ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

柳井の伝統的建造物群保存地区と「いぬいとみこ」

2023年10月26日 | 山口県柳井市

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製加工したものである。
         柳井津の古市・金屋(かなや)町は南東に流れる柳井川河口近くの左岸に位置する。古市は
        早くから市が立ち、金屋町は鋳物師が多く、町通りは約200m、東西にやや湾曲した両
        側に妻入り・切妻造り、壁軒裏を塗り込めた商家が立ち並ぶ。(歩行約2.8㎞)

        
         1897(明治30)年に開業したJR柳井駅は、当初、柳井津駅と呼ばれていたが、19
        29(昭和4)年に柳井駅と改称する。
  

        
         JR柳井駅前から伝統的建造物群保存地区に向かってまっすぐに延びる170mほどの
        通りは、通称「麗都路通り」とされている。


        
         柳井川に架かる本橋から見る柳井川左岸には、掛け出し家屋が見られたが河川改修が行
        われたようだ。


        
         1905(明治38)年柳井津町、柳井村、古開作村が合併して柳井町になったことを記念
        して本橋が建設された。はじめは幅2間(約3.6m)ほどの木橋であったが、大正期と昭和
        期に鉄筋橋と拡幅工事が行われた。
         現在の橋は、2003(平成15)年に架けられた4代目で、歩道と車道との間には以前の
        橋の欄干が使われている。


        
        
         1897(明治30)年日本商業銀行柳井支店として開業した。その後、安田銀行柳井支店、
        1948(昭和23)年富士銀行となったが、1969(昭和44)年に閉店して建物は解体され
        た。上は銀行があった場所で、銀行の姿図は麗都路通りの陶板に見ることができる。


        
         久保町は誓光寺前を柳井湾の入江がくさび状にあったため、くぼんだ町並みであったこ
        とによる地名である。現在でも往還道の西側は土地が低くなっているという。

        
         1912(大正元)年に住友銀行柳井支店が開業するが、1969(昭和44)年閉店して建物
        は解体されたが、レンガ造りの壁がわずかに現存する。

        
         1898(明治31)年築の福田家住宅は、2軒分の宅地上に1軒を建築したため、家の中
        央に水路がある。

        
        
         誓光寺(浄土真宗)は、応仁の頃(1467-1469)に開基したとされ、江戸期には柳井坊主職の
        地位にあり、大島郡、熊毛・玖珂郡に33余の末寺・庵を抱えていたとされる。

        
        
         湘江庵(しょうこうあん)は曹洞宗のお寺で、1666(寛文6)年開山と伝える。現在の本堂
        は、1728(享保13)年の火災後に再建された。

        
         大畠瀬戸で遭難した般若姫一行がこの地に立ち寄り、井戸の清水で乾いた喉を潤した。
        お礼に井戸の傍らにさした楊枝が、一夜にして芽をふき、やがて柳の巨木になったという
        伝説がある。
         「柳」と「井戸」から柳井の地名が生まれたという。現在の柳は2005(平成17)年に
        植えられた5代目とされる。

        
           「春が来たやら湘江庵の井戸の柳の芽が伸びる」 (野口雨情の詩碑)
           「丸雪(あられ)ふる 今朝の嵐の吹落て 柳井の底に くだく玉水」の歌碑。
         下段の歌碑は、1689(元禄2)年井原西鶴が全国名勝旧跡を詠んだ歌を集めて出版した
        「一目玉鉾」の中に記載されている。その他、国森家の前身、守田家の4代目旁道(国学者)
        が寄進した「柳井山の碑」もある。

        
         街道に戻ると金屋町に「きじや」がある。かって柳井の代表的な木綿問屋「木地屋」(貞
        末家)がこの地にあり、幅1mほどの狭い路地が木地屋小路として残されている。

        
         建築時期は大正期と推定される柳井日日新聞社の社屋。当初は3戸続きであったようだ
        が、左端の1戸は解体され、現在は2戸分を1棟として使用されている。

        
         1688(元禄元)年創業の小田家は油商(商号はむろや)を営み、東は大坂、西は九州まで
        を商圏とし、最盛期には50隻もの船を抱えていた。奥行き115mの細長い敷地に、1
        701(元禄14)年築の建物が11棟並ぶ。

        
         1871(明治4)年郵便事業創設当時に使用されていた型と同じものを、1989(平成元)
        年に白壁の町並みの景観にあわせて、当時の金屋町郵便局前に設置された。(この通りが小
        瀬上関往還道)

        
         1907(明治40)年周防銀行本店として建てられたもので、木造モルタル2階建ての西
        洋古典主義的な外観を見せる。1914(大正3)年に県下各地で起こった取付けの余波を受
        けて倒産し、その後は百十銀行、山口銀行柳井支店として使用された。
         現在は町並み資料館、2階は「マロニエの木陰」などで知られる柳井市日積出身の歌手
        ・松島詩子記念館となっている。

        
         1984(昭和59)年伝統的建造物保存地区に選定された古市金屋地区。室町時代の町割
        りがそのまま残され、江戸期から明治中期頃までの建てられた白漆喰で塗り込めた土蔵造
        りの町家が200mほど連なる。

        
         木阪賞文堂さんの看板は目立つが、店内には創業当時の看板が保存されているとのこと。

        

        
        
         柳井の金魚ちょうちんは、江戸期から明治にかけてロウソク屋を営んでいた熊谷林三郎
        (さかい屋)が、青森の金魚ねぶたにヒントを得て、柳井縞の染料を使って創始したと伝わ
        る。

        
         国森家はその前身を守田家「室家」といい、現在の古市筋南側にあった鍛冶屋町で手船
        商を営んでいたが、二代目のとき「布木綿」など反物商を営んで財をなした。
         1768(明和5)年鍛冶屋町から柳井津古市の商家を買いとって移ったのが現在の国森家
        である。18世紀後半(江戸後期)の建物とされ、間口8.5m奥行き16.4mの2階建て
        妻入り入母屋造りは国指定重要文化財である。(館内見学は事前に観光協会に予約された方
        のみとあり)

        
         佐川醤油蔵前を流れる溝は、1689(元禄2)年に落合と新市を結ぶ灌漑用水路として築
        造された。

        
         佐川醤油蔵は、1904(明治37)年遠崎の秋元酒場から甘露醤油の製造拡大のため、建
        物と桶を移してきたものとされる。(内部は見学自由) 

        
         天明年間(1781-1789)頃当地の醸造家高田伝兵衛が、苦心の末、独特の醸造法に成功する。
        岩国領主吉川経倫(つねとも)が「甘露、甘露」と歓声をあげたという柳井名産・甘露醤油の
        老舗醤油元の1つである。

        
         杉の6尺桶を使った醤油製造の一端に触れることができる。

        
         やない西蔵は大正時代末期に建築され、1980(昭和55)年頃まで醤油蔵として使われ
        ていた。老朽化のため解体の危機にあったが、所有者からの寄贈により改修工事後、20
        01(平成13)年に体験工房及びギャラリーに生まれ変わった。

        
         佐川醤油蔵裏にある大神宮社(伊勢堂)には民地を通らないと行けない。もとは湘江庵の
        東側にあったが江戸後期に焼けたため、柳井小学校へ続く坂道の位置に遷座し、明治の終
        わり頃に再遷座して現在に至る。
         1859(安政6)年築の桧皮葺の社殿が残っているが、忘れられた存在になっている。

        
         佐川醤油蔵とやない西蔵。

        
         白壁の町並みがデザインされたマンホール蓋。

        
        
         佐川醤油店は、1766(明和3)年佐賀屋重五郎が創業。屋号は「佐賀重」で、1856
        (安政3)年この家を建てて甘露醤油の製造を始める。ブルーのラインのある建物は、佐川家
        の離れ屋敷で明治初年頃に洋風に改造されたという。犬矢来もあって風情のある場所でも
        ある。

        
         掛屋小路は、街筋に掛屋という金融業を営んだ商家の屋号をとって名付けられた。柳井
        川に架かる緑橋の雁木で荷揚げした商品を運んだ道とのこと。

        
         甘露醤油製造は2軒のみで、その1軒の重枝醤油醸造場は親戚筋にあたる甘露醤油の高
        田伝兵衛からの直伝製法を受け継ぐという。

        
         柳井の金魚ちょうちんの制作は、熊谷林三郎から親子三代へと引き継がれたが、孫は小
        間物屋を営んだため、長和定二が二代目から作り方を学び世界大戦頃まで作ったが途絶え
        てしまう。1962(昭和37)年に周防大島の上領氏が復活させる。 

        
         佐川家住宅から西が古市町で、金屋町に比べて平入りの建物が多い。

        
         白壁通りの西端に位置する皿田家の初代千蔵は、1812(文化9)年木綿商を営み、18
        37(天保8)年酒造業(銘柄は旭寿)を始める。
         1908(明治41)年築の建物は、松本清張の小説「果実のない森」に登場する。右側の
        不浄門は、当主が亡くなったときに遺体を運び出す以外に開かれることがないとのこと。 

        
         栄輪商会の建物は洋風で、大正末期~昭和初期に建てられたとされる。金魚ちょうちん
        を考案した熊谷林三郎がロウソク屋を営んだ地である。
         手前の辻家は大正年間の建築で、伝統的建造物群保存地区内では最も大きな屋根を持つ
        とされる。

        
         しらかべ学遊館は本郷家の建物を改修して、2004(平成16)年に開館する。 

        
         伝統的建造物群保存地区の西端で、ここで小瀬上関往還道は宝来橋へ向かう。

        
         児童文学作家のいぬいとみこ(乾富子・1924-2002)は、父が富士紡績柳井化学工業の工場
        長に就任したため、1944(昭和19)年から1947年まで在住し、この地にあった柳井
        高等女学校併設の戦時保育園「ほまれ園」の保母をする。
         戦後、教会付属の保育園に勤務し、児童文学雑誌に投稿を始め、1954(昭和29)年「
        ツグミ」で児童文学者協会新人賞を受賞する。1987(昭和62)年「光の消えた日(1978年
        作)」などの業績により山本有三記念路傍の石文学賞を受賞する。

        
         江戸中期には4度も大火に見舞われ、土蔵造りにして防火に備えるが信仰にも頼った。
        この地蔵尊は宝暦年中(1751-1764)に古市・金屋の人たちが建てたとされる。

        
         古開作が干拓されて最初に架けられた橋で古市橋と呼ばれていた。1882(明治15)
        「商品は宝物で、その荷が来ることにより町が富む」ということで宝来橋になる。

        
         柳井川に沿うこの一帯は船着き場で、石階段を使って荷揚げされていた。この石段を「
        雁木」と呼び、段々の石段が雁の群れが空を飛ぶ様に似ていることから名付けられる。

        
         小瀬上関往還道は宝来橋と緑橋の間から南下して伊保庄へ向かう。この付近には「昭和
        三年(1928)」と刻まれた緑橋の親柱、1938(昭和13)年建立の新堤新築記念碑や、17
        41(元文6)年建立の火伏地蔵が鎮座する。


柳井市の柳井港駅から小瀬上関往還道と国木田独歩

2023年10月25日 | 山口県柳井市

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製加工したものである。
         琴石山の南西麓から柳井川間の沖積低地に位置し、南は柳井湾に面する。域内をJR山
        陽本線と国道188号線が通るが、その北に江戸期の小瀬上関往還道筋が残る。(歩行約
        5.3㎞) 

        
         JR柳井駅から大原行きのバスがあったが廃止されてしまったため、JR柳井港駅から
        の歩きとなる。

        
         岸の下踏切はかまぼこ型である。

        
         龍華川に架かる宮本橋から宮本開作に入るが、この橋から代田八幡宮にかけての往還道
        は海沿いの道だったという。1691(元禄4)年に干拓された宮本開作の南側は、1839
        (天保10)年に宮本塩浜として干拓された。

        
        
         「置土産」は明治の文豪国木田独歩(1871-1908)の作品名で、道路を挟んで藤坂屋の向い
        側に碑が建立されている。父・専八が裁判所書記として
山口県各地に勤務するが、独歩は
        父の転勤にともない岩国、船木、山口、萩、柳井に移り住んでいる。一家は柳井市姫田に
        居住していたが、1894(明治27)年藤坂屋本店の東側の建物に転居する。独歩は大分県
        佐伯から引き揚げて上京するまでの1ヶ月ばかりを家族と暮らす。
         若い女性たちとの交遊を基調に、ロマンチックに描き上げられた「置土産」は、まさに
        独歩の青春の置土産、こころのふるさと柳井への置土産でもある。

        
         「元祖三角(みかど)餅・藤坂屋本店」の看板が掲げてある。三角餅の由来について、明治
        の頃に天皇の子孫と名乗る者へ茶菓子を出したところ、あまりにも美味しくお菓子の王様
        だと感動されて「帝餅(みかどもち)」という名を賜わるが、畏れ多いと「三角餅」としたと
        いわれている。この餅は国木田独歩の「置土産」にも登場する。 

        
         代田(しろた)八幡宮の石鳥居下には3末社が祀られている。右に鷺社と呼ばれていたが、
        1908(明治41)年の神社合併令により、6ヶ所にあった大歳神社(穀物の神)を合併して
        大歳神社にしたという。その隣には平景清を祀る眼病の神である生目神社。左には神社合
        併された恵比須神社が祀られている。

        
         1639(寛永16)年に建立された一の鳥居は、在銘年号が明らかなものとしては県内で
        は4番目に古いものとされる。

        
         代田八幡宮の社伝によると、宇佐神宮より柳井市黒杭に勧請されたが、平安期の833
        (天長10)年現在地に遷座して「吾田(あだた)八満宮」と称したという。
         或る年の5月田植えの際、田の中に弊帛(神へのお供え物)が下り、霊験あらたかであっ
        たことから代田に改称したという。

        
         宮本西地区にある民家。

        
         宮本西公会堂の裏に、五穀(米・麦・粟・豆・きび)成就火伏地蔵が祀られているが、建
        立年は不詳とのこと。

        
        
         列車の車窓からも見える煉瓦造の建物は、山口県柳井電気出張所跡とされる。明治末期
        から大正にかけて県下各地に電力会社が発足するが、山口県営電気事業の発足に伴い、1
        924(大正13)年山口県電気局に統合される。
         柳井地域には周防電燈㈱と大島電気㈱が設立されたが、1918(大正7)年に合併して中
        外電気㈱となる。柳井においては火力発電所が設置されて柳井の町に電灯が灯った。煉瓦
        造の建物は変電所として使用されたものと思われる。

        
         片野川に架かる千歳橋は、1693(元禄6)年江戸期の豪商貞末宗故が中開作の干拓後、
        交通の便を図るために橋を寄進したという。
         西詰の袂には火伏地蔵堂があるが建立年は不明とのこと。傍には「明治2年(1869)5月
        吉日」と刻字された常夜灯がある。

        
         千歳橋を渡ると新市に入るが、1686(貞亨3)年海だった所が中開作として干拓され、
        1694(元禄7)年に直線的な新市通りが造られた。
         山陽鉄道が開通する際、この地に駅ができる予定であったが、煙が迷惑するとの理由で
        反対されて実現に至らなかったというエピソードがある。

        
         過密状態にあった今市・新町の居住者を新市通りに移したとされる。

        
         新市の延命地蔵。

        
         新市通りの四差路付近は、中開作の水がここに集まっていたため大水道と呼ばれている。
        1919(大正8)年溝の上に蓋をして道路となったため、その姿を見ることはできない。

        
         さらに直線道が続く。

        
         天神の延命地蔵は左手に宝珠、右手に杖を持つ木造立像である。

        
        
         菅原神社(柳井天満宮)は、1689(元禄2)年柳井の豪商・貞末宗故が、岩国領主の命で
        大坂の大坂天満宮に参拝する。その時に履いていた木履(ぼくり)の歯に挟まった天神の像を
        持ち帰って祀ったのが始まりとされる。
         境内には他に退筆(たいひつ)塚、大蘇鉄群、住吉神社と、東側には1728(享保13)年建
        立の石鳥居がある。

        
         境内に3つの句・詩碑がある。
         右が桃水の句碑で
            「杖突て 老木の芽張柳(めばりやなぎ)かな」
         中が松尾芭蕉句碑
            「八九間(はっくけん) 空で雨降る 柳かな」
         左は野口雨情の詩碑
            「おいで柳井の天神様 七日七夜は人の波」

        
         天神並木通りを北に進んだ所に長岡外史生誕地碑がある。外史は1856(安政3)年この
        地にあった野村家で生まれた。父は上関の四階楼を建てた小方謙九郎、母は堀三衛門の妹
        トキ(時)で、トキは身ごもったまま野村家へ嫁ぐ。誕生後いったん母の生家である下松市
        末武に帰されるが、後に森田家の養子、再び野村家、11歳で萩の長岡家の養子となる。
        我が国のスキー普及と航空界発展に尽力する。

        
         新市通り西端の三差路に一里塚があったとされ、「小瀬より10里、上関5里、竪ヶ浜
        1里半」だったという。

        
        
         土手町にある瑞相寺(浄土宗)は、鎌倉期の1199(正治元)年性真上人が療養のために結
        んだ小庵「洲崎の寮」が起源と伝えられる。
         寺前には火伏地蔵尊及び「宝暦九巳卯九月日」(1759)と刻まれた石灯籠がある。

        
         寺前の右奥に松尾芭蕉の流派に属する柳井正風美濃派の宗匠・漸々軒東明(ぜんぜんけんと
          うめい)
の句碑がある。
              「雑炊も叡慮(えいりょ)にかなふ薺(なずな)かな」
         室町期の1500(明応9)年将軍だった足利義植が、大内義興の支援を得るため山口へ下
        向の途上、ここ楊井津へ止宿した故事を偲んで詠んだ句。左の丸い句碑は松尾芭蕉の「古
        池や蛙‥」の句。

        
              亀岡町はもと「浜町」と呼ばれ、海岸線の小路だったという。宮本の亀岡から姫田川に
        架ける橋の石を取り寄せたことから「亀岡町」となる。1965(昭和40)年代はアーケー
        ド街として賑わったが、平成に入って道路が拡張されて現在の姿となる。

        
          消防車庫の傍にいぬいとみこ(1924-2002)の石碑がある。父が富士紡績柳井化学工業の
         工場長に就任したため、1944(昭和19)年から1947年まで在住し、柳井高等女学
         校に併設された戦時保育園「ほまれ保育園」の保母となる。

        
        
         1887(明治20)年山口中学を退学した国木田独歩は、上京して翌年に東京専門学校(現
        早稲田大学)に入学する。1891(明治24)年洗礼を受けた同年に校風が合わず退学し、家
        族が住んでいた麻郷村(田布施町)に身を寄せて過ごす。
         同年麻里府村(田布施町)に仮住まいをし、石崎家の家庭教師として出入りするうち、石
        崎トミと恋仲になるが、クリスチャンであったことから両親に反対され、失意のうちに弟
        と共に上京する。
         1892(明治25)年から2年間住んでいた住宅で、その後、大分県佐伯市の学校に英語
        と数学の教師として赴任する。

        
         国木田独歩旧宅から下ってくると、「安政二(1855)卯六月吉日」と刻まれた石柱がある。

        
         光台寺への道から見る柳井の町並み。 

        
         いぬいとみこは、戦後、教会付属の保育園に勤務し、児童文学雑誌に投稿を始め、19
        54(昭和29)年「ツグミ」で児童文学者協会新人賞を受賞する。1987(昭和62)年「光
        の消えた日(1978年作)」などの業績により山本有三記念路傍の石文学賞を受賞する。
         この作品は柳井で保母をしていた時代に、戦時下での子どもとの触れ合いや、戦後「生
        き残ってしまった」人々の苦悩を描いた作品で、光台寺の情景も描かれている。

        
         光台寺(黄檗宗)の桜門は、中国明朝様式を模す独自なもので、その下で手を叩くと「ワ
        ンワン」と響くことから、通称「ワンワン寺」と呼ばれている。

        
         光台寺から下って来ると火伏地蔵立像。

        
         姫田川に沿って下ってくると右手に三宝大荒神がある。仏・法・僧の三宝を守護し、不
        浄や災難を除去してくれる佛神とされることから、火と竈の神として信仰されてきた。

        
         姫田川は豊後国満野長者の娘・般若姫が手を洗ったことから姫手川となり、いつの頃か
        らか姫田川になったとか。普慶寺の南側一帯に岩国領の代官所があった。

        
         1724(享保9)年の建立の楼門と、その左右に安置されている仁王尊像は、1798(寛
          政10)
年に安置されたとある。 

        
         普慶寺(真言宗御室派)は、平安期の831(天長8)年弘法大師が真言開宗のため訪れて、
        観音平(現稲荷山)に開山したといわれる。1550(天文19)年現在地に移転したとされる
        が、旧柳井町内では最古の寺である。
         御本尊の千手観音菩薩立像は、鎌倉期の1278(弘安元)年に大内弘貞が安置したとされ、
        33年毎に御開帳される秘仏とのこと。

        
         淡島大明神は普慶寺の鎮守として、1771(明和8)年に勧請されたといわれている。腰
        から下の疾患に霊験あらたかとか。

        
         雨月庵破笠(うげつあんはりゅう)は姫田川右岸にある荒神堂(普門院)の住職であり、柳井正
        風美濃派第2世宗匠であった。1790(寛政2)年門弟によって墓が建立された。

        
         1745(延亨2)年に建立された亀岡通りにある火伏地蔵尊。 

        
         火伏地蔵尊前を左折すると柳井川手前にお堂があり、内部には地蔵尊と位牌の形をした
        中に「戦歿将士之英霊」と書かれている。

        
         柳井川左岸を下ると洲崎の道しるべがある。「右 田布施玖珂高森道、左 平生伊保庄
        上ノ関道」とあり、側面に「明治三十一戊戌(1898)年五月」と建立年代がみえる。 

        
         三角橋を渡り右岸を歩いて駅に戻る。


柳井市平郡島の西集落は石垣と懐かしい町並み

2023年07月25日 | 山口県柳井市

           
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製加工したものである。
         平郡島(へいぐんとう)は柳井市に属し、熊毛半島の南東約4㎞先の瀬戸内海に浮かぶ島で
        ある。島の多くは「1島1集落」という集落形態であるが、周囲28㎞余の島は東西に長
        く2つの集落を形成しており、東部に東浦集落、西部に西浦集落がある。西浦集落を歩い
        てみることにするが、蛇の池までは往復約6.5㎞のアップダウン道である。(西浦集落内
        は3.5㎞、🚻渡船場待合所)

        
         JR柳井港駅前から海側へ向かうと、国道の信号待ちが長く概ね5分を要する。切符売
        り場で乗船券(@1,570-)を購入してフェリー「へぐり」に乗船する。

        
         約1時間の船旅を楽しむと西港へ到着する。

        
         工事関係者や保健業務に携わる人々が下船した後、フェリーは東浦へ向けて出港する。

        
         頑強な石垣は新しい護岸ができるまで家を守ってくれた遺構である。一定の間隔にベン
        チがあって海を眺められるようになっている。

        
         海へ通じる路地が数軒毎に設けてある。

        
         集落の西端から県道155号線を上がって行くと平郡西港が見えてくる。(この付近は長
        い上り坂)

        
         海抜51.2mの峠に上がり、次の三差路は左の道を進む。赤石神社までは2㎞、蛇の池
        までは2.5㎞と案内されている。

        
         下り道に入ると屋代島が横たわる。

        
         この先、分岐には案内があるので迷うことはないが、アップダウンな道は海岸線に出る
        まで海を見ることができない。
 
        
         海岸線に出ると前方に赤石神社。

        
         赤石神社後方にある赤くて大きな石が御神体で、腰から下の病なら岩に患部をこすり付
        けると回復するとの伝承がある。

        
         島の人からは赤石様と親しまれており、大国主命、事代主命、少名彦命が祀られている
        という。(フェリーからも赤い社が見える)

        
         蛇の池は島の西端にあって、海とは幅10m程の堤防で仕切られている。海の傍にある
        にもかかわらず淡水という不思議な池である。島の方に神社の詳細をお聞きしても、蛇の
        池の神社ということのみだった。(港から約1時間) 

        
         「平郡三景」の1つとされる蛇の池には蛇の池伝説があるという。それによると、昔、
        漁師が美しい女性から「私を平郡に渡してください。お礼に一度だけ船一杯の魚を獲らせ
        てあげましょう」と頼み込まれた。女性を平郡に渡したのち、網を入れると大漁となった。
         しかし、女性の言葉を反故にして2度目の網を入れると、魚はたちまち大蛇になったと
        いう伝説から、女性が姿を消したこの池を「蛇の池」と呼び、池の水は神水として崇めら
        れ、池に金物を入れると祟りがあるといわれている。

        
         上関町の長島、祝島を眺めて集落に戻るが、海岸線はゴミの山で木材は仕方ないにして
        もペットボトルなどプラ類が散乱し、すでに劣化し粒子状になったものも見受けられる。
        いつの日か大波で海に流れ出てしまうだろうが嘆かわしい問題である。

        
         集落まで戻ってNTT鉄塔が見える道に入る。

        
         見かけない屋根構造のため近所の方にお聞きすると、葉タバコ乾燥小屋だという。この
        ような建物が多くあったが、廃業後は元の平家に戻されたので、今では2~3軒残すのみ
        となったと話してくれる。
         1931(昭和6)年頃葉タバコの耕作が強く打ち出され、瀬戸内海沿岸を中心に漸次拡大
        していった。太平洋戦争の頃から食料増産のため減反されたが、戦後には再び葉タバコの
        栽培が推進されたが、その後は減少傾向に転じ、1982(昭和57)年には平郡地区で4戸
        のみとなる。(いつ頃に廃業されたかは不明)
         建物の構造は土地に制限があったためか、一般的な木造平家の中に4坪建ての乾燥室を
        設置し、排気用の天窓が設けてある。

        
         集落排水は存在しなかったが、金魚が口から放水している消火栓蓋を見かける。

        
         NTTの平郡電話交換所と無線中継所。

        
         無住と居住の区別ができる家並み。

        
         疫病を防ぐ疫病神が祀られている。 

        
         中の道には懐かしい町並みが残る。

        
        
         漁村集落のイメージがしないのは空家が多いためだろうか。

        

        
         屋敷の片隅に丸い自然石が並べられているのが地主様で、その土地や屋敷を守護する神
        とされる。 

        
         NTTの塔がある通りに西平郡簡易郵便局と原田商店がある。郵便局は2016(平成2
          8)
年に一時閉鎖されたままのようだ。

        
         店の看板はなく一見商店とは思えないが、島の方が利用するだけなので看板は不要との
        こと。(飲み物をゲットするため立ち寄る)

        
         1994(平成6)年柳井中学校へ統合された平郡西中学校は、校舎や校門などが完全な形
        で残されている。

        
         平郡西小学校は休校中とのことで、周囲は柵で囲まれて玄関などを拝見することができ
        ない。

        
         平見山登山口と案内されているが、山頂には平見山城跡があるとされる。鎌倉期の12
        80(弘安3)年に伊予国の河野氏一族の浅海通頼が、蒙古襲来に際して見張台を設け、13
        40(暦応3)年浅海政能が南北朝の戦乱に対応して本格的な城郭を築いたとされる。
         浅海氏は代々ここに住んでいたものと思われ、大内義長に属し、陶晴賢を助けたとされ
        るが、その後、来島道康に降(くだ)ったとされる。

        
         平郡漁港西は、1951(昭和26)年10月14日のルース台風の被害後、1953年か
        ら高潮対策として160mの護岸工事が施行された。
         さらに1964(昭和39)年より4年をかけて第3次漁港整備事業として、本格的な防波
        堤のかさ上げ、岸壁の築造、埋立て工事が行われて現状の状態になったという。

        
        
         鶴甫の大師堂。

        
         大師堂脇にある石風呂は戦前まで使用されたといい、傍には「負上之石」刻まれた力石
        がある。

        
         円寿寺(浄土宗)は、1871(明治4)年寺院整理により円福寺と寿現寺が合併してできた
        寺という。

             
         寺境内には、1772(明和9)年漁師たちが建立した魚類供養塔「江海魚鱗離苦得楽」が
        ある。

        
         江戸末期に築造された防波堤が残されている。

        
        
         重道八幡宮の社伝によれば、宇佐神宮からの勧請と伝えるが年代などは不詳とのこと。

        
         山口県の最南端とされる上関町の八島が海上に浮かぶ。

        
         海を眺めながら最上部の生活道を南端へ向かう。

        
         弧を描く海岸線と青い海。

        
         平郡の集落は家屋が密集しており、火事が発生すると大惨事になりかねない。昔から火
        除け地蔵に願掛けしてきたと思われる。

        
         漆喰で塗り固められ白く見える屋根が多い中にあって、模様入りの赤瓦はひと際目立つ。

        
         1877(明治10)年の西南戦争の際、東京警視本署(現警視庁)は士族(旧武士)を中心と
        した警視隊を組織する。平郡島の長井熊造は三等巡査としてこの隊に所属し、鹿児島での
        戦闘で殉職する。(享年23歳)

        
         集落を囲むように設けられた石垣は、今では無用の構築物となったが集落の象徴で、ベ
        ンチもあって中々の風情である。

        
         デッキから浮かぶ島々、上関大橋や大島大橋、室津半島の集落、行き交う船などを見飽
        けない風景を堪能して柳井港へ戻る。(大きな島が平郡島)


柳井市の平郡島は柳井港から22㎞沖合いの島

2022年10月28日 | 山口県柳井市

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         平郡(へいぐん)島は柳井市の南約22㎞の伊予灘に浮かぶ周囲28㎞余の島で、
東西に細
        長い地形の大半は山である。

         地名の由来は、平安期の1182(寿永元)年木曽義仲が平宗盛追討の時、源頼朝の勘気を
        受け粟津にて討死する。そのときに義仲の家臣で紀伊国藤代城主・鈴木仲光が義仲の幼児
        ・平栗丸を保護して吉野に入り、さらに伊予宇和島に逃れ、この島に主従が住み着く。
        平栗丸は幼くして死去、その名に因んで平栗島と呼び、後年に平郡島となったという。(歩
        行約8㎞)

        
         JR柳井港駅から海側へ徒歩5分、定期船「へぐり」(1日2便)で平郡東港まで1時間
        40分の船旅である。

        
         出港すると背後に琴石山、左に大島大橋、笠佐島と屋代島、右に室津半島と上関大橋と
        見飽けない風景が続く。行き交う船を見ながら船旅を楽しむと、平郡西港に寄港して島の
        南側から東港へ入港する。

        
         198トンで航海速力12.5ノットと速度は遅いが、安定感のある定期船である。

        
         平郡島は漁場に恵まれた島で、1本釣りや素潜り漁などが行われている。3月になると
        島民の多くがヒジキの収穫に追われ、採取したヒジキを天日干しするため、道端にずらり
        と並ぶ光景は風物詩とされている。

        
         海岸通りを羽仁漁港へ向かう。

        
         下船すると民宿の方から昼食可能と声掛けがあったが、五十谷(いや)まで足を延ばしたた
        め立ち寄ることができなかった。

        
         民宿前が早田八幡宮の参道入口兼御旅所。

        
         石仏は河童のような生き物「猿猴」が、人の通行を妨げるのを防ぐためのものだという。
        当初は鉄の碑を建てていたが腐ってしまい、再び妨害が始まったので石碑に替えたと伝え
        る。

        
         多くの路地が山に向かって設けてあるが、どれをみても直線的でないため、奥へ入り込
        むと迷路になってしまう。

        
         強い海風から家屋を守るため周囲を石垣で囲んでいる。

        
         浄光寺(真宗)は室町期の天文年中(1532-1555)、大内氏の従臣・神代兵庫頭が開創したと
        伝わる。

        
         浄光寺入口に村役場だったような構えをみせる建物は浦保育園跡。1889(明治22)
        町村制の施行で、平郡島は単独で自治体を形成して平郡村が発足する。長らく周防大島と
        の関係を密にしてきたが、
1954(昭和29)年島民の90%が柳井への合併を希望したこ
        とで、
柳井市に編入されて柳井市平郡となる。

        
         山口県内では2番目に大きな島で、架橋されていない島では山口県最大級である。東西
        の集落を合わせて250名(2022.4月現在)が暮らす。

        
         平郡東小学校は、1872(明治5)年浄光寺を仮校舎として開校し、1947(昭和22)
        現校名に改称する。児童数の減少により、2003(平成15)年に休校したが、2012(平
          成24)
年に児童1名が入学して開校されたが、現在は休校中とのこと。(市出張所を併設)

        
         海岸線の道路は山口県の最も南にある県道東浦西浦線で、途中には防波堤だったような
        ものが残されている。

        
         海童(わだつみ)神社の鳥居と御旅所。後背地の山頂近くにそびえる巨大な立岩は大嶽(標
        高271m)と呼ばれ、平郡三景の1つとされる。
         地元の方によると、大嶽から集落全体が見下ろせ、天気の良い日には遠く四国や九州の
        山々が見渡せるなど絶景が楽しめる。但し、登山道は崩落箇所と春からこの時期までマム
        シが多いので足元には注意してくださいとのことであった。(時間の関係で大嶽は残念する)

        
         海側に窓を設けていない家や、窓があっても海風を避けるためか雨戸で閉じられている。

        
         羽仁の漁港。

        
         羽仁漁港側の防波堤完成記念碑は、刻字が風化して詳細を知り得ない。防波堤の脇に石
        祠1基と、道路を挟んで向かい側には恵比寿神が祀られている。 

        
         入口の案内は「真俱様」と記されているが、2基の石碑が建立されており、右手に注連
        縄らしきものが残されているので熊野の新宮明神であろう。左手は海賊襲来の時に戦って
        犠牲となった鈴木又五郎真俱が祀られている。

        
         海岸線から路地に入ると、平郡東中学校跡地と校門が残されているが、1994(平成6)
        年頃に廃校になったという。

        
         焼き杉壁は風雨に強く、表面が炭化しており火が燃え広がりにくいという特性と、防虫
        効果もあってか多くの家屋に用いられている。

        
         海童神社参道から見る平郡東地区。水はけ、日照時間、通気性と3拍子揃った土壌で育
        った特産の「さつま芋とみかん」は糖度が高いとされる。

        
         海童神社は海の神様を祀る羽仁地区の氏神とされる。かっては権現様と称して大嶽に祀
        られていたが、1870(明治3)年改称して現在地に遷座される。

        
         路地筋にある井戸はお地蔵さんに見守られているが、現在は簡易水道も完備されて井戸
        水は使われていないようだ。

        
         海蔵院(曹洞宗)は14世紀前半に平郡西に創建されたが、1871(明治4)年の寺院整理
        により、東にあった円福寺跡へ引寺された。

        
         民家の間を縫うように路地歩き。

        
         地蔵尊と旧平郡東郵便局舎。

        
         藤井宅に行者堂があるが、1617(元和3)年に庄屋・鈴木家より輿入れの際に持参した
        と伝えられる。入口の扉が板で封鎖されて中を拝見することはできない。

        
         五十谷(いや)三島まで2㎞と表示されていたので行くことにするが、やや勾配のある坂道
        から、時折、海と島が見える風景に出会える。(電線は浄水場用)

        
         金光稲荷神社は江戸中期頃、京都の伏見稲荷より平郡の守り神として勧請された。ご神
        体は大きな岩をぐるりと巻いて龍の姿に化身されているとのこと。

        
         金光稲荷より下って行くと早田八幡宮との分岐。再び上りに入ると平郡東港の先に周
        防大島が横たわる。

        
         上り坂を終えると長い下りに入り、海岸近くまで下ると美しい海を背景に牧場が広がる。
        牛たちは牛舎にあって放牧地では見ることができなかった。

        
         美しい海と砂浜は島にとって自慢できる場所の1つとされ、海水浴を楽しむことができ
        るとのこと。

        
         五十谷三島は平郡三景の1つとされ、美しい海に3つの島が連なっている。干潮になる
        と小島へ歩いて渡れるトンボロ現象が見られそうだ。

        
         岩場に階段が設けてあって、祠と鳥居のようなものが見えるが詳細はわからず。

        
         三差路まで戻って鳥居を潜る。 

        
         早田八幡宮は平郡東の氏神で、1185(文治元)年に鈴木仲光が平栗丸を連れて平郡島に
        渡り、年代は不詳だが仲光が宇和島から勧請したと伝える。

        
         神社から見る平郡東。

        
         定期船乗り場に戻り東の集落を歩くと、羽仁地区にも火の見櫓があったが、ここは途中
        に鐘がついている。

        
         詩人・宗野真幌(本名:徳尾、1905-1986)はハワイで生まれ、平郡島に帰国すると農業
        しながら詩を書き、島で一生を過ごす。数々の詩誌に作品を発表したが、島に暮らしなが
        ら島のことを書かない詩人でもあった。(この路地を入った突き当りが宅跡)

        
         「平郡タコ」は明石のタコに負けないうま味があるという。タコ漁は5月から8月にか
        けて行なわれるが、盆を過ぎると産卵を終えて身が痩せることや、取り過ぎないための調
        整と期間が設けられている。(島の特産品)

        
         羽仁漁港側にも祀られていた恵比須様。春と秋に漁業関係者がお参りするとのこと。

        
         漁港を囲む長い防波堤と完成記念碑が設置されているが、刻字が風化して読めず、築造
        年代などを知ることはできない。

        
         14時発の定期船で柳井港に戻るが、どこの島にも猫が多いが、平郡島も猫の島であっ
        た。

        
         五十谷三島を船上から眺める。

        
         東浦と西浦の距離が14㎞もあって、船の関係で一度に2ヶ所は難しい。機会があれば
        いつか西も歩いてみたいものだ。  


柳井市神代は中心部が柳井で岩国市に駅

2022年02月02日 | 山口県柳井市

               
               この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。 
         神代(こうじろ)は滝川流域に位置し、南東は瀬戸内海に面している。
         地名の由来について、「地名淵鑑」には神稲代の稲を省いたものと記している。(歩行
        約6㎞、🚻観光センターと途中に1ヶ所)

        
         JR神代駅は、1899(明治32)年山陽鉄道の駅として開業したが、その後、閉鎖や停
        車場に格下げになるなどの変遷を繰り返したが、1944(昭和19)年駅に昇格する。
         1889(明治22)年の町村制施行により、近世以来の神代村がそのまま自治体を形成し
        て村名が駅名となった。
         ところが、1855(昭和30)年の昭和の大合併で旧神代村の過半は大畠村に属し、駅の
        ある東部分は由宇町に編入されて字神東となったが、駅名は設置当時の名称で残された。

        
         神東は平地部分が少なく、国道と山陽本線に挟まれた中に家々は立地するが、国道は歩
        車分離でなく交通量も多いので柳井市神代に移動する。

        
         JR大畠駅は、1897(明治30)年海を埋立して山陽鉄道の駅として開業する。ホーム
        の目の前には大畠瀬戸と、対岸の周防大島を結ぶ大島大橋が見える。駅のある地は旧神代
        村であったが、山陽鉄道開通時から駅名は大畠駅だったようだ。

              
         駅前から岩国方面に進み、陸橋の先で左折して小さな丘を上がると、大島大橋の広場前
        に出る。

        
         1976(昭和51)年7月大島大橋は日本道路公団により有料道路として開通する。その
        後、山口県に事業譲渡され、1996(平成8)年6月無料開放された。

        
         山陽本線と国道をまたぐため、大畠瀬戸に沿って走る列車の撮影スポットとされる。列
        車を待ったが冷たい風が吹きつけるため早々に引き上げる。

        
         大橋筋の道を大畠方面に引き返すと、右手に大畠観光センターがある。トイレや食堂も
        併設されて弁当や地元産品もゲットできる。(月曜日が定休、営業時間は15時まで)

        
         大島大橋と大畠瀬戸の渦潮、跳ねる鯛一匹がデザインされたマンホール蓋。

        
         大島大橋の全景が見えることを期待して観光センター裏手の道を上がる。

        
         周防大島への送電鉄塔。

        
         鉄塔を巻くように下って行くと、角度は悪いが大島大橋と大畠瀬戸、対岸の飯の山が見
        える。

        
         般若姫は豊後国の満野長者の娘であったが難病を患っていた。あるとき「橘豊日皇子」
        (後の用明天皇)が流鏑馬神事で彼女の病を治したという。
         その後、二人は結ばれたが皇子は都に帰らなければならなくなり、般若姫は皇子に会う
        ために臼杵の港から旅立つ。
         しかし、大畠瀬戸にさしかかった折、大きな嵐に見舞われ、嵐は長者に池を潰されて家
        族を殺された「金龍神」の嵐だといい、1週間も収まらず、嵐を鎮めるには命を捧げるし
        かないと瀬戸の海に身を投じたという般若姫伝説がある。

        
         瀬戸山墓地園を過ごすと国道に合わし、次の三叉路で岩国方面へ向かう。

        
         海側の神代集落。

        
         三方を山に囲まれた集落。

        
         海岸部を国道と山陽本線。

        
         1918(大正7)年に住宅として建てられたもので、当主が郵便局長であったことから、
        一時期は神代郵便局として使用された。翼廊付き総2階建ての洋風建築で、唐破風屋根と
        の取り合わせが独特である。(H邸)

        
         注連石(しめいし)の先にある鳥居は、1693(元禄6)年岩国領主・吉川広紀が寄進。

        
         春は椿(ツバキ)、夏は榎(エノキ)、秋は楸(ヒサギ)、冬は柊(ヒイラギ)といわれるよう
        に、ご神木のエゾエノキ(蝦夷榎)は夏の木とされる。夏にたくさんの葉をつけて涼しげな
        木陰をつくる所以だろうか。

        
         神代浦東浜の山手に鎮座する正(ただす)八幡宮。玖珂郡誌は安土桃山期の1595(文禄4)
        年に内藤河内守元栄という者が、山城国石清水八幡宮より勧請したと記す。

        
         拝殿に「お福豆」と「清めの塩」が置かれていたので、お賽銭をプラスして豆をいただ
        く。明日は節分、次の日は立春、「1月は往ぬる2月は逃げる3月は去る」といわれるよ
        うに月日が流れてゆく。

        
         岩国領主が領内巡見で通った往還道を少し歩いてみる。

        
         どの道が往還道なのかわからないが、国道から離れて集落道に入る。

        
         棚田の中に人家といった感じになる。

        
         金魚の口から水が噴き出ている消火栓蓋。

        
         中筋より神代の浦を臨む。

        
         中筋の台地東方にあった神代勘解由屋敷は、神代の浦を臨む位置にあった。中世の頃に 
        神代氏の本拠地であったと考えられる。

        
         中筋地区公会堂から畦道に入ると光明寺跡。その跡に室町期の板碑が立っている。

        
         自然石板碑は正面中央部に円を描き、その中に弥陀三尊種子を、その圏外上部中央に金
        剛界大日如来種子を刻む。もらいものができたときに祈ると治るといわれている。

        
         周回できるようだが急坂のため引き返し、大畠保育所前から滝川右岸を下る。

        
         神代のマンホール蓋は、大島大橋と鯛2匹がデザインされ、「こうじろ」の文字が入っ
        ている。

        
         公園にみかんの形をしたトイレ。

         
         この地域は路線バスがないため駅まで歩かなければならない。国道437号歩きは長い
        上り坂を耐えなければならないので、国道188号に出て大畠駅に戻る。
         これといった名所がある町ではないが、見えぬ先に何かがあるのではとワクワク歩きを
        させる町だった。


柳井市余田に村役場庁舎が残る地 

2021年11月21日 | 山口県柳井市

                 
                 この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         余田(よた)は北の大平山山塊と南の赤子山塊に挟まれた低地に位置し、そのほぼ中央の
        低地を堀川が西から東に流れ、土穂石川となって柳井湾に注ぐ。
         地名の由来ははっきりしないが、「和名抄」玖珂郡十郷のうちの余戸郷に充てるという
        説がある。(歩行約4.1㎞)

        
         JR柳井駅から余田を経由するバス便は平日4便、土日祝日は運行されていない状況に
        ある。ここもやむを得ず車で訪れる。(八幡宮駐車場に駐車させてもらう)

        
         名合八幡宮は旧余田村と平生竪ヶ浜の氏神で、宇佐八幡宮より勧請されるが、勧請年月
        は不詳とされる。もとは「長尾八幡宮」と称されていたが、いつの頃か現在の名称になっ
        たという。

        
         二の鳥居は1693(元禄6)年に岩国領主・吉川広紀が奉納。 

        
         説明によると、藩政時代に大凶作で各地に年貢不納の大暴動が起こった時、余田村民は
        年貢を完納した。以降、明治になっても租税の完納を続けた。
         この塔は国によって建立されたもので、側面に「大正3年以降諸税完納」「昭和25年
        税制改革記念」とある。

        
        
         1889(明治22)年町村制の施行により、近世以来の余田村が独自で自治体を形成する。
               現存の村役場は1935(昭和10)年村有林の杉を切り出して建設され、1階が役場執務室、
        2階が村会議亊堂として使用された。
         1954(昭和29)年近隣5町村が合併して柳井市が発足すると、余田出張所として使用
        されてきた。1977(昭和52)年建て替え計画が持ち上がったが、地元の反対で残される
        ことになった。

        
         隣の建物は詳細不明。この先、岩国竪ヶ浜往還はズボンにとりつく草が多くて進行を残
        念する。

        
         名合八幡宮の裏手に廻り込み、広い道を柳井市街地へ向かう。

        
         最初の四叉路を左折して院内集落を目指す。

        
         当初は院内の観音堂、福楽寺などを散策して、中郷集落に下る予定にしていたが、馬力
        が不足してきたようで安立寺が見えたところで頓挫する。
         安立寺(真宗)の寺地はかって池で、大きな蛇がいて「蛇の池」として恐れられた。一計
        を案じ、池を埋め立てて寺を建立したとされ、山門前にその池跡がわずかに残されている。

        
         正蓮寺も浄土真宗で、戦国末期の開基とされている。

        
         中心部に農地があって周辺部に集落を形成している。 

        
         堀集落にある地蔵堂は地蔵菩薩が祀られ、大師堂を兼ねているそうだ。灯籠は一対では
        ないが古いものではなく、大正期に建立されたもののようである。

        
        
         柳井市余田の農業集落排水用マンホール蓋で、余田の臥龍梅がデザインされているが、
        よく見ると違う構図が描かれている。
         広い集落のようで中央地区は1994(平成6)年、北地区は2年遅れて集落排水が設置さ
        れた。 

        
         旧岩国竪ヶ浜往還道の傍を流れる小さな川は、蛇の池にいた蛇が、川を下っていったと
        いわれている。その後、蛇川いわれるようになったと伝える。

        
         再度、農事組合法人柳井ダイヤモンドローズ側から試みてみたが、無理のようで往路道
        に引き返して出発地に戻る。


柳井市伊保庄は小瀬上関往還道と旧塩田地

2021年11月17日 | 山口県柳井市

                
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。             
         伊保庄(いほのしょう)は周防灘に突出する室津半島の東部を占め、海岸に沿って南北に長
        く西に大星山などの山塊が迫る。
         地名の由来は、往昔、3足の赤鳥がこの郷に生まれ、里人はこれを志賀の都に献上し、
        これによって当地を鳥王庄(うおのしょう)と呼ぶようになったが、いつの頃からか伊保庄と
        改めた。(歩行約4.1㎞)

        
         JR柳井駅から宇積行きバスがあるが、便数が少なく滞在時間が長くなるので車で訪れ
        る。
小野バス停傍の海岸部に駐車可能な広場がある。

        
         お堂とは思えない中に閻魔大王を中心に十王が並ぶ。江戸期作とされるが全部揃ってい
        るのは珍しいとのこと。地獄において亡者の罪を裁くとされる10人の王のことである。

        
         正覚寺への1本道を進む。 

        
         圃場整備された先に瀬戸内海と周防大島。

        
         正覚寺(真宗)はもと真言宗の寺院であった。室町期の1521(大永元)年に罹災し、古記
        録を残していないという。

        
         川傍に佇む三界萬霊塔。 

        
        
         宗寿院の由緒によると、往古は随願寺あるいは瑞願寺と称した密教の大寺跡に興し、そ
        の名に因んで願行寺としたと伝える。
         1870(明治3)年寺社整理によって、伊保庄の専称寺へ合併されたが、越えて72年、
        徳山・四熊村の宗寿院を引寺して再興したという。

        
         谷筋を1つ越える。

        
         下ってくると青面金剛(しょうめんこんごう)の石像がある。庚申講の本尊として知られ、三
        尸(さんし)を抑える明王である。一身四手、左辺の上手は三叉、下手は棒を握り、右辺の上
        手は掌に一輪を拈し、下手は羂索を握っている。

        
         賀茂神社は平安期の1093(寛治7)年、京都・賀茂神社より勧請して社殿が建立された
        のが始まりとする。

        
         本殿は鎌倉、室町、江戸期を通じて改築や修理が行われたが、現在の拝殿は1841(天
        保12)年、神殿は1899(明治32)年に造営された。

        
         賀茂神社の参道。

        
         往還道は県道から外れて右に迂回しているが、橋を渡れば街道は消滅している。向田川
        に架かるこの石橋は往還道の名残りとされる。

        
         向田川河口に胡社が祀られているが、創建年代は不詳とされる。文化年間(1804-1818)開
        作築立が行われて塩田開作された所であり、胡社もその頃ではないかと考えられる。

        
         向田川河口から間近に見えるのは無人島の烏島で、島の先端に若山牧水の歌碑があると
        のこと。牧水が1925(大正14)年秋、夫人と共に村上酒造宅を訪れた時に詠んだものと
        される。
           「からす島 かげりて黒き 磯のいはに 千鳥こそをれ こぎよれば見ゆ」

        
         河口部から見る大畠、遠崎方面と琴石山。

        
         往還道は道路拡張及び新設により消滅した箇所もあるようだが。概ね県道に沿って左右
        に残されている。多くの家々は更新されていたが、数軒ほど大きな古民家もあった。

        

         手前の森が八幡山で、名のとおり平安期の877(元慶元)年宇佐神宮から勧請された中村
        八幡宮があったが、明治の神社整理(1村1社)で賀茂神社の境内に遷宮された。

         往還道の海岸沿いには揚浜式の塩田があったというが、往還道と同様に昔日の面影はな
        か
ったが、歩きやすい散歩道であった。


柳井市日積は松島詩子、坂本寿一の生誕地

2021年11月17日 | 山口県柳井市

        
               この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。 
         日積(ひづみ)は由宇川上流に位置し、銭壺山や琴石山などに囲まれた山間盆地に立地する。
         地名の由来は,玖珂郡誌によると「日積ハ日月乃村ト云。日ヲ積デ月ト成ストノ古語也」
        とある。(歩行約4.9㎞) 

        
         JR柳井駅から大里(おおざと)バス停まで路線バスがあったが、10月1日より運行を取
        り止めた旨の情報を得ていたので車で訪れる。(ふれあいどころ437に駐車、🚻あり) 

        
         ふれあいどころ437は旧大里小学校跡で、その傍に大帯媛(おおたらしひめ)八幡宮の参
        道がある。

        
         平地は農地で山裾に民家を配している。 

        
         長い石段を上がると本殿があると思ったが、その先にも長い参道がのびる。途中に大里
        小学校跡を示す標柱がある。1893(明治26)年から1955(昭和30)年までの62年間、
        2教室と教員室などの木造平屋校舎と運動場があったとされる。 

        
         旧日積村の氏神として奈良期の758(天平宝字2)年宇佐神宮より勧請される。当社を大
        帯媛八幡宮と呼び始めた因由は明白でないが、古くは日積八幡宮あるいは日積宮とも称し
        た。日積の八朔踊りは五穀豊穣を祈願する風鎮祭で、9月1日直前の土曜日に境内で開催
        される。

        
         日積神代往還道を北上すると、明教寺(真宗)は西善寺の隠居所として建てられたという。
        (寺前を西へ向かう)

        
         文珠堂には大きな銀杏の木があって鮮やかな色合いを見せる。大智寺(真言宗)跡に文珠
        堂ありとされるが創建年代は不詳。文珠菩薩を本尊とするのは珍しく「周防三文珠」の一
        つとされる。

        
         西善寺(真宗)とひづみ幼稚園を過ごし、関鳥橋を渡ると折坂バス停前(ここも廃止)に出
        る。

        
         日本航空界の草分け的存在とされる坂本寿一(1890-1976)の生家があるとのことで立ち寄
        る。室積にあった県立工業学校卒業後、渡米してロサンゼルス工業カレッジ自動車科に学
        び、フォード自動車工場で働く。のちに米国パイロット免許を取得し、1914(大正3)
        帰国すると、全国各地で公開飛行を行うなどし、大阪で開かれた第1回競技大会で滞空時
        間部門で1位となる。(手前が生家?)

        
         丸山橋を渡ると山側に小瀬上関往還道一里塚跡を示す標柱がある。「安芸境小瀬より7
        里 上ノ関より8里」の地には旅籠屋や居酒屋があっ
たとされる。

        
         道路筋の家々は更新されている。

        
         左手に街道を示す看板あり。

        
         1920(大正9)年周防鉄道㈱が設立され、由宇村から日積村、伊陸(いかち)村を経由して
        玖珂村に至る鉄道が計画され、日積停車場がここ大原地区に設置される予定であった。
         しかし、着工目前に岩徳線の敷設決定や関東大震災の影響もあって幻の鉄道路線となる。

        
         途中から山手に上がると細い道が往還道である。

        
         小瀬上関往還道の中で数少ない原形を留めている区間とされ、3尺道(約90㎝)は多く
        の人が往来したのであろう。

        
         祠に2体の石仏(馬頭観音)が鎮座するが、昔、荷物運搬中に倒れた馬を祀ったとされる。

        
         昭和の歌謡界を代表する松島詩子(本名;内海シマ)は、1905(明治38)年この日積で
        生まれる。教員生活を過ごした後、流行歌手になることを決心して歌手生活の道に入る。

        
         広い道を横断すると街道標示板の先に「火伏神狩野岩」がある。狩野派の画家が絵に描
        いたと伝えられ、いつの時代か埋没してしまったが、村人が掘り出して火伏の石神様とし
        て祀っているという。

        
         この一帯は奥迫川の扇状地で、縄文時代の集落跡とされる。 

        
         小瀬川2期工業用水の空気弁蓋。水道事業は柳井地域の都市用水を確保する目的で、1
        991(平成3)年から8年の歳月をかけて完成する。弥栄ダムから取水した水は、管路約4
        0㎞で送水されているが、ダムから日積浄水場までは柳井広域水道事業団(柳井市、周防大
        島町、上関町、田布施町、平生町)との共同施工である。

        
         石神様の盃状穴は、人が何らかの目的で石などの道具を使って彫った盃状の穴で、女性
        を表現し、最初は再生を願って墓に彫ったが、のちに子宝、安産、豊作を願うものに変わ
        ったという土俗信仰である。
         石の前に石神様があったが、祠のみ南側の路傍に移設されたとのこと。 

         
         日積大原地区から日積神代往還を南下し、国道437号線を山越えして出発地に戻る。           


柳井市新庄は旧岩国竪ヶ浜往還道が横断する地

2021年03月19日 | 山口県柳井市

        
                 この地図は、国土地理院の
2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
         北の大平山と南の赤子山に挟まれた低地に位置する。そのほぼ中央の低地を堀川が西
        
から東へ流れ、土穂石川(つつぼいしかわ)となって柳井港へ注ぐ。
         地名の由来は、柳井庄に付属する新立の荘園によるが、開発年代は不明とされる。(青
        線は岩国竪ヶ浜往還道、歩行約4.9㎞)

        
         JR柳井駅(13:25)から防長バスJR田布施駅行き10分、土穂石バス停で下車する。進
        行方向にある築出橋手前を左折するが、この道が岩国竪ヶ浜往還道で、平生町の竪ヶ浜に
        至る。

        
         右手の大師堂には「四國北一遍 弘法大師 供養佛」とある。
      
        
         1665(寛文5)年古開作を干拓した際、土穂石川は湿地帯を耕地化する目的で堀削され
        
た人口の川とのこと。

        
         水の流れを止めるような巨石(土穂石)は、カメさんの楽園となっているが、「玖珂郡志」
        には、昔、貧民夫婦あり、滞(落)穂を拾って神に供える穀物とした。滞穂を土器に入れて、
        巨岩の上に置き神に献ず。多年怠りなく、神はその実心に福を降したまふ。夫婦は富む人
        となったとある。
       
        
         川は昭和初期に改修されたとのこと。(次の橋を渡る)

        
         土穂石の奥に石碑が見えたので立ち寄ると、松尾芭蕉句碑だそうだが風化してはっきり
        読めないが、「蝶の飛ぶばかり野中の日かげ哉」と彫られている。1875(明治8)年俳人
        の会によって建立されたものである。

        
         1937(昭和12)年建立の土穂石八幡宮二の鳥居。

        
         土穂石八幡宮の創建年代は不明。現在の社殿は1956(昭和31)年に再建された。

        
         欣慶寺(ごんけいじ)は曹洞宗の寺で、慶長年間(1596-1615)に創建された古刹である。開基
                は織田清範で織田信長の家族とされ、はじめは紀伊国を領していたが、理由があって周防
        国に移って旧新庄村の郷士となった。織田を小田に改め仏門に入り、織田一族の供養のた
        め寺を建立したといわれている。

        
         一の鳥居は、1693(元禄6)年岩国領主吉川広紀が奉納したとされる。1874(明治7)
        年創立の新庄小学校は、1886(明治19)年現在地に移転する。その後、グラウンドが拡
        張されたため参道を挟んだ学校地となる。 

        
         土穂石川と左岸の道が岩国竪ヶ浜往還道。通りの家々はほとんどが更新されている。

        
         往還道に合わすと県道光柳井線と山陽本線の横断は
歩道橋を利用する。県道は1887
          (明治20)年に開通したが、それ以前は余田・新庄地区の人々は往還道が主要道だった。

        
         歩道橋から見る柳井の町並み。

        
         道は3本に分かれているが、中央が往還道である。郵便局の北側に新庄公民館があるが、
        この地に村役場があったようだが確証を得ることができなかった。

        
         線路に沿うと右手に国学者岩政信比古(1790-1856)を顕彰する碑がある。1955(昭和
        30)年に岩政家の屋敷跡に建立されたが、国学を修めた信比古(さねひこ)の人柄と学問を慕
        って多くの門人が集まったとされる。その中に秋良敦之助、世良修蔵、月性らが名を連ね
        る。

        
         白壁の町並みがデザインされた柳井市のマンホール蓋。

        
         街道筋には新たな家、更新された家が占める。

        
         台座を含めて2m以上のある火伏地蔵。昔、火事が頻繁に起こり、鎮火を祈って176
        5(明和2)年に建立された。

        
         往還道は田園地帯に入る。

        
         往還道は余田地区へとつながるが、四差路を右折して法師田川に沿う。

        
         道筋に大きなラクショウ(落羽松)の木がある。北アメリカ産の落葉針葉高木だが、日本
        ではヌマスギと呼ばれ、湿地に植えると、幹の周りに呼吸根(気根)が出てくる。1901
        (明治34)年に小田邸の庭に植えられたものだが、空家のため近くで拝見することができな
        い。(市天然記念物) 

        
         市街地方向に戻ると岩政次郎右衛門奥都城(おくつき)がある。次郎右衛門(1656-1736)は、
        1689(元禄2)年に3年の歳月を費やして柳井川から取水し、新庄を経て余田まで全長7
        ㎞におよぶ灌漑用水路を完成させた。これにより干害に悩み続けた村一帯がよみがえった
        とされる。 

        
         高林寺(真宗)前を過ごす。

        
         やまぐちフラワーランドへの道に合わすと、山裾の道は急坂であるので川に沿って平坦
        道を歩く。

        
         源義経主従の供養塔とされ、平安期の1185年源平合戦で源義経主従が柳井に上陸し
        た際、この地に一行を支援した土豪がいたとされる。その子孫らが義経主従を供養するた
        め、五輪塔や宝篋印塔を安置する石祠を設けて祀ったという伝承が残っていると案内され
        ている。

        
         少し下ると正念寺境内に「伝 佐藤継信・忠信の供養塔」がある。1185年の源平合
        戦で義経の郎党として平家追討軍に加わった佐藤継信・忠信兄弟であったが、兄継信は屋
        島の戦いで戦死、弟の忠信は壇ノ浦の戦い後、義経は官職、忠信も兵衛職に任官されたた
        め、源頼朝と対立する。忠信は都を落ちる義経に同行するが、九州へ向かう船が難破し離
        散し、京都で居場所を密告され自刃に追い込まれる。
         この石祠が両名の墓という伝承が残されており、「ただのぶさん」として大事に供養し
        てきたとある。この辺りの地名が忠信という。
 

        
         新庄の町並みを見てイオン柳井新庄ショッピングセンターに出るが、ここにはバス路線
        がなく、タクシーを呼ぶか駅まで歩くことになる。(駅まで約1.2㎞)


柳井市伊陸は難読地名の1つだが自然豊かな地

2021年03月17日 | 山口県柳井市

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
         伊陸(いかち)は由宇川上流に位置し、北は氷室岳山地、南は標高300m余の山地に囲ま
        れた
山間盆地に立地する。
         地名の由来について玖珂郡志は,「承平5年(935)梅津中将、2頭鹿ヲ追テ、余鏃(あまが
          ね)
ニテ射損ジ玉ヘバ、忽鹿怒テ通リケルヲ以、恚鹿路(いかじ)ト云」とあり、二鹿大明神
                (現岩国市)の縁起に由来すると伝えを記すが、難読な地名である。(歩行約3.8㎞)

        
         JR柳井駅から防長バス宮の原行きがあるが、便数が少なく利便性に欠けるので車で訪
        れる。(宮の前バス停付近に駐車)

        
         バス停から氷室亀山神社への長い参道は、1915(大正4)年に県道まで延長されたもの
        である。一の鳥居は、1722(享保7)年亀山神社に建立されたものが移設されている。

        
         伊陸日積往還道と参道が重なる。

        
         氷室亀山神社の正面に目通り2.5m、樹幹の高さ約18m大モミがある。いつ頃どこか
        ら移植されたかは不明とのこと。(市天然記念物) 

        
         奈良期の711(和銅4)年氷室岳の8合目に祀られた氷室大明神は、村内の戸数が増えた
        ため、祭祀の便を考えて室町期の1508(永正5)年現在地へ遷座した。1907(明治40)
        年域内の中村にあった亀山八幡宮と氷室大権現が合併して氷室亀山神社となった。

        
         「こほり(氷)し 氷室の池も冬ながら こち(東風)ふく風にとけやしぬらん」という歌は、
        平安期の939(天慶2)年紀貫之が周防守に任じられて下ってきたとき、歌会で詠まれたも
        のだが詠み人知らずとされる。

        
         神水の由来によると、神社周辺に5ヶ所の湧水があり、その1つがこの井戸の湧水であ
        る。どんな時でも涸れたことはなく水神様としてお祀りしているとある。

        
         周東広域農道を横断すると棟に瓦を載せる家。

        
         大きな門を構える民家だが、庭木の状況から無住のようだ。

        
         高山寺(こうざんじ)へ向かうと正面に氷室岳。

        
         禅宗などの寺院の前にある戒壇石(結界石)。寺院全体を戒壇に見立てたものだそうで、
        よく目にするのは「不許葷酒入山門」の石碑である。

        
        
         高山寺(臨済宗)の寺伝によれば、鎌倉期の1320(元応2)年紀州国守内藤氏の夫人、妙
        観尼が建立したのに始まるという。
         室町期の1345(貞和元)年足利尊氏は南北朝期の戦死者の追善と国家安穏の祈祷場とし
        て、安国寺利生塔を諸国に置くにあたって、当寺を周防
国安国寺に定めた。

        
         廓念寺(かくねんじ)という浄土宗の寺は、当郷には浄土宗の寺がなかったため、河田忠實
        の内儀が懇願し、室町期の1556(弘治2)年に開山したとされる。

        
         再び周東広域農道を横断すると麦畑。

             
         日積・大畠に向かう伊陸日積往還道と、岩国・竪ヶ浜往還道の分岐点に「六道能化(ろく
          どうのうげ)
」と刻まれた地蔵菩薩がある。
地蔵菩薩の傍に並んでいる石祠はいずれも、圃場
        整備の際に集められたものである。

        
         岩国竪ヶ浜往還道は県道を横断すると未舗装の道に入る


        
         大正期に平生町西の町を起点に、柳井駅で国鉄に接続して伊陸に至る鉄道が敷設される
        予定だったが、岩徳線の敷設や関東大震災の影響もあって中止を余儀なくされた。

        
         宮ヶ原バス停付近に鉄道の伊陸駅が設置される予定だった。

        
         1889(明治22)年の町村制施行により、近世以来の伊陸村が単独で村を構成する。村
        役場を藤ノ木に設けたが、1896(明治31)
年この地に移転し、1954(昭和29)年柳井
        市の一部となり役目を終える。(解体中の市役所伊陸出張所)

        
         硲俊聰(はざましゅんそう)は、1852(嘉永5)年に村岡家の三男として生まれ、大阪師範
        学校に入学して卒業後は大阪方面の学校で教師をしていたが、病のため帰郷して伊陸村の
        硲家の養子となる。
         その後、伊陸村長、山口県議会議長、衆議院議員などを歴任し、晩年は神代村に帰郷し
        て神代村長を務めたが、80歳で逝去する。

        
         通りには市出張所、小学校、JA、郵便局が並ぶ。

        
         石碑が塀の上に頭を出していたが、陸軍軍人だった秩父宮雍仁(やすひと)親王(1902-1953)
        が休息された所とか。

        
         県道沿いの家々は改築などで更新されていた。