ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

宮島は旧参道を巡って厳島神社と大聖院

2021年07月30日 | 広島県

               
                 この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
         宮島は広島県の西、大野瀬戸で本土と隔たる島。島名の由来は、島北部に鎮座する厳島
        神社によるもので、宮島の地名は厳島の別称として中世を通じて頻出する。(歩行約5.3
        
㎞)

        
         JR宮島口駅は、1897(明治30)年山陽鉄道広島-徳山間の開通と同時に宮島駅とし
        て開業する。1942(昭和17)年現在の駅名に改称し、駅舎のデザインは厳島神社の大鳥
        居を模したものとされる。

        
         駅から連絡船ターミナルまで約230mだが、途中にエレベーター付き地下道がある。
        宮島桟橋までは2航路あるが、青春18きっぷのためJRフェリーを利用する。

        
         1976(昭和51)年に建てられた航路専用の駅舎は、廿日市市が管理しているが2つの
        航路が同居している。

        
         桟橋から正面に見える要害山には、日本の山岳宗教の祖とされる役の行者(神変大菩薩)
        を祀る行者堂がある。

        
         宮島の鹿には神鹿伝説が存在しないらしいが、厳島神社が創建されると神の島と呼ばれ、
        神の島での不殺生が鹿と結びついたようだ。

        
         桟橋付近の町並み。

        
         要害山にある今伊勢神社は、厳島神社の境外末社で一間社流造り。陶晴賢の霊を慰める
        ものとされるが鎮座年月は不詳である。

        
         要害山には宮尾城という連郭式平山城があった。当時は城北部には海が迫っており、三
        方が海で水軍の運用も可能な城であったようだ。
         大内氏によって築城されたと推測され、毛利氏占拠後に構造や防御力が強化された。室
        町期の1555(天文24)年10月陶晴賢と毛利元就との厳島の戦いで毛利軍が勝利したが、
        その後、城がどうなったかは不明とのこと。(ここに主廓)

        
         山頂から五重塔、豊国神社(千畳閣)と町並み、左手に弥山と駒ヶ林の頂。

        
         100段あるといわれる急な石段を下ると、途中には四脚鳥居がある。

        
         今伊勢神社下にある曹洞宗の存光寺(ぞんこうじ)開基は不明だそうで、出雲の一畑薬師
        から十二支神を持ち帰って開いたと伝えられる。境内に薬師堂があり、目に不自由な方に
        ご利益があるとか。

        
         伊勢町付近の町家通り。

        
         江戸幕府は一部を除いて富くじは禁止していたが、実際にはその土地の物産を入札する
        形を装って、各地で富くじの興行が行われていたようだ。宮島の富くじも広島藩が行って
        いた富くじの一つで、元禄年間(1688-1704)から毎年5回~6回市立て(宮島では焚木の大
        束(だいそく)が特産品で、これを入札するという形の富くじ)が行われ、明治になるまで続
        いたという。

        
         「金石(きんせき)地蔵」と呼ばれる子授け地蔵がある曹洞宗の徳寿寺。この付近の寺は鹿
        対策のため門には柵が設けてある。

        
         町家通りの1つ山手側の筋に、真光寺という宮島では唯一の浄土真宗の寺がある。かつ
        て宮島には厳しい霊地法度があり、その中で真宗ご法度が唱えられていたが、安芸門徒の
        移住や婚姻関係などで真宗信者が増え、戦前に説教所が発足する。終戦後に法令が改正さ
        れ、独立した寺院となった歴史を持つ。(廿日市市の資料より)

        
         宮島の恩人と呼ばれる僧・誓真が掘った井戸。誓真は伊予の生まれで、1784(天明4)
        年頃厳島に来て神泉寺の番僧となった。飲料水に苦しむ島民のため10ヶ所に井戸を掘り、
        それが今、誓真釣井(せいしんつるい)と呼ばれ4ヶ所残っている。

        
         不動堂は大御堂といわれ、厳島神社の東北にあり、この方角が「艮(うしとら)」にあたる
        ことから鬼門鎮護のため建立された。明治維新の混乱期に釈迦如来像が持ち去られ、不動
        明王と毘沙門天のみが残り不動堂と呼ばれるようになった。

        
         山辺の古径は神社への参詣客が歩いた宮島最古の参道。

        
         乳地蔵は拝むと母乳の出がよくなるとか。山辺の古径の女人坂にあるお地蔵さん。

        
         宮島は宮千軒と呼ばれ、かつては1,000軒近くの家が建ち並び、民家の軒下は迷路の
        ような小路で子供たちの遊び場だった。地蔵前から海に下る道が「小路・鬼隠(かくれんぼ)
        で、他にも「小路・鬼遊(おにごっこ)」とネーミングされた小路がある。

        
        
         宝寿院前の坂が女人坂と呼ばれ、土壁に女人像が安置されている。

        
         宝寿院は平安期の946(天暦10)年開基とされ、別名“あせび寺”といわれる真言宗の
        お寺である。寺前の堂には千手観音菩薩が祀られている。

        
        
         2つ目の誓真釣井。この付近は魚之棚町で、かっては魚の荷揚げ下ろしが行われた浜辺
        だったとか。

        
        
         古径からの眺望。

        
         「桜町のお地蔵さん」と呼ばれて親しまれている延命地蔵尊。

        
        
         五重の塔があるので塔の岡と呼ばれ、毛利方が陶方を襲撃した厳島合戦の古戦場である。
        室町期の1555(天文24)年9月21日陶方は大軍を率いて上陸し、ここに本陣を構え、
        毛利方の宮尾城を攻撃する。毛利方は30日の夜、暴風雨をついて包ヶ浦に上陸し、翌朝
        未明に陶方は不意を突かれて大敗を喫する。(説明版より) 

        
         はっきり読めないが立札に「樹齢二百年 龍髯(りゅうぜん)の松 松岡文左衛門植」とあ
        る。龍のヒゲに似ていることから名付けられたとか。

        
         眼下に厳島神社と山裾に大聖院。

        
        
         畳を敷くと857畳にもなることから、通称、千畳閣と呼ばれている豊国神社本殿。も
        とは豊臣秀吉が戦没兵士慰霊のために計画したものだったが、秀吉が死去したため天井の
        板張り、壁、正面入口が未完成のままとなる。単層本瓦葺き入母屋造りの大伽藍で、完成
        しておれば豪華な大経堂になっていたと思われる。明治期に豊臣秀吉と加藤清正を祀る豊
        国神社と命名される。

        
         千畳閣の床下を歩くことができる。

            
        厳島神社の五重塔は、もともと大聖院の子院にあたる金剛院の塔であったが、明治の神
       仏分離令により厳島神社の管理に移管され、内部にあった仏像は大願寺へ移された。
        和様と唐様が融合する美しい五重塔は、室町期の1407(応永14)年に建立された桧皮
       葺の三間五重塔婆で、重塔の高さは27.6mである。 

       
        大鳥居は屋根の葺き替え、塗装及び部分修理のためにネットで覆われて見ることができ
       ない。2019(令和元)年6月17日から大修繕工事が始められたが、終了時期は未定で、
       まだ2~3年はかかる見込みとのこと。

       
        大修繕工事前の大鳥居は、1875(明治8)年に造営された厳島神社を象徴する建造物で
       あり、8代目ないし9代目とされる。
        本殿正面から北西側に108間(約196.4m)離れた海中に自立し、満潮期は海に浮か
       び干潮期には大鳥居まで歩いて行ける。造営された時には参道はなく、満潮期に海から船
       で参拝するため、鳥居を潜る必要があるため海中に設けられた。

       
        厳島神社の社伝によると、飛鳥期の593年当地方の豪族・佐伯鞍職が社殿造営の神託
       を受け、社殿を造営したことに始まるという。
        平安期の1146(久安2)年神職の佐伯景弘が、安芸守の任に就いていた平清盛の援助を
       得て、回廊で結ばれた海上社殿を造営したとされる。

       
        社殿入口にある左右の灯籠にカラスが置かれているが、この地に社が建てられたが、こ
       れを導いたのがカラスとされる。

       
       
        客(まろうど)神社は御本社と同様に、本殿・幣殿・拝殿・祓殿からなり、嚴島神社の祭典
       は、この客神社から始まる。
        5男神が祀られ、摂社の中でも一番大きく、嚴島神社の祭事の折には、一番先に神職が
       お参りする。農業の神、日の神、雨の神、風の神、火難除けの神として崇敬されている。

       
        社殿東廻廊の海中に鏡の池がある。潮が引くと丸い池が現れるそうだが、訪れた時は満
       潮で見ることができなかったが、池からは伏流水が湧いているとのこと。

       
        客神社祓殿(はらいでん)と廻廊で囲まれたところを枡形といい、毎年旧暦6月17日に行
       われる「管絃祭」で、御座船や阿賀・江波の曳船がここで船を3回廻す。始めたのは平清
       盛だといわれている。

       
        本殿は三女神のほかに30柱の神様が相殿(あいどの)とされており、海の神・交通運輸の
       神・財福の神・技芸の神として信仰されている。平清盛は瀬戸内の海賊を平定し、海運業
       者を支配し日宋貿易によって莫大な財を築き急速に昇進する。瀬戸内や宋との交易船の航
       海安全を祈るため、また、瀬戸内海航路の要衝であった厳島を篤く信仰したとされる。

       
        舞楽が舞われる高舞台と火焼前(ひたさき)を挟んで左右にあるのが門客(かどまろうど)神社
       で、祭神は豊石窓神(とよいわまどのかみ)と櫛石窓神(くしいわまどのかみ)で鎌倉期に設けられ
       た。火焼前は海上からの参拝の際に「かがり火」を焚く所であった。

       
        門客神社の脇にあるのが楽坊で、舞楽がある時に楽を奏する所で左右にある。舞楽には
       二つの流れがあり、インド・唐から伝わったものを左の舞といい、左舞(さまい)を舞うとき
       は左楽房で奏でる。満州・朝鮮半島から伝わったものを右の舞といい、右舞(うまい)を舞う
       ときには右楽房で奏でる。 

       
        高舞台、祓殿、拝殿、幣殿、本殿と続く。

       
        大鳥居の扁額は木製漆箔銅板製で縦2.6m、幅2.45mあり、2面に掲げるようにな
       った経緯は明らかでない。沖側にある「厳島神社」は上辺中央に宝珠、左右に屈輪模様の
       渦巻文と唐草文を配している。 

       
        大鳥居の社殿側扁額は「伊都岐島神社」とある。伊都岐島とは島の古い名称である。

       
        大国神社の祭神は大国主命で出雲大社の祭神と同じである。国造りの神・農業神・商業
       神・医療神・縁結びの神とされる。大国主命は、田心姫命と結婚しているので、御本社に
       近い場所にお祀りしてあるとか。

       
        天神社は、室町期の1556(弘治2)年毛利隆元が建立寄進したものである。
丹が塗られ
       ていないのは、社殿群の中では新しい建物で、時代が下がる
ためとされる。古くは連歌堂
       といい、明治時代の初めまで毎月連歌の会が催されていた。 

       
        能舞台は、室町期の1568(永禄11)年毛利氏が観世太夫を招き、仮の能舞台を海中に
       設けさせて能を奉納した。現在の建物は、1680(延宝8)年広島藩主浅野綱長により改修
       されたもので、天神社と同じく建造時期が下がるので丹塗りはされていない。

       
        反橋(そりばし)は勅使橋とか太鼓橋と呼ばれ、天皇からの使者(勅使)だけがこの橋を渡る
       ことができた。中央に階段を設けて渡ったものと思われるが、どのようにして歩いたかは
       はっきりしないそうだ。
        長さ約24m、幅4m、高欄は丹塗り・橋脚は墨塗りで、鎌倉期には既にあったようだが、
       現在のものは室町期の1557(弘治3)年、毛利元就・隆元父子により再建された。 

       
       
        大願寺の山門に仁王像が安置されているが、廃仏毀釈で廃寺となった神力寺(要害山)の
       仁王門とされる。

       
        大願寺の開基は不明とされるが、建仁年間(1201-1204)に再興されたと伝わる真言宗の古
       刹で、明治の神仏分離令まで厳島神社の修理造営を担ってきた。
        現在の本堂は昔の僧坊で、厳島神社の参拝者は大鳥居を潜り、大願寺近くの砂浜に上陸
       し、大願寺裏の風呂で身を清め、僧坊で休憩・着替えをして参拝したという。厳島神社の
       出口が唐破風造りとなっているが、昔の入口とされる。
        幕末の1865(慶応元)年第二次幕長戦争が起こり、翌年に同寺が休戦交渉の場となり、
       幕府側は勝海舟、長州側は広沢真臣、井上聞多(木戸孝允は姿を見せず)らで会談が行われ
       た。

       
        西の松原は厳島神社の出口から西海岸沿いの歩道で、歩道の両側には松と石灯籠が並ぶ
       絶景の場所である。厳島神社の裏手を流れる御手洗川によって運び出された土砂や浜辺に
       堆積した砂を築固め、江戸期以降、徐々に延びて行った突堤である。

       
        清盛神社は、1954(昭和29)年3月清盛没後770年を記念して、摂社三翁神社から
       分祀した新しい神社である。一間社流造、桧皮葺き、丹塗りで瑞垣を廻らせている。 

       
       
        宮島歴史民俗資料館は、江戸後期から明治にかけて、醤油の醸造を営んだ豪商・旧江上
       家の主屋と土蔵を展示施設にしている。

       
        大元神社の由緒によると、厳島神社の摂社で鎮座年月日不詳だが、本社の旧址とも伝わ
       る。当神社と長浜神社が向かい合い、両社が厳島神社の両翼を成し、管絃祭の時、沖合の
       御座船で祭事を執り行い管絃が奏される。
        社殿は三間流造り、日本で唯一の6枚重三段葺というこけら葺きの屋根と、拝殿には奉
       賽額が多数掲げられている。

       
        大元神社から大聖院に抜ける約700mの散策路は、あせびが多いことから「あせび歩
       道」とされる。

       
        宮島の町並みが一望できるビューポイント。

       
        室町期の1523(応永3)年建立とされる多宝塔には薬師如来が祀られていたが、明治の
       神仏分離令で大願寺へ移管され、建物は厳島神社に属する。
        この時期は樹木に隠れて全体を見ることができないが、屋根は方形で下層の屋根には饅
       頭型の亀腹がある。

       
        多宝塔からあせび歩道を進むと、大聖院の唐破風造り檜皮葺きの御成門前に出る。
大聖
       院は真言宗御室派で、平安期の806(大同元)年弘法大師が唐からの帰途、弥山で百日修法
       を修め開創された古刹である。

       
        行基作の十一面観音菩薩像が祀られている観音堂。

       
        勅願堂は鳥羽天皇勅願道場で大聖院の本堂である。豊臣秀吉が朝鮮出兵した文禄の役(1
       592~1596)の折、必勝・海上安全を祈願した波切不動明王像が祀られている。

       
        摩尼殿(まにでん)は弥山三鬼大権現の祈祷所で、大日如来、虚空菩薩、不動明王の化身と
       される三鬼神が祀られている。

       
        大聖院の一番奥の高い所にある弘法大師を祀る大師堂は、大聖院本坊最古の建物とされ
       る。

       
        大聖院参道入口にあって、外敵を払い、仏法を護持する仁王像が安置されている。

       
        厳島神社から大聖院へ至る緩やかな坂道は滝小路(たきのこうじ)と呼ばれ、かつては厳島
       神社の神職の居住地になっていたところである。棚守・上卿・祝師などの社家や内待、大
       聖院の宿坊が軒を連ねていた。

       
        淡島神社は厳島神社の末社で鎮座年月不詳とされ、大聖院の旧社僧・東泉坊の鎮守あっ
       た。祭神は少彦名命(すくなひこなのみこと)という男神だが、淡島さんと称して女性の守護神
       で病気平癒、安産の神として信仰され、明治維新後に現在地へ移された。

       
       
        石垣の上に建つ林家は、古くから厳島神社の神職をつとめ、朝廷の差遣される奉幣使の
       代参をつとめて「上卿(しょうけい)」と呼ばれていた。
        現在の建物は元禄時代(1688-1704)に建てられたもので、社家の屋敷として当時のままの
       建築様式を残す貴重な建物とされる。(見学は日曜のみ、要予約)

       
        上卿屋敷付近から見る大聖院への滝小路。

       
        白い壁の古民家はカフェとなっているが、この付近は古民家が並ぶ。

       
        三翁神社は厳島神社の摂社だが鎮座年月不詳である。平清盛が近江の「日吉山王」を勧
       請したことから「山王社」といい、この付近を坂本ともいった。一間社流造、桧皮葺きの
       社殿が三殿並立し、銅で巻かれた神明鳥居がある。

       
        旧宮島町の汚水用マンホール蓋は、亀甲模様に旧町章が中央に配されている。

       
        旧宮島町役場前に「宮島奉行所跡」の碑がある。1635(寛永12)年広島藩はこの場所
       に奉行所を設置し、1868(明治元)年4月に廃止されるまで宮島を統括していた。

       
        トンネル出口の右手に誓真釣井。

       
        幸(さいわい)神社の祭神は猿田彦で、一間社流造りの本殿と幣殿および拝殿、石造りの4
       脚鳥居がある。神社の創建年代などは不明だが、1800年頃までは疫病の神「牛頭天王
       (ごずてんのう)」が祀られていた。 

       
        表参道商店街より1本奥に入った町家通り。江戸時代初期に埋め立てられ、宮島が最も
       華やいだ時代のメインストリートである。当時、本町筋と呼ばれた通りで、1955(昭和
         30)
年代の面影をそのまま残している。

       
        宮郷家はかっての杓子の家で、表には格子戸がはめられている。

       
        景観を配慮した宮島市民センター。

       
        表の賑やかさが嘘のような静かな町並みが続く。

       
        観光の定番コースともいえる宮島で最も賑やかな表参道商店街。昭和の高度成長期にメ
       インストリートとなり、左右にお土産屋などがびっしりと並ぶ。


北九州市の門司港は九州・大陸への玄関口だった町

2021年07月22日 | 福岡県

                
                 この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
         門司港は企救(きく)半島北部に位置し、西は関門海峡に臨む。本州から九州への玄関口と
        して、古くから交通の要衝であった。
江戸期には南方の大里(だいり)が渡航地となったため
        衰退し、明治初期には漁業を営む寒村に過ぎなかった。  
         1891(明治24)年九州鉄道の開通により、筑豊炭鉱の積出を中心として近代的な港湾
        都市に発展する。

        
         ホームは始・終着駅にみられる頭端式で2面を有する。

        
         ホームの片隅に0哩(マイル)ポスト。

        
         2つのホームの間には日本鉄道100周年を記念して、九州の鉄道起点を示す0哩標が
        建立された。九州鉄道の起点駅「門司駅」として開業し、1901(明治34)年には対岸の
        下関駅との間に関門連絡船が就航し中継駅として賑わう。
         しかし、1942(昭和17)年関門トンネルが開通すると、トンネルと接続する大里駅が
        門司駅となり、門司港駅に変更される。

        
         「帰り水」の説明によると、この水道(水呑處)は、駅が開設された頃に設置されたもの
        で、以来、旅行者や終戦後の復員者、引揚げの人達が、門司に上陸して安堵の思いで喉を
        潤したところから、このように呼ばれるようになった。

        
         トイレの中にある青銅製の手水鉢は、1914(大正3)年駅舎建設当時のものとされ、戦
        時中の金属供出を免れたという。

        
         1914(大正3)年築の2代目駅舎は、木造2階建てのネオ・ルネッサンスと呼ばれる

        右対称の外観をみせる。外壁は石貼り風のモルタル仕上げ、屋根は天然の石盤で葺かれて
        いる。

        
         門司港駅傍に建つビルは、1937(昭和12)年日本初の総合商社・三井物産門司支店と
        して建設され、1953(昭和28)年から2000(平成12)年まで鉄道管理局の施設として
        活用された。

        
         バナナが大量輸入されたのが、1908(明治41)年以降のことで、輸入元の台湾は植民
        地で、門司港に荷揚げされて市場が設けられた。輸送中や加工中に生じた不良品は、露天
        商の手を経てたたき売りが始まる。
         『バナナの叩き売り発祥の地』記念碑は、JR門司港駅を出て右手にあった旅館「群芳
        閣」(門司区港町1-7)の玄関横に建っていたが、駅前に移設されている。 

        
         駅の真向かいにあるのが、1927(昭和2)年日本郵船門司支店として建設されたビルで、
        建設当時は入出港する客船の乗降手続きの事務所として使用されていた。エレベーターを
        初めて見る市民が、長蛇の列を作ったというエピソードが残されている。

        
         日本郵船、大阪商船、ホーム・リンガ商会、門司港ホテルと続く。

        
         1917(大正6)年築の旧大阪商船門司支店は、オレンジ色のタイルや八角形の塔屋が印
        象的な木造洋風2階建てである。
         門司港からの外国航路汽船会社のうち、日本郵船は欧米など遠洋航路、大阪商船は近海
        航路に特徴をもっていた。この建物は「港の美貌」と呼ばれ、大陸航路の旅客待合室とし
        て賑わった。

        
         港町にあるホーム・リンガ商会の建物は比較的新しく、1962(昭和37)年に建てられ
        た。1868(慶応4)年イギリス人の貿易商フレデリック・リンガーが、長崎の地でホーム
        ・リンガー商会を設立。戦時中に閉鎖を命じられ、かっての日本人従業員が門司の地で再
        開したのがホーム・リンガ商会である。正面の半円形の窓と英語の表示が目を引く。

        
         第一船溜まりの先に、旧門司税関と国際友好記念図書館、背後に門司港レトロハイマー
        ト。

        
         本州と九州を繋ぐ関門橋。

        
        
         旧門司税関は、1889(明治22)年門司港が石炭・米・麦など5品目を扱う国の特別輸
        出港に指定され、長崎税関の出張所として設置される。
         1909(明治42)年長崎税関から独立して初代庁舎が建設されたが、すぐに焼失してし
                まう。1912(明治45)年に2代目庁舎が建設され、1927(昭和2)年まで税関庁舎とし
                て使用された。

        
        
         明治建築の著名な妻木頼黄(つまき よりなか)の指導の下で、イギリス積みという工法で建
        築された赤煉瓦造瓦葺の2階建て構造である。税関が西海岸に移転した後、民間に払い下
        げられたが、先の大戦の空襲で損壊し、晩年は屋根が落ちるなど廃墟状態となり解体が計
        画されたが、優れた明治の赤煉瓦建築であることから北九州市が取得し、1991(平成3)
        年から4年かけて復元作業が行われた。

        
         門司第一船溜まりに架かる橋(ブルーウィングもじ)は、全国でただ一つの歩行者専用の
        はね橋である。

        
         大連友好記念館は、1902(明治35)年帝政ロシアが中国(大連)に建築した東清鉄道の
        オフィスを北九州市と大連市の友好15周年を記念して、1994(平成6)年複製建築され
        た。

        
         門司レトロ駐車場は倉庫群があった場所で、一部倉庫の壁が残されている。

        
         1985(昭和60)年10月に廃止された西鉄北九州線に使用されていたワンマン(ボギー
        )車100型。1940(昭和15)年に製作された10台のうちの1台が、駐車場の一角に展
        示されている。

        
         新浜の上屋は健在であったが、1891(明治24)年に建てられた旧三井物産門司支店の
        煉瓦造倉庫は見当たらず。

        
         NTT西日本門司電気通信レトロ館は、1924(大正13)年に逓信省門司郵便局電話課
        庁舎として建築される。門司で最初の鉄筋コンクリート造3階建てで、外観は放物線アー
        チと垂直線を基調とする大正モダンを今に伝えている。内部は明治・大正・昭和などの時
        代を語る通信・電話機器などが展示されている。

        
         海側に近代建築群、山手側に生活感が残る旧市街地、その中央をマンションなどが並ぶ
        メインストリート。

        
         1950(昭和25)年築の旧福岡銀行門司支店は、後に旧日本船舶通信ビルとなり、現在
        は結婚式場兼レストランとして活用されている。外観はギリシャ神殿のトリス式オーダー
        を模した柱を配する石造り風のモルタル塗りで、交差点側の角はアールを取
っている。

        
         1934(昭和9)年に横浜正金銀行門司支店の建物として建てられ、1946(昭和21)
        年山口銀行が取得する。玄関は交差点に面した角を切り落とし、トスカナ式円柱を設ける
        など英国古典主義様式のモダンな建物である。

        
         長い歴史を誇る栄町商店街は、商店や食堂などが軒を並べていたようだが、時代の波に
        押し流され寂しげな雰囲気が漂う。

        
         栄町商店街の路地・栄小路には昔ながらの飲み屋が所狭しと並んでいたが、看板も少な
        くなっていた。放浪記さんは経営者が交代されたのか「カフェ・ウミネコ放浪記」に看板
        替えされていた。

        
         栄町商店街から西へまっすぐに上る坂は、通称・三宜楼坂と呼ばれていた。その坂に食
        堂などが並んでいたが、中華料理「萬龍」さんも、2015(平成27)年2月に閉店され、
        寂しい通りとなった。

        
         料亭「三宜楼(さんきろう)を創業したのは三宅アサという女性で、明治半ばに営業を開
        始する。1931(昭和6)年に建てられた木造3階建ては、現存する料亭の建屋としては九
        州最大級とのこと。
         1937(昭和12)年頃が繁栄の頂点にあったが、同時に斜陽の途に入り、 1955(昭
        和30)年頃に廃業された。その後、解体の危機に瀕するなど保存活用まで紆余曲折があっ
        たようだ。

        
         大広間への階段には松と山の下地窓。

        
         2階廊下。

        
         三宜楼を代表する大広間「百畳間」には16畳の能舞台が備わり、舞台にはかって活躍
        した芸奴「小りん」さんが着用した衣装が飾られている。

        
         高台にあるため門司港の町並みが一望できたであろう。

        
         清滝の路地裏。

        
         格子地模様に北九州市の市花「向日葵」が描かれたマンホール蓋。

        
         1888(明治21)年九州鉄道会社が設立され、福岡に仮本社が置かれたが、門司(現在
        の門司港)と高瀬(現在の玉名駅)間に路線が開業すると、本社を門司に移転し、1891
        (明治24)年に東西の長さ62mの赤煉瓦造2階建ての本社屋が建設される。 

        
         2003(平成15)年に開館した九州鉄道記念館。 

        
         長さ180mのホームを思わせる車両展示場には、九州で活躍した歴代の実物車両が並
        ぶ。96(キュウロク)の愛称で親しまれた初の国産貨物機関車。C57型は東海道・山陽本
        線の主力機関車で寝台特急「あさかぜ」などをけん引する。
         さらに関門トンネル用の直流電気機関車EF10型、九州地区を走った交流式電気機関
        車が展示されている。

        
         戦前に活躍した機械式(クラッチで変速する方式)気動車キハ07。直流・交流に対応し
        たクハ481系の「
にちりん」、初の寝台特急電車581系「月光」は、昼間には特急「
        みどり」として活躍する。
         ブルートレインとして活躍した「さくら」「みずほ」「はやぶさ」「富士」の14系寝
        台客車もある。

        
         館内には1909(明治42)年、小倉工場で製造された「マッチ箱の客車・チブ37」が
        展示されている。

        
         門司港レトロ観光線は田野浦臨港鉄道の廃線跡と、鹿児島本線貨物支線(門司港-外浜)の
        2.1kmを利用して、2009(平成21)年4月に開業する。

        
         国の特別輸出港に指定されると、築港工事が開始され海面が埋め立てられ、1890(明
        治23)年第1船溜まりが完成する。(海峡プラザと背後に三角山と風師山)

        
         その埋立地に、1999(平成11)年1月門司港ホテルが開業する。イタリアの建築家ア
        ルト・ロッシ氏の遺作である。

        
         旧門司三井倶楽部は、1921(大正10)年三井物産門司支店の社交俱楽部として、現在
        の門司区谷町に建てられた。
         1949(昭和24)年から旧国鉄の所有となり、国鉄会館として利用されたが、国鉄民営
        化後に北九州市へ無償譲渡され、門司港レトロ地区を構成する建物として移築された。
         大きな切妻屋根を配した木造2階建ての洋館は、ハーフティンバーと呼ばれる工法が用
        いられるなど、大正時代の雰囲気を今に伝える貴重な建物である。 


下松市笠戸島の本浦は島北側の集落 

2021年07月15日 | 山口県下松市

        
                    この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         瀬戸内海の西方、笠戸湾南方に位置する島で、本浦は島の北にあって下松市街地と向き
        合っている。(歩行距離 約2.2km)

        
         JR下松駅から笠戸江の浦行き防長バス約10分、本浦バス停下車するが、バスはメイ 
        ンの集落までは行かず笠戸海浜公園までとなっている。

        
         海岸線を200mほど歩くとメイン集落入口。

        
         笠戸大橋は、1970(昭和45)年宮ノ浦の洲鼻から瀬戸岬に架けられた橋で、海上部は
        ランガートラス橋で弓形のアーチに垂直に桁を連結し、長い支間の自重や外力に耐えるよ
        うになっている。
         下松港の新川から巡航船に頼っていた笠戸島の人たちは、架橋によって生活は一変した
        とのこと。

        
         天台宗「光明寺」だが由来等は不明である。

        
         自治会の案内板。

        
         海岸道路から一歩奥の道は、生活を支えてきた貴重な道とのこと。

        
         所々、雨戸で閉ざされている家もある。

        
         漁村集落を感じさせない家並み。

        
         笠戸神社参道は所々に草が生えているが、参拝するには支障がない。途中に「蛸神さま」
        の説明板と入口を示す看板があり、入ってみたが荒れ放題で辿り着くことができず。
         由来によると、大きな蛸を生け捕りにしたが、どんな刃物を使っても切り刻むことがで
        きず、この蛸は神様の使いではないかということになった。やっとのことで足8本を切り
        取って、この山中に埋めて石を立てて祀ったという。風邪にご利益がある神様とある。

        
         1669(寛文9)年に創建された笠戸神社は、享保年中(1716-1736)に八幡宮を勧請した
        という。

        
         境内から見る町並みと、2014(平成26)年に閉校した笠戸小学校が右手に見える。

        

        

        

        

        
         空家が増えつつあるようで雨戸の閉められた家などを散見する。

        
         本浦の変遷を見続けてきた地蔵尊。ここにも家があったと思われるが路傍に寂しく鎮座。

        
         店構えの構造を持つ民家。

        
         集落東端からの漁港と笠戸大橋。

        
         高台から見る本浦の町並み。この地も3方を山に囲まれ擂鉢状の底に集落を形成してい
        る。

        
         地図上に善通寺とあるので集落のお寺を想像して階段を上がると、周南八十八ヶ所75
        番札所。

        
         この地も漁港整備と共に海岸道路が新設されたようだ。

        
         山からの雨水等を海に流し出す水路は1本のみであった。

        
         10年前とは人・船艘・小学校の廃校など様変わりをしていたが、穏やかな海だけは変
        わらなかった。


岩国市周東町の獺越という地に獺祭の酒蔵

2021年07月13日 | 山口県岩国市

        
               この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         獺越(おそごえ)は玖珂盆地の北西、島田川の支流・東川の上流域に位置する。地名の由来
        について地下(じげ)上申は、川下の川上村に古い獺(うそ)が住み、子供を化かして当地まで
        追い越してきたゆえ獺越と付いたという伝承があるという。風土注進案はこれを俗説とす
        る。(歩行 約5.5㎞、🚻なし)

        
         1889(明治22)年町村制施行により、三瀬川(さんぜかわ)村と獺越村の区域をもって各
        村の一字をとって川越村となる。この地に村役場があったが、現在は川越公民館、岩国市
        川越出張所となっている。(ライスセンターに駐車)

        
         
法事(傍示)峠は三瀬川と獺越の境で、ここから引き返すことにするが、「陣古屋古戦場」
        と記した標柱があるが詳細を知り得なかった。

        
         峠は北の根笠川と南の東川へ流れ出る分水嶺。

        
        
         1947(昭和22)年旧青年学校の校舎を転用して川越中学校が開校する。1949(昭和
        24)年法事峠に新校舎を建設して移転するが、終戦直後の資材不足のなかで慌ただしく建
        設された。1956(昭和31)年頃から過疎化現象が進み、1976(昭和51)年に閉校とな
        った。
         現在は周東野外活動センターとして利用され、校舎のあった地には研修棟が建てられて
        いる。

        
         600mほど下ると最初の民家が見えてくる。

        
         この地域も茅葺きにトタンを被せた屋根が少なくなった。

        
         通りにある農家民宿は、1組限定で本宅を貸切できるそうだ。

        
         高台にあるのは川越へき地保育園は園児がいないため、2008(平成20)年から休園中
        とのこと。

        
        
         河内神社の由来については、いろいろな言い伝えがあってどれが正しいのか決めがたい
        とする。一説には、鎌倉期の1225(嘉禄元)年伊豆から大内氏を頼って周防に来た神足式
        部助が出雲国須賀より勧請したのに始まるとする。
         別の言い伝えでは、1259(正元元)年のことであるといい、風土注進案は室町期の嘉吉
        年中(1441-1444)に須通村の三島大明神を勧請したと記す。

        
         門構えのある大きな民家は無住。(A邸)

        
         元川越村役場内に「中津井高助頌徳碑」が建立されているが、碑文によると明治8年(1
        875)獺越村で生まれ、陸軍歩兵少尉に任官されたが、のちに感じるところがあって北海道
        開拓を志し、札幌の北海タイムズの支配人となる。愛郷心が強く、川越村子弟のために教
        育資金を寄付する。大正14年(1925)51歳に病没したが、遺言で金1万円(現在価格で約
        260万円)を寄付したとある。

        
         ATMを搭載した車両型郵便局。

        
         「獺祭」の銘柄で知られる旭酒造の酒蔵と周北小学校。小学校は過疎化が進み統合と余
        儀なくされ、1988(昭和63)年に3校(檜余地小学校、三瀬川小学校、川越小学校)が統
                合され、旧川越小学校跡地に現在の校舎が建てられ周北小学校としてスタートする。(橋の
        袂に駐車)

               
         旭酒造は酒蔵に空調設備を完備し、温度・湿度を調整できることから、1年を通じて酒
        造りが可能とか。

        
                 2018(平成30)年7月豪雨で東川が土石流などで氾濫し、酒造会社などに甚大な被害
        をもたらし、今なお復旧の途上
にある。

        
        
              集落は東川左岸の傾斜地に集中する。

        
         西蓮寺への参道は石畳み。

        
        
                 参道から見る棚田も耕作放棄地が増えつつあるようだ。

        
         西蓮寺(真宗)は、1629(寛永6)年に寺号を許される。一説によると、創建は室町期の
        1410(応永17)年とされ、1970(昭和45)年三瀬川の広沢より現在地に移転する。 

        
         生活バス上久杉バス停付近に人家が集中する。バス便はJR周防高森駅まで月~水曜日
        5便と金曜日に一部運行されており、バスによる買い物や通院は可能のようだ。 

        
         トタン屋根の民家で集落は途切れる。 

        
        
         少し川上にも民家があるが、一連の集落はこの付近までなので駐車地に引き返す。