ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

中津は福沢諭吉の故郷 (中津市)

2023年05月10日 | 大分県

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         中津は大分県の北端にあり、北は周防灘、西は山国川を境として、市域は山国川右岸の
        沖積平野と、これを包む低平な洪積台地からなる。見どころが分散しているので観光案内
        所でレンタサイクルを借用する。(距離約6.8㎞)

        
         南口側でレンタサイクルして駅構内を北口側に移動する。
         JR中津駅は、1897(明治30)年豊州鉄道の行橋~柳ヶ浦間が開通したと同時に開設
        され、1977(昭和52)年には駅高架事業により3代目の駅舎が完成する。中津といえば
        福沢諭吉といわれるように駅前には像が建つ。 

        
         「1万円札の里 中津市」の文字入りに、福沢諭吉旧居と「学問のすゝめ」が刻まれた
        マンホール蓋。
        
        
         1927(昭和2)年に建てられた倉庫で、音楽ホールなどに活用されている。

        
         島田神社は鎌倉期の1229(寛喜元)年貴船神社として創建され、昭和期に現社号とな
る。

        
         宝蓮坊(真宗大谷派)は、1600(慶長5)年細川忠興が中津城に入封の際、名僧の誉れ高
        かった行橋の浄喜寺の村上良慶を伴って、中津浄喜寺を開基させた。これが後に現寺号に
        改称された。(太子門を見落とす)
         山門前には「魚町の蛭子宮(通称・おいべっさん)」が鎮座するが、江戸期に若松の恵比
        須神社より勧請されたと伝わる。

        
         寺町は中津城総曲輪内の東側にあって、島田口と蛎瀬の中程に城下防衛のために造られ
        た町という。
          黒田氏時代以前‥地蔵院、安随寺
          黒田氏時代(1587-1600)‥合元寺、大法寺、円応寺、西蓮寺
          細川氏時代(1600-1632) ‥普門院、宝蓮院、本伝寺
          小笠原時代(1632-1713)‥円龍寺、浄安寺
          奥平氏時代(1713-1869)‥松厳寺    計12ヶ寺がある。

        
         松厳寺(臨済宗)は、1678(延宝6)年奥平昌章が実父の菩提を弔うため、栃木県宇都宮
        市に創建したと伝え、寺号は実父の戒名から名付けられたという。1717(享保2)年奥平
        氏の転封に伴い、中津に移転される。

        
        
         西山浄土宗の合元寺(ごうがんじ)は、真っ赤に塗られた塀や建物の壁から赤壁寺ともいわ
        れる。1589(天正17)年前城主の宇都宮鎮房が黒田孝高(官兵衛)に誘殺された際、同寺
        に待機していた家臣も討死する。壁は返り血で赤く染まり、その後、何度塗り替えても血
        痕が浮き出るので、ついに赤く塗ったと伝わる。

        
         桜町天満宮は、1632(寛永9)年播州竜野より中津に移封となった宇都宮長次(ながつぐ)
        が、天神像を奉載して入部する。
         当初は大江ヶ岡の八幡宮境内に祀られていたが、洪水の被害を避けるため当地に遷座し
        たという。

        
        
         寺町通り。

        
         本伝寺(法華宗)は、南北朝期の1343(康永2)年開山。

        
         大法寺(日蓮宗)は、1600(慶長5)年建立とされ、冠木門内には鬼子母神が祀られてい
        る。境内には加藤清正を祀る浄池宮、婦人病平癒に高徳のある神として伝えられる秋山堂
        が建立されている。

        
         大石良雄奉納と伝う石灯籠だそうだが、経緯については寺の由来には記されていない。

        
         円応寺(浄土宗)は、1587(天正15)年黒田孝高の開基によって建立される。

        
         境内には「河童の墓」と呼ばれる五輪塔がある。この墓は宇都宮鎮房が誘殺された時、
        鎮房に太刀をあびせた野村太郎兵衛祐勝の墓とされる。
         一方で、江戸中期にこの寺の寂玄上人が、河童を帰依させたという伝説が伝わり、河童
        の墓ともいわれている。

        
         円龍寺(浄土宗)は、寛永年間(1624-1644)中津藩に入府した小笠原長次が建立する。

        
         山門を潜ると左側にキリシタン風の形状に見える織部燈籠が立っている。この燈籠は、
        殿町の井上家に伝来したもので、2016(平成28)年井上家ゆかりの当寺に寄進されたと
        ある。

        
         浄安寺と西蓮寺が並ぶ。

        
         浄安寺(浄土宗)は、1640(寛永17)年小笠原長継の菩提を弔うため、長男の政直が建
        立する。

        
         西蓮寺(真宗)は、1588(天正16)年に光心師によって開山。光心師の俗名は黒田市右
        衛門であり、孝高の末弟で父が逝去時に出家する。黒田家が播州から中津に入国の際、共
        に中津に入り同寺を建立したという。

        

        
         福沢諭吉記念館の駐車場脇に照山白石紀念碑(しらいししょうざん、1815-1883)がある。説
        明によると、江戸末期から明治期の儒学者・教育者で福澤諭吉の師で、諭吉が14歳頃は
        じめて学問の手ほどきを受けた。諭吉がお金に困っていた時に、臼杵藩が蔵書を買い上げ
        る際の仲介をし、そのおかげで大坂の適塾で学問が続けられたという。

        
         福沢諭吉(1834-1900)は大坂の中津藩蔵屋敷で、中津藩士の父・百助(ひゃくすけ)と母・阿
        順(おじゅん)の末子(次男)として生まれた。1836(天保7)年父が死去したため、母子6人
        は中津に帰郷する。
         福沢家は藩士の身分が低かったため、諭吉は門閥制度に苦しめられた。「福翁自伝」の
        中で、「門閥制度は親の敵(かたき)でこざる」といい、この中津時代の苦い経験が市民的自
        由を追求する力となる。

        
         茅葺き屋根が印象的な福沢諭吉旧居は、諭吉が17~18歳の1850(嘉永3)年頃に、
        母の実家であった橋本家の住宅を購入して移り住む。平屋の建物には6部屋と土間・勝手
        ・納戸があり、旧居裏にある5坪の土蔵は、若き日の諭吉が勉学に励んだ場所という。

        
         1854(安永元)年兄のすすめにより、長崎で蘭学を学び、翌年には大坂へ行き、緒方洪
        庵の適塾に入門し、やがて塾頭となる。これを知った中津藩は、江戸で蘭学塾を開くこと
        を命じ、中津藩中屋敷で家塾を開いた。これが慶応義塾の起源である。
         明治維新後は、新政府出仕をこばみ続け、在野の啓蒙思想家として先の課題を追求し、
        「学問のすゝめ」や「文明論之概略」などの著書を通じて、日本の独立と国際社会におけ
        る平等を国民に訴えた。

        
         和田豊治(1861-1924)は明治・大正期の実業家で、村上田長の書生となって独学し、のち
        田長の勧めで藩の奨学金を受けて、慶應義塾に学ぶ。渡米して新知識や紡績工業などの技
        術を学び、帰国後、大会社の要職を経て経営不振の富士紡績を立て直す。
         郷土の中津に和田奨学資金を設け、その恩恵を受けた人は300名をこえるという。(和
        田豊治の生誕地に頌徳碑)

        
         日霊神社(神名宮)は、1600(慶長5)年細川忠興が中津城入城後に、城の鬼門除けのた
        め“音洲の森”に伊勢内宮を勧請したと伝える。維新後に「神明宮」に改称された。
         境内には他に目の神様とされる生目神社、道案内の神である猿田彦神の祠、稲荷神社が
        ある。

        
         中津川に架かる北門橋の袂には、旧橋の親柱と思われるものが保存されている。

        
         周防灘に流れ込む中津川の河口に築城された水城。1587(天正15)年黒田孝高が古城
        であった丸山城を修築したものとされる。(遊歩道と河川敷公園)

        
         貝原益軒の『豊国紀行』 には、「城は町の北、海辺にあり、天守なし」と記されている
        が、1870(明治3)年に廃城を願い出て、翌年にはすべての櫓と城門が取り壊された。
         1877(明治10)年西南戦争において西郷軍側に呼応した中津の不平士族が蜂起し、残さ
        れていた建物に放火し焼失させた。現在は1964(昭和39)年に建てられた模擬天守と櫓
        がある。

        
         江戸期には天守閣のある部分に二層の櫓があったという。

        
         天守閣前に鎮座する奥平神社は、奥平家中興の祖、奥平貞能・信昌・家昌の3公を祀る。

        
         天守閣内は奥平家歴史資料館として、奥平家の貴重な資料や家宝が展示されている。 

        
         天守閣からは四方が見渡せる。

        
         中津川に架かる北門橋の先に瀬戸内海が広がる。

        
         中津神社は、1883(明治16)年城内下段の松の御殿跡に建立されたもので、新魚町の
        六所宮、諸町の恵比須社などが合祀されている。
         その他、城内には伊勢神宮より勧請した中津大神宮、黒田氏に謀殺された宇都宮鎮房を
        祀る城井神社や金比羅宮がある。

        
         城址出口にある「独立自尊碑」は、「人に頼ることなく、自らの力で事を行い、自己の
        人格・尊厳を保つこと」という意味だそうで、1904(明治37)年建立された。
         傍には日本の歯科医師免許第1号を取得した小幡英之介の像もある。

        
         鍵廻りを過ごして南部小学校を正面にすると、道路に露出する黒門跡の礎石がみられる。

        
         校内との境に大手門の石垣が一部残る。

        
         小学校は奥平家家老・生田家の跡地で、敷地の北側にあった生田家の門が、西側に移築
        されて小学校の正門となっている。

        
         1871(明治4)年城の石垣を壊して通した道路だそうだ。

        
         木村記念美術館には江戸後期の中津藩御典医だった屋敷門が残る。医師の木村又郎氏が
        集めた中津出身の洋画家中山忠彦、中津にゆかりの深い作家の美術資料などが展示されて
        いる。

        
         慶応義塾2代目塾長を務め、「学問のすすめ」の共著者の一人である小幡篤次郎の遺言
        によって寄贈された出生地と家屋、蔵書をもって、1909(明治42)年に中津図書館が開
        設される。後に小幡記念図書館と改称され、1993(平成5)年に藩校があった地に移転す
        る。
         1780(安永9)年倉成龍渚(くらなりりゅうしょ)が、この地の屋敷を拝領し、家塾を開いた
        ことに始まり、1796(寛政8)年藩校「進脩館(しんしゅうかん)」が設立される。幅広い分
        野で人材を輩出したが、廃藩置県によって閉校となる。

        
         洋学校設立を推進したのは福沢諭吉や小幡篤次郎といった慶應義塾の中津出身者たちで、
        1871(明治4)年に現在の南部小学校の地に開校する。この学校は「中津市学校」と名付
        けられて優秀な人材を輩出したが、西南戦争などの影響で経済状況が悪化し、1883(明
           治16)
年閉校となる。
         新中津市学校は、「広く平等に学びを」との思いを受け継ぎ、旧小幡記念図書館の建物
        を利用した学習交流施設に引き継がれる。

        
         御水道(中津水道)は細川忠興が黒田家の役を引き受け、1620(元和6)年に中津城下に
        給水する上水道工事を行う。中津城下が海辺に近いため水質が悪く飲料水に適さず、山国
        川の大井出堰から送水路(御水道)を堀り、樋を埋めて城内に引水する。
         その後、町中に給水できるよう工事が行われ、1929(昭和4)年新たな上水道ができる
        まで使用された。

        
         村上家は1640(寛永17)年に初代村上宗伯が、城下の諸町に開業して以来、現在まで
        続く医家で、中津藩の御典医を務めた。
         村上医家史料館は、この村上家の医学にかかわるものを中心に数千点に及ぶ資料を収蔵
        ・公開している。

        
         諸町の町並みを歩く。

        
         江戸期には多業種の町人が居住していたので、諸町という町名になったという。

        
         1716(享保元)年創業というむろや(室屋)醤油。

        
         細川忠興は民心安定のため領内各地の社寺整備を行う。この諸町蛭子宮は、1616(元
          和2)
年この地に創建されたそうだが、当初は菊池氏(室屋)一族の氏神とされ、現在は町内
        の氏神として祀られている。(説明板より)

        
         漆喰白塗り込めの平入りの町家。

        
         南部まちなみ交流館は、江戸期には屋号を「宇野屋」といい、造酒屋・米問屋を営んだ
        商家で、中津市が文化財として復元する。

        
         平田眼科医院は、1918(大正7)年諸町に開業したが、院長の死により1953(昭和
          28)
年閉院となる。

        
         平田医院の隣にも漆喰白塗り込めの町家がみられる。

        
         1764(明和元)年自性寺(じしょうじ)12世となった提州(だいしゅう)は、京から日本の文
        人画の大成者である池大雅夫妻を伴い中津にやってきた。池大雅はしばらく自性寺に滞在
        し、絵の制作に励む。1778(安永7)年には境内の一角に書院が建立され、藩主・奥平昌
        高によって大雅堂と名付けられた。
         書院の老朽化が進んだため、現在の展示館が建設されて池大雅の書画が展示されている。

        
         自性寺(臨済宗)は中津藩主・奥平家の菩提寺で、1577(天正5)年藩主奥平信昌が三河
        国設楽郡門前村に「萬松寺」として創建した。その後、奥平氏の中津転封に伴い、171
        7(享保2)年現在地に移され、のち現寺号に改称する。

        
         中津市内には3基の織部灯籠があるとのことだが、これは古田織部と友人関係にあった
        細川忠興が、妻・細川ガラシャの菩提を弔うため長福寺に建立したものだという。

        
         観音堂は境内の敷地内あるが、正面は寺外を向いている。堂内には如意輪観音、三十三
        観音と九人地蔵が安置されている。さらに「河童ケンヒキ太郎像」もあるが、真玉寺の小
        僧や女性に取り憑くなど悪さを働いたので、自性寺の和尚に改心させられたが、その際の
        詫び状が寺に残るという。

        
         内部は奥平家墓所のようだが瓦土塀に囲まれている。

        
         中津城模擬天守と中津川がデザインされたマンホール蓋。
 
        
         大江八幡宮の縁起によると、奈良期の740(天平12)年宇佐宮に寄進された10郷のな
        かに大家郷があり、天平勝宝年間(749-757)10郷に八幡宮が勧請され、大江八幡宮もその
        時に創建されたと伝える。
         境内は幕末から昭和初期にかけて金谷小学校や留心中学校の学校地として使用された。


宇佐市四日市は東本願寺・西本願寺の別院がある地 

2022年09月11日 | 大分県

        
                       この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
                 1889(明治22)年の町村制施行により、四日市村、吉松村など5ヶ村が合併して四日
        市村が発足する。のち町制に移行して四日市町となり、さらに昭和の大合併で近隣の7ヶ
        村を合併して四日市町を継続する。1967(昭和42)年に四日市町、宇佐町、長洲町、駅
        川町が合併して現在の宇佐市となる。
         四日市は駅館(やっかん)川と伊呂波(いろは)川に挟まれた平野部に位置し、地名は四の日に
        定期市が開かれたことに由来するといわれる。(歩行約2.6㎞)

        
         JR宇佐駅から四日市行きのバス約25分、東新町バス停で下車する。

        
         バスの進行方向へ進むと、「四日市門前町 豊前日向街道」の案内がある。 

        
         次の分岐は参道に入らず右の道を進む。

        
         浄土宗の法然が「南無阿弥陀仏」と唱えれば誰でも極楽に行くことができると説く。こ
        の教えをさらに進めたのが弟子の親鸞であり、浄土真宗の開祖とされる。
         第11世の顕如の時代は織田信長と敵対する戦国時代で、延暦寺(天台宗)に寺を破壊さ
        れ、越前に逃れた後に京都山科に戻ったものの日蓮宗に敗れ、大坂石山の地に要塞ともい
        える巨大な寺院を建立する。ここで「石山10年戦争」といわれる織田信長との戦いは、
        やがて劣勢に陥り、「信長に従うか、反抗するか」で内紛する。顕如は和睦を選択するが、
        長男の教如は抗戦を主張したため、顕如は長男を廃嫡し、三男を跡継ぎにする。
         のち、豊臣秀吉の時代に本願寺の再興が許され、京都堀川に建てられたのが西本願寺(本
        願寺派)で、徳川家康の時代になると本願寺の勢力を分断するために、教如上人に目を付け、
        西本願寺のすぐ近くの烏丸に寺地を寄進して東本願寺(真宗大谷派)を建立する。これによ
        り、本願寺教団は東西に分裂することになる。

        

         東本願寺四日市別院には、真勝寺(東本願寺の末寺)という寺があった。1737(元文2)
        年寺の住職が東本願寺から隠居を命じられるが、それを不服として末寺11ヶ寺と門信徒
        1,300人とともに西本願寺派に転宗しようとしたため大騒動となった(別院騒動)。寺
        は幕府に没収され、その後の裁定で東本願寺に下付されることになり、東本願寺の別院と
        して今日に至っている。

         訴訟に敗れた西本願寺改宗派は、宇佐市川部にあった正明寺をこの地に移転させ、西本
        願寺別院を発足させたという。


        

         現在の本堂は、幕府の工事許可は修理及び建て増しであったが、新築を強行し、185
        9(安政6)年に落慶法要が営まれた。(19間4面、正面29.5m、奥行き31.5m、高さ
        21m)

        
         東別院参道と交差する路地。

        
         真宗大谷派四日市別院は、この地域に勢力を有した渡辺氏が、中世末期に建立した真勝
        寺を前身とする。1744(延亨元)年に本山の別院となり、九州御坊と称し全九州の寺院7
        16ヶ寺を統括する。
         1865(慶応元)年に建てられた山門は、幕末動乱の際には兵火を逃れる。九州にある寺院
        の二重門としては最大の規模だそうだ。

        
         1825(文政8)年に再建された東別院の本堂は、二層屋根であったが幕末の動乱で焼失
        し、1880(明治13)年に再建された。

        
         勝福寺(真宗大谷派)は、東別院となる前の真勝寺の塔頭だったとされる。

        
         東別院の土塀筋。

        
         大乗院の階段下に行くと「鬼のミイラ」についての案内がある。名家の家宝として伝わ
        ったが、ある事情で手放すと、大乗院の檀家が購入したが原因不明の病に倒れた。鬼の祟
        りと考え同寺に安置したところ病が治ったという。ミイラは仏様として祀られており、見
        学は可能であった。

        
         左に西別院、右に東別院が並ぶ。

        
         市章とツツジがデザインされた宇佐市のマンホール蓋。

        
         旧日向街道から見る太鼓楼。 

        
         東別院前の旧日向街道を左折する。(左折後) 

        
         横町通りは石畳。

        
         江戸期には黒田氏、細川氏に続いて小笠原氏の領地であったが、その所領半分が召し上
        げになると、1700(元禄13)年この地に幕府の代官所(四日市陣屋)が置かれ、幕府天領
        として明治まで続いた。
         1868(明治元)年の御許騒動(討幕派の志士たちが陣屋を襲撃し、御許山に陣を構えた)
        で陣屋は焼失したが、この陣屋門は免れ、以後、宇佐郡役所、宇佐郡高等小学校、郡立農
        学校、県立四日市高等女学校、四日市高等学校へと変遷する中、それぞれの正門として使
        用されてきた。

        
         桜岡(さくらがおか)神社は室町期の1558(永禄元)年地頭職の渡辺氏が、旧居城だった肥
        前国鬼子嶽城から蛭子宮を遷座させたのが始まりという。市屋敷に祀られた後に細川氏の
        お茶屋跡に社殿が造営され、神社前に市を開いたのが「四日市」の起こりとされる。

        
         祭神は蛭子・稲荷・天神で、4月の稲荷祭りには子供神輿、9月の天神祭りには山車と
        神輿、12月のえびす祭りには御供物行列・神楽奉納されるという。(山車などの格納庫)
         四日市バス停よりJR宇佐駅に戻るが、往路はここまで乗車した方がベストだった。


宇佐市の長洲は漁師町、酒蔵と神社を巡る

2022年09月10日 | 大分県

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         1889(明治22)年の町村制施行により、長洲村と金屋村が合併して長洲村が発足する。
        のちに町制施行して長洲町、昭和の大合併で柳ケ浦町、和間村と合併して長洲町となるが、
        1967(昭和42)年宇佐町、駅川町、四日市町と合併して宇佐市に移行する。
         その長洲は中津平野の東部、駅館(やっかん)川の河口右岸に位置し、北は周防灘に面する。
        地名は駅館川の本支流に挟まれ中洲であったことに起因するという。(歩行約4㎞)

        

         豊後高田から大分交通四日市行き15分、長洲支所前バス停で下車する。

        
        
         県道中津高田線を避けて裏道を歩く。 

        
         鳥居が見えたので立ち寄ると、長洲神社境内は長洲葵保育園と共用になっている。

        
         賀茂大神宮、賀茂宮などと呼ばれ、地元では流れ勧請と伝えるが、賀茂皇大神宮由来に
        よると、奈良期の731(天平3)年賀茂別雷神が住江に流れ着き、満潮時に現在の本殿があ
        る中小路に着いたという。
         当地の産土神として崇敬され、5月3~5日の執り行われる葵祭りは、江戸中期頃に豊
        前国に疫病が流行、これを鎮めるため始まった祭りだそうで、山車が長洲の町を練り歩く。

        
         神光寺の突当り左折すると天満宮。 

        
         もとは真言律宗だったそうだが、鎌倉期の1326(嘉暦元)年象山禅師の再興と伝える曹
        洞宗の神光寺。
        
        
        
         正面の壁に「賀久酒場」の文字入り鏝絵。 

        
         当地にはいろんな神社が存在するが、ここは八坂神社。 

        
         とよきん醤油付近の小路。

        
         四ッ谷酒造がある通り。1919(大正8)年四ッ谷酒造場として四ッ谷兼八が創業する。
        創業者の名前を商品名とした麦焼酎「兼八」を中心に焼酎造りをされている。

        
        
         鳴海製麺工場付近の民家。

        
         製麺工場の向い側に春日神社。この付近にもう一軒製麺工場もあるが、長洲麺の起こり
        は江戸期とされ、宇佐平野の小麦と海岸沿いの塩、駅館川による水が潤沢だったこと

        麺作りが盛んになったという。

        
         製麺工場から淡島神社への通り。

        
         淡島神社は奈良期の740(天平12)年頃移住民の永住の地となり、宇佐神宮の護神であ
        るえびす神を勧請し、洲の小高き処(高杜)に祀ったという。

        
         1789(寛政元)年創業の久保酒造は、もとは酒造業を長くされてきたようだが、現在は
        麦焼酎「久保」をメインに焼酎造りをされている。

        
         久保酒造の酒蔵を見ながら直進すると貴船神社。鳥居がないのでこの石柱が注連石だろ
        う。 

        
         三角洲及び浜に家が密集していたため、火災は大惨事になることが多かったという。
        1703(元禄16)年には寺社在家5~6軒を残す大火、1732(享保17)年には宮社3ヶ
        所を残して全焼するという大火に見舞われている。

        
        
         1868(明治元)年創業の小松酒造は途中で製造を中止されたそうだが、2010(平成2
          2)
年に製造を再開されている。白麹仕込みの純米酒「豊潤」という銘柄は、さっぱりと切
        れの良い酒だそうだ。

        
         小松酒造から豊前長洲駅と柳ヶ浦駅までは同距離にあると思えたが、長洲に来たので長
        洲の名がある駅に戻ることにする。

        
         鹿児島本線に長洲駅があるため、こちらは豊前長洲駅といい、1911(明治44)年に開
        設された。

        
         「ギャラリーのある無人駅」と銘打って駅舎内にはいろんなものが展示されている。

        
         島式ホーム1面2線を有する地上駅だが、跨線橋のみの乗車方法である。


豊後高田市に昭和30年代の町並み 

2022年09月10日 | 大分県

        
               この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         豊後高田は周防灘に面する国東半島西部の基部にあり、東を桂川が下る。(歩行約2.8
        ㎞)

        
         1909(明治42)年に開業した宇佐駅。

        
         駅前から大分北部バス13分、豊後高田バス停で下車する。

        
         バスターミナルに到着すると乗降場は鉄道の旧豊後高田駅ホーム跡である。国東半島の
        玄関口であった豊後高田から宇佐駅を経て、宇佐八幡駅まで結ぶ8.8㎞の大分交通宇佐参
        宮線があった。
         1916(大正5)年に開通したが、1965(昭和40)年8月にバス路線と競合するため廃
        線となる。(ここで活躍した機関車は宇佐神宮境内に保存)

        
         「JRの駅もなければ、マックも無え!」というが、鉄道があった証として駅通り商店
        街のアーチが輝く。(先に昭和ロマン蔵を見学) 

        
         バスターミナルを出ると右手に昭和ロマン座という一画があり、昭和ロマンが漂う施設
        である。
         その一角にある長い建物は、野村家が小作米を収蔵するために、1937(昭和12)年に
        設営した米倉倉庫である。

        
         有料の東館には駄菓子屋の夢博物館、チームラボギャラリーがあり、北蔵の無料ゾーン
        には昭和の商店街、夢町小学校がある。

        
         ボンネットバスで昭和の町商店街や桂川沿いをミニ周遊できる。ここが出発地で料金は
        無料だそうで、1957(昭和32)年製造の昭和生まれのバスである。

        
         無料で足湯が楽しめる「ぶんごたかだ温泉座」と、隣は昭和の懐かしい学校給食が味わ
        えるカフェ。

        
         朝が早いこともあって人がまばらな駅通り。

        
         突き当りを右折すれば新町商店街。

        
         外灯や店の構えなど正に昭和の商店街。

        
         ウエガキ薬局や隣の漬物屋「こうこう屋」さんは右書き看板


        
         旧豊後高田市の市章と蜘蛛の巣状がデザインされたマンホール蓋。

        
         「肉のかなおか」さん付近の町並み。

        
         1933(昭和8)年に旧共同野村銀行として建設されたが、その後、買収合併を経て、1
        993(平成5)年まで西日本銀行高田支店として使用された。現在はホテル清風別館の展示
        施設に活用されているが、2階建てに見えるが銀行に多い吹き抜け平屋建てで、2階壁面
        に沿って窓を開閉するための回廊が設けてある。

        
         野村財閥屋敷跡を挟んで擬洋風建物が並ぶが、右手の佐田屋さん
はこの町で最も古いお
        店だそうで、16
94(元禄7)年創業という。

        
         大正期から続く千島茶舗と手造りの店・和楽天。

        
         変則四叉路から桂川に至る道が中央商店街。 

        
         昭和の町展示館は、1933(昭和8)年築の大分合同銀行(現大分銀行)の建物で、木造平
        屋一部2階建てである。
         のち、高田信用組合(現大分県信用組合)が使用したが、2004(平成16)年に銀行業務
        を終えて展示館として活用されている。


        
         金庫も健在。

        
         旧中津信用金庫の建物。

        
         1915(大正4)年創業の亀屋呉服店は、1929(昭和4)年建築の木造3階建て店舗。

        
         1788(天明8)年創業の瓦屋呉服店は、明治期には珍しい瓦屋根だったことから、地元
        では「瓦屋さん」と呼んだことがそのまま店名となったという。(左隣は釘屋金物店)

        
         桂川橋袂にある煉瓦造2階建ての建物は、1921(大正10)年築の旧共立高田銀行だっ
        た。廃業後、様々に転用されたようで、現在はパン屋さんが入居されている。

        
         下駄と木製サンダルを履いた愛らしい像は、昭和の町のシンボルと思われる。

        
         桂橋の先は玉津商店街。

        
         商店街に入るとシャッターも目立つが、そば処の看板も目立つ。豊後高田は蕎麦の産地
        で、生産ー加工ー手打ちが同じ土地で行われているため、おいしい蕎麦が味わえるとのこ
        と。

        
         玉津プラチナ通りまでは観光客が来ないためか、ちょっと寂しい通りとなっている。

        
         通りに背を向ける北野神社は、室町期の大永年間(1521-1528)京都の北野天満宮から勧請
        されたという。

        
        
         高田城は1632(寛永9)年に入部した松平重直が、1639(寛永16)年(一説には入部
        後まもなく)幕府の許可を得て、当地を城地として高田藩が成立する。
         しかし、1645(正保2)年木付(杵築)に移封となり、この城は廃城となる。その後、島
        原藩領となったが飛地支配のため、旧本丸に陣屋が設けられた。

        
         桂川の右岸、周防灘に面する美和台地の舌状部に位置し、西方は10mほどの断崖、南
        方は桂川に臨む10~20mほどの崖、東と北は台地に接して堀や土塁で構成されている。
        堀は農業用ため池として活用されてきた。(跡地には桂陽小学校や公民館) 

        
         敷地内に「従是東南嶋原領」の石柱が立っているが、どこからか移設されたものと思わ
        れる。

        
        
         左手の計(はかり)屋醸造元は、カネオトの商標で知られる醤油・味噌の老舗で歴史を感じ
        る。

        
         昭和時代の宮町警察官立寄所。

        
         映画のポスターがあるので元映画館だったのだろうか。

        
         銭湯もそのまま残されている。

        
         飲食街を過ごしてバスターミナルに戻る。


宇佐市の安心院に素朴な願いなどが込められた鏝絵 

2022年05月19日 | 大分県

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         安心院(あじむ)は駅館(やっかん)川上流の津房川、その支流である新貝川との合流点に形成
        された盆地に位置する。
         安心院の地名については諸説あるようで、葦の生い茂るところの意の葦生とか、海人族
        である阿雲(あずみ)説があるが定かでない。「扶養略記」には奈良期の720年、宇佐公比
        古が勅命により荵狭川上流にいた鼻垂という賊を討伐したことから、安心して居住できる
        ようになったので「あじむ」に「安心」の字を当てたともいう。院は九州各地にみえる古
        代院倉の名残とされ、のちの荘に相当する。

        
         安心院観光協会にある「七福神」

        
         安心院総合支所の「踊る大黒」。もとは安心院町舟板の佐藤家にあったもので、191
        0(明治43)年作。

        
         安心院総合支所から国道500号線を院内方面へ向かう。1911(明治44)年日出生(ひ
          じゅう)
鉄道が創設され、1917(大正6)年善光寺から三又まで、後に二日市(院内)まで延
                伸された。
         当初計画
は陸軍日出生台演習場を貫通して豊後森に至る予定であったが、赤字のため安
        心院村まで
敷設されることなく、1953(昭和28)年全線廃止となる。

        
        
         ライオンズクラブ事務所の「滝と馬」、古荘医院にある「ジキタリス(和名は狐の手袋)」
        の鏝絵を過ごすと、
県立安心院高校の校門に「松と鷹」。この鏝絵は安心院町大地区の衛
        藤家にあったもので、家屋の取り壊しで移設された。「松」は不老長寿、「鷹」は飛翔、
        前進の願いが込められているそうだ。(製作年代は明治期)          

        
         
ータス伊藤の向い側にある「鯛釣り恵比須」は、めでたい鯛を今まさに釣り上げる瞬
        間を鏝絵にしたも
ので、安心院町船板の白佐家にあったものが移設されている。(1910
          (明治43)年作)。


        
         明治期に制作された「鶴と亀」は、不老長寿の象徴でもある。もと安心院町筌ノ口の筌
        口家の主屋戸袋にあったものとされる。

        
        
         〆野家だが現在はこの有様で鏝絵を見ることができない。明治初年に主屋の妻壁に“水”
        の文字と菖蒲」が制作されたが、水は防火の願いがあり、端午の節句には菖蒲が用いられ
        「菖蒲の節句」とも呼ばれた。男の子の無病息災と一族の繁栄を願って飾ったとされる。
        (2010年撮影)

        
        
         民家喫茶志め乃亭の「百華草庵」

        
         1887(明治20)年代制作の「松と鷹」は、院内町の佐藤家の2階戸袋にあったもの。

        
         1925(昭和初期)年頃に制作された「招き猫」。左手は「お客さんいらっしゃい」、右
        手は「お金を持っていらっしゃい」と対になっていたそうで、相棒の左手猫は県立博物館
        に所蔵されているとか。

        
         中央にブドウ、外周にハナショウブがデザインされた旧安心院町のマンホール蓋。

        
        
         平松理容院の「松と猪」、岸田パンの「布袋と水」の先に、2004(平成16)年に制作
        された豊田家の「豊穣の田」は、豊田さんが安心院町の農業委員会の委員長だった所以の
        鏝絵である。

        
        
         かわのさんは農機具の商売をされていたとのことで、昔懐かしい発動機と大きな槌を持
        つ大黒様が描かれている。

        
               鏝絵通りのシンボル的存在の重松家。祖先は庄屋をされていたとのことで、大工を京都
        に派遣して、宮造りの勉強をさせた後に建築したという。2階部分は天守閣のようになっ
        ている。

        
         重松家の鏝絵は、1884(明治17)年に制作されたもので、4つの鏝絵がある。道筋に
        ある「富士山」は日本一の山であり、「豊後富士」でもあるとか。

        
         「虎」は東南アジア最強の猛獣で、強い力で魔物を寄せつけない魔除けのシンボル。

        
         「龍」は水と火除けの神様。

        
         「三階松」は重松家の家紋。

        
         1712(正徳2)年創業の縣屋(あがたや)酒造。

        
         「毘沙門天・弁財天・布袋」(2004年制作)は、大きな樽で麹を混ぜている毘沙門天、
        酒を酌み交わす弁財天と布袋。

        
         このような形状のトタン屋根が残っている。

        
        
         賀来家の主屋妻壁にある鏝絵は、1887(明治20)年代に制作された「唐獅子と竹」。
        唐獅子は百獣の王・ライオンのことで、文珠菩薩の使いとされ、竹は冬の寒さに耐えて緑
        の葉を保つことから、松・梅とともに「歳寒の三友」とされ、吉祥であるとされている。

        
         1890(明治23)年制作の「一富士、二鷹、三茄子」は、安心院町大仏の上鶴家の蔵に
        あったものが、よこいよ公園に移設されている。

        
         よこいよ公園から憩いの広場への通り。 

        
         1895(明治28)年制作の「恵比寿・大黒・鯛の三番曳」。文楽の三番曳は、猿が舞う    
        めでたい踊りだが、この鏝絵は恵比寿さんが鯛に踊らされている。(佐藤家)

        
         ファッションコア河野には2つの鏝絵。上段には2001(平成13)年作の「恵比寿と弁
        財天」と玄関に「十二単」。

        
        
         木に隠れて見えない場所に鏝絵。2004(平成16)年に制作されたやまさ旅館の「東椎
        屋の滝のぼりの鯉とスッポン」。日本滝百選の東椎屋の滝を力強く登る鯉、ほとばしる飛
        沫、首をすくめるスッポンが描かれている。やまさ旅館は「スッポン料理」で有名。

        
         スッポンが描かれた旧安心院町のマンホール蓋。湧き出る温泉を利用してスッポンの養
        殖も行われているとか。

        
        
         1887(明治20)年代作の「竹に虎」は、同地区の勝見家の主屋妻壁にあったもので、
        猫のように見える虎とのこと。(佐藤家) 

        
        
         2004(平成16)年制作の「分福茶釜」は、文福茶釜の話をもとに茶釜に化けた狸が綱
        渡りをしている。(お茶の渡辺園)

        
         憩いの広場(🚻)にある「家紋・波兎」は、明治期に作られたもので、波は水の意匠で火
        事除け祈願、兎は月の精で陰(水)を表すともいう。いつも多産で安産なところから安産の
        シンボルとされ、子孫繁栄を祈願するものとされる。

        
         最明寺(曹洞宗)の由来によると、北条時頼が1256年(鎌倉中期)に出家し、諸国を間
        行(かんこう)すること8年、1256年当地を仏道有縁の地とする。この地を去るにあたっ
        て三女神社の神宮寺を替えて最明寺としたとある。

        
         五輪塔は開基とされる恵日入道の墓とされ、総高1.06mで水輪に「正元元年(1259)巳
        未5月2日」と印刻されている。(県指定文化財)

        
         上鶴家の「松と鶴」は、姓に因んで「鶴」、文字は「樹上双棲丹頂鶴」。(1998(平
        成10)年作)

        

        
         駐車地から約100mの山道(車での通行可)を進むと曹洞宗の妙菴寺(みょうあんじ)

        
         本堂に上がると左右の欄間に「蓮の花」の鏝絵がある。蓮の花が蕾から開花し、散るま
        での一生が描かれている。町内の鏝絵で室内にあるのは同寺のみで、1903(明治36)
        作とされる。

        
         細川幸隆は細川藤孝(幽斎)の3男として生まれ、僧にさせられたが、父の命で還俗して
        細川家に戻る。関ケ原の戦いでは東軍に参加し、兄たちの留守を父と共に丹後田辺城で戦
        う。
         細川忠興とは同母弟(いろせ)で、忠興が豊前国を拝領すると、1603(慶長8)年に龍王
        城主となり1万石が与えられたが、1607(慶長12)年37歳で死去、ここ妙菴寺に葬ら
        れた。(廟所は1889年建立)

        
        
         大江家の「鷲」は、梅の木に大きな鷲がとまっている。「家内安全」「祈願成就」の願
        いが込められた鏝絵とされる。(1887(明治20)年作)

        
        
         古荘家住宅は1882(明治15)年築とされ、「朝顔と稲妻」の鏝絵も同時に設置された。
        ぶん回し呼ばれるコンパスで朝顔の花を描き、上部に雲、下に波と水でまとめたものにな
        っている。朝顔は蔓が延び花がたくさん咲くので、子孫繁栄に繋がるとされる。

        
        
         上田家の切妻壁に、虎と岩と2本の折れ釘が施されている。「折れ釘」は壁の仕事をす
        る時に、材木を載せる足場だったり、梯子をかけたりするための金具でもあった。(189
        8(明治31)年作)

        
        
        
         大地区のメイン通り

        
         衛藤家の土蔵妻壁に「瓜」。瓜は真中が中空なので、仙人の棲む壺中天に通じるとされ
        る。

        
         山村家の主屋戸袋にある「浦島太郎」は、1880(明治13)年頃作。玉手箱を開いたら
        老人になったという昔話だが、長寿の祈願が込められているという。

        
         岩尾家の主屋戸袋にある「雁に人」は、1887(明治20)年代作。

        
         1923(大正12)年深見川に架橋された今井橋は、旧安心院町の道路橋としては唯一の
        三連アーチ橋。   


宇佐市の院内で石橋探しを満喫 

2022年05月19日 | 大分県

                 
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         院内(いんない)は北流する駅館(やっかん)川の支流である恵良川流域と、その支谷に沿って
        山間に細長い河岸平野を形成している。地名の由来は、安心院(あじむ)の内の意か。
         JR中津駅前から大分交通安心院支所行き約1時間、「道の駅いんない」で下車するこ
        とは可能だが、橋のある地が広範囲で徒歩での散策は不可能である。レンタサイクルも用
        意されているが、ポイントには駐車地もあるようなので車で訪れる。


        
         道の駅「いんない」近くにある荒瀬橋は、1913(大正2)年に架設された。長い橋脚と
        美しい2連のアーチを描くこの橋は、橋高(18.3m)が院内地域の中で最高の高さを誇る。
        石工松田新之助が県の工事を請け負ったが、負債が大きかったため、しばらくは有料とさ
        れた。これは大分県内の有料橋としては第1号である。(説明より)

        
         趣のあるトタン屋根。

        
         水雲(すのり)橋は国登録有形文化財だが、石橋付近から橋を見ることができない。(JA
        おおいた院内SS先の空地に駐車)

        
         水雲橋は、1927(昭和2)年に架設されたもので、橋脚の高さが17.2mで、院内で
        は2番目に高いとされる。(下流の大橋から)

        
         久地(きゅうち)橋へは国道筋の原口公民館に駐車して、国道500号線を進むと道標があ
        る。

        
        
         日岳川に架かる久地橋は、明治初期の架設とされ、両端に大きな桁石を2本並べ、その
        上に重厚な板石16枚を並べた珍しい橋である。

        
         富士見橋は、橋上から豊後富士(由布岳)が遠くに見えることからこの名が付けられた。

        
         細く長い橋脚を持つ荒瀬橋や鳥居橋とは異なり、太い橋脚から重厚感を醸し出している。
        1924(大正13)年工事半ばに崩落したそうで、翌年、石工の松田新之助が意地と信念に
        より、私財を投じて完成させている。

            
        
         旧県道に架かる鷹岩橋は、院内で最も長い27mの径間を持つ橋で、架設以来、日出生
        台演習台に続く道として活躍した。(国登録有形文化財・駐車地あり)

        
         国道筋の人家にある鏝絵。

        
         分寺(ふじ)橋は大正期に架設されたが、1945(昭和20)年に改修された3連のアーチ橋。
        戦争中に改修されたにも関わらず、均整に彫刻された石が丁寧に積み上げられている。

        
         両合(りょうあい)棚田の広がるのどかな風景にとけ込んだ両合川橋は、小平と滝貞の谷川
        が合流する地にある。1925(大正14)年10月に架設される。(国登録有形文化財)

                
         「道の駅いんない」まで戻って県道664号線(円座中津線)線に通じる道に入る。「い
        んない石橋マップ」はイラストマップのため、土地勘がないものにとっては宝探しをして
        いるような感覚になる。        

        
        
         高並川に架かる橋詰水路橋は、江戸末期頃に水路橋として架けられたといわれている。
        水路橋と道路を兼ねており、拱環石は少し加工されているものの、側壁は自然石を使用し
        ており、町内に
7基の水路橋があるそうだが、その1つである。(県道664号沿いに駐
        車地あり。国登録有形文化財)

        
         県道664号沿いにある永原橋。

        
         打上橋は、1863(文久3)年に架設された宇佐市に現存するものでは最古の石橋。この
        橋の下に昭和初期に架設された水路が架かっている。(展望所があり駐車可)

        
         国道387号の旧道に架かる櫛野橋は、1923(大正12)年日出生台演習場に向かう軍
        の車両が通行できる石橋に架け替えられたといわれる。(国登録有形文化財。近くの路肩に
        駐車)

        
         櫛野橋の東詰めに「櫛野城」に関する案内板と石碑がある。天文年中(1532-1554)に櫛野
        茂晴によって、平地に塀をめぐらした平城が築かれたが、1589(天正17)年豊臣時代と
        なり、豊前国主・黒田長政により城は破却されたとある。

        
         一対の狛犬が設置されているが、古代オリエントに起源を有する狛犬は、その原型はラ
        イオンであると云われ、長い歳月を経てインドから中国に伝わり、王権や皇帝を守護する
        霊獣として定着する。日本には平安末期、中国から朝鮮半島を経て伝わり狛犬になったと
        いわれる。

        
         香下(こうした)神社の由緒によると、奈良期の719年法連和尚が化生山で修行したとき、
        妙見山上に主祭神の輝く尊い姿を感じたので山上にお祀りして、この山を妙見山と名付け、
        それからは女人禁制とされた。その後、山の中腹に移し祀られたと記す。ここに神橋が3
        つあるとされるが、見つけ出すことができず。 

        
         鳥居橋入口に両川(ふたかわ)小学校の校門と蒸気機関車の車輪が置かれている。学校は現
        在の高速道路出入口付近にあったようだが、1987(昭和62)年高並小学校と統合して院
        内北部小学校となる。

        
        
         鳥居橋は、1916(大正5)年に架設されたが、優雅な橋脚から「石橋の貴婦人」と呼ば
        れ、院内を代表する石橋である。橋名はこの地区の小字の鳥居原から採られている。
         1951(昭和26)年10月、町内242戸の家屋を全壊流失させたルース台風をはじめ、
        幾度にわたる洪水に耐えた石橋である。(橋の東詰に駐車地)

        
        
         一の橋は山神社への参道で、北山川に架かる石橋。規模は小さいが側壁に自然石を使用
        している。(路肩に駐車可能)

        
         石橋と町の花だったシャクナゲがデザインされた旧院内町のマンホール蓋。

        
        
         御沓(みくつ)橋は橋の長さが59mもあり、町内最長を誇る3連アーチ橋は、1925
        (大正14)年に架設された。

        
         福厳寺羅漢橋は本堂右側に十王石像や羅漢像を祀る閣魔堂があり、その参道として架け
        られた橋。長さ3mと小さいものである。(これ以降は2010年撮影)


杵築の城下は坂の町 (杵築市)

2017年11月21日 | 大分県

          
        
この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分の1地形図を複製したものである。(承認番号 平29情複第968号)
         杵築(きつき)は国東半島の南端部に位置し、市街域の東部は別府湾に面し、南側を八坂川
        が
東流する。
         1889(明治22)年の町村制施行により、杵築村など4ヶ村が合併
して杵築町となる。
        1955(昭和30)年の合併で、杵築町など4町村
が合併して杵築市となる。(歩行約5㎞)

          
         1911(明治44)年3月に開業したJR杵築駅は、駅の誘致運動の結果、町の中心より
        離れた旧
八坂村(現在は杵築市)に設置、駅名は杵築で決着したとのこと。
         1922
(大正11)年7月に杵築駅と杵築町中心部との間に国東鉄道が開通するが、集中
        豪雨で被災したため、
1966(昭和41)年に廃止される。

          
         杵築駅から杵築バスターミナル行きのバスに乗車すると、約10分で市街地に降り立つ
        ことができる。城への散策道には、市内各地に残されていた国東塔
をはじめ、六郷満山の
        石造文化で溢れている。


          
         この町のシンボルである杵築城は、城下町を見下ろす城山公園の小高い丘に建つ。大友
        一族である木付頼直により、室町期の1394(応永元)年に木付城として
築城された。1
        871(明治4)年の廃藩とともに姿を消したが、1970(昭和
45)年に模擬天守閣が復元さ
        れた。


          
          
         直線的な石段と石畳が美しい勘定場の坂。勾配24度、石段53段、石段の蹴り上がり
        15cm、路面が1.2mの幅で、駕籠かきの脚、馬の足に合うように
計算されて造られた。

          
         武家屋敷から24段目の中央踏石に「二四(にし)の富士」と呼ばれる富士山が描かれ、
        一段下には逆さ富士も描かれている。


          
         勘定場の坂から杵築城。

          
         磯矢邸は寛政の大火(1800年)の後は、御用屋敷(藩主の休息所)である「楽寿亭」の
        一部に使われた。
1824(文政7)年に廃止されて、次席家老の加藤与五右衛門に屋敷が与
        えられたとされる。
         1994(平成6)年に所有者の磯矢氏が寄贈したことから、磯矢邸と名付けられた。


          
         薬医門をくぐると、玄関を隠すように蘇鉄が植えられている。

          
         玄関の間には珍しい床の間があり、ここで客をお迎えしたとのこと。

          
         それぞれの窓枠から庭が楽しめるように工夫された客間である。

          
         楽寿亭時代にお茶専用にと掘られた井戸。

          
         北台武家屋敷の通りは、色濃く江戸時代の面影を留めている。

          
         土塀に歴史が伝わる。

          
         1788(天明8)年頃に創立された藩校の門であるが、藩校は明治の廃藩置県による閉
        校まで約80年間、郷土の人材育成に貢献する。現在は杵築小学校の
校庭となっている。

          
          
         杵築小学校敷地内に「藩校・学習館」として、復元模型(1/30)が公開されている。

          

         家老は世襲でなく人物であったため、家老屋敷には出入りがあり、最後の家老が大原文
        蔵であったことから「大原邸」といわれる。

          
         駕籠を玄関に横づけするために玄関の間口は広く、式台も駕籠の高さに合わせるなど格
        式の高さを感じる。

          
         観音開きの長屋門。

          
         客が訪れたときに通す座敷は広々とした白壁の間である。そこから眺められる庭は、回
        遊式庭園で広い庭と池を持つ。

          
         世にも珍しいとガイドが説明する仏間にある弓天井。雨の日でも弓の稽古をするために
        2.2mの弓がつかえないように一部が高くされ、仏間にあるのはその姿を祖先にみてもら
        うためとのこと。

          
         江戸時代の風呂には湯船がなく、たらいや桶に溜めた水で体を拭いていたとのこと。そ
        の際、排水に麻の広い布を敷いていたが、それが現在の「もの」を包む風呂敷の語源にな
        ったとされる。 

          
         土間には食事を用意するためのかまどがあり、薪を焚いて出る煙が茅葺屋根の防虫の役
        目を果たし、今でもかまどが焚き続けられている。 

          
         広い敷地には渡り石が敷かれている。

           
          
         風情のある通り。

          
         酢屋の坂から道を挟む志保屋の坂は、北台武家屋敷、町家、南台武家屋敷をつなぎ、江
        戸時代も現在も重要な坂道である。
         古くから酒屋で繁盛した塩屋長右衛門は、北台の坂下で酢屋、南台の坂下で塩屋を営む。
        そのため志保屋(塩屋)の坂、酢屋の坂と呼ばれた。

         
         1890(明治33)年創業の綾部味噌。江戸期末期頃に建てられた豪商志保屋の建物。

          
         江戸時代の風情を残す帳場にある火鉢は、冬は炭で暖を取り、訪れた客をもてなす。

          
         志保屋の坂から酢屋の坂、右手の石垣は大原邸。

          
 
         志保屋の坂を上ると、中根邸などの屋敷が並んでいた家老丁。藩主が菩提寺に参詣する
        道でもあった。

          
         穏やかな余生を送るため、1862(文久2)年に家老職の中根源右衛門が建てた隠居所。

          
         一松(ひとつまつ)邸から眺める杵築城。

          
         一松邸は、昭和初期に国務大臣や建設大臣などを歴任した一松定吉の邸宅である。

          
          
         1927(昭和2)年9月から2年間かけて建てられたが、当時の贅と技術の粋を結集して
        造られた。市庁舎の移転に伴い、杵築城と海が見えるこの地に移築された。

          
         南台本丁武家屋敷通り。

          
         寺町に向かう本丁には松、竹、梅の小路が残されている。

          
          
         長昌(ちょうしょう)寺は、杵築藩初代藩主・松平英親が奥方の菩提寺として開創する。寺
        には松平家の家紋である雪笹が見られる。

          
         長昌寺庭園は枯山水式で、1645(正保2)年に築造されたとのこと。

          
         安住寺は木付氏の菩提寺であったが、木付氏滅亡後は極度に衰微し、松平氏入部後に再
        興される。

          
         寺を1ヶ所に集めた理由として、城下町の防衛と合戦の基地とし、兵を集合させる場所
        であったといわれている。

               
         1353(文和2)年作の梵鐘は、大分県内最古の在銘和鐘であるとのこと。

         
         養徳寺の参道は「第30作、男はつらいよ・花も嵐も寅次郎」の舞台となる。

          
         養徳寺は松平家の菩提寺で、堂々とした風格と威厳が伝わる。

          
         境内にある松平家6代藩主と7代藩主の墓。

          
         花崗岩で作られた高さ381㎝の五輪塔。藩主・小笠原忠知の奥方に関係するものとか。

          
         杵築カトリック教会も寺町にあり、武家屋敷の門がそのまま使われている。

         
         南台裏丁武家屋敷筋。

          
         南台で最も江戸時代の面影を残す一画である。

          
         裏丁は格式高い武家屋敷の構え、高い石垣の上に建つ長屋門、土塀、生垣がある。

          
         “くの字”の美しい曲線を持つ坂で、白っぽい石段は雨が降ると暗い夜道でもよく見え
        たことから「雨夜の坂」と呼ばれ、坂に下に飴屋があってことから飴屋の坂ともいわれた。

          
         飴屋の坂を下ると正面に岩鼻の坂があるが、岩鼻にあることからその名がついた。坂の
        下には城下唯一の、「岩鼻の井戸」があり、当時の人々の喉を潤す。

          
         歴史的景観を後世に残そうと、修復は武家屋敷だけでなく坂道や町家が並ぶ商人の町に
        も及ぶ。

          
         神田米穀店の鏝絵は、米屋なので布袋さんに米俵をもたせている。

          
         この坂周辺には家が一軒のみだったことから、「ひとつ家の坂」と呼ばれ
た。

          
         佐野家は小笠原氏の時代より侍医として召し抱えられ、以来400年医家を営んできた。
        数々の名医を輩出したが、水平社創立に大きな役割を果たし、の
ちの日本共産党中央委員
        長となった佐野学も佐野家出身である。


          
         城下で最も古いとされる木造建座敷から庭が眺められる。

          
         佐野家の優れた医家たちは同時に優れた文人たちでもあった。佐野家の家号「洞達亭」
        は三浦梅園が名付けた。


          
         代々医師で藩医を務め、1989(平成元)年までここで診療が行われていた。当時の外科
        用、眼科用など当時の機材がそのまま残されている。


          
         主屋は1782(天明2)年に建築したもの。

           
         別棟は病棟であったとされる。

          
         隙間なく積み重ねられた石垣に長い土塀が続く。

          
         江戸時代、番所は城下町に入る6ヶ所に設けられていた。当時は坂の下に番屋があり、
        関所と同じ役目を担い、時間となると大戸が開閉された。この北浜口番所
の坂の下はかっ
        て海が広がり、物資、文化などが入ってきた。

         坂の先にバスターミナルがあり、JR杵築駅に戻ることができる。          


別府は古くからの温泉街の町

2017年11月20日 | 大分県

          
        この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分1地形図を複製したものである。(承認番号 平29情複第968号)
         別府は大分県の東部に位置し、西に鶴見岳・扇山、東は別府湾に囲まれた扇状地と沖積
        平野か
らなる。別府山の手地区は別府温泉中心街(JR別府駅周辺)より西側の地区で、戦
        災に遭わなかった別府には、明治、大正、昭和から続く温泉や建築物等が残っている。古
        くから別荘地として開発され、「九州の軽井沢」とも呼ばれていた所である。(歩行約7㎞)

          
         1911(明治44)年に開業したJR別府駅。

          
         JR別府駅前のビル所有者が「駅前なんだからいい風景をつくりたい」と、ダメモトで
        岡本太郎氏に頼んだら実現したレリーフである。(岡本氏にとって別府は両親が治療のた
        め通った思い出のある場所であった)
         作品の大きさに合わせて、鉄骨でビルの高さを継ぎ足したとされる。

          
         田の湯温泉の創設は江戸時代と伝えられ、温泉の名のとおり、田んぼの中にあり、畦道
        を通って利用していたため「畦なしの湯」とも呼ばれていた。その後、田の湯温泉と呼ば
        れるようになったが、素朴さの残る市営の温泉である。(入浴
料100円)

          
         明治から大正にかけて松永万八の別荘として建てた洋風木造三階建ての建物は、民宿・
        田の湯館として使用されてきたが、2009(平成21)年の夏に取り壊しとなったとか。

          
         公会堂の駐車場一角に、1982(昭和57)年に移築された土蔵造り木造2階建ての古
        風な建物がある。
         井上馨が山口市湯田で俗論派(恭順派)の刺客に襲われ重傷を負う。その翌年の1865
        (慶応元)年に別府へ逃れ、身を隠した旅籠若彦(のちの若松屋)の離れである。47年後の1
        911(明治44)年に同所を訪れ、謝恩の意をこめて「千辛萬苦之場」という扁額を贈る。

          
         別府市公会堂(旧別府市中央公民館。市民会館)は、1928(昭和3)年に当時の著名な建
        築家の吉田鉄郎が、ノーベル賞の記念晩さん会が開かれるスウェーデンのストックホルム
        市庁舎にヒントを得て設計したという。彼が渡欧したのは、公会堂竣工の3年後のことで
        ある。

          
         白い壁にアールデコ調の曲線が美しい廊下。

               
           
          星月夜をデザインしたステンドグラスも健在。

         
       
  大正時代から昭和初期にかけての歌人・柳原白蓮は、京都の伯爵家に生まれた。16歳
        にして養女先の子息と結婚させられるが、すぐに離別する。27歳の時に筑豊の炭鉱王・
        伊藤伝右衛門と再婚し、別府の赤銅(あかがね)御殿と呼ばれた別荘での生活が始まる。その
        後の青年社会運動家・宮崎龍介との恋話は有名である。
         赤銅御殿跡の公園には、「和田津海の 沖に火燃ゆる 火の国に 我あり誰そや 思は
        れ人は」と、白蓮が情熱を込めて詠んだ詩碑がひっそりと立っている。

          
         赤胴御殿敷地面積は10,700㎡、建築面積936㎡であったという。1914(大正
          3)
年に伊藤伝右衛門が起工し、2年後に竣工する。戦中は海軍省、戦後は占領軍の宿舎に
        接収され、1954(昭和29)年にホテル赤胴御殿として開業するが、1979(昭和54)
        に解体される。(写真は別府市の復元調査による鳥瞰図)

          
          
         聴潮閣(ちょうちょうかく)は、1929(昭和4)年に当時の大分県における政財界の第一人
        者だった高橋欽哉が住居兼迎賓館として建てたものである。大正から昭和にかけて流行し
        た和洋を取り入れた近代和風建築である。残念ながら昨年末で閉館して内部を見ることは
        できない。

          
         野口原五輪塔群は、別府市野口原で土石流の中に埋もれていたものが発掘されて、現在
        地の公園に移転して復元される。年代は鎌倉~室町時代にかけてのものと推定され、この
        1基から火葬の人骨も発見されている。

          
         1922(大正11)年に北九州の炭鉱王と呼ばれた佐藤慶太郎の寄付を受け、野口雄三郎
        が野口病院を設立する。2013(平成25)年に青山町の地へ新築移転する。

          
          
         別府観光の父・油屋熊八は、亀の井旅館(現在の別府亀の井ホテル)・亀の井バスを設立し
        て、日本初の女性バスガイドによる案内付の定期観光バス運行を始める。
         今では公費による観光地の売り出しは当たり前であるが、別府温泉の宣伝は熊八の私財
        と借財でまかなわれた。熊八没後、バス会社、旅館は借金の返済のため売り払われた。今
        でも彼が残した功績は数多く、湯の町別府を支えている。

          
         京都大学地球地熱研究所の本館は、1923(大正12)年に建築された赤煉瓦造の施設で
        ある。玄関と塔屋を中心に左右対称に振り分けられ、煉瓦の赤と石貼りの白との対照や、
        イオニア式を模した柱頭飾りを持つ特徴的な外観で、気品ある建物となっている。

               
         グローバルタワーは高さ125mで、突き出した形の展望デッキから別府を一望するこ
        とができる。展望デッキはワイヤーを張っているだけで天井がない。
         このため、このタワーは建造物でなく構築物だとか。デッキから旧中山別荘が見えてい
        たが、2006(平成18)年に取り壊され、跡地は複合施設となっている。

          
         別府を代表する三大別荘といわれた赤胴御殿、中山別荘および麻生別荘があったが、2
        006(平成18)年に麻生別荘も解体され、三大別荘の姿を見ることはできない。

          
          
         グローバルタワーが天空に向かって大きく弧を描く部分は、別府公園中央部の標高0m
        地点を中心として、直径1kmの巨大な仮想球の一部をなす曲面を想定しているという。

          
         別府市社会福祉協議会の鏝絵は、どこから移設されたのか不明とのこと。

          
          
         旧野口病院は大正ロマンあふれる洋風建築で、四角錐の尖塔屋根の玄関部分を中心軸に、
        左右対称の均整のとれた外観である。

          
         駅前高等温泉は、1924(大正13)年に建てられた英国の民家風建物である。白壁に緑
        色のトンガリ屋根で、大正浪漫をまとった温泉である。

          
         別府ブルーバード劇場は、1949(昭和24)年に中村弁助さんが開館する。現在は岡村
        照さんが、1971(昭和46)年に父から引き継いで続けられている。

          
         もう1つの映画館は趣が違うようだ。

          
         ホットストリートやよいのアーケード街を歩く。

          
         溝口青果の四差路を左折して竹瓦温泉通りに入る。

          
         1879(明治12)年創設の竹瓦温泉は、当初に建築されたものは屋根が竹葺きの浴場
        で、その後、改築されて瓦葺きになったため、竹瓦温泉の名称がついたと伝える。
         現在の建物は、1938(昭和13)年に建築されたもので、正面に唐破風造の豪華な屋根
        をもつ温泉となっており、別府温泉のシンボル的な存在になっている。

          
          
         入り母屋造の裳階付きや寄棟造といった変化を見せ、瓦屋根の美しさを持つ社寺風建築
        である。

          
         竹瓦温泉を訪れる人が雨に濡れないようにと、1921(大正10)年に完成した現存する
        日本最古の木造アーケードである。日が暮れると竹細工の照明が灯り、幻想的な雰囲気に
        なる。2009(平成21)年に別府温泉関連遺産として、近代化産業遺産に認定された。

          
         中浜地蔵尊は約1500年前に、百済帰りの僧・日羅法師が作った歴史ある地蔵尊で、        
        水害を鎮める神様として大切にされている。

        
          
         別府市児童館(旧別府電報電話局電話分室)は、1928(昭和3)年に建築されたもので、
        鉄筋コンクリート造煉瓦タイル貼でコの字型の建物である。全体に装飾的要素を極力抑え
        たシンプルな構成になっている。

               
         別府カトリック教会は、1950(昭和25)年にフランス・ルルドーの教会を模して、
        世界中の人々の寄付で造られた。左右対称型で窓や出入口の上に尖頭アーチを用い、鐘
        塔の4つの鐘が、1日3回ドレミソの音階で市民に時を告げている。      
 


日出は別府湾を見下ろす小さな城下町 (日出町)

2017年11月19日 | 大分県

          
        この地図は国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分の1地形図を複製したものである。(承認番号 平29情複第968号)
         日出(ひじ)は大分県の中部、国東半島の南端部に位置するが難読な地名である。1889
        (明治22)年の町村制施行により、日出(ひじ)村は町制に移行する。その後、1954(昭和
          29)
年に豊岡町、藤原村など4町村と合併し、新たな日出町となり今日に至っている。(歩
        行約5㎞)

          
         1987(昭和62)年4月に国鉄分割民営化されたが、暘谷駅は国鉄時代の同年3月に開
        業する。2016(平成28)年には約100m東側へ移動して新駅舎が完成する。

          
         左手は大手門通りであるが直進する。

          
         致道館(ちどうかん)は、1858(安政5)年に15代藩主・木下俊程の命により、二の丸に
        創立された藩校である。明治の廃藩により閉校し、1951年(昭和26)年に日出中学校の
        開設に伴ない現在地へ移転した。

          
         建っているのは講堂(主屋)部分で、8歳以上の子弟が読書、習礼などを学んだ。致道館
        前が旧木下家居所だったようで白壁通りとなっている。

          
         海の石を利用した塀も現存する。

          
         穏やかな別府湾を臨みながら遊歩道へ下る。

          
         城下(しろした)海岸から豊岡島山まで約2.5㎞の遊歩道。

          
  
         城側西南部の地盤は軟弱で難工事であったことや、方位上から城の裏鬼門にあたること
        などから人柱を立てたのではないかと考えられている。棺が出土した地点の石上に人柱祠
        が祀られている。 

          
         暘谷稲荷前から城址への道。

          
         天守閣跡より別府湾。

          
         暘谷城の時鐘は、1695(元禄8)年に3代藩主・木下俊長が鋳造させた釣鐘である。1
        874(明治7)年に外大手門(現在の日出町役場前)より裏門櫓の跡地に移された。

          
         裏門櫓から石垣に沿って遊歩道が設けられている。

          
         日出城は、1601(慶長6)年初代藩主の木下延俊が姫路から移封入国後、築城に取りか
        かり翌年に完成する。三層の天守閣は別府湾に臨む一角に築かれ、大規模ではなかったが
        調和のとれた美しい城だったといわれている。

          
         城の石垣は近江国穴太(あのう)の石工集団によって築かれたとされている。3代藩主・木
        下俊長が中国古書より引用した暘谷城という別名もある。

          
         日出漁港前の集落。

          
         蓮華寺(高野山真言宗)は、浮津密乗院(うきつみつじょういん)と名乗り、大神氏の菩提寺だ
        ったといわれている。1603(慶長8)年に藩主・木下延俊が、日出城鬼門鎮護のため現在
        地に移し、日出藩の祈祷所として蓮華寺に改名した。

          
         若宮八幡神社の神殿正面に建つ二層の楼門は、1703(元禄16)年に藩主・木下俊長が
        寄進したものである。

          
         左手の社殿は金比羅宮。

          
          
         鏝絵は厄除けや家内安全、子孫繁栄の意味を込めて「えびす」「大黒」「鶴」など縁起
        のよいものが多い。上の「恵比寿と鯛」は傷みがあり、下は修復されたようで波をウサギ
        が飛んで行く様が描かれている。

          
         的山荘(てきざんそう)は、1915(大正4)年に馬上金山を経営していた成清博愛(ひろえ)
         
が、別荘として建てた数奇屋風の建物と庭園である。

          
         総工費は25万円(現在の価値でおよそ7~8億円)と記録されている。

          
         別府湾を一望する広大な敷地に、近代和風建築の粋を凝らした豪華な家屋と、別府湾や
        高崎山を借景とした見事な庭園が広がる。(国重要文化財)

           
         鞍馬から取り寄せたという靴脱ぎ石は、表面が暗赤褐色に錆びている。茶道の侘び寂び
        の世界に欠かせないとされている。

          
         旧二の丸の街並み。左手が料亭「的山荘」

          
         現在の日出幼稚園は瀧家住居跡(二十番屋敷)で、瀧廉太郎の父・吉弘の生家である。

          
         二の丸日出中学校校庭にある大サザンカは、樹齢400年以上で町花・花木とのこと。

          
         城があった当時のままの道だそうだ。

          
         日出小学校前に深い堀が残されている。

          
         二の丸館(にのまるやかた)日出城址周辺の観光拠点として、2010(平成22)年に完成
        する。

          
         大手門通り。

          
         本丸の北東側に位置していた鬼門櫓は、櫓の北東隅を欠いた特異な構造である。これは
        鬼門の隅を無くしてしまうことで、鬼門の方角から禍が侵入するのを封じ込めるために施
        されたものと考えられる。日出城に建っていた頃は下の石垣まで隅を欠いていたといわれ
        ている。

          
         瀧家は日出藩の家老職を代々務めた上級武士であった。瀧廉太郎(1879-1903)は肺結核の
                ため、1903(明治36)年6月29日に大分市の自宅で死去する。当初、大分市の万寿寺
                に葬られたが、2011(平成23)年に先祖が眠る龍泉寺に移された。

          
         帆足萬里は三浦梅園、廣瀬淡窓とともに、「豊後三賢」の一人に列せられる日出町出身
        の高名な学者である。学問だけでなく、時に日出藩家老として藩政の改革に尽力した偉人
        でもあった。萬里の墓は松屋寺裏手の丘の上にある。

          
         丘から見る日出の街並み。

          
          
         松屋(しょうおく)寺は前身を西明寺といい、日出藩初代藩主・木下延俊が1607(慶長1
          2)
年に、祖母の朝日の方(豊臣秀吉の正室・高台院の母)と、妻の加賀の法名から「康徳山
        松屋寺」と改称する。

          
          
         樹齢約700年といわれる大蘇鉄。高さ6.1m、株元の周囲6.4mもの大きさを誇って
        いる。

          
         藩祖・木下延俊は豊臣秀吉の正室・高台院(北政所、ねね)の兄である木下家定の子であ
        る(秀吉からみると義理の甥にあたる)もともとは杉原家を名乗っていたが、高台院の実
        家にあたることから、血縁の少なかった秀吉に重用され、豊臣姓である木下氏を名乗るよ
        うになった。関ヶ原の戦い(1600年)のとき、東軍で活躍した功績により、徳川家康に
        より豊後国・日出3万石に封じられて日出藩を開く。

          
         父の木下家定も備中国(岡山県)足守藩2万5千石を封じられる。江戸時代に260の大
        名家があったが、豊臣家につながりを持った大名は足守藩木下家と日出藩木下家の2家の
        みである。  

         松屋寺から暘谷駅に戻る。