ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

阿武町惣郷は惣郷鉄橋と仏坂道

2022年08月24日 | 山口県阿武町

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         惣郷(そうごう)は現阿武町の最北端に位置し、西は日本海に面する。海辺部を除いては山
        間部にあって中央南に神宮山、その東に白須山が聳える。白須川が域内を貫流して日本海
        に注ぐ。
         地名の由来は不詳であるが、地下(じげ)上申には、昔、河原を開いて人家ができたのを惣
        河村といっていたのが惣郷になったとし、風土注進案は御山(おやま)神社の末尾の記事に、
        神社が阿武郡の総社であって、そのために惣郷村という村名になったのではないかとして
        いる。
         1889(明治22)年町村制の施行により、宇田村と惣郷村の区域をもって宇田郷村が発
        足する。昭和の大合併で奈古町、福賀村と合併して阿武町となり現在に至る。(歩行約4.
        7㎞、🚻なし)

        
         JR宇田郷駅から県道を進むと海岸線に尾無(おなし)集落。

        
         1930(昭和5)年国道トンネルとして開通した尾無隧道は、長さは32mだが発破・機
        械による堀削後、吹き付けコンクリートされたもので独特な雰囲気がある。

        
         隧道の先に鉄道ファンの間では有名な惣郷鉄橋が見えてくる。益田~萩間は、1933
        (昭和8)年に開通し、この時点で京都・幡生間が全通して山陰本線となる。延長2,215
        mの大刈トンネルと難工事だった惣郷下の白須川河口に架かる鉄道橋は、1931(昭和6)
          
年から完成まで2年余を有した。

        
        
         この鉄橋は四柱式鉄筋コンクリートで、ラーメンスラブ鉄柱20脚が用いられ、当時と
        しては珍しい特殊工法であった。

        
         波打ち際を跨ぐように鉄橋が架けられている。

        
         域内は道の駅阿武町から阿武町営バスが1日5便運行されているが、JR東萩駅からの
        バスは乗換に時間を要するなど車に頼らざる得ない。(バス停前の広場に駐車)

        
         川尻の集落には人影や車の出入りがみられる。

        
         稲が実り始める頃に吹く大風を封じるために行う風鎮なのか、病害虫からの防除を込め
        た神事と思われる。

           
         惣郷の中心部。

        
         中央に阿武町の町章があり、4分割した中に町の花である「しゃくなげ」を配した集落
        排水用マンホール蓋。

        
        
         域内を萩から石州益田方面に至る石州街道(仏坂道筋)が通っていた。

        
         街道は白須川に架かる橋を渡って山道に入って行くが、入口付近は堀削によって地形が
        変化している。(黄色いガードレールの所から入る) 

        
         街道だった雰囲気を感じる道には地蔵尊が祀られている。(左の石垣上) 

        
         街道筋の右手は棚田だったと思われるが、現在はスギ林化されている。1970(昭和4
          5)
年コメの生産調整(減反政策)において、農水省は「労力は2倍、収量は半分」の棚田
        に対し、棚田をスギ林へ転換することを奨励した。
         しかし、安価な外材の輸入が始まると木材の暴落が続き、手入れされないスギ林へと変
        と変わり、無残な姿を残す結果となった。まさに大失敗の施策であったとされる。

        
         「平成27年11月土橋復旧」とあるので、2015(平成27)年災害を受けて新たな土
        橋に復旧されたようだ。ここまでは草刈りなど整備されていたが、この先は薮と土砂崩れ
        などで足を踏み入れることができない。

        
         惣郷橋まで戻って家並みを眺めると空家も見かける。

        
         1875(明治8)年宇田小学校惣郷分校として創設され、一時は尋常小学校となった時期
        もあったようだが、1969(昭和44)年廃校となる。(現在惣郷公民館)

        
         川の左岸に猿田彦大神が鎮座。1931(昭和6)年の大火で、桂昌寺を含む60戸150
        棟、山林100haを焼失したという。

        
         これも惣郷分校の旧校舎で、白須川左岸から右岸に校舎の建て替えが行われたようだが、
        双方が残っているのも珍しい。

        
         国道に合流する地点から惣郷集落と遠くに日本海。 

        
         参道に入ると猿猴(河童)が出迎えてくれる。

        
         桂昌寺(曹洞宗)は、大津郡深川(ふかわ)庄板持村に耕雲庵という大寧寺が所有する無住の
        寺があり、建物は破損していたが寺号と釈迦像は残されていた。そこで惣郷村には寺がな
        く地下(じげ)では困っていたので、給領主の児玉外記(広恒)が大寧寺に所望した結果、17
        15(正徳5)年の春、惣郷へ移転する。
         寺号については、玖珂郡山代の中山村に同宗で寺号が同じ寺があったので、1720(享
          保5)
年寺号替え願いを出し、許可されて現寺号とした。寺号は児玉元恒の法号桂昌院から
        とられたものである。

        
         桂昌寺の裏山には、正面の日本海に沈む夕日とを渡る列車が撮影できるスポットが
        あるとのこと。春と秋の彼岸頃がベストのようだが、それなりのカメラが必要のようだ。

        
         旧石州街道だった道を車で上がって行くと、左下の惣郷集落が国道で二分されていた。

        
         峠を越えて下りに入ると右手に御山(おやま)神社の参道。

        
        参道から日本海が見える位置にある。

        
         御山神社は「注進案」によると、旧名を両蔵山雨熊大権現社といい、筑紫の長者が北国
        通航の途中、当地の沖合で霊夢を得、紀州熊野に準じて三所権現(本宮・新宮・那智)を祀
        ったのが創建と伝えられている。
         創建の時期を社伝は、平安期の治承年中(1177-1181)とし、その後、火災で焼失したが、
        1633(寛永10)年給領主の児玉元恒が本宮のみ再建したという。社務所横の枯れた椎の
        木の土中より、平安期末期頃と思われる経塚が発見されている。


阿武町福田は四方を山に囲まれた農村集落

2021年03月14日 | 山口県阿武町

        
                 この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
         福田は福賀地区の中央に位置し、福田盆地や大井川流域に水田中心の農地が広がる。中
        村に公共施設や商店などがあり、福賀の中心地となっている。(歩行約3.8㎞)

        
         土床道(街道)は大井川を渡って道路を横切ると中村に入る。

        
         地区内をほぼ直線的な道が走るが、街道は左手の消火栓がある所で山側に入る。

        
         山裾を道なりに進む。

        
         福田の家並み。

        
         次の山裾へ向かう。

        
         山手側に大きな砂防堰堤。

        
        
         石州瓦の赤と漆喰が際立つ。
 
        
         福田八幡宮の二の鳥居と神楽殿。

        
         室町期の1525(大永5)年周防国玖珂郡山代から移住した松原将監美則が、宇佐神宮よ
        り勧請したという。本殿の建築年代は、彫刻などから19世紀半ば頃と推測されている。

        
         この先で街道は途切れるため、参道を利用して旧道に合わす。

        
         野坂三差路バス停を過ごすと街道は左手に入る。(バスは月・水曜日のみ運行)

        
         街道を道なりに進むと、「剣豪・佐々木小次郎の墓」が案内され、約170mの山道は整
        備されている。 

        
         1512(慶長17)年巌流島の決闘で敗れた佐々木小次郎の妻ユキはキリシタン信者で、
        当時、懐妊中で小次郎の遺髪を抱き、厳しいキリスト教の禁令により、多くの信者と共に
        山陰の地に安全な場所を求めた。
         ユキはこの地にあった正法寺(真言宗)に身を寄せて剃髪して尼となり、夫・小次郎の冥
        福を祈り、菩提を弔うため墓を建て、その墓下の庵で一生を終えたという。我が子に対す
        る因果応報の絆を断ち切るため、小次郎の名を「古志らう」と変えて墓に記したという伝
        説がある。墓には仏像のような彫り物がある。

        
         墓の上の段には方形の台座、丸みを帯びた幢身(どうしん)の上にかん部が乗り、その上に
        笠がある。かん部には手を三角形に組んだ石像が刻まれているが、妻ユキが信じていたバ
        テレン墓と伝えられている。

        
         その隣には粟屋元吉の墓跡がある。元吉(もとよし)は毛利輝元に仕え、1625(寛永2)
        阿武郡福田高佐800石を拝領、隠居後剃髪して法正寺に入り、1628(寛永5)年に死去。
        後に元吉の法号から太用寺に改名して、現在は福田上に移転し、墓も1978(昭和53)
        同寺の境内に移された。

        
         今度は旧道を引き返す。

        
         亀甲模様の中央に阿武町の町章と汚水と記されたマンホール蓋。

        
         JR奈古駅から町営バス約30分で福賀小学校前バス停に下車できるが、バス利用だと
        滞在時間1時間と短い。

        
         いろんな店が並んでいたようだが、静かな通りとなっている。

        
         1889(明治22)年町村制施行により、福田上、福田下、宇生賀村をもって福賀村が発
        足する。1955(昭和30)年奈古、宇田郷と合併して阿武町になるが、村役場の位置は現
        在の阿武町福賀支所付近にあったものと思われる。
             


阿武町木与は海と国道、鉄道に挟まれた集落

2021年03月14日 | 山口県阿武町

        
                  この地図は、
国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
         木与(きよ)は阿武山地が日本海に迫り、木与川下流に小平野がある。木与駅付近を除けば
        ほとんどが岩石海岸である。地名の由来について「長門木与史」は、木与は喜世で大内氏
        の末族が、この地に逃れて安住を許されとか、また、益田の旧臣が主家に許されて遠根に
        転任したときに喜びの世の意味であったとしている。(歩行約3.3㎞)

        
         1931(昭和6)年に開業したJR木与駅は、集落の端にあって駅舎を出ると日本海に面
        する。構内は相対式2面2線を有する地上駅だが、跨線橋が撤去されたため、萩・長門方
        面は別通路からホームへ行かなければならない。

        
         駅前を国道191号線が走る。

        
         海岸線に沿って木与集落。

        
        
         萩・長門方面のりば入口と国道からの道。

        
         阿武町内バスの木与駅前バス停付近。

        
         木与集落は海、国道、線路に挟まれた中に立地する。

        
         粋な造りの消防器庫。

        
         民家の山手側に山陰本線。

        
         木与川右岸の小神社は、何が祀られているのかはわからないが、海に関係するものだろ
        う。

        
         防波堤の先に舩溜改築記念碑がある。「明治15年(1882)埠頭の改築の議を得て、釣す
        るものは5/1000、網するものは1/100その獲る所を貯蓄し、これに村費の補助と隣浦の義金
        をもって、明治44年(1911)4月工を起こし8月に至り成す。海に生活する住民が生活防
        衛のため30年間蓄積した結晶である」とある。 

        
        
         防波堤内と外側の海岸線とは対照的である。

        
         現在は国道で道幅も広くなったが、藩政時代は萩唐樋高札場から津和野藩領との境にあ
        る仏坂までの街道(仏坂道)であった。

        
         家並みが途絶えるところで街道は右折する。

        
         山陰本線木与踏切を過ごすと木与八幡宮。

        
         この地方に見られる舞殿形式の楼門。

        
         平安期の885(仁和元)年宇佐神宮より勧請された木与八幡宮は、当初は迫田の森林中に
        あったが社殿が流失し、1419(応永26)年現在地に再建された。現在の社殿は1883
          (明治16)年、舞殿は1981(昭和56)年に建て替えられた。

        
         町花のしゃくなげと町章がデザインされた阿武町の集落排水用マンホール蓋。

        
         線路の山手側は農地。

        
         仏坂道はこの先で消滅しているとのこと。

        
         木与地区の棚田(やまぐちの棚田20選)は、元来、急傾斜地形に逆らわず、畦畔(けいは
          ん)
石組みで構築されていたが、1997(平成9)年の圃場整備で今日の棚田となる。棚
        田上部からは日本海が見渡せる。

        
         棚田から見る木与の家並み。
 

        
         石州瓦の屋根が青空に映える。

        
         木与川沿いの家並み。

        
         この道も狭く高さ制限がある。

        
         万寿寺(曹洞宗)は阿武郡吉部村の古跡・阿弥陀寺の寺号を当所の観音堂に移し、176
        2(宝暦12)年開山したとされる。境内に入らず大急ぎで駅に戻る。     


阿武町の宇田郷は旧街道沿いにある漁村集落

2020年03月11日 | 山口県阿武町

        
        この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分の1地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複 第546号) 
         宇田郷は西に日本海の海岸部を除いて三方を山に囲まれ、石州街道(仏坂道筋)の沿道に
        あって米の津出場であった。(歩行約4㎞)

        
         JR
宇田郷駅は山と日本海に挟まれるように相対式ホームがあるが、現在は海側のホー
        ムだけが使用されている。かっては駅舎があったが解体され、跡地に小さな待合室設置さ
        れている。宇田と惣郷集落の中間地点に設けられたようで、周囲には民家などは存在しな
        い。

        
         駅前を萩方向へ進み、宇田トンネル手前で道は右に分ける。

        
         トンネルを潜れば宇田浦の元浦。

        
         鳥居と社が不一致な若宮社は、その昔、金子家所有の遠能山に祠を建て、7軒で祭事を
        行ってきたが、幾度の災害と高齢化により下山を余儀なくされたとある。(説明板より)

        
         石州街道(仏坂道)に合わすと、街道はU邸前で山手方向へ向かっている。

        
         分岐の海側に綿屋酒店と浜への路地。

        
         石州街道(仏坂道)を国道と山陰本線が横断する。

        
         街道だった面影はない。

        
         仏坂道は正面の家手前を左折して山中に入る。

        
         1615(元和元)年に建てられた宇田八幡宮の神楽殿は、1690(元禄3)年再建築されて
        いる。

        
         もとは石田八幡宮と呼ばれ、鎌倉期の1185(文治元)年豊前国宇佐八幡宮より勧請さ
        れたと伝えられる。

        
         1847(弘化4)年と刻まれた石灯籠と神楽殿。

        
         地元の人から仏坂道は消滅しているとお聞きする。

          
         民家前から見る宇田郷の町並み。(元浦へ引き返す)

        
         街道筋からの船挽場浜通用道。

        
         元浦の町並み。

        
         宇田川の先は今浦の町並み。

        
         江戸中期と現在では、海岸線の変化や漁家の撤去による川幅の拡張など異なる点はある
        ものの、漁家の地割、浜や新町への小路など漁村の空間がそのまま残されている。

        
         新しい住宅が主流を占める。

        
         中谷旅館の一角にあった門。(2015年撮影)

        
         金子家は庄屋・年寄、藩主御国廻りの本陣を務め、家業としては酒造業、網元や年貢米
        の運送業などを営んだ。

        
         主家は平入り・切妻造の中2階で、2階は漆喰壁に虫籠窓を設けている。

        
         西村商店は空家のようだ。

        
          金子家前の石橋までが今浦。

        
         街道から離れて海側に出ると一角に舟溜まりがある。(正面の建物は漁協)

        
      
        
         三差路を左折して海辺に出る。

        
         北浦海岸の春の風物詩「ワカメ干し」

        
         御国行程記によれば、川幅は現行の1/3程度で、板橋7間(約12.7m)とある。

        
         河口の先に姫島(左)と宇田島が浮かぶ。

        
         元浦の海岸線。

        
         島だったと思われる場所に鎮座する三穂神社。

        
         三穂神社は島根県美保関神社を勧請したとされるが、創建年代は不明とのこと。

        
         宇田浦の町並みを見てJR宇田郷駅に戻る。


阿武町奈古は街道町と漁師町が一体となった町

2020年03月09日 | 山口県阿武町

        
         この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分の1地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複 第546号)
      
   奈古(なご)は西に日本海と面し、郷川の河口付近に町が形成されている。江戸期は徳山藩
        領の飛地で萩から益田に至る石州街道(仏坂道)が通り、今も街道に沿って町並みが残され
        ている。(歩行約5㎞)

        
         JR美祢線からJR東萩駅、ここで奈古駅行きバスに乗車して道の駅阿武町で下車する。

        
         郷川に架かる鹿島大橋より河口付近。

        
         右手の男鹿島に鹿嶋神社があり、海上安泰の守護神として漁業者の信仰が厚いとされる。

        
         奈古湾に浮かぶ男鹿(おが)島・女鹿(めが)島の見える場所に鹿嶋(仮嶋)神社遥拝所がある。

        
         奈古港の周辺は北長門海岸の典型的な沈水地形をなしている。港は北前船の寄港地、萩
        への海上輸送として早くから繁栄した。

        
         奈古漁港では「わかめ干し」の最盛期。

        
         石州街道は道の駅阿武町で寸断されているが、藩政期には川がなかったようで、現在は
        歩道橋が架けられている。国道191号線ができるまで橋幅は広くバスが運行されていた
        という。(当時の橋桁が残る)

        
         現在の郷川を渡り釜屋に入ると正面に中村家がある。庄屋の補佐役である畔頭(くろがしら)
        を務めた家で、永代家老の益田親施(ちかのぶ)が萩と須佐を往復する際に、休息する陣屋に
        当てられたと伝える。家伝によると、建物は初代が元禄年間(1688-1704)に建てたという。

        
         約150mの釜屋の両側には明治、大正期の建物が並ぶ。

        
         K家は屋号を「折廻し」といい、主に塩を扱うと共に船持ちで曳網の株を有していた。
        主屋は平入り切妻造である。

        
         道を挟んで左が釜屋北、右手の郷川側が釜屋南である。

        
         釜屋の先で左折する。

        
         現在は釜屋の南側に郷川が流れるが、もとはこの小さな水路が旧河川で流路変更がなさ
        れた。長さ12間(約12.8m)の浦方橋があったとされ、浦と釜屋の境界でもあった。

        
         1906(明治39)年創業の河野酒造は、「春洋正宗」という銘柄で酒造されていた。

        
         河野酒造の酒蔵が道に面する。

        

         水津家の先が奈古浦の中央付近で、鉤の手だったと思われる。

        
         奈古薬局は阿武町暮らし支援センター「shi Bano」になっているが、本日はお休みだっ
        た。

        
         折れ曲がる場所にある家は隅切りされている。 

        
         建物が密集していたので度々大火が発生し、1690(元禄3)年120戸、1703(同
         16)年130戸、1756(宝暦6)年には約200戸を焼失している。(八祥園・八道家)

        
         三好家は、三代目が「阿武の鶴」の銘柄で酒造業を始める。主屋は平入り切妻造の中2
        階建てで、2階は漆喰塗の壁に虫籠窓を等間隔に並べる。

        
         たなか理容付近の町並み。

        
         石州街道の三ツ辻を直進すると了雲寺。

        
         1652(承応元)年創建の了雲寺(浄土真宗)は、1900(明治33)年築とされる本堂であ
        る。

        
         向拝の彫刻は見応えがある。

        
         了雲寺と法積寺の間に本陣(御茶屋・勘場)があったとされるが、遺構等は残っていない。

        
         街道まで戻って奈古市に入り見返ると、正面には明治期に建てられた八代本店がある。
        現在はお食事処「かどのやしろ」で平日営業のみだが、安価で美味しい食事を提供してく
        れる。

        
         明治期に建てられた平入で切妻屋根の末益家。

        
         奈古市の法積寺入口に立つ土田家の門名は「古庄屋」という。詳細は不明だが門名や立
        地などから奈古市の重要な家であったと思われる。主屋・門・蔵は築100年以上経過す
        るとされる。

        
         末益家と土田家の間は法積寺の参道だが、ここに恵比寿社があったとされるが痕跡はな
        い。

        
         平安期の1175(安元元)年に創建された功徳院は、1559(永禄2)年に焼失したが、
        翌年には現在地へ移転再建される。その際に寺号を法積寺(浄土宗)に改めたと伝える。

        
         現本堂は182(文政7)年築とされ、長門市青海島の西圓寺と同朋寺であり、入口が正
        面でなく左右別々にある点も西圓寺を模したものである。左側が女子参拝口、右が男子参
        拝口の様式となっている。(西圓寺と同様に蓮寺)

        
         奈古市は農家が増加したようで、建物としては、奈古浦より規模が小さく年代的にも新
        しいものが多い。(向い合う岡本家(右)と中野家)

        
         中野家は門名を「紺屋」といい、農業のかたわら紺屋を営む。1887(明治20)年築の
        平家建て建物は、漆喰塗り込みで格子を設けている。

        
         菅原神社鳥居の傍にある猿田彦は町内最大で、1842(天保13)年に建立され、台座に
        は庄屋などの寄進者名が刻まれている。

        
         菅原神社は、1734(享保19)年徳山藩5代藩主・毛利広豊によって再建される。

        
         化粧地蔵とされた理由ははっきりしないが、化粧地蔵がある土地には1つの共通点があ
        るという。多くの幼い子どもたちが災害や戦いで犠牲になり、「子どもの守り仏である地
        蔵に化粧して、子どもたちの幸せを必死に祈る人々の、強い思いのあらわれである」とも
        いわれている。

        
         現寺号以前は光応寺とよばれていたが、1610(慶長15)年尼子義久死後に義久の法号
        に因み大覚寺と改称する。

        
         曹洞宗の本堂にしては質素である。僧・永満が平安期の1042(長久3)年に開基したと
        いわれている。

        
         灌漑用水地にある宝篋院陀羅尼塔(ほうきょういんだらにとう)は、仏舎利および宝篋陀羅尼
        経を納める塔で、1824(文政7)年に建立された。

        
         境内地には尼子義久の墓がある。1566(永禄9)年毛利氏の軍門に降り、富田城を開城
        して義久、倫久、秀久3兄弟は安芸長田の円明寺に幽閉される。
         のちに、内藤元泰の働きかけもあって、島根県金城町久佐に1,129石を所領する。

        
         義久には子がなく倫久の子を後継とし、久佐を出て嘉年の五穀禅寺で剃髪して、叔父の
        住む奈古の光応寺の隣地に庵居する。

        
         同寺には明治期の徳山藩士(奈古出身)で、1869(明治2)年英国に約半年間滞在した池
        田梁蔵の墓がある。帰国後に萩・大井の洋式架橋を設計するも、1870(明治3)年11
        英国で学んだ工業技術の知見を生かすことなく病没する。(享年38歳)

        
         JR奈古駅14時22分の長門市駅行きに乗車する。