいたとされる。(袖卯建のある家) 

        
         坂越まち並み館は、大正末期に奥藤銀行坂越支店として建てられたもので、兵和銀行、
        神戸銀行、赤佐信用金庫、はりま信用金庫の坂越支店として使用された建物である。

        
         館内には古いアメリカ製の大金庫が残されている。金庫上には赤佐(赤穂と佐用)信用金
        庫の看板も目を引く。

        
         江戸塩問屋の支配を受けながら18艘の塩廻船の経営を請負い、赤穂塩の回漕に従事し
        た。幕末から1897(明治30)年代までが坂越廻船業の最盛期で、坂越の5業者が地船で
        赤穂塩の4分の3を関東に、残り5分の1を大坂へ回漕したが、1905(明治38)年塩専
        売法の施行以後、急速に衰退した。(山二家)

        
         妙道寺(真宗)は、室町期の1532(享禄5)年創建とされ、本堂は1734(享保19)年、
        山門は1753(宝暦3)年にそれぞれ再建された。

        
         坂越大道(さこしだいどう)は下駄を履いて歩きたくなるような石畳の道が続き、軒先には石
        造りの水路が残るなど風情を感じる町並みである。

        
         奥藤酒造前から港方向の町並み。 

        
         白壁が続く酒蔵は奥藤酒造で、1601(慶長6)年創業とされ、他に廻船業も手掛けて財
        をなし金融、製塩、電燈などの各事業にも参入した豪商。
         築300年といわれる主屋は入母屋造りの建物で、西国大名の本陣にも充てられた。酒
        蔵は寛文年中(1661-1673)の建物で、高さ2m余の半地下構造とのこと。

        
         1805(文化2)年10月伊能忠敬一行の測量隊が、坂越浦を計り奥藤家に止宿している。

        
         奥藤家の向い側にも虫籠窓、格子、袖卯建を持つ古民家が並ぶ。

        
         港側から見る坂越大道。

        
         坂越浦会所は、1831(天保2)年に行政や商業などの事務をとるための施設として建て
        られたが、この会所は村会所であるとともに、赤穂藩の茶屋的機能も持っていた。

        
         2階の次の間から一段低い所に藩主専用の御成之間(観海楼)がある。ここから湾に浮か
        ぶ生島が展望できる。

        
         会所前の広場に北前船の模型が展示されているが、地元に残っていた5分の1の模型を
        復元したものだという。

        
         北前船の傍に「とうろん台」と呼ばれる櫓台がある。坂越浦を航行する船舶に、海洋気
        象を知らせる施設だったとのこと。
         当時は、神戸海洋気象台から坂越郵便局に入電する気象情報を鳥井町にあった役場の人
        が、日中は布製蛇腹の吹き抜きを台の柱の上に掲げ、夜はランプを吊って船舶に知らせた
        という。この櫓は当時のものを縮小再現したものである。(説明板より) 

        
         海に面していたような家の造りだが、当時は「とうろん台」付近が海岸線だったと思わ
        れる。

        
         港沿いの通り。

        
         大避(おおさけ)神社の鳥居は、1835(天保6)年奉納、石灯籠は1746(延亨3)年奉納
        とある。

        
        
         門前の坂越湾に生島が浮かぶ。

        
         大避神社は宝珠山中腹に生島を望んで鎮座し、祭神は蘇我入鹿の乱を避けた秦河勝とさ
        れ、創立年は定かでないという。現在の本殿は1769(明和6)年、拝殿と随神門は174
        6(延享3)年に再建された。

        
         拝殿両脇の絵馬堂には40余の絵馬が掲げられており、廻船業者が航海の安全を祈願し
        て奉納したものである。

        
         坂越小学校は、1963(昭和38)年に高谷へ移るまで、この地に大きな木造校舎が建ち、
        上の展望広場が運動場、石柱は当時の校門として使われていたものという。

        
         坂越浦城・番所跡展望広場から見る坂越湾。この地には江戸期に赤穂藩の御番所が置か
        れ、坂越浦を出入りする船の監視に当たった。
         湾に浮かぶ生島は、聖徳太子死後、秦河勝が蘇我入鹿の乱を避けて難波から船出して、
        この島に漂着して生き永らえたことから島名になったという。

        
         旧小学校の地はもともと妙見寺の本坊があったが、明治の学制発布で坊舎は坂越小学校
        の校舎として使用された。1908(明治41)年に校庭整地のため観音堂下に縮小移築され
        たが、のちに老朽化が起因して大雨で倒壊。現在はこの山門が残るのみである。

        
         妙見寺(真言宗古義派)の寺伝によると、天平勝宝年間(749-757)に行基が開基し、宝珠山
        の中腹にかけて16の坊舎と6つの庵があったとされるが、室町期の1485(文明17)
        僧兵一揆により焼失したという。
         観音堂は、1659(万治2)年宝珠山の中腹に建立されたが、暴風のため大破し、172
          (享保7)年現在地に再建された。急峻な山の斜面に建てられた観音堂は、「懸造り」とい
        う建築様式である。

        
         観音堂からの眺め。

        
         小倉宮(小倉御前)は南北朝時代の後亀山天皇の皇子で、京都嵯峨野の小倉山下に住んで
        いたので「小倉の宮」と呼ばれた。南朝の系統に属する宮家で、皇位継承や室町幕府の権
        力闘争に翻弄された末に絶家となる。
         この地に隠れ住んでいたが、やがて追っ手が迫ってきたことで坂越湾に身を投じたと伝
        える。入水した辺りの海底にあった岩(のちに御前岩)は、海岸整備により埋め立てられて
        陸地になったが、海から見て岩があった方向に碑が建立されている。

        
         木戸門から千種川に至る道も塩の道とされる。(上高谷) 

        
         亀甲模様の中央に赤穂市の市章というシンプルなマンホール蓋。

        
        
         千種川河口の海は遠浅のため大型船が入港できず、代わって坂越港が玄関口として役目
        を引き受ける。この地で内陸部からは米・麦・木炭・綿など、海岸部からは塩・海産物が
        運ばれた。この船着場で物資の荷揚げ・積込みが行われ、大いに賑わったという。
         中土手から本通り土手に渡す石橋は、「高瀬の石橋」と親しまれ、名残りの石橋を跡地
        に保存するためモニュメント広場が設けてある。


大津市の坂本は寺群と日吉大社のまち 

2019年10月10日 | その他県外

             
        この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分1地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複 第546号)
         坂本は大津市の北部、延暦寺および日吉神社の門前町として栄えた町。1889(明治2
          2)
年町村制施行により、坂本村と穴太村の2村が合併して改めて坂本村となる。その後、
        昭和の大合併で大津市に編入されて今日に至る。(歩行約4.5㎞)


        
         1974(昭和49)年湖西線が開通すると同時に叡山駅として開業し、1994(平成6)
        9月比叡山坂本駅に改称する。

        
         駅から京阪電鉄・坂本比叡山駅までは、約740mの距離である。

        
         日吉大社一ノ鳥居傍には、日吉大社の門を守る神・大神門(だいしんもん)神社がある。

        
         通りには古い町家も見られる。(蔵は置き屋根形式)

        
         江戸時代には延暦寺の僧侶でありながら、妻帯と名字帯刀が認められた「公人(くにん)
        と呼ばれる人々が住んでいた。その住居のひとつが旧岡本邸である。(有料施設)

        
         御田(みた)神社の由緒によると、古い時代から大きな井戸が信仰の対象とされ、神社とい
        う形態より以前から農耕祭祀が行われたのが神社の起源だとされる。社殿は一間社流造で、
        入口の井戸に注連縄があるので信仰の対象物と思われる。 

        
         生源寺(しょうげんじ)は伝教大師・最澄が、奈良期の767(神護景雲元)年8月18日この
        地で生まれたと伝わる場所に建立された。
         1571(元亀2)年織田信長の比叡山焼き討ちで全焼し、現在の本堂は1595(元禄4)
        年に再建されたものである。

        
         大将軍神社の創祀年代は不詳のようであるが、日吉大社境外108社の1社である。天
        台宗開祖の伝教大師の産土神であり、坂本中の総社である。

        
         坂本の蕎麦は比叡山の修行僧の滋養源として育てられてきた。1716(享保元)年創業と
        いう歴史ある鶴㐂そば屋さんは、築130年とされる入母屋造りの建物で、国の登録有形
        文化財に指定されている。

        
         この辺りにあった南大寺が火事で焼失し、その後に造られた道というのが「作り道」の
        由来である。参拝者の宿が軒を連ねていた作り道には、今も古い町家が建ち並んでいる。

        
         折りたたみ式縁台(ばったり床几)が備え付けてある。

        
         御殿馬場入口にある榊宮社(さかきのみやしろ)の創建は、日吉大社の創建と同時期であると
        される。日吉大社山王祭では天孫神社から曳いてきた神籬(ひもろぎ)の榊が、ここに留め置
        かれ、日吉の社殿前から大宮の社殿前へ参進する慣習になっているという。

        
         昔は皇族が天台座主になる場合が多かったので、滋賀院が重要な役割を果たしていた。
        今も現天皇の健康を祈願するため、御衣(天皇の着物)をお迎えして、山上の根本中堂でお
        祈りをする行事が、毎年4月が行われている。この御衣が通る道であるので御殿馬場と呼
        ばれる。

        
         両脇は「穴太石積み」といわれる石積みが続く。

        
        
         坂本の里坊の中では、特に格式の高いのが滋賀院門跡とされる。165(元和元)年慈眼大
        師天海が後陽成上皇から京都御所の建物を賜り移築したもので、江戸末期まで天台座主の
        居所であった。

        
         天台宗務所を過ごすと権現馬場に出る。

        
         日吉東照宮に通じる権現馬場は、両脇に里坊が建ち並んでいる。見返れば琵琶湖を見る
        ことができる。

        
         滋眼堂(じげんどう)は比叡山の再興に尽くした天海大僧正(?-1643)の廟所であり、境内に
        は新田義貞や紫式部、清少納言の供養塔などもある。 

        
         1646(正保3)年建立の本堂は、虹梁(こうりょう)や火灯窓、床を張らない江戸初期の禅
        宗様式を基本としている。

        
        
         1623(元和9)年に3代将軍徳川家光が京都に上洛した際、日吉東照宮創建の命を受け
        た天海上人が徳川家康の御霊を祀るため、日光東照宮の雛型として創建する。その際に本
        殿と拝殿を繋ぐ「権現造り」という様式が用いられた。この年に日光東照宮の社殿改築が
        始められている。

        
         この社殿様式を基本にして、日光東照宮が創建されたといわれている。延暦寺の末寺だ
        ったが神仏分離令により、日吉大社の末社となり現在に至っている。(社殿と唐門、透塀が
        国指定重要文化財)

        
         日吉大社に向かうと右手の霊山院は、延暦寺の僧侶隠居所であった里坊とのこと。

        
         六角地蔵堂は、日吉大社の摂社である早尾神社の参道沿いにあり、正式には早尾地蔵尊
        である。本尊である石地蔵尊は、伝教大師最澄上人の自作と伝えられている。

        
         第3世天台座主・安恵が里坊として創建し、第18世座主の良源(元三大師)が、入山修
        行の決意を固めた地であることから「求法寺」と名付けられた。

        
         日吉大社参道の大宮川に架かる大宮橋は、木造橋の形式をそのまま用いた反橋である。
        両側に格座間(こうざま)を掘り抜いた勾欄が取り付けてある。もとは木橋であったが、16
        69(寛文9)年石橋に造り替えられたといわれる。(国重要文化財)

        
         山王鳥居は神仏習合の信仰を表す独自の形をしているため、合掌鳥居とも呼ばれている。
        日吉大社の創建は不明とされ、紀元前70(崇神天皇7)年に日枝山の山頂から現在地に移さ
        れたという。全国3,800の分霊社(日吉、日枝、山王神社)の総本宮である。

        
         西本宮楼門は、二階建てで階上に縁があり、入母屋造りの檜皮葺き建物である。158
        6(天正14)年頃とされているが、正確な時期はわからないという。(国重要文化財)

        
         楼門の四隅の棟木には神猿(まさる)が、屋根を支えるように楼門を守っている。お猿さん
        は神様の使いで「神猿」と呼ばれ、「魔が去る。何よりも勝る」として縁起のよいものと
        されてきた。

        
         西本宮拝殿は吹さらしの舞殿形式で、祈祷などの神事が行われる。1586(天正14)
        に建てられたもので国重要文化財に指定されている。

        
         織田信長の比叡山焼き討ちにより、日吉社もすべて焼かれてしまう。現在の西本宮本殿
        は、1597(慶長2)年築とされる。後方の軒が短く、軒先がⅯ字型の断面を呈する日吉造
        りとされる。(国重要文化財)

        
         白山宮も織田信長の比叡山焼き討ち後、1598(慶長3)年に本殿が再建されたが、三間
        社流造りの檜皮葺きで、装飾金具が少なく簡素で地味な建物である。(国重要文化財)

        
         東本宮楼門は三間一戸で入母屋造りの桧皮葺である。様式は西本宮楼門と同じようだが、
        一階部分が高く、二階部分が低い形式となっている。

        
         東本宮本殿は織田信長焼き討ち後、1595(文禄4)年に再建されたが、西本宮より9年
        後である。様式は西本宮と同じ日吉造りで、国宝に指定されている。

        
         東本宮を出て坂を下る途中に、猿のような石が見送ってくれる。

        
         止観院も延暦寺の僧侶の隠居所であった里坊の一つとのこと。

        
         日吉馬場の両側には石垣を構えた里坊が連なる。

        
         律院山門屋根には唐獅子の飾り瓦。

        
         穴太衆の技術による石垣が際立つところである。比叡山で修業を積んだ僧侶たちが天台
        座主の許しを得て、住む込む隠居坊(里坊)がびっしりと並んでいる。

        
         里坊の入口の門は石垣から少し後退し、石垣に変化を与えている。里坊の門の大半は薬
        医門であるが、なかには優雅な曲線をみせる向唐門もある。

        
         帰リは坂本比叡山口駅バス停からJR比叡山坂本駅に戻る。


滋賀の長浜は琵琶湖北の城下町 (滋賀県長浜市)

2019年10月09日 | その他県外

        
        この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分1地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複 第546号)
         長浜は姉川によって形成された扇状沖積平野に位置し、西は琵琶湖に面する。地名の由
        来は坂田郡誌によると「古之今浜なりしに天正2年、羽柴秀吉古城修築し、江北の政所と
        なし時、武運長久を祝し長浜と改む」とある。(歩行約4.8㎞)

        
         2006(平成18)年に完成した橋上駅のJR長浜駅は、初代駅舎をモチーフにデザイン
        された。

        
         駅西口から線路に沿うと旧長浜駅。現在は鉄道資料館として活用されている。

        
         1882(明治15)年完成の敦賀線の駅舎で、現存する開業当時の駅舎では最古である。
        東海道本線が全通するまでは、長浜ー大津間は連絡船が運行されていた。

        
         当時の待合室や出札口を人形で再現されている。

                
             中庭には旧長浜駅29号分岐器ポイント部(鉄道記念物)もある。

        
         この建物の裏側には、長浜の鉄道史に関する鉄道文化館があり、D51蒸気機関車、E
        D70型交流機関車が保存展示されている。

        
        文明開化を伝えるイギリス式駅舎の窓には、煉瓦がはめ込まれている。
      
        
         旧長浜駅の向かい側には、長浜の迎賓館「慶雲館」がある。1886(明治19)年実業家
        の浅見又蔵が明治天皇の京都行幸計画を知った際、航路から鉄道に乗り換える時間に滞留
        する施設がないことに気付く
。自ら所有する地に行在所を私費で建設したが、工事は同年
        11月3日から翌年の2月21日の朝に完成する。同日13時前に長浜港に到着され、同
        館で昼食休憩された後、13時45分の列車に乗車されたという。建物などは長浜市に寄
        贈されて一般公開されている。

        
         あさひ橋の先に長浜浪漫ビール。

        
         湖上交通の拠点だった長浜は、木造船の廃材を利用した舟板塀(壁)が見られる。舟板は
        水に浸けられていたので雨水などに強く、防火の役目も果たしている。

        
        四差路に「北こく道」と「下舟町」の標柱がある。

        
         玄関先に馬を繋いだという石「馬つなぎ石」が残されている。廻船問屋時代に荷物を運
        んで来た馬や、船から下ろした荷物を積む馬を繋いだとされる。

        
         北国街道筋に蔵の宿「旗籠(はたご)白忠」がある。江戸期に白木屋忠左衛門が創業した油
        問屋「白忠」の町家を宿に再生したという。

        
         北国街道を北進する。

        
         長浜幼稚園の地には、本陣を務めた吉川三右衛門の屋敷があったとされる。長浜は主要
        な参勤交代のルートから外れたものの、大名行列が通る際には、本陣として休憩所をを提
        供する。

        
         見どころの多い長浜の中で、古い町家が並ぶのは北国街道沿い。

        
         安藤家は賤ケ岳合戦で秀吉方に協力し、長浜の自治を委ねる「十人衆」として長浜の発
        展に尽力する。江戸期は十人衆の筆頭である三年寄として活躍する。明治以降は商人とな
        り呉服問屋を営む。

        
         北大路魯山人が長浜に逗留中に残した篆刻看板。九尺の一枚板に「呉服」と彫られてい
        る。

        
         1905(明治38)年から土蔵、本屋、書院と建てられ、1915(大正4)年に全館が完成
        する。「古翠園」と名付けられた池泉回遊式庭園は、どの部屋からも眺められるように設
        計されている。

        
         千鳥破風を載せた望楼は浄琳寺の太鼓櫓。もとは天台宗だったが小谷城落城後、尊勝寺
        から移転する。街道に面して門があるが非公開のため閉ざされている。

            
         黒壁7號館古美術の西川(手前)と、隣は8號館の翼果楼。

          
         札ノ辻の東北角に建つ黒壁ガラス館は、1900(明治33)年築の第百三十銀行長浜支店
        の建物で、その壁が黒塗りだったので「黒壁銀行」と呼ばれていた。

        
         市街地の中心部を東西に走る大手門通り。

        
         「長浜のっぺいうどん」は長浜付近で昔から親しまれている郷土料理で、出汁に片栗粉
        を混ぜた餡かけを、茹で上ったうどんにかける。具には、味を含ませた特大の椎茸に、麩、
        みつ葉などを加え、土生姜がトッピングされている。(茂美志屋さん)

        
         土田金物店跡は「まちづくり役場」として再利用されている。

        
         大手門通りに面する曳山博物館は、長浜八幡宮の祭礼で使用される曳山2基が展示され
        ている。

         
         左の月宮殿は重層で上の層は六角円堂、下層は方形となっている。1785(天明5)年作
        とされる。右の春日山は四
柱造りのむくり屋根で、上・中・下の三つの部分に分かれてい
        る。建造年代は不詳とのこと。

        
         大手門通りから表参道へ曲がる手前にある文泉堂(本屋)さん。

        
         御防表参道を右折して宮町通りを直進する。

        
         宮町通りと国道8号線が交差する角に道標があり、多にくみ(谷汲)道と刻まれている。
        谷汲とは西国三十三ヶ所巡礼の谷汲山華厳寺のことで、ここから東へ進んで岐阜県に入る
        道のようだ。

        
         長浜八幡宮参道入口。

        
         平安期の1069(延久元)年源義家が後三条天皇の勅願を受け、石清水八幡宮より勧請す
        る。八幡宮としては珍しい神明造の本殿となっている。

        
         大通寺表参道には大通寺(御坊)移転の功労者「お花ぎつね」のオプジェがある。江戸初
        期頃には長浜城跡に
あったが、賑やかな場所に移転させる運動が起こる。賛否両論があり
        京都総本山(東本願寺)にお伺いを立てるため、双方が出向くことになる。
         賛成派は舟、反対派は陸路で京都に上がることとし、反対派は野洲(やす)の茶店でお花さ
        んという優しい娘が接待してくれたので、気に入って酒を飲んで酔いつぶれる。翌日は野
        洲川が大水で、引くこと5日待って京都に入るが、すでに賛成派が裁可を得ていた。反対
        派の人々が往路を引き返すと、茶店は跡形もなく妖術で茶店に滞在させて遅らせたという。
        (昔話)

        
         大通寺山門から南に続く御坊表参道。石畳が敷かれ、両側には白壁に格子窓の町家が並
        ぶ。

        
         1808(文化5)年に起工して、33年後(1841年)に完成した総ケヤキ造りの大通寺
        山門。

        
         天正年間(1573-1592)頃にできた寄合道場を起源とする真宗大谷派の長浜別院で、「御
        坊さん」と呼び親しまれている。境内には伏見城の殿舎を移した本堂、玄関、大広間と舎
        山軒、蘭亭など国重文の建物が並んでいる。

        
         大広間(国重文)は書院造りで、床、帳台構、違い棚、付書などが上段の間に並べられて
        いる。

        
         書院の新御座には狩野永岳筆の琴棋書画図。下段12面には江戸後期に京都で活躍した
        岸駒(がんく)筆の金地墨画梅之図。

        
         脇門は旧長浜城の追手門と伝える。

        
         ゆう壱番街通りの親玉本店界隈。

        
         黒壁11號館のステンドグラス館と2階は太閤ひょうたん。

        
         賑わいのある黒壁ガラス館(札ノ辻)付近にある蔵。

        
         右手に滋賀の食品などを販売する黒壁5號館(黒壁アミス)。

        
         豊臣秀吉の没後、その遺徳を偲んで町民たちが建てた豊国神社。徳川幕府から取り壊し
        を命じられたが、商売の神・恵比寿宮を前立して、奥にひっそりと像を祀って江戸時代を
        過ごしたとされる。

        
         内堀と二重の外堀との間には家来の屋敷があった。
 
        
         織田信長から小谷城を与えられ、湖北3郡の城主となった豊臣秀吉が、1574(天正2)
        年に長浜城を築城する。

        
        博物館には築城の様子が描かれている。

        
         天守より長浜の町並み。

        
         城の用水に使われていた井戸は、いくつかあったようだが、その一つとして「太閤井戸
        」があった。天守台下の琵琶湖岸にあり、厚さ3mぐらいの板で囲まれていたとのこと。

        
         江戸初期の一国一城政策で廃城となったが、1983(昭和58)年秀吉時代を想定した天
        守閣が建てられた。

        
         駅西口にある御馬屋跡の碑。


木之本は北国街道筋に町家が並ぶ (長浜市)

2019年10月09日 | その他県外

           
         この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分1地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複 第546号) 
         木之本は湖北平野の北縁、田上山南麓の小規模な扇状地に立地する。木之本地蔵で知ら
        れる
時宗・浄信寺の門前町として発展し、門前を北国街道が南北に通り、北国脇街道が南
        へ分岐する交通の要衝であった。(歩行約2㎞)

           
         1882(明治15)年に長浜駅と柳瀬駅間の開通により木ノ本駅が開業する。2006(
                   成18)
年に橋上駅舎に改築されるとともに、旧駅舎より北寄りに移動する。

           
         駅を出ると線路に沿って「石畳の道」へ向かう。

           
         アーバン銀行前を左折して地蔵坂(石畳通り)を緩やかに上って行く。

           
         ベンガラ塗りの格子が美しい「Book Caféすくらむ」さん。

           
         次の角を右折して路地を入ると「くつわの森」があり、ウワミズサクラに似た花が咲く
        「イヌザクラ」の巨木がある。(市指定の天然記念物)

           
         お菓子屋さんが並ぶ町家。

           
         坂を上がって行くと正面に時宗の浄信寺がある。

           
         日本三大地蔵の一つで、眼病守護の仏様には参詣者が絶えない。また、賤ケ岳合戦にお
        いて秀吉軍の本陣が置かれた寺でもある。

           
         標柱には「木之本 札ノ辻跡」とあるが、往来の多い地に、藩が法令または公示事項を
        民衆に周知するために、高札を立てたので札の辻と呼ばれる。

           
         古い町家が残っている。

        
         木之本宿の本陣だった竹内五左衛門邸。
    
           
         竹内家は薬局を営み、1893(明治26)年に日本薬剤師免状の第1号を取得されている。
        軒先には薬の看板がずらりとぶら下げられている。

           
         冨田家は近江国守護職の京極家に仕える武家だったが、1533(天文2)年に京極家が没
        落すると当地に移り住み、造り酒屋を営む傍ら庄屋を務めた。明治天皇北陸の際は岩倉具
        視が宿泊する。建物は、1744(延亨元)年築とされる。

           
         蓮如上人ゆかりの明楽寺(真宗大谷派)は、鎌倉期の建久年間(1190-1199)に山城国安井村
        (現京都市右京区)創建され、当初は真言宗の寺であった。
1391(明徳2)年現在地に移り、
        1595(文禄4)年に改宗する。
         境内に蓮如上人腰掛説法石があり、山門の右手には入母屋、桟瓦葺きの太鼓櫓がある。
        (本堂改修中)

           
         江戸末期創業の醤油屋さん。看板も創業当時を踏襲して右書きスタイルである。

           
         問屋を営んだいた藤田庄左衛門宅跡には、明治以降に旧江北銀行の建物が建てられる。
        その後、警察署、滋賀銀行と変遷したが、元銀行のレトロな建物は「きのもと交流館」と
        して活用されている。

           
         袖壁が目立つようになると、南木之本村の庄屋だった竹本家と右手は岩根醤油店。

           
         1852(嘉永5)年創業のダイコウ醤油店。

           
           
         街道を南に歩くとT字路になり、北国街道と北国脇街道が分岐する。道標には「みぎ京
        いせみち ひだり江戸なごや道」とある。北国街道は鳥居本で中山道に合わし、往還道は
        関ヶ原、大垣に連絡する。

           
         札ノ辻まで戻ると、木之本地蔵院前に菓子乃蔵・角屋さん。

           
         袖壁が付けられた町家が続く。

           
         元庄屋だった上坂家は、1847(弘化4)年に建てられ、一階には千本格子が施されてい
        る。

           
         北国街道南側の街並み。

           
           
         1532(天文元)年創業の造り酒屋である山路酒造さんは、宿場町時代には脇本陣や伝馬
        所も務めていた。格式ある表門の当時の繁栄を物語っている。

           
           
         「馬宿平四郎」の看板がある町家の隣には、木ノ本牛馬市跡の石碑が立っている。昭和
        の始め頃まで年2回の牛馬市が開かれ、街道沿いの民家が馬宿となっていたという。平四
        郎家も古くから馬宿として、多くの牛馬を取引していたとされる。
         戦国時代の武将、後に土佐藩主となる山内一豊が妻の内助の功により得た名馬は、ここ
        で買われたと伝えられる。

           
         2階屋根の受け梁を漆喰で塗り籠めたように見える町家。

           
         向かい側も同じような造りとなっている。

           
           
         旧街道から駅へ向かうと、余呉町出身の弁護士・杉野文彌が、1902(明治35)年に創
        設した「杉野文庫」を前身とした江北図書館がある。
         1937(昭和12)年に建てられた建物は、100年以上にわたって民間の力で運営され
        てきたとか。
         短い歩きであったが、北国街道筋の木之本宿は情緒にあふれ、見応えのある町並みであ
        った。


近江商人発祥地の五個荘 (滋賀県東近江市)

2019年10月08日 | その他県外

           
        この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分1地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複 第546号)
         五個荘は滋賀県の中央部、湖東平野の中央に位置し、三方を山に囲まれ東に愛知川が流
        れる。南部を中山道と国道8号線、東海道新幹線が走る。(歩行約3.8㎞)

           
         金堂集落の東1.5㎞にある近江鉄道・五箇荘駅は、構内のすぐ南を東海道新幹線が交差
        し、西側の米原方面ホームと東側の貴生川方面ホームは構内踏切で結ばれている。

           
         1899(明治32)年小幡駅として開業するが、1910(明治43)年に200m南に移転
        し、五個荘駅に改称する。駅舎は老朽化で解体され、しばらくは駅舎がなかったが、20
        06(平成12)年に現駅舎が完成する。近江商人発祥地・五個荘の景観に合わせた瓦葺の木
        造平屋建てである。 

           
         駅通りを直進すると、旧中山道に合わし右折する。

           
         交差点には中山道と御代参街道の分岐を示す小幡の道標がある。享保3年丁酉(1718)に
        建立されたもので、「右 京みち」「左 いせ ひの八日市みち、」と刻まれている。

           
         旧中山道を左折する角に、1948(昭和23)年創業の中澤酒造がある。

           
         左に長宝寺を過ごし、大同川、国道8号線を横断すると、宮荘バス停先に近江商人屋敷
        「藤井家」が案内されている。(旧中山道分岐から約550m)

           
         案内に従って左折すると、約100m先に藤井邸がある。開館は9時であったが、開館
        時間前にもかかわらず入館させていただく。

           
         石畳の奥に洋風の門を構える邸宅は、「スキー毛糸」の製造販売などで成功を収めた藤
        井彦四郎が、故郷に迎賓館を兼ねて建てたとされる。23歳で分家して、1907(明 治4
          0)
年に藤井糸店を創業する。


           
         洋館はログハウス風の外観となっている。藤井彦四郎が産業視察のため欧州を訪れた際、
        スイスの山小屋に魅せられて建てたとされる。

           
         正面に和風の客殿、右側には京都に移るまで藤井彦四郎が、生活の本拠とした江戸時代
        創建の主屋が建っている。


           
         客殿は3室が続き間になった総檜造の平屋建書院造で、庭園に面して広い縁側を廻して
        いる。
       

           
         皇族など貴賓を迎えた書院座敷。

           
         2015年の映画「日本のいちばん長い日」で、陸軍大臣・阿南惟幾の自宅として撮影
        が行われた洋館。

           
         書道文化と世界を学ぶ博物館「観峰館」は、6階建てで中国の建築様式である四合院に
        倣った造りとなっている。

           
         竜田神社の先を右折し、JA前を左折すると五個荘小学校前。

           
         五個荘小学校の校門。

           
         左手に近江商人博物館を見ると、右手の祭・馬場通り角に石柱がある。「海老塚一本松
        跡地」とあるが、金堂と竜田との村境にあり、古くは天神塚と呼ばれていた。

           
         祭・馬場通りの右手に地蔵堂。

           
         厩戸王子の創建と伝えられる大城神社は、近江八幡の安土町にあった観音寺城の鬼門に
        あたり、守護神として崇敬された。五個荘の総鎮守とされ、祭りは近江商人の旅姿で行わ
        れるようだ。


           
         日若宮神社は大城神社の境内社。

           
           
         祭・馬場通りの左側に並ぶ近江商人の本宅跡群。

           
         安福寺(浄土宗)は創建・開基共に不明だそうだが、集落の中心に位置し、金堂の始まり
        の寺と伝えられる。他の寺院とは趣が違う構造である。

           
         堂中通りを直進する。

           
         あきんど通りの佇まい。(左手の寺院は勝徳寺)

           
         勝徳寺(浄土真宗)の向いに、江戸期には大和郡山藩の陣屋が置かれ、1871(明治4)
        
の廃藩置県後、藩の長屋門は勝徳寺へ移築されたと伝える。


           
         あきんど通りと花筏通りとの交差点。

           
         交差点に手前右手にある蔵造り。

           
         左手には大正時代から戦前まで朝鮮半島や中国に百貨店を開設し「百貨店主」と呼ばれ
        た中江準五郎邸がある。

           
         通りの名前は、近江商人を題材に書いた外村繁の小説「花筏」に由来するのだろうか。

           
         東京・横浜・京都などに支店を有し、呉服類の販売を中心に商圏を広げた外村宇兵衛の
        屋敷。屋敷は家業の隆盛と共に数次の増改築を重ね、主屋・書院・大蔵など十数棟が建ち
        並んでいる。

           
         玄関を入ると屋敷内に水路を引き込み、屋根付きの洗い場となった川戸がある。

           
         主屋は1860(万延元)年築。

           
         長い土間。

           
         中継表(なかつぎおもて)という畳で、若い良質のい草を使って両側から継ぎ合わせた畳で、
        キメ細かく弾力性と光沢があり、150年間も使われているとのこと。

           
         近江商人は江戸や京都で成功しても、本宅は五個荘に建て、盆や正月には必ず帰郷した
        という。

           
         てんびんは10㎏の重さがあり、商品の見本を持ち歩いて行商した。

           
         4代目外村宇兵衛の妹(みわ)に婿養子を迎えて分家したのが外村繁家の始まり。外村繁
        は1902(明治35)年に三男として生まれるが、長兄が本家に養子、次男が病没のため
        跡取りとなるが、1933(昭和8)年に家業を弟に譲って文学の道に入る。

           
         五個荘商人の本宅として家族や番頭、女中が生活の場とした。

           
          座敷は来客の接待場として利用された。

           
         1935(昭和10)年に「草筏」が第1回芥川賞候補となり、以後、「筏」で野間文学賞、
        「花筏」など数多くの作品を残し、1961(昭和36)年に59歳で逝去。

           
         寺が並ぶ通りの水路には鯉が泳ぎ、五個荘金堂の代表的な場所の1つである。(浄栄寺)

           
         豊かな水が流れる水路。

           
         幅の広い通りには白壁と水路が続く。

           
         弘誓寺(ぐぜいじ)の創建は、1290(正応3)年那須与一の孫とされる愚咄坊の開基と伝わ
        る。大きな大屋根のある本堂は、1764(宝暦14)年頃に建立されたもので国重要文化財。

           
         水路沿いに寺の鐘楼、表門、土塀、太鼓楼が並ぶ。

           
         てんびん通りにも舟板塀。

           
         朝鮮と満州及び中国で三中井百貨店を展開していた中江4兄弟の3男・富十郎の邸宅。
        現在はまちなみ保存会がまちなみ保存交流館として活用している。

           
         近江商人が商売の心得としたのが「三方よし」、すなわち「売り手よし、買い手よし、
        世間よし」の精神だった。三方よし前バス停からJR能登川行きのバスを利用する。


彦根は城を中心とした江戸期の景観が残る町 (滋賀県彦根市)

2019年10月08日 | その他県外

        
        この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分1地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複 第546号)
         彦根は県の中央部、湖東平野の北部に位置し、西北部はびわ湖に面する。中心市街地は
        芦川のデルタに建設された城下町で、第二次世界大戦の戦災を免れたため、今なお城下町
        の古い景観を残している。(歩行約4.8㎞)

        
         JR彦根駅は、1889(明治22)年関ヶ原から膳所間が開通すると同時に開業する。近
        江鉄道の電車も乗り入れ、1981(昭和56)年には駅本屋が完成し、都市の主要駅らしさ
        を具える。

        
         お城通りにある彦根信金前を右折すると中村商家保存館。1622(元和8)年に彦根城が
        完成した頃とほぼ同じ時代に、現在の地に本家から分かれて酒造業を始めたとされる。
         家屋は老朽化と湖東北部地震の影響もあって大改修されたが、江戸期の建物様式が残さ
        れた。現在は期間を限定して内部公開されている。

        
         駅前・お城通り。

        
         中堀に出ると佐和口多聞櫓。

        
         この付近は中級武士の屋敷があったところで、東を正面とし南は中堀に面している。池
        田家は大坂の陣以前は、「伊賀者」として井伊直政に取り立てられた忍者の家で、後に士
        分となり、この地に居を構える。長屋門の規模は桁行19.7mの木造一重、屋根は入母屋
        造り、壁は簓子(ささらこ)下見板張りが施されている。

        
         中堀と外堀の間は、武家地と町家が混在する地域であった。第13代藩主となる井伊直
        弼は、17歳から32歳までの16年間をここで過ごすが、一生部屋住みとして生きるこ
        とを覚悟して「埋木舎」と名づけた。

        
         中堀の東面、「いろは松」に沿った登城口が佐和口であり、その枡形を囲むように築か
        れているのが佐和口多聞櫓。1767(明和4)年に火災で類焼し、現在の建物は1769(明
        和6)年から8年かけて再建された。(国重文)

        
         佐和口は中堀に開く4つの口の1つで、かっては中堀に接して高麗門があり、その内側
        を鍵の手に曲げて櫓門が築かれていた。

        
         日本で唯一現存する城郭内の馬屋。21頭もの馬を収容することができ、全国でも最大
        規模のものとされる。8代藩主・直定はとくに馬術を好み、藩士も250石以上のものは
        馬扶持されたとある。(国重文)

        
         明治初期の写真等から2004(平成16)年に再現された表門橋。

        
         表門から坂を上がって行くと橋が見えてくる。この橋を中央にして右手に建てられてい
        るのが天秤櫓で、左手が鐘の丸。堀切に架かる橋は「廊下橋」と呼ばれ、非常時には落と
        し橋となる。

        
         橋東側の石垣は自然石を積み上げた「牛蒡積み」で、西側は、1854(嘉永7)年に積み
        替えられた「切石積み」となっている。

        
         左右に2階櫓を設け、均衡のとれた美しい城門は、天秤のような形をしていることから
        天秤櫓と呼ばれる。

        
         長浜城大手門を移築したといわれる。

        
         太鼓門櫓への階段。

        
         城全体に響くようにと鐘の丸から移されたもので、今も定時に鐘が突かれている。(時
        報鐘)

        
         本丸への最後の関門となる櫓で、城中に合図する太鼓が置かれていたことから太鼓門櫓
        と呼ばれた。他の城もしくは寺の門を移築したものとされる。

        
         門を潜って見返ると東側には壁はなく、柱の間に高欄を設けて音を響かすようにしてい
        る。

        
         千鳥破風,唐破風,花頭窓などの意匠を凝らす天守は、井伊家14代が居城した城であ
        る。外観だけでなく城本来の機能にも優れているとされる。(国宝)

        
         1604(慶長9)年より着工し、20年の歳月をかけて築城された。天守はは関ヶ原合戦
        で西軍の猛攻撃を受けながらも、落城しなかった大津城の天守を移築したとされ、2年足
        らずで完成したとされる。(城郭の完成は1622年)

        
         明治維新後の彦根城は、他の多くの城と同じく取り壊される予定であった。しかし、1
        878(明治11)年に明治天皇が北陸巡幸中、参議・大隈重信の進言により廃城を免れたと
        いう。

        
         2つの急階段を上がれば最上部に出る。

        
         あいにくの天候で眺望はよくないがびわ湖が望める。

        
         彦根の町並みが一望できる。(正面に駅前お城通り)

        
         着見櫓跡から西の丸の石垣群とびわ湖。

        
         西の丸への道は、牛蒡積みと呼ばれる石垣の上に、三階三重の天守がそびえている。

        
         黒門から西の丸への入口に設けられた城門跡。

        
         井戸曲輪は小さな曲輪であるが、黒門から侵入する敵兵に対する防御と、城内で守備す
        る兵士の生命維持するため、物品などが備蓄された重要な曲輪であったとされる。水は石
        組み溝で集められた雨水を浄化して、貯水する仕組みであった。

        
         黒門跡。

        
         玄宮園の長い塀が続くが、城主の日常生活の場(槻御殿)に隣接して、接客饗応のための
        庭園としてつくられた。雨で時間を費やしてしまったため見学を残念する。

        
         内堀を巡ると御表門跡に出る。

        
         広小路沿いには、家老・脇家のなまこ壁長屋門の一部が残されている。

        
         京橋方向へ進むと右手に旧西郷屋敷長屋門がある。西郷家の初代は徳川家康に仕えてい
        たが、1582(天正10)年に家康の命により井伊直政の付家老となり、幕末まで仕えて同
        じ土地で替地はなかったとされる。

        
         彦根城は中堀に面して4つの城門を開いていた。その1つが京橋口門である。桝形には
        中堀に接して高麗門があり、内側には石の階段(雁木)が設けられ、多くの兵が一度に多聞
        櫓を駆け上がれるように造られている。

        
         中堀に出る。(京橋より)

        
         京橋を渡ると正面には、白壁と黒格子の町屋風に統一された夢京橋キャッスルロードと
        なっている。

        
         旧鈴木家長屋門は、彦根城の中堀に面した第三郭に建っている。主屋などすべてが取り
        壊され、長屋門のみ現存している。中間や女中の部屋ほか、馬屋や物置として利用された。

        
         中堀沿いの松並木で、江戸時代は「松の下」と呼ばれていた。当時47本の松が植えら
        れていたことから、いろは47文字にちなみ「いろは松」と呼ばれるようになった。

        
         JR彦根駅に戻る。   


近江八幡は八幡堀など風情が残る町 (滋賀県近江八幡市)

2019年10月07日 | その他県外

        
            この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分1地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複 第546号)
         近江八幡は白鳥川右岸の平野部に位置し、北に八幡山があり、東西に八幡川が流れる。
        地名は氏神の祭神名に由来する。(歩行4.5㎞)

        
         JR近江八幡駅から近江鉄道バス長命寺線に乗車して、小幡上筋バス停で下車する。

        
         小幡町通りから上筋に入り、案内を見て右折すると池田町洋館街。

        
         1913(大正2)年旧ウオーターハウス邸の隣に建てられたのが旧吉田邸である。ここに
        住んだ吉田悦蔵氏(1890-1942)は、ウイリアム・メデル・ヴォーリズが教師として赴任した
        滋賀県立商業高校の生徒であった。
         吉田の卒業と同時にヴォーリズは学校を解雇されるが、恩師が近江八幡に留まって「神
        の国」建設に尽くそうとする熱意に打たれ、ヴォーリズと共に活動を始めた。1910(明 
        治43)年3人で「ヴォーリズ合名会社」を設立、さらに翌年には「近江基督教伝道団(近江
        ミッション)が結成される。吉田はその中核として働きに加わり、ミッションを発展させて
        ゆく。その後の「近江兄弟社」設立に大きく貢献し、あらゆる面でヴォーリズの片腕となっ
        た。
         「近江兄弟社」の社名由来は、創業者のヴォーリズが愛した「近江」と、クリスチャン精
        神に基づき、目的に向かって心を一つにする仲間(兄弟)という意味を込めて命名された。
        
         1921(大正10)年築の建物はコロニアルスタイルの2世帯住宅で、近江ミッション
        (近江兄弟社の前身)の米国人スタッフ用の住宅として建てられた。

               
        
         「御坊さん」と親しまれている本願寺八幡別院は、1558(永禄元)年に本願寺第11代
        顕如上人が、近江国の蒲生野に創建した金台寺を前身とする。織田信長の寺地寄進により
        安土城下に移転し、1585(天正13)年豊臣秀次が八幡山に築城し、八幡城下町の開町に
        ともない、安土から移築された。1876(明治9)年に八幡別院に改称されて今日に至る。

         現在の本堂は1716(享保元)年、表門は1767(明和4)年に建立され、別院周囲には
        堀が廻されている。

               
        
         寺内小町を進むと京街道という通りに出る。ここを右折して市の中心地へ向かう。

        
         八幡池田郵便局の先に御菓子司「紙平老舗」がある。看板右には初代の紙屋平兵衛名が
        記されているが、紙平は初代が紙と平をとって紙平にしたとか。

        
         扇屋(伴家)に奉公していた中村四郎兵衛が、屋号の一字を譲り受け「扇四呉服店」と称
        して、1720(享保5)年に当地で開店した。

        
         街道をそのまま直進すると資料館前に街道碑がある。徳川幕府の将軍就任に対して祝辞
        を述べるために、朝鮮から派遣された使節(朝鮮通信使)が通行したことに由来する。

        
         海外で活躍した近江商人・西村太郎右衛門宅跡に、1886(明治19)近江八幡警察署
        が建設される。
         1953(昭和28)年に建物は改築されたが、1974(昭和49)年に市が譲り受け、郷土
        資料館として開設する。

        
         京街道と新町通りの角に建つ旧伴家住宅。

        
         屋号は「扇屋」といい、麻布、畳表、蚊帳を商う。今に残る建物は、7代目伴庄右衛門
        能尹が本宅として、1827(文政10)年より13年の歳月をかけて建築したものである。

        
         繁栄を誇ってきた伴家も、明治維新などの激動期に逆らえず、1887(明治20)年に終
        焉を迎える。

        
         伝統的建造物物群保存地区(新町通り)

        
         初代森五郎兵衛は伴伝兵衛家に勤め、別家を許されて煙草や麻布を商いとした。やがて、
        呉服、太物など取り扱い商品を増やし、江戸日本橋などに出店を持つようになる。(建物は
        非公開)

        
         コの字型の伝建地区には、江戸・明治の建物が1/4を占めているとされる。町家の外観
        枠組みは平屋、中二階、高二階のタイプが混在する。

        
         2代目西川利右衛門の子「庄六」を初代とし、蚊帳、綿、砂糖、扇子などを商いとする。
        建物は江戸中期の建物で、左側に座敷部分が張り出し、他にも「でみず間」「化粧間」「
        表土蔵」などがある規模の大きい町家である。(非公開)

        
         西川利右衛門家は屋号を大文字屋と称し、蚊帳(かや)や畳表を商い、江戸、大坂、京都に
        出店を構える。

        
         建物は3代目によって、1706(宝永3)年に建てられたもので、1985(昭和60)年に
        保存修理が行われ、建築当初の形に復元された。(国登録重要文化財)

        
         1930(昭和5)年に後継者が無いまま11代目が亡くなり、約300年にわたって活躍
        した西川家は終焉を迎える。

        
         新町通り。

        
         新町通りから浜と呼ばれる船着場まで近江商人の町並みが続く。

        
         白壁と八幡堀、そろばん玉の暖簾と桜がデザインされたマンホール蓋。

        
         「ふとんの西川」の祖とされる西川甚五郎邸。

        
         1877(明治10)年に八幡東学校として建築された白雲館は、貴重な擬洋風建造物であ
        る。近江商人が子どもの教育充実を図るため、その費用のほとんどが寄付で賄われた。
         学校として使用された後は、役場、郡役所、信用金庫等を経て、1994(平成6)年に建
        設当時の姿に復元される。 

        
         白雲館の正面に日牟礼八幡宮参道。

        
         八幡堀には多くの蔵が立ち並び、蔵と蔵の間には石段がある。(明治橋からの八幡堀)

        
         荷物を積み下ろしする際に使った船着場も残されている。

        
         白雲橋からの八幡堀。


        
        
         日牟禮八幡宮の由緒によると、弥生期の131(成務天皇元)年に成務天皇が即位の折に創
        建され、平安期991(西暦2)年宇佐
八幡宮の神霊を勧請したとされる。全国的に有名な左
        義長まつり(小正月に行われる火祭り)が行われるが、朱印船乗務員としてベトナムに渡航
        した西村太郎右衛門は、鎖国令のため帰国を残念し、当八幡宮に絵馬を奉納している。

        
         八幡山ロープウエイで八幡城址に上がり、おねがい地蔵堂の傍を抜ける。

        
         1568(永禄11)年に豊臣秀次は秀吉の姉の子として生まれ、ここに八幡城を築き、城
        下町して繁栄の礎を築く。秀吉の養子となり関白になるが、淀君の子が誕生すると、15
        95(文禄4)年後継者を巡り自害させられる。(西の丸跡)

        
         西の丸跡よりびわ湖。

        
         1585(天正13)年に築城された八幡山城は、石垣のみが残されている。

        
         北の丸跡から安土城址方向が望める。

        
        

         八幡山城の本丸跡にある瑞龍寺(日蓮宗)は、豊臣秀次の母であった日秀尼(にっしゅうに)
        が、1596(慶長元)年秀次の菩提を弔うため、後陽成天皇からの寺号と京都村雲の地を賜
        わり、村雲御所が創建される。(山号はなく御所号を冠する)
         1961(昭和36)年秀次ゆかりの八幡山城本丸跡に寺地を移す。 

        
         眼下南側には碁盤の目状に区画された近江商人の町並みが広がる。

        
         堀沿いでは「蔵と柳、橋と水」の風情が楽しめる。

        
         かわらミュージアムへは舟橋を渡る。

        
         日本国内では3つ(今治、三豊、近江八幡)しかない瓦専門の展示館。八幡瓦を中心に展
        示紹介されている。

        
         1909(明治42)年に特定郵便局として活動を始めて、1921(大正10)年にはヴォー
        リス氏によって増築設計が行われる。スパニッシュスタイルの和洋折衷、寄棟屋根を持つ
        ヴォーリズ初期の貴重な建物とされる。

        
         「NPO法人ヴォーリス建築保存運動・1粒の会」の手により再生された。

        
      
   旧岩瀬邸などのヴォーリズ建築もあったが、時間の関係で大杉町バス停より駅へ戻る。
        JR近江八幡駅は市の中心から2㎞も離れているが、開業当時、町の人々は鉄道を嫌った
        のが原因とされる。 


苗羽は醤油醸造の町 (香川県)

2018年10月22日 | その他県外

           
        この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分の1地形図を複製したものである。(承認番号 平30情複第467号)
         苗羽(のうま)は小豆島の東部、内海湾の東部海岸に位置する。地名の由来は明らかでない
        が、「続日本記」には、平安期の784(延暦3)年に恒武天皇が備前児島郡小豆島に放つ官
        牛を長島に移すとあり。
官牛を放牧していた牧から地内馬木の地名が起こったと伝えられ、
        苗羽も野馬に由来するものと考えられている。(ルート約3㎞)

           
         苗羽の町並み。

           
           
         京宝亭佃煮販売処店舗は、もと「伝九郎」醤油醸造場の醤油蔵で、1948(昭和23)
        から佃煮製造所となり,現在は桁行11m,梁間10m規模に切縮められて佃煮販売所の
        店舗として活用されている。

           
         左海(さかい)醤油工業醤油蔵は、桁行17m、梁間11mの規模で桟瓦葺き、切妻造の南
        に桁行9m、梁行10m規模の切妻造を繋げている。

           
         ポケットパークには役目を終えた醤油樽が置かれている。

           
         丸金醤油前にある醤油樽にも「醤(ひしお)の郷」と明記されている。「醤」とは、古来中
        国から伝わった日本の伝統的な調味料で、味噌、醤油の原型と云われている。
 
                  
         丸金醤油の天然醸造蔵。キッコーマン、ヤマサ、ヒゲタ(3社は千葉県)、ヒガシマル(兵
        庫県)と共に5大醤油メーカーの1つとされる。

           
         醸造蔵の中には、このような杉樽が100個も並んでもろみが発酵しているとか。正面
        には碁石山が見える。

           
         醸造蔵の裏手に「天然醸造蔵ギャラリーステージ」があり、蔵の中が見学できる。

           
         苗羽散策路とされる緩やかな坂道を登ると、醤油蔵が残されている。

           
         小豆警察署先の信号を横断して、苗羽小学校側の路地に入る。

           
         小豆島で唯一の酒蔵とされる国森酒造。

           
         県道を横断して馬木に入る。

           
         馬木の散策路に金大醤油。

           
         丸金醤油をぐるりと歩いてもかなりの距離である。

           
         「もろみ蔵」は細長い切妻造、平屋建てを2棟並べた形式である。街路に面した北側は、
        壁面上半に大振りな開口部を規則的に並べている。

           
         内海湾側の丸金醤油工場群。

           
         「もろみ」から醤油を搾り出す圧搾工場は、大正初期に建てられたもので記念館として
        活用されている。

           
         木桶の中で発酵を順調に進める上で最も大切なのは、もろみの状態に応じてきめ細かく
        もろみに空気を送り込む「撹拌(かくはん)」という作業が行われる。季節や気温などに応じ
        て、人間の感覚によるきめ細かいコントロールが必要とされる。
         攪拌は長い“櫂棒”を使って人力で作業されていたが、現在は圧縮空気で行っているよ
        うだ。

           
         大きな樽「大桶(おおこが)」をくり抜いたトンネルとなっているが、この樽で30石(約
        54㎘)のもろみを造ることができ、5㎘の醤油(1㍑のペットボトルで約5千本)が搾られ
        るとのこと。

            
         近世中頃までは塩田で栄えたが、1838(天保9)年には盛時の1割まで落ち込む。塩業
        衰退のため塩を原料とする醤油製造業が盛んになる。
         1897(明治30)年代から一段と発展し、最盛期には400軒の醸造所があったが、今
        は丸金醤油など大手の会社も当地に集中するなど、20軒以上の醤油蔵や佃煮工場が軒を
        連ねる。

           
         醤油造りに必要な道具類が展示してある。建物の構造は合掌造りとなっている。
     


田浦に小説「二十四の瞳」の舞台である岬の分教場 (香川県)

2018年10月22日 | その他県外

           
        この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分の1地形図を複製したものである。(承認番号 平30情複第467号)
         田浦(たのうら)は小豆島の南東部から西方に内海湾を囲むように突出した細長い田浦半島
        の先端に位置する。南・西・北は海に面しており、低地はほとんどない。
         地名の由来は不詳であるが、田浦とは水田の多い地方に付けられる地名であるため、他
        の同地名の地から移住して来て成立したとも考えられるとのこと。(歩行約1㎞)

           
         漁業が中心の小さな集落の一角に「岬の分教場」がある。

           
           
         1902(明治35)年に田浦尋常小学校として建築され、1910(明治43)年から苗羽小
        学校田浦分校として使用されてきたが、1971(昭和46)年に廃校となる。

           
         小説「二十四の瞳」は、1952(昭和27)年に小豆島坂手村出身の壷井栄が発表する。
        発表の2年後に映画化され、その舞台として有名になる。
       
           
         入口から廊下に上がると1・2年学級の教室。小説では大石先生は1年の担任とされる

           
         3・4年学級教室。

           
         小説では1928(昭和3)年から1946(昭和21)年の18年間が描かれている。分教場
        に赴任した女性教師と12人の1年生とのふれあいを軸に、戦争により庶民にもたらした
        苦難と悲劇が対象的に描かれている。

           
         分教場より700m南に、大正・昭和初期の小さな村が出現する。映画「二十四の瞳」
        のロケ用オープンセットが改築されて、映画村として利用されている。

           
         2つ並んだ醤油樽のバス停。醤の郷から映画村までの間と、映画村駐車場近くの2ヶ所
        で見ることができる。

           
         入口には全長54mの壁面パネルアートがある。

           
         撮影に使用された建物は、雑貨屋、お土産屋などに変身している。

           
         海の魚が泳ぐとされる汐江川。

           
         昔のままに再現された映画館の切符売り場。

           
         ロケで使用された漁師の家。晴れた日は必ずフンドシなど洗濯物が干されている洗濯好
        きの家とされている。

           
           
         セット用の分教場が再現されているが、教室からは播磨灘を一望することができる。

           
         映画「八日目の蝉」でもロケの舞台となった素麺屋。

           
         1987(昭和62)年に撮影された当時は、小豆島も近代的な開発の波が押し寄せていた。
        このため、映画用の村風景が創り出されたのである。

           
         撮影に使用された民家は、売店や食堂などに活用されている。       

           
         
裏通りは村の風情が漂う。

         映画村バス停から土庄港まで約1時間15分のバス旅も楽しめる。(バスは5便)