ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

北九州市門司に赤煉瓦建物と大里宿址 

2023年03月30日 | 福岡県

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         大里(だいり)は企救(きく)半島の中部、戸ノ上山の西麓に位置し、西は関門海峡に臨む。
         1891(明治24)年九州鉄道門司(現門司港)
~黒崎間の開通により、海岸地区は内陸部
        と遮断され、
その間の小森江~新町間の広大な田畑の地域を鉄道院総裁の後藤新平が買収
        する。
         1903(明治36)年神戸の合名会社鈴木商店が買収地に大里製糖所(現関門製糖)を設置
        する。その後、大里製粉所(現ニップン)、帝国麦酒(もとサッポロビール工場)、大里酒精
        製造所(現ニッカウイスキー工場)などが設立された。(歩行約5.8㎞)

        
         JR門司駅は九州鉄道の大里駅として開業したが、1942(昭和17)年関門トンネルの
        取付口に駅があったため、約400m小倉側に移設されて駅名を門司駅とする。2004(平
          成16)
年には跨線橋と駅舎を一体化した橋上駅舎が完成する。

        
         駅北側から関門海峡に向うと右手に赤煉瓦の建物が見えてくる。
         大里の地名由来について、平安時代に安徳天皇を伴った平家一行が「柳の御所」を設け
        たことにより「内裏(だいり)」と呼ばれるようになる。
         享保年間(1716-1736)頃異国族船を平定するよう命を受けた藩主は、内裏の海で血を流す
        のは畏れ多いとして「大里」に書き改めたといわれている。

        
         1913(大正2)年4月帝国麦酒㈱の工場が完成して醸造を開始され、第一次大戦後の不
        況と関東大震災の影響を受けたが存続した。その後は合併・分割を繰り返し、社名も桜・
        大日本・日本・サッポロと変更し、2000(平成12)年日田工場へ移転するま
で九州工場
        として稼働した。        
         事務所棟と違って赤煉瓦を使用した建物は見応えがあるが、内部は年2回の公開日のみ
        見学ができる。

        
         1913(大正2)年に完成した煉瓦造倉庫で、ここから見ると切妻部分は続き棟のようだ
        が独立した構造である。

        
         1799(寛政11)年幕府(長崎奉行所)は、大里浦出張所(長崎番所)をこの地に設置する。
        当時、玄界灘に出没する密貿易船の取り締まりと、対唐貿易の代物を長崎に送るため、保
        管・中継基地の役割を担う。

        
         醸造棟傍の事務所棟は、1913(大正2)年築の鉱滓煉瓦造2階建てで、ドイツ・ゴシッ
        ク様式に近いデザインが特徴となっている。正面中央玄関部を突出させ塔状に2階高まで
        立ち上げ、1階・2階ともに左右対称の意匠として中心性を強調している。

        
         江戸期には大里宿から手向山辺りまでの街道筋に松並木が続いていたとされる。旧サッ
        ポロビール事務所棟前に樹齢350年以上といわれる街道松が残る。

        
         門司往還道の大里宿は5町52間(約646m)の町並みで、本陣、脇本陣などが建ち並
        び宿場町として繁栄した。幕末の幕長戦争で焼失して現存するものはないが、このように
        跡地には石碑が建てられている。

        
         1887(明治20)年5ヶ村が合併して柳ヶ浦村が発足し、町村制施行時にはそのまま移
        行して村名を継承する。1908(明治41)年町制を施行して大里町となり、駅も大里駅と
        なる。
         隣の文字ヶ関村は鉄道敷設や内外の中継貿易港と発展し、門司町から門司市へと移行す
        る。1923(大正12)年大里町は門司市に編入されて町制を閉じる。

        
         問屋場ともいい、輸送を担当する宿場の主要施設で、人足や馬が常備されており、旅人
        のために必要な人馬の手配や飛脚が運ぶ荷物なども取り扱っていた。

        
         1902(明治35)年明治天皇が熊本での陸軍大演習統監のため、柳ヶ浦に上陸された記
        念として、天皇が馬車に乗られた付近に松を植え「明治天皇記念之松」の石碑を建てられ
        た。のちに松は枯れ、石碑も元の場所から離れた突堤に移されて現在に至っている。

        
         海岸線から眺める門司港近くの風師山と矢筈山。

        
         この地には幕府及び藩の通達を掲示した高札場が設けられ、隣接する南部屋で藩役人が
        各村庄屋への通達と打ち合わせを行ったという。

        
         脇本陣の重松彦之丞宅は、柳河藩、薩摩藩、幕府及び公卿の御用商人などが利用し、1
        810(文化7)年には日本全国を測量した伊能忠敬一行が止宿している。向い側には肥前屋
        (脇
本陣)があったという。

        

        
         佛願寺(真宗)は慶長年間(1596-1615)現在地に創建されたとされ、幕末期の幕長戦争(小
        倉と長州の戦い)で本堂等を焼失したが明治期に再建された。

        
         地元の方が史跡ウオーキング中。 

        
         この道路の右側に浜郡屋、左側に御在番役宅、突き当りに御番所があった。浜郡屋では
        湊出入者及び船泊の検問、取り締まり等を役人や在屋などが協議した場所とされる。

        
         ここに大里宿湊口の御番所(関所)があった。湊を出入りする船舶・人馬の切手改め、抜
        荷の取締りを行った。また、参勤大名の渡海の拠点でもあった。

        
         鳥居左手一帯に小倉藩の施設である本陣(御茶屋)があったとされ、九州の諸大名、長崎・
        日田代官、オランダ使節等が江戸への往復の途中に休泊した。

        
         八坂神社は大里村の守護神であり、近代になって町の開発が進んだ際に住吉神社が合祀
        された。

        
         境内には大里村各所にあった道祖神が集められているが、都市開発で無用の長物となっ
        たようだ。3本あった桜の木のうち、1本は倒れてしまったそうだが、地区民の花見場所
        のようでテーブルなどがセットされていた。

        
         北九州市の市花である向日葵がデザインされたマンホール蓋。

        
         門司往還筋には町家らしきものは存在しない。1866(慶応2)年7月3日の幕長戦争大
        里の戦いによる戦禍や、先の大戦による空襲が影響しているのであろう。

        
         鈴木商店大里製糖所が製糖原料としてジャワ糖の輸入を進め、保税原糖の取扱いを行う
        ため「大里倉庫」が設立され、1920(大正9)年その倉庫として建設された。大里倉庫の
        その後の経緯は分からないが、現在は地元企業に活用されている。

        
         石原宗祐(そうゆう)は28歳という若さで大里村の庄屋となり、1757(宝暦7)年48歳
        の時に庄屋職を辞したが、その間、村民は相次ぐ飢饉にあえいでいたため、自力で大里村
        六本松の荒地を開墾する。その後、弟と猿喰(さるはみ)新田の開作工事に私財を投げ打って
        着手する。
         工事は困難をきわめたが「後世の為になる一大事業なり。これを成し遂げずんば一歩も
        退かず。」と諦めることなく、約2年後に約33.3町(33ha)の新田を得ることができた。
        その後、藩から曽根の開作を命じられて、8年の歳月をかけて完成させる。

        
         大専寺(真宗) は禅宗で柳村風呂(現門司区不老)にあったが、慶長年間(1596-1615)この
        地へ移転し真宗道場となる。この寺も幕長戦争大里の戦いで焼失したため、1878(明治
          11)
年に再建された。

        
        
         西生寺(さいしょうじ)は、室町期の1456(康正2)年に創建された浄土宗の寺院。167
        0(寛文10)年代まで大里宿の現八坂神社の前にあったが、本陣が置かれることになりこの
        地に移転してきた。
         江戸時代には宗門改めの政策により、判行寺(はんぎょうじ)として絵踏みが行われた。こ
        こも幕長戦争大里の戦いで焼失し、1883(明治16)年に再建された。

        
        
         石原通り踏切から関門製糖㈱(旧鈴木商店大里製糖所)の一部を見て、国道を小倉方面へ
        歩く。

        
         国道3号線と鹿児島本線の間の路地に佇む銭湯「やなぎ湯」さん。

        
         路地に入ると通りとは違った大里の町が見られる。

        
         
平安期の1183(寿永2)年木曽義仲に都を追われた平家一門は、安徳天皇を奉じて西に
        逃れ、太宰府に落ちていった。

         しかし、ここでも地元豪族の不穏な動きを察して、遠賀郡山鹿の城を経て、豊前国柳ヶ
        浦にたどり着いた。
この柳ヶ浦が現在の大里のことで、古い記録に「内裏」と書かれてい
        るのは、しばらくの間、仮の御所があったからである。

         現在、戸上神社のお旅所となっているこの地が、仮御所の跡であろうと伝えられて「柳
        の御所」と呼ばれている。(解説板より)

        
         
同年9月の13夜に歌宴が開かれ、栄華を極めた都の生活を偲んで武将たちが詠じた歌
        である。ここでは5名の歌が紹介されている。  

         説明板には
          都なる 九重の内 恋しくは 柳の御所を 立寄りてみよ
                              平忠度(だだのり)(平清盛の異母弟)
         石碑には
          分けてきし 野辺の露とも 消へずして 思はぬ里の 月をみるかな 
                              平経正(経盛の長男・平清盛の甥)
          君住まば ここも雲井の 月なるを なほ恋しきは 都なりけり 
                              平時忠(清盛の継室・平時子の同母弟)
         看板には
          打解けて 寝られざりけり 楫枕 今宵の月の 行方清むまで
                              平宗盛(平清盛の3男・母は時子)
          恋しとよ 去年の今宵の 終夜 月みる友の 思ひ出られて
                              平経盛(清盛の異母弟)

        

         この社殿は、1902(明治35)年明治天皇が熊本に行幸された際、当時の大里駅構内に
                新設された休憩所の建物を柳の御所拝殿として移築造営されたものである。このため拝殿
        正面屋根に「菊の紋章」があり、内部左側には「玉座の間」があるとされる。

        
         この石室には、文化2年(1805)9月建立の銘があり、木舟社をキリメン様と呼び親しん
        でいた村人たちが、神様を保護するため石室を建立したものとされる。

        
         戸ノ上通りにある杉の湯(廃業?)と背後に戸ノ上山。

        
         戸上神社参道の上を北九州都市高速道路が走り、県道71号線が関門海峡に向って真っ
        直ぐに延びる。

        
        
         戸上(とのえ)神社は戸ノ上山の山頂に上宮、麓に本宮があり同一祭神を祀っている。平安
        期の寛平年間(889-898)柳ヶ浦の漁夫が海中から玉を引き揚げたが、その後、神が夢に出て
        きて「鶏の声がしないところに祀るように」とお告げがあり、枝折戸(しおりど)に載せて山
        頂に祀ったのが起こりとされる。山を戸ノ上山、神社を戸上神社と呼ぶようになったとい
                う。

        
         参道の右側にある満隆寺(まんりゅうじ)は、平安期の806(大同元)年弘法大師が唐から帰
        朝の折、戸ノ上山を礼賛して下船して霊峰に登り密法を修め、山麓に一宇を建立し、観音
        像を安置したのが起源とされる。
         昔は6坊を抱えた大寺であったが、大友宗麟の配下によって堂宇・僧坊がことごとく焼
        失する。今の境内には満隆寺の遺構とされる大師堂と日切地蔵堂が並ぶ。

        
         戸ノ上1丁目交差点を左折して不老通りを目指すと、その手前の右手に「風呂の井戸」
        の石碑がある。

        
         この地に夏でも涸れず名水といわれた鏡ヶ池があった。源氏に追われた平家一行が、芦
        屋から海路この柳ヶ浦に着いた時、安徳天皇をはじめ一行が旅の疲れを癒すため、この池
        の水を風呂の水として使われたことから、この池のまわりを整えて「風呂の井戸」といわ
        れるようになる。付近は「風呂」という地名で呼ばれるようになるが、大正末期頃に「不
        老」に改名される。

        
         平家が一ノ谷で敗れ壇の浦の戦いで藻屑と消えたのが、1185(文治元)年3月であった。
        平家一門の霊を祀った風呂禅院西光山大専寺があったが、慶長年間(1596-1615)に改宗して
        街道筋に移され、地蔵堂だけが風呂の一角に残された。 

        
         不老通りの1つ手前の道を歩いて駅に戻る。 


大竹市玖波・小方に旧宿場町と亀居城跡

2023年03月28日 | 広島県

                
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         玖波(くば)は恵川が形成した海岸砂州の平地に立地。地名は木場に由来し、昔、この地
        が薪・材木の積出港地であったことによるという。
         小方(おがた)の東は瀬戸内海に面し、新町川の河口部にあって中央部を国道2号が走る。
        地名の由来は干潟によるとする説(芸藩通志)があるが他説もある。(歩行約5.4㎞)

        
         1897(明治30)年山陽鉄道の広島ー徳山間開通と同時に玖波駅として開業する。駅舎
        の状況からすると設置当時の駅舎と思われる。

        
        
         旧山陽道は峠越えの道だったようで、1873(明治6)年に広島~
大竹間の新道建設が進
        み、1880(明治13)年の幾多の難所を経て海岸沿いの国道が完成した。その後、192
        7(昭和2)年に入り拡張工事が行われ、現在でも町中を出入りする重要なトンネル(玖波隧
        道)である。(小山が馬ためし峠) 

        
         玖波隧道を出ると左手に延命地蔵。耳の病に悩む人を救済するという地蔵で、佐伯八十
        八ヶ所33番札所になっている。

        
         玖波は京から下ってくると安芸国最後の宿場町として栄えたが、1865(慶応2)年6月
        14日の幕長戦争で幕府軍を追撃する長州軍によって町は焼失してしまう。

        
         「つし」は中2階形式で、1階に人が広く住み、2階を物置とする人々の工夫から生ま
        れたものである。大正期から昭和にかけて、副業として蚕を中二階で飼って、収入源とし
        ていたといわれる。

        
         明治半ば頃になると漁業の町として、また、近隣地域からの物資の集散地として新たな
        町並みが蘇る。故に今も明治・大正期の建物がこの町には見られる。

        
         順広寺(真宗)は由緒がないため詳細不明。

        
         寺参道付近から隧道方向を見返る。

        
         玖波宿には4ヶ所の共同井戸があったとされ、角屋の釣井はその一つとして残されてい
        る。駅馬の繋留や人々の集まるところとして賑わい、宿場の重要な飲料水として使われた
        という。
         また、往来の要所であったため、次駅までの定賃銭などや幕府や藩が決めた法度(はっと)
        や掟書きなどを木の板札に書き、高く掲げられた高札場があったという。

        
         明治期になると掲示が不要なったため高札場は撤去され、後に道路の前にあった恵比須
        神社がここに移された。

        
         建物の両側に「卯」字型に張り出した袖卯建を多く見ることができる。

        
         この付近に玖波本陣があったとされ、本陣役は庄屋の平田家が担ってきたが、幕末の幕
        長戦争で本陣は焼失して今ではその姿を見ることはできない。
         一角に錣(しころ)屋根を持つ大きな民家が見られるが、大棟から屋根の途中で区切って段
        をおく形式で、兜の後ろを垂れている錣をイメージして呼ばれるようになった。瓦を積む
        前に屋根を木で組むなど複雑な技法を必要とし、家主が銭金を惜しまないというこだわり
        がないとできない工法である。(旧山陽道は右折して山手に向かう) 

        
         ゆるやかな弧を描いた「むくり屋根」を持つ町家。

        
         駅前通り。

        
         駅前交差点の先には
明治・大正期の建物は見られない。

        
         恵川上流にそびえる行者山(標高314m) 

        
         国道2号線に合わすと山陽自動車道大竹IC入口までは並行歩き。

        
         コンビニ前で国道と枝分かれする道に入る。

        
        
         鍵曲り付近手前から古民家が点在する。

        
        
         陸路と海路の要衝であった小方は、関ケ原の戦い後、福島正則が広島藩主になると、西
        方の備えために国境の地である小方に小方城(通称:亀居城)を築いた。当時、町場は家中
        町で町方は卸場と呼ばれる地に住んでいたが、城の退転後、次第に町人町になったという。

        
         旧山陽道は黒川から小方の城下に入り、苦の坂ヘとつながっていた。

        
         浅野氏の時代には家老上田氏の屋敷、境番所、口屋番所、紙見取り所などが置かれたよ
        うだ。

        
         亀居公園への道は他にもあるようだが、山陽本線に架かる歩道橋から公園を目指す。そ
        れにしても急傾斜の中に民家が建ち並ぶ。

        
         西念寺(浄土宗)の開祖は光明院(廿日市市宮島町)の運誉上人と伝えられ、城跡を見て隠
        居の場所にふさわしいと考え、この地に移り住み修行に励んだとされる。
         感銘を受けた人々が上人のために寺院を建立したいと考え、藩主福島正則に願い出ると、
        1615(元和元)年亀居城にあった円通寺を移築し現寺号にしたという。境内には大クスノ
        キと、本堂には幕府の軍艦が砲撃した傷跡が残されている。

        
         急坂を上って行くと背後に小方・玖波の町並みが広がる。

        
         毛利氏に替わって広島城に入ったのが、豊臣秀吉恩顧の家臣福島正則で、関ヶ原の合戦
        で東軍に与して勝利に貢献した。1601(慶長6)年に論功行賞で芸備二州(現在の広島県)
        を拝領すると、長州との国境である小方に亀居城の築城に乗り出す。
         1608(慶長13)年に城は完成したが、築城から3年後に亀居城は破却されてしまう。
        一説には豊臣氏と徳川氏との衝突が高まる中、豊臣氏恩顧の福島正則が広島城の支城とし
        ては、巨大で堅固な城であったことが災いして、徳川家康の疑念を招いて破却したといわ
        れている。

        
         亀居城は山陽本線の西に聳える標高88m余りの桜山に築かれており、現在は亀居公園
        として整備されている。桜見シーズンであるためか多くの人が訪れている。

        
         石垣造の城郭であるが、公園化により石垣は積み直された部分もあるが、往時の石垣も
        あって見応えのある山城である。本丸を中心に二の丸・三の丸など11の曲輪が続いてい
        るが、亀の形に似ていることから亀居城と呼ばれるようになったという。

        
         大竹方面が一望できる。

        
         公園から往路を引き返すと厳(いつき)神社の入口に立安寺(真宗)がある。創建年ははっき
        りしないようだが、1611(慶長16)年頃に禅宗から真宗に改宗したとされる。

        
         注連柱(標柱)は、大竹市内では最も規模の大きなものの1つとされ、1906(明治39)
        年の日露戦争凱旋記念として帰還兵士によって建てられたものという。
         右の柱には「徳被馬蹄之所極」、左の柱には「化照船頭之所逮」と彫られ、古事記の序
        文が引用されているとか。

        
         石段を上がると左手に住吉神社、正面に益豊神社と稲荷神社が祀られている。 

        
         鳥居の形式は両部鳥居で、宮島の厳島神社の大鳥居と同型である。柱の頭に台輪を載せ
        た稲荷鳥居に、四脚の控え柱(稚児柱)を従えている。
         木造の鳥居は良く見かけるが、石造りの鳥居は珍しく規模の大きな鳥居で、1926(大
           正15)
年10月吉日の建立と刻まれている。

        
         神社の由緒などは慶長年間(1596-1615)の火災で焼失して不詳とされるが、「応安2年
        (1369)再建」の棟札が残されているという。
         亀居城の守護神として本丸に鎮座していたが、城破却後は現在地(亀居城妙見丸)に遷座
        し、厳宮(ごんのみや)大明神と称していたが、明治になって現社号に改称する。

        
         拝殿には大竹市が企業誘致した第1号の「大倉組山陽製鉄所」の絵馬、年号の入った絵馬           
        や俳句の絵馬などが幾つも掲げてある。

        
        
         旧山陽道を玖波方面へ戻る。

        
        
         数軒の古民家が見られる。

        
         今度は亀居城公園分岐を右折して国道へ向かう。

        
         大竹シルバーセンター内に建つ石碑。

        
        
         大竹市市営「こいこいバス」のシルバーセンター前バス停からJR玖波駅に戻る。


直方市に石炭記念館と城下町

2023年03月22日 | 福岡県

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         直方は遠賀川中流の左岸に位置し、もとは東蓮寺と称していたが江戸前期に直方と改め
        る。
         地名由来について、新入村のうちの小村名に拠ったと伝えられるが、他にも易断による
        方角に基づいて近隣の直方村の名を採り、その直方村は中泉村と改称させられたとか。(歩
        行約3.6㎞) 

        
         JR筑豊本線直方駅は、かって石炭の集荷・輸送の中核を担った駅である。

        
         駅前には当市出身の元大相撲力士で、大関となった魁皇関の銅像が設置されている。 

        
         圓徳寺(真宗)は、1624(寛永元)年黒田高政が東蓮寺藩を立藩し、城下町建設の折に鞍
        手郡植木町より移転して、城下町北の出入口「植木口」を守る要として建てられた。
         現在の本堂は、1908(明治41)年貝島炭鉱の創始者貝島太助らが発起して建立された
        が、幼い頃に境内で遊び、父母を供養し、貧困時代から励ましてくれた寺への感謝の表れ
        といい、本堂には貝島家の仏間が移設されている。
         なお、山門は直方藩主の居館門を移築したものという伝承がある。

        
         直方は飯塚、田川と並んで筑豊3都市の1つで、旧長崎街道沿いに連なる歴史的な商店
        街だけあって、意外と長いアーケードが続く。どの地方の商店街もそうであるように、古
        町商店街もシャッター街となっている。

        
        
         この辺りが古町南端で「西構口」があったと案内されている。陣屋城下町として整備さ
        れたが、東蓮寺藩5代藩主・長好が福岡藩本藩の継子となったため、1720(享保5)年4
        代藩主長清の逝去をもって廃藩となる。
         廃藩後、藩士はすべて福岡に転出したため、町の衰退を懸念した直方の町人は、藩に願
        い出て遠賀川の西岸を通行していた長崎街道を誘致して在郷町として発展する。

        
        
         旧十七銀行直方支店(現直方市美術館別館で通称アートスペース谷尾)は、1913(大正
          2)
年に建てられた2階建ての木造建築である。マンサード式の屋根(腰折屋根)を持ち、赤
        茶色のタイルと白い石の組み合わせが町に映える。

        
        
         多賀町公園は、炭鉱王・貝島太助の旧宅跡で、木造3階建ての豪華な建物であったとい
        う。園内には貝島太助の銅像(長崎平和記念像の作者・北村西望作)が建ち、貝島邸に宿泊
        した森鴎外の文学碑、郷土の俳画家・阿部王樹の句碑「炭鉱王がいさおしとはに陽炎す」
        がある。

        
         直方市の木とされるタイサンボクの花と、周囲はよくわからないが特徴的な模様が描か
        れているマンホール蓋。

        
         殿町商店街を抜ける。

        
         1922(大正11)年建てられた旧讃井病院(現向野堅一記念館)は、木造2階建て桟瓦(さ
          んがわら)
葺きモルタル造りである。北東の隅に3階建ての塔屋を配したセセッション風で、
        モダンなデザインの玄関上部はバルコニーとなっている。
                
病院は内科・胃腸科・歯科(後に小児科)を備えていたようだが、のちに郷土出身の実業
        家であった向野記念館となる。

        
               
         石原商店(上)と前田園本店(下)は、1926(大正15)年に相次いで建てられた町家であ
        る。いずれも主屋の2階部分に銅板の装飾をふんだんに用いた平入りの建物である。

        
         1901(明治34)年に建てられた木造板張り2階建ての江浦医院。洋風の外壁とは対照
        的に玄関前には切妻風の屋根が張り出すなど和洋折衷の建築様式である。

             
        
         1813(大正2)年旧奥野医院は皮膚科として開業するが、当初の建物は火災で焼失した
        ため昭和初期に再建されたが、1990(平成2)年に閉院となる。木造2階建ての洋館は、
        装飾帯を配した大きな庇を持つ玄関や、縦線を強調し連続的に配置した1・2階の窓が印
        象的である。
         1992(平成4)年に故谷尾欽也氏が美術館として公開したが、のちに美術館と作品が市
        に寄贈されて「直方谷尾美術館」となる。 

        
         1915(大正4)年に建てられた旧篠原邸(直方谷尾美術館収蔵庫)は、平入りの2階部分
        は軒裏まで漆喰で塗り込め、くり型を付した窓を3ヶ所設けている。以前は米屋だったと
        いう。

        
         須賀神社の社叢が見えてくる。

        
         主屋の向きとは異にして、道路に並行するよう店構えが施してある。細長いものが看板
        だったようで、たばこ販売以外に何を生業にされていたのだろうか。

        
         須賀神社の由緒書きがないため創建年などは不明であるが、祇園信仰の神社である。平
        安期の861(貞観3)年境内に隕石が落ちてきたといい、5年に1度の御神幸大祭時に公開
        されるという。

        
         直方歳時館は炭鉱開発に尽力した堀三太郎の居宅として、1898(明治31)年に建設さ
        れた。約1,100坪の敷地に日本庭園と土蔵、木造平屋の純和風建物がある。現在は生涯
        学習施設として利用されているため、見学は無料であるが使用されている部屋は見学がで
        きない。

        
         堀三太郎(1866-1958)は、明治から昭和前期にマルチな手腕を発揮した実業家で、貝島・
        麻生・伊藤・安川と共に筑豊5炭鉱王の一人であった。大正期に衆議院員議員を1期在任
        したが、1941(昭和16)年子孫に事業を残さず一切の事業を整理し、邸宅を市に寄贈し
        て現福津市福間の別荘に移り隠棲する。

        
         邸宅は直方の町を見下ろす高台にあって、直方の西方に位置する福智山を借景とした枯
        山水庭園である。

        
         築年からすると堀三太郎が31歳の時に建てたことになるが、築100年の建物は老朽
        化にともない、1998(平成10)年に改築復元される。

        
         1623(元和9)年福岡藩初代藩主・黒田長政が没し、その遺言により4男の高政に4万
        石が分知され、支藩の東蓮寺藩が成立する。1626(寛永3)年に城下町が形成され、藩主
        の御館(陣屋)は殿町(現在の双林院付近)に置かれた。1675(延宝3)年3代藩主・長寛の
        代に東蓮寺を直方と改める。
         長寛が本藩を継ぐことになり、一時廃藩となるが、長寛の弟・長清が5万石で入封すると、
        直方体育館がある丘に直方御館(陣屋)を移した。(「史跡直方城址」の碑が建つ)

        
         歳時館から多賀神社への道(旧長崎街道)。 

        
         石炭記念館と多賀神社の上り口。

        
         参道から見る直方の町並み。

        
         多賀神社は直方の鎮守、産土神であり、寿命の神・鎮魂・厄除の神として信仰されてい
        る。
         創建年代などについては不詳とされるが、奈良期には妙見大明神と称したという。また、
        現在地より南の妙見山にあり「妙見社」とも呼ばれていた。妙見山に御館を築造する際、
        現在地に遷座し、1692(元禄5)年に現社号である多賀神社に改めたという。

        
         拝殿前の幕にある御神紋は「向鶺鴒(むかいせきれい)」で、これは夫婦のセキレイの仲睦
        ましい姿にならって諸々の神を生んだ古事によるという。 

        
        
         「桃の花招福稲荷祭」に因み、社務所前や回廊にひな人形やさげもんが展示されていた。

        
         多賀神社に隣接する直方市石炭記念館は、1910(明治43)年に建設された筑豊石炭鉱
        業組合会議所の建物である。本部事務所は石炭の積出港である若松に置かれていたが、筑
        豊地区に多く居住する炭坑経営者の利便を考えて開設された。

        
         階下が事務室、階上が会議室で総会や常議員会などが開催された。

        
         筑豊炭田は、1872(明治5)年鉱山解放令公布の頃から1976(昭和51)年までの約
        100年間日本の産業発展に寄与してきた。筑豊炭田の歴史を伝える資料館として活用さ
        れ、写真や壁画資料、使用された機材などが展示されている。

        
         1965(昭和40)年日鉄嘉穂炭坑上穂波坑から掘り出された2tもある石炭塊。 

        
        
          記念館の裏手には、ガス爆発や落盤事故などの炭坑災害に備えて筑豊石炭鉱業組合に
        より、1912(明治45)年から1923(大正12)年に建造された救護訓練所模擬坑道であ
        る。
ドイツから輸入された実践即応の救命器具を使用した訓練が行われた。(1968年閉
        所)

        
         1925(大正14)年貝島炭鉱が資材運搬用としてドイツから輸入し、貝島炭鉱専用線で
        使用された蒸気機関車コッペル32号。水、石炭を機関車本体に積載するタンク機関車で、
        1976(昭和51)年の閉山まで走り続けた。
         記念館にはもう1台蒸気機関車「C11 131」が保存されているが、後ろに石炭車
        セム1号を従えている。

        
         庚申社。 

        
         1673(延宝元)年開基とされる隋泉寺(浄土宗)は、門前の案内板によると、古くは「瑞
        泉寺」と書き、一体は湧水の豊富なところだったという。
         本堂裏の小山には、江戸期の俳人・有井浮風(うふう)と諸九尼(しょきゅうに)の比翼塚があ
        る。比翼塚とは相愛の男女を同じ場所に葬った塚のことで、俳句の師である浮風を追い、
        庄屋の妻だった弟子・諸九尼(本名なみ)が駆け落ちした恋物語である。浮風死後、諸九は
        剃髪して各地を行脚、晩年は直方に戻り、草庵を結んで浮風の菩提を弔ったという。

        
         雲心寺(臨済宗)は初代藩主高政が父・長政の菩提を弔うために、1625(寛永2)年に建
        立した。境内には高政、2代之勝などの墓塔がある。

        
         西徳寺(真宗)は筑前名島城主小早川秀秋の家老・篠田次郎兵衛重英が、関ケ原後に出家
        してこの地で草庵を結ぶ。初代藩主・黒田高政が本堂を建立し、準菩提寺として手厚く保
        護したという。山門は直方藩廃藩の際、藩主館の横門を移築したものである。 

        
         鐘楼の床置きの梵鐘は、福岡城で時を告げていた鐘が縁あって辿り着いたという。ひび
        が入り今は音が出ないそうである。

        
         鐘楼の奥に「林芙美子滞在記念碑」がある。碑の裏面の説明によれば、1915(大正4)
        年芙美子が12歳の頃、直方の入口屋という商人宿に父母ともども滞在し、手甲脚絆姿で
        木屋瀬・中間方面に辻占を売り歩いていたという。

        
         寺境内から見る直方駅。


北九州市の黒崎は長崎街道の宿場町だった地

2023年03月22日 | 福岡県

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         黒崎は洞海湾南岸に位置し、江戸期には長崎街道の宿駅であり黒崎宿と呼ばれた。小倉
        から長崎へ向かう最初の宿駅であり、対馬や五島を除く九州西域の大名や多くの旅人が利
        用したという。(歩行約5.4㎞)

        
         JR黒崎駅は、1891(明治24)年九州鉄道の駅として開業する。1984(昭和59)
        橋上駅舎となり、のち駅前デッキが完成し商業施設と接続される。

        
         1979(昭和54)年「黒崎そごう」として開店したが、そごうグループの経営破綻を受
        けて、2000(平成12)年に破産する。2001(平成13)年井筒屋が移転してきたが、入
        居する運営会社が経営破綻したことから、2020(令和2)年撤退する。(左手のビル)

        
         車道に見える横断歩道が長崎街道。

        
         黒崎宿の案内板がある田町東交差点を散歩のスタートとする。

        
         同地には黒崎湊の常夜灯と開作成就の碑がある。
         常夜灯は、1849(嘉永2)年航海安全を守る灯台として黒崎湊の入口に設置されたが、
        今は消滅した黒崎湊の存在を示す歴史遺産とされる。
         城石村(しろいしむら)開作成就の碑は、JR黒崎駅北側の城石村に建てられたものだが、
        洞海湾が深く入り込んでいる浜を埋め立てて水田を作るために、1687(貞亨4)年から大
        規模な工事が数回行われた。堤防には城山(黒崎城)の石垣が使用されたことから地名の由
        来となる。碑には「元文三年(1738)午五月城石村開立成就」と記され関係者の氏名が刻ま
        れている。

        
         黒崎城は福岡藩初代藩主・黒田長政の命により、1604(慶長9)年隣国である豊前との
        国境沿いに6つの城(筑前6端城)の1つとして築城された。
         1615(元和元)年の1国1城令により破城されたが、関ケ原の戦い後の不安定な政治情
        勢を物語る遺跡とされる。ちなみに筑前6端城とは、この黒崎城をはじめ若松城(中島城)、
        大隈城、鷹取城、小石原城、朝倉市の左右良(まてら)城である。

        
         新田開発のための護岸に石垣が使用されたため、現在はわずかに石垣が残る程度である。

        
         山頂部からの眺望は最高だが、あいにくの黄砂でご覧の有り様だった。(3月10日撮影)

        
         城山に再挑戦しようと思ったが、階段と時間の関係もあってこの地から山頂を眺めて城
        巡りを終える。

        
         1615(元和元)年黒崎城を廃した際、城の南側にあった堀を埋めて構口が開かれた。番
        所を設けて通行人を監視したのが始まりで、黒崎の宿場を通過するには必ず東と西にある
        構口で検問を受けなければならなかった。(江戸側が東で長崎側が西とされた) 

        
         海蔵庵(浄土宗)の寺伝によれば、平安期の延喜年中(901-923)に聖武天皇が九州巡拝の折、
        山寺に立ち寄られ一宇を建立されて海蔵庵観音寺と号された。1683(天和3)年芳譽傳廊
        上人という人が、田町に火災、病人が多数出たこともあり、住人の要請もあって山寺にあ
        った観音寺を廃し、海蔵庵と改称して現在地へ移転したと云われている。 

        
         海蔵庵の向い側に自在院という寺があるが詳細不明。

        
         長崎街道は次の四ツ辻を左折する。 

        
         田町の案内板によると、左折した右手一帯にかけて御茶屋があったとされるが、現在は
        何も残っていない。

        
         黒崎バイパス高架下と鹿児島本線を横断するが、左手のフェンスには、地域の大切な道
        として「お茶屋通りの憲章」が掲げてある。

        
         線路を横断すると右手の一角に歌碑2基が建てられている。桜屋の離れ屋敷の庭にあっ
        た主人古海東四郎正顕と5卿にまつわる歌碑である。勤皇の志が厚い正顕は、和歌にも造
        詣が深く、5卿に和歌を献上した云われている。その時の三条実美・正顕の和歌が石碑に
        刻まれている。

        
         右手の句碑は
        「きかまほし大内山の鶯の こころつくしにもらす初音を」(正顕)
        「九重の春にもれたるうくひすは 世のことをのみなけきこそなけ」(実美=三条実美)
          正顕が宮中の鶯の鳴き声にたとえて京都の様子をたずねたことに対し、実美が「自分は
                帝のお側にも仕えられない。世のありさまを嘆き悲しんで見ているほかない」と答えた。
                左手の句碑は
        「さすらひし昔の跡のしるしとて 植し小松の千代に栄えよ」(東久世通禧(みちとみ)
         1909(明治42)年東久世通禧が太宰府天満宮の帰路、京を追われ、苦しい逃避行を続
        けた当時の証として、この地に松を植え生い茂るようにと詠んだ句で、松は枯れたので句
        が建立された。 

        
         桜屋は黒崎宿にあった旅籠屋の1つで、1808(文化5)年頃の創業と伝えられ、薩摩藩、    
        熊本藩の御用達や佐賀藩の定宿を務めた。桜屋と呼ぶ前は薩摩屋と称していたが、幕末期
        には西郷隆盛や坂本竜馬などの志士たちをはじめ、三条実美ら五卿が宿泊する。(跡地には
        マンション)
         桜屋の「離れ座敷」は、1840(天保11)年築といわれ、明治維新の歴史を伝える貴重
        な建物として八幡西図書館内に復元されているという。(見落としてしまう) 

        
         国道3号線を横断すると、春日神社の鳥居が見える片隅に「黒崎宿人馬継所跡」の碑が
        ある。問屋場ともいい、輸送を担当する宿場の主要な施設で、人足や馬が常備されており、
        参勤交代に必要な人馬の手配や飛脚が運ぶ荷物なども取り扱っていた。当時は神社の参道
        口付近にあったとされる。

         
         春日神社の創建年は不詳とされるが、中世には領主・麻生氏が代々崇敬してきた神社で、
        もとは花尾山(現在は花尾城公園)の麓にあったという。1604(慶長9)年黒崎城が築かれ
        た時に遷座された。

        
         拝殿正面には「國祖黒田大明神」「二十四騎霊神」の扁額が掲げられている。

        
         春日神社の入口右手に東光寺のお堂がある。浄蓮寺の末寺で麻生氏によって建立された
        といわれるが、由緒・創建年代は不詳とされる。

        
         長崎街道を西進する。

        
         正覚寺(真宗)は門司家の家臣であった三尾就定が、室町期の1561(永禄4)年大友氏に
        城を囲まれ、就定は戦わずして現在の芦屋町山鹿に逃れた。その後、「三清」と改めて現
        在の正覚寺のある辺りに小庵を結んで隠遁生活を送ったという。黒崎宿が整備された後の
        1632(寛永9)年に寺号を得たとされる。

        
         代官所跡には石碑のみ。

        
         アーケード入口の広場は案内板のみで街道だった面影は見られない。

        
         くまで通りはアーケード商店街で、入口には長崎街道の大きな看板が設置されている。

        
         地方のどこでも見られる商店街の風景である。1889(明治22)年町村制施行により、
        前田、藤田、熊手、鳴水村が合併して黒崎村となるが、のち町制に移行する。1926(大
          正15)
年八幡市に編入され、現在は北九州市八幡西区である。

        
         興玉神は商店街の通りに面して鎮座しているが、室町期の1565(永禄8)年熊手街道の
        守護神として、伊勢国の猿田彦大神総本社から分霊を勧請したとある。関の神、賽の神、
        庚申興玉神として崇敬されているという。 

        
        
         岡田神社の由緒によると、崗地方(旧遠賀郡)を治めていた熊族が祖先神を祀ったのが始
        まりとされ、この一帯を「熊手」と号したという。「古事記」に神武天皇が東征の折に逗
        留したと記載されている古社で、天・地・人の三ノ宮を有する。
         黒崎城が築城され黒崎宿が整備されると、山手町から現在地に遷座される。

        
         西構口跡。

        
         乱橋は地名であった説や、黒崎の俳人関屋沙明が「ほたる飛ぶ松のはずれや乱橋」と詠
        んだことから、ホタルの群舞が橋に邪魔されて乱れ飛ぶ様子から乱橋(みだればし)と名付け
        られたという説もある。 

        
         街道は乱橋で左折して正面に見える松林へ向かう。 

        
         乱橋から山手通りという大通りを渡ると、曲里(まがり)の松並木の出入口に出る。

        
        
         曲里の松並木は、江戸期から残る松で「街道松」と呼ばれ、1955(昭和30)年代には
        57本残っていたが、 現在、当時の松は2本だけになったという。

        
         松並木から見える皿倉山。

        
         約1㎞の松並木というのでここで引き返すが、道幅4mほどの街道筋には昔ながらの土
        塁も残る。

        
         北九州市の市の花であるひまわりがデザインされたマンホール蓋。

        
         西構口まで戻って駅への道。


山口市徳地の岸見に弾除け神社と石風呂 

2023年03月20日 | 山口県山口市

               
               この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         石州街道は防府市の右田市を終起点として、佐波川右岸沿いに山口市徳地の堀に至った
        のち、八坂、柚野を通って徳佐へ行く道であった。
         防府市奈美、中山から市境を越えて山口市徳地の岸見地区まで散歩する。(歩行約5.8
        ㎞) 

        
         JR防府駅から防長バス中山経由堀行き約約23分、奈美バス停で下車する。

        
         バス停から旧道筋に出て堀方面へ向かうが、この付近が旧小野村の中心地であった。こ
        の先、県道を横断して佐波川沿いに出る。

        
         大井谷川に架かる橋の袂にあるお堂は、幕で覆われた状態となっている。

        
         県道と旧道が合わす付近に渡し場があったというが、その痕跡は残されていない。

         
         佐波川は山口・島根県境の三ツヶ峰に発し、周防灘に注ぐ56㎞の一級河川である。1
        951(昭和26)年の佐波川大洪水により、中山地区の堤防が決壊し、大きな被害が出て佐
        波川ダム建設の契機となった。(見える集落が中山地区)

        
         中山は往古には人家もなかったが、次第に開けて人家もできて、平地の中に小さな山が
        あるので中山というようになったという。(右手の川は中山谷川) 

        
         庚申は中国の道教から起った信仰で、平安時代に伝来して公卿の間では、この夜に天帝
        を祭る行事が行われていたという。一般庶民に信仰されるようになったのは江戸初期頃か
        らで、それ以降次第に盛んになり、その間に仏教と結びついて女戒をいましめる青面(しょ
          うめん)
金剛信仰となり、申が猿に通じて神道と結びついて天孫降臨の道案内をしたという
        猿田彦大神になる。 (1970年頃北へ8m移動) 

        
         街道筋に人家が集中し、周辺には長閑な田園風景が広がる。

        
         何地蔵尊だろうか大事に祀られている。

        
         徳龍寺(曹洞宗)は、鎌倉期の建長年間(1249-1256)北条時頼が御廻国の時に創建されたと
        いう。その後、神仏習合の時代には徳地町岸見の三坂神社の社坊でもあった。室町期の1
        530(享禄3)年現在地に移転し、江戸後期の火災により記録等が失われたとされる。 

               
         蔵は他に活用されているようだ。

        
         薬師如来は衆生の病根を救い、病を癒す霊験あらたかな仏として古くから信仰されてき
        た。
         この中山薬師堂はいつ建立されたかその年代は不詳とのことだが、薬師如来坐像は藤原
        氏の時代(平安中・後期)の作とされる。本尊のほかに地蔵菩薩立像、聖観世音菩薩像、毘
        沙門天立像も安置されているというが、施錠されて堂内を拝見することはできない。

        
         市境を越える。 

        
         弾除け神社として知られた三坂神社の参道は長い石畳。

        
         由緒書きによると創建年は不明だそうだが、初見は奈良期の738(天平10)年に見られ
        る。平安期の927(延長5)年にまとめられた延喜式神名帳に神社名が記載されているとの
        こと。

        
         先の大戦中「日清・日露戦争の際、三坂神社に祈願して出征した氏子の兵士全員が生還
        した」と報道されたことから、武運長久祈願のみならず、弾除け神社として知られるよう
        になった。出征軍人の家族らが写真を奉納し、当時全国各地から2万枚を超える写真が寄
        せられたそうで、現在は写真の返還作業が続けられているという。(神徳顕彰碑)

        
         旧道に戻ると半鐘が吊り下げられている。

        
         見事な臥龍松。(N邸)

        
        
        
         「石風呂の記」によると、鎌倉期の1186(文治2)年に重源上人が奈良東大寺再建のた
        め大勧進として、周防国佐波川上流に用材を求めた。非常な難作業であり、人々の疲労も
        甚だしく多数の病人やケガ人が続出したので、上人はこうした人々の苦労を見るに忍びず、
        所々に石風呂を造して救い給うた。その1つなり」とある。(名称は岸見の岩風呂)

        
         構造は野面石を内膨らみに組み上げ、大石をもって蓋をして石室を築き、土間にも石を
        敷き詰めている。石室の大きさは幅4m、奥行き3.6m、高さ1.8mである。

        
         五穀収穫の神である大歳社。(岸見研修センター横) 

        
         この近辺は土井集落のようだ。

        
         何が祀られているのか聞こうにも人に会えず。

        
         超勝寺(真宗)の創建について、室町期の延徳年間(1489-1492)に大見山の荒神社麓より
        釈迦の木像が浮かび出てきたので、大内氏が禅律兼学の道場として専皇寺を建立したこと
        には始まるという。
         大内氏滅亡後は破壊して古跡寺となっていたのを、1659(万治2)年芸州三次の大木某
        が来住して当村で出家し、超勝寺として再興したという。

        
        
         1874(明治7)年岸見村土井に岸見小学校が創設されたが、1971(昭和46)年堀・
        岸見・伊賀地・御所野小学校が統合されて中央小学校となる。
         一段高い所が校舎跡のようで、グランドと共に地域の運動施設として活用されているよ
        うだ。

        
         最初は荒神社と思ったが違うようで、マップを見ると「荒川神社」となっているが、由
        緒書きがないので詳細は不明。鳥居には江戸期の寛延4年(1751)8月吉日と刻まれている。

        
         この石段を上がる気にはなれなかった。

        
         トタン葺き屋根も少なくなった。 

        
         見どころは少なかったが、弾除けの三坂神社と岸見の岩風呂に歴史を感じて、徳行バス
        停からJR防府駅に戻る。


宗像市赤間は旧唐津街道沿いの町

2023年03月10日 | 福岡県

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         赤間は釣川上流域に位置し、北部は城山南麓の丘陵地にある。地名の由来は、神武天皇
        が東征の際、道に迷われた時に八所宮の神が赤馬に乗って案内したことから「赤馬」と名
        付けられ、のちに赤間と書くようになったという。(歩行約3㎞、🚻赤間館にあり)

        
         JR鹿児島本線の教育大前駅で下車する。JR教育大前駅が開業したのは、1988(昭
          和63)
年で線路は切通しの中に設置され、道路橋に駅舎が併設されている。1966(昭和
          41)
年福岡教育大学を赤間町に誘致したのは出光佐三ともいわれている。

        
         駅前に「旧唐津街道・赤間宿」の大きな木柱が立っているが、ここが東構口だったと思
        われる。

        
         ここから釣川近くにあった西構口までが赤間宿である。 

        
         須賀神社の石鳥居脇に道標があり、「従是右木屋瀬 従是左芦屋」とある。

        
         須賀神社境内には貴船神社、菅原神社、水神社、恵比須神社が祀られている。

        
         辻井戸は宿場の旅人や馬に飲水を供給するためのもので、赤間宿には7ヶ所(うち2つが
        現存)の辻井戸があった。

        
         一の鳥居横に宗像三偉人の一人と云われる「節婦阿政」の碑がある。大黒屋七兵衛の後
        妻の娘で、父が決めた許婚と経済的理由から結婚できず、勝浦村の大庄屋の子息の求婚と
        の狭間で思い悩み、1801(享和元)年18歳で自害したという。
         左の碑は人のために力を尽くした石松林平・伴六の碑。 

        
         須賀神社は赤間の氏神で、江戸期には祇園社と称していたが、明治期になると祇園は仏
        教的であるいう理由で須賀神社に改称する。

        
         法然寺(浄土宗)の寺説によると、法然上人の弟子であった幸阿上人が、圓光大師の白骨
        を首にかけて九州に下り、この地に白骨を埋めて草庵を結び、圓通院と名付けたのが始ま
        りとする。安土桃山期の1575(天正3)年に慶春という僧が当寺を建立したという。

        
         法然寺のすぐ南側には五卿西遷の石碑が立っている。京都を脱出して長州に落ち延び、
        筑前太宰府へ移されることになる。
         攘夷派の急先鋒であった三条実美以下5名が、1865(慶応元)年黒崎湊から筑前入りし、
        法然寺の裏手にあった御茶屋に25日間滞在したという。

        
        
        
         城山(じょうやま)から延びる丘陵の傾斜に沿って町筋が形成されている。

        
         左手が海軍兵学校の校長や舞鶴要港司令官を務めた出光万兵衛の生家跡。右手の兜造り
        の屋根を残す出光邸(蛭子屋)は、赤間宿内では最も古い建物で醤油・酢・味噌などを製造
        し、両替・荒物業も営んでいたという。

        
         出光興産の創始者である出光佐三は、1885(明治18)年藍玉問屋(松屋)を営む出光藤
        六の次男としてこの地で生まれ、神戸商高(現神戸大学)卒業後に小麦と石油を扱う従業員
        3名の酒井商会に丁稚奉公する。
         1911(明治44)年25歳の時に独立を果たし、現北九州市門司区で機械油を扱う出光
        商会(後の出光興産)を設立。戦後は石油元売業者として、イギリスの支配下にあったイラ
        ンから石油輸入に成功し、石油を自由貿易する先駆けとなる。

        
         赤間宿の特徴は兜造りの町家にある。通りに面して2階の軒を低くして小さな窓を設け
        て、正面から見ると武士が用いた兜に似ていることから名付けられたという。

        
         お菓子の製造、卸、小売りをされてきた桝屋。江戸中期の建物で「中の間」には明り取
        りがあって、鰻の寝床といわれる奥行きが深いため、製造に利用された運搬用のレールが
        あるとか。入口に「桝屋」という一枚板で作られた大きな看板があったが撤去されている。 

        
         桝屋さんの向い側に出光佐三展示室。戸袋に屋号があったものと思われるが見えず。

        
         旧芳村呉服店は特産品の販売や食事ができる街道の駅「赤間館」となり、施設内には井
        戸も現存する。

        
         赤間宿には上町と下町のそれぞれに町茶屋(脇本陣)があったという。ここには下町の新
        屋(あたらしや)という屋号の町茶屋があり、上級武士が参勤交代の時に宿泊したとされる。

         
         1790(寛政2)年創業の勝屋酒造は、隣の三郎丸という地で醸造を始めたとされ、18
        73(明治6)年6月に福岡県で起こった民衆暴動(筑前竹槍一揆)で打ち壊しに遭ったのち、
        この地に移転したという。
         宗像大社の御神木に由来した「楢の露」の銘柄で酒造を続け、宗像大社の御神酒も造り
        続けている。

        
         奈良県にあるお酒の神様を祭る大神神社では、美味しい酒ができるようにと杉玉を飾っ
        てきたが、その習慣が江戸初期から全国の酒蔵に広まったという。軒先に緑の杉玉を吊す
        ことで、新酒が出来たことを知らせる目印とされる。

          
         勝屋酒造の主屋と煙突は国登録有形文化財。

        
         萩尾邸は江戸後期の建物で、1888(明治21)年頃に屋号「新屋」として、こんにゃく
        製造業を営む。

        
         辻行燈などもあって風情ある町並みではあるが、交通量も多くて注意しながらの散歩と
        なる。

        
         中央に旧宗像市の市章と、周りに市の花であるカノコユリがデザインされたマンホール
        蓋。

        
         現存する辻井戸の1つ。

        
         今井神社の由緒は不明であるが、木製鳥居の先に大木が参拝を妨げる。

        
         石松邸は明治前期の建物で、以前は荒物屋で橋口屋と称していたという。 

        
         吉田邸は明治初期の建物で、戦前まで家具の製造販売をしていた。二階の窓横に「儀」
        の鏝絵がある。

        
         石松邸は蔦屋という屋号で呉服店を営んでいたとされ、兜造りの屋根と蔀戸(しとみど)
        見られる。

        
         「蔦」と文字が彫られた差し掛け。

        
         赤間構口交差点付近が西構口とされ、遺構は残されていないが、交差点表示で構口であ
        ったことを知ることができる。

        
         辻田橋の袂に2つの石柱が建っている。右は「此方鞍手郡山口道 此方畦(あぜ)町道」と
        刻まれた追分石である。
         左手は一番定石といわれるもので、釣川は氾濫しやすい暴れ川のため江戸期に大規模な
        治水工事が行われた。江戸後期の宝暦年間(1751-1764)頃に行われたが、1791年川底を
        浚って土砂などを取り除く工事が、この橋から河口にかけて10ヶ所で行われ、10本の
        定石が建てられたが1番目の場所を示すものである。

        
         公園から見える宗像城山には、安土桃山期まで宗像氏の蔦ヶ嶽城があったことから城山
        と呼ばれている。貴重なウスキキヌガサタケが見られることで山の存在が知られている。

        
         釣川沿いにある公園に「唐津街道 赤馬宿」の石碑が建立されているが、「赤馬」と表
        示されている。(ここで引き返す)
         1899(明治32)年九州鉄道が開通して地内を通るが、赤間駅が当地より西方に設けら
        れたため旧街道の賑わいは衰えた。

        
         浄万寺(真宗)は、室町期の1556(弘治2)年許斐岳城主であった占部氏が出家、現在の
        宗像市田久寺山に開創。後に現在地へ移転したとされる。

        
         猿田彦神社も由緒がなく創建年などは不詳。鳥居には明治12年(1879)と刻まれている。
         唐津街道ができる前の旧街道を歩いてみるが、赤間中学校が御茶屋(本陣)だったという
        以外には何もなかった。


広島市の草津は旧山陽道の宿場町 

2023年03月08日 | 広島県

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         草津は古くには久曽津とも称した。西方に鈴ヶ峰、鬼ヶ城山があり、南東は広島湾に面
        する。地名の由来は、神武天皇・神功皇后の営陣の地と伝えることから軍津(いくさつ)と称
        し、これが転訛したものという。(歩行約4.8㎞)

        
         JR新井口駅から広島電鉄に乗り換えて約3分、草津駅で下車する。

        
         草津駅から路地を抜けると慈光寺、鷺森神社筋が旧山陽道である。
         室町期の1447年(文安4)年禅宗寺院として慈光寺が創建されたが、1703(元禄16)
        年に日蓮宗に改宗する。寺なのに境内に神仏習合時代の鳥居がある。
                 広島市は爆心地から5㎞以内に現存する建物などを被爆建造物とし、同寺の山門が登録
        されている。

        
         鷺森神社の由緒によると、平安期の960年(天徳4)年に勧請されたと伝え、御祭神が女
        神なので弁天社と称して豊漁と海の安全を祈った。往古、この一帯は海辺であり、近世に
        なると干拓が進むに伴い内陸の神社となってしまう。(本殿が被爆建物)

        
         祭神は猿田彦之神で庚申さんから現在の幸(こう)神社に改名した。1897(明治30)
        鉄道開通のため、庚申を取り除くことになり現在地に遷座したという。
         小さな境内に大きくそそり立つ銀杏の大木は、樹齢は不明だが400年以上といわれて
        いる。

        
         海蔵寺は小高い所にあって、参道の途中には山陽本線が横断している。(力剪(りきぜん)
        第1踏切)

        
         室町期の応永年間(1394-1428)に中国の僧・慈眼禅師が創建したといわれる海蔵寺(曹洞
        宗)は、1558(弘治元)年厳島合戦では毛利方の陣中に用いられた。
         広島藩の時代になると東城浅野家の菩提寺として明治元年まで続き、幕末の禁門の変で
        は、広島藩の仲裁により幕府と長州藩の談判が開かれたという。
         1840(天保11)年に建立された本堂が被爆建物だそうで、のちに屋根部分など一部が
        補強補修されている。

        
         本堂裏には元禄期(1688-1704)に築庭されたという石組庭園がある。池泉鑑賞式で山畔
        が急であるため土留めを兼ねて、池泉護岸から上部にかけて多数の石を組み、西寄りの谷
        部分は滝石組みとなっている。

        
        
         草津八幡宮は見上げるような位置に社がある。189段の石段は段数から「189(ひや
          く)
の石段」とされ、飛躍(さらなる発展)・避厄(災厄をさける)に通じる石段とされている。
        一歩一歩踏みしめて元気よく登って御神徳をいただいてくださいと案内されている。

        
         飛鳥期の625年に海路の守護神として多紀理姫乃命(たぎりひめのみこと)を祀ったのが創
        祀と云われている。
         八幡神を奉斎した時期は諸説あるようだが、鎌倉期に宇佐八幡宮より勧請して当地に祀
        られていた「多紀理の宮」を合祀して、後に力箭八幡宮と称した。現社号になった時期に
        ついて、由緒書きには書かれていないが、本殿と拝殿が被爆建物であるとのこと。

        
         こんもりとした小丘が草津城跡。

        
         境内から草津の町並みが一望できる。(山陽本線と小泉家) 

        
         中央にある「三」は広島市の市章で、旧芸州藩の旗印であった「三つ引」(三)にヒント
        を得て、これに川の流れを表現するカーブをつけて、水都広島を象徴したものとされる。
        草津ではこのマンホール蓋を多く見かける。

        
         城山への道は道路で削り取られたのか急階段が設置されている。

        
         戦国時代には西は廿日市、厳島、南は能美島、江田島、東は五箇庄(広島)、海田市も見
        渡せる重要な場所とされた。
         草津城がいつ頃築城されたかは、はっきりしないようであるが、室町期の1456(康正
          2)
年竹田信賢が草津城を攻め落とし、その後、改築して城としての形が整ったといわれて
        いる。のち新里式部少輔(大内氏)、羽仁有繁(陶氏)と城代が変わり、児玉氏が毛利氏の防
        長移封まで3代にわたり城代として当地を支配した。関ケ原の戦い後、福島正則が広島城
        主になると、草津城下の山陽道に大門を設けて西の関所とし、草津城を壊したといわれて
        いる。

        
         草津八幡宮の参道筋と小泉本店。

        
         天保年間(1830-1844)創業の小泉本店は、宮島厳島神社の御神酒を醸造する造り酒屋であ
        る。店構えは「つし2階」で屋根には煙り出しを備えている。 

        
         旧山陽道を挟んで小泉家の向かい側に、1885(明治18)年明治天皇が広島、山口など
        を行幸され、小泉家で休憩されたことを記念して碑が建てられた。「置鳳輦止處」(鳳輦(ほ
        うれん)を置きしところ)と刻まれているが、鳳輦とは天皇の乗り物を意味する。

        
         御幸川に架かる御幸橋を渡ると交流広場がある。寛保・延亨年間(1741-1748)頃に旧山陽
        道のほとり(現広電宮島線踏切付近)で餅売りをはじめたのが大石餅とされる。店の近くに
        大石があることから「おいしい」とかけられ、「大石餅」と命名されて草津の名物となっ
        た。1998(平成10)年大石餅は長い歴史の幕を閉じたが、本店で使われていた臼と灯籠
        が移設されている。

        
         広電宮島線の踏切を横断して右折すると浄教寺(真宗)がある。境内には臥龍松と名付け
        られた黒松が、人の背丈ほどの高さから枝が3方向に伸びており、どこから撮っても1つ
        に収まらないほど長い。
         臥龍とは地上に伏した龍が今から飛ばんとする姿のようで、名に値するほどの松である。
        (本堂、山門、南門、経堂が被爆建物) 

        
         教専寺(真宗)の本堂は、1936(昭和11)年に建て替えられたが、特徴として向拝部の
        柱は2本が多いが、4本の柱で支えられている。(本堂が被爆建物)

        
         薬師如来堂は廃寺になった阿弥陀寺の薬師如来堂をこの地に移した。「おやっくさん」
        と呼ばれ、今でも眼病に効く「薬師」として参拝が多いという。

        
         幸福稲荷神社の祭神は穀物を司る神倉稲魂神とされ、昔、草津では大火や災害に苦しん
        だので、神頼みとして建立されたという。この付近に三次支藩の役所と、幕府巡検使の宿
        所である御茶屋があったという。

        
        
         旧山陽道に沿うと右手に西楽寺(真宗)がある。1889(明治22)年の町村制施行により、
        草津村と新たに埋め立て造成された庚午新開村が合併して改めて草津村となる。のち町制
        に移行したが、1929(昭和4)年広島市に編入されて今日に至る。(寺の本堂は被爆建物)

        
          西国街道(山陽道)沿いの町並み(旧山口酒店)

        
         三嶋邸は「厨子(つし)二階建て」ならぬ「厨子三階建て」の町屋であったが拝見するこ
        とができず。(2009年撮影)

        
         昔、この辺りは海岸線で、1821(文政4)年の頃に旧草津港を抱くようにして埋立て、
        記念に1本の松が植えられた。ここを通称「御場所」といい船役人の番所があり、船はこ
        の松を目印に出入りしていたという。
         石碑には「文政4年辛巳新地波止場築造」と、「萬代(よろずよ)に多(た)かき功績(いさお)
        を残しおき繁る草津のはれをこそ見禮(みれ)」という歌が刻まれている。(松枯れしたので
        伐採された)

        
         旧魚市場北にあった井久田家の屋敷に福満稲荷(左)があったが、長州征伐の時に前線指
        令所として草津港が選ばれ、屋敷の明け渡しを命じられて疎開。稲荷社はその後転々とし
        たが、終戦後に現在地に移転したという。
         地蔵尊(右)のルーツは不明だが、宮島にいたお相撲さんの守り本尊であったとの伝承が
        あるとのこと。

        
         草津南の西部埋立第八公園の中にある住吉神社は、室町期の享禄年間(1528-1532)毛利家
        の児玉周防守が草津城主であった時、海上安全と城の鎮守として創建したと伝わる。
         1821(文政2)年草津港が築造されると、その堤防上に遷座したが、さらに干拓が進み
        海から遠退いてしまう。

        
         漁民会館内に「安芸国養蠣(ようれい)之碑」があるが、延宝年間(1673-1681)に草津の小林
        五郎左衛門が「ひび立て」に牡蠣養殖法を考えた。1897(明治30)年神戸での水産博覧
        会で、その功績が認められて表彰され、翌年に牡蠣の仲間が碑を建立したもので、192
        3(大正12)年現在の碑に改められた。

        
         1945(昭和20)年8月6日軍の至上命令にもとづき広島市長が出勤を要請した、か弱
        い女子100名を含む草津南町国民義勇隊は、市内小網町付近の建物疎開作業中に被爆す
        る。全員が傷つき焼けただれ悲惨きわまる苦悶の果て次々と倒れていった。
         遺族は痛恨のうちに逝った肉身の無念を想い、「このむごたらしい戦禍を再び繰り返す
        ことない平和への祈りを込めて、157名の尊い犠牲を永久に伝へ残すべく追悼の碑を建
        立する」とある。

        
         雁木とは瀬戸内海沿岸に多く見られる石を積んだ階段で、潮の満ち引きによる海面の移
        動に関係なく船を着岸できるように工夫されたものである。
         1966(昭和41)年旧草津港は再開発事業の一環として埋め立てられ、今では港であっ
        た面影を見ることはできないが、雁木と船止め石の一部が移設されている。

        
         1822(文政5)年蛭子神社は本固新開ができたので大漁を祈るために、えびす屋孫八と
       佐久間三右衛門宅にあった祭神を現在地に遷座させたものという。(被爆建物) 

       
        津浜町にある望月家(空家状態) 

       
        通りには古民家が数軒存在する。

       
        船溜まりに出ると遠くに安芸の小富士の山容が見える。

       
        龍宮神社の由緒によると、1622(寛文元)年以後草津村に浜田藩船屋敷が設けられたが、
       その鎮守神として住吉神を祀った。この住吉社が龍宮神社の前身とされ、埋立てが進み海
       浜より遠くなったので、1871(明治4)年現在地に遷座させたとある。(被爆建物)

       
        廃船になった舟の板を外壁に利用した家が点在していたようだが、今は残り少なくなっ
       たという。(小畑家) 

       
        草津の町には「袖うだつ」があってベンガラを塗った格子構えの古い建築物が残ってい
       る。
        また、町は入り組んでいて、遠くが見渡せないようになっているのが特徴で、これが「
       遠見遮断」と説明されている。

       
        御幸川に沿って広電草津駅に戻るが、大釣井と地蔵尊を見落としてしまう。


廿日市市の地御前は神の島遥拝地

2023年03月08日 | 広島県

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         地御前(じごぜん)の東は瀬戸内海に面して厳島と相対する。地名の由来は厳島神社が島方
        にあるのに対し、地之御前と呼ばれたことによるという。(歩行約2.5㎞) 

        
         広島電鉄地御前駅で下車する。

        
         屋根の低い厨子(つし)2階建てで、軒裏や軒下に設けてある袖卯建、虫籠窓は漆喰で塗り
        込まれている。(佐伯邸) 

        
         観音堂の開基は定かでないが、平安期の地御前神社絵図に描かれており、梵鐘には観音
        堂と記されている。伝承によると宮島には産場(お産婆)がなく、観音堂の周りに集まるよ
        うになったとか。

        
         1625(寛永2)年開基と伝えられる西向寺(真宗)は、もとは真言宗か天台宗であったと
        され、貞亨年間(1684-1688)頃に改宗したとされる。本堂、鐘楼門などは明治期に建立され
        ている。

        
         境内を覆う「天井松」は、樹齢300年を超すともいわれ、晴れた日には木陰を作り、
        地面に本堂の格天井のような影を落とすという。

              
         旧山陽道は難所越えの道程のため往還道(新国道)が造られることになる。広島元安川か
        ら地御前入口までが完成し、1880(明治13)年地御前の御手洗橋から大竹の栄橋までが
        完成する。

        
         特産の牡蠣と牡蠣筏、水揚げ風景が描かれた廿日市市のマンホール蓋。

        
        
         袖卯建を配しているが、卯建と違って風切・目隠し・日返しの機能を持っている。

        
         通りでは目立つ町家(村上邸) 

        
         小林千古(本名:花吉)は、1970(明治3)年この地に生まれ、25歳から35歳にかけ
        てアメリカやヨーロッパで伝統的な絵画を学び、日本画壇に新風を吹き込む。
         黒田清輝の推薦により学習院女学部助教授の職にあったが結核を患い、1911(明治44)
        年41歳の若さでこの世を去る。 

        
         地御前小学校は渡り廊下で繋がっている。

        
         何の碑なのかわからないままとなる。

        
         釈迦堂の創建は定かでないようだが、丈六の釈迦如来座像で高さ230㎝という巨像が
        祀られているそうだ。廃寺となった神宮寺のものではないかと推定されており、釈迦堂と
        して移設されたものと思われる。

        
         地御前の氏神で農業の神を祀る大歳神社は別の所に鎮座していたが、1789(寛政元)
        現在地に遷座する。氏神は各集落を見渡せる高台にあるが、神が見守ってくれることを念
        じて場所が選定されている。

        
         地御前神社の東側に、1887(明治20)年国道開鑿(かいさく)碑が建立されている。石碑
        の上には「地平天成」(地平線はどこまでも天とつながる)と刻まれているが、この四篆字
        は、先の元号「平成」の由来の1つとされる。
         碑文は「明治時代中期、佐伯郡廿日市の住民は地域を挙げて新道を建設するために大運
        動を展開した。結果、神社前の国道が完成した」と伝え、裏面には工事に携わった510
        名の芳名が刻まれている。

        
         地御前神社は、通称桃山を背にして明神ヶ浜を前面に鎮座する。厳島神社と同じ時期で
        ある飛鳥期の593年に外宮社として、佐伯鞍職により創建された後、平清盛の絶大なる
        支援によってほぼ現在の姿に造営された。

        
         もともと地御前神社は、神の島として上陸できなかった宮島の対岸で遥拝するために造
        られたともいわれている。

        
         鳥居前まで海だったようで御座船が神社横まで寄せることはできたという。今は神社と
        明神ヶ浜の間には広島電鉄宮島線と国道2号が横断している。

        
         厳島神社管絃祭は、海上神事のため潮の干満を考慮して旧暦6月17日の大潮の日に、
        御神体を海上渡御させる海の祭りである。
         厳島神社を出発した御座船は、対岸の地御前神社で祭典が行われた後、長浜神社、大元
        神社を廻って本社社殿へ還御される。

        
         御前神社西側に「皇威輝八紘」の碑が建立されているが、西南・日清・日露の戦役で亡
        くなった村民の名前が刻まれている。 1913(大正2)年に建立されたものだが、日本が
        戦争をはじめて近隣諸国の人々や自国民を犠牲したことを忘れてはならない碑である。

        
         有府川に架かる外宮橋の先で国道2号と合わす。

        
         正行寺(真宗)は天台宗であったが、1624(寛永元)年に改宗したと伝えられる。

        
        
         市民センター側の通りにも町家が見られる。

        
         地御前今市にある今市稲荷社の開基は定かでないが、京都伏見稲荷の分霊ともいわれる。

        
         広電地御前駅から宮島駅に出る。 


山口市湯田の維新史跡と中原中也

2023年03月05日 | 山口県山口市

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         湯田は山口市街地の南、椹野川中流域の右岸に位置し、中心部に湯田温泉がある。
         江戸中期の地下(じげ)上申では朝倉村・湯田村の2村で記載されるが、明治期は下宇野令
        村となり、1915(大正4)年山口町と合併する。湯田温泉の起源は定かでないとのことだ
        が、南北朝期の1372年明国の趙鉄が作ったとされる山口十境詩の中に「温泉の春色」
        がある。(ルート約8㎞、🚻井上公園と中央公園)

        
         1913(大正2)年山口線の小郡ー山口間が開通すると同時に湯田駅として開業する。1
        961(昭和36)年湯田温泉駅に改称し、のち駅前に高さ8mの白狐「ゆう太」のモニュメ
        ントが設置される。

        
         2021(令和3)年白狐をモチーフした「ゆう太」の顔がラッピング化される。(駅前と
        湯田郵便局前で見かける)

        
         駅通りを直進するとT字路で旧石州街道に合わす。

        
         左折すると旅館前で街道は右手の細い道に入る。途中、山口大学通り(県道陶湯田線)が
        横断しているため少し遠回りをしなくてはならない。

        
         石州街道の大曲りと呼ばれた場所に周布公園があり、一帯は周布町という町名になって
        いる。1931(昭和6)年に「嗚呼長藩柱石周布政之助君碑」が船田墓地の隣に建立される。

        
         1862(文久2)年11月周布政之助は酒に酔って発した土佐藩主・山内容堂に対する暴
        言で、藩は周布が死亡したことで事を収め、謹慎と氏名を「麻田公輔」と改めさせて政務
        に復帰させる。
         禁門の変などで俗論派に主導権が移ると責任をとって自刃する。周布の遺骸は遺言によ
        って石州街道傍に埋葬されたが、その後、遺骸は郷里の長門市三隅の浅田地区山中に移さ
        れた。

        
         大きく湾曲した道は「大曲り」と呼ばれ、椹野川が大きく蛇行してこの辺りを流れてい
        たため、それに沿って街道がつけられた名残りだといわれている。蔵は「置き屋根造り」
        と呼ばれる構造のようで、左右の水路はこの先でそれぞれの目的地に向かって流れを変え
        る。

        
         吉富藤兵衛(簡一)は山口の大庄屋で井上馨とは幼馴染でもあった。高杉晋作の奇兵隊に
        資金援助、鴻城軍を組織し井上を総裁に据えるなど討幕運動を陰で支援する。
         第1次幕長戦争後に萩藩内部は幕府に恭順する俗論派が威をふるい、急進派の志士をけ
        ん責し、周布政之助も謹慎を命じられ吉富家の離れに軟禁された。1864(元治元)年9月
        26日の早朝に吉富家で自害する。(享年42歳)

        
          くぐり門ではないが旅館の通路下を潜る。

        
         井上公園(旧高田公園)は井上馨の生誕地で、七卿の一人・三条実美は、井上光遠(馨の兄)
        の家を借りていたため、土地の者は土地の字をとって高田御殿と呼んだ。(トイレはあるが
        駐車場はない)

        
         京を追われ山口に落ち延びた七卿、三条実美(さねとみ)・三条西季知(すえとも)・壬生基修
        (みぶもとなが)・四条隆謌(たかうた)・錦小路頼徳・沢宣嘉(のぶよし)・東久世通禧(ひがしくぜ
          みちとみ)
らの忠誠を偲び、建立された七卿の遺蹟之碑である。

        
         1907(明治40)年井上馨は静岡県興津で79年の生涯を閉じるが、銅像の顎部分には、
        刺客に襲われた傷跡が再現され、井上像の傍には一命を救った所郁太郎の顕彰碑もある。 
         長州ファイブのひとり井上馨は、1835(天保6)年に上級武士であった井上光亨(みつゆ
           き)
の次男として、周防国吉敷郡湯田村に生まれる。21歳の時に志道(しじ)家の養子とな
        るが、密航する際に迷惑がかからないようにと縁切りをする。

        
         中原中也の詩集「山羊の歌」の中にある帰郷という詩の一部分が紹介されている。
            これが私の故里だ
            さやかに風も吹いている
            あゝおまえは何をしてきたのだと
            吹き来る風が私に云ふ 

        
         1962(昭和37)年11月3日文化の日を記念して種田山頭火の句碑が建立された。
                  「ほろほろ酔うて木の葉ふる」  
         広島県三次から庄原という静かな山の町を行乞し、そこから東城の方へ行く途中、雑木
        紅葉が降ってくる中を、わたしは一人で歩いた。造り酒屋の店先に腰かけて2つや3つや
        ったので、とてもいい気分になり、歩きながらできた句であると語っている。温泉町と酒
        が似合うことから選定されたのであろう。

        
         三条実美は井上家へ滞在場所を移すが、井上家も建物が不足していたため、新たに離れ
        が増築される。
         何遠亭(かえんてい)と命名された離れは、「何の遠きことか之れ有らん」より出たる語で、
        「公等が、青天白日の身となって都に帰ること何ぞ遠きにあらん」という慰籍の意を寓し
        たものである。 (1864年5月1日から11月15日まで滞在。何遠亭は当時の図面に
        より復元される) 

        
         1907(明治40)年4月29日中原中也は、吉敷郡山口町の中原病院で父・柏村謙助(陸
        軍軍医)、母・ふくの長男として生まれる。1915(大正4)年一家は中原家と養子縁組をす
        る。 

        
         生家は火災で失われたが、1994(平成6)年旧中原病院跡地に中原中也記念館として建
        設され、建物は公共建物百選にも選ばれている。

        
         この道は湯田郵便局前の石州街道から分かれ、北浦の肥中に通じる肥中街道であった。

             
         1863(文久3)年10月末に長州藩は三条実美を湯田に迎え、藩士・草刈藤太郎邸に滞
        在させる。
         しかし、草刈は保守派のため居心地が悪く(屋敷はのち攘夷派により放火され焼失)、ま
        た、手狭のため井上馨の実家へ移る。(場所は写真の右手辺りとされる)

        
         袖卯建(そでうだつ)が多い地域にあって、卯建に瓦を載せた古民家がある。

        
         真木和泉は久留米の水天宮宮司でありながら攘夷運動に参加する。10年間の幽閉生活
        を過ごし、1862(文久2)年に脱藩し、翌年の8月18日における政変で七卿とともに長
        州へ下り、小野屋勝兵衛宅に滞在する。その後、蛤御門の変に参加するも敗れ、山崎天王
        山の宝積寺で自刃する。

        
         1864(元治元)年5月1日東久世通禧と四條隆謌は真光院(現山口市大内御堀)から湯田
        の龍泉寺へ転居する。
         七卿の一人であった錦小路頼徳(にしきこうじよりのり)は、下関視察の際に宿泊先の白石正
        一郎宅で没し、同年5月8日、遺骸が龍泉寺に運ばれて藩主・毛利敬親が喪主を務める。
                (享年30歳) 

        
         1938(昭和13)年11月28日種田山頭火は小郡の其中庵が崩れ、山口湯田前町の龍
        泉寺上隣、徳重家の離れ4畳1間に移り住み「風来居」と名付ける。10ヶ月余住んだが
        現在ではその建物は存在しない。

        
         法務省矯正局に属する山口刑務所は、執行刑期が10年未満で犯罪傾向が進んでいない
        男性を収容し、総合職業訓練が行われている。
         井上聞多(馨)が襲撃で瀕死の重傷を負い、負傷後に潜伏して死を免れた桑原七右衛門宅
        は刑務所構内にあった。

        
         井上馨遭難之地の近くに袖解橋(そでときばし)がある。大内氏が栄えていた頃、御上使道
        (秋穂街道)は主要な街道であった。秋穂渡瀬を渡って山口に入ると、ここで狩衣、直垂の
        旅装を解いて身づくろいして山口に入ったという。(道路の拡張で様子が変わったようだ)

        
         1864(元治元)年9月25日井上聞多(馨)は藩主の前で俗論派と争い、武備を整えて幕
        府に対すべきと主張したため、この地で襲撃され重傷を負う。
         近くの桑原家に逃れ兄の居宅に運び込まれた際に、居合わせたのが医者の所郁太郎(遊撃
        隊参謀)で、焼酎で傷口を洗浄し小畳針で処置を施して一命を取り留める。この碑は191
        7(大正6)年に建てられる。

        

        
         円龍寺は俗論派壮士の集団、先鋒隊の屯所だった寺である。刺客はここに集合して、井
        上馨の帰路を待ち伏せして襲撃する。刺客の中には井上馨の従弟(児玉愛次郎)や高杉晋作
        の妻・雅の姉が嫁いだ先の叔父(周布藤吾)、椋梨藤太の次男(中井栄次郎)らがいた。

        
         円龍寺脇の路地から山口線下羽坂踏切を越えると椹野川河川敷。

        
         赤禰武人は柱島(現岩国市)の医家に生まれ、勤王僧・月性に学び月性の紹介で阿月の郷
        校に入り、のち同地の赤禰家の養子となる。
         奇兵隊の3代目総督となり活躍したが、藩論統一について過激派と合わず、上京して幕
        府に近づいたが利用されて長州尋問の随員となった。このことが幕府に内応したと疑われ、
        この地で殺戮(さつりく)し梟首(きょうしゅ)された。
         一説には大内村柊の刑場で行われ、首級は同地の松樹の枝にさらし、これを持ち帰り武
        人原(この付近の字名)に埋めたともいわれる。

        
         1953(昭和28)年1月28日赤禰武人の命日に、照円寺の手によって顕彰碑が建立さ
        れた。

        
         NHK山口放送局前を山手に向かう。

        
         1948(昭和23)年の学制改革により県立女学校が県立山口女子高等学校として発足す
        る。1955(昭和30)年の高校再編で現在の山口中央高校(当時は女子高)となり、翌年こ
        の地に移転する。のち当地区の市街地再開発で山口市宮島町に移転する。(跡碑)

        
         その先の済生会山口総合病院北側に「清水湯」がある。市内唯一の自家源泉の銭湯で、
        朝風呂も楽しめるようだ。

        
        
         山口県立山口高等学校記念館は、1919(大正8)年から1850(昭和25)年まであった
        官立山口高等学校の講堂である。
         マンサード屋根の主体部正面左右に、三角屋根の塔屋が取り付いた形で、幾何学的な装
        飾を多用した点に時代の特徴が表れている。文部省建築課山口出張所が建設したものであ
        る。(国登録有形文化財)

        
         五十鈴川に合わすと川に沿って湯田中心部へ向かう。

        
         熊野神社の鳥居が見えると山水園の案内があり、これに従って進むと庭園の一角に茅葺
        きの「いばらぎ門」がある。大和郡山の慈光院の茨木門を写したとされ、庭園は有料で拝
        見できるようだが事前に連絡要とある。

        
        
         大内氏の時代に紀州熊野より勧請されたとされ、唐破風の向拝には大内菱が見える。

        
         錦川通りにも種田山頭火の句碑 「ちんぽこもおそそも湧いてあふれる湯」
         1975(昭和50)年8月雑誌「温泉」の女性編集長が湯田温泉に取材に来て、「山頭火
        の句に湯田温泉で作った“ちんぽこ”の句があるが、温泉場にふさわしいユーモラスな句
        なので、ぜひ碑にして湯田温泉を全国にPRしては」と勧められ、建碑の動機になったと
        いう。

        
         この詩は中原中也が26歳の時の作品で、生後間もなく軍医であった父の赴任先であっ
        た中国へ母と一緒に汽船に乗っている。「しののめ」とは明け方のわずかに明るくなった
        頃という。

        
         錦川通りを歩いてきたが、以前と違って旅館の廃業もあってか裏通り感が否めない。

        
         幕末の志士が密議の場としてしばしば利用した臨野堂跡。また、この辺り一帯は温泉地
        であり、幕末には多くの志士が錦川を舟に乗って訪れた。
         この奥手に湯田御茶屋があり、湯の管理は湯別当といわれた野原家が管理していたが、
        現在は痕跡を留めていない。

               
         1906(明治39)年創業の老舗旅館・西村屋は、2017(平成29)年6月に廃業して跡
        地は別会社に譲渡されたが、中原中也が結婚式を挙げた「葵の間」も消滅したものと思わ
        れる。
         また、種田山頭火も湯田の一角で「風来居」と称した家から、西村屋の温泉を利用して
        いたという。

        
         1933(昭和8)年12月中原中也が結婚式を挙げた「葵の間」である。

        
         西村屋廃業後の2017(平成29)年10月4日から3ヶ月半ほどの間、湯田温泉のイベ
        ントとして中原中也が結婚式を挙げた西村屋の「葵の間」が一般公開された。(期間中に撮
        影)

                
               遠縁にあたる6歳下の上野孝子との結婚。(中也26歳)

        
         中也の詩「生い立ちの歌」の一節で
              私の上に降る雪は
              花びらのように降ってきます
              薪(たきぎ)の燃える音もして
                  凍るみ空の黝(くろ)む頃
                  私の上に降る雪は
                  熱い額に落ちもくる
                  涙のようでありました
                       という額入りの詩も飾ってあった。

        
         瓦屋は江戸時代から続いた旅館で、幕末の湯田において瓦葺きの建物は,御茶屋とこの
        旅館だけだったので屋号となる。木戸孝允など維新の志士たちが利用した旅館で、187
        0(明治3)年山田顕義(日本大学の学祖)は瓦屋の娘・龍子と結婚した。旅館はいつ廃業した
        かは定かではないそうだ。

        
         湯田温泉街の通りには、湯の町、温泉、えびす、ほろよい、山頭火、中也通りと銘打っ
        て各デザインのマンホール蓋が見受けられる。ここ元湯通りは錦川の川下りが描かれてい
        る。

        
         旧国道筋に出ると維新志士ゆかりの宿松田屋ホテル。湯田温泉バス停より新山口駅行き
        バスに乗車する。


防府は種田山頭火の故郷・句碑巡り 

2023年03月03日 | 山口県防府市

                
                 この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
         種田山頭火(本名は正一)は1882(明治15)年山口県の現防府市に生まれ、大地主の長
        男であったが不幸は母の自殺から始まり、父の遊蕩が原因で、先祖代々の屋敷を売却して
        酒造場を営むが倒産する。一家離散、離婚、出家などを経て、1926(大正15)年に行乞
        流転の旅に出る。
         句友に支えられながら漂泊の旅と、一時の定住を繰り返した山頭火は、1940(昭和1
          5)
年松山の一草庵で58年の人生を終えるが、不思議なことに明治、大正、昭和と15年
        が重なる。(歩行約7.9㎞)

        
         種田山頭火のふるさとに句碑が設置されているというので散歩する。種田家の人々は、
        1㎞離れた三田尻駅(現防府駅)まで他人の土地を踏まずに歩けたという伝聞もある。 
         観光案内所で頂いたマップを見ながら歩くと、地元の方がマップに2ヶ所追加して、1
        ヶ所は寺に移転していると教えていただく。(原文の句に濁点は
ないが、濁点入りで句を
        読む)

        
         JR防府駅天神口(北側)に出るとバス停方向に交番があり、その前に托鉢姿の山頭火像
        がある。山頭火は普段歩くときは右に杖を持っているが、お布施を受ける際は右手に鉢を
        持ち替えて受け取ったとされ、修行僧であったことを示す像とされている。

        
                   「ふるさとの水をのみ水をあび」
         1933(昭和8)年7月28日小郡の其中庵を出立し、山口、仁保を行乞して佐波川上流
        の小古祖(徳地)にある河野屋に投宿する。「宿前にある水は自慢の水だけあってうまかっ
        た。むろん二度も三度も飲んだ」とある。

        
         駅前を東へ向かうと防府市地域交流センター(アスピラート)入口に句碑がある。

        
                   「ふるさとや少年の口笛とあとやさき」
         1933(昭和8)年9月11日、其中庵から尾道地方に旅立つ日は中関町(防府)で行乞。
        湧き上がる懐旧の念を抑えがたく、この句を詠んだものと思われる。夕方、三田尻の松富
        屋という木賃宿に泊まった時の日記に書かれた句。

        
         さらに駅通りを東へ向かうと「喫茶エトワル」前に句碑。

        
                   「あさせみすみ通るコーヒーをひとり」
         1938(昭和13)年7月、当時としては貴重なコーヒーをもらった山頭火が、さわやか
        な早朝のコーヒーの味と、朝蝉のすきとおるような鳴き声に託して作った句。
         即興でつくった句は句友に手渡されたが、その頃の日記にはコーヒーが度々登場するが、
        句がなかったため幻の句とされた。
   
        
         旧国道2号線の佛光堂前に句碑。

        
                   「生きて伸びて咲いている幸福」
         1934(昭和9)年5月18日其中庵での作。日記には「木曽路句作の糸口がようやくほ
        ぐれかけてきたが、飯田で病んでいけなくなった。そして帰来少しづつほぐれる」と書い
        ている。
         あこがれの俳人・井上井月(いいげつ)の墓参りのため、長野県の伊那まで行こうとしたが、
        木曽路からの峠越えに残雪があって失敗。風邪をひいて肺炎となり引き返している。

        
         歩道橋を越えると松崎小学校。

        
                   「ふるさとの学校のからたちの花」
         山頭火は1896(明治29)年3月、松崎尋常小学校を修了。1935(昭和10)年4月2
        3日の頃に母校を訪ねたようで其中日記に書かれた句。

        
         句碑の左に「からたち」の垣根。松崎小学校は芦樵寺を仮校舎としていたが、1876
        (明治9)年天満宮下の天神町に移転し、松崎小学校と改称する。山頭火はここで学んだため、
        山頭火の小径と称する道は「欄干橋」がある所が終起点となっている。現在の松崎小学校
        は、1911(明治44)年現在地に移転している。

        
         昭和7年(1932)11月11日、頂いたゲルト(金銭)で白船居を訪ねる、(中略) 夜は質
        郎居で雑草句会、引留められるのを断つて2時の夜行列車で防府まで、もう御神幸はすん
        でゐた、夜の明けるまで街を山を歩きまはった、此地が故郷の故郷だ、一草一木一石にも
        追憶がある。佐かた利園はやつぱりよかつた、国分寺もよかつた」とある。

        
         「山頭火」という俳号は、本命星にある納音(なっちん)からとったもので、自分の生まれ
        た年からとったものでなく単に音の響きがよいので決めたようである。
         ちなみに師である荻原井泉水(せいせんすい)が、生年の納音から俳号を付けていたので、
        山頭火はこれに倣ったとされる。

        
                   「晴れて鋭いふるさとの山を見直す」
         1932(昭和7)年5月6日久保白船居を訪ねた後、5月9日の行乞記には「文字通りの
        一文なし、という訳で、富田、戸田、富海を行乞、駅前のお土産屋で米を買うていただい
        て小郡までの汽車賃をこしらへて」とある。往路も嘉川から汽車に乗って故郷は歩いてい
        ないので車窓から見た句であろう。(碑は本殿東側の社務所と駐車場の間に設置されている)

        
                   「ふるさとは遠くして木の芽」
         1932(昭和7)年新年を福岡で迎え、長崎、島原、佐世保などを行乞。3月21日は彼
        岸の中日、この日は早岐の町を行乞していたが、「晴れて風が吹いていて孤独の旅人を寂
        しがらせた」とある。
         しかし、彼岸の中日に萌え出る木の芽をみて、望郷の切なる想いがあったものと思われ
        る。この碑は生誕百年を記念して大山澄太氏が建立。(碑は駐車場の山側にある天神山公園)

        
         旧山陽道に出ると山頭火ふるさと館がある。

        
         旧山陽道沿いに「日の落ちる方へ 水のながれる方へ ふるさとをあゆむ」の句がある。
        1934(昭和9)年防府天満宮御神幸祭の日に詠んだ句とされる。

        
         正一少年が生家から松崎尋常小学校まで通った道は「山頭火の小径」と呼ばれ、草鞋跡
        が刻まれて迷うことなく歩くことができる。

        
         民家の壁には「ふるさとの山はかすんでかさなって」の句板がある。1933(昭和8)
        5月13日其中庵から室積へ行乞の旅に出る。汽車賃が足りないから、幸いにして、或は
        不幸にして歩くほかない、大道ープチブル生活のみじめさをおもひだす、佐波川の瀬もか
        はってゐた (中略) 大道、宮市、富海―あれこれとおもひでは切れないテープのやうだ
        よと記す。

        
         川遊びをしたであろう佐波川から流れ出る遊児(ゆうに)川。句板は薄れてはっきりと読め
        ないが「ほうたるこいこいふるさとにきた」と書かれているようだ。
         1932(昭和7)年6月1日の行乞記に書かれた句。川棚温泉で庵を結ぼうとし、6月1
        日から8月26日まで長期滞在するが結庵できなかった。 

        
         趣のある路地裏歩き。 

        
                   「草は咲くがままのてふてふ」
        1928(昭和3)の「層雲」に発表された句。

        
                   「育ててくれた野や山は若葉」
         1932(昭和7)年5月4日下関で行乞し、厚狭、船木、嘉川から汽車に乗り久保白船居
        へ。5月7日は富海から小郡まで列車を利用しているが、「防府を過ぎる時はほんたうに
        感慨無量だった」とある。
                   「晴れきった空はふるさと」
         1932(昭和7)年6月1日結庵すべき川棚温泉に到着すると「だんだん晴れてーきれの
        雲もない青空となった (中略) 新しい日、新しい心、新しい生活」とあり、句は6月4
        日に書かれている。

        
         山頭火の小径から通りに出て左折すると生家跡。ここが敷地850坪あった種田家の正
        門で、そこを入ると中門があったという。

        
                   「うまれた家はあとかたもないほうたる」
         山頭火は58歳で亡くなる2年前の1938(昭和13)年7月11日に防府を訪れ、その
        夕方、妹(町田シズ)を訪ねているが、そのついでに生家跡を見たと思われる。(立ち寄った
        記述はないが、この年の「層雲」に発表)
         「ほうたる」とは物を投げるという方言でなく、「ほたる」すなわち母と見た蛍のこと。
        山頭火の句すべてが「ほうたる」となっている。

        
                   「へうへうとして水を味ふ」
         向かい側の森重クリーニング店にあるが、1927(昭和2)年から翌年にかけて山陰、山
        陽、四国と九州を当てもなくさまよっている。たいてい酒をたらふく飲んだ翌日に、
清水
        のうまさを満喫したと思われるが、この句作の年月はわからない。
         1928(昭和3)年3月には四国八十八ヶ所札所を巡拝し、句友であった尾崎放哉(ほうさ
          い)
の墓参に小豆島を訪れている。
         荻原井泉水は季語を捨てた自由律俳句として「層雲」を創刊。山頭火はこれによって世
        に出られた。 

        
                   「分け入っても分け入っても青い山」
         山頭火の小径の出入口向い側に句碑がある。1926(大正15)年4月10日熊本の味取
        観音堂(堂守として1年間)を去って、行乞放浪の旅に出る。この句は熊本から高千穂、日
        向に向かう途中の高千穂に分け入った時の句とされる。(45歳)

        
         萩往還道を北上し、光山医院前を左折して道なりに進むと右手に護国禅寺がある。同寺
        には18句あってすべてが山頭火の肉筆で、誰もがすぐに拓本できるような大きさとなっ
        ている。

        
                   「風の中おのれを責めつつ歩く」①
         山門の「護国禅寺」と刻まれた標石の笠に句があるが、1939(昭和14)年作とされる。

                
                   「酔うてこほろぎと寝てゐたよ」②
         1930(昭和5)年10月7日そこここを行乞して目出津へ、南郷町の木賃宿に泊
        まったが、一度宿に入りながらまた外に出て、どこかで飲んで酔いつぶれて野宿す
        る。真夜中にふと気づくと、あたりはこおろぎの鳴く声が満ちていたのであろう。
        (刻まれた石碑は旧多々良高校の校門だったとか)

                
                   「濁れる水の流れつつ澄む」➂
         旧山陽道と萩往還道が交わる所に、句碑とビジネスホテルがあったが、更地化されて碑
        は同寺に移設されている。
         山頭火晩年の句で、流転生活の人生であったが、山頭火が歩んできた想いがこの句に詰
        め込まれているといわれる。1940(昭和15)年9月8日、松山の一草庵で詠まれた句だ
        が、翌月の11日心臓麻痺で帰らぬ人となる。
         句碑は「道しるべ」として、あかりを灯せるよう頭部に穴が設けてある。

        
        山門右手に周防の自由律俳人三ツ星(萩原井泉水が名付けた)の句が並ぶ。
                 「雨ふるふるさとははだ
してであるく」(山頭火)④
                  「貯水池へ行く道とわかれて暮れて行くに萩」(久保白船・佐合島)
                 「耳に口よせて首がうなづく」(江良碧松・田布施)  

        
         山頭火の句友であった近木圭之介(黎々火)句碑
                  「一鉢は仏陀の耳に似るサボテン」
         1970(昭和45)年護国禅寺で行われた山頭火法要の折の句。

        
                   「こんなにうまい水があふれてゐる」⑤
         1930(昭和5)年10月8日南郷町榎原(よわら)で詠まれた句。荻原井泉水への葉書に
        は「山の中を歩いてさへいれば、そして水を味うてさへをれば、私は幸福であります」と
        ある。(土台はグランド用ローラー石)

        
                   「ほろほろ酔うて木の葉ふる」⑥ 
         この句は山頭火自身が、1927(昭和2)年の秋、広島県三次から庄原という静かな山の
        町を行乞し、そこから東城へ行く途中、雑木紅葉が降ってくる中をわたし一人で歩いた。
        造り酒屋の店先に腰かけてコップに2つやったのでとてもよい気分となり、歩きながらで
        きた句という。

        
                   「木の芽草の芽あるきつづける」⑦
         1930(昭和5)年「層雲」(1月号)の句。山頭火が詠んだ植物で圧倒的に多いのが「草」
        である。

        
         自由律俳人子弟の句
                 「てふてふうらからおもてへひらひら」(山頭火)⑧
                                 てふてふとは蝶々。 
                 「水鳥群るゝ石山の大津の烟」(川東碧梧桐)        
                 「はるさめの石のしつくする」(荻原井泉水)

        
                   「落葉ふる奥ふかくみ佛をみる」⑨
         1932(昭和7)年11月3日の日記に書かれた句だが、「ひさしぶりに飲んだ、酔うて
        歩いた、歩いてまた飲んだ、(中略) 独身者は気軽でもあればみじめでもある、おそくかへ
        ってきてお茶漬けをたべる、櫨(はぜ)の葉の美しさはどうだ、夜更けてそこはかとなく散る
        葉の音、をりをり思い出したように落ちる木の実の音、それを聴き入る時とき、私は御佛
        の声を感じる」とある。

        
                   「涸れきった川を渡る」⑩
         1930(昭和5)年福岡県を行乞。放浪化した山頭火が一人、徒歩禅に具し行乞の途中、
        自然のいとなみの流れの中での葛藤を描写したものとされる。
                   「分け入れば水音」⑪
         1929(昭和4)年日田から英彦山に向かう途中の句とされる。

        
                   「枝に花が梅のしづけさ」⑫
         1940(昭和15)年春の句、松山市の一草庵時代に書いた色紙が残っているとされる。

        
                   「うしろすがたのしぐれてゆくか」⑬
         1931(昭和6)年12月25日、福岡県八女福島を行乞した時の作とされる。哀韻と自
        嘲を込めて「しぐれ」の句が多いが、日記には「昨夜は雪だった、山の雪がきらきら光っ
        て旅人を寂しがらせる。思い出したように霙が降る。気がすすまないけど11時から1時
        まで行乞をする。それから泥濘の中を‥」とある。

        
                   「母ようどん供えてわたくしもいただきまする」⑭
         1938(昭和13)年3月6日其中庵での作。日記には「亡き母の47回忌、かなしい、
        さびしい供養、彼女は草葉の陰で私のために泣いてゐるだろう。今日は仏前に供へたうど
        んをいただいたけれど、絶食4日でさすがの私もひょろひょろする」とある。

        
                   「おたたも或る日は来てくれる山の秋ふかく」⑮
         1940(昭和15)年10月8日没する3日前、大きい字としては最後のものとされる。
        「おたた」とは松山地方の方言で桶を頭に載せ、魚の行商する女性のことのようだ。

        
                   「銭がない もの(物)がない は(歯)がない一人」⑯
         1940(昭和15)年終焉の地である松山「一草庵」で詠まれた句と思われる。濁点がな
        いため「果敢ない」と読んでしまったが、「ない」が続くようなので読み誤る。

        
                   「なむ(南無)からたんのうみ佛のもちをいただく」⑰ 

        
                   「日ざかりのお地蔵さまの顔がにこにこ」⑱
         お地蔵さんの顔をよく見ると個性的な表情をする。見る人の気持ちにしたがって表情も
        いろいろと変化する。山頭火は「天気晴明、心気も明朗」と記す。 

        
         国道262号線の新橋町筋、I宅の玄関先に碑がある。

        
                   「うれしいこともかなしいことも草しげる」
         1934(昭和9)年其中庵に詠まれた句とされる。 

        
         アパホテル前に句碑。
       
        
                   「あたたかく人も空も」
         1930(昭和5)年2月10日福岡県糸田の木村緑平氏を訪ね、その後、後藤寺~伊田~
        神湊~津屋崎~福間~荒尾を経て熊本に帰っている。句は3月1日福間で詠んだとされる。
         木村緑平(緑平は俳号)は内科医で、山頭火を物心両面で支えた人物で、山頭火は14回
        も彼の元を訪れている。彼がいなかったら山頭火は存在しなかったともいわれる。

        
         戎ヶ森児童公園。

        
                   「雨ふる故里ははだしであるく」
         1932(昭和7)年川棚での結庵に失敗した山頭火に、句友の国森樹明が小郡に庵として
        ふさわしい茅屋を見つけてくれる。9月4日はあいにくの雨だったが、小郡の家を検分し、
        喜びを隠しきれぬように故郷の感触をはだしで確かめる。「足裏の感触が少年の夢をよび
        かへす」書き留めている。句碑は1954(昭和29)年友人有志により建立されたもので、
        防府市内で最初に建てられた。揮毫は大山澄太氏で、氏が山頭火を世に出した人物である。

        
         戎ヶ森児童公園から東への路地。

        
         和菓子店であったことから「まんじゅうふるさとから子が持ってきてくれた」という句
        があったそうが、廃業されたため撤去され、次の句のみが残る。
                  「ふるさとの水をのみ 水をあび」(駅前に同句) 
         
         足の方が悲鳴をあげてきたようで、教えていただいた方に感謝しながら駅に戻る。